陸奥

Last-modified: 2026-05-17 (日) 08:22:26
No.002
長門型戦艦2番艦の陸奥よ。よろしくね。あまり火遊びはしないでね…お願いよ。陸奥(むつ)長門型 2番艦 戦艦
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久80火力82 / 99
装甲75 / 89雷装0
回避24 / 49対空31 / 89
搭載12対潜0
速力低速索敵12 / 39
射程3 / 39
最大消費量
燃料100弾薬130
搭載装備
341cm連装砲
314cm単装砲
3零式水上偵察機
3未装備
改造チャート
陸奥陸奥改(Lv30) → 陸奥改二(Lv89+改装設計図)
図鑑説明
長門型戦艦の2番艦として生まれた陸奥よ。
もちろん、世界のビッグ7の一艦になるわね。
え?主砲火薬庫爆発事故?
まあ、隠してもしょうがないわね。今度は大丈夫よ!

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:佐倉綾音、イラストレーター:しずまよしのり (クリックするとセリフ一覧が開きます)

CV:佐倉綾音、イラストレーター:しずまよしのり

定型ボイス一覧

イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 



追加
入手/ログイン長門型戦艦2番艦の陸奥よ。よろしくね。あまり火遊びはしないでね…お願いよ。××編集
長門型戦艦2番艦の陸奥よ。提督、今日もよろしくね。あまり火遊びはしないでね…お願いよ。××編集
改長門型戦艦二番艦の、陸奥よ。提督、今日もよろしくね。
あまり火遊びは……ん? 本当に? うふふっ、じゃあ安心ね。
××編集
母港*1編集
母港1詳細なにか用なの?××編集
あらあら、私に何か用なの?××編集
いいわよ、お姉さんがやってあげる。××編集
母港2なに?××編集
だから、私の中で火遊びはやめてって言ったでしょ!ねぇ、聞いてる?××編集
でも、あまり火遊びは止めてって……うん、よろしい♪××編集
母港3だから、私の中で火遊びはやめてって言ったでしょ!ねぇ、聞いてる?××編集
だから火遊びはしないでっていったでしょ? ……え、本気なの? ふ~ん。お姉さん、知らないぞ?××編集
そう。火遊びじゃなくて本気なんだ。じゃあ仕方ないわね。いいの? お姉さんも、本気になっちゃうぞ。××編集
ケッコンカッコカリ提督、なんでそんなに第三砲塔付近を見つめているの? 見るならこっちを見てよ。編集
ケッコン後母港あなたのために、今日もがんばっちゃおうかな?×編集
長門。あ、うぅん。提督。あなたのために、今日はお姉さん、頑張っちゃおっかな。う・そ♪ウフフ××編集
放置時あら、あらあら。この陸奥を一人にさせるなんて……。あらあらあら!×編集
編成出撃編集
編成戦艦陸奥、出撃よ!×編集
戦艦陸奥、抜錨! 出撃します!××編集
出撃私の出番ね。いいわ、やってあげる!×編集
長門、いい? 私達の出番よ。艦隊出撃! 前へ!××編集
戦艦陸奥、出撃よ!×編集
戦艦陸奥、抜錨! 出撃します!××編集
開戦・攻撃*2編集
戦闘1昼戦開始敵艦発見!全砲門、開け!編集
戦闘2昼戦攻撃選り取り見取りね、撃て!編集
戦闘3夜戦開始さ~て、止めを刺すわよ。編集
戦闘4夜戦攻撃第三砲塔、何をしてるの?×編集
第三砲塔を敵に指向。逃さないわ、撃てっ!××編集
特殊攻撃【長門、いい? いくわよ! 主砲一斉射ッ!】*3編集
号令長門、いい?行くわよ!第一戦隊、一斉射!てーっ!××長門改二編集
長門、任せて!てーっ!長門改編集
戦艦陸奥、突撃するわ!主砲一斉射!てーっ!長門改、長門改二以外
編集
戦闘時ステータス*4編集
小破やだ。当てたのね。編集
ふう~ん、少しはやるじゃない編集
中破/大破ば、爆発なんてしないんだから…もう。編集
轟沈戦いで沈む…何でだろう…あまり…悔しくはないわ…編集
戦闘終了*5編集
勝利MVPあら、私?ふーん、そんなこともあるわよね。悪い気はしないわ。編集
旗艦大破ふう~ん、少しはやるじゃない編集
装備・改修*6編集
装備1改修/改造あら、いいのに。別に何も出ないわよ。編集
装備2ふーん。悪くはないわね。ありがと。編集
装備3改修/改造/開発/バケツ/遠征/発見あら。あらあら。編集
その他編集
帰投艦隊が帰ってきたわね。編集
補給ふーん。悪くはないわね。ありがと。××編集
あ~ら、ありがと。×編集
入渠(小破以下)ちょっとお化粧直してくるわね。編集
入渠(中破以上)服が傷んでしまったわ。丁寧にお願いね?編集
建造完了新しい艦ができたみたいね。編集
戦績表示提督に御伝言よ××編集
情報? 待ってて、お姉さんが取ってきてあげる。×編集

各ボイス項目の詳しい説明はこちらをご覧ください


時報ボイス一覧

時刻セリフ改装段階備考追加


 
 



 



追加
00日付が変わったわ。あらあら、今日は私が秘書艦担当ね。いいわ、お姉さんに任せておいて。夜は長いわ。×編集
01マルヒトマルマルよ。静かね。あんなに昼間は騒がしいのに…不思議ね。×編集
02マルフタマルマルよ。お茶でもいれる?コーヒーの方がいい?そう?×編集
03マルサンマルマルよ。コーヒーおかわりはいる?ん、待ってて。少し濃い方がいいかしら。×編集
04ん~!ふぅう!マルヨンマルマルよ。もうすぐ朝ね。あなた、少しだけでいいから休んで。大丈夫、私が見ておくわ。×編集
05マルゴーマルマルよ。うん、いい朝!あなたもコーヒーでいい?淹れてくるわ。ん、待ってて。×編集
06マルロクマルマルよ。総員起こしをかけるわね。いいの。あなたは休んでいて、ね?長門たちを起こしてくるわね。×編集
07マルナナマルマルよ。提督、長門、おはよ。朝食はこちらに用意したわ。陸奥モーニング、召し上がれ。×編集
08マルハチマルマルよ。お昼用におにぎりを作っておくわね。長門はシャケとおかかっと。提督はなにがいい?うん?×編集
09マルキューマルマルよ。あらあら、長門、あなた張り切りすぎよ。ペース上げすぎないで。ねぇ?提督。×編集
10ヒトマルマルマルよ。長門、これを持って行って。お昼のおにぎりよ。いっぱい握っておいたから。提督の分も、ね?×編集
11ヒトヒトマルマルよ。やっぱり海は気持ちいいわね。…ん?提督どうしたの?私の顔になにかついてる?×編集
12ヒトフタマルマルよ。お昼にしましょう。はい、これが提督の分。いっぱい握りすぎちゃった。う~ん、無理はしないで。×編集
13ヒトサンマルマルよ。提督、食後のお茶のお代わりはいい?そう?了解よ。午後も頑張りましょうね。×編集
14ヒトヨンマルマ…あら、加賀さん!お化粧変えた?え?私?私はいつもどおりよ…そぉ?あらあら♪×編集
15ヒトゴーマルマルよ。そうだ!美味しい京都のカステラがあるの。提督どうかしら?ん、了解。お茶も淹れるわね。×編集
16ヒトロクマ…あら、七駆の子達。どうしたの?…あらあら。それは、違うわ。大丈夫。それに私は、ホラ。元気よ。×編集
17ヒトナナマルマルよ。提督、見て。夕日。綺麗ね…え?私?あぁもぅ!何も出ないわよ!…でも、嬉しっ♪×編集
18ヒトハチマルマルよ。夕食は、提督が?うぅん私がやるわ。任せておいて。何か食べたいものはある?×編集
19ヒトキューマルマル。お待ちどうさま。今日は陸奥特製の洋食ディナーコースを用意したわ。お酒は、赤ワインでいい?×編集
20フタマルマルマルよ。どぉ、私の腕前は。え?大和にも負けないですって?もぉ、本当に何も出ないわよ!×編集
21フタヒトマルマルよ。あら、ネルソン。どぉ?慣れた?あらあら、何か困ったことがあったら言ってね。×編集
22フタフタ…あら、赤城さん!え?差し入れ?ありがとう。ね、よかったらこれで一杯どぉ?たまには。うん♪×編集
23フタサンマルマルよ。ねぇ提督。世の中には本当のことがわからないってことも、あるのよね。不思議ね。今日はお疲れ様。提督も少し休んで。おやすみなさい。×編集


季節ボイス一覧


イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 



追加
桃の節句編集
春の訪れ長門、第一戦隊でお花見はどう? 大和や武蔵も呼んで。ね、楽しそうでしょう? 私、提督に相談してくるわね♪編集
ホワイトデーあら? チョコのお返し? 嬉しいわ♪編集
編集
春本番長門、第一戦隊でお花見はどう?大和や武蔵も呼んで。ねえ楽しそうでしょ。私、提督に相談してくるわね。編集
梅雨ああ長門、出かけるの? この傘を持って行って。今日は降り続けるわよ、雨。編集
初夏長門。この浴衣どう? おかしくない? そう、よかった♪ 提督、お待たせ。ふふ、ありがと♪編集
なぁに? 長門ったら。 ……ビーチバレー? いいけど、貴女、ルール知ってるの? ……あらあら。仕方ないわね、任せて♪編集
盛夏編集
夏祭り編集
今度の戦いは少し大きそうね。私達も全力出撃かしら?準備しなきゃね。お化粧も少しだけ気合い入れなきゃ。待ってて!2016編集
秋刀魚秋刀魚漁支援任務、了解よ。あらあら♪ 長門、あなた張り切ってるわね。漁、やりたかったの? そう♪編集
晩秋編集
ハロウィン編集
秋のワイン編集
編集
師走編集
クリスマス編集
年末さあ、年末は何かと忙しいわね。大掃除は早めに済ませてしまいしまょう。うふふ。長門? 貴女はこの辺りをお願いしていいかしら。編集
新年提督、あけましておめでとう。今年もよろしくね?あぁ、そ、長門も大事にしてあげてね。彼女、意外と不器用でしょ?編集
節分え?私も鬼役なの?いいけど… そ。これは鬼の角じゃないの?え?長門が全開でノリノリなの?仕方ないわね。編集
バレンタインはーぁい提督。少し大人のチョコレート、あげるわ。大事に食べるのよ、いーい? うふふっ♪2016編集

二周年記念編集
三周年記念あら、あらあら! 三周年なの? すごいわね、続くものね! 少し驚きだわ。……ああ、そんな意味じゃないのよ。いい意味で、ね♪-編集
四周年記念編集
五周年記念編集
六周年記念あら、あらあら! 六周年なの? すごいわね、続くものね! 長門、提督。これからもよろしくおねがいね。編集
七周年記念あら、あらあら! 遂に七周年なの? これは少し驚きね。長門、提督。いつもありがとう。これからもよろしくね。編集
八周年記念あら、あらあらあら! まさかの八周年なの? やるわね。長門、提督。ありがとう。これからもずっと、よろしくね。編集



イベント名編集


内容編集



ゲームにおいて

  • 長門型戦艦の二番艦にして世界のビッグ7の一艦。図鑑No.は長門に次ぐNo.2。
    • レア度は現状二番目に高い6を誇っている。が、長門に比べるとドロップの可能性のある海域がずっと多いため、入手し易い部類に入る。
    • 運の低さでネタにされ易い彼女だが、ドロップ入手が難しめの長門と異なり、現実的な入手難度で最強クラスの能力という初心者にはかなり頼りになるお姉さんである。
      • 運以外のスペックは長門と完全同一なので、確かに長門の下位互換と言われればそうなってしまうが、前述通りの入手難易度差でトントンだろう、序盤で入手すればさっそく主力を任せたい。
  • 陸奥改になると51cm連装砲試製51cm連装砲が装備可能となる。これは大和型、長門型改/改二のみが装備できる主砲である。

  • 長門と並び、通常の戦艦では最強格なのだが、運が異常に低い。これは史実で爆発事故により沈んだためと思われる。
    • 大和武蔵という大和型実装により戦艦最強の座はそちらに譲った。が、それでも長門型の火力と耐久力は一級品。あちらほど燃費が極悪でないため運用しやすいのが最大の強みといえる。
    • 被害担当艦と呼ばれた翔鶴でも10→12、不幸姉妹こと扶桑/山城ですら5→10と改造すれば人並みにはなれるのに、陸奥は3→6。圧倒的である。
      大鳳の実装により最も不幸な艦娘ではなくなった。
  • 運ステータスの効果に関しては不明な点が多かったが解明されつつある。戦艦としてはあまり重要でない夜戦カットインの発動率だけでなく、命中回避にも若干の影響があることが検証により判明している。
    • 姉の長門との運の差による命中の差はおよそ4%(√運32x1.5-√6x1.5)。命中の低い連合艦隊時は地味に響くだろうが、この差をどう捉えるかは提督諸兄の判断にお任せする。
  • 金剛型と同じ感覚で使っていると弾薬資材が払底するのでご利用は計画的に。もっとも最近の戦艦全体で比較すれば燃費はまだ良い部類である。
  • 性能比較
    No艦名改造Lv耐久装甲回避火力雷装対空対潜索敵搭載速力射程燃料弾薬
    002陸奥改3090986999099049612低速100160
    021金剛改25758969940790491212高速90120
    149金剛改二75829473980870491512高速100125
    • 2014年2月26日のアップデートで金剛型改二は燃費が上方修正され、長門型より良好な数値となった。
    • 2014年9月26日で実装されたBismarck dreiが、僅差だが長門型改を上回る悪燃費となった。が、あちらは空前の3段階改造。
    • 姉ともども高コスト。特に弾薬消費量がキツめ。計画的に運用しないと他艦娘達の作戦行動や建造計画に支障をきたす。加えて提督の毛根にもダメージを及ぼす
    • 2014年10月24日のアップデートで装甲上限と運が上方修正された。
  • 一式徹甲弾が入手できる「第二戦隊」の編成出撃任務に必要である(陸奥改で可)。

  • コンプティーク2019年3月号にて、実装に先駆ける形で陸奥改二のイラストが公開され、2019年2月27日アップデートで実装された。

期間限定グラフィック

  • 2016年9月16日のアップデートで秋季限定グラフィックとして【浴衣mode】が実装された。
    • コンプティーク2016年10月号の表紙を飾ったイラストとポーズが異なる差分となっている。同時に実装された限定ボイスでは何時になく真剣味のある口調で2016秋イベントに言及している。
    限定グラフィック:浴衣mode

    限定グラフィック:浴衣mode
    今度の戦いは少し大きそうね。私達も全力出撃かしら?準備しなきゃね。お化粧も少しだけ気合い入れなきゃ。待ってて!

  • 2024年1月7日の【七草粥】小オンメンテで【開運晴着mode】が実装された。陸奥の新規季節グラフィック実装は実に約8年ぶり。
    • 同年1月3日にパシフィコ横浜で開催されたC2機関「艦これ」公式新春Live!2024にて、スタンディパネルとして先行お披露目された。なお、同ライブで登場した熊野丸の晴着modeも【新春祝酒mode】として同日実装されている。
    • 長門とお揃いの和洋折衷のコーディネイトだが、牡丹柄の振袖とファーの襟巻きでよりゴージャスな装い。手には和傘。
    限定グラフィック:晴着mode

    限定グラフィック:晴着mode
    提督、あけましておめでとう。今年もよろしくね?あぁ、そ、長門も大事にしてあげてね。彼女、意外と不器用でしょ?

小ネタ

  • 陸奥は長門型戦艦の2番艦として、1918年(大正7年)6月1日に起工された。
    • 長門型戦艦は八八艦隊計画の第一段階である、八四艦隊案の第一陣として計画されており、陸奥も「第二号艦」として、大正六年度計画で予算計上されている。
    • ⇒詳細についてはこちらの「日本海軍の主力艦建造史~八八艦隊計画1.2」を参照されたし。
  • 名の由来は、本州の東北端にあり津軽海峡を有する青森県などを含む旧国名から。京から見て文字通り陸の奥*7。西南端にあり関門海峡を有する山口県の旧名「長門」と対になっている。
    • 奈良時代に全国の旧国の境界が定まってから江戸時代まで、「陸奥国」は現在の東北地方の山形・秋田*8*9以外の全域という広い範囲を占める国だったが、明治初年に陸奥国は陸奥国・陸中国・陸前国・岩代国・磐城国に分割され、その後の廃藩置県を迎えている。
      • なお、分割以後の陸奥国は「りくおう」と読むのが正式であるが、一般には分割前と同じ「むつ」と読まれていた。
  • 陸奥の艦内神社は、分割以後の陸奥国で最も由緒のある神社である岩木山神社*10から分祀を受けている。
  • 予算計上時の話だが「もっと主砲を増やせないのか」という用兵側の要望に対して、設計を担当した平賀譲氏のアイデアで傾斜装甲・新型ボイラーの採用・ボイラー室区画の短縮を行い、長門と同排水量で連装砲塔1基を増載する案が立てられた(副砲と搭載砲弾数も減少)。その名も「陸奥変体」。変態じゃないよ。
    • しかし改正による竣工の遅れや同型艦による運用の兼ね合い、何よりも艦内が窮屈になりすぎる事が考えられて廃案となった。ただその後も陸奥の強化を諦めきれない海軍は、三連装砲塔と連装砲塔を混載した主砲10門艦という案も検討している。だが三連装砲塔の開発が陸奥の建造に間に合わないため、結局は没となった。
      • そして時を超え、この陸奥強化案がゲームにおける改長門型戦艦こと長門改二へと派生したのであった。
  • 1921年就役と他の艦娘に比べて割りと古く、お姉さんキャラなのはそのため*11
    --なんだBBAじゃんって思ったそこの提督。私が殺ってあげるから、一歩前へ出なさい!
  • 横須賀海軍工廠にて1920年5月31日に進水。遠方の呉で建造された長門と違い、陸奥は東京に近い横須賀で建造されたため、進水式には大正天皇皇后である貞明皇后や皇太子裕仁親王(昭和天皇)、秩父宮雍仁親王、加藤友三郎海軍大臣以下、多数の皇族や政財界・陸海軍の主要人物が参列し、非常に華やかなものとなった。
    • 来賓の一人である実践女学校創立者の下田歌子は、陸奥の巨体が静々と滑走を始めたのを見て感極まり泣き崩れたという。

竣役のドタバタ劇「ワシントン海軍軍縮条約」

  • 就役は1921年10月24日ということに表立ってはなっているが、実際は建造途中の1921年(大正10年)より行われていたワシントン海軍軍縮条約における「未完成艦は廃艦とする」との条件に接触しないよう急ごしらえで完成させたため。「測距儀など備品装備が一部未搭載」「外見上完成しているように見せるため一部の外版を予定のものではなく不良鉄板を使用」「竣役前の公試試験を省略」といった荒業を使ってこの日に完成をこじつけており、実際はまだ未完成の状態であった。まあそれでも完成具合は85%ほどであり、「おおかたは完成している」という状況ではあったのだが…
    • 因みにこの「完成度85%」という見立て。アメリカの新聞記事に記載された見立てだったようで*12、実は陸奥が未完成であることは普通に海外にバレていたりする。
      最終的には陸奥の保有は認められたが、代わりにアメリカは同じ16インチ砲搭載艦で廃棄が予定されていたコロラド級2隻*13の復活と、元々16インチ砲搭載戦艦の建造が計画されていなかったイギリスの16インチ砲搭載戦艦2隻の建造承認(後のネルソン級戦艦)が認められることになる。
      これにより日本とイギリスが2隻ずつ、アメリカが3隻の計7隻の16インチ砲搭載戦艦が建造される事になり、この7隻を「世界のビック7」と紹介する事もある。
      • 因みに16インチ砲搭載戦艦の建造を追加承認されたアメリカ、イギリスだが、保有総トン数は変更されないため、代わりに旧式の戦艦を追加廃棄する事になっている*14
  • イギリス・アメリカの反対を押し切る形で陸奥の保有は認められたが、代償としてアメリカがコロラド級1隻のところ*153隻の保有、16インチ砲戦艦を保有していなかったイギリスがネルソン級2隻の新造が認められてしまった訳で、実情としては日本海軍は更に不利になったような状況であった。日本側の陸奥竣役を固執する態度に批判的だった山本五十六は「陸奥一隻のためにアメリカとイギリスを強くしすぎた」と皮肉を言っている。
    • もっとも、条約会議前での三国の主力艦戦力と、その後の条約締結による三国の主力艦戦力を比較すると以下の通りとなり、実は一番得をしているのは日本海軍であり、イギリス海軍が一番馬鹿を見ている。
      締結前の主力艦*16保有数建造途上の主力艦数建造中含む主力艦隻数での比率条約締結による保有数*17同総トン数総トン数での比率
      イギリス30隻4隻2.2620隻52万5000t5
      アメリカ20隻11隻2.0618隻52万5000t5
      日本11隻4隻10隻31万5000t3
    • こうしてみるとわかるが、条約前にはアメリカ・イギリスと日本との主力艦の戦力比は2倍以上であった。質的にはイギリスの保有艦には弩級戦艦が一定数ある一方で、日本側は元々弩級戦艦は2隻しか保有しておらず、残りの9隻は全て超弩級クラスなので、日本側の方が総数の中で超弩級戦艦・巡洋戦艦が占める割合が大きく、既存艦で廃棄したのはその弩級戦艦1隻(摂津)であったため、結果的には条約前との隻数は大差なく、質的にはむしろ向上している。
      条約会議時に日本側が「対英米戦力比7割」を主張してイギリスやアメリカと衝突し、結果6割強となった事で海軍内で議論となり、果ては「艦隊派」「条約派」といった派閥を形成して対立する一因ともなったが、この軍縮条約を経て日本海軍が置かれた状況の実態は「戦力比2倍以上だったのを6割強にまで持ち込むことができた」というのが正しい。
      • 一番の戦力減は前述の通りイギリス海軍であり、これによりそれまでは「海軍力第一位」であったのを、アメリカと同率である事を内外に認めさせられる結果ともなった。だが元々第一次世界大戦後の国力低下や被った被害への復興に国力をそがれ、世界一位の海軍力」を保持する事さえ国力をひっ迫させる要因となりつつあった。イギリス側の条約会議参加はこういった事情もあっての事であり、結果的には良かったのかもしれない。

竣役後の陸奥

  • 竣役後の陸奥は長門と共に第一戦隊を編成、1924年(大正13年)9月には廃棄艦「安芸」(薩摩型戦艦)に対する実弾による射撃訓練を実施し、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が金剛艦上にて親閲している。
    この他にも貞明皇后を静岡県沼津港にまで送り届ける際の御召艦を務めたり、年一度行われる海軍特別大演習でお召艦を務める等、海軍最新鋭の戦艦として陸奥は公務に努め、それもあって国民の親愛度では長門おも上回っていたという話もある。ワシントン軍縮条約で廃艦の危機にあった際に連日大々的に報道されたことで、広く一般にその名を知られていたからとも?
    • どのぐらい陸奥が国民から愛され親しまれたか、吉田俊雄元海軍中佐はこう書き残している。
      「『軍艦の絵を描いてごらん』というと、子供たちは決まってヤグラマストをまず描き、まっすぐな二番煙突との間にグウッと横倒しに一番煙突を曲げて、*18
      これムツだよ、いちばん強い軍艦なんだ、胸ふくらませていったものだ。
      ムツはたしかに彼らの夢をそだてた。そして私も、その夢に育てられた一人だった。ようし、大きくなったら海軍に入ろう、ムツに乗るんだ。
      ・・・ムツに乗ろうと思って海軍に入ったものが私一人でなく、いや、ほとんどであることを知って、びっくりした」
    • 「陸奥ト長門ハ日本ノ誇リ」とカルタに詠まれる程にどちらも当時の国民に広く親しまれていた。
  • 1934年から1936年の間に大改修が行われた際、主砲塔は軍縮条約で廃棄となった戦艦土佐と、航空母艦に改装された加賀に搭載予定であった新型のものに交換された(長門も同様の工事を受けている)。
    口径は同じながら、この改良で大仰角がかけられるようになり大幅に砲戦距離が延長されたほか、砲塔自体の防御力も大幅に向上した。
    • なおこの改修で降ろされた陸奥の主砲のうち、第四砲塔は海軍兵学校の地へ教材として移設され、同地が海上自衛隊第一術科学校となった現在でも見ることが可能である。
      通常の基地見学では見学コースから外れているため遠くから眺める形だが、毎年春の構内一般公開時には近くでその威容を見ることができる。
      また近年は応募制で特別広報が実施され、人数限定で内部の公開が行われている。
      • なお、外観からは無傷に見えるこの砲塔だが、戦後イギリス軍の手により内部が爆破処理されており、補修も行われていない。そのため上記特別広報などで内部を覗くと、歪んだり傷ついた鋼材や爆風で浮いてしまった天蓋装甲板など、その傷跡が歴然と残っている。
      • 因みにこの旧・第四砲塔、怪談ネタである江田島海軍兵学校七不思議の一つとして
        「日没後、下部ハッチから海軍時代の煙管服を着た人影がこちらをじっと覗いている」
        といった話が昔から言い伝えられている。不気味ではあるがこれといって悪さはしないらしい。しかし爆沈時の砲塔と違い大改装で取り外した砲塔であるため、元となる曰くは特にないはずである。風評被害。*19
      • 片や、爆沈時に大勢の死者を出し戦後サルベージされた曰く付きの新・第四砲塔の一部は高野山奥の院に慰霊碑として安置されている。
      • ちなみにこの新・四番砲塔の砲身は長年船の科学館に展示されていたが、2016年、東京オリンピック開催に伴うお台場周辺の再開発のために横須賀のヴェルニー公園に移設される事になった。
        「戦艦陸奥4番砲里帰り支援」と称したこの企画によって、ようやく横須賀に陸奥の里帰りが果たされる事となった。
        現在、移設は完了し、鎮魂の碑とともに安置されている。
    • この改修で長門型の2隻は艦容を大きく一新し、艦橋はより武骨な櫓状のものとなり、特徴的な湾曲煙突は後方の直線状の煙突と共に1本に纏められている。
      機関は重油専缶のものに改められ速力低下が微小ながら発生(26.5ノットから25.8ノット)したが航続力は16ノットで5,500浬だったのが10,600浬とほぼ倍加している。防御力も装甲が各所で強化された上に舷側に巨大なバルジを設けて水線下防御もより強化されている(むしろこれだけの大きさのバルジを設置しながら速力低下がこの程度であるのは脅威的ですらある)
    • なお搭載していた水上・水中魚雷発射管8門を撤去している一方で、水上機運用のためのスペースと設備を新設している。
      かつては彼女も魚雷を扱っていた筈だが、4コマ60話では競っていた日向と共に魚雷の扱いに慣れていないとされている。
      日向も改装前は魚雷を搭載していた筈なのに…爆破オチが優先されたのか?*20

開戦後

  • 1941年(昭和16年)12月7日、太平洋戦争が始まると陸奥は連合艦隊直属である第一戦隊を旗艦長門共に編成し、本土で待機しながら決戦に備えていた。だが、開戦を告げた「真珠湾攻撃」で米戦艦部隊が南雲機動部隊の艦載機による空襲で壊滅した事で「想定していた戦う相手」が居なくなる事態となり、半年以上の長きにわたって他の戦艦*21共々桂島泊地てただ遊弋するだけの状況が続いた。
    • 陸奥の初の作戦参加は1942年(昭和17年)のミッドウェー島攻略作戦で、その頃は長門から連合艦隊(及び第一戦隊)機関を引き継いでいた大和の指揮のもと、主力部隊の1隻として南雲機動部隊の後方から進撃したが、作戦は先行していた南雲機動部隊の空母4隻が沈んだうえに同島の攻略に失敗し、こういった事態に後方から進撃する陸奥らは何ら寄与することはなかった。
      • 結局陸奥らも撤退する事になったが、その道中で南雲機動部隊の残余と合流、陸奥は第四駆逐隊が収容した空母赤城の生存者を収容している。
  • ミッドウェーでの大敗後、日本海軍は戦力の再編に取り掛かるが、そうした中で「広域に展開する海軍艦隊を指揮する連合艦隊司令部が座乗する第一戦隊に、主戦力を集めていては前線に何かあったときにそれを前線に投入しずらい」*22という問題もあり、7月14日付で第一戦隊は解隊となり、旗艦大和は連合艦隊直属となる。残された長門と陸奥は航空戦艦への改装に備えて第二戦隊から外れた伊勢日向と入れ替わるような形で第二戦隊へ移動となる。
  • 1942年8月7日よりはじまったガダルカナル島への米軍侵攻を受け、日本海軍は新編した機動部隊(第三艦隊基幹)と前進部隊(同第二艦隊基幹)を同方面に向けて進出させる事にした。だが第二艦隊所属となっていた第三戦隊の金剛榛名がこの時点で整備中で即応できない状況だった。
    そこで陸奥に急遽前進部隊に加わり前線へ出動する事となる。陸奥にとっては待望の前線出動であり、乗組員達は念願の前線出撃に喜び、前祝いをしたという。
    • 8月11日、前進部隊は日本本土より出撃し、17日にトラック諸島に到着、補給等を受け21日にソロモン諸島方面に出撃、24日から始まった「第二次ソロモン海戦」に参加する。
      だがこの海戦での陸奥は全くいいところはなかった。高速の重巡部隊が多くを占める前進部隊の進撃に、25ノット台が最大速力の陸奥は足手まといとされ、身辺警護の駆逐艦(第2駆逐隊の村雨五月雨春雨)を付けられて後方に残されてしまった。結局、陸奥に課せられたのは駆逐艦たちへの給油というタンカーまがいの仕事だけだった。いざ決戦、戦艦の実力を見せつける時と勇み立っていた陸奥乗員たちの失望と落胆は、傍で見ていても気の毒なほどだったという。
      • なお第2駆逐隊に護衛されて第2艦隊から分離された陸奥は、8月27日に艦隊に接触するアメリカ軍飛行艇に対し、主砲を発射している。驚いた飛行艇は爆弾を投棄して退避したという。これが陸奥における唯一の実戦経験である。*23
  • こうして散々な結果に終わった陸奥の初陣だが、その後陸奥はトラック諸島に戻ると前進部隊から外され、連合艦隊主隊に配属され居候のような状態となる。この時の主隊の編成は連合艦隊旗艦として「前線の作戦指揮」のため出動してきた大和と、使い道のない「重雷装巡洋艦*24」として持て余されていた第九戦隊で編成されており、明らかに「前線投入など想定していない部隊」であった。
    • 陸奥はそのままの状態で以後行われた南太平洋海戦や第三次ソロモン海戦などには参加せず、時には搭載する燃料を前線に向かう艦に分けたり、食料を補給したりしていた。そのためこの頃の陸奥を「燃料タンク」だの「艦隊旅館」という将兵もいたという。また別の艦の人事異動で一時的に科長に欠員が生じた時に陸奥の科長が兼務したり、戦隊が壊滅してその解隊手続きをする場所として陸奥が利用されたり等、事務手続きを手伝う事例も発生している。そうした中の1943年1月7日になって陸奥は本土に帰還する。結局「いくさ働き」は何もできないままの前線からの帰還だった。

陸奥爆沈

  • 1943年6月8日、この頃の陸奥は桂島泊地に停泊していた。この日は早朝から雨が降っていたがそれも午前中にはやみ、風もなく霧が泊地を覆っていて視界が悪い状況だった。
    • 陸奥の西南方向800m~1㎞程の位置に停泊していた扶桑乗員の証言では、一番近くにいる陸奥の姿も朧げにしか見ることが出来ない程の視界の悪さであったという。
  • 陸奥は旗艦ブイに係留されており、周囲には扶桑の他龍田、若月、玉波などが停泊していた*25が、午後に呉から戻ってくる姉の長門にブイを譲る作業*26が控えていた。
    また甲種予科練第十一期練習生が艦隊実習のため、この日各艦に乗艦することになっていたが、陸奥にも午前11時30分頃に152名(教官含む)が乗艦していた。
  • この時期扶桑の艦長が交代となり、新たに「鶴岡信道」大佐が着任した。彼は陸奥艦長の「三好輝彦」大佐とは兵学校43期の同期で前日の7日に着任したばかりだった。鶴岡は早速陸奥の三好を表敬訪問しており、三好もこの日の午前中に扶桑を訪れ、鶴岡と旧交を温めていた。
    • 鶴岡は三好を昼食に誘ったが、前述の通り午後から陸奥と長門の位置を交代する作業があったことから三好は艦に戻ることにし、親友とまたの再会を約束して正午前に陸奥に戻っていった。そしてそれが鶴岡の見た親友の最後の姿となってしまった。
  • 12時15分ごろ、陸奥では昼食も終わり「煙草盆出せ」の命令があって休憩時間となっていた。他艦でも同様で扶桑でも食事後の休憩となっており、鶴岡も艦長室で昼食をとってくつろいでいた。ちょうどその時、泊地に大轟音が響いた。
    • 爆発したのは陸奥だった。生還した陸奥乗員の話では陸奥の三番~四番砲塔の間付近から突然煙を噴きあがり、その後大爆発を起こしたという。その爆発はすさまじく360tもの重量がある三番砲塔が艦橋と同じ高さにまで吹き飛んだという証言もある。
      爆発により船体は爆発箇所で寸断され、三番砲塔より前の艦の主要箇所は寸断からほどなくして転覆沈没した。艦尾部分は夕方17時頃までは浮いていたが日没後に沈んでいった。
      生還したのは極わずかで、乗員1,474人中353人しかいなかった(この中には午前中に実習の為乗艦していた甲種予科練練習生および教官28名含む)。そしてこの中に三好艦長の姿はなかった。
      • 艦長の遺体はその後の調査で艦長室で発見された。遺体は扶桑に収容され扶桑の軍医長による司法解剖の結果遺体は海水を殆ど飲んでおらず、爆発の衝撃で昏倒した際の頚椎骨折による即死と診断された。変わり果てた親友と再会し軍医長からそれを聞いた鶴岡は、「苦しまずに死んだのがせめてもの救いであった」と戦後証言している。
  • 大爆発を起こした陸奥ではあったが、朝からの雨で霧がかかっていたこともあり、爆発を目視できたのは近くに停泊していた扶桑だけで、8㎞先にいた龍田に座乗していた第十一水雷戦隊司令官の木村進少将は昼食中に爆音を聞き、外に出たが霧の上に立ち上る爆煙が見えただけで陸奥の姿を直接は見ていなかった*27。小黒神島*28付近を航行中だった長門では「砲撃訓練の音」だと誤解している。
    扶桑にしても確認できたのは爆発音と噴煙だけで、陸奥の沈む姿を直接目視は出来なかったようである*29。実際扶桑では直後に戦闘配置が下令されるも救助作業についてはすぐには命令は発令されなかった。その後陸奥搭載の第一水雷艇が接近してきて陸奥爆沈を伝えた*30事で状況を把握し、各隊へ「陸奥爆沈す」の一報を発信。これが全軍に陸奥の悲劇を伝える第一報となった。
    • なお長門の乗員の中には目撃したと証言している人*31もいるが、当時長門は前述のように小黒神島付近を航行中*32であり、視界の悪かった当時の状況では目視するのは不可能である。当時陸奥爆沈後の救難作業指揮を務めた松下喜代作技術大尉(終戦時少佐)が戦後に纏めた資料記載の爆発時の周辺図を見ても、爆沈時に近くにいた扶桑で距離は800m*33の距離があったが、それでも扶桑の乗員は陸奥の姿自体は直接目視は出来ておらず、噴煙を目撃しただけで火柱の目撃も出来ていない。それよりもはるか遠方で航行していた長門が目撃できた可能性は非常に低い。また13時泊地到着予定だった長門の実際の泊地到着は爆発から2時間以上経過した14時30分頃だが(なぜそこまで遅れたのかについては後述)、停泊した位置は扶桑の更に西方2㎞の位置である。仮に「爆発時に近くにいた」という証言が正しかったとしても、長門は陸奥爆沈地点から約3㎞の地点までしか近づいていない。扶桑ですら直接視認できなかった陸奥爆沈の状況をその3倍近く遠くにいる長門が目撃できたとは考えずらく、目撃したという話は記憶違いの可能性が高い。
  • 扶桑が即座に「ムツバクチンス」と急報を発したことで各艦も陸奥の異変を知って急行して扶桑に続く事で救助作業が本格化した。
    • 呉から接近していた長門は12時20分頃に扶桑からの報告を受けると逆に海域から離脱する判断をしている。これは陸奥の爆沈を「敵潜水艦からの雷撃」と判断し、旗艦であり第一艦隊司令長官の清水光美中将ら司令部一同が座乗している長門を、敵潜水艦のいる危険な海域から遠ざけるという艦長久宗米次郎大佐の判断だった。また座乗していた第一艦隊司令長官清水光美中将は扶桑に対して陸奥に関する情報発信の停止を命じている*34
      久宗大佐は長門の呉帰還を進言したが、清水司令長官は桂島に向かって救援活動を行うよう指示、こうして長門は14時30分には扶桑の西方2㎞の位置まで進出して短艇等による生存者の救助作業に加わっている。
      • なお、「もともと陸奥が第一艦隊旗艦だったがこの時偶々司令部共々艦を離れていて、爆発時は長官艇で戻る途中だった」という説明をされることもあるが、これも間違いである。
        そもそもこの時点での第一艦隊旗艦は陸奥ではなく長門であり、長官が陸奥へ移動しなければならない理由はない。清水司令長官は長門とともに呉から桂島泊地に戻っている途中であった*35事は「陸奥爆沈」だけでなくその他の多くの書籍や資料等でも確認できる。呉への避退を進言する長門艦長の具申を退けて桂島に向かう事を指示しているし、そもそも長門より扶桑に情報発信の禁止を即座に命じる指令が出ている時点で「陸奥爆沈時に清水司令長官が長門から離れていた」という説は成り立たない説である*36。これも勘違いか創作された話だと思われる。
      • なお清水はその後陸奥爆沈の責任を取る形で艦隊司令長官を罷免、予備役入りとなっている。
    • 陸奥の乗員の犠牲者の多くは「溺死」ではなく「爆死」であったという*37。艦が沈んだ時点で乗員の多くが爆発により即死もしくは四散していたというわけだから、それだけ爆発の凄まじさがわかる話である。
      • 生還者の多くは爆発時に甲板、それも艦の前の方の甲板にいたことで生還したものが多かった。また下士官兵の生還率が高く、逆に士官の生還者は少なかった*38。特に幹部陣は偶々甲板士官と甲板上で談笑していた*39沖原秀也中佐(陸奥航海長)以外は艦長以下全滅しており、沖原航海長も爆風で吹き飛ばされつつも洋上で救助されているが負傷しており、これがもとで後に病死している。
  • こうして海軍の期待を背負って生まれた陸奥は、艦内爆発によって沈没するという、至極残念な結末に終わった。沈没現場は浅い海域であり、当初より「引き上げて再戦力化」も検討されていたが、これについては海底調査の結果船体の損傷が著しい事から計画は放棄されている。
  • 戦後はサルベージが行われ「菊のご紋」や「第四砲塔」等が回収され、今では文化財として保管されていたり、各記念館や公園に展示されたりしている。※詳細は後述
  • 広く国民に親しまれた陸奥が戦わずして爆沈したという悲惨なニュースは、当時の情勢から内外に報道できなかった。*40大和武蔵は最高機密であり、その存在は表立っては公開されていなかったこともあって、国民の間ではいまだ長門と陸奥が帝国海軍の顔、最強戦艦であった。その陸奥の爆沈の報が与える衝撃は、海軍への国民の信頼を根幹から揺るがしかねなかった。
    そのため死亡した乗員への郵便物は一切焼却され、その家族には生存を装って給料送金を続ける等、陸奥の爆沈は一般には秘匿された。彼らの戦死公報も、戦死日と場所を偽ったものが時期をずらして発表された。
    • この措置は陸奥の幹部陣に対しても例外ではなく、艦長の三好大佐の遺族にも同様の措置が取られていた。やがて妻が不審に思って海軍省の中澤佑大佐(陸奥爆沈時の海軍省人事局長で三好とは兵学校同期)を訪ねるが、彼でさえ真実を打ち明けられず、止むを得ず夫人に帰ってもらったという話が残っている。
  • 生き残った陸奥乗員は、特殊技能者と重傷者を除く全員が、事故後一度も内地の土を踏むことなく口封じのため第41警備隊の補充要員として最前線に送られた。「生きて帰れると思うな」と言われたとも。*41
    同警備隊の担当地域はマキン島、タラワ島、クェゼリン島、サイパン島など。これらの島々が辿った運命を考えれば、陸奥乗員たちがどうなったか、多くを語る必要はないだろう。*42
    陸奥乗員1,400余名のうち、戦後まで生き残ったのはわずかに60名に過ぎなかった。
    • 大多数の国民は終戦まで陸奥の沈没を知らなかったが、どこからか情報が漏れたのか武蔵の乗員が休暇の為上陸した際に陸奥が爆沈したと国民から教えられている。能代搭乗員の話によると「トラックへ出撃前に桂島にて陸奥の海上浮遊物を見て心を痛む」とのことなので、回収しきれなかった浮遊物を確認したり、生き残った兵から伝聞されたのかもしれない。加えて戦後GHQを通じ、ラジオにて日本の国家機密について質問を受け付ける番組が存在しており、その時に『戦艦陸奥は何処で沈没したのか?』の質問に対し、『柱島泊地にて爆発事故により沈没』と回答している。またその音声は現在でも現存しており、TBS『報道特集(2015年7月18日放送)』にて実際に再生された。

爆沈の原因

  • 沈没の原因として第三主砲塔弾薬庫での火災による爆発であろうことは、生存者の目撃報告などから明らかであったが、「何故火災が起きたのか?」については事故後より調査がなされている。
    • 当初は搭載している三式弾に搭載している装薬の自然発火が疑われていたが、目撃した生存者の多くが陸奥の爆発煙を三式弾爆発時の色ではなかったと証言*43した事と、三式弾実物を用いた各種実験*44でも「三式弾の劣化等による自然発火」が確認できなかった事から、この疑いは晴れている。
  • 陸奥爆沈が「装薬による爆発」だと判明した事は、調査関係者に衝撃を与えた。装薬は普段は2袋毎に「火薬缶」と言われる銅製の筒状の容器に収納された状態で格納庫に保管されていた。缶は筒内を完全密封できる上に内部には漆がぬっていて非磁性に優れた頑丈な構造であり、周囲で火災や爆発が起こっても内部に閉まっている装薬に引火する事はあり得なかった。
    • 仮に陸奥搭載の装薬の1つが何らかの原因で爆発したとしても、周囲にある火薬缶まで誘爆する事は考えづらく、陸奥が船体寸断の上数分で沈むような程の大爆発を起こすことは不可能だった。それでも装薬があれだけの大爆発を起こしたのなら
      「爆発地点の周囲に火薬缶から外に出された他の装薬が複数あった」
      としか考えられないからである。
      爆発時が昼食後の休憩中の時で、訓練中ではない事から考えると、休憩中の火薬庫内に装薬を火薬缶の外に複数出したままにしている*45のは不自然であり、これらの事から
      「爆発は人為的に用意されて発生したもの」
      と判断せざるをえなくなったのである。
  • 「人為的な放火」が濃厚になった中で、実際当時の陸奥では窃盗事件が頻発していてその容疑者に対する査問が行われる寸前であった事が判明する。この容疑者が艦と乗員を道連れに自殺しようとして放火したのではないか?という疑惑が浮上した。
    • 実は日本海軍では過去にも「弾薬庫での火事による沈没」という事例は複数起きているが、中には「日頃不満をもっている乗員による放火」であった事例*46もあり、常日頃行われている古参兵による新兵らへのリンチまがいの教育を考えると十分「起こりえる」話であった。
      • だが当時は放火に対する決定的な証拠もでなかったので、調査委員会も事故原因について明確には触れることはなかった。だが戦後の海底調査のなかで沈んでいる第四砲塔内で犯人と推定される人骨が見つかった事と、付近に窃盗容疑がかけられていた人物と同じ姓名が刻まれた印鑑が見つかった事から、現在ではこの放火説が有力視されている。
      • 放火説に対する異論として主砲弾火薬庫というような厳重に管理されている箇所に、部外者の乗員が気づかれずに侵入する事が出来るのか?というものがある。確かに主砲弾火薬庫は平時より不寝番衛兵がおり、常に鍵をされたうえに鍵は副直将校が鍵箱を常に自身の身に携えて管理しているもので、その鍵箱も副直将校の遺体と共に回収されており、厳重な管理がなされていたと考えられる*47
        だが一方で、厳重な管理というのは表立っての事で、実際は顔見知りなら融通きかして鍵を貸していたりするなどの行為も横行していたという証言*48もある。実際生存者の中に鍵がかかっている筈の団火薬庫に通じる扉が開いたままになっていたのを目撃している証言*49もある。また鍵がかかっている弾火薬庫扉を経由せず、日中は無施錠である砲塔後璧にある扉から中に入り、狭い階段を伝って換装室に降り、そこから弾庫を経由して火薬庫に侵入するルートがあり、そこをたどれば誰でもたどり着くことは可能だった。容疑者と目される下士官は三番砲塔の火薬庫を担当する「第四分隊」の所属であり、内部構造や管理の状況とかに精通していたと考えられており、「厳重な管理をどう潜り抜けたのか?」という疑問についても現在では回答が出ている状況である。
  • あまりにも唐突の事故による沈没であった事や、原因について確定が得られていなかった事から、この事故をミステリアスに捉えて考証する事は今現在に至るまで数多く行われている。
    有名どころでは吉村昭著でこの事件を扱ったノンフィクション作品「陸奥爆沈」がある。
    • 異論の中には、柱島泊地のこの場所でが誤投下して回収されなかった対潜爆雷が突然爆発したという説もあったが、後に否定されている。
  • 言うまでもなく、ゲーム中の第三砲塔云々その他の火事・爆発台詞はこの事故が元ネタである。
    • 公式四コマでは完全に爆発要員にされており、初期は「第三砲塔の調子が…」とつぶやく程度だったが、中盤以降は何回も爆発して大破入渠する羽目になっている。
  • 前述しているように、日本海軍ではこの手の爆発事故は他でも起きており、陸奥以外にも以下の艦で事故が発生している。
    弾火薬庫の爆発による主な事故
    艦名事故日時事故状況原因その後
    三笠1905年9月11日後部弾火薬庫の爆発沈没。死者339名弾火薬庫近くで乗員による悪戯の火が誤って引火1906年に浮揚、修理の上1908年現役復帰
    松島1908年4月30日後部弾火薬庫の爆発沈没。艦長以下死者254名*50原因不明*51そのまま除籍
    三笠1912年10月3日前部弾火薬庫の爆発。死者1名自殺を図った水兵の放火。水兵は死亡適切な弾火薬庫注水のため大きな被害はなし
    日進1912年11月18日後部弾火薬庫の爆発。死者2名負傷者17名乗員の放火。後に当該乗員は別件で逮捕され死刑判決適切な弾火薬庫注水のため大きな被害はなし
    筑波1917年1月14日艦橋~第一煙突間で爆発。死者行方不明者152名人為的な放火と断定され容疑者も特定されるが被疑者死亡のため真相は不明そのまま除籍
    河内1918年7月12日右舷第一砲塔で爆発。死者621名常用期限を5年も過ぎた火薬の発火そのまま除籍
  • もっとも弾火薬庫の爆発事故自体はどの海軍でも大なり小なり発生しており、有名な事例ではアメリカ装甲艦「メイン」の爆発事故がある。この事故が遠因となって米西戦争が勃発したのは有名な話。
    • 艦これ界隈でも「Conte di Cavour」の妹である3番艦「Leonardo da Vinci」も弾薬庫の爆発事故で沈んでいる。Warspiteも第一次世界大戦時に眼前で僚友である「St. Vincent」級戦艦の1隻「Vanguard」を弾薬爆発事故で失い、救助作業に従事した経験を持っている(なお、この時Vanguardには日本海軍から派遣された江渡恭助大佐が観戦武官として乗艦していて艦と運命を共にしている)
  • 但しこれ以外にも「未遂」で終わった事例も報告されており、13年で計6件というのは他国でも例がない多さである。こうした事から日本海軍では「弾火薬庫の警戒」といった直接的な予防を強化する一方で「乗員の監視」「下士官兵の待遇改善及び教育」といった間接的な予防策に奔走した結果、昭和期にはこういった事件は陸奥以外では発生していない*52
    • 割と最近の事例では、1989年、アメリカの戦艦アイオワの2番砲塔で爆発事故が起こっている。最後の戦艦であるアイオワは2006年で退役したため、実質最後の戦艦における砲塔爆発事故である。

爆沈後の陸奥

  • 爆沈直後から極秘のうちに引き揚げ・修理作業が検討されていたが結局実現しなかったのは前述の通りだが、戦時中にまだ燃料庫に残されている再利用可能な重油を回収する作業は行われている。*53
  • 昭和23年から28年にかけて、西日本海事工業というサルベージ会社が食料・物資欠乏の情勢に寄与するという名目で、搭載重油、缶詰、繊維製品類の回収を行った。
    ところが、作業の開始とともに朝鮮戦争による金属類の大特需が発生、同社は契約に違反し、搭載物資のみならず船体の鋼板を無断回収して巨利を得た。さらには同社のみならず近隣の漁民も漁船を繰り出して金属製品を拾い、周辺漁村は時ならぬ大活況を呈したという。
    • 西日本海事はさらに「船体を開かねば遺骨を回収できない」「備品や船体だって『搭載品』だ」と、ついにはダイナマイトを用いて船体を破壊回収するという暴挙に出た。さすがに国会でも問題となり、ついには政府と同社の泥沼の訴訟合戦に発展した。同社の金属不法取得は約400トンにも及んだという。遺族たちは眉をひそめ、心を痛めた。
  • 本格的な引き揚げ作業は、戦後昭和45年になってから行われた。
    この結果回収されたのは艦体の70%程*54なお「戦艦陸奥引き揚げ解体写真集」で検索するとこの時の写真を公開しているホームページに行き着く。(2015年8月6日にHP閉鎖。*55
    陸奥記念館(山口県周防大島町)で艦首部分等が展示されている他、全国各地で主砲・副砲・スクリュー等の展示が行われている。
    • 因みにこの時に陸奥を引き上げたのは深田サルベージの起重機船「長門*56」、なお既に長門は引退している。
      • 作業の過程で深田サルベージは正式に国から陸奥の払い下げを受けており、法的には戦艦を保有している民間企業ということになるそうである。
    • それだけではなく、陸奥から回収された鋼材は意外な形で利用されている。
      戦後に生産された鋼材には微量の放射性物質が含まれる*57が、陸奥の船体は戦前に生産された鋼材であるために放射性物質の混入が無く、また水中にあったことから、戦後大気中で多数おこなわれた核実験の影響も少なかった。
      「陸奥鉄」と呼ばれたこの鋼材は、現在でも放射線精密測定機材のシールドに用いられている。実戦に出る機会こそなかったものの、今日も彼女は世のため人のために活躍している。*58
      • なお世界には似たような例は他にも有り、英国のスカパフロー泊地に沈んだドイツ帝国海軍の戦艦もまた現在、放射線精密測定機材のシールドに再利用されている。
    • この引き揚げ作業は当初、地元漁協の強硬な反対に遭った。すでに陸奥の巨大な船体は格好の漁礁となっていたためである。
      引揚を望む遺族たちや元乗員たちと、貴重な巨大漁礁を失いたくない漁師たち、その意見は真っ向から対立した。遺族・元乗員たちが個人レベルで声を上げていたこともあり、話は全く進展しなかった。
      そのさなか、三好艦長未亡人からの相談を受けた浜田悦三氏という船舶保険会社経営の老人が一念発起、「戦艦陸奥引揚促進期成会」を結成し、バラバラに声を上げていた遺族や関係者を一つにまとめ上げた。
      さらには老いの身を顧みず、家族の制止も無視して漁師、漁協組合長、各省庁を文字通り東奔西走して説得してまわり、ついには陸奥引き揚げの実現を成し遂げたのだった。
      • だが老いの身で無理に無理を重ね続けた浜田氏は、燃え尽きるかのように体調を崩した。
        奇しくも陸奥の引き揚げ作業の始まった当日の昭和45年8月21日、浜田氏は79歳で息を引き取った。
        氏はその臨終の床でも「ムツ、ムツ、ムツ……」と微かにつぶやき続けていたという。そして、その死に顔は医師も驚くほど安らかだったという。
    • また、引き上げられた陸奥の部材から作成されたという梵鐘*59が群馬県の福蔵寺を始め全国数カ所に存在する。平和の語り部として姿を変えているが、近くにむっちゃんがいるかもしれないので会いに行ってはいかがか。
    • なお、引き揚げ作業が行われたものの、艦体の1/3程度は引き揚げられずに現在もそのまま残されているため、その気になれば見に行くことは可能だが、周辺は潮の流れが速く水の透明度も低いため危険である。

余話

  • 同じ名前で戦後(1972年)に原子力船むつが就役したものの、こちらも人体に宜しくないものが漏れちゃう事故が発生。
    修理の為に佐世保重工ドック(元佐世保海軍工廠)に入るが、旧母港のむつ市大湊港から締め出しを食らったこともあって4年間ドックに引きこもり状態に。
    母港をむつ市関根浜港に変えて再出発するも、実験航海を一度だけやった直後にお役御免。母港で原子炉を撤去された。
    名前自体に何かしら不幸を呼び寄せる要素でもあるのかと疑いたくもなるが、可愛ければそんなもん気にならないものである。
    • だがその後、むつは再就職に成功。船体をニ分割して大改装と言う某戦艦以上の魔改造*60をうけ、1996年に「海洋観測船みらい」として再進水したのだ。
      「陸奥/むつ」と言う名前の船の真髄は、不幸な過去を乗り越えて活躍するところにあるのかもしれない。
      • 2011年3月11日、東日本大震災が発生。直後に福島第一原発で事故が起き、陸奥国*61の海は放射性物質で汚染されてしまう。
        その1ヶ月後、みらい(むつ)は海洋汚染調査の為に試料採集航海を実施。試料は各地の研究所に送られて、放射能測定を受けた。
        そしてその研究所の測定器の中には、陸奥(先代)の鋼材を使ったものもあったと言うのだ。
        時を越えてタッグを組んだ陸奥とむつ。戦後最悪の"不幸"を乗り越えようとする陸奥国の闘いに、彼女達もしっかりと参加していたのだ。

        ご記憶を願いたいこと
        この艦が世界平和の女神となるか、はたまた戦場の獅子王となるか、神様さえご存じないでしょうが、ワシントン会議で()(「まな板」)上の魚の観があっただけ世の注意を集めました。戦艦陸奥に心あらば、必ず国防の重責を果たすだろうと思います。
        陸奥の心は、我々の心であります。どうか永い眼で陸奥を見ていて下さい。
        (当時の「陸奥」の広報パンフレットより)
        むっちゃん、これからも頼みます!(大和ミュージアムのツイート)

  • 原子力船より前、1963年には列車愛称として「むつ」が登場した。…が、ビッグセブンとはほど遠いかつての陸奥国内である仙台~青森間の地方都市連絡を任とする急行列車としてであった。その後運行区間は秋田~青森間へ移り変わり、国鉄末期の1985年にやっと特急に格上げされたものの、翌1986年には「たざわ」に統合され僅か1年8ヶ月で廃止されてしまった。ついに特急にならなかったよりはマシかもしれない。
    • トレインマークはリンゴと雪の岩木山を組み合わせたもので、シンプルでも秀逸なデザイン。
  • ちなみに、角状のヘアバンドは、長門型戦艦の前艦橋上部にあった旗旒信号用の張り出しを模したもの。鬼の角ではない
    • このヘアバンドをかたつむりの角に見立てた「り陸奥たか」というネタもあったりする。
  • この他地方都市名としても青森県に「むつ市」が存在している。下北半島に所在するこの市は旧海軍時代から現在の海上自衛隊に至るまで「北の要の軍港」である「大湊」が所在する市でもある。
    • 元々この一帯は南部藩の領地で大湊は北前船の「風待港」として発展した東北の良港だった。戊辰戦争後は賊軍とされた会津藩が領地没収の引き換えにこの地を与えられ、斗南藩(となみはん)三万石として再興が許されている。
    • 日露戦争直後の1905年(明治38年)12月12日、大湊に帝国海軍の「大湊要港部」が設置*62されて軍港として機能しだすと一気に人口も増え、昭和3年(1928年)に町制施行で大湊村から大湊町となる。
      戦後の1959年(昭和34年)9月1日 に下北郡田名部町と合併して「大湊田名部市(おおみなとたなぶし)」が誕生。1年後の1960年(昭和35年)8月1日に市名を「むつ市」に改め、日本初のひらがな名の市となった。
      • 因みに大湊田名部市(おおみなとたなぶし)という市名は当時「漢字表記で日本一長い名称の市(5文字)」であったとか。読みの文字数8文字も奈良県にある「大和郡山市(やまとこおりやまし)」と1位タイであった。
        ※2025年現在では「漢字表記で日本一長い名称の市」は同じ5文字で山口県にある「山陽小野田市(2005年発足)」がある。読みの文字数が最多の市としては2007年に誕生した鹿児島県の「南九州市(みなみきゅうしゅうし)」の9文字が最長となっている。

この艦娘についてのコメント

  • ゲームは艦これに限らないけど、スペックと戦果はあまり直結してないなと感じる。史実で活躍できなかった艦を活躍させる面白みもあるんだろうけど。 -- 2024-06-24 (月) 03:41:20
  • ワイの陸奥は仕事しなさすぎて謹慎中ゾ。一生お留守番娘と化してる。 -- 2024-06-26 (水) 18:55:38
  • 演習でもさせてあげなさいな。実戦に出ず演習ばかり…それも史実のようで不遇かもしれないが。 -- 2024-06-26 (水) 21:01:20
  • 青森県むつ市の市議のXでのポストでこんな発言が・・・まさかの「むつ」復活!? というか、これって相当なお漏らし案件では・・・後でポスト消えそう。 -- 2024-07-26 (金) 19:05:28
  • デイリー建造の最後の一艦で何となく大建回したらながもんが、デイリー出撃でZ前段作戦の6-1でむっちゃんが、一日で二人揃ってしまったw これはブレストファイヤー用のサブを育てろというお告げか・・・。 -- 2024-09-10 (火) 21:36:05
  • よっしゃー!今まで演習でしか浴衣むっちゃん拝めなかったけどようやっと3-2ボスでお迎えできたー!! 今夜から日本酒が進みそうだ。美人だよねぇ……女性の浴衣姿は黒髪が良いと思ってるけどむっちゃんは別だな、色気が過剰ではないから身構えない分隙ができてしまうので、現実に身近に居たらつい手を出してしまうかもしれん。 -- 2024-11-30 (土) 20:09:02
    • 子供の頃の憧れ、隣のお姉さん的なw 実はお姉さんでなく御姐さん・・・うん、似合うな -- 2024-11-30 (土) 20:44:58
  • 長門と同じ88レべで改2って思ってたら1レべ高かった時の絶望感 -- 2025-01-21 (火) 07:29:10
  • 今yahooのニュースで陸奥の乗員の話が出てたのでここの記事を見に来たが謎が多い爆発やったんやな。キャラとしてのボイスは軽く言ってるが実際はかなり悲惨だったみたいだね。とりあえず艦娘の陸奥は道中で爆発しなければ良し。 -- 2025-06-09 (月) 12:55:20
  • 岩国沖海底の戦艦陸奥、船体の崩壊進む 謎の爆沈から8日で82年|中国新聞デジタル https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/654258 -- 2025-06-09 (月) 16:49:17
  • 「あら あらあら」のボイスを録音しておいて陸奥でシコりながらイッた瞬間にボイスを流すと頭ん中が真っ白になるぐらい脳汁が出るwww 陸奥推しの提督諸兄にはぜひオススメしたい -- 2025-06-18 (水) 19:35:27
  • 久々に大建最低値試したら、陸奥になるビーム健在だったよ! -- 2025-06-29 (日) 10:56:29
    • (鋼材が溢れそうだったので)今日も大建叩いたんだが、”陸奥になるビーム”は絶好調だったよ。 -- 2025-07-13 (日) 13:00:41
  • ここの所妙に浴衣むっちゃんがドロップしまくるんだが、浴衣効果なのだろうか・・・。 -- 2025-08-17 (日) 19:36:03
  • よくぞ見つけて下さりました!!今もあの瀬戸内の海に陸奥姐さんは眠り続けているのですね -- かぼちゃ大王 2025-11-15 (土) 15:03:26
  • 小ネタにも有ったね。何だかんだ有りながら、長いお務めお疲れ様でした&ありがとう、むつ(彼女の名誉に応え、敢えてこう呼びたい)姐さん -- かぼちゃ大王 2026-01-25 (日) 15:08:08
  • 4-4ウィークリー兼レベリングで周っていると、未知の新艦が来たと一瞬戸惑う ここまで毎年のテンプレ(長門、赤城に加えて今はイタリア艦もいるんだよな) -- 2026-01-25 (日) 20:21:00

*1 母港ボイスは各艦娘につき3つ割り当てられています。「詳細」ボイスは編成画面の「詳細」ボタンをクリックすることで聞くことが出来るボイスです。母港画面でも聞くことが出来ます。「母港3」ボイスは「母港画面でのクリック」もしくは「母港画面への遷移」でのみ聞くことが出来る、いわゆる「提督お触りボイス」です。編成画面での「詳細」ボタンでは聞くことが出来ません
*2 4つの基本ボイス(昼戦開始・昼戦攻撃・夜戦開始・夜戦攻撃)がありますが、各ボイスはその他の色々な場面でも使われます。各ボイスをどのフェーズ(航空戦/開幕雷撃/先制対潜/昼戦攻撃/各種CI...など)に割り当てるかは艦娘によって異なり、例えば開戦ボイスを攻撃でも使ったり、夜戦攻撃ボイスを昼戦でも使ったりします)
*3 2番艦でセリフが変わる。備考欄に記載
*4 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*5 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*6 装備ボイスは3ボイスありますが、改修/改造ボイスと共用化されています。また、ボイス3は「改修/改造」「開発」「バケツによる即時修復」「遠征出撃」「アイテム発見」ボイスと共用化されています
*7 「みちのく」も百人一首に読まれた由緒あるもの。
*8 ただし秋田県鹿角市および同鹿角郡小坂町のみ陸奥国に含まれる。
*9 両県の領域は出羽国。
*10 古くは宝亀11年(780年)に建立されたとされる神社で、延暦19年(800年)には東北平定を成し遂げた坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建したともされている。戦国期に岩木山の噴火で甚大な被害を被ったが領主の津輕氏の庇護を受け再建され、明治期には神仏分離を経て国幣小社に列格されていた
*11 太平洋戦争開戦時には、大和型が就役していないため、もっとも若い日本戦艦である。金剛型は1913~1915年、扶桑型は1915~1917年、伊勢型は1917~1918年、長門は1920年の就役であり、陸奥は長く「日本戦艦の末妹」であった。
*12 竣役時に陸奥の第三分隊長として着任した大西新蔵大尉の証言
*13 Coloradoとウエストバージニア
*14 アメリカは戦艦デラウェア、ノースダコタの2隻、イギリスは戦艦サンダラー、キング・ジョージ5世、センチュリオン、エイジャックスの4隻で、これらは16インチ砲搭載戦艦の竣役までの保有が認められた
*15 2番艦のメリーランドは姉妹よりも工事の進捗が速く軍縮会議の時点で既に完成していたため元々保有を認められていた
*16 戦艦及び巡洋戦艦
*17 建造中や新規建造含む
*18 大改装で一本煙突になるまで設置していた屈曲煙突のこと。
*19 もっとも、戦艦の「鬼の山城、地獄の金剛、音に聞こえた蛇の長門」等と謳われた苛烈なシゴキに耐えかねて新兵が自殺してしまうことは戦前は度々起きていた。長門の艦内新聞などによれば艦内の担当部署や人目につかない場所で縊死していることもあり、そういったことまで含めれば曰くありといえなくもない。
*20 まあ、主砲の長射程化で戦艦の発射管は普段使う機会もなくなり、長らく放置状態だったせいかもしれないが。しかも戦艦の魚雷はしばしば迷走することがあり、姉の長門は大正13年に自分の発射した魚雷で自分のスクリューを壊したことがある。
*21 姉妹艦の長門の他にも伊勢型、扶桑型の各戦艦や開戦後に竣役した新鋭戦艦の大和など
*22 日本海海戦のような限定された海域での戦闘を指揮するだけなら、連合艦隊司令部が最前線に出て陣頭指揮を執っても構わないが、太平洋戦争では連合艦隊司令部が最前線に出て戦っていたら、他方面で行動している友軍の作戦を指導するのは困難であった。だからといって連合艦隊司令部が前線より後方で各海域を指揮していると、今度は連合艦隊直属の第一戦隊の戦力が遊兵化してしまう事も懸念された
*23 小板橋孝策 『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』 光人社NF文庫
*24 なおこれは艦これオリジナルの艦種であり、当時はそのような艦種類別はない。あくまでも軽巡洋艦・二等巡洋艦のままである
*25 陸奥は桂島の西南方向約5㎞の地点に停泊し、その更に800mから1㎞の位置に扶桑が停泊していた。更に陸奥の東南方向約8㎞程に第十一水雷戦隊の艦艇(龍田や玉波、若月など)が固まって停泊していたとしている。このほかにも当時桂島泊地には最上大淀らが在泊していた
*26 第一艦隊旗艦である長門が、司令長官共々呉に異動していたため、この間の桂島在泊艦艇の指揮を最先任の艦長である陸奥の艦長が務めていたため、呉鎮守府との直通回線をつなぐことが出来る「旗艦ブイ」に陸奥が係留されていた。これを戻ってくる長門に譲るためにブイの変更作業が準備されていたのである
*27 なお木村は直ちに戦隊に即時待機命令をだしている
*28 厳島南東方向にある小島。同島と桂島泊地の旗艦ブイまでの距離は約29㎞の距離がある
*29 吉村昭著「陸奥爆沈」及び、当時陸奥の潜水調査を担当した松下喜代作技術大尉が纏めた資料による
*30 この水雷艇は陸奥爆沈時は士官等の急な陸地への移動に備えて2隻のランチと共に繋船桁を通じて陸奥と繋がれてる状態で係留されていた(前述の三好艦長の扶桑への行き来もこれらを使用していたと思われる)。陸奥爆沈時にランチの1隻は巻き込まれて沈んだが、水雷艇ともう1隻のランチは切り離しに成功し、沈んだランチの乗員を救助後水雷艇は救援を求めて扶桑に向かったのであった
*31 例えば歴史群像太平洋戦史シリーズ「長門型戦艦」で元長門副砲射手は「陸奥爆発時は長門は既に付近に到着していて繋留作業に入っていた。その時爆発が起こりそちらを向くと陸奥の姿があっというまに噴煙の中に消え、轟音と共に霧上に火柱と黒煙が上がった」と証言している
*32 呉湾から陸奥のいた地点までの距離は直線距離で約38㎞だが、その間に兵学校のある江田島や倉橋島があり、南回りでは「音戸の瀬戸」などを通過する必要があるが長門のような大型艦は航行できないので、呉湾を出たら一度広島市方向に北上して検疫所や捕虜収容所があった似島や厳島神社のある厳島の沖合を経由してから改めて南下して泊地に向かわないといけない。長門は11時に呉を出港し13時には陸奥らのいる地点に到着予定で、爆発時は行程のおよそ半分を通過したころである
*33 「陸奥爆沈」では1㎞
*34 これは無線傍受により陸奥爆沈の情報が敵に知られるのを防ぐための措置。実際この「陸奥爆沈す」の電報は遠くラバウルにまで着電したという話もある。たとえ暗号文であったとしても、日本海軍の拠点である桂島から、急に頻繁に無電が打ち出されたら「何かあった」と察する事ができ、敵に関心を持たれてしまうので、それを防ぐための措置でもあった
*35 そもそも艦隊司令部ともなるとその要員は100名以上にわたる大所帯であり、簡単に移動できるものでもない
*36 長官が不在であったならこの指示は長門艦長がしたことになるが、不在であるとはいえ長官が健在なのに、それを越権して長門艦長が扶桑に対して命令をするなどありえない話である
*37 これも高松宮殿下の日記の記述による
*38 恐らく休憩時間であったため、多くが第一士官室などのガンルームで寛いでいか、私室にいたからと考えられており、生還した者はこの時当直等で配置におり、しかもすぐに脱出できるような位置にいたことで生還出来た者であった。逆に下士官兵は休憩時でも甲板上で作業している者なども多く、そういった者たちが生還している
*39 別の証言としてブイ変更の作業を監督するために甲板上にいたという話もある
*40 当時は4月18日の山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(公表されたのは5月21日)、5月30日のアッツ島玉砕など暗いニュースが連続していた。
*41 一部乗員は長門への交代要員として転属している。「生きて帰れると思うな」も陸軍の最前線に投入される部隊などには口頭で通達されているが、陸戦に縁の薄い乗員からすれば迷惑この上ない話である。
*42 これは陸奥に限った話ではなく、救助された艦の乗員が陸戦隊や警備隊に転属されるのは当然の処置だった。例として上げれば、武蔵の乗員も救助された後に陸戦隊となり、フィリピン各地で全滅している。
*43 三式弾の装薬なら煙は白色だが、発射装薬なら煙は茶褐色となる
*44 実際に沈没した陸奥から三式弾を引き上げての実験も行っている
*45 火薬缶はかなりの重量があり、装薬の取り出しにも手間がかかるので、砲撃時に速射性をあげるために装薬を火薬缶から前もって何袋か出しておく、という安全性を無視したやり方があった。日本海軍ではそういった話はあまり聞かないが海外ではそういう「悪習」が残っていたようで、第一次世界大戦で発生したユトランド海戦で轟沈したり1発で大損害を受けたイギリス艦艇たちも、イギリス海軍が元々速射性を重視していた事から装薬を素早く装填するために安全性を無視して装薬を雑に扱っていた事が判明しており、今回に関しても爆沈が訓練中であったのなら、装薬の装填を急ぐために現場レベルの判断で装薬を火薬缶から早い段階で抜くという「悪手」をしていたかもしれないと推察する事は可能性としてはなくはなかった
*46 1912年(大正元年)11月18日、観艦式を終えての帰路に清水港に立ち寄った装甲巡洋艦「日進」で起こった後部8インチ砲塔弾火薬庫の爆発事故は、火薬庫注水などが迅速に行われた結果死者2名、負傷者17名という犠牲は出たが艦の損失までには至らなかった。当初は自然発火による事故と結論されていたが、翌年8月になって殺人事件を起こして予備役入りしていた二等兵曹が自分が放火したと自供。日頃の不満を改善するよう艦長に匿名で脅迫状を送ったが反応がなかったので実行したと供述している。なお、この二等兵曹は軍法会議を受け、前述の殺人罪も併せて「死刑」が宣告され1915年に執行されているが、大正時代に海軍刑法で死刑が執行された唯一の事例であった
*47 元長門副砲手で陸奥爆沈時にも長門乗員だった田代軍寿郎元海軍一等兵曹の談
*48 龍田鬼怒鳥海の航海長や瑞鶴瑞鳳等の艦長を歴任した野元為輝元海軍少将の談
*49 恐らく午前中の訓練で開けたのを、午後からも訓練があった事からいちいち閉じるのを手間がかかると判断して開けたままにしていたと考えられる。なお入り口横には監視のための衛兵は居たと証言されているが、野元氏の証言のような状況であった場合、顔見知りの人物(実際容疑者と目される人物はこの第三砲塔配置の下士官であり、しかも夜間の艦内巡視等を受け持つ「衛兵伍長」を務めている人物でもあった。そのため入口にいた衛兵と顔なじみであった可能性は十分ある)ならそのまま通した可能性も否定できない
*50 なおこの時松島には海兵35期生が遠洋航海で乗艦しており、33名が犠牲となっている。犠牲者の中には当時の陸軍元帥大山巌の長男である大山高候補生(母は2026年の朝の連ドラ「風、薫る」にも登場している大山捨松)が居た他、乗員にも海軍中将瓜生外吉の息子武雄少尉(母は大山捨松と共に幼少期にアメリカに留学した留学仲間の瓜生繁子)がおり、高官の子弟が多かった
*51 吉村昭著「陸奥爆沈」では、当時松島の艦内では間近に控えた乗員達の「昇進」の情報が洩れてしまい、昇進したものは浮き足しだち、漏れたものは悲嘆するという状況であったとしている。そうした中で昇進が出来なかった兵が悲嘆して起こした可能性を指摘している
*52 但し下士官兵による自殺や窃盗、恐喝などの不始末がおさまった訳ではなく、大なり小なり事件は頻発していたのが実情であった。
*53 1944年7月に行われたこれは竹作業と呼ばれ、約600トンの重油が回収されている。
*54 すべて引き揚げるのは予算の問題で断念されたとか。
*55 閉鎖前サイト@インターネットアーカイブ:https://web.archive.org/web/20150503132611/http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/mutsu/mutsu.html
*56 深田サルベージが保有する起重機船は戦艦と同名なものが多く、他にも武蔵・金剛・大和等がいます。
*57 溶鉱炉の耐火レンガに微量の放射性物質(コバルト60)を含ませ、ガンマ線の放出によって炉の破損箇所を調べるシステムを用いているため、製造過程で放射性物質が鉄に混入する。
*58 ただし陸奥鉄などを利用した機材はあくまで一部のみである。現在では機器側で補正できるので、陸奥鉄を使用しなくても正確な数値を測定できる。
*59 船鐘ではなく鋼材を再鋳造して作成されたお寺の鐘。
*60 前部船体は現IHIが、後部船体は三菱重工が改装を担当。別の会社との共同作業とあって、技術者達は大変な苦労をしたとか。
*61 現東北地方太平洋側。
*62 それまでは横須賀鎮守府所属の大湊水雷団が駐留するなどしていた