No104 ウォースパイト/元ネタ解説

Last-modified: 2024-02-17 (土) 09:10:08
所属Royal Navy
艦種・艦型クイーン・エリザベス級戦艦
正式名称HMS Warspite (03)
名前の由来Warspite 由来は定まっていない。エリザベス女王の時代の言葉'spight'(軽蔑する)から海軍の敵を軽蔑するを具現化した説や戦場のキツツキ(spight 緑色のキツツキの共通名)が敵艦(当時は木製)に穴を開けるという説がある。
1919年まで歴代の船の紋章としてキツツキが用いられている。
愛称The Grand Old Lady, The Old Lady
モットーBelli dura despicio (I Despise the Hard Knocks of War)
起工日1912.10.31
進水日1913.11.26
就役日(竣工日)1915.3.8
退役日(除籍後)1945.2.1 1947年除籍(解体のため1947.4.19ポーツマス港へ回航中座礁1950年解体)
全長(身長)196.2m
基準排水量(体重)32590英t(33113t)
出力Yarrow式石炭重油混焼缶24基Parsons式蒸気タービン2基4軸 75000shp(76040.2PS)
→Admiralty式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 80000shp(81109.6PS)(1944)
最高速度25.0kt(46.30km/h)→23.5kt(43.52km/h)(1944)
航続距離12.0kt(22.22km/h)/5000海里(9260km)
→12.5kt(23.15km/h)/8600海里(15927.2km)(1944)
乗員1025~1262名
装備(1945)15inch42口径連装砲4基8門
4.5inch45口径連装両用砲4基8門
ヴィッカース2ポンド機関砲x32(4x8)
エリコン20mm機関砲x31(2x2+27x1)
21inch魚雷発射管4門
装甲舷側:4~13inch 甲板:1~3inch 砲塔:11~13inch バーベット:7~10inch 艦橋:3~13inch 隔壁:4~6inch
建造所Her Majesty's Naval Base, Devonport,Devon
(王立デボンポート海軍基地 イングランド国南西イングランド地域デヴォン州プリマス市デヴォンポート区)
  • イギリス海軍のクイーン・エリザベス級戦艦2番艦。
    第一次世界大戦、そして第二次世界大戦を駆け抜けた武勲艦であり、幾度と無く傷付きながらも戦い抜いた。
    その経歴と戦いぶりから、イギリス海軍軍人であるアンドリュー・カニンガム提督は「オールド・レディ(老嬢)」と評した。
    それがきっかけで、ウォースパイトは多くの人々から敬意を込めて「オールド・レディ」と呼ばれている。
    また、イギリス海軍の主要な戦いに参戦し続けた事から「戦いあるところにウォースパイトあり」とも大戦当時は評された。
  • 艦名である「ウォースパイト」の意味や由来に関しては諸説あるが、「戦争を軽蔑するもの」「戦場のキツツキ」等の意味がある。
     

誕生と第一次世界大戦

  • 1912年10月31日にデヴォンポート海軍工廠で起工。翌1913年11月26日に進水、1915年3月8日に就役。
    設計にはフィッシャー卿が関与し、後のイギリス首相チャーチル(建造当時は海軍大臣)の働きかけで建造が決定した。
    時は第一次世界大戦の真っ只中であり、ウォースパイトはすぐさま実戦へと投入された。
  • 1916年5月31日、就役して間もないウォースパイトは第一次大戦最大の海戦であるユトランド沖海戦へ参加。
    ドイツ艦隊を相手に奮闘するものの、この戦いでウォースパイトは舵を故障。その後も舵の不具合に悩まされ続ける事になる。
    この戦いで損傷を受けたウォースパイトは修復のためイギリス本国へと戻ったが、その間にドイツ軍潜水艦の魚雷2発を受け2発とも不発という幸運(悪運?)に見舞われた。
  • しかし第一次世界大戦では座礁事故、姉妹艦のバーラムとヴァリアント、友軍駆逐艦との3件の衝突事故を起こし、さらに戦艦ヴァンガード(初代)の爆発事故に巻き込まれる等不運が続いた。
    さらにボイラー室で火災事故が発生し、また修復作業に見舞われるなど、ウォースパイトは第一次世界大戦では散々な事件・事故ばかり頻発。不遇のまますごしている。
     
  • 第一次世界大戦の終結後、世界には束の間の平和が訪れた。
    ウォースパイトはイギリス海軍大西洋艦隊の一員として平時の活動を行い、1924年の英国艦隊観艦式にも参加。
    この間のウォースパイトの主な居場所は地中海であった。
  • 1926年までに装甲・武装を重点とした近代化改装が施された。
    その後は地中海艦隊の旗艦として活動し、1930年には再び大西洋艦隊へと戻っている。
  • 第二次大戦前夜の1934年からは大型改装が行われ、航空機の搭載能力や機関配置・武装の変更が行われた。
    1937年に改装が終了。ふたたび地中海艦隊旗艦として舞い戻った。
     

第二次世界大戦でのウォースパイト

  • 1939年9月3日、イギリスはドイツに対して宣戦を布告。第二次世界大戦にイギリスが参戦。
    ウォースパイトは本国艦隊へと参加し、対ドイツ戦へと従事する事になった。
    開戦初期のウォースパイトは、ドイツ艦隊捜索や船団護衛と言った任務に従事している。
  • 1940年4月にはドイツ軍がノルウェーに侵攻。ノルウェー沖なイギリス艦隊が集結し、ウォースパイトもノルウェーへと向かっている。
    4月13日、ナルヴィクへ向かっていたウォースパイトの艦載機(ソードフィッシュ水上機型)が潜水艦を発見。
    このドイツ潜水艦U-64を爆雷攻撃により沈めている。
    ちなみにこの戦果はWW2で始めてのウォースパイトの戦果にして、史上初の航空機による潜水艦の撃沈となった。
    フィヨルドへと突入したウォースパイトとイギリス艦隊はドイツ海軍の駆逐艦に対して攻撃を開始。後世に伝わる第二次ナルヴィク海戦である。
    ウォースパイトはこの戦いでドイツ駆逐艦Z13を撃破。続く24日にはナルヴィクへ砲撃を敢行、ドイツ軍に痛手を負わせている。
    また、この時期にはロイヤル・オークを沈めたドイツ軍潜水艦U47に雷撃されているが、命中せず難を逃れている。
     
  • 1940年5月に入り、ウォースパイトの新たな戦場は古巣の地中海へと移行した。イタリアの参戦である。
    地中海を跋扈するイタリア海軍へと対抗するため派遣されたウォースパイトは船団護衛作戦などに従事した。
  • 7月9日に発生したカラブリア沖海戦ではイタリア戦艦ジュリオ・チェザーレに命中弾を与えている。
    この命中弾は航行中のジュリオ・チェザーレに対して24kmから砲撃するという記録的な長距離砲撃によるものであった。
    その後もイタリア艦隊との交戦、艦砲射撃任務などで活躍した。
  • 1941年3月27日、イタリア艦隊とイギリス艦隊の大規模な戦いであるマタパン岬沖海戦が発生。
    戦艦ヴィットリオ・ヴェネトを含むイタリアの巡洋艦・駆逐艦と交戦している。
    28日に起こった夜戦ではウォースパイトはその砲戦能力を遺憾なく発揮。
    巡洋艦ザラ、ポーラ、フィウメの重巡3隻、駆逐艦2隻がこの戦いで撃沈され、戦闘はイギリス軍の圧勝に終わっている。
  • ウォースパイトは地中海の戦いを比較的軽微な損害で乗り切ったが、姉妹艦であるバーラムは沈没。
    クイーン・エリザベスとヴァリアントはイタリア海軍の人間魚雷(特攻兵器でなく潜水工作兵器)で大破、イギリス艦隊も打撃を受けていた。
  • ウォースパイトはその後、修理のためアメリカへ向かい、砲身交換などの作業を行った。
    しかし、この間にまた新たな戦いが反対側の海、太平洋で起ころうとしていた。
     

日本参戦と地中海の死闘

  • 1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。日本の参戦に伴い、1942年1月には東洋艦隊へと編入された。
    ウォースパイトにはジェームズ・サマヴィル中将が乗艦し、東洋艦隊の旗艦となった。
    そして4月にはセイロン沖海戦が勃発、イギリス艦隊は空母1隻・重巡2隻・駆逐艦2隻喪失という大敗を喫ししている。
    しかしながらウォースパイトはこの日本軍との戦いでは目だった損傷も受けず、無傷で生き延びている。
    1943年5月、ウォースパイトはインド洋を離れ再び本国艦隊へと戻った。
     
  • 1943年6月、再び地中海へと戻ったウォースパイトは7月に行われたシチリア上陸作戦であるハスキー作戦へと参加。
    ネルソンロドニーやヴァリアントと言った戦艦と共にドイツ軍に対して艦砲射撃を行った。
    同年9月8日、イタリアの降伏に伴い、次なる目標はドイツ軍となったが、ドイツ軍の抵抗は激しく、その猛攻はウォースパイトへと向けられる事になる。
  • 9月16日、ウォースパイトはドイツ軍からの空襲を受けた。
    だが、ウォースパイトを襲ったのは爆撃機ではなく、ドイツ軍の新兵器、誘導爆弾のフリッツXであった。
    計2発が命中し、水上機格納庫と機関部で爆発、ボイラー室が被害を受け浸水が発生。大損害を受けた。
    航行困難な状況ながら、ウォースパイトは曳航されてマルタ島へ退避、命からがら生還した。
  • このダメージは深刻であり、修復を受けたものの速力は21ノットまで低下。
    さらに3番主砲塔は損害を受けながらも修理されなかったという。
    これほどまでの傷を負いながらも、ウォースパイトはまたも戦線へ復帰、ドイツを追い込むため戦いを続ける事となる。
     

退役と最後の勝利

  • 1944年6月6日、ヨーロッパ戦線の一大反抗作戦であるノルマンディー上陸作戦が開始。
    ウォースパイトは連合軍の上陸を支援するため、ノルマンディーのソード海岸において艦砲射撃を行った。
    続くゴールド海岸でも上陸部隊を支援。主砲は容赦なく吼え続けた。
    しかし、不運な事にウォースパイトはこの戦いの最中、機雷と接触し損傷を受けてしまう。
    この損傷は甚大であり、機関とスクリューに対するダメージはとりわけ深刻で速力は15ノットに落ち込んだ。
    しかし修理を施され、砲身を交換後すぐにウォースパイトは戦列へ復帰、再び艦砲射撃任務を続行した。
  • 1944年11月1日、ウォースパイトはゼーラント州のワルヘレン島に艦砲射撃を行った。
    この艦砲射撃任務を以って、ウォースパイトの任務は終了した。
     
  • 1945年2月1日、ドイツの敗戦濃厚となったこの時期、ウォースパイトは予備役へと編入された。
    そして、4月ドイツが敗北し、後を追うように8月15日に日本がポツダム宣言を受諾。第二次世界大戦は終結を迎えた。
    艦齢も30以上を超えたウォースパイトは二度目の世界大戦をボロボロに傷つきながらも戦い抜いたのであった。
  • 幾つもの戦いを潜り抜けたウォースパイトは、その功績から博物館として保存を求める声が上がったが、艦の廃棄は決定的であり、スクラップ処分が決まった。
    第二次大戦後、疲弊しきったイギリスにとってウォースパイトを保存する余裕など無かったのである。
  • 1947年にスクラップとして売却されたウォースパイトであったが、解体所まで曳航される際に悪天候により曳航船から鎖が外れてしまった。
    コントロールを失い漂流したウォースパイトはスクラップ業者から逃げるように座礁。
    この偶然は「戦艦ウォースパイト最後の勝利」と呼ばれたという。
  • 1950年に解体が完了し、ウォースパイトは軍艦としての生涯を終えた。
    二度の世界大戦を戦い抜いたウォースパイトはイギリス海軍にとって伝説の戦艦であり、その存在は後世まで語り継がれている。