所属 | Koninklijke Marine |
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艦種・艦型 | 軽巡洋艦デ・ロイテル |
正式名称 | Hr.Ms. De Ruyter |
名前の由来 | Michiel Adriaenszoon de Ruyter(1607-1676) オランダ海軍提督 度重なる英蘭戦争でイングランド艦隊と戦い勝利を収め、イングランドのオランダ進出を食い止めた。 |
起工日 | 1933.9.16 |
進水日 | 1935.5.11 |
就役日 | 1936.10.3 |
除籍日(除籍理由) | 1942.2.28(蘭Slag in de Javazee/スラバヤ沖海戦 1942.2.28沈没) |
全長(身長) | 107.28m |
基準排水量(体重) | 6340.2英t(6442t) |
出力 | Yarrow式重油専焼缶6基Parsons式蒸気タービン3基2軸 66000shp(65097.1shp) |
最高速度 | 32.0kt(59.26km/h) |
航続距離 | 12.0kt(22.22km/h)/10000海里(18520km) |
乗員 | 437名 |
装備(建造時) | 150mm50口径連装砲3基単装砲1基7門 ボフォース40mm機関砲x10(5x2) ブローニング12.7mm機関銃x8(4x2) 艦載機x2 |
装甲 | 舷側:30~50mm 甲板:33~50mm 砲塔:30~100mm バーベット:50mm 艦橋:33mm |
建造所 | Wilton-Fijenoord,Schiedam (ウィルトン・フィジェンノルド社 オランダ王国南ホラント州スヒーダム) |
- オランダ海軍の軽巡洋艦。ゲーム内に実装されているのは1933年に起工した「デ・ロイテル」である。
艦名は英蘭戦争で活躍したオランダ海軍の英雄、ミヒール・デ・ロイテル提督(1607年~1676年没)に因む。
同型艦は存在せず、ただ1隻のみの建造であった。
建造途中までは「セレベス」の名前であったが、途中からこちらの名前に変更された。 - 前級であるジャワ級軽巡洋艦の後継として建造された巡洋艦であり、船体設計はドイツの会社が携わっている。
そのせいか艦橋のフォルムはアドミラル・グラーフ・シュペーに似ている。
船体形状から凌波性もよく、航空機運用能力も付与されている。武装ではボフォース製15cm主砲などを備えていた。
一方で高角砲などはなく、対空火器はボフォース製40mm機関砲や12.7mm機銃のみとなっていた。主砲の仰角が60度まであるので対空射撃が可能。- 諸元は全長170.8m、幅15.7m、排水量6000トン、速力32ノット。
- 1933年9月16日、シェーダム造船所で起工、35年5月11日に進水。そして女王臨席の下、36年10月3日に就役した。
デ・ロイテルは当時オランダの植民地であった東インドの植民地艦隊と合流するため、就役の翌年1月にデン・ヘルダーを出港。
リスボンやタンジール、アレクサンドリア等を経由して東南アジアへと向かった。5月末、母港のスラバヤに到着。以後、第二次大戦開戦前まで、東南アジアを中心に活動していた。
10月25日、極東水域艦隊の栄えある旗艦に就任。 - 1940年1月、スラバヤへ入渠し換装した機関を3月4日まで修理。デ・ロイテルのいる東南アジア方面には大日本帝國の脅威が迫っていたが、
本国の方ではもっと大変な事態に陥っていた。同年5月10日、ドイツ軍がオランダ本国を電撃的に侵攻し、瞬く間に占領してしまったのだ。これにより極東艦隊は孤立する。
一応イギリスで亡命政府が樹立されたが、極東艦隊に暗い影を落としたのは間違いない。 - 12月19日、ドールマン少将が極東方面に着任。
- そして1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。日本は米英蘭豪に宣戦布告し、作戦行動を開始した。
- 余談だが、元々日本はオランダに宣戦布告する気は無かった。戦前から(膝を折って)石油を融通して貰っていただけに、交戦したくなかったようである。
ところがオランダ側は、友好国イギリスと敵対するドイツと同盟を組んでいるので他の連合国とともに攻撃すると言い出した。
このためオランダにも宣戦布告を行った。ちなみに後のマレー作戦で、タラカンに備蓄されていた石油を発見。日本には一番質の悪い石油を渡していた事が判明した。
- 余談だが、元々日本はオランダに宣戦布告する気は無かった。戦前から(膝を折って)石油を融通して貰っていただけに、交戦したくなかったようである。
- 日本軍による東南アジアへの侵攻と共に、東南アジアに展開した連合国の植民地軍や駐留軍は破竹の勢いで進撃する日本軍の迎撃に当たった。
デ・ロイテルも例外ではなく、日本軍の侵攻へと備える事となる。船体に戦時迷彩を施し、臨戦態勢を整える。 - 1942年2月2日。日本軍の侵攻阻止のため、連合軍はABDA*1司令部を設置。
4国で編成された合同部隊、ABDA艦隊が結成され、デ・ロイテルはこの艦隊の旗艦となった。
しかし日本軍の侵攻に対して早急に編成された部隊であり、合同訓練を行った事もない文字通りの寄せ集め。
さらに、オランダ軍の指揮官カレル・ドールマン少将は英語がわからないという非英語圏特有の言葉の壁すら存在していた。- このため米軍の士官が一人、暗号帳を持ってデ・ロイテルに乗艦。ドールマン少将の指示をアメリカ式の暗号に変換してから米駆逐艦に転送する体制が作られた。
英と豪の艦艇にはデ・ロイテルの信号灯で疎通したが、これらは指揮系統の硬直化を招いた。
- このため米軍の士官が一人、暗号帳を持ってデ・ロイテルに乗艦。ドールマン少将の指示をアメリカ式の暗号に変換してから米駆逐艦に転送する体制が作られた。
- 1942年2月4日。ジャワ沖海戦が勃発。ABDA艦隊は日本船団攻撃のためスラバヤを出撃したが、日本海軍が事前に察知。ケンダリーより航空攻撃が実施され、容赦なく連合国艦隊へと襲い掛かった。
幸いにもデ・ロイテルは至近弾を浴びて小破した程度で済んでいる。が、射撃装置が破壊された。
迎撃して陸攻1機を撃墜したが、先制攻撃を受けたドールマン少将は日本船団攻撃を諦め、スラバヤへ反転。作戦は失敗に終わった。
2月12日、米駆逐艦ホイップルと衝突する。 - 続く2月20日のバリ島沖海戦では、バリ島に上陸しようとする敵船団を攻撃するため艦隊を二分割。船団を護衛する日本海軍の駆逐艦隊と交戦した。
数の上ではABDA艦隊が優勢だったが、分割した事が裏目に出て連携が上手くいかなかった。この戦闘で駆逐艦満潮を大破させ、大潮を小破させる戦果を挙げた。
一方、ABDA艦隊も無傷とはいかず、駆逐艦1隻が沈没し、1隻が小破。軽巡も1隻が中破する。またバリ島への上陸を阻止できなかった事から戦術的にも戦略的にも敗北してしまう。 - そして運命の2月27日。スラバヤ沖海戦が発生する。蘭印軍の中枢、ジャワ島を攻略するための日本船団が出現し、これを撃滅するためABDA艦隊はスラバヤを出撃。
デ・ロイテル含む連合国艦隊は日本海軍の第三艦隊と遭遇。
高度な水雷戦闘を得意とする精鋭の駆逐艦隊、さらに妙高型巡洋艦、軽空母を有する強力な戦力であった。
これにより、日本海軍と連合国海軍が真正面から激突を果たす事となった。早速日本艦隊から激しい雷撃の応酬を受け、蘭駆逐艦コルテノールがその犠牲となった。
混乱した体勢を立て直すべく煙幕を張って、一旦ABDA艦隊は離脱。しかし帝國海軍の追撃を受け、再び海戦となる。再び魚雷の驟雨を受けるが被害は無く、反撃で駆逐艦朝雲を大破させた。
昼間の海戦で、デ・ロイテルは直撃弾を受ける。幸いな事に不発で大事には至らなかった。ABDA艦隊の巧みな回避運動で日本側に予想以上の消耗を強いた。
だが損害も大きく、既にコルテノールが撃沈。被弾したエクセターは駆逐艦2隻を伴って先に撤退した。また航行中に英駆逐艦ジュピターが機雷に触れて爆沈している。
残存の戦力を束ね、夜戦を仕掛けたABDA艦隊は日本艦隊と反航。デ・ロイテルはその先頭を走っていた。 - しかし、デ・ロイテルの命運はここで尽き果てた。
2月28日、夜戦中に重巡羽黒の発射した魚雷がデ・ロイテルの船体後部に命中。
これが火薬庫に引火炎上、致命傷となりデ・ロイテルは沈没した。同時に被雷したジャワよりも長く耐えていたのは旗艦の意地だろうか。
沈没間際、搭乗していたカレル・ドールマン少将は「ヒューストン及びパースは我が生存者にかまわずバタビアに避退せよ」と通信、艦と運命を共にした。
艦長も戦死し、デ・ロイテルの生存者はわずか17名だった。
こうして、スラバヤ沖に散ったデ・ロイテルは軍艦としての生涯に幕を下ろしたのだった。後を追うようにヒューストンとパースも沈没し、ABDA艦隊は壊滅。
そして3月9日、デ・ロイテル達の奮戦むなしく蘭印軍は降伏し、数百年続いた植民地支配に終焉が訪れた。
しかし2016年、違法ダイバーによって残骸が全て持ち去られている事が判明。オランダ国防省は不法に盗まれた事をレポートにした。