No38 プリンツ・オイゲン/元ネタ解説

Last-modified: 2018-11-11 (日) 20:54:09
所属Kriegsmarine→Royal Navy(1945)→United States Navy(1945)
艦種・艦型アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦→雑役船(1945)
正式名称Prinz Eugen→USS Prinz Eugen (IX-300)
名前の由来Eugen Franz von Savoyen-Carignan(1663-1736) ハプスブルク帝国(オーストリア)ネーデルラント総督 サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族でオーストリアに仕えた。大トルコ戦争での大勝利からオーストリア軍の有力な将軍の1人となり、スペイン継承戦争でヨーロッパ中を転戦した。政治外交にも取り組み、死ぬまでオーストリア軍の将軍であり続けた。
愛称Marlborough's Friend(イギリス)
起工日1936.4.23
進水日1938.8.22
就役日(竣工日)1940.8.1
除籍日(除籍後)不明(1946.12.22沈没)
全長(身長)212.5m
基準排水量(体重)14680英t(14915.6t)
出力Wagner式重油専焼缶12基Deschimag式蒸気タービン3基3軸 137500PS(135619.0shp)
最高速度32.6kt(60.37km/h)
航続距離20.0kt(37.04km/h)/6800海里(12593.6km)
乗員1382~1599名
装備20.3cm60口径SK C/34連装砲4基8門
10.5cm65口径SK C/33連装砲6基12門
3.7cmSK C/30機関砲x12(6x2)
2cmC/30機関砲x28
53.3cm三連装魚雷発射管4基12門
艦載機x3
装甲舷側:70~80mm 甲板:12~30+20~50mm 砲塔:70~150mm 艦橋:50~150mm
建造所Friedrich Krupp Germaniawerft, Kiel
(フリードリヒ・クルップ社ゲルマニア造船所 ドイツ連邦共和国シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州キール市)

ドイツ海軍が建造した改アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦三番艦。ドイツ海軍が建造した最後の重巡であった。
元々オーストリア海軍が使用していた艦名だったが、ドイツとオーストリアの永遠の統合を狙ってヒトラーが命名したとされる。

 

1936年4月23日に起工し、1938年8月22日に進水した。艤装工事を受けている間に第二次世界大戦が勃発。1940年7月1日夜、キール軍港を襲った英軍機の爆撃を受け、小型爆弾2発が命中。
しかし大した損傷ではなかったようで、一ヶ月後の8月1日に竣工した。しかし受難は続き、1941年4月23日、バルト海にて英軍が敷設した磁気機雷に触れ、損傷。全治二週間の怪我を負った。
5月21日のラインユーブング作戦では敵の攻撃を喰らって損傷。更に機関も故障したためブレストまで戻らざるを得なくなってしまった。
ブレストに停泊中の7月1日夜、去年同様に英軍機の空襲を受け船体前部に爆弾一発が命中。60名が死亡する被害を出した。
1942年2月11日、ケルベロス作戦に参加。同月23日、ノルウェーのトロンヘイムに入港する直前に英潜水艦トライデントの雷撃を艦尾に喰らい大破。7名が死亡した。
トロンイヘム港で艦尾を切断し、応急舵を取り付けて何とかキールまで帰投。全治8か月の大怪我だった。
同年10月27日、ようやく修理が終わり練習艦隊に編入。1943年9月にはスピッツビルゲンを砲撃した。1944年6月からは海上移動砲台の役割を担うようになり、バルト海沿岸で砲撃任務に従事した。
10月15日、バルト海で行動中に味方軽巡ライプツィヒと衝突。
戦況が絶望的局面を迎えた1945年4月20日、コペンハーゲンへ向かう。その道中の5月6日、オランダ軍陣地を砲撃。あと少しでコペンハーゲンに辿り着くという所でドイツ本国が降伏。
5月9日、プリンツ・オイゲンはコペンハーゲン沖で連合軍に投降。武装解除ののち、イギリスに引き渡されたがアメリカに譲渡され、雑役船「プリンツ・ユージン」となった。

 

1946年7月1日、クロスロード作戦の標的艦となった。25日にも標的艦となっている。二度の核実験を受けながら沈没せず、船体はクェゼリンに回航。
放射能汚染が激しく放置されたが、1947年12月22日に転覆して沈没。