No166 陽炎/元ネタ解説

Last-modified: 2020-08-14 (金) 00:06:36
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型陽炎型駆逐艦
正式名称陽炎(かげろう/かげろふ)
名前の由来陽炎 熱せられた空気が上昇するため、光が通過する際に不規則に屈折しちらちらとゆらめいて見える現象
起工日1937.9.3
進水日1938.9.27
就役日(竣工日)(1939.11.6)
除籍日1943.6.20(ニュージョージア島の戦い/New Georgia Campaign 1943.5.8沈没)
全長(身長)118.5m
基準排水量(体重)2000英t(2032.1t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶3基艦本式蒸気タービン2基2軸 52000shp(52721.2PS)
最高速度35.0kt(64.81km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/5000海里(9260km)
乗員239名
装備(建造時)50口径三年式12.7cm連装砲3基6門
九六式25mm機銃x4(2x2)
61cm四連装魚雷発射管2基8門
爆雷投射機x1
装備(1943)50口径三年式12.7cm連装砲3基6門
九六式25mm機銃x8(2x3+1x2)
61cm四連装魚雷発射管2基8門
爆雷投射機x1
装甲なし
建造所舞鶴海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社舞鶴事業所) (日本国京都府舞鶴市)
  • 大日本帝國海軍が建造した陽炎型駆逐艦一番艦。艦隊型駆逐艦の完成形としてようやく納得のいく性能を得た艦型であり、次級の夕雲型と合わせて甲型駆逐艦とも呼ばれる。
    前級の朝潮型で不満だった速度などの改善を目的に設計された。同時にそれまでに起きた友鶴事件や第四艦隊事件にて発覚したトップヘビー、船体強度不足などの問題に新造時から対応した初の艦型である。
    また、酸素魚雷の運用にも新造時から対応。砲撃戦能力も高く、艦隊決戦のために作られた艦隊型駆逐艦の集大成とされる。
    ただし、建造当初の公試運転では計画速力の35ノットに到達しておらず、小改造を施した夕雲型の設計に繋がっている。
    「艦隊型駆逐艦として」は傑作と呼べる艦ではあったが、裏を返せば「艦隊決戦のための水上戦闘・水雷戦に特化しすぎた艦」でもあった。
    そのため対空・対潜能力は旧式艦と大差なく、駆逐艦の仕事としてそれらが最も重要となった「太平洋戦争における駆逐艦として」は落第と評されてもやむを得ないものであった。
    また(次級の夕雲型も含めて)機関にシフト配置を採用していないため、機械室(スクリューを動かす主機械)か缶室(主機械を動かす動力となるボイラー)のどちらかに浸水すると即座に航行不能になってしまい喪失に直結しやすいという防御面の問題もあった。
    (ちなみにシフト配置というのは、機械室と缶室を左右の軸ごとに分けた上で艦の前後に配置する機関の配置方法のこと。集中配置に比べて余分なスペースが必要になるが、この方法だと片方の機械室や缶室が潰されてももう片方で最低限の航行が可能になるため、抗甚性・生存性が劇的に向上する。アメリカやフランスでは既に幅広く採用されていた方式で、日本でも松型駆逐艦にて採用され、「」や「桐」のようにシフト配置が功を奏して戦没を免れた事例も存在する)
 
  • 1937年9月3日、舞鶴工廠で起工。1938年4月15日、陽炎と命名される。同年9月27日に進水を果たし、1939年11月1日に竣工した。竣工後、呉鎮守府に編入される。そして姉妹艦とともに第十八駆逐隊を編成。
    艦隊型駆逐艦のネームシップという主人公に相応しい出生だったが、その艦歴はあまり恵まれていなかった。
    1941年6月13日、艦上で拳銃射撃訓練をしていたところ、石井航海長が流れ弾で死亡するという幸先の悪い出来事が発生してしまう。
    不幸(?)は続き、同年11月27日、真珠湾攻撃に向かう機動部隊を護衛中、激浪により兵員一名が行方不明となる。
    しかしこれで憑き物が落ちたのか、その後は何事もなく真珠湾攻撃に参加し、柱島へ帰投。ビスマルク諸島攻略作戦にも参加して緒戦を制した。
    1942年4月5日、インド洋作戦に参加し、コロンボ及びトリンコマリーの空襲支援を実施。6月5日のミッドウェー海戦では攻略部隊の一員として参加するも、戦闘には不参加だった。
    8月、ガダルカナル島争奪戦が勃発しソロモン戦線が形成される。16日、一木支隊150名を乗せてタイボ岬へ揚陸する。20日にはツラギ泊地へ砲弾80発を放っている。
    これを皮切りにガダルカナル島へのネズミ輸送に従事。同時に米軍への砲撃、ツラギ泊地の偵察も行っている。
    8月25日の第二次ソロモン海戦、10月26日の南太平洋海戦、11月13日の第三次ソロモン海戦、11月30日のルンガ沖海戦に参加し、連戦をこなす。
    12月16日、ラバウルからムンダへ兵員輸送中、空襲による至近弾を受けて損傷。
     
    1943年1月31日、ガダルカナル島撤退作戦を支援。帝國陸海軍がガダルカナル島より撤退した事でネズミ輸送も打ち切りとなり、
    陽炎は南東方面艦隊外南洋部隊へと編入。戦いの場をラバウル方面に移した。5月7日、コロンバンガラ島への輸送任務を終えた陽炎は帰路に触雷。缶室が浸水し航行不能に陥ってしまう。
    身動きが取れなくなったところにアメリカ軍機とニュージーランド軍機が襲来し、機銃掃射により沈没。5月8日が命日となった。
     
    1943年6月20日、除籍。