No513 イントレピッド/元ネタ解説

Last-modified: 2022-04-14 (木) 14:45:36
所属United States Navy
艦種・艦型エセックス級航空母艦→攻撃航空母艦(1952)→対潜航空母艦(1962)
正式名称USS Intrepid (CV/CVA/CVS-11)
名前の由来USS Intrepid (1798) アメリカ独立後初の対外戦争「第一次バーバリ戦争」にて鹵獲した臼砲船
愛称Fighting I
モットーIn Mare, In Coelo(海にて、空にて)
起工日1941.12.1
進水日1943.4.26
就役日(竣工日)1943.8.16
退役日(除籍後)1974.3.15(1982.2.23除籍後博物館船に)
全長(身長)266.0m
基準排水量(体重)27100英t(27535t)
出力Babcock&Wilcox式重油専焼缶8基Westinghouse式蒸気タービン4基4軸 150000shp(152080.5PS)
最高速度33.0kt(61.11km/h)
航続距離15kt(27.78km/h)/20000海里(37040km)
乗員2600名
装備(建造時)5inch38口径Mk.12両用砲連装4基8門単装4門
40mmボフォース機関砲x32(8x4)
エリコン20mm機関砲x46
艦載機90~100
装甲舷側:2.5~4inch 甲板:1.5inch 操舵室上:2.5inch
建造所Newport News Shipbuilding, Newport News, Virginia
(ニューポート・ニューズ造船所 アメリカ合衆国ヴァージニア州ニューポート・ニューズ市)
勲章Navy Unit Commendation (2)
Navy Expeditionary Medal
China Service Medal (extended)
American Campaign Medal
Asiatic-Pacifc Campaign Medal (5 battle stars)
World War II Victory Medal
Navy Occupation Service Medal (with Asia and Europe clasps)
National Defense Service Medal
Vietnam Service Medal (5 battle stars)
Philippine Presidential Unit Citation
Republic of Vietnam Meritorious Unit Citation (Gallantry Cross Medal with Palm)
Philippine Liberation Medal
Republic of Vietnam Campaign Medal
  • イントレピッドはアメリカが量産した水餃子エセックス級航空母艦の1隻。ハルナンバーとしては同級3番目。エセックス級についてはネームシップの解説を参照されたい。
    激戦地に送り込まれては損傷してドック入り、という日々を繰り返したため"Dry I"や"Evil I"、また艦名と語感の似た"Decrepit"(よぼよぼがたがた)なんてあだ名されてしまうくらいであったが、それでも戦線復帰して次なる戦場に駆け付けていることから"Fighting I"として称えられた武勲艦である。
    その波乱万丈の艦生ゆえに支持者も多かったことが幸いして艦体は今なお保存され、博物館(イントレピッド海上航空宇宙博物館)としてニューヨークはマンハッタンの名所の一つになっている。
起工~終戦・戦後処理 [1941-46]
  • 1941年12月1日に起工。
    数日後に日本の真珠湾攻撃をもって対日開戦となったため、建造スピードを高められて43年4月に進水、同年8月に就役した。
    就役後3か月ほどの訓練の後パナマ運河を渡ってパールハーバーへ。
  • 1944年1月末からはマーシャル諸島攻略に出撃、クェゼリン島などへの攻略部隊に対する航空支援を行った。
    引き続き2月中旬には日本海軍の拠点トラック島にも攻撃に向かったが、ここで日本陸攻の夜間雷撃がクリティカルヒットしてしまう。
    右舷への浸水や操舵室損壊によるコントロール不能状態に陥ってしまい、結局イントレピッドは護衛をつけられてサンフランシスコまで後退していった*1
  • 3月下旬にサンフランシスコに入港してから2か月少しでイントレピッドは修理を終え再出撃した。
    アメリカの空母機動部隊は大きく4群に分割され、その内の3群とともにイントレピッドはフィリピン方面に進出、夏場はルソン島などを空襲し、その後部隊集結地点として整備されたウルシ―環礁を新たな拠点とした。
    10月に入ってからは沖縄島、そして台湾島も自身の空襲圏に含めていく。
    10月中旬の台湾空襲においては、自身含む総勢1400機余の航空機が攻撃に参加し、微細な損害で日本軍司令部施設などを徹底的に破壊することに成功する。
  • 中旬以降、アメリカがフィリピン奪回のために本格的に動き出すと、日本も米軍上陸阻止のため囮部隊を含む艦隊派遣を決定、両軍の衝突が発生した(=総称として「レイテ沖海戦」)。
    日本の主要な大型艦がほぼ出撃しており、これらに対して潜水艦による雷撃や空母による空襲を何度も浴びせかけることで日本側の戦力はすり減っていく。
    イントレピッドもそれに加わり、最終的には日本の巨大戦艦武蔵を猛爆によって撃沈せしめた。
    その後、北方の空母囮部隊に対しても追撃が命じられ、イントレピッドは瑞鳳や千歳を損傷ないし沈没させた。
    さらに旗艦瑞鶴にも雷撃を命中させた(サン・ジャシントによるとも言われる)ことで指揮官の移乗を余儀なくさせるなど、武功を立てていった。
    ひととおりの日本艦隊への対処を済ませてからは、再びフィリピン近海の制海権・制空権確保のため遊弋を続けた。
    このあたりから特攻機による被害が出始めており、イントレピッドも10月末と11月末に特攻機の侵入を受けて損傷(後者は飛行甲板上及び格納庫内で爆発したため判定大破)、年末にサンフランシスコに戻って修理に入った。
  • 翌45年2月に修理完了、3月半ばに艦隊に合流。
    以降は沖縄戦のために九州方面を空襲し、のちに神戸および呉への偵察の結果実行に移された呉軍港空襲も行う*2
    しかし日本軍も激烈な反抗を仕掛けており、複数隻の空母が中大破の損傷を被ってもいる。
    部隊の再編制や補給休息のために一時後退し、4月に沖縄島への上陸作戦が開始されるのに合わせて再び前線に移る。
  • 4月初頭に戦艦大和の出撃が偵察によって明らかになると、全空母に迎撃の準備が命令される。
    当初は戦艦部隊を差し向ける予定であったものの、上陸船団の安全を考慮した結果空母部隊の空襲に切り替えられた。
    イントレピッドが属していたグループは沖縄援護を行っていた関係で大和攻撃にはやや遅れて参加することとなったが、昼過ぎまで続いた空襲によって大和はついに沈められた(=坊ノ岬沖海戦)。
    その後引き続き沖縄戦支援のため近海に遊弋していたイントレピッドだったが、米軍艦艇に甚大な被害が出た特攻機の殺到に再び見舞われ、飛行甲板を激しく損傷してしまう。
    これが3回目の本国送り、5月半ばにサンフランシスコに入港。
  • 6月末に修理を終えて再出撃、洋上訓練を終えてパールハーバーを出港した時にはすでに8月上旬、まもなく日本は無条件降伏を宣言した。
    そのままイントレピッドは連合国軍による占領活動支援のため日本本土や朝鮮半島などに赴きつつ、翌年2月にやっと本国帰還。
    モスボール状態で保管された。
戦後改装~ベトナム戦争~博物館船化 [1947-]
  • モスボール状態で保管されていたイントレピッド、近代化の計画こそあったものの終戦直後の予算不足の影響で実施できない…かに思われたが、朝鮮戦争勃発で計画は再始動、SCB-27C改装*3が1952年から着手され、この段階で艦種も攻撃空母(CVA)に変更された。
    2年強の改装期間を経て次世代に対応したイントレピッドは複数回地中海へ航海し、1956年、今度はSCB-125改装*4が1年弱で施される。
    以降イントレピッドは地中海やカリブ海、時にはNATO合同演習として北大西洋上のGIUKギャップ*5にも展開した。
  • 1962年、イントレピッドは対潜空母へ改装される(艦種も対潜空母(CVS)に改められる)。
    これはソ連の潜水艦戦力に対応する際、これまで用いられてきた低速・小型の護衛空母/軽空母では安定性に難があるとされたため、既存の高速・大型なエセックス級に白羽の矢が立ったものであった。
    小規模な改装故ひと月ほどで活動を再開。
    対潜空母としてソ連潜水艦を大西洋や地中海で追い回すこともあれば、マーキュリー・コスモス7号やジェミニ3号などの救助に向かうなど宇宙開発計画の支援任務に当たることもあり、他エセックス級と同じような日々を過ごしていた。
  • 1966年、イントレピッドはベトナム戦争に参加することとなった。
    米軍がローリングサンダー作戦(いわゆる「北爆」)をエスカレートさせていた時期の投入であり、対潜空母であったものの艦上機部隊を対潜用から攻撃用に差し替えることで、限定的ながら攻撃空母としての運用がなされた。
    一時帰航したものの翌年・翌々年にも戦線に参加、出撃機が対空砲やミサイルで損耗するなどあったが、飛行場や港湾施設を爆撃、さらには北ベトナムのMiG-17*6やMiG-21の撃墜記録を打ち立て更に戦果を挙げた。
  • 70年代に入ってからはカリブ海での対潜演習や北大西洋・地中海への巡航とベトナム戦争以前のような日常に戻った。
    そして74年についに退役となる。
    アメリカ対潜空母の中では最後まで残った艦であり、当初スクラップとして売却される予定であったが、世論がそれに待ったをかけた。
    民間で博物館財団が設立され保存基金が始まるほどであり、数年に及ぶ海軍との交渉の末イントレピッドは博物館船として残ることが決まった。
    82年に米海軍より除籍、同年「イントレピッド海上航空宇宙博物館」としてニューヨークに開館*7
    2001年の同時多発テロの際のFBIの臨時拠点となったり、『アイ・アム・レジェンド』などの映画の撮影地になったりなど、その後も話題に事欠かなかった。
    • 実は2006年、博物館となったイントレピッドが接岸している桟橋の老朽化に伴う移設に際し、堆積していた土砂に座礁し一時解体が議論されるまでの危機に陥っていたりする。
      どうにか浚渫を行うことで離礁できたため難を逃れ、船体にもリフレッシュ工事が施されて2008年に博物館は無事再開した。

*1 退避中も針路変更したとたん操舵不能になってしまい、艦にあるありったけの部材で仮の帆を張って針路を調整する荒業までやってのけている
*2 この時点では日本艦艇は酷くとも中破までにとどまっており、7月末の再度の空襲にて着底した艦が一気に出た
*3 ジェット機運用能力・核兵器運用能力付与等の工事
*4 アングルドデッキ(斜め飛行甲板)設置、エンクローズドバウ化(艦首部と飛行甲板の一体化)など、艦上機運用能力および航海性能向上を目的とした工事
*5 グリーンランド(Greenland)・アイスランド(Iceland)・イギリス(United Kingdom)間の海域、チョークポイントとして知られる
*6 A-1攻撃機が撃墜、ベトナム戦争においてレシプロ機に撃墜された唯一のジェット機となった
*7 86年に国定歴史建造物に指定