No198 U505/元ネタ解説

Last-modified: 2023-12-31 (日) 02:32:47
所属Kriegsmarine→United States Navy(1944)
艦種・艦型IX C型潜水艦
正式名称U 505→Nemo(1944)
Unterseeboot Fünf hundert fünf(フュンフ フンダート フュンフ 5x100+5)
名前の由来Nemo ラテン語で誰でもないという意味
Captaine Nemo フランスの小説家でありSFの父ジュール・ガブリエル・ヴェルヌのSF冒険小説「Vingt mille lieues sous les mers(海底二万里)」に登場するノーチラス号の船長
起工日1940.6.12
進水日1941.5.25
就役日(竣工日)1941.8.26
アメリカ海軍鹵獲日1944.6.4
除籍日(除籍後)1953(アメリカ・シカゴのMuseum of Science of Industryで展示)
全長(身長)76.76m
基準排水量(体重)1120英t(1138.0t)
出力浮上時:MAN製9気筒ディーゼルエンジン2基2軸 4400PS(4339.8shp)
潜水時:Siemens-Schuckertwerke製電気モーター2基2軸 1000PS(986.3shp)
最高速度水上:18.2kt(33.70km/h) 水中:7.3kt(13.52km/h)
航続距離水上:10.0kt(18.52km/h)/13450海里(24909.4km)
水中:4.0kt(7.41km/h)/63海里(116.676km)
乗員48~56名
装備(建造時)10.5cm45口径SK C/32単装砲1門
3.7cmSK C/32機関砲x1
2cmC/30対空機関砲x1
53.3cm魚雷発射管5門(艦首:4門 艦尾:2門)
装甲なし
建造所Deutsche Werft AG, Hamburg-Finkenwerder
(ドイツ造船社 ドイツ連邦共和国ハンブルク州フィンケンヴェルダー)

ドイツ海軍が建造したUボートIXC型の一隻。日本に供与されたU511の姉妹艦でもある。
連合軍に鹵獲されており、限定任務の「最高の戦利品」とは連合軍の視点である。

 

1940年6月12日、ハンブルグ造船所の295番ヤードで起工。1941年5月25日に進水し、8月26日に竣工した。第4Uボート戦隊に編入され、竣工日から1942年1月31日まで訓練。
2月19日よりキールを出港し、初の哨戒任務に就く。イギリス本国をぐるりと一周し、3月3日にドイツ占領下のロリアンへ入港する。
3月11日、ロリアンを出撃し、86日間に渡ってアフリカ西岸を哨戒。貨物船4隻(合計20541トン)を沈める戦果を挙げた。大西洋中部で連合軍機に攻撃されたが、ダメージは無かった。
5月7日にロリアン基地へと帰投。7月7日からはカリブ海方面で哨戒を行い、貨物船3隻(合計12748トン)を撃沈。仕留めた商船の中にコロンビア籍の船があったため、これを口実にコロンビアはドイツに宣戦布告した。8月25日にロリアンへ戻った。
10月4日からも引き続きカリブ海で哨戒。11月7日にトリニダード沖でイギリス輸送船1隻を撃沈したが、U505の存在を知った連合軍に刺客を送られ、4日後にハドソン哨戒機と交戦。
艦橋後部に爆弾が命中したが、対空砲火によりハドソン哨戒機を撃墜し、難を逃れた。2週間に渡る部品交換を行ったのちミルヒクーに負傷者を移乗させ、12月12日にロリアンに帰投。修理を受けた。
そして再び哨戒のため海へ出たが、様々な欠陥が発覚して数日後に引き返す羽目になる。原因はロリアン工廠に勤めるフランス人の嫌がらせであった。
再度の入渠時にも、一斉にサボタージュ及び機器の破壊を行ったため、修理が遅々として進まず、完了したのは1943年10月の事だった。
どうにか修理を終えたU505は10月9日に大西洋へ出る。ビスケー湾を越えてアゾレス諸島に差し掛かった頃、英駆逐隊に発見され、執拗な爆雷攻撃を受ける。
この時にツェッヘ艦長が錯乱してピストル自殺。先任士官が指揮して、11月7日にどうにかロリアンまで戻ることが出来た。
12月25日、魚雷艇T25の乗員を救助。ブレスト軍港まで連れ帰った。この際に主電動モーターが炎上したため修理を受ける。

 

1944年3月16日、修理を終えて大西洋に進出。6月4日、ブランコ岬西南西にて機関故障のため浮上していたところを哨戒機に発見される。
米空母ガダルカナルを中心とした対潜部隊から攻撃を受け、重大な損傷を負ったと勘違いした乗員はU505を放棄。慌てて自沈作業をしたため完璧ではなく、沈まなかった。
2日後、無人となったU505を駆逐艦ピルスベリーに鹵獲され、バミューダ諸島へ回航された。アメリカにとって1812年以来、久々の鹵獲艦だった。
さっそく暗号資料が押収され、エニグマの解読に一役買った。ドイツ側に情報が伝わらないよう秘密裏に行われ、捕虜となった元乗員も隔離された。鹵獲までにU505は8隻の輸送船を撃沈した。

 

鹵獲されたU505はアメリカに渡り、ネモと名付けられた。鹵獲を秘匿するため、さもアメリカの潜水艦であるかのように振る舞った。そして様々な試験に利用され、連合軍に貢献する事となる。
バミューダ諸島に抑留されたU505は研究者や米諜報機関によって徹底的に調べ上げられた。彼女から得られたディーゼルエンジンの情報は、戦後の造船に役立てられた。
戦後はポーツマス海軍造船所にそのまま放置されていた。U505は部品の剥ぎ取り等が横行、打ち捨てられたも同然の状態であり、標的艦として処分する話が持ち上がった。
しかし、U505鹵獲に関与した米軍指揮官、ダニエル・V・ギャラリーはシカゴ科学産業博物館へU505について打診、寄贈の話が持ち上がり、U505の保管が決定した。
そして、終戦後の1954年、ポーツマスからシカゴへ回航、シカゴ産業科学博物館に展示された。
未だに現存する貴重なUボートで、料金を支払えば内部も見る事が出来る。
また、この展示に辺り、ドイツでUボートを製造していた多数のメーカーが「ドイツの技術を保存して貰えるのであれば」と剥ぎ取られて現存しなかった部品を無償で提供した事で修復されたという。