屋代

Last-modified: 2025-04-08 (火) 02:44:11
No.412
412.png屋代(やしろ)御蔵型 6番艦 海防艦
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久9火力4 / 16
装甲4 / 16雷装0
回避39 / 81対空9 / 37
搭載0対潜40 / 79
速力低速索敵3 / 15
射程20 / 80
最大消費量
燃料10弾薬10
装備
12cm単装高角砲E型
25mm連装機銃
装備不可
装備不可
改造チャート
屋代屋代改(Lv45)
図鑑説明
御蔵型海防艦六番艦、屋代です。マル急計画で生まれました。
苦しいヒ船団の護衛や対潜掃討、戦後は機雷掃海任務、そして、引き渡し後は正安として、対馬と共に戦いました。
屋代、覚えていてください。

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、改造直後の値とは異なります。
最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:松岡美里、イラストレーター:A士 (クリックするとセリフ一覧が開きます)

CV:松岡美里、イラストレーター:A士

定型ボイス一覧

イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 
追加
入手/ログイン御蔵型海防艦、六番艦、屋代。参ります。
どんなに困難な状況でも、屋代、頑張り抜きます。
皆さんを護る、それが勤めですから。
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母港*1編集
母港1詳細参りましょう?編集
母港2朝霜さん……無理はしないで。お願いします。私が援護は引き受けます。編集
母港3戦いの状況は厳しいですね。……でも、ここを、この航路を護らなければ。私達の、明日は……。
提督と皆さんと共に、出来ることを、頑張ります!
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ケッコンカッコカリ提督、私に何か御用が? え、これを、屋代に?! ありがとうございます! 私、いつまでも大切にします。編集
ケッコン後母港提督、お茶にしましょ? 台湾の良いお茶が有るんです。編集
放置時提督、いろいろなことを思い出します。いろいろと……経験しました。編集
編成出撃編集
編成第一海上護衛隊、海防艦屋代、出撃します!×編集
第102戦隊、海防艦屋代、出撃します!×編集
出撃御蔵型海防艦、屋代、抜錨! 皆さん、続いてください!編集
開戦・攻撃*2編集
戦闘1昼戦開始敵……ですか。やらせはしません。戦闘用意!編集
戦闘2昼戦攻撃てぇーっ!編集
戦闘3夜戦開始夜は危険です。慎重に進みましょう。編集
戦闘4夜戦攻撃護ってみせます!編集
戦闘時ステータス*3編集
小破いやああああっ!編集
痛い! 目が……前が、見えないわ。編集
中破/大破いやああああっ! 浸水!? なんとか、戻らないと……!編集
轟沈身体が……沈んでいく。……これが沈むということ。……冷たくて、寂しくて、悲しい。
……皆さん、ごめんなさい……!
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戦闘終了*4編集
勝利MVP海防艦屋代が、お役に立てましたか? ……よかったあ! 苦しい戦局ですが、支え合って行きましょう!×編集
私がお役に立てましたか? ……よかったあ! 苦しい戦局ですが、支え合って行きましょう!×編集
旗艦大破痛い! 目が……前が、見えないわ。編集
装備・改修*5編集
装備1改修/改造この装備、大切に使います!編集
装備2貴重な装備、屋代、大事にします!編集
装備3改修/改造/開発/バケツ/遠征/発見ここまでは、無事です!編集
その他編集
帰投艦隊、無事帰還しました。ホッとします。編集
補給貴重な補給、ありがとうございます。編集
入渠(小破以下)修理、助かります。編集
入渠(中破以上)提督、ご迷惑をおかけして、すみません。編集
建造完了新戦力です! 頼もしいですね。編集
戦績表示屋代、情報をお持ちします。こちらですね。編集

各ボイス項目の詳しい説明はこちらをご覧ください


時報ボイス一覧


季節ボイス一覧


イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 
追加
桃の節句編集
春の訪れ編集
ホワイトデー提督、お返しを? ありがとうございます! 頂きます!編集
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春本番編集
梅雨てるてる坊主、台湾にもあるんです。……ほら、出来ました!編集
初夏編集
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盛夏編集
夏祭り編集
浴衣、どうでしょうか? ……そうですか、良かった。編集
秋刀魚秋刀魚漁ですね。近海はよくわかっています、お任せを!編集
晩秋戦いの状況は厳しいですね・・・。
でもっ、ここをっ、この航路を守らなければ、私たちの、明日は・・・。
提督と皆さんと共に、出来ることを、頑張ります!
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ハロウィン編集
秋のワイン編集
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師走編集
クリスマス台湾ではあまり、クリスマスって……でも、楽しそうです!編集
年末編集
新年提督、謹賀新年! 今年も、何卒よろしくお願いいたします。編集
節分節分を、択捉型と対抗戦ですか? ……あ、はいっ、頑張ります!編集
バレンタイン提督、こちらをどうぞ。少しビターです。……どうですか?編集

二周年記念編集
三周年記念編集
四周年記念編集
五周年記念編集
六周年記念編集
七周年記念編集
八周年記念八周年、おめでとうございます! 嬉しい。編集
九周年記念九周年、おめでとうございます! 嬉しいですね。編集
十周年記念十周年、おめでとうございます! 提督、本当に感謝です!編集



  • 2020/07/11実装。
  • 一応海防艦の中では対空がトップタイだが、戦闘ではほぼ影響はない。ごく普通の海防艦と見ていいだろう。
  • 艦名の由来は山口県屋代島から。一般的には周防大島と呼ばれ、町の名前も周防大島町であるが、国土地理院の正式名称は屋代島である。
    • 頭についているのは周防大島町の花であるみかんの花である。周防大島が所在する山口県は高知県と並んで年間5000トン以上(2016年)のみかんを生産しており、その80%は周防大島産。
    • 胸に金魚のバッジをつけているが、周防大島は形から金魚島とも呼ばれている。
    • 周防大島の北、江田島との間にあるのが柱島。柱島諸島と周防大島に囲まれたこの海域こそが、かつて柱島泊地と呼ばれた海域である。
      • その柱島泊地で爆沈した「陸奥」は周防大島からわずか3kmの場所で沈んだ。周防大島東側の伊保田港のそばに陸奥記念館があり、副砲や艦首が今も残されている。
    • 2019年12月にはとある「オブローダー」*6が周防大島にある廃道と県道の自動車交通不能区間の探索を行っており、彼が執筆したサイト「山さ行がねが 道路レポート 山口県道60号橘東和線 和佐狭区[https://yamaiga.com/road/ypr60/main.html]」には周防大島について詳しく記述されている。
    • 現在は本土と大島大橋で結ばれているが、かつては本土から国鉄運行の連絡船が出ていた。就航船の中には山口県光市の旧海軍工廠で使用されていた魚雷運搬船を改造した貨客船や特大発動艇を改造した自動車運搬船なども在籍していた。
    • 長野県にはかつて屋代町という自治体があったが、艦名とは一切関連はない。こちらは1959年6月1日に周辺の埴生町・更級郡稲荷山町・八幡村と合併して更埴市となり消滅。現在はさらなる合併で千曲市の一部となっており、地名として屋代の名は残されている。
  • 御蔵のような堅さはないが、性格はやはり真面目。
  • 実は結構太眉。通常時はわかりにくいが、中破時や限定グラフィックだとわかりやすい。
  • 2020年8月27日のメンテナンスで、期間限定グラフィック「浴衣mode」が追加された。
    • みかん柄の浴衣に金魚柄の帯とリボンをして、イルカと金魚のぬいぐるみを抱いている。この辺の元ネタは上記キャラクター設定にある、艦名由来の土地が元ネタ。イルカは御蔵由来だろうか。
    • 中破するとイルカのぬいぐるみ(涙目)を抱えたままうずくまって泣いてしまい、なんとも罪悪感が……。
    • ちなみに手提げ袋には信号拳銃が入っており中破グラで確認することが出来る他、発砲したのか空薬莢も1つ確認できる。
    限定グラフィック:浴衣mode

    限定グラフィック:浴衣mode
    浴衣、どうでしょうか? ……そうですか、良かった。

  • 2022年4月1日のメンテナンスで、期間限定グラフィック「花束mode」が追加された。
    • 春らしいピンク基調の衣装に、柏餅型のバッグ。左手にはメジロも止まっていてなんとも微笑ましい。
      右手で抱えたおっきな花束の中には、提督宛なのだろうか封筒も入っている。
    • 中破するとそんなよそ行きも、右手で持ってた花束も、ボロボロになってしまう。
    限定グラフィック:花束mode

    限定グラフィック:花束mode
    九周年、おめでとうございます! 嬉しいですね。

  • 2020/07/15:ボイス等が5番艦となっていたのが6番艦に修正された。
略歴

略歴

194311.18日立造船桜島造船所で「仮称第328号艦」の名で起工
19441.25「屋代」と命名
2.16進水
5.10竣工。横須賀鎮守府籍
6.3海上護衛総司令部第一海上護衛隊に編入され船団護衛に従事
9.14高雄出港直後に触雷し損傷
19451.1第102戦隊に編入
1.9高雄にて空襲を受けて艦橋に被弾。夜に朝顔と衝突
8.9雄基沖にて船団護衛中空爆を受ける
8.15元山から内地へ向け航海中に終戦を迎える
11.30帝國海軍籍より除籍
12.1特別掃海艦に指定され、掃海作業を行う
19469.1特別輸送艦に指定される
19478.29特別輸送艦指定解除。中華民国に賠償艦として譲渡され、護衛艦「接19」に、後「威臺」に改名
19492.「正安」に改名
195811.1除籍解体
  • 屋代(やしろ)は御蔵型海防艦第6番艦。
    1943年11月18日、日立造船株式会社桜島造船所で起工。1944年2月16日に進水し、5月10日に竣工。竣工後は横須賀鎮守府籍となり、海上護衛総司令部第一海上護衛隊に配属された。
  • 初めての任務は1944年6月11日に門司を出港しボルネオのミリへ向かうミ07船団で、駆逐艦朝風と共にミリまで護衛。以降は朝風と共にミシ04船団、シミ06船団で昭南とミリの間を往復し、ミ10船団を高雄まで、ミ13船団を高雄からマニラまで護衛している。
    • ミ10船団護衛中の7月28日には海軍配当船白馬山丸が、ミ13船団護衛中の8月7日に姉妹艦の海防艦草垣(未実装)が雷撃により撃沈されている。雷撃したのはいずれもアメリカ潜水艦ギターロだった。
  • 8月22日、屋代はタマ24船団を出港。25日午前、バサレン湾沖で陸軍輸送船玄海丸と護衛の第二十五号海防艦が分離した。これは21日に高雄を出港した1TL型戦時標準油槽船の二洋丸と第二八紘丸、護衛の朝風と夕凪(未実装)からなるタマ24A船団が22日にアメリカ潜水艦スペードフィッシュの雷撃を受け、第二八紘丸が被雷しバサレン湾に擱座し、護衛の夕凪がそれに付き添っていたのである。擱座した第二八紘丸には魚雷艇5隻が搭載されており、それの救援と護衛のために2隻が船団から分離したのである。その代わりに第二八紘丸の護衛の任を第二十五号海防艦に託した夕凪が船団に合流した。
    しかし、それからいくらもいかないうちに海軍配当船光徳丸がアメリカ潜水艦ピクーダの雷撃で撃沈され、それを見た夕凪は撃沈された光徳丸がいた方向に向かった。屋代と陸岸の中間地点を夕凪は突進していたが、ピクーダは陸岸の方から魚雷を発射。魚雷は夕凪の左舷艦橋後部に命中し、同時に缶室が爆発した夕凪はバーンという大音響と共に船体が中央から真っ二つに折られ、八の字形になってから折損部を下にして沈み始めた。甲板上にいた乗員がパラパラと上空に飛ばされ、そして海上に落下していった。夕凪の沈没により護衛部隊は必死の対潜掃討を行うがピクーダは無事に離脱した。
    さらに同日午後にはピクーダとウルフパックを組んでいたアメリカ潜水艦レッドフィッシュの雷撃でK型平時標準鉱石運搬船ばとぱは丸が撃沈され、28日に船団はマニラに到着した。
  • 9月14日早朝、出港する船団の護衛につくため高雄を出港したところ、磁気機雷に触れて損傷する。この触雷で一時行動不能になり、艦首に浸水。乗員数名が負傷した。屋代は海防艦三宅に曳航されて高雄に戻り、30日まで応急修理を受ける。応急修理を終えた10月1日にタマ28船団を護衛して高雄を出港するが、2日夜にアメリカ潜水艦ポンフレットの雷撃で陸軍輸送船津山丸が撃沈されてしまったため、屋代はその生存者救助を行った。その後サブタン経由で北サンフェルナンドに向かうが、6日に荒天により発電機が故障し、屋代は船団から分離してアパリ北方のサンヴィセンテ漁港に入港する。サンヴィセンテ漁港は焼津の漁師達の前進基地であり、味方水偵の基地でもあった。10月11日、碇泊中に艦載機と対空戦闘を行い、戦死者を出したほか機銃掃射により送信機に被弾し通信不能となる。その後10月16日に空襲の被害の残る馬公に入港し、21日まで修理するが、この間の20日にレイテ沖海戦に向かうため馬公へ足柄が入港している。10月22日、修理のためヒ76船団の護衛で佐世保に向かう*7。25日、船団から分離し26日に佐世保入港。11月1日に佐世保を出港し2日に釜山の朝鮮重工業に到着し、12月21日まで修理を受ける。12月10日、第一護衛艦隊に編入。
高雄での被弾・朝顔との関わり
  • 12月30日、ヒ87船団を護衛して門司を出港。航海中の1945年1月1日、屋代は第百二戦隊に編入。船団は8日夜に高雄に到着した。翌9日、高雄はアメリカ軍艦載機の攻撃を受け、屋代は被弾小破する。
    • 空襲は朝から行われ、高雄や左営に停泊していた艦船は港内で撃沈されるのを防ぐため、港外に出て寿山西方沖に集結。特務艦や商船のような大型艦船は中心部に停泊し、駆逐艦や海防艦などの護衛艦が大型艦船の停泊地を中心として円陣を作って微速あるいは半速ぐらいの速力で一定方向に周回運動し、敵の艦載機群が来たらこの対空戦闘配備による全銃砲火の結集によって対抗する防空陣形を組んだ。
      このやり方は敵機の来襲時に狙われる護衛艦はある程度舵と速力によって回避運動が可能なうえ、護衛艦が中心部の大型艦船を護ることが可能であることもあって、総合的に見て適切な対策だったが、これが夏祭りの盆踊りそっくりな動きであるため「盆踊り」と俗称した艦長もいた。
      この「盆踊り」による対空戦闘中、屋代の後ろには二等駆逐艦朝顔(未実装)がいた。同艦艦長の森栄大尉は当時の状況をこう回想している。
      • 午前の第1波と第2波の空襲が終わり、昼食後の第3波の空襲の際、3方向から一斉に急降下してくる爆撃機の中の1機が、まっすぐ朝顔に向かって急降下してきた。幸い他の敵機で朝顔を狙っているものは見当たらず、朝顔の対空兵装は一息入れて次の敵を待っている状態であった。森艦長は敵機を充分に引き付け、距離1500mで「撃ち方始め!」を命じ、全機銃が一斉にたった1機の敵機に向けて全力射撃を開始。距離1000mで敵機はその腹を朝顔に向けた。それを見た森艦長は 「命中、撃墜か」 と息を飲んだ。
        対空機銃弾をかわした敵は朝顔に横腹を見せながら約70度の角度で海面に突入して激突するかに見えた。しかし、敵機の突入する真下には朝顔の前を航行する屋代がいた。敵機は途中で目標を変更したのである。それを見た森艦長は敵パイロットはとにかく老練だと感じた。
        「屋代が危うい!」と思って森艦長は7倍眼鏡で屋代艦橋の窓ガラスを見た。次の瞬間敵は遂に投弾し、海面すれすれを飛んで逃げた。その瞬間屋代の艦橋窓ガラスは透き通しになって、前方の空間が真っ白く見え、思わず 「屋代」の艦橋全滅!」 と叫んだという。
        目の前での屋代の被弾に、森艦長はすぐに信号で屋代の被害を問い合わせたところ、「敵爆弾艦橋に命中。艦長(山下貞義少佐)・航海長を始め艦橋にいた信号員、見張員などほとんど全員戦死」との回答を受けた。思えばあの爆弾は当然朝顔が受けるべきものであったが、朝顔の猛烈な対空戦闘により敵は目標を屋代に変えたのである。屋代は朝顔に代わって敵の投弾を受けた。森艦長以下朝顔乗員は頭を垂れて屋代艦長以下の戦死者の冥福を祈らずにはいられなかったという。
    • 屋代の記録によれば、爆弾は2発が同時に投下されたらしく、1発は艦橋正面から直撃し、艦橋の真正面に大穴を開けて爆発。舵取装置を破壊して艦橋の床を抜け、下の艦長室を斜めに通って隣の海図室で止まっていた。その残骸は直径10cm、長さ1mくらいの金属の円筒で、その長さ3分の1ほどのあたりに縦の亀裂があり、そこから捻れて転がっていた。もう1発は救助艇を砕いて海中に落下した。後部甲板で至近弾の煽りを受けて海中に転落した乗組員の1人は戦闘後に他の海防艦により救助されていた。
  • 同日夜、屋代は高雄港の北隣にある左営軍港*8で朝顔と衝突事故を起こした。
    • 屋代は高雄到着後に基隆へ回航するよう命令が出ていたので、これ幸いと新米航海士と買い被った砲術長とが反対する機関長を説き伏せて基隆へ夜逃げすることとした。月のない晴天の暗夜であったこともあり、夜逃げには絶好の環境だった。
      砲術長の操艦で機関室・操舵室まで伝令を配置しての航海であったが、目の前に黒々と長い駆逐艦らしい艦影が。「両舷停止!」「後進一杯!」と命令が飛ぶが伝令頼りでなかなか止まらず、「錨入れ!」も慣れた者が戦死しており…相手の艦の土手っ腹へまともに突っ込んだ。「タレタレ、ワレアサガオ、シンスイス、タレタレ」と信号があり、「ワレヤシロ、シツレイセリ」と相手の艦尾をすり抜けた。陸上の信号所から「誰か、どこへ行くのか」と聞いてきたが懐中電灯で適当な返事をしておいた。その後港外でコンパスの故障が酷いことがわかったため左営に戻った。
    • 一方、朝顔の方は、昼間の艦載機の艦船攻撃は不徹底であったと感じたことから、これを補うため夜に陸上機による港内に対する水平爆撃を行うのではないかと森艦長は予想していた。そのため艦内に敵の夜間爆撃に対する厳重な警戒を命じ、艦長自身も艦橋横にある魚雷戦発令所のソファーに、戦闘服装のまま愛用の7倍眼鏡を首に下げて身体を横にして仮眠した。
      突如 「ドスン!」 という近い大きな昔に飛び起きた森艦長は、「予想通り敵の大型爆弾か」と思って艦橋から周辺を見たが、どうも様子がおかしかった。するとその直後当直見張員が「どこかの艦の艦首が右舷第1缶室横にぶつかり、その艦はすぐ後進をかけて見えなくなった」と報告してきた。森艦長はびっくりして艦橋を駆け下り、上甲板から身を乗り出して第1缶室右舷の舷側を見たところ、直径約2mほどの大孔がポッカリと開いて海水が缶室の中に出入りしていた。これを見た森艦長は直ちに総員を防水部署に就けるとともに、「その艦はどの方向からきたか?早く相手の艦名を聞け!」と信号員に命じた。
      このとき、血生臭い一陣の微風が暗夜の中、右後方の風上から森艦長の方に漂ってきたため、即座に「相手は被爆した屋代ではあるまいか?」と呟いた。やがて発光信号をたたいていた信号員は、相手の艦名が屋代であることを告げた。予感は適中し、深夜の上甲板で全身が氷で包まれたようにゾッとした森艦長は、対空戦闘で戦死した屋代艦橋員の亡霊が、艦長を先頭にして縦1列となって挨拶に来てくれたのではないか?と思い、右舷斜め後方に頭を下げ、目に見えぬ暗夜の彼方の、今しがた血の臭いが流れてきた風上側の屋代に向かって、「申し訳ありません、お許しください、さぞ御無念のことでしたでしょう」と謝り続けたという。
      何も屋代に謝らなくてもいいかもしれないが、昼間の戦場で目の前で、しかも屋代が朝顔の身代わりになってくれたことで、戦友を殺し私達だけが生き残ったという事実だけで大きな罪を感じ、ただただ頭を下げて謝るより他に適切な挨拶を見い出す心のゆとりがなかったからだと森艦長は回想している。
  • 翌日の夜、第一護衛艦隊司令部により関係者が呼び出されての調査が行われた。屋代からは艦長代理である砲術長と主計長他が、朝顔からは森艦長が出席し、第一護衛艦隊の先任参謀により調査は進められた。屋代の砲術長の説明によれば、艦長をはじめ艦橋にいた主要幹部を一挙に失った艦内は、極度の恐怖に陥ってしまった。そして敵空母が至近に迫っているこの高雄から、一刻も早く脱出して母港に帰り、修理して再び第一線に出ることが最善の策であると判断して航海を始めたところ朝顔にぶつけてしまったと説明した。
    それに対し、先任参謀が「たとえ故障のない鑑であっても、またこの老練な森艦長であっても、あのような真っ暗な深夜に、狭い左営軍港を夜間出港することは到底考えられないことなのだが、どうしてそんな冒険を考えたのかね?」と聞き返した。この時森艦長は屋代砲術長がなんと返答したかは覚えていないが、艦長達戦死後の艦内の空気から察するに、「明朝の日の出後には再び敵艦載機が来襲するであろうから、一刻も早く夜間脱出して日の出までには高雄からなるべく遠ざかる必要がある」と判断されたのではないか、と森艦長は想像した。
  • その後屋代乗員が朝顔へ恐る恐る詫びに行くと森艦長から「よく使われたが、これでやっと母港舞鶴へ帰れる」とお礼を言われて衝突事故についてはお咎めなしだったという。
    • なお、その後朝顔が舞鶴に帰還した時には 朝顔がまた帰ってきたと舞鶴鎮守府ではその不死身を称えたが、「実は屋代にぶつけられたんですよ」とも言えず、また船体の赤錆がいつものように酷くない*9こともいささか気の引けることであった、と森艦長は回想している。
  • 屋代の記録によれば、この時朝顔はレイテに行く予定だった、とあるが、朝顔の森艦長の回想によればレイテに行く予定が中止になって高雄へ戻ってきたところだという。
    • 森艦長の回想によれば、当時ミ29船団の護衛を終えて高雄にいた朝顔は1944年12月14日、同じく高雄にいた姉妹艦呉竹(未実装)と共に第10次多号作戦に加わってレイテに突入するよう第1護衛艦隊から命じられ、24日にタマ37船団を護衛してマニラに向かったが、途中でサンフェルナンドに目的地を変更させられ26日夜に到着。
      27日、「呉竹、朝顔のレイテ突入を中止。両艦は船団を護衛し高雄に帰還せよ」と命じられた。同日午後に呉竹は捕虜輸送船2隻を護衛して高雄へ向かうが30日にアメリカ潜水艦レザーバックの雷撃により沈没*10。朝顔は30日にマタ38船団を護衛して高雄へ向かった。途中空襲により貨物船2隻、駆潜艇2隻を撃沈されながらも1945年1月2日に無事高雄に到着していた。
  • 13日、本莊卓爾少佐を臨時艦長とした屋代は14日に朝顔らとともに門司行きのタモ37船団を護衛して門司に向かった*11
    • この時、タモ37船団を護衛する護衛艦7隻に対し高雄軍需部から「砂糖を内地に積んでいってくれないか。状況が許すなら何俵でも出す」と言ってきた。これに対し、朝顔の森艦長は以前から内地宛の最高のお土産品である砂糖を積むことは、哨戒当直員、特に見張員の心を浮き足立たせる恐れありとして、これを許可しない方針であったが、このときばかりは、もしかしたらこれが台湾から内地へ向かう船団の最終便となるかもしれないと予想されたので、しばらく考えた上で次のように交換条件を出した。
      「皆が当直中、砂糖を下げて家族に会うことを考えるようなら、艦長は1kgの砂糖も積みたくない。皆が当直中は一切砂糖のことを忘れると誓ってくれるなら、積んでいこう」
      その結果、皆艦長の心を汲んで当直中は一切砂糖のことを忘れるという約束のもとで、確か約5袋の砂糖が積み込まれたと記憶しているという。屋代についてはどうだったかは不明。
      • なお、朝顔が舞鶴へ持ち帰った台湾砂糖のお土産はまず鎮守府の関係部署を喜ばせ、次に乗員の各家庭、下宿などを喜ばせたという。
  • 門司到着後、屋代は播磨造船所で修理する予定だったが、第百二戦隊参謀の骨折りで呉海軍工廠で修理することになった。一方、朝顔は舞鶴海軍工廠へ回航されている。
    • 屋代は1月30日に呉に到着して修理を開始し2月19日に修理完了となっているが、1月25日に舞鶴に到着して修理を開始した朝顔は、第1缶室の缶の耐火煉瓦の総交換をしなければならず、修理完了に約1ヶ月はかかる見込みとなった。そして3月1日にようやく試運転にこぎつけている。 
  • 4月7日正午過ぎ、奄美大島周辺での哨戒を終えて佐世保へ向け帰投中、奄美大島西方沖で複数の水上艦を電探が探知する。この複数の水上艦は沖縄水上特攻作戦により沖縄へ向かう大和以下第一遊撃部隊と判断された。
  • 6月9日、第百二戦隊は九州および対馬海峡の北西で対潜掃討を実施することとなった。屋代は第41号海防艦と共に、木浦南東沖に割り当てられた。同日早朝、麗水湾口で対潜哨戒中、アメリカ潜水艦シーオウルの雷撃を受ける。魚雷1本が第41号海防艦の中央部弾薬庫に命中し、大爆発を起こし沈没。艦長の高橋輝藏少佐以下乗員173名が戦死した。屋代は他の哨戒艇2隻とともに爆雷攻撃を始め、続く14時間で84発の爆雷を投下したものの、シーオウルは損傷を受けなかった。
  • 8月9日早朝、羅津へ向かう輸送船団と合流し羅津へ向かうも、羅津はソ連軍機による空襲を受けているところだった。そのため行き先を雄基に変更するも、ソ連軍機が空襲を開始するのを目撃。まもなく船団に対しても空襲が開始され、屋代はソ連軍機11機を撃墜したが、機銃掃射等で戦死2名、負傷者19名を出す。結局船団は目的地を元山に変更し、10日に到着した。
  • 終戦時は元山から内地へ向かって回航中だった。
  • 戦後は機雷掃海任務に従事したのち、1947年8月29日、青島において賠償艦として中華民国政府に引き渡された。
  • 同国海軍に所属後はまず「接19」その後「威臺」と改名されたが、主機の状態が悪く放置されていた。
    • 1949年2月に国共内戦に際して青島から台湾への脱出に成功し、「正安」と改名。
  • 1950年、左営にて日本が残していった12cm砲2門を装備した。その後再び改装し、アメリカの5インチ砲2門にボフォース40mm2門、エリコン20mm8丁を装備した。
  • 1956年4月7日、臨安とともに鷺鷥島にあった中華人民共和国の砲台を砲撃。
  • 1958年、中華民国海軍の政策変更により、艦艇の一斉更新が行われることになり旧日本海軍の艦艇の大量除籍が決定。同年11月1日付けで中華民国海軍より除籍された。
  • 戦後「屋代」の艦名は海上自衛隊の掃海艇に受け継がれたが、現在は退役している。
    • 2代目「やしろ(MSC-603)」は1956年就役の掃海艇で、1972年に特務船に種別変更され、1981年に除籍された。

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*1 母港ボイスは各艦娘につき3つ割り当てられています。「詳細」ボイスは編成画面の「詳細」ボタンをクリックすることで聞くことが出来るボイスです。母港画面でも聞くことが出来ます。「母港3」ボイスは「母港画面でのクリック」もしくは「母港画面への遷移」でのみ聞くことが出来る、いわゆる「提督お触りボイス」です。編成画面での「詳細」ボタンでは聞くことが出来ません
*2 4つの基本ボイス(昼戦開始・昼戦攻撃・夜戦開始・夜戦攻撃)がありますが、各ボイスはその他の色々な場面でも使われます。各ボイスをどのフェーズ(航空戦/開幕雷撃/先制対潜/昼戦攻撃/各種CI...など)に割り当てるかは艦娘によって異なり、例えば開戦ボイスを攻撃でも使ったり、夜戦攻撃ボイスを昼戦でも使ったりします)
*3 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*4 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*5 装備ボイスは3ボイスありますが、改修/改造ボイスと共用化されています。また、ボイス3は「改修/改造」「開発」「バケツによる即時修復」「遠征出撃」「アイテム発見」ボイスと共用化されています
*6 道路趣味者の中でも特に廃道を好んで探索・調査をする人のこと。同人誌「日本の廃道」の造語で、「廃れた」を意味する英単語 「obsolete」から。
*7 ヒ76船団の輸送船はタンカー8隻、貨物船2隻でシンガポールを出港していたが、レイテ沖海戦の準備やアメリカ潜水艦ベクーナの雷撃による損傷などのため馬公発の輸送船は陸軍配当船帝北丸1隻のみで、それを護衛艦4隻で護衛するというものであった。
*8 当時、高雄港は商業用の港として主に商船や特務艦が、左営軍港に海防艦や駆逐艦といった護衛艦が停泊することとなっていた。
*9 1944年11月24日に船体・機関の整備を終えて舞鶴を出港しており、わずか2ヶ月で母港の舞鶴に戻っている。
*10 捕虜輸送船2隻は無事に高雄に到着した。
*11 2月15日に本莊少佐は正式に艦長に着任。