No.497 | ||||
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九七式中戦車(チハ) | 陸戦部隊 | |||
装備ステータス | ||||
火力 | 雷装 | |||
爆装 | 対空 | |||
対潜 | 索敵 | |||
命中 | 回避 | |||
射程 | ||||
装備可能艦種 | ||||
駆逐艦 | 軽巡洋艦 | 重巡洋艦 | 戦艦 | |
軽空母 | 正規空母 | 水上機母艦 | 航空戦艦 | |
備考 | ||||
開発不可、改修不可 | ||||
当時の日本陸軍の主力戦車、九七式中戦車、通称「チハ車」。 列強の新型戦車との対機甲戦闘には不向きでしたが、数多く量産され日本機甲部隊の主力となりました。占守島の戦いでは、戦車第11連隊で数多くの犠牲を出しつつ奮戦しています。 単独で海上機動できませんが、接岸擱座揚陸能力を持つ二等輸送艦などに搭載することで着上陸戦闘が可能です。 |
ゲームにおいて
- 「陸軍歩兵部隊」と同じカテゴリの装備。
- 戦車揚陸艦の「第百一号輸送艦」のみ装備可能。
- 上位装備に「九七式中戦車 新砲塔(チハ改)」が存在する。
- これまで上陸用舟艇に載った戦車が実装される機会はあったが、戦車単品で実装されるのはこれが初となる。
入手方法について
- 第百一号輸送艦改の初期装備
過去の入手方法
- 2023年 早春・春イベント『絶対防衛線!「小笠原兵団」救援』E-6 甲作戦(★+4)・乙作戦(★+2)・丙作戦(★なし) 突破報酬
装備の運用方法について
装備ボーナスについて
アップデート履歴
- 2023年 03月20日:23年春イベント 突破報酬として実装
小ネタ
- 九七式中戦車(チハ) とは大日本帝国陸軍によって1936年から開発、1938年に生産開始して運用された中戦車。ちなみに「チハ」とは、チが中戦車から、ハは3番目に開発されたという事でイ,ロ,ハのハから。要するに「3番目に開発された中戦車」という意味である。砲塔を新型に換装した対戦車火力向上型、いわゆる「新砲塔チハ(チハ改)」と区別するため、こちらのチハは「旧砲塔チハ」「旧チハ」と呼ばれることも。
- 全備重量15t、最大装甲厚25mm、57mm砲1門に7.7mm機関銃2丁という武装を持ち、170馬力空冷ディーゼルエンジンで最高速度38km/hを発揮する4人乗り*1歩兵支援用中戦車。あくまで友軍歩兵と協力して敵歩兵や陣地と戦う事を目的として造られ、その任務を強く意識した攻撃力と防御力、機動力を持っている。
チハの性能諸元
全長 5.55m , 全幅 2.33m , 全高 2.23m , 重量 14.3t(全備15.0-15.6t)
速度 38km/h , 行動距離 210km , 燃料搭載容積246L
エンジン 三菱SA一二二〇〇VD 空冷V型12気筒ディーゼル 150hp/1,500rpm 170hp/2,000rpm 排気量21,720cc
主砲 九七式五糎七戦車砲 (18.4口径 57mm砲 搭載弾数114発) , 副武装 九七式車載重機関銃(7.7mm機銃 搭載弾数4035発) ×2
装甲 前面25mm , 側面25mm~20mm , 後面20mm , 上面10mm , 底面8mm ,主砲防盾50mm
乗員 4名 - 支那事変以後の軍事予算急増を背景に2123輌が生産され、ノモンハン事変・日中戦争・太平洋戦争に参戦。九五式軽戦車*2と共に日本陸軍の主力戦車として、終戦まで戦い抜いた。
- 全備重量15t、最大装甲厚25mm、57mm砲1門に7.7mm機関銃2丁という武装を持ち、170馬力空冷ディーゼルエンジンで最高速度38km/hを発揮する4人乗り*1歩兵支援用中戦車。あくまで友軍歩兵と協力して敵歩兵や陣地と戦う事を目的として造られ、その任務を強く意識した攻撃力と防御力、機動力を持っている。
- そしてこの戦車は、その何とも言えない絶妙な響きをした名称、小柄な丸っこい砲塔(やたら右寄り)、手すりと間違えられそうな輪っか状の鉢巻きアンテナ、ちょこんと突き出た短砲身の主砲、後ろ向きなかんざし式機関銃等の要素…。さらに「中戦車」でありながらアメリカの「軽戦車」M3スチュアートにあらゆる性能で圧倒されてしまったりする*3悲しき史実から、一部で「弱そう」「鉄の棺桶」「中戦車(笑)」「かわいい」などと
散々いじられている愛されているあの『チハたん』としても有名。
チハたん∩(・ω・)∩ばんじゃーい- ネット上ではこのような愛称で親しまれ(?)、なにかとネタに事欠かない「弱い戦車の代名詞」的存在として語られてしまう事も多いのだが…。実際のチハは、まだまだモータリゼーション後進国だった日本で様々な制約のなか造られた精一杯の戦車であり、且つ採用当時としては世界水準と言っても問題無い性能を有する戦車であったのだ。
中戦車「チハ」、採用の裏側
- 1930年代半ば、八九式中戦車*4を更新する新鋭敵陣突破用歩兵支援戦車の開発が始まった。
- しかしその開発において、「八九式中戦車を順当に発展させた大型戦車であるべき」という戦車学校など運用側の意見と、機甲部隊拡充のためにも九五式軽戦車の成功を受け継いた「軽量・安価で多数を整備できる小型戦車であるべき」という参謀本部の案が真っ向から対立してしまう。
- 同じ次期主力中戦車でありながら、方向性が大きく異なる両案の対立は会議の場では決着せず、結局、大型戦車を第一案(甲案)、小型戦車を第二案(乙案)として陸軍技術本部が設計を開始。まずは両案ともに試作し、より優れている方を採用するという形で決着をつけることとなった。この競争試作の際、三菱重工が製作を担当する事となった大型戦車案こそ、のちの九七式中戦車「チハ」である。小型戦車案は「チニ」と名付けられ、大阪造兵工廠が試作を担当した。
設計の段階でそれぞれに要求された仕様はおおよそ以下の通り。- 第一案(チハ車。戦車学校など運用側、技術本部が支持)
- 武装、装甲、及び速度を増大し超越壕幅、登坂能力などは概ね八九式中戦車と同等とする。
- 武装は戦車砲、車載機関銃を新式とすることで改善する。
- 装甲は37粍対戦車砲の近距離射撃に対抗できる事を目途として増強
- 展望装置、無線機の改善
- 八九式中戦車から重量を著しく増加させてはならない
- 第二案(チニ車。参謀本部、陸軍省が支持)
- 軽量化を主眼としつつ装甲、速度も増強。超越壕幅、登坂能力などは概ね八九式中戦車と同等とする
- 機関部は九五式軽戦車との共通化を図る
- 無線機の改善
- 小型化には武装の減少(砲塔内機関銃の廃止)と乗員の削減によって対応する
- 第一案(チハ車。戦車学校など運用側、技術本部が支持)
- なお、この新式中戦車に対する討論がなされた軍需審議会で、より強力な戦車を求める第一案支持派は「装甲厚」と「乗員数」、さらに「通信器材」について次のような意見を述べ、第一案を強く推薦している。*5
「陣内あたりで歩兵に直接共同する戦車はとにかく200m以下で撃たれる事が非常に多いだろうと思います。その時にブスブスと穴が開くようじゃ心細い」
「新しい装甲板*6は25mm以内で対抗できるということで御座いますが、其の話は確信が御座いませんし、対戦車火器も図り得ない現況で御座いますので、僅かの重量の点で著しく戦闘力を落としたくないと思います。」
「戦車らしい活動ができるのは装甲が強い為でありますから、是非ともこの装甲30mmは欲しいと思います。如何に装甲板が発達致しましても欲しいと思います。」
「第一案と第二案を比較しますと、第二案は射弾の数が著しく落ちて参ります。一人の車長が周囲も見、敵情を見、射撃もし、更に小隊長、中隊長あたりからの記号もみなければならぬ。そうなると全然射撃ができなくなるのでありまして、もし第二案になりますればその戦闘力は第一案から一人減じた、四分の一減じただけでなくして第一案の半減、さらにそれ以下に低下しやしないかと思います。」
「砲塔に一人しか収容し得ないということは戦闘上非常な欠陥で御座いますので、第二案は戦闘力の関係上、戦車側としては希望致しませぬ。」
「速度の関係上無線で指揮連絡をしなければならぬということを希望しているのでありまして、現在の無線機では力が足らないのであります。それで是非共無線機の能力を向上して戴きたい。そうしますと勢い形が大きくなります為に第一案の方にして戴いて其の中の無線機の能力を増大して戴きたい。」
- だがこの第一案は大型戦車案とはいえ、試作の段階で「重量は八九式より著しく増加せしめず」と制限がつけられている。これは当時の記録によれば戦車の渡河で使用される重門僑*7の重量制限からであった。できるだけ軽い方が橋の通過時等に必要な補強工事の手間も少なくなり有利だ、とする意見もあったという。*8
- ちなみにチハ車採用後の事ではあるが、八九式中戦車の揚陸に使用されていた「大発動艇」では重量が増加したチハ車を搭載できなかった。そのため陸軍は大発の拡大版となる特大発動艇(最大積載量16.5t)を開発、主に機甲部隊の揚陸用として整備している。
- また、主砲が八九式中戦車の57mm短カノンを継承しているという点も試作段階で少なからず問題視された。開発時の世界水準と比して口径で見劣るという訳ではないが、当時既に「戦車が各国陸軍で大量に装備されれば自ずと戦場で戦車同士の撃ち合いが発生し、そこでは敵戦車を撃ち抜くための貫通力が求められる」と予想する声があったためである。
- なお、日本陸軍の戦車開発に深く携わり続け、チハ車の設計にも中心的な役割を果たした「日本戦車の父」原乙未生中佐(設計当時)はこのチハ車の武装について、あらかじめターレットリングに余裕を持たせ将来的な主砲・砲塔の換装に対応できるように設計したとしている。
- なお、日本陸軍の戦車開発に深く携わり続け、チハ車の設計にも中心的な役割を果たした「日本戦車の父」原乙未生中佐(設計当時)はこのチハ車の武装について、あらかじめターレットリングに余裕を持たせ将来的な主砲・砲塔の換装に対応できるように設計したとしている。
- ともあれ試作車はどちらも昭和12年に完成、陸軍は早速比較試験を開始した。ちなみにチニ車の性能は重量9.8t、最大装甲厚20mm、57mm短カノン1門と機関銃1丁を搭載、空冷ディーゼル120馬力で最高速度30km/h、乗員3名であった。砲塔はチハ車よりもさらに小さい一人用で、車長が砲手を兼任する。この他にも砲塔後部の車載機関銃、砲塔上の展望塔*9が廃止されている。
- 試験では馬力で勝るチハ車が登坂能力など多くの面でチニ車との性能差を見せつけたが、チニ車も要求された性能はほぼ満たしており、どちらの戦車も次期主力中戦車としてしっかり評価される事となってしまった。
- しかし昭和12年7月7日、高性能だが高価で重いチハと、性能では劣るが安価で軽いチニ、どちらを取るか陸軍が決めきれない中で、状況を急変させる事件が起こる事となる。原乙未生中将の回想録によれば、当時の状況はこのようになっているという。
両方共動くのは動くし、相当の所望の性能は持っているもんだから、それじゃこれの耐久試験をやろうと言って、富士の裾野での試験が終わった後で長距離運行で大阪まで行こうと。そして耐久試験をやった結果で決める。それで運行試験をやって大津かどっかまで行きましたよ。そしたらその夕方号外が出た。見ると盧溝橋事件ですね。その号外をみたらその参謀本部の部員はもうチハ車に決めたと、これで勝負あったと言うんですね……。急いでチハ車を造る。*10
- こうして採用された九七式中戦車「チハ」は重量軽減の為最大30mmとされた装甲厚が25mmに削減されるなど*11、現場の要望を全て反映できたとは言い難いものの、八九式中戦車から強化された性能、そして曲面・傾斜を多用した近代的なシルエットを持つ新鋭中戦車として大いに期待された。陸軍の作成した『九七式中戦車保存取扱教程』には、チハ車について「本中戦車ハ八九式中戦車ニ比シ速度及武装共ノ他各部ノ弱点ヲ補強シ且全高ヲ減ジ務メテ避弾経始ヲ採用シ以テ著シク威力ヲ増大シアリ」と記載されている。
- 確かに歩兵支援用戦車としてチハを見た場合、開発時であるならその性能は世界水準へ達しているといえた。短砲身とはいえ57mmという口径自体は小さいわけではなく、本来想定していた攻撃目標(敵歩兵や機関銃・対戦車砲陣地など)に対する榴弾火力は決して馬鹿にできない。最大25mmという装甲厚、最高速度38km/hという性能も優れているとまではいえないが、同時期の戦車と比べて特に劣っているような数字でもない。また、コンパクトながら状況を把握しつつ全体の指揮を執る車長と射撃を担当する砲手がそれぞれ独立した展望塔付きの二人用砲塔*12を備え、充分実戦での実用に耐えるレベルの車載無線機を標準装備とした点などは、当時としても大きな利点であった。
- 一方で「時局の変化に対応するため量産を急いだ」という背景もあり、基本性能以外の点で多くの技術的な課題が残る戦車となってしまったことも事実である。
他の同時期に開発・配備されていた各国の他戦車を紹介すると。
- ドイツ : 軽戦車のⅡ号戦車A,B,C,D型(武装は20mm機関砲と7.92mm機銃、装甲は正面14mm)。 そして中戦車のⅢ号戦車A型(武装は37mm砲と7.92mm機関銃×2、装甲は正面14.5mm)とⅣ号戦車B,C型(武装は76.2mm砲の短砲と7.92mm機銃、装甲は正面30mm)。
- ソ連 : 少し先輩のT-26,BT-2,BT-5、同期のBT-7やT-28。 特に先輩のT-26とBT-5はノモンハン事変で一応チハと相対している。
- イギリス : 巡航戦車のMk.ⅡやMk.Ⅲがいる、砲はQF 2ポンド砲(40mm砲)、装甲は最大で14mm、機動力は時速20~30キロ。
- フランス : ソミュアS35やオチキスH35(H38/H39)やルノーB1など比較的高性能な車両が揃っていた、流石の戦車大国。
- イタリア : L3-CV33(38)、2人乗りの豆戦車でイタリアの山がちな地形によくマッチした戦車だが、対戦車戦をするには余りにも豆だった。M11/39、3人乗りの中戦車。正面装甲30mm。車体に37mm砲、砲塔に8mm重機関銃×2という構成で、主砲を撃つには車体ごと敵に向ける事となり、かなり使いにくい武装配置となっている。
もちろんどの戦車も様々な思想や都合により性能はマチマチだが、チハは決して彼らに劣るような性能ではない。本来対戦車戦闘は想定していないものの、状況次第で多くの戦車に対しある程度優位に立つ事ができるといえる。
- 上でアメリカのM3スチュアート軽戦車に圧倒されたとあるが、実際にチハがM3軽戦車に苦戦したのは事実ではある。チハの短砲身57mm砲では超至近距離でもM3軽戦車の正面装甲(38mm)が抜けず、逆にM3軽戦車の長砲身37mm砲はチハの正面装甲(25mm)を容易に貫通する。
- この苦戦には理由があり、単純に言ってしまえばM3軽戦車の採用が1940年7月でチハよりだいぶ後から開発・配備されていたためである。アメリカでは戦間期に戦車開発があまり進んでいなかったが、スペイン内戦,ポーランド侵攻,フランス侵攻などの情報から戦訓を得て順当に戦車の強化を行った。(M2A2⇒M2A3⇒M2A4*15⇒M3軽戦車)
WW2の戦車戦を意識して造られたM3軽戦車と、それ以前の対歩兵を意識して造られた歩兵支援用中戦車のチハ。両車が戦えばM3軽戦車が優位となるのは、当たり前といえば当たり前なのだ。
- この苦戦には理由があり、単純に言ってしまえばM3軽戦車の採用が1940年7月でチハよりだいぶ後から開発・配備されていたためである。アメリカでは戦間期に戦車開発があまり進んでいなかったが、スペイン内戦,ポーランド侵攻,フランス侵攻などの情報から戦訓を得て順当に戦車の強化を行った。(M2A2⇒M2A3⇒M2A4*15⇒M3軽戦車)
- また「中戦車」や「軽戦車」はあくまで各国での括りであり、日本軍では95式軽戦車(重量約7t)に比べて大きいチハ(重量約15t)なので中戦車となっているだけである。 中戦車より強い軽戦車や、重戦車より強い中戦車はわりと良くある話だったり。
- しかし、チハが各国戦車と肩を並べることができたのはここまでだった。日本で量産体制が整いようやく数が揃い始めた頃とほぼ時を同じくして、列強各国における戦車開発の技術は急速に発達していく。
- とうとう太平洋方面で開戦となり、南方へ進出したチハは日本軍機甲戦力の中核として欠かせない活動を見せた一方、新世代型と言えるM3スチュアート軽戦車に苦戦してしまう。疑問視され続けていたチハの「対戦車戦闘能力」が表面化したこの事態に対し陸軍は、かねてより研究していた新型戦車砲「一式四十七粍戦車砲」を砲塔ごと換装して搭載する「新砲塔チハ(チハ改)」の実戦投入を決定。鹵獲したM3軽戦車に対する射撃試験で1km先からその正面装甲を撃ち抜いたという新型砲の搭載により、チハの対戦車火力は大幅に向上する事となる。
- だが、新砲塔チハが前線部隊に配備されつつあった大戦中期以降、本格的反攻作戦を開始したアメリカ軍が太平洋戦線へ送り込んできたのは全備重量30t超、チハと同じ中戦車でありながら重量は実に2倍という威容を誇るM4シャーマン中戦車であった。もはやその性能差は比べるまでもなく、砲火力も装甲厚もチハとは桁違いといえる。
- ここまで追い込まれても、列強各国より工業力で劣り、技術力の差も大きく開き、資源に乏しく、大重量兵器である戦車の運用を可能とするために必要な軍の機械力も不足、更には艦船・航空機の生産を優先した事により戦車へ割けるリソースそのものが余りに少ない、という状況ではまともに新型戦車の開発・配備など実現できる筈もなく。日本陸軍は最後まで、チハと共に戦い続ける事となったのである。
チハの性能と戦歴
-火力について
- チハの主砲である「九七式五糎七戦車砲」は、陸軍が作成した『兵器諸元表』に「九〇式五糎七戦車砲*16ト砲内諸元同一ニシテ操砲ヲ容易ナル如ク改正セラレタルモノナリ」とあるように基本的な性能は八九式中戦車時代と変わらないまま、より扱いやすく頑丈な砲*17として開発された。
- 砲手が右肩で砲を担ぐような射撃姿勢をとる肩当て式の小型軽量砲であり、砲は方向・高低調整用の旋回ハンドルを必要とせず左右10度、仰角+20度、俯角-15度まで可動させる事ができる。*18
- これにより迅速な照準操作が可能となり、日本軍戦車兵が重視した行進射*19においても砲手の技量次第で極めて高い命中精度を発揮したという。
- 装填は状況により車長がおこなう時もあるが、砲弾の重量も大きさも一人で扱えるくらいだったので通常砲手が装填手を兼任している。このおかげで、車長は砲塔内戦闘室の展望塔で部隊指揮や索敵、射撃指示等に専念することができた。チハの57mm砲弾搭載数は最大114発となっており、砲塔内部には即応弾として10発分の砲弾ラックが設置されている。
- 弾薬は九〇式五糎七戦車砲と共通であり、チハの任務上もっとも多用された「九〇式榴弾」で全備重量2.91kg、炸薬量250g*23、威力半径15mとなっている。
- また、砲塔銃として後ろ向きに「九七式車載重機関銃」を装備した。*24装弾数20発の弾倉式。一見「敵陣に突進して乱戦となった際の後方防御用」といった配置だが、実際はこちらを車体正面側に旋回させて対歩兵戦を行う、という運用を想定していたようだ。*25その他、砲塔に「発煙筒発射機」*26を備えた車輌も確認されている。
- 砲手が右肩で砲を担ぐような射撃姿勢をとる肩当て式の小型軽量砲であり、砲は方向・高低調整用の旋回ハンドルを必要とせず左右10度、仰角+20度、俯角-15度まで可動させる事ができる。*18
- 日本陸軍にとってチハは本来「歩兵と共に前進し、更に超越*27して敵陣に突入。機関銃巣など敵火点を制圧する事で歩兵の突破口を開く」為の支援用中戦車であるから、このような特性を持つ短砲身57mm砲で武装したことはむしろ理にかなっている面もあったと言えるだろう。
- 一方で、チハの火力を語る上で避けられない事が対戦車能力の不足だった。八九式中戦車時代からそのまま引き継がれた「九二式徹甲弾」の装甲貫徹力は、よほどの好条件でもない限り20mmそこそこでしかない。この徹甲弾の採用当時なら良かったが…M3軽戦車のような、第二次大戦型の戦車を相手とするにはあまりに頼りないと言わざるを得ない数値である。
- この試験射撃の結果から「徹甲弾ではなく榴弾*30による集中射とする」「射撃開始距離は300mから」「敵1輌に対して小隊(3輌)で戦う。そのために中隊以下での部隊運用は避ける」「一部が敵戦車を誘い込み、あるいは正面で拘束し、その隙を突いて主力が側面・背面を攻撃する」といった戦術が考案されている。だが、ここまでやっても「撃破できる可能性はある」とまでしか言えない事が、チハの対戦車戦闘における厳しい現実だった。
- 流石に危険と判断されて実験は中止になったものの、M3軽戦車の車高がチハより高いことに注目して「いざとなれば側面への体当たりによって敵戦車を転倒させる」という戦車による対戦車肉薄攻撃案まで出ている。
- 一方的な敗北を喫してもおかしくないような性能差がありながら、チハが大戦初期にM3軽戦車と何とか戦う事ができたのは日本軍戦車兵の高い技量、そして戦況が日本軍優勢となり、戦車隊と歩・砲・工・飛などの各兵種が協同できる場面が多かった為でもあった。
-対弾性能について
- チハは砲塔全周25mm、車体前面25mm・側背面25~20mm、主砲防盾50mmの装甲が配置されている。配備当時ではそこそこ優れた装甲厚であり、特に対歩兵戦では十分強気に出る事のできるものであった。また所々で装甲は傾斜しており、数値以上の装甲厚を発揮することも。ただリベット留めが多用されているため被弾時には被害が出やすい。
- 日本軍としては正面で口径37mm程度の火砲の近距離からの射撃に耐える装甲をとして、九四式三十七粍砲(37mm対戦車砲)で射距離150mの射撃にも耐えるとの事。
- 日本軍戦車の防御力に関しては「日本の戦車は装甲があまりに薄く小銃や機関銃でも簡単に撃破できた」といった話もあり、チハにおいてもそのように語られる事が多い。
- だが米軍が鹵獲したチハに対しておこなったM2ブローニング重機関銃(口径12.7mm)での射撃試験*31によると射距離90mでは装甲を貫通できず、45mで装甲の薄い箇所(車体側面下部、車体後面下部など)を35%ほどが貫通した、となっているようだ。つまり歩兵が一般的に装備しているような口径7.7mm前後の小銃、軽機関銃などでチハの装甲を撃ち抜く事は相当厳しいと思われる。*32戦争初期の英軍に配備されていたボーイズ対戦車ライフル(約14mmライフル)にもド近距離でなければ抜かれない。
- 小銃などに撃たれると、車内では「ドラム缶の中に入って外から軽く叩くぐらいの音」がしたという証言も。*33
- 一方、英軍や米軍や独軍の37,40mm対戦車砲となると危うい。射距離1000mで抜かれる可能性が高く300m以内ではほぼどこでも貫通される(状況にもよる)。まあそこは前述の同期達もどっこいどっこいなので…。
- 戦争後半に登場する米軍のM1バズーカや英軍のPIATなどの対戦車兵器や、M4シャーマンの76.2mm砲の前では残念ながら完全に無力である。それら兵器はドイツ軍の装甲強化型Ⅳ号戦車などに通用するような最新兵器であり、チハで相手するには荷が重すぎた。
- だが米軍が鹵獲したチハに対しておこなったM2ブローニング重機関銃(口径12.7mm)での射撃試験*31によると射距離90mでは装甲を貫通できず、45mで装甲の薄い箇所(車体側面下部、車体後面下部など)を35%ほどが貫通した、となっているようだ。つまり歩兵が一般的に装備しているような口径7.7mm前後の小銃、軽機関銃などでチハの装甲を撃ち抜く事は相当厳しいと思われる。*32戦争初期の英軍に配備されていたボーイズ対戦車ライフル(約14mmライフル)にもド近距離でなければ抜かれない。
- 戦訓によるものか、車体前面や操縦席・前方機関銃周りなどの車体上部前面、砲塔正面に増加装甲(推定25mm)を施した改修型のチハも製造されていたようだ。ただ、写真などから部隊配備が確認できるものの詳細な資料は見つかっておらず、その製造数もよく分かっていないという。*34
- 他にも前線では遺棄されたM3軽戦車の装甲板を切り出して車体へ装着したり*35、予備の履帯を取り付けたりと、チハの防御力を少しでも高めるための努力がなされていた。
- ちなみにイラストでも目を引く黄帯迷彩は日本陸軍戦車の特徴のひとつ。車体や砲塔の迷彩を目立つ黄色で分割するように塗装して、戦車の形状や進行方向の誤認効果を狙ったものである。
- しかしやはり目立ち過ぎる事に加えて元々大陸向けの迷彩ということもあり、南方の戦場には合わないと判断され大戦中期以降は廃止となってしまった。
-エンジンについて
- エンジンは空冷のディーゼルエンジン「三菱SA一二二〇〇VD」(三菱ザウラー式空冷12気筒200馬力V型ディーゼル) を搭載、12気筒200馬力。
- 当時の同期戦車達の多くはガソリンエンジンであったのに対して、チハは戦略的戦術的メリットからディーゼルエンジンを搭載している。メリットとしてはガソリンエンジンに使われるガソリンに比べて、ディーゼルエンジンに使われる軽油は揮発性が低く火災発生率が少ないこと、ガソリンよりも安価で燃費も良いこと。軽油の代替燃料も想定されており、燃料事情が悪い当時としてはかなり有利であった。また「空冷」という点も水冷と違い冷却水の補給を必要とせず、寒冷地での凍結による故障も防ぐことが出来る等の利点がある。
- と聞こえは良いが、日本のディーゼルエンジンは開発から数年という発展途上にあり、実際は空冷ディーゼルであるという点以外褒め所のないかなりの問題作でもあった。大重量・大容積であり高さこそ抑えられたもののその規模の割に低出力、高負荷運転での黒煙の発生*36。カタログスペックでは「200馬力」とあるが、実際に出せる出力は170馬力が良いとこで、耐久性を考慮したら140馬力程度…。登坂力も低く傾斜45°ほどで厳しく、鹵獲したM3軽戦車は問題無く登ったので牽引してもらったという話もある。エンジンの生産体制は複数企業に分担させていた為、互換性の無い物が出来て補給や現地のニコイチにも悪影響を与えた。
- このように機械的信頼性は優れないエンジンだが、キチンと訓練した乗員と整備員が居ればある程度は誤魔化すことも出来た。実際、マレー作戦では激しい戦闘を繰り返しながら58日で1,100kmを移動、大陸打通作戦では30日で1,400kmを移動している。後者の作戦では行動不能車両は約30%*37であったが、それ以前の作戦で酷使された車両を作戦に投入していること、部品の融通がきかないことを加味すれば多少は言い訳にはなるか。
- 当時の同期戦車達の多くはガソリンエンジンであったのに対して、チハは戦略的戦術的メリットからディーゼルエンジンを搭載している。メリットとしてはガソリンエンジンに使われるガソリンに比べて、ディーゼルエンジンに使われる軽油は揮発性が低く火災発生率が少ないこと、ガソリンよりも安価で燃費も良いこと。軽油の代替燃料も想定されており、燃料事情が悪い当時としてはかなり有利であった。また「空冷」という点も水冷と違い冷却水の補給を必要とせず、寒冷地での凍結による故障も防ぐことが出来る等の利点がある。
- なお、イラストのチハは車体後部の機関室上面から取り入れるエンジン冷却用空気の排気口が車体側面に露出していた、いわゆる「前期型車体(旧車体)」のチハである。
- 「後期型車体(新車体)」では、この車体側面部分を装甲カバーで覆うことで小口径弾や爆弾の破片などに対する防御力が向上しており、排気はフェンダー(泥除け)を通して下方へ流す方式に変更されたのでエンジンの冷却効率も改善されている。*38
-無線装備について
- あまり注目されない特徴であるが、チハ採用当時の日本軍戦車搭載無線機は他国に引けを取らないぐらい充実した物となっている。日本軍の無線機と言えば誰しも雑音だらけの(これはこれで熱帯地域で活動していたから等のどうしようもない事情が有るとは言え)無線電話を思い浮かべるだろうが、こと戦車用無線機においてはスペースや重量に関する制約が無かった為か優秀な物であった。
- チハ正式化当初、マトモな戦車用無線機と言えば独軍ぐらいしか装備しておらず。米英も一応戦車用無線機を搭載していたとは言え、その性能は当時の日本軍よりかはやや劣る程度であったと言う。そして仏ソに至っては戦車用無線機の装備率すら少なく(隊長車にすら装備されていなかったことがしばしば)、ハッチを開けて手旗信号によって部隊を指揮していた程だった。*39
- 日本軍は八九式中戦車に装備されていた九四式四号丙無線機の時から既に雑音対策(エンジン駆動時に発生する電磁波を遮断する等)が採られ、車内のみならず隊内電話すら比較的良好に行えたのである。この数少ない強みは、例えばマレー半島攻略作戦等にも影響を及ぼし、かの「スリム殲滅戦」で有名な島田豊作少佐による戦車夜襲といった作戦行動を成功に収める大きな助けとなった。
- 砲塔上部、知らなければ手すりと勘違いしてしまいそうな環状のものが、チハの標準搭載する「九六式四号戊無線機」用アンテナとなる。その形状から、鉢巻きを巻いているように見えるという事で通称「鉢巻きアンテナ」と呼ばれている。*40
- ただ、このアンテナと無線機は主として隊内通話を目的とした近距離通信用。そのためより強力な長距離通信用無線機を搭載した隊長車等の指揮車輌が隊外への長距離通信をおこなう場合、車体前後にあるホルダーにロッド*41を立て、空中線を展張する。
- この他、夜間行動中や無線封鎖時の指揮・連絡手段として、砲塔上部および車体後部に3色(緑・橙・赤)発光方式の信号灯を装備していた。
戦歴
-ノモンハン事件
- 事実上の初陣とされるのは1939年5月よりおこなわれたノモンハン事件である。チハは陸軍にとって最新兵器で、参戦した部隊内では戦車第三連隊に僅か4輌が配備されているのみだった。このうちの1輌に連隊長吉丸大佐が乗車して陣頭指揮を執っている。
- 7月頃より本格的な行動を開始した日本軍戦車部隊は、当時世界的にも珍しい大規模な戦車夜襲を決行するなど戦果を挙げていたが、3日のソ連軍陣地攻撃で大損害を受ける。連隊長乗車のチハもワイヤー状対戦車トラップが絡みついて行動不能となり、そこへ集中砲火を浴びて撃破、吉丸大佐は戦死してしまった。その後、部隊は損害を出しつつも奮闘を続けていたが、戦車隊の壊滅を懸念した関東軍より9日には後退命令が出される事となる。ノモンハンでのチハ喪失数は1輌(吉丸連隊長車)だったという。
- ノモンハンにおいて日本軍戦車部隊が交戦したBT-5やT-26は車体正面でも装甲15mm程で、チハや八九式中戦車が装備した短砲身57mm砲の徹甲弾でも撃破する事は出来た。*42しかしこれらソ連軍装甲車両の主砲は当時世界でも有数の対戦車火力を持つ長砲身45mm戦車砲で、日本戦車との攻撃力の差は歴然であり、この事がのち新砲塔チハの主砲となる高初速47mm戦車砲開発を加速させる契機になったとされている。
-日中戦争
- 日中戦争では1938年頃、戦線拡大していく中で初期生産型の極少数が初めて試験的に実戦投入され、以降貴重な機甲戦力として活動した。中華民国軍は日本軍よりも兵員数では相当優勢で地の利もあったが、多くの軍閥部隊も含まれていたために指揮は統制されているとは言い難く、装備も雑多であり、兵器の質や練度、士気には部隊ごとで非常に大きな差があった。*43
- なにより中国軍はその規模に対して対戦車用兵器や各種野砲などの装備率が低かった為、友軍歩兵の突入援護、対敵歩兵はもちろん塹壕・機関銃陣地を相手にチハは大きな威力を発揮し続けている。そして日本からの海路輸送、中国大陸の低インフラ、多くの河川と行軍や兵站には厳しい条件だったが、比較的軽便なチハはその点もそこそこ適応することができた。
- しかし大戦後期になると米中軍航空兵力の活動も活発化。戦車隊は偽装や夜間移動など常に空襲を避ける為の慎重な行動をせざるを得ず、その機動力が封殺される場面も多くなっていった。
- また中国軍に対しては「総じて士気が低く、戦車などが現れるとすぐに逃げ出した」といったように語られる事もあるが、一方で「戦車には小銃や機関銃をはじめ手あたり次第に火力を集中して、常に激しく攻撃を加えてきた」*44という証言もある。
- だがチハにとって脅威となる対戦車砲など重火器は少なく、敵戦車となればさらに少なく、大陸戦線における日本軍戦車隊の被害は、戦車そのものの破壊より下車している際の狙撃など将兵への直接的な攻撃によるものの方がずっと多かったという。*45
- だがチハにとって脅威となる対戦車砲など重火器は少なく、敵戦車となればさらに少なく、大陸戦線における日本軍戦車隊の被害は、戦車そのものの破壊より下車している際の狙撃など将兵への直接的な攻撃によるものの方がずっと多かったという。*45
- なにより中国軍はその規模に対して対戦車用兵器や各種野砲などの装備率が低かった為、友軍歩兵の突入援護、対敵歩兵はもちろん塹壕・機関銃陣地を相手にチハは大きな威力を発揮し続けている。そして日本からの海路輸送、中国大陸の低インフラ、多くの河川と行軍や兵站には厳しい条件だったが、比較的軽便なチハはその点もそこそこ適応することができた。
-太平洋戦争初期
- 南方へ進出したチハが相対したのは各国連合軍*46であり、その中には対中戦においてあまり出会わなかった対戦車用兵器、さらに多数の重砲や強力な戦車を配備している部隊も多く存在していた。そしてこの時期になると列強各国による新型戦車開発ペースが凄まじく、チハは急速に旧式化し、日本の戦車技術も既に時代から取り残されつつあった。
- マレー作戦ではジットラ・ライン突破やスリム殲滅戦をはじめマレー半島の電撃的な突進作戦成功に大きく貢献、続くシンガポールの戦いでも機甲戦力の中核として重要な役割を果たしている。その一方で対戦車砲、大口径砲の集中射などによる戦車隊の損害も大きかった。
マレー・シンガポール、ビルマの攻略戦に参加した戦車第一連隊第三中隊小隊長、寺本弘中尉(当時)は、マレー作戦時における「敵の四〇ミリ対戦車砲の命中弾によるチハ車の抗堪性と損傷状況。」*47として次のように述べている。なお、マレー作戦でのチハ車喪失数は13輌(うち炎上6輌)、損傷(修理後復帰可能)11輌、割合としては正面に対する命中弾が最も多く、特に炎上した車輌には3発以上の被弾痕があった。*48。「一、一発の命中弾で戦車が沈黙したことはない。負傷者の状況は命中部位によって異なるが、戦闘は継続できた。
ニ、数発の命中弾を受けると、戦車は擱坐して戦闘力を失うにいたる。
三、三発以上の命中弾を受けると、戦車は通常炎上し、自爆する。」*49
- マレー作戦ではジットラ・ライン突破やスリム殲滅戦をはじめマレー半島の電撃的な突進作戦成功に大きく貢献、続くシンガポールの戦いでも機甲戦力の中核として重要な役割を果たしている。その一方で対戦車砲、大口径砲の集中射などによる戦車隊の損害も大きかった。
- マレー作戦中に敵戦車は出現しなかったが、ビルマやフィリピン方面では合計220輌程のM3軽戦車が配備されていた。各方面に派遣されているチハよりも数が多く、攻撃力・防御力・機動力全てで格上の強敵だが、多くは戦車戦以外の要因で失われている。
しかし少ないが戦車戦も発生しており、その正面装甲38mmに対してチハや八九式中戦車の57mm砲、九五式軽戦車の37mm砲では貫通できず、苦戦を強いられる事となる。それでもチハ数輌での集中射撃で装甲を叩き割ったり、リベットやボルト止めを57mm榴弾で破壊して内部にダメージを与える、などして撃破した例もあり決してチハで撃破出来ない訳ではなかった。- フィリピン攻略戦は「新砲塔チハ(チハ改)」の初陣となっている。チハ改10輌が配備された臨時松岡中隊は第二次バターン半島攻略戦、コレヒドール島要塞攻略戦に参加して戦果を挙げたが、M3軽戦車と直接交戦する事はなかったとされる。
新砲塔チハと一式四十七粍戦車砲
- 新砲塔に換装され戦車としてのシルエットも大きく変わったチハ改であるが、その砲性能も高初速化*50によって全くの別物となっている。
フィリピン上陸後、早速実施された鹵獲M3軽戦車に対する射撃試験では、射距離1000mで6発中3発、800mで9発中6発がその正面装甲を貫通。M3軽戦車の装甲を撃ち抜ける待望の戦車として戦車隊の士気は大いに上がったという。さらに陣地戦における取り回しの良さ*51を重視した九七式五糎七戦車砲はその短砲身低初速ゆえ弾道が山なりだったが、一式四十七粍戦車砲の砲弾は高速で直進するため射撃精度が向上、遠距離の移動目標等に対する攻撃も格段にやりやすくなった。- 肩当て式で砲を可動でき、発砲後の砲身後退を利用して自動排莢を行なったりする機構が採用されている点は九七式五糎七戦車砲と変わらない。*52しかし砲弾が大型化したので流石に砲手の片手装填といった事はできなくなり、部隊によっては装填手も加えて乗員5名で運用する場合もあった。そのほか、榴弾威力が若干低下したが、深刻な問題として指摘される程ではなかったようである。
- 南方作戦全体で見るとかなり綱渡り的な部分があったものの、連勝による士気の高揚や攻勢側の奇襲性、制空権及び制海権の優勢、連合国側では多国籍軍故の連携の難しさ等もあり押し通す事が出来たともいえる。
- そして戦車隊にとっては相変わらずの低インフラであり、海路輸送と敵地への上陸、多くの河川に破壊された橋、経験のない南方の気候や地形等、戦車の運用には多くの困難があった。しかし戦車隊将兵や支援する工兵隊などの努力による急進撃をみせて、その戦い振りは「鉄獅子」として広く報道され脚光を浴びる事となった。
- そして戦車隊にとっては相変わらずの低インフラであり、海路輸送と敵地への上陸、多くの河川に破壊された橋、経験のない南方の気候や地形等、戦車の運用には多くの困難があった。しかし戦車隊将兵や支援する工兵隊などの努力による急進撃をみせて、その戦い振りは「鉄獅子」として広く報道され脚光を浴びる事となった。
-太平洋戦争中期以降
判断は(今後の為にも)統一すべきなので、まずは提案意見掲示板に移動するのが適切 -- 2023-04-04 (火) 04:16:35
もし木主の意見を通したいなら
・小ネタ欄現状維持に賛成か反対か
・(反対多数の場合)小ネタ欄ルールの文案作成、投票
・(新ルール策定後)既存の全ページの小ネタ欄の精査、ルールに則った変更
を行わないといけない -- 2023-04-04 (火) 05:20:57
今までほかのページで何も言ってなかったのにいきなりここではダメです、は通らんぞ流石に。
編集者も慣例踏んで書いてるのに困惑してるだろうよ -- 2023-04-04 (火) 16:51:28