所属 | 中華民國海軍 |
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艦種・艦型 | 六十八号巡洋艦 |
正式名称 | -(未命名) |
起工日 | 1915.4.15 |
進水日 | 未進水 |
就役日(竣工日) | 未就役(進捗30%以下でWWI戦後解体) |
全長(身長) | 137m |
基準排水量(体重) | 4823英t(4900t) |
出力 | Yarrow式石炭重油混焼缶14基Parsons式蒸気タービン2基2軸 37000shp(37513PS) |
最高速度 | 28.0kt(51.85km/h) |
航続距離 | 13.0kt(27.78km/h)/3000海里(5556km) |
乗員 | 380人 |
装備 | シュコダ50口径203mm連装砲2基 シュコダ47mm機関砲10門 シュコダ37mm機関砲4門 シュコダ7.9mm機銃8挺 450mm単装魚雷発射管2基(もしくは450mm連装魚雷発射管2基) |
装甲 | 舷側:60-102mm 装甲甲板:25-63mm 司令塔:102mm 砲塔:102mm |
建造所 | Cantiere Navale Triestino, Monfalcone (トリエステ海軍工廠モンファルコーネ造船所 旧オーストリア・ハンガリー帝国領キュステンラント トリエステ市モンファルコーネ) |
- CNT巡洋艦改め六十八号巡洋艦は、中華民国がオーストリア・ハンガリーに発注した装甲巡洋艦。
発注後まもなく勃発した第一次世界大戦により建造が中断、最終的に進水に至ることなく終わってしまった未成艦である。- 艦名のCNTは建造を担ったCantiere Navale Triestino(トリエステ海軍工廠)から。
「68」の数字は造船所での建造番号からである。
- 艦名のCNTは建造を担ったCantiere Navale Triestino(トリエステ海軍工廠)から。
- 一次大戦前の中華民国では新たな艦隊整備を目指し、各種艦艇の調達を計画していた。
ドイツからフルカン級駆逐艦(6隻を予定)のほかにも、オーストリアから小型駆逐艦12隻*1を調達予定としたのがその例である。
しかし前者はイギリスの介入で頓挫し別計画*2に付け替え、後者も融資を受けていた外国銀行との交渉の末、CNTに装甲巡洋艦1隻を発注する計画に変更された。
この後者代替案となった装甲巡洋艦が本艦であった。 - 六十八号巡洋艦は、オーストリアで建造されていた軽巡洋艦「アドミラル・シュパウン」および「ヘルゴラント級」をその設計ベースとしつつも規模は全体的に拡大、主砲は203mm連装砲2基と比較的強力な武装としたのが特徴的であった。
一方で中国近海の広範な哨戒範囲という実用面上の問題点も考慮し、副砲火力を犠牲として機関や燃料積載量を重視した。- 軽巡洋艦とはいっても、当時においては正式には「軽装甲巡洋艦」(Light Armored Cruiser)であり、後代の条約型軽巡洋艦とは意味合いが異なる。
8inch級火砲を搭載したという点では条約型"重巡洋艦"に当てはまる*3ので、場合によっては重巡洋艦とみなされることもあるようだ。
- 軽巡洋艦とはいっても、当時においては正式には「軽装甲巡洋艦」(Light Armored Cruiser)であり、後代の条約型軽巡洋艦とは意味合いが異なる。
- 中華民国の海軍整備構想では、装甲巡洋艦1隻と防護巡洋艦3隻で構成された巡洋艦戦隊*4の追加があったといわれ、同じくCNTに発注された六十四号型防護巡洋艦3隻と合わせて第2巡洋艦戦隊新設も見込めた。
またそれとは別に、六十八号巡洋艦発注の数年前に座礁喪失した巡洋艦「海天」(海圻の姉妹艦)の代艦としての側面も持ち合わせていた。
- 1914年に正式に発注された六十八号巡洋艦だったが、まもなく第一次世界大戦が勃発(火種である)。
開戦後急速に高まった墺海軍艦艇の需要や、中華民国がどちらの陣営に属するのかといった問題から、六十八号巡洋艦をオーストリア・ハンガリーが接収した場合の改設計案*5も同時に検討され始めた。
そうこうしている間に、1915年5月にはイタリアの造船所への侵攻・占領を受けて建造が中断してしまった。 - 1917年10月にオーストリア・ハンガリーが造船所の奪還に成功し建造を再開したが、そのおよそ2か月前に中華民国はドイツ・オーストリアへ宣戦布告していたため、六十八号巡洋艦はオーストリア・ハンガリー海軍によって接収されることが確定的となった。
これにより中華民国の海軍整備計画は支障をきたし始め、1930年代の寧海取得まで旧式艦でのやりくりを余儀なくされることとなった。
- 六十四号型巡洋艦3隻と六十八号巡洋艦の計4隻がオーストリアの手に渡ったことで、自国向けとして設計が全面的に見直された。
主砲は150mm単装砲8門とし、高まりつつあった航空機の脅威に対応するため90mm高射砲も搭載することとなった。 - …だがもはや遅すぎた。
資源に事欠く状況では満足に建造も進められず、そのまま1918年にオーストリアは敗戦。
造船所のあったトリエステはイタリア領となったものの、すでに賠償艦を多く得ていたイタリアは建造中の巡洋艦を持て余してしまうことから、ほどなく解体されていった。