所属 | Marine nationale→Forces navales françaises libres(1943)→Marine nationale(1944) |
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艦種・艦型 | ラ・ガリソニエール級軽巡洋艦 |
正式名称 | Georges Leygues |
名前の由来 | Georges Leygues 第一次大戦後のフランス海軍再建に貢献した海軍大臣 |
起工日 | 1933.9.21 |
進水日 | 1936.3.24 |
就役日 | 1937.11.15 |
除籍日(除籍後) | 1957.5.1(売却後解体) |
全長(身長) | 179.0m |
基準排水量(体重) | 7600英t(7722t) |
出力 | Indret式重油専焼缶4基Parsons式蒸気タービン2基2軸 84000PS(82851shp) |
最高速度 | 31.0kt(57km/h) |
航続距離 | 12.0kt(22km/h)/7000海里(13000km) |
乗員 | 540名 |
装備(建造時) | 155mm55口径M1930三連装砲3基9門 90mm50口径M1926連装高角砲4基8門 M1925 37mm機関砲x8 オチキス13.2mm機関銃x12 550mm連装魚雷発射管2基4門 艦載機x2-4 |
装備(1941) | 155mm55口径M1930三連装砲3基9門 90mm50口径M1926連装高角砲4基8門 M1925 37mm機関砲x9 オチキス25mm機関銃x2 オチキス13.2mm機関銃x16 550mm連装魚雷発射管2基4門 艦載機x2-4 |
装備(1943) | 155mm55口径M1930三連装砲3基9門 90mm50口径M1926連装高角砲4基8門 ボフォース40mm機関砲x24 エリコン20mm機関銃x16 550mm連装魚雷発射管2基4門 艦載機x2-4 |
装甲 | 舷側:20-105mm 甲板:38mm 砲塔:40-100mm バーベット:95mm 艦橋:50-95mm |
建造所 | Ateliers et Chantiers de Penhoët à Saint Nazaire,Saint Nazaire (ペノエ社サン=ナゼール造船所 フランス共和国ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ロワール=アトランティック県サン=ナゼール郡サン=ナゼール) |
- ジョルジュ・レイグはフランスのラ・ガリソニエール級軽巡洋艦の1隻で、ヴィシーフランスと自由フランスの双方で活動した。
同型艦として、La Galissonnière(ラ・ガリソニエール)、Jean de Vienne(ジャン・ド・ヴィエンヌ)、Gloire(グロワール)、Marseillaise(マルセイエーズ)、Montcalm(モンカルム)がいる。
- 1933年9月に起工、36年3月に進水、37年11月に就役。
ラ・ガリソニエール級はダンケルク級戦艦などとともに部隊を構成し通商破壊艦を撃退する目的で建造され、実際に第二次大戦が勃発すると「襲撃部隊」が結成された。
しかしその戦果で特にめぼしいものはなく、40年4月にはイタリアの脅威に対処するために北アフリカのメルセル・ケビール港へ移った。
- 6月のフランス降伏時点でジョルジュ・レイグはヴィシー政府に従属する立場を取り、姉妹艦のグロワール・モンカルムともどもトゥーロンに退避した。
9月にはアフリカのフランス植民地における自由フランス陣営の優勢を受け、ジョルジュ・レイグ含む第4巡洋艦部隊はトゥーロンを出港、ジブラルタルでイギリスに抑止されることもなく*1フランス領赤道アフリカへ向かった。
到着目前のリーブルヴィル沖にて豪重巡オーストラリアをはじめとした連合国軍に迎撃されるも、ジョルジュ・レイグとモンカルムは離脱に成功、9月末にあった英・自由仏によるメネス作戦(=ダカール沖海戦)を阻止するに至った。- ちなみに同伴していた姉妹艦のグロワールは豪重巡の追撃のさなか、エンジントラブルが原因で撒けずにカサブランカへ連行されてしまった(その後連合国軍として復帰)。
- 41年8月にカサブランカへ地金を輸送する任務のほかには何事もなく過ごしたジョルジュ・レイグであったが、43年のトーチ作戦においてはダルラン元帥による停戦受諾を受けて連合軍に復帰した。
43年初頭、連合国軍復帰に伴って大西洋の哨戒活動を開始し、封鎖突破船の迎撃を成功させている。
43年後半にはアメリカで航空艤装撤去と対空兵装増強の改修工事を行い、44年6月まで再び対封鎖突破船の哨戒活動に戻った。
- 44年6月からはノルマンディーのオマハ・ビーチや南フランスでの連合軍の上陸作戦を支援した。
その後ジェノヴァを中心としたイタリア沿岸部への艦砲射撃を45年3月まで行い、終戦を迎える。
- 戦後46年から47年にかけて大規模な改修工事を経て、第一次インドシナ戦争やスエズ危機における火力支援任務に就いた後、59年に除籍・解体となった。