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Last-modified: 2007-08-23 (木) 12:58:23

四十五景 赤縄

「お…親父殿 牛股権左… あれは人にござるか?」

 

慶長の頃
三州 挙母領

 

「ふく 三年たったら必ず戻る 一人前の剣士となって」
牛股権三郎(権左衛門の幼名)

 

“待っていてくれ” その一言を武士の子は心の中で反芻した
ふくは一度うなずくと 目に力をこめて権三郎を見つめ返した

 

下級武士の子 権三郎が郷里を離れることになったのは
秘めたる怪力のためであった
ある時 体当たりで師範代を再起不能にし 以来門人の誰しもに敬遠され
「い… 猪とは立ち会わぬ」
これを憐れんだ師は 無双とうたわれたある道場に推薦状をしたためた
「こがんりゅう」

 
 

尾州 加賀野

 

伊吹半心軒
「ほほう 猪のごとき力と
 面白い! 一丁組み合うか」
権三郎は白い歯をのぞかせた
ズムッ
「半心軒いかがいたした」
「猪にあらず こ…こやつは牛…」

 
 

権三郎は生まれて初めて震えた
(何というお方じゃ わしなど米つぶじゃ のみじゃ)

 

権三郎は夜が明くまでその豆粒を眺めていた 胸の高鳴りは止むことがなかった

 

入門した権三郎に課せられた修練は“切返し”である

 

ある時 師は外出の際権三郎を見かけ 留守の間 切返しを行うよう申し付けた
三日の後

 

忠弟は留守の間 不眠不休で延々と切返しを行っていたのである
途中 雨が降らなければ死んでいたであろう

 

鍛錬の末 権三郎の手の平は足より分厚く生まれ変わり
木剣にて畳表を切断した
しかし 師はこの忠弟をほぼ無視した

 

師は夜になると兄弟子を率いて山中の稽古に出かけたが
権三郎の同行は許されない
一年目はこれが当然と思い見送った
二年目は辛抱して見送った
三年が過ぎた

 

「先生っ どうかこの権三郎にも稽古を…
 見込みがないのならば この場にてお手討ちを」

 

「縄に繋がれし牛は 連れては行けぬ」
虎眼の言葉に兄弟子は首をかしげたが
権三郎は急所を突かれたの如く青ざめた
(縄が あの縄が 先生には見えていなさる)
権三郎の脳裏に時折“赤い縄”が浮かぶ
その縄はどこかに繋がっていて それをたぐりよせる時
得も言えぬ至福に包まれるのだ

 

(誰にも言ったことのないあの縄を 先生は看破なされた!)
権三郎は 初めて師の目を見た

 
 

さらに一年

 

権三郎は前髪を落とし 名を権左衛門とあらためた

 

約束の日より一年が過ぎている
この日 この刻限にこの場所を両者が訪れたのは
まさに神秘と言うより他ない
「ふく」

 
“のち 夫婦たらん男女 生まれ落ちしより 互いの脚 赤き縄にて繋がれしとぞ”
                              ――太平広記

この日 権左衛門は素手による去勢を決行している

 

人か魔か 牛股権左衛門
獣かそれ以下か 鬼かそれ以上か