No532 ダンテ/元ネタ解説

Last-modified: 2022-10-16 (日) 01:17:21
所属Regia Marina
正式名称Dante Alighieri
名前の由来Dante Alighieri(1265-1321) 中世フィレンツェの詩人 叙事詩『神曲』や詩文集『新生』で知られ、イタリア文学における最大の詩人とも
起工日1909.6.6
進水日1910.8.20
就役日1913.1.15
退役日(除籍後)1928.7.1(1928解体)
全長(身長)168.1m
基準排水量(体重)19552英t(19866t)
出力Blechynden式重油専焼缶7基Blechynden式石炭重油混焼缶16基Parsons式蒸気タービン3基4軸 32190shp(32636PS)
最高速度22.0kt(40.74km/h)
航続距離10.0kt(18.52km/h)/4800海里(8900km)
乗員981名
装備(建造時)305mm46口径M1909三連装砲4基12門
120mm50口径M1909連装砲4基単装砲12基20門
76mm50口径単装砲13門
450mm魚雷発射管3門
装甲舷側:254mm 甲板:38mm 砲塔:254mm 艦橋:305mm
建造所Cantiere navale di Castellammare di Stabia, Castellammare di Stabia
(カステッランマーレ・ディ・スタービア海軍工廠 イタリア共和国カンパニア州ナポリ県カステッランマーレ・ディ・スタービア)
  • ダンテ・アリギエーリはイタリア海軍が建造した、同海軍初の弩級戦艦。
  • 三連装主砲を世界で初めて設計に盛り込んだ艦(=起工日基準では世界初)であったが、このことを知ったオーストリア=ハンガリー海軍が対抗、同じく三連装主砲を搭載したテゲトフ級戦艦を急ピッチで整備したため、就役日基準では2番目にカウントされる。
  • 就役後まもなく勃発した第一次世界大戦では砲戦機会に恵まれず、終戦を迎える。
    戦後はイタリアでの財政危機から海軍予算削減の槍玉にあげられ、やむなく退役・解体となってしまった悲しき艦であった。

  • 『神曲』などで知られる桂冠詩人 ダンテ・アリギエーリの名を有する戦艦は、イタリア海軍で初の弩級戦艦であった。
    また三連装主砲を世界で初めて採用した艦であったが、伊墺建艦競争のただ中にあって更に強力な艦を求められたがゆえに、同型艦は建造されなかった。
    • 艦のモットー"Con l'animo che vince ogni battaglia"(あらゆる戦いに勝利する魂と共に)も詩人ダンテの著作からの引用*1であった。
  • 艦の重心を低く抑えるため主砲は背負配置にはせず、艦首艦尾に1基ずつ、艦中央部に2基配置という形を取り、のちの露・ガングート級戦艦などがこれにインスパイアを受けている。
    ただし、ガングート級の内部構造はドイツの戦艦を参考にしたため、機関配置は大きく異なっていた。
  • 1909年6月起工、1910年8月進水、1913年1月就役。
    大西洋や地中海を航海しつつ、時には国王のお召艦となったり、イタリア海軍初の水上機運用のテストヘッドとなったり…そうこうしているうちに第一次世界大戦が勃発。
    戦時中はアブルッツィ公ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア提督*2ら指揮のもと、主にアドリア海南部で哨戒活動を行っていた。
    しかし肝心の艦隊決戦自体は、相対するオーストリア=ハンガリー艦隊が港にこもりきりであったため発生しなかった。
  • 数少ない砲戦機会というと、伊英船団護衛のためドゥラッツォ(現アルバニア領ドゥラス)港への攻撃に参加したことであった。
    ダンテ・アリギエーリを中心に、イタリアのみならず米英豪三か国の中小艦艇も加わった連合国艦隊がドゥラッツォ港や残存艦艇に攻撃を仕掛け、数日後のイタリア軍による同地占領を支援したのだった。
    • しかし活躍したのはイタリアの装甲巡洋艦などで、ダンテ・アリギエーリ自身は実際に砲火を浴びせることはなかったという…
  • 戦後、国際経済会議(ジェノア会議)に際し国王による各国代表団へのレセプションが艦上で催されたほか、水上機の本格搭載・排煙改善・機関および火器管制機器更新などの改装工事も行われた。
    しかし第一次世界大戦にて疲弊してしまったイタリア経済には、もはや大規模艦隊の維持は手に余る状態であった。
    最終的に海軍予算削減のため、ダンテ・アリギエーリは改装から5年そこらで退役・解体の憂き目にあってしまったのだった。

*1 『神曲』地獄篇 第24歌第53行
*2 のちの軽巡ドゥーカ・デッリ・アブルッツィの艦名由来となったその人