No248 大淀/元ネタ解説

Last-modified: 2021-04-26 (月) 21:24:33
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型大淀型二等巡洋艦(軽巡)
正式名称大淀(おおよど/おほよど)
名前の由来大淀川 日本国鹿児島県 宮崎県
起工日1941.2.14
進水日1942.4.2
就役日(竣工日)(1943.2.28)
除籍日(除籍後)1945.11.20(1945.7.28横転着底)
その後1947浮揚 1948.1.6解体
全長(身長)192.0m
基準排水量(体重)8164英t(8295.0t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶6基艦本式蒸気タービン4基 110000shp(111525.7PS)
最高速度35.0kt(64.81km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/10000海里(18510km)
乗員782名
装備(竣工時)60口径三年式15.5cm三連装砲2基6門
65口径九八式連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x12(6x2)
艦載機x6
装備(1945)60口径三年式15.5cm三連装砲2基6門
65口径九八式連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x57(12x3+21)
艦載機x6
装甲舷側:40~75mm 甲板:20~50mm
建造所呉海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社呉工場) (日本国広島県呉市)

大日本帝國海軍が建造した大淀型軽巡洋艦一番艦。元々は潜水艦隊の旗艦として設計されており、潜水艦が不得手とする索敵を補助すべく6機の搭載機を保有していた。
この機数は巡洋艦の中でも飛び抜けて多いが、その代償として船体の巨大化を招き、魚雷の装備を断念ぜさるを得なかった。
旗艦の役割を担うため通信機能が強化され、対空砲も数多く装備。その姿は重巡洋艦と見まごう巨体であった。さらに大淀は俊足の持ち主で、巨躯に似合わず素早く動く事が出来た。
このようなコンセプトで起工された大淀であったが、搭載するはずだった紫雲の開発が頓挫。潜水艦隊の旗艦になる事は無かった。

 

皇軍がガダルカナル島から撤退した直後の1943年2月28日に竣工。大淀は豊富な搭載量を活用して、輸送任務に従事する事となる。
魚雷を装備していないためか最前線に投入されず、黙々と物資を輸送する日々が続いた。
そんな中、1944年1月1日、カビエンに物資を届けた際に米機動部隊の空襲を受ける。この時、大淀は演習弾まで撃ち尽くす猛反撃を行い、自慢の快速で命中弾も出さなかった。被害は至近弾による小破のみだった。
この頃になると戦況が芳しくなく、戦艦を遊ばせる余裕が無くなりつつあった。このため司令部として運用していた戦艦を最前線に送り出す事になり、軍上層部は代わりの司令部用軍艦を探していた。
大淀の豊富なスペースは司令部の設置におあつらえ向きだったため、早速改装工事が行われた。そして連合艦隊旗艦という栄誉ある役職に就き、マリアナ沖海戦では木更津沖で指揮を執った。
だが無理やり司令部を載せたため艦のバランスが悪くなり、転覆しかける事もあったため結局司令部は陸上に移転。大淀が旗艦の座にいたのは僅か3ヶ月のみであった。

 

1944年10月、皇国の喉元であるフィリピンに米軍が大挙して襲来。大淀も迎撃戦力に組み込まれ、エンガノ岬沖海戦に参加。
得意の対空戦闘で多数の米軍機を叩き落とし、生き残るという活躍を見せた。が、守るべき空母は全滅した。
本土と南方の資源地帯の連絡が絶たれた1945年2月、大淀は南方地帯にいた。南方産資源をしこたま詰め込み、残存艦艇とともに本土へ決死の強行軍を敢行。
途中で米潜水艦や航空機の執拗なアプローチを受けたが、天佑神助により一隻の犠牲も出さず呉へ帰り着いた。しかし大淀の活躍はここまでだった。
燃料不足が深刻な本土には、大淀を動かす油が無かったのである。防空砲台として係留され、大淀は空の守りにつく。3月19日、米軍による初の呉軍港空襲が行われ、迎撃するも命中弾を受けて大破炎上。
何とか生きながらえたものの、1945年7月28日の呉軍港空襲で最期を迎える。爆撃で更なるダメージを受けた大淀は竜骨が折れて転覆。死んだ魚のように海を浮かぶだけになってしまった。
このままの状態で終戦を迎える。終戦後、大淀はドックに回航され解体。波乱の生涯を閉じた。

 
 

なお、幻に終わったものの、本艦には航空巡洋艦への改装案が存在したことが知られている(学研「日本の航空母艦パーフェクトガイド(歴史群像シリーズ)」などに資料が存在)。
それによると艦体前方に主砲を2門残し、中央~後部にかけて一段高くした全通甲板(カタパルト付)を装備。排水量は16,000トン程度に増大する予定だったとされる。
本作における大淀改はこのif改装プランが元ネタになっている。