No4 伊勢/元ネタ解説

Last-modified: 2023-03-31 (金) 18:30:42
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型伊勢型戦艦
正式名称伊勢(いせ)
名前の由来伊勢国 旧令制国 (日本国三重県北中部 愛知県の一部 岐阜県の一部)
起工日1915.5.10
進水日1916.11.12
就役日(竣工日)(1917.12.1)
除籍日(除籍理由)1945.11.20(1945.7.28大破着底)
その後1946解体
全長(身長)208.18m→229.62m(1944)
基準排水量(体重)29980英t(30461.1t)→36000英t(36577.7t)(1937)→35350英t(35917.3t)(1944)
出力ロ号艦本式石炭重油混焼缶24基Brown Curtis式蒸気タービン2基4軸 45000shp(45624.1PS)
→ロ号艦本式重油専焼缶8基艦本式蒸気タービン4基4軸 80825shp(81946.0PS)(1944)
最高速度23.0kt(42.59km/h)→25.2kt(46.67km/h)(1937)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/9680海里(17927.36km)
→16.0kt(29.63km/h)/9500海里(17594km)(1944)
乗員1360~1571名
装備(建造時)45口径四一式35.6cm連装砲6基12門
50口径四一式14cm単装砲20門
40口径三年式単装高角砲4門
53cm魚雷発射管6門
装備(1937)45口径四一式35.6cm連装砲6基12門
50口径四一式14cm単装砲16門
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x20(10x2)
艦載機x3
装備(1944)45口径四一式35.6cm連装砲4基8門
40口径八九式12.7cm連装高角砲8基16門
九六式25mm機銃x104(31x3+11x1)
12cm28連装噴進砲6基168門
艦載機x22
装甲(1937)舷側:89~305mm 甲板:32+135mm 砲塔:152~305mm 艦橋:356mm
建造所川崎造船所社 (現 川崎重工業船舶海洋カンパニー神戸工場) (日本国兵庫県神戸市)
  • 大日本帝國海軍が保有した伊勢型戦艦一番艦。大正期に建造された超弩級戦艦。艦名の由来は三重県の旧国名伊勢から。伊勢の由来は磯の転音と言われている。
    元々は扶桑型三番艦として建造する予定だったが、予算の都合により起工が遅れた。その間に扶桑型の問題点が発覚。大きく再設計した伊勢型として建造することとなる。
建造~開戦まで
  • 1913年度計画第五号甲鉄戦艦として建造が決定。1914年10月12日、軍艦伊勢と命名され、1915年5月10日に川崎重工神戸造船所にて起工。
    1916年11月12日に仁親王殿下臨席の下、進水式を行う。公試で23.6ノットを発揮。1917年10月14日、神戸港に係留されていた伊勢は、互光商会所有の汽船太陽丸と接触。
    損傷は軽微だったが、すぐに報告書にまとめられた。そして1917年12月15日に竣工し、呉鎮守府へと配属された。初代艦長として秋沢大佐が着任。
    諸元は排水量3万1153トン、出力5万6498馬力、速力23ノット。扶桑型に続く国産戦艦の第二弾として産声を上げた。そして1918年4月1日、第一艦隊第一戦隊へ編入された。
    • 扶桑型と比較すると解消できた問題点も多いが、まだまだ問題点だらけの戦艦であった。特に問題だったのが劣悪な居住性と操舵の難しさだった。いかんせん直進が難しく、ふらついてしまう。
      反面、舵を切るのは非常に簡単だったという。とはいうものの、当然のことながら走攻守全てにおいて扶桑型に劣る面はなく、建造当初は列強諸国と互角以上とも評価されている。
    • 前級の扶桑型は副砲に15cm砲を採用したが、伊勢型は小型の14cm砲としている。これは体格や体力面に劣る日本人に合わせたからだった。小型化に伴い、扶桑型より4門多く装備している。
      弾丸も小型になったため給弾速度も速くなり、発射間隔が狭まった。主機関はブラウン・カーチス式とし、出力は4万5000馬力となった。扶桑型から5000馬力増加している。
      防御面でも扶桑型より強化された。ジュットランド沖海戦の戦訓を採り入れ、水平・垂直防御を強化。防御甲板は30~55mm強化し、水中防御の強化策として縦隔壁を増加した。
      扶桑型では機関室を挟むように主砲塔を設置したため、機関の増設が出来ないという致命的な欠陥を抱えていた。伊勢型では当然改善され、設計上の問題を解決。
      艦内防御力と弾薬庫防御力が向上し、射撃指示能力も増進した。一方、居住性の悪化や副砲配置の制約を招いたとされている。
  • 1919年12月16日、呉に来訪した京都帝大教授市村法学博士と高原文法博士が呉海軍工廠と伊勢を見学した。
  • 1920年5月1日、連合艦隊の栄えある旗艦の座に就く。8月29日、館山を出港し、シベリア沿岸で警備。12月1日より予備艦となる。翌年の同日には第一艦隊第一戦隊へと復帰している。
    また、この年に伊勢神宮から別大麻を戴いた。神殿は艦内で製作し、長官公室の前に設置。艦内神社としている。
  • 1922年4月12日、戦艦長門とともに横浜で、イギリス皇太子座乗の巡洋戦艦レナウンと交歓する。11月24日、三津浜にて皇太子殿下が乗艦。午前9時頃、出港し航海を始めた。
    翌日午前7時、宇和島に寄港し、皇太子殿下を上陸させた。
  • 1923年4月12日午前4時20分、門司曳船合名会社所有の汽船宝安丸は3隻の船を曳航していた。愛媛県大館場島南方を航行していた伊勢を発見し、後方に寄ったところ宝安丸と3隻の船が接触。
    4隻のうち2隻が沈没、2隻が損傷する事故に発展した。門司曳船合名会社は帝國海軍に対し補填を求めた。
    7月23日、第一戦隊は乙種戦闘射撃訓練を行っていた。25日、伊勢の第三砲塔右砲内筒に亀裂が発生している事が判明。換装の必要に迫られた。
    9月1日、関東大震災が発生。東京や横浜方面に甚大な被害をもたらした。被害を受けた帝都と臣民を助けるべく、伊勢は第二艦隊の戦艦群とともに4日午後に呉へ入港。
    白米、乾パン、ビスケット、医療器械、天幕、薬品等を詰め込み、5日朝に抜錨。途中、神戸と大阪に寄港して更なる食糧品を詰め込み、横浜へ向かった。品川港で積み荷を降ろし、無事送り届けられた。
  • 1925年10月14日午前1時40分頃、第三期演習を終えて館山に仮泊しようとしていた伊勢。錨を降ろした途端、何と主錨が切断されてしまい、2名が死亡した(内1名は即死、もう1名は瀕死のち死亡)。
    ただちに査問会が開かれ、原因の究明が行われたという。
  • 1926年2月10日、伝声管の新設が認められる。3月30日から外洋で活動。中城湾を経由してアモイ方面に進出。4月5日、台湾の馬公へ入港。20日に基隆を出港し、舟山島方面で活動。
    4月26日、航海を終えて寺島水道へ帰投した。5月17日、中国地方を行啓する皇太子の御召艦だった日向が都合により参加できなくなった。代役は長門となり、
    伊勢は予備御召艦として6月2日に横須賀軍港へ回航された。
  • 1927年3月27日、佐伯湾を出港し青島方面で活動。4月7日に旅順へ入港している。7月9日、伊勢遭難者(殉職者、負傷者)に対し御菓子料3円が下賜されている。
  • 1929年8月14日、探照灯台天幕装置を新設する工事が始まる。期限は11月末日までと定められた。12月11日、魚雷追跡用内火艇1隻とその搭載装置を新設。
  • 1930年8月15日、予備艦となり入渠。近代化大改装を受ける。1936年12月8日、宿毛湾で全力公試を実施。排水量は4万669トン、出力8万1360馬力、速力25ノットに強化された。
    翌1932年3月、改装完了。3月8日、伊勢に小型製氷機械付き冷蔵庫が配備された。4月25日には罐管外部掃除装置装備の訓令が出ている。同年12月1日に第一艦隊第一戦隊に復帰した。
  • 1933年3月1日、東北地方及び北海道震災で被災した人々のために、伊勢乗員から義捐金が集められた。義捐金を出した者は氏名と階級が官房に載せられた。
    5月1日から4日にかけて、呉海兵団所属の軍楽隊が乗艦。宇品の久賀まで送り届けた。11日、宮島にて山口県日積実業実践学校の生徒182名を乗せて艦内に宿泊させた。
    そして久賀まで回航し、同地で降ろした。5月14日からは呉工廠に入渠。中央露天甲板と側幕を新設した。6月6日、出渠。6月21日、増減速計装備の訓示が下る。
    館山に寄港した際に装備され、機関科指揮所の機械に取り付けられた。
  • 1934年2月9日、海軍通信学校練習生に実習の場を提供。4月9日、満州国の視察団が許可を得て軍港に来訪。横須賀航空隊、伊勢、比叡、記念艦三笠を見学していった。
    5月6日、地方長官等が軍艦及び横須賀を視察する事から即日横須賀へ回航するよう命じられる。
    9月25日、呉工廠で機関部の大改装に着手。1935年8月1日からは船体の改装も始まり、15日に予備艦となる。この改装で主砲の最大仰角が45度になり、長門型と同等の射程距離を有した。
    バイタルパートの防御力強化を重点的に行い、艦側面にバルジを装備して水中防御も向上させた。新型タービンエンジンを搭載した事で速力も25ノットに上昇。それに伴って艦尾も8m延長している。
    新型対空機銃や高角砲を装備して対空兵装を強化、副砲の仰角も上げられている。また光学機器や測距儀も新設し、魔改造された伊勢は強力な存在となった。
  • 1937年3月23日、復役。30日、伊勢と日向の巡航タルビン翼及び噴口翼、緑抑共通予備品の製造が始まる。予算は3万4000円だった。5月31日にようやく完工し、出渠。
  • 1938年4月9日、寺島水道を出港。日華事変が続く中国南部の沿岸を遊弋した。14日、基隆に帰投。10月17日にも同様に寺島水道を出発、中国南部で活動した。
    10月21日、アモイにてイギリスの軽巡洋艦バーミンガムと交歓。23日に馬公へ帰投した。
  • 1939年3月22日、鹿児島を出発。中国北部の沿岸で遊弋する。4月2日、高雄に寄港。
  • 1940年に行われた教練射撃と戦闘射撃で、伊勢は戦技優勝艦の名誉を獲得した。この時、射程距離3万kmで命中率19.2%を記録した。11月15日、第一艦隊第二戦隊へと転属。
  • 1941年4月27日、宿毛湾に回航。5月より21号対空レーダーを試験的に装備。これにより伊勢は初めてレーダーを搭載した日本艦となった。6月3日、宿毛湾を出港し四日市に回航。
  • しかし時代の流れは非情なもの。あれよあれよという間により強力な戦艦が生まれてゆき、問題も多い旧式戦艦の枠に。大改装で抜本的な強化もなされたものの、しばらくは不遇の日々を送ることとなる。
 
開戦
  • 1941年12月8日、運命の大東亜戦争が勃発。開戦に伴い柱島を出港後、小笠原諸島方面で活動。真珠湾攻撃に参加した艦が損傷し、曳航が必要となった時に備えて待機した。
    が、その必要が無くなり13日に柱島へ帰投。以降は内地で全作戦の支援を行った。
    1942年2月8日、警戒部隊に編入。2月19日より呉工廠に入渠して改修工事を受けた。3月12日、柱島を経由し空母瑞鶴とともに本州東方を哨戒。
    4月18日、ドゥーリットル空襲を行った米機動部隊を追跡するため柱島を出撃。しかし逃げ切られ、反転。4月24日に帰投。5月5日、伊予灘で射撃訓練中に姉妹艦日向が爆発事故を起こすのを目撃。
    5月29日、ミッドウェー作戦に参加するため戦艦大和を中核として主力部隊とともに出撃。伊勢と日向には試作とはいえレーダーが搭載されており、それを期待しての参加となった。
    しかし戦闘の機会は無く、主力空母4隻が壊滅して作戦は失敗に終わる。6月6日、アリューシャン作戦を支援する目的で北上。第二艦隊と合流して本土に退却した。6月17日、横須賀へ帰投。
    慰めだったのは、21号対空レーダーの有用性が立証され新型艦や大型艦に次々と装備されていった事だった。
    • 彼女たちの運命が変わったのは1942年6月。
      ミッドウェー海戦の敗北から、足りない空母戦力を補う必要性が生じた帝國海軍は、雲龍型航空母艦の建造計画を立てるとともに既存の艦の空母改装を検討する事となる。
      そこで窓際族であった伊勢型に白羽の矢が立つ。その直前に砲塔爆発事故を起こしていた姉妹艦日向の修理も兼ねて航空戦艦として生まれ変わることとなった。
    • 航空戦艦とは、戦艦の火力と防御力に空母にも迫る航空機運用力を持つ、まさにロマンの権化である。
      ……と、いう印象を抱く者も居るであろう。しかしその実態は、他の戦艦でも運用されていた水上機を、より大規模に運用できる戦艦である。
      残念ながら、本職である空母やフィクションでの航空戦艦と違い、飛び立った航空機が着艦出来るほどのスペースは無かったのである。
      そのため飛び立った航空機は、近辺の航空基地や友軍空母に降り立つ、もしくは海上に不時着するしかないという一方通行であった。特に不時着は機体の再使用が完全に不可能である。
      それを解決できる水上機であっても、そのたびに艦を止めてクレーンで回収しなければならないという問題があり、航空機運用力に関しては疑問が残る状態であった。
      とはいえ、一機でも二機でもとにかく航空機が欲しい時期。概ね好意的に見られていたと言っても良いだろう。搭載機も用意され、訓練も行われていたことからも窺い知れる。
       
  • 1942年7月14日、連合艦隊所属となり呉や柱島で訓練に従事する。11月21日、呉工廠に入渠。いよいよ航空戦艦への改装が始まった。
    資材は、建造中止となった大和型戦艦第111号艦を解体したものを利用している。
  • 1942年12月15日、大竹海兵団から新兵教育を終えた少年たちが乗り込んできた。戦艦だけあって訓練は厳しく、甲板から板を出して海面へ飛び込む水泳が特に大変だったという。
    帝國海軍特有のシゴきも健在。少しでも過失があれば連帯責任で、古参兵に海軍精神注入棒で臀部を叩かれる。初年兵の尻から痣が消える事は無かった。
  • 1943年2月23日、呉鎮守府第四予備艦に変更。塗装や整備が行われた。8月23日、改装工事完了。5番、6番砲塔を撤去し、代わりに飛行甲板を設けて航空戦艦に生まれ変わった。
    周防灘で各種公試に従事。9月5日に再就役を果たした。しかし艦上爆撃機彗星と水上爆撃機瑞雲の生産が遅れ、航空戦艦にも関わらず航空機を有していなかった。
    空の格納庫は輸送という別の用途に使われる事となる。また3番、4番砲塔は位置が悪く、発射すれば飛行甲板が破壊されかねないので実質封印された。
  • 9月14日から兵学校候補生の実務訓練に従事する。候補生を指導するのは柴田中尉。彼は怒ったり、下の者を怒鳴るといった事が無く、優しい人柄で候補生を安心させた。
    機関科の指導官は山鳥中尉だったが、こちらも思慮深く部下想いな良い人物であった。伊勢では未だにハンモックが使用されており、候補生らは準備と片付けに泣かされたという。
    また寝室は飛行甲板の真下なので夜でも暑く、汗がびっしょり出た。ハンモック格納が遅いと、ハンモックを担いで上甲板を走らされるという話があったが、
    先述の通り指導官が優しかったため、実際に走らされた者はいなかったらしい。彼らには武装手当てとして300円が給金された。当時としては大金で、相当な地位の人でも100円が相場だった。
    しかし艦内では金の使い道が無いので、クラス基金に寄付したり親に送金する者が多かった。親の方は毎月大金が送られてくるので驚いたとか。
  • そして伊勢も最前線に投入される事になった。10月9日、宇品にて陸軍の物資を積み込む。14日、山城等とともに第52師団を乗せて出港。
    航海中も候補生の実習が行われた。トラック諸島に近づく頃、1名の候補生が歯槽膿漏を発症。伊勢には歯科医がいなかったのでトラック入港後、艦内の病室に入れられた。
    それから6日間、トラック諸島に滞在し、物資・人員を降ろした。10月31日、内地に引き返すためトラックを出港。11月5日に徳山へ辿り着き、呉まで回航された。その後、また訓練に従事。
    歯槽膿漏を患った候補生は友人の薦めで呉の薬局に駆け込み、薬を処方してもらって何とか快復した。
     
  • 1944年2月25日、単艦で連合艦隊所属となる。
  • 5月1日、第三艦隊第四航空戦隊に編入。5月31日に呉工廠に入渠し、電探と機銃を装備している。6月7日、出渠。21日より伊予灘で諸公試に従事。2日後、広島湾に回航され訓練。
    6月19日、マリアナ諸島の覇権を争うマリアナ沖海戦が生起し、伊勢は慌てて出撃準備を行ったが間に合わなかった。このため伊勢型の2隻は唯一参加しなかった戦艦となってしまった。
    ようやく再建した新生機動部隊はアメリカ軍の猛攻で壊滅。マリアナ諸島の放棄が決定的となった。この海戦でもたらされた戦訓により、残存艦艇の対空能力向上が図られた。
    伊勢は25mm三連装機銃12基、単装機銃11門を増備。25mm機銃装備数は104門に達し、ハリネズミ状態となった。また電探の交換も行われ、対水上射撃が可能な二二号電探改を新たに装備した。
    6月23日、飛行甲板に瑞雲を搭載し、射出訓練を行う。続く9月30日には対空噴進砲を装備。10月1日、伊勢に瑞雲22機と彗星22機を擁する第634航空隊が割り当てられ、待望の艦載機を得られる事になった。
    ・・・のだが、二週間後に生起した台湾沖航空戦により彗星を消耗、瑞雲はフィリピンの陸上基地に進出してパイロットの95%が戦死。そのまま現地に吸収されてしまった。
    このため機体が補充される事は無かった。以降、艦載機の補充は無かった。
  • その間にも戦局は悪化の一途を辿り、10月17日に米軍がレイテ湾に橋頭堡を築いた。
    本土と南方の資源地帯を繋ぐフィリピンが失陥すれば資源の輸送が途絶し、戦争の継続が絶望的となる。何としてでもフィリピンを死守しなければならなかった。
    帝國海軍は捷一号作戦を発令。生き残っていた艦艇をかき集め、迎撃戦力として組み込んだ。伊勢は小沢司令率いる囮こと小沢艦隊に編入された。この艦隊は敵を釣り上げる餌となる空母を擁していた。
     
  • 1944年10月20日午後6時、小沢艦隊は豊後水道を出撃。いきなり敵潜水艦の触接を受けたため、ジグザグ航法をしたり、対潜機を10機放って警戒を行ったが発見できなかった。
    張り詰めた緊張の中、海を行く小沢艦隊。幸い雷撃される事無く航海は続いた。
  • 10月24日午前6時にエンガノ岬の北東へと到達した。午前8時20分、基地航空隊が敵機動部隊の位置を知らせてきた。
    味方の空母から航空機が発進し、敵艦隊に攻撃を仕掛けたが戦果らしい戦果は挙げられず、ルソン島航空隊の下へ着陸した。
    一方その頃、主力たる栗田艦隊はシブヤン海にてアメリカ軍の激しい攻撃を受けていた。その情報が小沢艦隊にも届く。囮の役割を果たせないのではないか、と嫌な考えがよぎる。
    そこで小沢司令は艦隊を二分し、前衛と本隊に分けた。敵の目を引き付けるため、夜戦を以ってルソン島の敵艦隊を攻撃しようと考えたのだ。
    伊勢は前衛艦隊に投入され、日向と駆逐艦4隻とともに午後3時15分、本隊から分離。速力20ノットで南下を始めた。午後7時20分頃、220度の針路上に爆発の光を認めた。
    前衛艦隊の指揮官はこれを「味方の航空隊による夜襲」と判断。今突入すれば味方機に誤爆されるとして午前0時頃に突入できるよう様子見をした。
    午後10時頃にも閃光を確認し、前衛艦隊は機を見せて突入しようと考える。ところが本隊の小沢司令から北上するよう命じられ、突入は果たせなかった。30分後、合流地点を目指して北へ移動し始めた。
  • 10月25日午前6時34分頃、本隊が前衛艦隊を視認し無事合流。ただちに対空警戒の陣形を取り、伊勢は旗艦瑞鶴の後ろについた。間もなく索敵機から「敵機が我が機動部隊に向かう」と報告が入る。
    小沢艦隊を捕捉したのはハルゼー率いる敵機動部隊であった。ハルゼーは小沢艦隊こそが敵の主力だと判断し、航空機527機を送り込んできたのだ。見事、敵を釣り上げる事に成功した。
    午前7時39分、伊勢の電探が230度の方向より接近する敵機の編隊を捕捉。艦長より「対空戦闘」の指示が下された。午前8時15分。いよいよ、エンガノ岬沖海戦の幕が開けた。
    敵機の編隊は右斜め前方から攻撃を仕掛けてきた。さっそく伊勢は至近弾2発を受けるが、損傷は無かった。小沢艦隊は激しい爆撃に曝され、多くの艦が被弾する。
    守るべき存在の瑞鳳や瑞鶴にも被弾が相次ぐ。午前8時56分、護衛の駆逐艦秋月が爆沈。最初の犠牲者となった。この第一次空襲は約1時間続いた。
    敵機が引き上げていくと、すぐに陣形の立て直しが行われた。針路325度、速力20ノットで艦隊は北上を続ける。約1時間後の午前9時58分、第二次空襲が始まった。
    この空襲では大型艦の瑞鶴、伊勢、大淀が狙われた。午前10時5分、伊勢に艦爆10機が迫る。対空砲による攻撃で5機を撃墜するが、二番砲塔に小型爆弾が1発命中。至近弾8発を受けた。
    二回目の空襲は比較的短く、約20分で終了した。約2時間半後、第三次空襲が始まる。午後12時28分、伊勢が左舷より接近する敵の大編隊を探知。地獄はまだ終わらない。
    14時14分、旗艦瑞鶴が沈没。後を追うように瑞鳳も15時26分に沈没した。空襲は止まったが、守るべき空母が全滅した。残されたのは伊勢型戦艦と大淀、そして護衛の駆逐艦数隻だった。
    戦闘前、敵艦隊を攻撃しに行った味方の空母艦載機が小沢艦隊の下へ帰還した。ところが降りるべき空母は全滅しており、燃料を使い果たした機は海面に墜落し、水没していく。
    伊勢は、海面に投げ出された瑞鳳乗員の救助に当たった。いつ空襲が始まってもおかしくない状況で、艦を止めるなど自殺行為に等しかった。それでも伊勢は艦を止め、救助の手を差し伸べた。
    また敵潜水艦の襲撃にも気をつけなければなかった。伊勢は最も脆弱な姿を晒していた。だが、伊勢の名を冠しているだけに神徳があったのだろうか。
    1時間の救助活動を経て、瑞鳳乗員98名を救出。再び艦が動き始めた。その間、敵の攻撃が一切無かったのだ!16時30分、伊勢は臨時旗艦の大淀に率いられ、22ノットで北上。
    17時5分、後方より接近する敵の編隊を確認。第四次空襲の始まりである。敵機は生き残っている大型艦伊勢と日向に狙いを絞って攻撃してきた。
    17時26分、右から35機、左から約50機の急降下爆撃機に襲われる。更に右舷側から魚雷7本、左舷側から魚雷4本が迫り、絶体絶命の危機に立たされる。
    だが、ここで神々の加護と中瀬泝艦長の神業が合わさり、魚雷と爆弾を全て回避するという奇跡を起こした。とはいえ無傷とはいかず、至近弾34発を受けた。
    水線付近に大小の破孔と亀裂が生じ、重油95トンが使用不能となった。左舷缶室も被害を受けたが、全力航行に支障は無かった。また戦死者5名、負傷者71名を出している。
    この戦闘で伊勢は敵機22機撃墜を報じた。
  • 第五次、第六次と空襲は続いたが、6回目の空襲を以ってアメリカ軍の猛攻は止まった。実に527機が投入され、そのうち201機が戦闘機だった。
    攻撃は止まったが、上空にはまだ敵の触接機が飛び回っている。20時頃まで艦隊をしつこく追い回した後、姿を消した。
    その頃、瑞鶴乗員救助のため南方に残っていた駆逐艦初月や軽巡五十鈴が攻撃を受けていた。通信を受けた小沢司令は敵情を知らせるよう命じたが、返信は無かった。
    21時30分、初月らを救助するべく小沢司令は反転を命令、南下。23分後、北上してくる艦影を認めた。軽巡五十鈴と駆逐艦若月である。若月から初月の最期を聞くと、中城湾を目指して撤退。
    こうして地獄のエンガノ岬沖海戦は終わりを告げた。圧倒的不利な状況の中、伊勢は50機以上の敵機を撃墜。ハルゼーは「老練な艦長の回避運動により、ついに1発の命中弾も出ず」と悔しがった。
  • だが帰路も穏やかではなかった。翌26日午前0時頃、敵の潜水艦を探知。闇夜の逃避行が始まる。
    10月26日の夜明けは宮古島南方で迎えた。静寂を破ったのは敵潜水艦の雷撃だった。午前6時10分、日向へと伸びていく魚雷が確認され、対潜戦闘が下された。魚雷は艦首50m先をかすめた。
    午前6時30分、艦隊は北西に針路を変え、宮古島海峡に向かった。4分後、2本の魚雷が日向に伸びていく。が、これは後方に外れた。その直後、伊勢が160度方向に新たな敵潜水艦を認めた。
    午前8時32分、伊勢に3本の魚雷が放たれた。しかしこれも外れ。伊勢と日向の間を通過していった。敵は追撃を諦めたのか、以降は何事も無かった。
    そして10月27日午前0時、奄美大島西方180海里に達し、薩川湾へ入港。伊勢は類まれな強運に救われ、地獄の戦場から帰ってきたのだった。
    被弾による浸水で艦体が5度傾いてしまったので、応急修理して水平に戻す。浸水対策として小部屋を大量に用意し、最小限で食い止められるよう工夫を凝らした。10月29日、呉へ回航。
    • しかしながら、戦場は航空戦艦の完成を待ってはくれなかった。伊勢型の姉妹は、搭載機の配備が間に合わぬまま輸送作戦に従事することとなる。
      その後ようやく揃った搭載機は、急遽別の戦線へと転用。ここに至り、航空機の搭載をほぼ断念することとなる。航空戦艦となったはずの伊勢型は、依然戦艦として活用されていたのである。
      諦めた航空機の代わりに、対空兵装を大幅に増強。その中には、新開発であった対空噴進砲も含まれていた。
  • 11月1日、カタパルトを撤去。これにより伊勢は航空戦艦としての機能を失う。残されたのは広い格納庫だけだった。
     
  • 11月8日、日向とともにマニラ向けの軍需品を積載したあと出港。12日に馬公へ入港した。この時にアメリカ軍第38任務部隊によるマニラ大空襲が行われ、入港が不可能になってしまう。
    14日、新南群島に寄港。軍需品を輸送艦に託し、22日にリンガ泊地へ入港した。11月25日、ジョホール水道で座礁事故を起こしている。
    12月14日、カムラン湾へ入港。ミンダナオ島へと向かうアメリカ軍の輸送船団を襲撃するべく待機していたが、30日に作戦中止。カムラン湾を後にした。
    12月16日と30日にB-29がカムラン湾を偵察。伊勢の存在はアメリカ軍に知られる事になる。ハルゼー大将は伊勢の存在を脅威と捉え、何としても撃沈しようと考えた。
    そしてグラティテュード作戦を発令し、機動部隊を率いて南シナ海を暴れまわった。伊勢が狙われたその時、神風が吹いた。
    大型台風(コブラ台風)が発生し、ハルゼー艦隊だけを蹴散らしていったのである。格納庫を開放式にしていた米空母は勿論、駆逐艦にも大損害が及んだ。兵員790名が死亡、100機以上の航空機が損壊した。
     
  • 1945年1月1日、リンガ泊地に寄港後待機。南西方面艦隊第四航空戦隊に転属となった。未だハルゼー艦隊が伊勢を求めて狩りを行っていたが、何故かリンガ泊地へ回航された事を知らず、
    的外れのところばかりを攻撃。巻き添えで香港やサンジャック、ヒ86船団などが猛攻を受け壊滅状態に陥っている。2月6日、シンガポールでアメリカ軍が敷設した機雷に触れて小破。
    そして伊勢の艦内には航空燃料、ゴム、錫、ダングステンといった南方産資源が積み込まれていった。伊勢と日向は格納庫が広かったので、航空揮発油約2000トンが詰め込まれた。
    多くの輸送船が沈められ、資源を運ぶ船を払底した帝國海軍は、軍艦での輸送を思いつく。喉から手が出るほど欲しい資源を得るため、北号作戦を計画。
    その実行戦力に選ばれた伊勢は、これらの資源を本土に持ち帰らねばならなかった。少しでも積載量を増やすためカタパルトを撤去され、実質戦艦に戻っていた。
    伊勢以外にも南方に取り残されていた大型艦が集められ、最後の輸送船団を結成。しかしフィリピンはアメリカ軍の上陸を受けて、本土とシンガポールは連絡が絶たれている状態。
    しかもフィリピンにはアメリカ軍の主力こと第7艦隊が展開していた。更に少し前に出発したヒ86船団は航空攻撃によって壊滅。先行きを暗くするには十分すぎるほどの状況だった。
    このため軍上層部も「5割戻って来られれば上出来」「成功率は20%以下」と悲観的である。唯一の救いと言えば、同時期に硫黄島攻略が行われていたので、南シナ海に敵機動部隊がいない事だった。
    輸送船団は任務を完遂するという意味を込めて、「完部隊」と呼ばれた。
    荷物の積み込みが行われている間、作戦会議が開かれた。伊勢と日向がマニラ方面から殴りこみをかけるように見せかけつつ、本土に舳先を向ける航路が選択された。
    アメリカ軍も、シンガポールに停泊している伊勢型戦艦を脅威と捉えており、殴りこみを想定して待ち構えていたという。
  • 2月10日、シンガポールを出港。伴走者は日向、大淀、初霜、朝霜、霞であった。出港翌日、シンガポールはB-29爆撃機に空襲された。1日でも遅れていれば悲惨な事になっただろう。
    同日中、完部隊はイギリス潜水艦タンタロスに発見される。12日にはアメリカ潜水艦ブラックフィンも視認。攻撃こそ仕掛けてこないものの、索敵機を完部隊の上空に張り付かせる。
    そして米英の攻撃が始まる。13日正午過ぎ、米軍機88機が襲来。完部隊は対空戦闘を発令したが、目の前にスコールが発生しているのを発見。そこへ逃げ込み、難を逃れた。
    続いてバタガン岬沖でアメリカ潜水艦バーゴールの雷撃を受ける。8本の魚雷が伸びてきたが、神業的操艦で全て回避。ここでアメリカ軍の攻撃は一旦止んだ。
    14日午前11時23分、80機の爆撃機が迫ってきたが、また近くでスコールが発生。その中に姿を隠し、無傷で乗り切る。まるで八百万の神々が護ってくれているかのような幸運が続く。
    アメリカ軍の追撃は留まるところを知らなかった。だが追跡してくる敵潜水艦を対空砲で追い返したり、また伸びてくる魚雷を高角砲で破壊する等をして窮地を脱していく。
    そして2月20日、ついに完部隊は呉へと辿り着いた。1隻たりとも欠ける事無く帰還した完部隊を見て、軍上層部は狂喜乱舞。中には涙する者もいた。
    この資源は日本に届けられた最後の資源となり、米軍機の迎撃に上がる日本軍機の燃料として使われたという。しかし大型艦に満載したとはいえ、その量は中型タンカー1隻分程度だった。
    作戦後、軍令部の富岡第一作戦部長がわざわざ呉まで赴き、松田艦長に「おかげさまで助かります」とお礼を言った。その後、松田艦長は大和艦長の伊藤長官の下へ挨拶に行った。
    その時に伊藤長官は「油は全部俺のところにくれ!」と懇願。伊勢や日向の重油を大和に移した。一方、アメリカ軍は完全に虚を突かれ、戦後の会談で松田元艦長に「してやられた」と苦笑した。
  • 絶望的な輸送作戦を無事成功させた伊勢であったが、これ以上はもう何も出来なかった。深刻な重油不足により出撃すら出来なくなり、呉軍港に係留され続けた。
    伊勢が持っていたなけなしの重油は、水上特攻を行う大和に移された。もはや、動く事は出来なかった。
    3月1日、第四航空戦隊が解隊。第一予備艦として呉に待機を命じられた。大型爆撃機のB-29が爆弾を落としていくのが見えたという。
  • 3月19日、エンタープライズより発進した航空機が呉軍港を空襲。100ポンドから1000ポンド爆弾まで使って
    残余の艦艇を葬らんと襲い掛かってきた。午前6時15分、敵航空隊の急襲を受けた呉軍港はただちに対空戦闘を始め、激しい迎撃が行われた。
    伊勢への投弾が行われ、艦橋の2倍ほどの水柱が高々と築き上げられた。そしてスローモーションのようにゆっくりと崩れてゆく。伊勢も反撃を開始し、三式対空弾を発射。
    ズシーン!という重々しい轟音が地震とともに響き渡り、無数の弾が放射線状に拡散していく。伊勢型には対空噴進砲が装備されており、これが効果的だった。
    噴進砲がもたらす激しい炎と煙は米軍機パイロットに恐怖を抱かせ、攻撃を躊躇させた。しかしそれを覆すほどの圧倒的な物量と爆撃で在泊艦艇の殆どが被弾。
    伊勢もまた30機の敵機に襲われ、3発の命中弾を受ける。うち1発は不発弾だった。
    正午過ぎに第二波が現れ、再び伊勢を襲う。艦橋に1発の直撃弾を受け、艦長以下50名が戦死。同時に多数の至近弾も喰らい、100名が負傷した。高角砲の7番砲塔は助かったが、それ以外は全滅だった。
    空襲後、戦死者の死体を軍港で火葬。慰霊祭を挙行した。
  • 5月5日、B-29が広航空廠に白昼爆撃を仕掛けてきたが、もはや抵抗する事は出来なかった。軍港から当たらない対空砲が撃たれるだけである。6月1日、特殊警備艦となり音戸で防空砲台任務に従事する。
  • 7月24日、再び呉軍港が空襲された。この空襲で伊勢は大破着底し、右へ15度傾斜。呉工廠第四ドックに回航するべく準備していたが28日、三度目の空襲が実施され、
    伊勢は24日の分と合わせて20発もの命中弾を喰らった。空襲後、第二砲塔に残っていた三式弾1発を最大仰角で発射して処分。これが日本戦艦による最後の砲撃と言われている。
    2回の空襲で190名が死亡した。この迎撃で伊勢は主砲を400発以上発射したという。
  • 最終的に伊勢型戦艦は、強力な対空兵装でありとあらゆる航空攻撃を阻み続け、遂には力及ばず呉で大破着底。8月15日の終戦を迎えたのである。
    戦争が終わり、伊勢から軍艦旗が降ろされる事になった。しかし何かに引っかかって降ろす事が出来ない。これを見て乗員たちは「伊勢はまだ戦うつもりなのか・・・」と涙した。
    1945年11月20日、除籍。
  • 伊勢の戦いは終わった。飯野産業により1946年10月9日から翌1947年7月4日にかけて解体された。一方、水中部分は残っていたらしく、堤防を作って埋め立てられたとか。
 

余談

  • 伊勢には「伊勢新聞」という艦内新聞が発刊されていた。艦内で製作されたためか手作り感満載である。
  • 航空戦艦に改装され、撤去した副砲はブーゲンビル島に送られ、現地を守備する第八連合特別陸戦隊の手に渡った。元々はガダルカナル島攻略のために取り寄せられた物だと言う。
    伊勢の神徳が篭もっていたのか、ブーゲンビル島方面を守備していた第17軍は終戦まで戦い抜く事が出来た。
  • エンガノ岬沖海戦時、中瀬艦長は危険を冒して瑞鳳の乗員を救助した。復員後、救助された乗員の父親と思われる老人が駅頭で中瀬元艦長を見つけ、泣き縋ったという。
  • 終戦後、陸揚げされた伊勢の艦橋に戦災で家を失った四世帯が住み着いた。住人いわく「素晴らしい鋼鉄の家」だったそうな。
  • 時は流れて現代。伊勢の名を受け継いだ空母護衛艦いせは、先代伊勢の慰霊祭を挙行している。生き残りの伊勢元乗組員を招き、戦死した英霊の供養を行った。