No270 Z18/元ネタ解説

Last-modified: 2019-04-01 (月) 01:40:33
所属Kriegsmarine
艦種・艦型1936型駆逐艦
正式名称Z 18 Hans Lüdemann
Zerstörer Acht zehn (アハ ツェーン 8+10)
名前の由来Hans Lüdemann(-1913) ドイツ帝国海軍エンジニア 魚雷艇S148が機関室が爆発した時に勇敢な行動で多くの船員を救った。
起工日1936.9.9
進水日1937.12.1
就役日(竣工日)1938.10.8
除籍日(除籍理由)不明(独Schlacht um Narvik/英Battles of Narvik(第2次ナルヴィク海戦)1940.4.13沈没)
全長(身長)123.0m
基準排水量(体重)2411英t(2449.7t)
出力Wagner式重油専焼缶6基Wagner式蒸気タービン2基2軸 70000PS(69042.4shp)
最高速度38.5kt(71.30km/h)
航続距離19.0kt(35.19km/h)/2050海里(3796.6km)
乗員323名
装備(建造時)12.7cm45口径SK C/34単装砲5門
3.7cmSK C/30機関砲x4(2x2)
2cmC/30機関砲x7
53.3cm四連装魚雷発射管2基8門
爆雷投射機4基
爆雷投下軌条6基
装甲なし
建造所Deutsche Schiff- und Maschinenbau, AG Weser, Bremen
(ドイツ船舶・機械製造グループ ウェーザー社 ドイツ連邦共和国ブレーメン州ブレーメン)
 

ドイツ海軍が建造したZ17型駆逐艦の1隻。ハンス・リューデマンが正式名称である。1936年度計画によって建造された事から1936型と称される場合も。
Z1型やZ5型を改良した大型駆逐艦だが、船体がやや大きくなった点以外は大して変わりない。トップヘビーを避けるため、煙突を低くしている。全長及び全幅が増した事で外洋航行能力が飛躍的に向上した。
艦尾水線下のデッドウッドを削った結果、旋回力も向上。本級は、ナチスが政権を取ってから建造された新型駆逐艦だった。本来の予定では、26隻建造する予定だったが資材不足により6隻しか完成しなかった。
諸元は排水量2411トン、全長123.4メートル、全幅11.75メートル、最大速力40.4ノット、乗員定数323名(内訳は士官10名、乗組員313名)。建造費は1287万4666ライヒス・マルク。

名前の由来となったハンス・ハインリッヒ・アドルフ・リューデマンは海軍のエンジニアとして魚雷艇S148に乗り込んでいた。1913年5月14日、北海を航行している時だった。
若い研修生のミスで高圧シリンダーが爆発し、リューデマンは重度の火傷を負う。しかし彼は重傷にも関わらず部下に蒸気供給を止めるよう指示を飛ばし、自身は復旧作業に注力した。
彼の献身的かつ勇敢な行動により、機関室の要員は命を救われた。蒸気を止め、全てが収まるとリューデマンは倒れ伏した。同日夕方、ヘルゴラントの海軍病院へと運ばれたが死亡。

 

1936年9月9日、デジマーグ社で起工。1937年12月1日に進水し、1938年10月8日に竣工した。ハーバード・フリードリッヒ少佐が艦長として着任し、第三駆逐隊に編入された。
1939年9月3日、ドイツのポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発。姉のZ17に率いられ、Z18は北海で機雷敷設作戦「西の壁」に従事。スカゲラクの機雷封鎖を行った。
28日から30日にかけて輸送船を捜索し、付近を航行していた輸送船58隻中9隻を発見。位置をキールに通報した。それからは駆逐艦17隻を使った機雷封鎖に参加。
10月17日から翌日にかけて、Z18は大胆にもイギリスの警戒線を突破。英本土の沿岸に機雷封鎖を敢行。C型通常機雷の他に、恐怖の新兵器こと磁気信管付き機雷を敷設した。
元々はイギリス人が開発したこの機雷は猛威を振るい、イギリス側に「違法」と非難させる程だった。チャーチルは「大型磁気機雷による恐ろしい損害は完全には認識されなかった。
突如として大いなる危機が現れ、我々の生命線を切断せんとしたのである・・・・・・」と回顧している。Z18以外にも多数の駆逐艦がイギリス沿岸に機雷をばら撒いていた。
11月12日と13日にはテムズ川の河口に機雷を敷設。河口には水路と砂洲が入り乱れている他、灯船、出入りの船、警備艇の目が光る困難な任務であったが、霧に紛れる事で発見されずに完遂。
丁度Z18が機雷を敷設していた13日、英駆逐艦ブランジュが最初の犠牲となった。どの駆逐艦も巧みに監視網をすり抜け、イギリス軍が機雷に気付いたのは犠牲者が出てからだった。
その後も駆逐艦ジプシー、ポーランド客船ピュストスキーが犠牲となり、イギリスの世論や内閣、海相、海軍本部は大いに慌てた。
機雷を仕掛けた犯人は航空機や潜水艦だろうと結論付けたが、真犯人は駆逐艦だったのである。彼女らの活躍により商船67隻(総25万2237トン)、英駆逐艦3隻、補助巡洋艦6隻が波間に消えた。
駆逐艦による機雷封鎖は東岸だけに留まったが、西岸と南岸にはUボートが機雷を敷設していた。おかげで1939年9月から1940年5月までに沈んだ船舶は、計128隻(42万9899トン)という膨大なものだった。
従来の機雷しか除去できないイギリスの掃海部隊は磁気機雷に成す術無く、犠牲が膨れ上がるのを黙って見ているしか無かった。未曾有の脅威に、イギリスの人心は極度に不安定となっていた。
11月20日、レーダー提督はこの戦果をヒトラー総統に報告。翌日、ヒトラーは異例の長演説を行い、「彼らは北海をイギリス海軍から解放したのだ!」と褒め称えた。

Z18らは大変な物を撃沈していきました

11月21日、ハーウィッチ港外で日本郵船所属の照国丸が触雷し沈没した。かの船は欧州航路に就役し、ロンドンへ乗客28名を送り届けていたのだ。
乗組員及び乗客209名全員が無事にロンドンへ辿り着き、午後7時30分の特別列車でリヴァプールまで送られた。2名が治療を要する状態だったが、命に別状は無かった。
当時、日本は第二次世界大戦に参戦しておらず、敵でも味方でもない第三国の船を沈めた格好となった。日本政府は英独に対して抗議を行ったが、両国とも責任を押し付けあい、
結局どちらが悪いのか曖昧なまま有耶無耶となってしまう。この事件を受けて日本はロンドンへの寄港を取りやめ、以降はリヴァプールに寄港するようになった。

 

事件のあった当日、ドイツは事件に対する回答を示した。「18日以来、中立国の船舶6隻を含む合計12隻がイングランド海岸沖合いで撃沈されたが、この事件も当然イギリスが責任を負うべきである。
イギリス軍がドイツ向けの物品を押収する口実として仕組んだものだからだ。イギリス政府に対し、我々は決意を固めて最後まで戦うのみである」。
12月15日、ロンドン駐在の岡本参事官よりイギリス側の回答が得られた。意訳すると「照国丸を沈めたのはイギリスの機雷ではない。何故なら東海岸に機雷を敷設していないからだ」というものだった。
これもうわかんねぇな。

1940年6月16日の「海の記念日」にて受勲される顕功賞の候補に、照国丸の松倉文次郎船長の名が挙がった。

機雷の敷設には空軍も加わったが、やがてイギリス軍は対策を講じ始め、戦果が挙がらなくなる。原因は空軍機が浅瀬に投下した磁気機雷を、11月23日にイギリス海軍の専門家2名が拿捕した事だった。
研究の結果、その厄介なメカニズムが解析された。大規模な突貫工事によってイギリス船舶は磁気を洗われ、数ヵ月後には新型掃海装置も開発。
こうして、自慢の磁気機雷は脅威にならなくなったのだった。そして、その情報は年内のうちにベルリンの海軍軍令部にまで伝わった。

12月よりシュチェニンに入港し修理を受けた。翌1940年3月に戦線復帰。同じく3月、イギリス海軍は磁気機雷に対する防衛策として舷外電路を考案し、要領を発表した。
のちに日本海軍が全艦艇に採用しており、Z18らの敷設した機雷は遠く離れた同盟国にも影響を与えたのだった。

 

1940年4月、ドイツ軍はノルウェーを支配下に置くためヴェーゼル演習作戦を開始。ノルウェー北部のナルヴィク*1を制圧する任を命じられ、バウル・ボンテ代将の指揮下に入った。
4月6日、旗艦ヴィルヘルム・ハイドカンプに率いられ、ブレーメルハーフェンを出港。集合地点のヴェーゼル河口F灯船に到着した。
その前日の午後、ヴェーゼル河口カイザー閘門近くの閉鎖港湾地区に列車3本で第139山岳猟兵たちが輸送されてきた。ナルヴィクを占領するための兵である彼らのうち、約200名がZ18に乗艦する事になっていた。
乗艦を誰にも見せないよう、ヴェーゼル川の舟行もストップさせられた。駆逐隊全体で約1000名が輸送される手はずとなっていた。その姿は最早兵員輸送隊である。
6日夜、Z18はグナイゼナウシャルンホルストを中核とした第1戦隊の一員としてヴェーザーミュンデを出撃。
奇襲攻撃を成功させるためには、悪天候に隠れて航行する必要があったが、夜が明けると見事に晴れ渡ってしまった。いきなり奇襲への望みを断たれた形となった。追い討ちをかけるかのように、スカゲラク海峡でイギリス軍のブレニム爆撃機35機の襲撃を受けた。
爆撃こそ命中弾無しの不成功だったが、艦隊の仔細を報告されてしまった。幸いだったのは、この報告を受けて英海軍本部は、ドイツ艦隊の目的地を大西洋と(誤)判断した事だった。
だが安心は出来なかった。ガニンガム中将の艦隊がZ18達を探し始めたからだ。
夕刻には天候が悪化。待望の荒天が海域を覆った。駆逐艦の下甲板に詰め込まれた兵士達は、大時化で揺られる艦体に苦しめられた。彼らは陸で戦う兵で、洋上に出た事が無かったのだ。
その様子は水兵に同情される程で、ある猟兵は「怒り狂った大海が猟兵を痛めつけ、彼らは生きる希望も失いそうであった」と書き記している。
だが司令官のリュトイェンスは予定通りに作戦を進めるため、兵員や乗組員の苦しみなどお構いなしに26ノットでの行軍を徹底させた。
16時35分、ケルナー乗り組みの水兵一人が荒波にさらわれた。しかし「予定通り」に進めるため救助活動は行われなかった。
嵐の中では陣形らしい陣形を維持できず、あわや隣接の艦と衝突しそうになる一幕もあった。コースを外れ、傾斜によって艦首方向が狂い、駆逐艦は大型艦についていけずに散り散りとなった。
数時間で艦隊は瓦解し、個々に進軍する群れと化した。艦隊司令部長官は超短波で明るくなってから集合するよう各艦に命じた。
さらに悪い事に、ベルリンの無線傍受部隊から「イギリスの本国艦隊が洋上に出ている」との警報を受けた。もしこの状態で会敵すれば、ひとたまりも無かった。

道中の8日、トロンヘイム沖で単独航行していたZ18は英駆逐艦グローウォームと遭遇する。艦名を尋ねられると、「スウェーデンの駆逐艦イェーテボリ」と返答した。
グローウォーム側はそれを聞いて驚いたが、すぐにドイツ艦である事を看破して砲撃を開始。Z18は巧みに攻撃をかわし、嵐の中に姿を消した。
その後、グローウォームはアドミラル・ヒッパーと会敵。黒塗りの巡洋艦に追突し、その命を散らす事になった。
ボンテ代将の駆逐隊は北西に突進し続け、どうにか戦艦2隻と合流。群れから艦隊へと戻った。しかし落伍者も現れ、エーリヒ・キーゼが行方不明になった。コンパスも効かず、荒波で大量の油を失っていた。
13時、ロフォーテン水域に暴風雨警報が出された。今からその水域へ向かうのだ。
同日夜、グナイゼナウとシャルンホルストは英本国艦隊を引き付ける囮となるため離脱、Z18ら駆逐艦9隻は単縦陣でナルヴィクを目指した。
運が悪いことに嵐の中の行軍となり、激浪や暴風に揉まれた駆逐隊はボートが粉砕されたり、艤装や備品に破損が生じた。陸軍の車両が波に飲まれて行方不明にもなった。
21時、ようやく海は穏やかになった。水兵と猟兵は2日ぶりに温かい食事にありつけたのだった。

リュトイェンスは駆逐隊にオフォトフィヨルドへ進入するよう命じた。9日午前4時10分、ノルウェー人に発見され、「オフォトフィヨルドに軍艦8隻」と波長600メートルで打電されるが、気にせず進軍。
同日未明、オフォトフィヨルドに到着。敵地奥深くに進軍する駆逐隊の前に2隻のノルウェー哨戒艇が出現するが、これを降伏させた。
事前の情報で、この先に要塞地帯がある事が分かっていたためZ18は僚艦とともに先発し、ラムネース水道に侵入。砲撃を警戒したが、一発も撃ってこなかった。
続いて山岳猟兵を上陸させて要塞の占領を目指したが、実際にはそんな物は無かった。道理で迎撃が無い訳である。猟兵を収容し、その場を後にした。
旗艦ハイドカンプらがナルヴィクに山岳猟兵を上陸させている頃、Z18はZ17Z22とともにナルヴィクの西30kmに位置するラモンズへ部隊を揚陸。ノルウェー軍陣地を奪取した。

9日午前8時、ナルヴィクの守備隊は降伏。ノルウェー軍の指揮官が親独派だったため、ろくに抵抗しなかったのだ。やがてナルヴィクはZ18ら駆逐隊の腰掛けとして機能し始めた。
ナルヴィク制圧後、2隻のタンカーが到着して各駆逐艦に給油を行う手はずだった。しかし到着したのは1隻のみで、しかも給油能力が低い捕鯨母船だったため中々燃料が行き渡らなかった。
当初の計画では、駆逐隊はこのままドイツ本国へ帰投する事になっていた。だが燃料補給が滞ったため、現地に留まらざるを得なかった。これが命運を分けた。
このナルヴィクが、Z18はおろか駆逐隊そのものの墓場になろうとは誰が予想し得ただろうか。

 

イギリス海軍の本国艦隊は戦力を集結させていた。4月9日午前、フォープス司令長官はリー大佐に「ナルヴィクに揚陸中のドイツ軍を阻止せよ」との命令を出す。
ところが正午にナルヴィク陥落の報が届いた英海軍省は命令を取り消す。そしてリー大佐に「ナルヴィクのドイツ艦船を攻撃せよ」と新たに命じた。
リー大佐は英駆逐隊を率いてトラネイに寄港。ナルヴィクの敵兵力を確かめたのち、未明の満潮を狙って攻撃すると発信した。

4月10日未明、イギリスの駆逐隊がオフォトフィヨルドに侵入。入り口にはU-25とU-46がいたが、発射した魚雷が不発で敵を止める事が出来なかった。そしてナルヴィクに奇襲攻撃をかけ、第一次ナルヴィク海戦が生起。
この時、Z18は油槽船から給油を受けていた。敵艦隊は魚雷で旗艦ハイドカンプ(Z21)とアントンシュミット(Z22)を葬ると、艦隊を分離。そのうちの1隻、ハボックが港内に殴りこみをかけてきた。
この戦闘で、Z18は英駆逐艦ハボックから魚雷を喰らい中破。沈没こそ免れたが、旗艦のハイドカンプが撃沈されボンテ代将が戦死。補給船も6隻が沈められ、ドイツ駆逐隊は深刻な燃料不足に悩まされた。
このため撤退する敵艦隊の追撃を断念している。
ドイツ側もただでやられた訳ではなく、英駆逐艦ハーディーとハンターを撃沈。うち1隻は旗艦で、リー大佐は戦死した。戦闘は午前6時30分に停止。戦死したボンテ代将に代わり、エーリッヒ・ベイ中佐が指揮を継いだ。

 

4月12日、ナルヴィクに対する第二次攻撃の準備を整えたイギリス海軍は戦艦ウォースパイトと駆逐艦9隻を投入した。指揮官はホイットワース提督である。
攻撃に先立って、アーク・ロイヤルから飛び立った艦載機がナルヴィクを空襲したが、艦船に被害は無かった。
翌13日、再びイギリス駆逐隊が襲撃。第二次ナルヴィク海戦が生起した。優勢な敵に襲撃され、弾薬も乏しいZ18は身を隠した。一時は英駆逐隊の攻撃から逃れられたが、その場しのぎに過ぎなかった。
交戦の結果、大破させられたZ18は沈没を避けるため翌日に座礁。弾薬も尽きかけ、もはや何も出来なかった。一連の戦闘で2名の乗員が死亡した。
生き残った乗員は上陸し、臨時の陸戦隊を編成して山岳猟兵と一緒に戦う事を選んだ。沈んだ艦艇やノルウェー軍の備品から武器を取り、陸路でのノルウェー侵攻に加わった。
Z18の船体は放棄され、乗員の手で爆破処分された。残された武装は乗員たちが持ち去っていった。
この海戦を以ってナルヴィクに進出した8隻のドイツ駆逐艦は全滅。駆逐艦エスキモーコサックを大破させたとはいえ、数で勝っていたにも関わらず1隻すら撃沈できない醜態を晒してしまった。
救援に現れたUボート部隊も攻撃され、U-64が撃沈された。もはや泣きっ面に蜂である。
10日に弾薬を大量に失い、11日に自動車運送船アルスターが沈められ、13日に駆逐隊が全滅と、ドイツ側には悪夢が広がった。そして連合軍はナルヴィクに上陸し、掌握した。
不幸中の幸いだったのは、ドイツ空軍の航空攻撃で連合軍が蹴散らされ、5月26日にはドイツの手中に帰した事だった。
Z17型駆逐艦6隻は1隻を除いて、このナルヴィク海戦で全滅するという、悲惨な戦歴となってしまった。開戦時、22隻あった駆逐艦は半分以下の10隻にまで減っていた。


*1 ノルウェーの北部にある港。ここは北極圏にありながら不凍港で、スウェーデンからの鉄鉱石を安定して運び出せる貴重な港だった。