No165 涼月/元ネタ解説

Last-modified: 2019-01-06 (日) 19:48:48
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型秋月型駆逐艦
正式名称涼月(すずつき)
名前の由来涼月 さわやかに澄みきった秋の月
起工日1941.3.15
進水日1942.3.4
就役日(竣工日)(1942.12.29)
除籍日(除籍後)1945.11.20(1948.4解体 船体は福岡県北九州市若松区若松港の防波堤に利用)
全長(身長)134.2m
基準排水量(体重)2700英t(2743.3t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶3基艦本式蒸気タービン2基2軸 52000shp(52721.2PS)
最高速度33.0kt(61.11km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/8000海里(14816km)
乗員263~450名
装備(竣工時)65口径八九式10cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x4(2x2)
61cm四連装魚雷発射管1基4門
爆雷投射機x2
爆雷投下軌条x2
装備(1944)65口径八九式10cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x19(5x3+4x1)
61cm四連装魚雷発射管1基4門
爆雷投射機x2
爆雷投下軌条x2
装甲なし
建造所三菱重工業長崎造船所 (現 三菱造船社長崎造船所) (日本国長崎県長崎市)
  • 大日本帝國海軍が建造した秋月型駆逐艦の4番艦。凉月と書かれる場合があるが、公式には涼月。
    1941年3月15日、三菱重工長崎造船所で起工。開戦後の1942年3月4日に進水し、竣工は1942年12月29日。ミッドウェー海戦はおろか、第三次ソロモン海戦にも参加できていない。
  • 時期が時期だけに、その経歴はそれほど長くない。だが、おそらくは日本海軍の駆逐艦でもトップクラスに激しい経歴を持っていたりする。
  • 同時期に就役した3番艦の初月とタッグを組んで横須賀鎮守府第61駆逐隊に編入。1943年1月16日、呉への回航途中に米潜ハドックを発見し爆雷を投下。しかし逃げられた。
    2月1日から呉工廠に入渠し、機銃の増設工事を受ける。
  • 初の任務として、佐伯からトラックに向けて出発する第二航空戦隊の護衛を担当する。3月22日、佐伯を出航。5日後に無事トラックに辿り着く。
    5月22日、ブーゲンビル島方面で戦死した山本五十六長官の遺骨を乗せた戦艦武蔵を護衛してトラックを出発。横須賀まで送り届けた。
    6月26日には、呉で第10戦隊の旗艦となっている。
  • 空母の護衛という本来の任務には就けず、ひたすら船団護衛や輸送に徹する日々が続く。
    7月10日、陸軍部隊をブカ島へ輸送。同月30日、タンカーの日章丸と健洋丸をパラオからトラックへ護送。続いてトラックを出発して第5戦隊を護衛。8月6日、ラバウルへ到着し兵員を揚陸。
    同月27日、第4艦隊旗艦の鹿島をクェゼリンまで護衛。
  • 黙々と任務に従事する涼月に艦隊決戦の機会が巡ってくる。米機動部隊を雌雄を決するためのZ作戦が立案され、その実行戦力に選ばれたのだ。
    1943年9月17日、戦艦や空母を含む大艦隊に混じってトラックを出撃。ブラウン島に進出し、敵を求めて遊弋した。
    ところが神出鬼没な米艦隊は簡単には見つからず、空振りに終わってしまう。10月23日、ウェーキ島近海で待ち伏せを行うも、また空振り。
    ただただ貴重な燃料を浪費しただけだった。
  • 12月7日、瑞鶴や筑摩を護衛してトラックを出発。11日に呉へと入港する。
  • 特筆すべきは、その短い経歴の間に3度も轟沈レベルの被害を受けてそのたびにギリギリで生還、終戦まで生き残ったことである。

  • 1度目は米潜水艦スタージョンによる魚雷攻撃。1944年1月16日、ウェーキ島への補給のため護衛任務に就いていたところを雷撃された。
    前部と後部に1本ずつ魚雷が命中し弾薬庫誘爆、艦首、艦橋、艦尾、及び周辺の武装等を亡失。残った中央部のみ、僚艦の初月に曳航されて生還(?)した。
    第61駆逐隊司令泊大佐、瀬尾艦長、原機関長、古川水雷長、蓑島砲術長、高橋航海長といった要員が軒並み戦死し、乗員206名と便乗の独立混成第5連隊兵員89名が死亡する大惨事となった。
    生死の境を彷徨ったものの1月19日、どうにか呉工廠に入渠。この時の修理で艦首部分の形状が変更され、姉妹艦との識別点となっている。
    また、修理のついでに機銃も増設されてる。

  • 2度目も米潜水艦ベスゴによる魚雷攻撃。1944年10月16日、大分から台湾の基隆へ向かっていたところを雷撃された。同時期に台湾は米機動部隊の空襲を受けており、その巻き添えを喰らう形となった。
    艦首と1番砲塔下に命中。千切れた艦首を亡失。1番砲塔下に命中した魚雷は不発であったが、爆発していたら轟沈してもおかしくなかった。
    この時は自力で撤退し、生還している。11月11日に修理を完了した。

  • 3度目は坊ノ岬沖海戦時に米空母エセックス所属のSB2Cによる爆撃。1945年4月7日の出来事だった。
    投下された150キロ爆弾3発のうち、1発が艦橋前に直撃、2発が後方で至近弾となった。海図の殆どと通信装置を喪失、ジャイロコンパスも破損。1番、2番砲塔も大破、弾薬庫の殆どやボイラー室にまで浸水した。
    機関室は無事で、残ったボイラーにより速度20ktが発揮できたが、前進すると頭から海中に突っ込んでしまうため、後進で撤退を開始した。
    火災の鎮火が出来ず、敵から良い標的にされていたが奇跡的に爆弾は命中しなかった。
    • この時、艦内では乗組員たちの死闘があった。浸水を食い止めるため木材を押し当てたまま炎に焼かれて絶命した者、脱出を諦め居住区で浮力の維持に努めた者、様々な努力の末にかろうじて涼月は生き残った。
    • 通信装置が破壊されたため僚艦との連絡がつかず、涼月は洋上で孤立した。生き残っていた冬月が近海を捜索するも、やはり発見出来ず放棄が決定。
      しかし生存の可能性を捨て切れなかった冬月は佐世保へ帰還すると、捜索の要請を出した。
  • 方向が分からなかったため、捜索に来た駆逐艦初霜に方向を教えてもらった。9ノットしか出せなかったが、米潜の襲撃を乗り切っている。
    また、途中で味方航空隊に発見され、漁船に援護されて4月8日に佐世保へ帰還した。
    長らく連絡が取れなかったため生存は絶望視されており、帰還してくる鉄の塊が涼月だと分かると佐世保軍港はサイレンを鳴らして歓迎した。
    これに応えるかのように乗組員たちは後部甲板に集まり、軍歌を斉唱したという。14時30分、佐世保に生還。4時間後、第七船渠に入渠したが排水作業中に力尽き、ドック内に着座している。

  • その後の5月5日、第1第2砲塔と機銃を撤去した状態で応急修理終了。停泊には支障ない程度に修理されたものの深刻な資材不足により本格的な修理が行えず、放置される事になった。
    6月10日、佐世保西部のえびす湾に係留され防空砲台として機能。係留されたまま対空戦闘などを行った。その際、米軍戦闘機1機の撃墜を報告している。
    7月4日には第4予備艦となり、陸上に電力を供給。そして8月15日、なんだかんだで完全に沈没することもなく終戦を迎える。11月20日、除籍。
    解体された後に防波堤として再利用。現地では軍艦防波堤と呼ばれ親しまれたという。

  • 時は流れ、2014年3月12日。海上自衛隊では1隻の護衛艦が就役した。あきづき型護衛艦3番艦「すずつき」である。
    当然の如く、表面的には平和な御時世である。先代のようにハードな経験をせず、無事に退役まで頑張って貰いたいところである。どう考えてもまだ20年以上あるけど。