No505 雉/元ネタ解説

Last-modified: 2023-06-13 (火) 13:39:26
所属大日本帝國海軍→Военно-морской флот СССР(1947)
艦種・艦型鴻型水雷艇
正式名称雉(きじ)→Внимательный(1947)→ЦЛ-27→ПКЗ-96
名前の由来雉 キジ目キジ科キジ属、日本の国鳥
→Внимательный ロシア語で「注意深い、親切な」の意
起工日1935.10.24
進水日1937.1.26
就役日(竣工日)(1937.7.31)
除籍日(除籍後)1946.2.20(1947.10.3ソ連海軍引渡/1958.解体)
全長(身長)88.5m
基準排水量(体重)840英t(853.4t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶2基艦本式蒸気タービン2基2軸 19000shp(19263.5PS)
最高速度30.5kt(56.49km/h)
航続距離13.0kt(25.93km/h)/4000海里(7408km)
乗員129名
装備(建造時)45口径十一式12cm単装砲3基3門
毘式40mm機銃x1
53cm三連装魚雷発射管1基3門
装甲なし
建造所三井造船玉工場(日本国岡山県玉野市玉)
  • 雉は、日本海軍が②計画において計画・建造した(おおとり)型水雷艇の1隻。
    同型の中では唯一終戦まで生き残り、戦後ソ連に賠償艦として渡った。
    「水雷艇」と「駆逐艦」
    • そもそも鴻型水雷艇など20世紀の「水雷艇」は、元々の由来である「水雷兵器(魚雷の祖先)の運用を目的に建造された小型船舶」とは若干意味合いが異なる。
      自走水雷(≒魚雷)登場以前は、曳航水雷を敵艦の進行方向にばらまくなど、機雷敷設艇にも似た役割だった。
      魚雷登場以降は、大型艦に肉薄攻撃するという点では変わらないものの、より高速で主力艦に接近し大規模に雷撃する戦法を行えるようになった(日清戦争中の威海衛の戦いなど)。
      • 似たような名前として「魚雷艇」があるが、こちらは内燃機関搭載のモーターボート。
        ドイツのSボートやアメリカのPTボートなどが該当する。
        ややこしいことに「水雷艇」「魚雷艇」どちらも英語だと"torpedo boat"呼称のため、混同しがちである。
    • 19世紀後半、各国でこぞって水雷艇が建造されていくと、当然水雷艇を相手にしなければならない状況も想定しなければならず、対水雷艇能力に長けた大型かつ強力な水雷艇=「水雷艇駆逐艦」が求められるようになった。
      この「水雷艇駆逐する艦」(Torpedo Boat Destroyer)が単に「駆逐艦」(Destroyer)と呼称されて今に至っている。
    日本の「水雷艇」前史
    • 日本海軍も創立以来水雷艇や水雷艇駆逐艦の建造を進めていたのであるが、年々高性能化に合わせた大型化が顕著だった。
      特に1922年のワシントン海軍軍縮条約締結以降主力艦の建造制限がかかると、より補助艦艇にその任を負わせようと建艦競争が再燃、その一つの到達点として吹雪型駆逐艦が誕生する。
      しかし当時において吹雪型の性能は各国で問題視されるほどのものとなっており、補助艦も含めた制限を設けるものとして1930年にロンドン海軍軍縮条約が締結された。
      • しかしこの条約にも抜け道があった。
        「600トン以下は条約対象外」という条約の項目を受けて、日本海軍はこの部分に相当するいわば「小型駆逐艦」として艦種「水雷艇」を用いることで実質的な駆逐艦枠にしようと画策した。
        これが日本における第2義的な「水雷艇」誕生の経緯であった。
    「友鶴事件」と日本水雷艇のその後
    • 条約の抜け道的解釈は日本に限らず独仏などでも行われており、日本同様小型駆逐艦としての水雷艇の整備が進められた。
    • 日本では二等駆逐艦の代用として、まず「千鳥型」水雷艇が4隻建造された。
      条約の条項上排水量は600トンを上限としなければならない一方、1930年の条約締結によって予定されていた中型(1000t級)駆逐艦整備計画がお釈迦になってしまったため、その設計要求が千鳥型に落とし込まれることになった。
      流石にある程度のスペックダウンこそ図られたものの、それでも排水量に対してあまりに過武装であるのは否めなかった。
    • この設計上の不備が、1934年3月の「友鶴事件」につながったとされる。
      この事件は、千鳥型3番艦「友鶴(ともづる)」が夜間演習中に転覆、乗員の9割近くが死亡乃至行方不明となったものである。
      過武装による重心位置の上昇が原因の復原力(浮力が傾斜を戻そうとする力)不足、艦長の操舵ミス、また設計側と用兵側との意思疎通不足による艦船設計の不十分な現状があらわになった。
      • これに加え、1935年の第四艦隊事件*1もあり、大規模な改修工事が千鳥型のみならず海軍全体でおこなわれた。
        結局、当初日本海軍が想定していた「中型駆逐艦代用としての超強力な水雷艇」計画は挫折することになってしまう。
    • 千鳥型は小さな船体に過剰な武装を施したことで友鶴事件を起こしてしまったため、改良型の鴻型は武装を軽量化し、艦橋も簡素化した。
      特に武装面では、初春型と同じ3年式12.7cm砲ではなく、旧式の十年式12cm砲3基搭載にし、大幅な軽量化を達成した。一方魚雷は新開発の3連装53.3cm発射管1基としたため、軽量化と射線数の低下を妥協した。
      なお、安定性を向上させるため、船体も大型化しており、内部構造も強化したため、排水量は840tまで増えてしまい、条約に抵触してしまうが、対外的には590tで押し通したという。
    • 条約の抜け道的存在として生まれた水雷艇は、その後日本の条約脱退によって通常の駆逐艦の建造にとってかわられることになり、千鳥型の後続艦型として建造された雉含む「鴻型」以降、日本では水雷艇の建造は行われなかった。その鴻型も8隻で建造は打ち切られた。
      • ちなみに、日本水雷艇の最終型「鴻型」は松型駆逐艦のタイプシップとして選定されており、ある意味では松型が後続艦型になっているともいえる。
  • 1935年10月起工、37年1月進水、同年7月竣工。
    設計段階から揚子江方面での作戦適正があると見込まれ、川の水用のろ過装置を載せていた。
  • 竣工後、日中戦争で実際に揚子江遡江を行ったほか、搭載砲による上陸支援任務など、中国方面で活動。
    対米英宣戦以降は香港やフィリピン攻略にも借り出されるなどしていたが、その後同型各艦は水雷隊を解き、各地で船団護衛および哨戒活動に当たった。
  • 1942年春には軽巡洋艦「球磨」とともにミンダナオ島やセブ島など、フィリピン南部での港湾攻略に従事。
    4月に青島に配置換えとなり、マニラから青島までの輸送船団護衛ついでに現地へ出向、翌年まで同地にて哨戒活動を行った。
  • 1943年からは日本占領下の蘭領東インド諸島の各地を護衛と輸送のため転々とした。
    同年も暮れに差し掛かるころからだんだんと日本の戦況が悪化していくと、雉の活動域も少しずつ後退していく。
    1944年のアメリカ軍によるニューギニア攻略本格化、マリアナでの敗北による絶対国防圏の突破などがありながらも、最終的にはスラバヤ方面での輸送と護衛に従事したまま、終戦を迎えた。
    鴻型は8隻が建造されたが、最終的に終戦まで生き残ったのは雉のみであった。
  • 終戦後、復員船としての活動を経て、1947年にソ連に賠償艦として引き渡された。
    名を「ヴニマーテリヌイ(注意深い、親切な)」に改められたものの、戦後のソ連の財政難などから移管後3か月で予備役に編入、標的艦「TsL-27」や浮き兵舎「PKZ-96」に名を変えられ*2、1957年10月に除籍・解体となった。

*1 船体強度設計の不備から、悪天候時に小型艦数隻が重大な損傷を受けた
*2 元の名前「ヴニマーテリヌイ」はソ連海軍の30bis型駆逐艦のうちの1隻に移された