No194 アルバコア/元ネタ解説

Last-modified: 2018-02-24 (土) 19:52:52
所属United States Navy
艦種・艦型ガトー級潜水艦
正式名称USS Albacore (SS-218)
名前の由来Albacore 英語でビンナガ、ビンナガマグロ
起工日1941.4.21
進水日1942.2.17
就役日(竣工日)1942.6.1
除籍日(除籍理由)1945.3.30(1944.11.7沈没)
全長(身長)93.3m
基準排水量(体重)1525英t(1549t)
出力General Motors製V16ディーゼルエンジン4基(ディーゼル・エレクトリック推進)
水上:General Electric製電気モーター4基2軸 5400shp(5474.9PS)
水中:General Electric製電気モーター2基2軸 2740shp(2778PS)
最高速度水上:21.0kt(38.89km/h) 水中:9.0kt(16.67km/h)
航続距離水上:10.0kt(18.52km/h)/11000海里(20372km)
水中:2.0kt(3.70km/h)/96海里(177.79km)/48時間
乗員指揮官6名 乗組員54名
装備(建造時)3inch50口径単装砲1門
21inch魚雷発射管10門(前方6門後方4門)
ボフォース40mm機関砲orエリコン20mm機関砲
建造所General Dynamics Electric Boat, Groton, Connecticut
(ジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート社 アメリカ合衆国コネチカット州ニューロンドン郡グロトン町)
勲章Presidential Unit Citation
不明(9 stars)
  • アメリカ海軍ガトー級潜水艦。艦名は魚のビンナガマグロの英語名にちなんでいる。
  • ガトー級潜水艦はアメリカ海軍で採用されていたタンバー級潜水艦の改良型として生産されたものである。
    当初はタンバー級と同じ括りであったが、後にガトー級として別級の潜水艦とされた。
    前部と後部合わせて10門の魚雷発射管を装備、さらに魚雷は24本搭載可能であり、主砲・機銃を甲板など装備している。
    もっとも、戦争後期には艦長らの判断で各々武装を強化するなどの改造が施されている。
    前部と後部合わせて2門の3インチ砲を備えた物や、ロケット砲、12.7mm機銃の増設など重武装化が施された物も存在する。
    • こうした甲板武装の強化は、浮上して日本船を攻撃し、魚雷を節約したり魚雷が当たらない小型船舶用に使用された。
      実際、小型漁船を武装しただけの特設監視船などの日本海軍船舶に対しては有用であり、猛威を振るっている。
  • ガトー級は後発のバラオ級と共に日本海軍に対する通商破壊活動へ主に投入されている。
    その一方で、撃墜され漂流するパイロットの救出活動、敵占領地帯へのスパイ潜入等の作戦等裏方の仕事にも多く使われた。
    その活躍から、太平洋戦争における影の立役者と評される事もある。
  • バラオ級と合わせて、第二次世界大戦の米軍主力潜水艦であり、戦後も幾つかが他国へ貸与され、日本の海上自衛隊にも初の潜水艦「くろしお」として配備されている。
    また、日本は貸与されたガトー級から得た技術を戦後開発の国産潜水艦に生かしている。
     
  • アルバコアは1941年4月21日にグロートン造船所で起工、その後42年2月17日に進水、6月1日に就役した。就役後、若干の慣熟訓練を行ってパナマ運河を通過。太平洋側へと進出した。
    その後、アルバコアは太平洋にて多くの哨戒活動へと参加、その中で多くの戦果を上げた。
    諸元は排水量1550トン、最大速力20.3ノット、水中では8.8ノット。武装は21インチ魚雷発射管10門、魚雷24発、3インチ甲板砲1基、ボフォース40mm対空砲1基だった。
    マグロ、作戦開始

    太平洋艦隊に編入されたアルバコアは、1942年8月12日に真珠湾へ入港する。初の任務としてトラック諸島方面の哨戒任務に就いた。9月5日にはタラワを偵察し、続いてナウルも偵察する。
    偵察中の13日、トラック近海で輸送船を雷撃し損傷させた。10月1日と同月10日にも輸送船を雷撃しているが、どちらも外れた(ちなみに日本側には該当する船の記録が無い)。
    クェゼリンへの偵察任務を終え、10月20日にミッドウェー島へ帰投。オエリコン20mm対空機銃1基を新たに装備した。こうしてアルバコア初の哨戒任務は終わった。
    11月11日、再び出撃してソロモン方面の哨戒任務に就く。同月24日、輸送船に雷撃を行うが外れる。明後日には敵駆逐艦4隻に追い回され、爆雷攻撃を受けて損傷。気密室とケーブルの周囲に破孔が幾つか発見される。
    12月13日、発見した駆逐艦3隻へ魚雷3本を撃ち込んだが、命中せず。今まで撃沈の戦果に恵まれなかったアルバコアであったが、遂に戦果を挙げる時がやってきた。
    12月18日、マダンの攻略部隊を乗せた船団をビスマルク海で捕捉。距離3200mの地点から魚雷3本を放ち、2本が軽巡天龍に命中し撃沈した。WW2において、米潜水艦が初めて戦果を挙げた瞬間であった。
    護衛の駆逐艦涼風と磯波から爆雷攻撃を受け、日本側は大破させたと認識したが実際は無傷であった。翌日、戦果確認のため現場に戻ると、木片と85個のドラム缶の破片が浮いていた。
    11日後、ブリスベーンへ帰投し船体の修理を受けた。

     

    1943年からはブリスベーンを拠点として、ビスマルク海方面での哨戒任務に就く。この海域はソロモン方面への重要な航路で、日本軍の船舶が往来しているこの海域は絶好の狩り場と成り得た。

    1月20日、ビスマルク海にて通商破壊を始める。26日に輸送船を、28日に敵潜水艦を雷撃したが、命中せず。2月7日、ウェワクを偵察した。
    2月20日、マヌス島北方でラバウルからウェワクへ向かう日本船団を発見。直ちに雷撃を仕掛け、護衛の駆逐艦大潮を損傷させる。この大潮は翌日、曳航に失敗して沈没した。
    またアルバコアは貨物船一隻を損傷させたと記録したが、日本側に該当する船は無い。3月11日、ブリスベーンに戻る。
    4月6日、再びビスマルク海を哨戒。何度か輸送船に雷撃を行ったが、戦果はからっきしであった。同月29日に船団を発見し、攻撃しようとしたものの病院船の吉野丸がいたため中止。この哨戒では戦果は無かった。
    6月16日、未だ獲物が多いビスマルク海へ進出。この哨戒でも輸送船団に対し2回雷撃を行ったが、命中弾は無し。7月31日、ブリスベーンに帰投し、潜水母艦フルトンから整備を受けた。
    8月23日に狩場のビスマルク海へ戻った。9月4日、ポナペで発見した輸送船団に対し魚雷4本を発射し、特設砲艦平壌丸を撃沈。久々の戦果だった。さらなる戦果を挙げるべく船団を追跡。
    さらに3本の魚雷を放ったが、命中しなかった。翌日、特設運送船北昭丸を雷撃し、命中させるが不発に終わる。6日、輸送船団を雷撃。
    10月12日、ブリスベーンを出港。輸送船2隻に魚雷6本を発射したが、いずれも命中せず。11月6日、僚艦スティールヘッドが発見した船団を攻撃するため向かっていたが、
    その道中の8日、アメリカ第5航空軍のB-25爆撃機から誤爆を受けて小破させられてしまう。さらに10日には二度目の誤爆を受け、慌てて急速潜航をする。
    18m潜ったところで、わずか135mの場所で爆発が起きる。このダメージで補助電源が全て停止。更にメインの吸気弁が損傷するが、現場にて応急修理。
    それでも哨戒を続け、12日に航行不能になった軽巡阿賀野を発見。かの艦を沈めるべく忍び寄ったが、日本艦が9隻も護衛についており、駆逐艦から4時間に及ぶ爆雷攻撃を受けて退避させられた。
    窮地を脱したアルバコアは25日、ロレンゴウ北西約270キロの地点で船団を発見。雷撃を仕掛けて陸軍輸送船乾山丸を撃沈した。
    12月26日、ビスマルク海に舞い戻り、ツラギへ寄港した。

     

    1944年1月12日、トラックの南西約600キロで特設運送船第二号長江丸と、それを曳航していた隼艇1隻をまとめて葬った。14日にはパラオ東方で駆逐艦に4本の魚雷を放ち、2本が命中。漣は轟沈した。
    直後に僚艦の曙から59発の爆雷攻撃を受けるも、簡単にいなしてツラギへ戻った。その後、ミッドウェーを経由して2月22日に真珠湾へ帰投。ヴァレーホ工廠で整備を受けたのち、姉妹艦のシャドと訓練。
    5月13日、真珠湾を出港。陸軍のマリアナ諸島攻略と連動して、マリアナ近海に進出。6月11日、輸送船団を発見するが攻撃は出来なかった。
    そして一大決戦たるマリアナ沖海戦が生起。6月19日午前7時16分、陸上攻撃機が接近してきたため潜航してやり過ごす。一方、日本の補給部隊を追跡していた僚艦カヴァラは、各艦にその位置を通報。
    カヴァラから最も近い位置にいたアルバコアは見張りを厳重にして索敵。午前7時50分、遂に本丸の日本艦隊を確認した。小沢司令官座乗の旗艦大鳳では、敵をアウトレンジで攻撃できるとして油断が生じていた。
    さっそく雷撃しようと追跡を開始するが、なかなか望ましい位置に付く事が出来ない。仕方なく、やや遠距離からの雷撃を決意する。
    午前8時10分、ヤップ島東方で大型空母大鳳に向けて魚雷6本を発射。うち2本が命中コースだったが、大鳳から発艦した彗星が海中に突っ込んで自ら盾となり、1本が食い止められる。
    しかし残りの1本はそのまま伸びていき、ようかく気付いた大鳳側が面舵一杯で必死に回避しようとしたが命中。命中当初は平然と浮かんでいたが、艦内で不幸の連鎖が起こり、16時28分に沈没した。
    アルバコアが撃沈を把握したのは翌7月15日だった。超大物を仕留めたものの、喜ぶ暇は無かった。すぐに護衛の駆逐艦「秋月」「初月」が追撃に現れ、25発の爆雷が投射された。
    巧妙な攻撃に苦戦するも、どうにか離脱に成功した。

    マリアナ沖海戦が米軍の勝利に終わった後の6月30日、ファイス島のリン酸塩生産施設を砲撃。7月3日には機帆船大栄丸を砲撃により撃沈。生存者を救助しようとしたが、殆どが拒否。結局5名しか救えなかった。
    同月15日、メジュロに凱旋して潜水母艦ブッシュネルから改装を受けた。
    8月8日、日本近海で哨戒。21日、対潜哨戒中の特設駆潜艇新港丸に魚雷3本を撃ち込んだが、回避される。9月5日、室戸岬の南方約95キロで貨物船新月丸を撃沈。6日には潮岬沖で特設掃海艇第三江口丸を撃沈した。
    11日、第165号駆潜艇を撃沈。日本近海で大いに暴れまわったアルバコアは一度真珠湾へ戻った。そして1944年10月28日の通信を最後に消息不明となる。

     

    11月7日、津軽海峡東口で哨戒任務中、第七福栄丸と遭遇する。アルバコアは海中に身を潜め、撃沈の機会を狙っていた。ところが第七福栄丸を追跡しているうちに日本軍が敷設した機雷群に突入してしまう。
    その結果、触雷して沈没。艦長以下36名が死亡した。沈没してから5分の間は気泡が止まらず、また遺留品が海面に浮かび上がってきた。
    第七福栄丸の乗員は漂っている物品を回収。背部に「ALB-5」と書かれた防寒ジャンパー、靴下、「ASK」と書かれた衣、ラッキーストライク一箱、キャメル五個、洗濯石鹸などがあったという。

    こうして帝國海軍の心胆を寒からしめた悪魔は、最期を迎えたのだった。1945年3月30日、除籍。
    沈没にまでに軍艦5隻(3万6500トン)、商船4隻(1万841トン)を撃沈した。

     
    確認できる戦果でも、42年から44年末の2年間の間に述べ12隻の日本艦船を撃沈しており、名実ともにアメリカ潜水艦のエース艦とも呼ぶべき存在である。
  • 特筆すべき点としては、彼女は日本海軍の戦闘艦を多数沈めた事が挙げられる。
    1942年12月18日に、船団護衛中であった日本海軍の軽巡洋艦天龍を撃沈。
    さらに1943年2月21日、駆逐艦大潮を雷撃し損傷を与え、沈没まで追い込んだ。
    また、1944年1月14日には駆逐艦漣を雷撃、これを沈めている。
    • そしてマリアナ諸島沖での哨戒でアルバコアはその戦歴で最大の戦果、日本海軍空母大鳳を撃沈する。
      6月19日、マリアナ諸島沖での作戦行動支援のため出撃していたアルバコアは小沢艦隊を追撃中に大鳳を発見。
      魚雷6本を発射し、うち1本が大鳳に命中、これを撃沈する事に成功した。
      もっとも、護衛の駆逐艦からの反撃により早々に離脱したアルバコアは戦果を確認出来ず、艦長や司令部含めて当初は大鳳を沈めそこなったと考えていた。
       
  • エース艦であったアルバコアであったが、華々しい戦果の裏には幾度とない危機が付き纏っていた。
    43年11月には友軍のB-25爆撃機に誤爆され軽度の損傷を受ける。
    さらにツイてない事に2日後、また友軍機に誤爆され、補助電源停止・吸気弁故障という洒落にならない大打撃を受けている。
    さらに同月、潜水艦スキャンプの雷撃で大破した軽巡洋艦・阿賀野を攻撃しようと接近したアルバコアは、護衛駆逐艦から執拗な攻撃を受け、4時間以上も爆雷で攻撃された。
    駆逐艦漣を撃沈した際は、ほかの駆逐艦から爆雷攻撃を受け計59発の爆雷を投下された。
    また、大鳳撃沈の際は護衛の駆逐艦から計25発もの爆雷をお見舞いされており、非常に危険な状況であった。
     
  • しかし、これら危機を生き抜いた武勲艦アルバコアは大戦を生き延びる事は出来なかった。
    1944年11月7日、津軽海峡にて哨戒中のアルバコアは潜水中に対潜機雷に接触し沈没、乗員全員が戦死。呆気ない最後であった。
    この沈没の瞬間は付近を航行していた特設掃海艇、第七福栄丸によって目撃されており、同船はアルバコアが沈没した付近からアルバコアの残骸や乗員の遺留品を回収している。
    その性質上、行方不明(喪失)になった場合、沈没原因や沈没位置が分からない場合が多い潜水艦の中で、アルバコアははっきりとその最後が確認されている。
  • 12月10日の帰投予定日を過ぎてもアルバコアは帰艦せず、アメリカ海軍はアルバコアを喪失と断定。
    1945年3月30日に正式に除籍された。
    戦後、アルバコアの名前はアメリカ海軍の実験潜水艦(AGSS-569)に引き継がれている。