No122 龍驤/元ネタ解説

Last-modified: 2023-07-30 (日) 03:23:27
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型航空母艦龍驤
正式名称龍驤(りゅうじょう/りゅうじゃう)
名前の由来漢成語で龍が天高く昇っていく様という意味 *1
起工日1929.11.26
進水日1931.4.2
就役日(竣工日)(1933.5.9)
除籍日(除籍理由)1942.11.10(第二次ソロモン海戦/英Battle of the Eastern Solomons1942.8.24沈没)
全長(身長)180.0m
基準排水量(体重)8000英t(8128.4t)→10600英t(10770.1t)(1936)
出力ロ号艦本式重油専焼缶6基艦本式蒸気タービン2基2軸 65000shp(65901.5PS)
最高速度29.0kt(53.70km/h)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/10000海里(18520km)
乗員916~924名
装備(建造時)40口径八九式12.7cm連装高角砲6基12門
九六式13.2mm機銃x24(6x4)
艦載機x36+12
装備(1936)40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x8(4x2)
九六式13.2mm機銃x24(6x4)
艦載機x36+12
装甲舷側:46mm
建造所横浜船渠社 (現 横浜みなとみらい21) (日本国神奈川県横浜市)
艤装横須賀海軍工廠 (現 米海軍横須賀基地) (日本国神奈川県横須賀市)

大日本帝國海軍が建造した龍驤型航空母艦一番艦。姉妹艦は存在しない。大正14年に策定され、昭和2年度の予算で建造が決定。
元々は水上機母艦若宮の後継となる水上機母艦になるはずだったが、ワシントン条約締結により条約制限外(1万トン以下)の小型空母として誕生する事になった。
1929年11月26日、横須賀船渠で起工。龍驤は軍艦なので、本来なら横須賀海軍工廠で建艦されるはずなのだが、造船不況を鑑みて船体のみ民間に委託したのである。
こうして民間の手で工事が進められたが、1930年にロンドン条約が締結し、小型空母まで制限の対象になってしまった。一応、工事は続けられ1931年4月2日に進水を果たす。
進水後は管轄が海軍に移行。横須賀海軍工廠に回航され、艤装工事を進めると同時に、条約に合わせた改装が行われた。
小さな船体を最大限に活用するため、格納庫を二段にする等の強引な変更を重ねた結果、トップヘビーになってしまう。
逆三角形のようなアンバランスな船体となり、水面上から飛行甲板まで14.8mと異様に重心が高かった。
(大柄な米国製艦載機の修理運用のための格納庫が2段あるユニコーンでも14mであるからいかに異常かがわかる。また大型空母の翔鶴より高い)
対策としてバルジを装着したが、あまり意味を成さなかった模様。バルジ内にも燃料の重油を充填していたが、安定性を維持するため、余程のことがない限りこの重油は使用禁止となった。
このため公試の際、転舵すると20度も傾斜するという復元性に大きな問題を残した。舷側に張り出たカッターが波に叩かれて破損するというオマケ付きで、艦隊側からクレームが付いた。
また、「転舵した際に開放中のエレベーターから水平線が見えるほど傾いた」という洒落にならない逸話も残されている。
しかしバラストの移動と重油の使用制限というやっつけの対策で済まされた。機関の数も従来の半分に削減され、予定では30ノットを出せるはずが、29ノットに低下してしまう。
波を打ち消す力も無く、静かな洋上でもひときわ大きな音と波を立てながら航行する姿は異常だった。船体は青葉を参考にしているが、シアとフレアを付けたり、乾舷を低くしているため原型を留めていない。

問題だらけではあったが、建艦は強引に進み、1933年5月9日に竣工した。そして呉鎮守府第二航空戦隊に編入される。基本排水量は8000トンで乗員924名。

 
以下折り畳み

様々な問題を抱えながら誕生した龍驤だが、さっそく困難が立ちふさがる。友鶴事件の発生でトップヘビーの危険性が露わとなり、急遽改装が必要になったのだ。
1934年5月から8月にかけて一回目の復元性能改善工事が行われた。重心の降下のため、より大型のバルジが装着され、固定バラストを搭載。下部一番格納庫を廃止、煙突を3m延長、5・6番連装高角砲は撤去され、13mm機銃に変更された。
そして新たに防水隔壁と防水扉を追加、重油タンクの一部に海水補填装置を増設、艦底バラスト550トンを搭載した。
改装を終えた龍驤は問題を解決したかに見えた。ところがもう全然現実は、もうそうでなくて・・・。
1935年9月26日、四年に一度の大演習に参加するため第四艦隊の一員として三陸沖に向かっていた。その途上で超大型台風に巻き込まれ、艦隊に大きな爪痕を残した。いわゆる第四艦隊事件である。
龍驤は激浪にさらされ、艦橋前壁が圧壊。この損傷により10月11日から呉工廠で二回目の復元性能改善工事が行われた。波浪侵入防止のため艦首の錨甲板を一層高くして第二最上甲板と接続。
操舵室を下に移し、羅針艦橋を小型化して構造を強化。また羅針艦橋前面の形状に丸みを帯びさせ、波浪の衝撃を逃がすように改良した。また飛行甲板の延伸も行われている。
この改装で排水量は10600トンにまで膨れ上がった。1936年5月31日、改装完了。図らずも龍驤は実験体となり、帝國海軍の建艦技術を大きく向上させるのであった。

 

1937年7月7日、日華事変が勃発。第一航空戦隊に転入した龍驤は、8月12日より支那方面へ派遣される。8月22日、宝山上空で初陣を飾る。九〇式艦戦4機がカーチス・ホーク18機と交戦、1発の被弾もせずに8機を撃墜する華々しい戦果を挙げる。
翌日も同様に九〇式艦戦4機が宝山上空でカーチス・ホーク27機と交戦。9機を撃墜した。この大戦果を受け、支那方面艦隊司令から感状を受け賜った。
9月21日の広東攻撃では敵戦闘機11機撃墜、1機撃墜不確実の戦果を挙げ、また支那方面艦隊司令から感状を受け賜っている。10月5日、搭載機を公大飛行場へ派遣。12月1日に内地へと帰投し、訓練に従事。
1939年3月21日、赤城蒼龍とともに佐世保を出港。青島に入港し、艦載機を発進させて示威飛行を行った。3月31日、第二艦隊第二航空戦隊に転属。
11月15日に予備艦となり、修理と改装を受ける。1940年2月から7月にかけて第十二連合航空隊の発着艦訓練を実施。パイロットの育成に力を入れたが、この時の訓練が非常に苛酷だったと言われている。
「赤鬼、青鬼でさえ龍驤と聞いただけで後ずさりする」と比喩される程。しかしながら実力を持ったパイロットを沢山輩出したのも事実である。
1941年4月10日、第四航空戦隊に配備される。6月、内南洋で対潜訓練に従事。10月中旬から11月初旬にかけて台湾の高雄に進出。台南空と第三空の零戦で発着艦訓練を行った。

日米開戦の時が刻々と迫る11月27日、佐伯湾を出港。12月5日にパラオへ入港し、翌日出港。フィリピン方面へと向かった。

 

1941年12月8日、運命の大東亜戦争が勃発。正規空母は全て真珠湾攻撃に赴き、残りの空母は内地で待機していたため龍驤は南方作戦に投入された唯一の空母であった。
最新鋭機の零戦は基地航空隊と大型空母に取られ、龍驤にあったのは旧式機のみだったが、果敢に連合軍へ挑みかかった。
まず最初の目標はダバオ基地。現地に住む約二万人の邦人を保護しつつ前進基地を確保するため、ダバオの攻略は必須だった。
九六式艦戦9機と九七式艦攻13機を発進させ、先導の駆逐艦を目印に飛行。ダバオ飛行場に60キロ爆弾65発、70キロ焼夷弾13発を投下し銃撃を行った。
同時に水上機母艦プレストンを攻撃、大破させたが靄に紛れて逃げられた。この攻撃で飛行艇2機が炎上する。続いて艦戦3機と艦攻2機を繰り出し、追撃。そのうち1機が対空砲火で被弾、不時着した。川西広二飛曹は機体を焼却したあと自決。
12月12日、レガスビー攻略作戦を支援。一度パラオで体勢を整え、19日から翌日にかけてダバオ攻略を支援。空襲で米油槽船と飛行場を爆撃している。そして24日までホロ島攻略の支援を行った。
フィリピン東部の制圧が概ね完了した事で龍驤はマレー作戦へ転用。1942年1月7日にカムラン湾へ到着する。アナンバス攻略作戦やパレンバン上陸船団の護衛を務めた。
2月13日、バンカ海峡で商船8隻を撃沈。14日には魚雷艇母艦1隻、特務艦1隻、砲艦1隻を撃沈。15日、ガスパル海峡で連合国軍艦隊を爆撃し、蘭駆逐艦ファンヘントを座礁沈没させた他、米駆逐艦ベイカー、バルマーを大破させた。
3月1日、スラバヤ沖海戦に参加。敗走する米駆逐艦ポープを撃沈したのち、セマラン港を空襲。1万トン級の商船を沈めた。翌日には何と、空母でありながらオランダ海軍の砲艦と砲撃戦を演じ、ジャワ海に沈めた。攻撃後、シンガポールへ帰投。
3月10日、D作戦によりアンダマン諸島とビルマの攻略に従事。東南アジアから連合軍を一掃した帝國海軍は、次の狙いをイギリス東洋艦隊に定めた。
4月1日、インド洋にて通商破壊。6日、ピザガパタム港を攻撃。九七式艦攻4機がコリンガの重油タンクを爆撃し、2基を爆破。倉庫2棟を炎上させた。
返す刀でベンガル湾にて通商破壊を実施。大型商船2隻を撃沈し、8隻の商船を大破炎上させている。この戦果は北アフリカで戦う独伊軍を助けた。11日午前10時45分、シンガポールへ帰投。
南方作戦の第一段階が完了したため、本土に向けて出港した。

当時、連合軍は零戦の驚異的な航続距離を知らず、空母から発艦していると考えていた。このため空母を血眼になって探したが、結局龍驤は捕まらなかった。

4月23日、瀬戸内海へ帰還。零戦16機と艦攻20機が配備された。開戦以来、ずっと連戦だったため28日より呉工廠で修理を行う。

 

5月26日、アリューシャン作戦のため大湊を出撃。第二艦隊の基幹として本隊とは別行動を取り、陽動を行った。6月3日、零戦3機と艦攻7機でダッチハーバーを空襲。港内の飛行艇と重油タンクを銃撃した。
そして九七式艦攻が倉庫群、電信所、兵舎等を爆撃している。迎撃に現れたP-40戦闘機4機と交戦。奇襲自体は成功したが、戦果は不十分だった。また艦攻隊は駆逐艦5隻を発見していた。
翌日も攻撃隊を送り出したが、天候不良のため全機反転。5日、零戦6機と艦攻9機で再び空襲を実施。PBY飛行艇2機を銃撃で破壊する戦果を挙げた。しかし対空砲火で撃墜された零戦の1機がアクタン島へ不時着。
本来なら僚機が機銃を撃ち込んで機体を破壊するはずだったが、パイロットが生存している可能性があったため、撃たずに引き上げてしまった。実際は不時着した時に死亡していた。
損傷の少ない当機体は間もなく米軍に鹵獲され、アクタン・ゼロの名称が付けられた。作戦後、残存部隊と合流して柱島へ帰投。一連の空襲でPVY哨戒機6機、B-17爆撃機3機、P-40戦闘機2機を損失させる戦果を挙げた。
7月13日、呉へと回航され整備。先のミッドウェー海戦で第一と第二航空戦隊がまとめて消滅してしまったため、翌日に再編成が行われた。龍驤は新生第二航空戦隊の一員となった。
瀬戸内海で訓練に従事していたが8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲。ソロモン諸島に戦線が形成され、ガダルカナル島争奪戦が始まった。このため同月15日、龍驤は呉を出撃。

 

8月24日に生起した第二次ソロモン海戦に参加。ヘンダーソン飛行場を攻撃するため本隊から分離して行動。午前7時13分、敵飛行艇より触接を受ける。直掩機が迎撃し、黒煙を噴かせたが雲の中へ逃げられる。
10時頃、ガダルカナル島攻撃の位置に到着。艦攻6機と零戦15機を発進させ、龍驤は一時北方へ退避した。ガダルカナル島上空でグラマン20機の妨害を受け艦攻3機が自爆。
護衛の零戦隊が反撃し、15機を撃墜した。9機の零戦が地上に機銃掃射を加えた。12時50分頃、艦載機は島から引き上げた。帰路で零戦1機と艦攻1機が墜落し不時着。
同時刻、母艦の龍驤はB-17爆撃機2機から攻撃を受けていた。幸い命中弾は無かったが、入れ替わりで急降下爆撃機10機と雷撃機5機から同時に攻撃を受ける。
右へ左へ体をよじって回避運動をしたが、至近弾多数を受け、ついに左舷中部に魚雷1本を喰らう。この損傷で航空機の収容が出来なくなり、攻撃隊にブカ島へ着陸するよう命じた。
直掩の零戦9機により戦闘機1機、急降下爆撃機3機、雷撃機5機が撃墜された。本隊より北方へ退避するよう命じられ、北上を開始したが間もなく缶から出火し、航行不能に陥る。
乗員の決死の消火活動で、どうにか鎮火したものの艦の傾斜が始まる。ブカ島に行けなかった攻撃隊の一部が龍驤の下へ帰還するが、収容が出来ないため近くに着水。パイロットは駆逐艦天津風や時津風に救助された。
15時57分、サラトガエンタープライズから発進した艦載機の集中攻撃を受ける。直掩機10機が必死に抵抗し、11機を撃墜したが、爆弾4発を喰らって大破。
北方への退避を図る龍驤にB17爆撃機が襲いかかったが、何とか切り抜けた。だが、ここで命運が尽きた。20時、遂に撃沈処分された。
士官7名、兵員113名が死亡。出撃していた艦載機は全て不時着水して失われた。1942年11月10日、除籍。


*1 驤は訓読みで「あがる」