No260 睦月/元ネタ解説

Last-modified: 2023-02-05 (日) 22:59:24
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型睦月型駆逐艦
正式名称第十九号駆逐艦→睦月(むつき)(1928)
名前の由来→睦月 陰暦正月の雅称
起工日1924.5.21
進水日1925.7.23
就役日(竣工日)(1926.3.25)
除籍日(除籍理由)1942.10.1(第二次ソロモン海戦/Battle of the Eastern Solomons 1942.8.25沈没)
全長(身長)102.72m
基準排水量(体重)1315英t(1336.1t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶4基Parsons式蒸気タービン2基2軸 38500shp(39034.0PS)
最高速度37.25kt(68.98km/h)→32.5kt(60.18km/h)(1935)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/4000海里(7408km)
乗員154名
装備(竣工時)50口径三年式12cm単装砲4門
九二式7.7mm機銃x2
61cm三連装魚雷発射管2基6門
爆雷投下軌条2基
爆雷投射機x2
装備(1938)50口径三年式12cm単装砲4門
九三式13.2mm機銃x2(2x1)
九二式7.7mm機銃x2
61cm三連装魚雷発射管2基6門
爆雷投下軌条2基
爆雷投射機x2
装甲なし
建造所佐世保海軍工廠 (現 名村造船所社佐世保造船所/佐世保基地) (日本国長崎県佐世保市)

大日本帝國が建造した睦月型駆逐艦一番艦。ワシントン海軍軍縮条約締結で、仮想敵の英米に遅れを取る結果となった帝國海軍。
数で劣るなら質で対抗するしかないと考えた帝國海軍は、峯風型や神風型より高い雷撃能力を有する駆逐艦の建造に着手した。
それが睦月型駆逐艦であり、全12隻が建造された。基本的な形状は神風型に準ずるが、53.3cm連装魚雷発射管3基から61cm3連装魚雷発射管2基に変更したため、上部構造に若干の余裕が生まれた。

1923年の新補充計画で一等駆逐艦として建造が決定。第19号駆逐艦と命名され、1924年5月21日、佐世保工廠で起工した。
1925年7月23日に進水し、1926年3月25日に竣工。4月1日に佐世保鎮守府第三十駆逐隊へと編入された。1928年8月1日、睦月型駆逐艦「睦月」と改名し、12月10日に予備艦となる。
前級の神風型や峯風型より高い雷撃能力を手にしたが、大型の61cm魚雷6本を搭載するスペースを確保するため装甲が犠牲となった。また重心も高くなり、安定性に欠ける船体となってしまった。後年の調査により、船体中央部に応力が集中していることも明らかになった。
一方、艦首の形状をスプーン・バウからダブルカーブドバウに改良したため速力の低下は防がれた。

 

1930年3月14日午後1時11分、推進器が暗礁に接触して損傷する事故が発生。ただちに停止し、艦底の調査が行われた。その後、慎重に航行し長浦に寄港する。
1932年2月、第一次上海事変を初陣として迎える。日華衝突に伴って出動した。
1935年9月26日、第四艦隊の一員として大演習に参加していたところ、三陸沖で大型台風に巻き込まれる。いわゆる第四艦隊事件である。睦月は暴風と激浪にさらされて、艦橋が圧壊して大破する。
1937年7月、日華事変が勃発。第三十駆逐隊は第一航空戦隊に編入され、鳳翔龍驤の護衛として出撃した。主に海面へ不時着した機を回収するトンボ釣りを行った。翌年6月、武漢攻略作戦の際はV作戦部隊根拠地警備隊へ貸し出された。
1938年に艦中央部に13mm連装機銃を増設した。
1939年6月24日、予備艦となり内地へ帰還。日米開戦が現実味を帯びてきた1941年11月29日、トラックを出撃し、12月3日にルオット島へ到達。

 

1941年12月8日、運命の大東亜戦争が勃発する。睦月は第三十駆逐隊の旗艦としてクェゼリンに進出しており、日本本土の鼻先にある米領ウェーク島攻略作戦に参加するためルオット島を出撃した。
12月10日夜、一回目の攻略作戦が行われた。開戦日に千歳空による空襲が行われ、ウェーク島の米戦闘機F4Fや砲台群は壊滅したかに思われた。
島に上陸するため各艦が大発を降ろす中、ウェーク島の米守備隊が突如反撃を始めた。混乱に陥った攻略部隊の上空にF4F戦闘機4機が飛来、機銃掃射を加える。
周りに大発がいて、ろくに回避運動が取れない艦艇は砲台の格好の的となり、妹の如月と疾風がその犠牲となった。午後4時11分、とうとう退却命令が出され、攻略部隊は撤退した。
開戦劈頭に行われた一連の攻略作戦で、唯一ウェーク島の攻略のみが失敗した。13日、ルオット島まで後退。

復讐に燃える帝國陸海軍は今度こそ占領するべく、二回目の攻略作戦に踏み切った。真珠湾攻撃から帰路についた第二航空戦隊(蒼龍飛龍)に応援を求めた他、グアム攻略を終えた第六戦隊も作戦に加わった。
妹の弔い合戦と言わんばかりに睦月も再度参加する。まず第二航空戦隊の艦載機がウェーク島を襲撃。F4F隊は全滅し、地上施設を散々に爆撃した。
敵の抵抗を排除したあと、睦月は便乗の陸戦隊を大発に乗せて上陸させた。満身創痍になってもなお米守備隊は激しく抵抗、一時は戦況が膠着した。が、日本側の決死隊の活躍で指揮官のカニンガム中佐を捕虜とする。
そのカニンガム中佐に投降を呼びかけさせた事で米守備隊は降伏。ウェーク島に日章旗が翻った。こうして妹の仇は取られたのだった。

 

1942年1月からはR作戦に参加。ビスマルク諸島方面に進出しラエ、サラモア、ブーゲンビルの攻略支援に従事。5月4日、ポートモレスビー攻略を支援するため輸送船12隻を護衛してラバウルを出港。
そのまま珊瑚海海戦に参加した。あのミッドウェー海戦には参加せず、6月16日にトラック諸島へ寄港した。7月10日、第三十駆逐隊は第二海上護衛隊に編入され、通商保護が主任務となる。
7月16日から8月14日まで佐世保工廠で修理。そんな中、米軍がソロモン方面に来襲し、ガダルカナル島争奪戦が生起。これに伴って睦月もソロモン戦線へ投入される事になり、ラバウル進出。
第二次ソロモン海戦が生起する8月24日午前7時、最前線基地のショートランドを出発。別働隊として弥生、江風、磯風とともにルンガへ殴り込みをかけ、22時から10分間、ヘンダーソン基地を砲撃した。
翌25日、サンタ・イザベラ島沖で損傷した特設巡洋艦金龍丸を救助すべく近くで待機していたが、救助が絶望的となったため魚雷で撃沈処分している。
その時、B-17爆撃機3機が襲いかかり、爆弾一発が機械室中央部に直撃。乗員41名が死亡し、11名が負傷した。僚艦の弥生が安武第三十駆逐隊司令や畑野艦長等を救助したが、睦月も金龍丸と同じ命運を辿ろうとしていた。
被弾から約一時間後、雷撃により処分された。

 

1942年10月1日、除籍。