No557 初春/元ネタ解説

Last-modified: 2023-07-17 (月) 01:17:33
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型初春型駆逐艦
正式名称初春(はつはる)
起工日1931.5.14
進水日1933.2.27
就役日(竣工日)(1933.9.30)
除籍日(除籍後)1945.1.10(1944.11.13、空襲で沈没)
全長(身長)109.5m
基準排水量(体重)1400英t(1422t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶3基艦本式蒸気タービン2基2軸 42000shp(42583PS)
最高速度36.5kt(67.60km/h)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/4000海里(7408km)
乗員205名
装備(建造時)50口径12.7cm連装砲2基単装砲1基5門
毘式四十粍機銃2基
61cm三連装魚雷発射管3基9門
装備(1933)50口径12.7cm連装砲2基単装砲1基5門
毘式四十粍機銃2基
61cm三連装魚雷発射管2基6門
装備(1943)50口径12.7cm連装砲2基4門
九六式25mm機銃11(3x3+1x2)
61cm三連装魚雷発射管3基9門
建造所佐世保海軍工廠 (現 名村造船所社佐世保造船所/佐世保基地) (日本国長崎県佐世保市)
  • 初春は日本海軍が建造した初春型駆逐艦の1番艦。全6隻が作られた初春型のネームシップ。
    吹雪型駆逐艦の次代駆逐艦として設計されるが、1930年のロンドン海軍軍縮会議での排水量制限により、吹雪型よりも軽い1400トンの船体に同規模の武装を備えるという、規模にそぐわない大武装を搭載したため非常に安定性を欠く問題を抱えた。
    同時期には駆逐艦数をまかなうため、600トン以下の水雷艇も重武装化した。
  • そんな中、1934年3月12日に水雷艇友鶴が転覆する「友鶴事件」が発生する。
    荒天下で友鶴が横波にあおられて転覆した事故であり、過剰な武装が重心の上昇をきたし、復元性が低下したからだと結論づけられた。*1
    この問題を受けて重心低下を目的とする大改装が重ねて実施された。
    • まず高重心の原因だった艦首の背負い式砲塔をやめ、2番砲塔を後部の3番砲塔の後ろに移動した。また、高所にあった3番発射管と予備魚雷を廃止している。
      これにあわせて艦橋を簡素化し、船底にバラストも追加して低重心化を図った。
  • 太平洋戦争開戦当初は前線には投入されず内海にて待機していたものの、1942年から本格的に活動を開始する。
    アリューシャン列島の攻略を支援する任務についていた初春であったが、10月に米爆撃機の爆撃を受けて輸送中の弾薬ごと誘爆、悪天候も重なり航行不能の大損害を被る。
    このときはどうにか友軍の援護もあり舞鶴に帰還でき、1年近い修理に合わせて対空・対潜兵装を増強した。
    最終的に1943年10月に修理改修が完了し、護送任務に復帰する。北方方面のみならず、シンガポールやトラック島などにも輸送や護衛に出征した。
  • 1944年10月、捷一号作戦により台湾を経由しフィリピンに進出。
    その後米機動部隊の空襲を受けて一時後退するも再びフィリピンへの陸上兵力輸送に投入され、初春は警戒隊の一員としてマニラとオルモックを往復。
    しかし翌月、マニラにて米艦載機の大規模な空襲の対象となり沈没。乗員の一部はマニラの陸上兵力として再配置された。

*1 友鶴の僚艦だった千鳥は転覆しておらず、当時の検証や現代のコンピューター解析により、友鶴の転覆の原因は操艦ミスの方が影響が大きかったことがわかっている。それでも重心が高く、不安定だったことは明らかだ