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Last-modified: 2007-04-06 (金) 10:52:38

第三十五景 討人

夏の終わり 岩本家の閉門は解けた

 

「三重さま このようなものを
 いつまでもこうしておいては……」
「ならぬぞ茂助 決してこれを
 片付けてはならぬ
 これは父上の無念そのもの
 ようく見や そこにお父上が」

 

凝固した血液によって
どす黒くよじれた
打ち掛けであった

 
 


亡父 虎眼乱心に非ず
必ず故ありてかくの如き
所作に立ち至りしものと
確信致し候

 

恐れながら賎機家用人
伊良子清玄より挑発を
受くるに及び 虎眼
抜刀いたし候事に相成候と
拝察致し候

 

此度藩庁へ上申致候 儀は
亡父の仇 伊良子清玄を
仕留めし御許可の件
此の段 平にご容赦
願上候
    岩本三重

 

仇討願書を受け取った
掛川藩目付 柳沢頼母は
ただちに藤木源之助を召喚した

 

柳沢頼母
「源之助……
 こたびの仇討願 藩庁として受領できぬ申さぬ

 

 そも仇討願書は当主が討たれ
 家督が立ち行かざる場合にのみ提出すべきもの
 しかるに岩本家は藤木源之助… 其方を跡目にする旨
 すでに虎眼より届け入れられておる!」

 

初耳であった 恐らく三重も源之助が
正式な跡目であることを知らないだろう

 

師にそこまで認められていたことを
知った源之助の胸中は 如何ばかりか

 

「おそれながら
 虎眼流は剣をもって
 召し抱えられし家ならば
 剣の上で後れをとったままにては」

 

「自惚れまいぞ源之助 三百石当家武芸師範の
 お役目をご家老がこのままにしておくと思うか」

 

この時 頭を垂れる源之助の背後でほくそ笑んだのは
次期武芸師範役と目される 幾野陣内

 

「事はすでに落着しておる」
「そもそも其方が腑甲斐なき故
 かかる仕儀に相成ったのだ」
「虎眼が討たれし日 其方は何処におった?」
「虎眼の亡骸を前に 士にあるまじき狼狽を
 見せたるは其方ではないか」
「虎眼が拾わなければ 其方は粟本村の
 松の木で縊れ死んでいたものを」

 

身分低く 無口な若者に対する
老臣たちの叱責は必要以上であったろう

 

それでも源之助に不服はなかった
大方その通りであると認識していた

 

ある一言を聞くまでは…

 

「あはれは虎眼よ
 あれほどの技量を持ちながら
 弟子には恵まれなかったとはのう」
「どうでしょう
 当道者に討たれた岩本様が
 果たして家中一の使い手で
 あったかどうか…」

 

「生野!」

 
 

この報告を受けた掛川藩家老 孕石備前守は
「虎眼流錆びてはおらぬようだな……」
一言漏らすのみであった

 
 

一方
伊良子清玄は駿府城主 忠長に気に入られたため
駿府藩剣術師範 岡倉木斉の邸の離れを与えられ
厚遇を受けていた

 

当時 武家の女は
亭主以外の男と二人になる状況を作らなかったし
下女であっても若い男の入浴を世話することはあり得ない
しかし これはまぎれもなく

 

かつて清玄が備えていた黒い瞳は
たちまち娘達を虜にしたが
その眼は あまりに妖しく
どこか女を不安にさせる要素があった

 

しかし
双眸を失った清玄の美形は
底の知れぬ深い淵がたたえられ
殆ど抵抗し難い悩ましい
引力を発生させているのだ

 

貞淑で知られた岡倉の内儀 蜜は
一切を忘れていた

 

指が埋まるほどやわらかく
埋まった指先からは
若い血潮が脈打つ音が
聞こえてくるのだ

 

清玄の方は 女など眼中に無く

 

ここ数日ただ一人の男のことだけを考えていた

 

かつて自分と並び 双竜と称された若き剣士

 
 

なぜだ? なぜきゃつなどが気にかかる
虎眼を倒した今 藤木源之助に何の値打ちもない!
己の方が上だ! はるか高みに立っている
彼奴におとるものなど何もない
全てにおいて己は藤木に勝っている!
それなのになぜ?
なぜ奴のことばかり気にかかる?

 

清玄の胸の奥で 小骨の如き何かがつかえている
それはかつて 藤木源之助が刺した棘なのだ

 

いつだ? いつ己が藤木に傷つけられた?
剣の腕で後れを取ったことなど只の一度もない
だから奴はうじ虫の如く
よってたかって己を仕置きしたのだ

 

己は奴の指をねじり折ってやった!
岩本三重も奪ってやった!

 

突如 清玄の脳裏にある記憶が蘇った!

 
 

瞬時に清玄の肉体は
鋼鉄(はがね)の如く尖った

 

股から頭頂まで熱い何かが
走り抜ける感覚に襲われ
蜜は失神した

 

己は藤木源之助を斬らねばならぬ!

 
 

掛川藩庁が仇討免状を発行したことを
伊良子清玄が知るのはわずか半刻後であった