No318 モルトケ/元ネタ解説

Last-modified: 2019-10-20 (日) 12:25:07
所属Kaiserliche Marine
艦種・艦型モルトケ級大型巡洋艦(巡洋戦艦)
正式名称SMS Moltke
名前の由来Helmuth Karl Bernhard von Moltke(1800-1891) プロイセン陸軍元帥 対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。
起工日1908.12.7
進水日1910.4.7
就役日(竣工日)1911.8.30
除籍日(除籍理由)不明(英Scuttling of the German fleet in Scapa Flow/独Selbstversenkung der Kaiserlichen Hochseeflotte in Scapa Flow(スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈) 1919.6.21自沈 1927浮揚後解体)
全長(身長)186.6m
基準排水量(体重)22616.0英t(22979t)
出力Thornycroft式石炭専焼缶24基Parsons式蒸気タービン4基4軸 85782PS(84608.5shp)
最高速度28.4kt(35.37km/h)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/4120海里(7630.24km)
乗員1053名
装備28cm50口径SK L/50連装砲5基10門
15cm45口径SK L/45単装砲14門
8.8cm45口径SK L/45単装砲12門
50cm魚雷発射管4門
装甲舷側:50~270mm 甲板:50mm 砲塔:130~230mm バーベット:230mm 艦橋:60~350mm
建造所Blohm + Voss, Hamburg(ブローム・ウント・フォス社 ドイツ連邦共和国ハンブルク市)
  • 1871年のドイツ統一以降、列強各国に並ぶべく躍進を続けるドイツ帝国は植民地の拡充を進めるとともに、
    植民地と本国をつなぐシーレーン防衛のため海軍力の強化に注力した。
    当時世界最大の海軍国だったイギリスに対抗するためドイツが選択したのは、隣国フランスのジューヌ・エコールのようなものではなく、もっともシンプルな方法だった。
    即ち建艦競争によりイギリス海軍と比肩する大艦隊を構築することである。
  • この計画に則り「艦隊法」が1898年、1900年、1908年、1912年の4度に渡って施行された。
    モルトケ級は第三次の艦隊法により建造が計画された巡洋戦艦である。
  • 1908年、日露戦争の戦闘結果によりイギリスは、優速な装甲巡洋艦が艦隊行動において重要な役割を果たすという結論にたどり着き、
    艦隊の偵察要員である装甲巡洋艦に戦艦と同等の火力を持たせることで、敵の偵察隊に対して優位に戦おうと考えた。
    これがのちに巡洋戦艦と呼ばれる艦種の誕生で、当初イギリスでは超装甲巡洋艦と呼ばれていた。
    この新型艦種を見たドイツ海軍は刺激を受け、建造計画を変更して実験的な性格を持つ「フォン・デア・タン」を建造した。
    そしてこの艦の運用で得られたデータにより第三次艦隊法で建造が計画されたのがモルトケ級である。
  • 本級はまず敵の装甲巡洋艦やそれ以下の艦艇に対して圧倒的優位に立てる火力を確保すべく、11インチ連装砲5基を搭載した。
    この主砲の選定はかなり揉めており、海軍大臣ティルピッツは前級フォン・デア・タンと同様の11インチ砲8門ないし10門で砲弾の搭載数を増やし継戦能力を高めるとしたが、
    現場からは英海軍に対抗すべく12インチ砲の搭載が要望された。
    結局この主張はティルピッツが通り11インチ砲となる。
  • この他装甲は前級同様の9.1インチを主とし、速力は25ノットが要求された。
    建造にあたってはブローム・ウント・フォス社が入札を勝ち取り、GおよびHという計画名で2隻が建造された。
  • モルトケは1911年に就役し、翌年ドイツ大洋艦隊としては初めて(そして唯一)アメリカ本国を訪問した戦艦となった。
  • 1914年、第一次世界大戦が勃発し8月4日にイギリスはドイツに正式に宣戦を布告した。ドイツ大洋艦隊はトルコやオーストリア等の中央同盟国にとって、
    連合(協商)国にして世界最大の海軍イギリス艦隊に唯一対抗しうる存在として大きな期待を集めていた。
    しかしその期待は重い責任でもあった。僅かな損害でも海のパワーバランスは大きく変動しかねないからである。
  • 1914年8月24日、開戦からわずか3週間と少し、ドイツ海軍はイギリス海軍と初の本格的な戦闘をヘルゴラント島の沖合で経験する。
    しかしこの戦いはドイツの敗北に終わった。
    なお悪いことにドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は海軍の損耗を極端に恐れ、いかなる作戦も皇帝の許可なしに行ってはならないとした。
  • しかしイギリス艦隊に対抗しうると信じていた中央同盟にとって、ドイツ海軍の消極的行動はまったくの期待はずれであった。
    閉塞的な状況を打破すべくヒッパー中将は皇帝に、高速の巡洋戦艦を使いイギリス港湾部の都市を砲撃し、その高速性能でイギリス艦隊の追撃を振り切るという作戦を提案し、了承を得る。
    この作戦は成功し、12月にはイギリスの沿岸部の都市が被害を受けた。作戦の成功に気を良くしたヒッパーと皇帝はさらなる戦果拡大を目論んだ。
  • 翌1915年1月24日、ヒッパー率いる巡洋戦艦部隊はさらなる戦果を求めて出撃した。モルトケもこれに同行し、旗艦ザイドリッツの後方についていた。
    しかし先月の被害に憤慨していたイギリス海軍は暗号解読などによりドイツ海軍の動向を掴んでおり、報復のため強力な新鋭巡洋戦艦ライオン級およびタイガーまでも投入。
    ここにドッガーバンク海戦が勃発する。
  • 海戦は単縦陣を組むドイツ艦隊に対し同じく単縦陣のイギリス艦隊が同航戦で追いつくという、恐るべき殴り合いとなった。
    イギリスは優速な第一艦隊が最大27.5ノットで追撃してきたが、ドイツ艦隊はこれに対し旗艦ザイドリッツの最大速力26.5ノットに追従したため追撃を許した。
    この戦いでイギリスは命令の伝達不備も有り旗艦ザイドリッツに砲撃を集中させてしまい、モルトケは特に狙われることなくイギリス軍の旗艦ライオンへ砲撃を開始。
    双方の旗艦が大破すると最も速力の遅い最後尾の装甲巡洋艦ブリュッヒャーが標的となり、沈没した。
    この作戦失敗と損害を受けてドイツは艦隊現存主義を標榜してますます水上艦の出撃に消極的になり、反比例して潜水艦による無制限攻撃に注力していく。
    モルトケも散発的な威力偵察や砲撃などを行う以外出撃の機会はなかった。
  • 1916年5月31日、イギリスとドイツの間で起きた世界最大の大海戦、ユトランド沖海戦においてドイツはイギリスの戦略目標を阻止したが、英独のパワーバランスをひっくり返すようなことにはならなかった。
    モルトケもこの戦いで奮戦しイギリスの巡洋戦艦2隻の撃沈に貢献したが、その後ドイツ大洋艦隊は大規模な出撃を行うことはなかった。
    1918年10月の敗戦直前にはシェーア提督により英国本土への自殺行為とも言える突撃が計画されたが、これに反対した水兵の脱走や反乱をきっかけにドイツ帝国は崩壊する。
    ドイツ大洋艦隊はイギリスに引き渡されスカパ・フローに係留されたが、戦後補償の一環としてフランスやイタリアへの引き渡しないし自沈の協議が難航する中、ドイツ艦隊は自沈の準備を進めていた。
    1919年6月21日、ベルサイユ条約の成立が2日後に延期した日の午前11時ころから一斉に自沈が始まり、モルトケもまた同じ運命を辿った。
  • ドイツ帝国は大洋艦隊という宝剣を持ちながら、それを惜しむ余り宝剣を残して斃れたのだった。