所属 | Marine nationale→Forces navales françaises libres |
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艦種・艦型 | ラ・メルポメーヌ級水雷艇 |
正式名称 | La Melpomène |
名前の由来 | Melpomenē ギリシア神話における文芸の女神が一柱「メルポメネー」、悲劇や挽歌を司り、有翼の女神として描かれる |
起工日 | 1933.12.13 |
進水日 | 1935.1.24 |
就役日 | 1936.11.20 |
除籍日(除籍理由) | 1950.5.15 |
全長(身長) | 80.7m |
基準排水量(体重) | 669英t(680t) |
出力 | Indret式重油専焼缶4基Persons式蒸気タービン2基2軸 22000PS(21699shp) |
最高速度 | 34.0kt(62.96km/h) |
航続距離 | 20.0kt(37.04km/h)/1000海里(1852km) |
乗員 | 105名 |
装備(建造時) | 100mm45口径M1932単装砲2門 13.2mm76口径M1929連装機銃2基4門 550mm連装魚雷発射管1基 |
装甲 | なし |
建造所 | Ateliers et Chantiers de Bretagne,Nantes (ブルターニュ造船所 フランス共和国ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ロワール=アトランティック県ナント郡ナント) |
- ラ・メルポメーヌは、フランス海軍が戦間期に建造した水雷艇≒小型駆逐艦「ラ・メルポメーヌ級」の1番艦。
姉妹艦あわせて12隻が建造されたが、二次大戦ではフランス降伏を受けて半数の6隻が連合側に、もう6隻は枢軸側に拿捕されるという数奇な運命をたどった。
ラ・メルポメーヌは連合側に与し、一応戦後まで生き延びた。
- 1930年、列強海軍の補助艦保有量に制限をかける目的で開催された「ロンドン海軍軍縮会議」において、フランスは部分参加*1という形ながらも条約批准国に名を連ねた。
軽巡洋艦と重巡洋艦とを区別するきっかけとなったことでも知られるこの条約では、他にも駆逐艦では「排水量は600トン超1850トン以下」といった制限を課されることになった。 - しかしこの裏をかいて、600トン以下ならば条約制限外にあたるということで、各国で小型駆逐艦による戦力強化が俄に注目されていった。
- 日本においては千鳥型および同改良型の鴻型水雷艇が、イタリアではスピカ級および同改良型のアリエテ級水雷艇が同様のコンセプトで建造されている。
- ラ・メルポメーヌは1933年12月起工、35年1月進水、36年11月就役。
就役してまもなく勃発した第二次大戦では、まずダンケルクからの連合国軍脱出を試みるダイナモ作戦に参加したが、成果は振るわない。
その後怒涛の勢いで侵攻してきたドイツ軍に対しフランスはなすすべなく降伏、ラ・メルポメーヌは姉妹艦5隻とともにイギリスに亡命し、一時イギリス艦籍となる。 - 一月ほどで自由フランス海軍艦艇として復帰したラ・メルポメーヌは、大西洋上で対潜任務に幾度となく投じられた。
あるときには僚艦との接触事故で損傷、1か月以上修理に費やすなどがあったが、無事復帰。
防空性能向上のため、なけなしの主砲1門を下ろしてポンポン砲などが増載されるなど、運用上の改善はされていたようである。 - しかしいくらなんでも600トンクラスの小型艦艇にはそれ以上手の加えようがなかった。
同級の構造的脆弱性(姉妹艦が悪天候時に転覆)や、スペアパーツが未だ奪還ならないフランス本国に置き去りという状況下では、部隊の維持は早々に断念されてしまったのである。
1943年9月には武装解除となり、イギリスに予備艦として留め置かれ続けた。
結局再度の戦線復帰は果たせず、戦後フランスに回航され、1950年に除籍・解体された。