No195 アーチャーフィッシュ/元ネタ解説

Last-modified: 2018-02-24 (土) 19:55:21
所属United States Navy
艦種・艦型バラオ級潜水艦
正式名称USS Archerfish (SS-311)
名前の由来Archerfish 英語でテッポウウオ
起工日1943.1.22
進水日1943.5.28
就役日(竣工日)1943.9.4
退役日(除籍後)1968.5.1 同日除籍(1968.10.19標的艦として沈没)
全長(身長)95.05m
基準排水量(体重)1470英t(1490t)
出力Fairbanks-Morse製V16ディーゼルエンジン4基 (ディーゼル・エレクトリック推進)
水上:Elliott Company製電気モーター4基2軸5400shp(5474.9PS)
水中:Elliott Company製電気モーター2基2軸 2740shp(2778PS)
最高速度水上:20.25kt(37.50km/h) 水中:8.75kt(16.20km/h)
航続距離水上:10.0kt(18.52km/h)/11000海里(20372km)
水中:2.0kt(3.70km/h)/96海里(177.79km)/48時間
乗員指揮官10名 乗組員71名
装備(建造時)5inch25口径単装砲1門
21inch魚雷発射管10門(前方6門・後方4門)
ボフォース40mm機関砲orエリコン20mm機関砲
建造所Portsmouth Naval Shipyard, Kittery, Maine
(ポーツマス海軍工廠 アメリカ合衆国メイン州ヨーク郡キタリー町)
勲章Presidential Unit Citation
不明(7 stars)

バラオ級潜水艦について

  • アメリカ海軍バラオ級潜水艦。
  • 米海軍の主力潜水艦であったガトー級の次級として開発された潜水艦である。
    ガトー級との相違点は安全潜航深度を122メートルまで増加させた点にあった。
    その他、艦橋や艦の構造などが変更されているが、基本的な部分はほぼガトー級と変わりはない。
  • バラオ級の主な運用は、ガトー級と同じく日本に対する通商破壊活動であった。
    墜落したパイロットの救出活動や、スパイの運搬などの任務もガトー級と同じであり、太平洋戦争の勝利に貢献した。
  • バラオ級は太平洋戦争中盤から後半にかけて戦線へ投入され、多くの戦果を残した。
    代表的な物では戦艦「金剛」を撃沈したシーライオン、疎開船「対馬丸」を撃沈した悪名高い「ボーフィン」等が存在する。
    また、ゲーム内実装艦では、1人の艦長・1隻の潜水艦としてアメリカ海軍最大の撃沈総トン数を誇るタングもこのバラオ級潜水艦である。
  • 余談であるが、2017年現在、台湾海軍に売却されたバラオ級潜水艦タスクこと「海豹」が現役で稼動している。
    就役から現在にいたるまで艦齢71という長寿艦である。

建造から太平洋戦争終盤の戦歴

  • 艦名である「アーチャーフィッシュは」はテッポウウオに因んでいる。
    1943年1月22日に起工、5月28日進水、9月4日就役という短期間で戦場へ投入された。
  • 投入されてまもなくの12月23日、アーチャーフィッシュは初陣を迎える。
    アメリカ潜水艦の例にもれず、アーチャーフィッシュは哨戒活動に参加。東シナ海、台湾近海、パラオ、小笠原諸島など太平洋の各海域を転々とした。
  • しかし43年から44年までの哨戒任務でアーチャーフィッシュは非常に地味な戦績しか残せなかった。
    唯一、44年の6月28日に日本海軍の第二十四号海防艦(丁型海防艦)の撃沈に成功。
    後述の艦船と合わせて、アーチャーフィッシュの数少ない戦果の一つに数えられている。
    その他はトロール船(特設監視船の可能性もある)などの撃沈、落水したパイロットの救出などの成果を残した。
  • 44年9月、アーチャーフィッシュの新しい艦長としてジョセフ・F・エンライト少佐(1910年~2000年没)が着任する。
    エンライト少佐は以前、潜水艦デイスの艦長であったが、初の哨戒作戦中に翔鶴撃沈のチャンスを逃してしまった。
    そして、帰投後に「翔鶴撃沈を逃したのは自分の責任である」と自ら具申し、艦長職を退いて地上勤務を申し出たという人物。
    その1年後にアーチャーフィッシュの艦長として、再び潜水艦乗りとして戻ってきたのだった。

信濃撃沈

  • 44年11月。アーチャーフィッシュは日本近海への哨戒活動に出撃する。
    この時の主な任務は日本本土爆撃へと向かうB-29の支援であった。
  • 運命の11月27日、アーチャーフィッシュはB-29の支援任務に48時間の猶予が出来たため、その間に日本の攻撃に専念。
    ついに20時48分、横須賀を出港した航空母艦・信濃の捕捉に成功する。
    アーチャーフィッシュはすかさず信濃の追跡を開始するが、それと同時に随伴艦であった日本海軍第17駆逐隊もアーチャーフィッシュの存在を確認。
    攻撃こそなかったが、アーチャーフィッシュの存在が露見してしまう。
    ジグザグ航行を試みて日本艦隊が牽制する中、アーチャーフィッシュは針路を先回りする形で信濃を迎え撃った。
  • 日付を跨いだ11月28日3時18分、アーチャーフィッシュは魚雷6本を発射。そのうち4本が信濃へと命中。信濃は沈没した。
    信濃は大和型戦艦の船体を流用した強固な艦であったが、ダメコンの不備などの人的要因が重なった事が沈没原因に挙げられる。
    また、エンライト艦長が転覆を狙って深度10メートルに魚雷を設定させ、周到に狙いを定めた事も要因の一つである。
    こうしてアーチャーフィッシュは記録史上、もっとも大型の艦船を沈めた潜水艦という偉業を成し遂げ、エンライト艦長は翔鶴追跡失敗の雪辱を晴らす事となった。
    • …もっとも、アメリカ軍が信濃の存在を把握していなかったため、報告でゴタゴタしまくった上に「28000トン空母撃沈」と認定されるというオチもついた*1
      戦後の1946年になって信濃の詳細が判明したのち、改めて59000トン空母撃沈と認定・表彰されている。

終戦とその後

  • 1945年1月、アーチャーフィッシュはルソン海峡方面への哨戒活動へと参加。僚艦と共にウルフパックを組み、日本海軍を迎え撃った。
    哨戒中の2月14日、アーチャーフィッシュは日本軍の潜水艦を攻撃、これを撃沈したと報告するも、戦後の調査で撃沈未確認であったと訂正された。
    なお、この時に撃沈したと思われていた敵潜水艦は日本陸軍の潜水艦こと「まるゆ」であったと言う。
    この哨戒活動中にアーチャーフィッシュは艦首に損傷を負ったため、修復とオーバーホールのため帰還した。
  • その後、1945年7月にまた新たな哨戒へと出撃したアーチャーフィッシュは、これといった戦果もなく北海道沖を哨戒中に終戦を迎えている。
    アーチャーフィッシュは信濃の撃沈という偉業を達成した事から、従軍星章7個・殊勲部隊章1個を授与されている。
    1946年に退役後、朝鮮戦争の勃発に伴い、1952年に再度就役した。その後も55年に再び退役するが、その2年後の57年にまたも再就役し、海洋調査任務に従事した。
    ようやく1968年に予備役編入され、除籍されたアーチャーフィッシュは同年10月19日に新型魚雷の標的艦として使用され、サンディエゴ沖に沈没した。

*1 信濃川に由来する巡洋艦改造空母と推測されたため