No24 祥鳳/元ネタ解説

Last-modified: 2019-01-02 (水) 03:10:09
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型剣崎型高速給油艦→剣埼型潜水母艦(1939)→祥鳳型航空母艦(1941)
正式名称剣埼(つるぎざき)→祥鳳(しょうほう/しやうほう)(1941)
名前の由来剱埼 神奈川県三浦市南下浦町松輪に位置する岬 漢字表記が統一されておらず「剱崎(埼」「剣崎(埼」「劔崎(埼」と様々であったが、昭和55年に「剱埼」に統一されることになった。
祥鳳 漢成語で「祥」は幸、「鳳」は鳳凰という意味
起工日1936.7.8
進水日1937.11.16
潜水母艦就役日(竣工日)(1939.1.15)
航空母艦就役日(竣工日)(1942.1.26)
除籍日(除籍理由)1942.5.20(ミッドウェー海戦/英Battle of Midway 1942.5.7沈没)
全長(身長)205.5m→201.43m(1941)
基準排水量(体重)13200英t(13411.8t)→11200英t(11379.7t)(1942)
出力11号12型ディーゼルエンジン8基2軸 56000shp(56776.7PS)
→ロ号艦本式重油専焼缶6基艦本式蒸気タービン2基2軸 52000shp(52721.2PS)(1942)
最高速度28.2kt(52.22km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/7800海里(14445.6km)
乗員787名
装備(建造時)40口径八九式12.7cm連装高角砲2基4門
艦載機x3
装備(1942)40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x12(4x3)
艦載機x21+7
装甲なし
建造所横須賀海軍工廠 (現 米海軍横須賀基地) (日本国神奈川県横須賀市)

元々は大日本帝國海軍が建造した潜水母艦剣埼(つるぎざき)。

 

1934年11月5日、達第191号により剣埼と命名。同日発令された内令第435号によって剣埼型特務艦に類別され、横須賀鎮守府に本籍を仮定。
1934年12月3日に横須賀工廠で起工、1935年6月1日に進水し、正式に横須賀鎮守府所属となった。1937年6月15日に竣工。
ワシントン海軍軍縮条約により、米英に比べて不利な制限を課せられた帝國海軍は、条約の抜け目を突く形で準空母の潜水母艦を複数建造していた。剣埼もその一隻である。
剣埼としての姿で活動した事は無く、1938年9月15日には内令第777号により特務艦から外される。代わりに軍艦に格上げされ、潜水母艦となった。
潜水母艦に改装するべく工事が始められ、1939年1月15日に完了。第一予備艦として内地を転々とする日々を送った。同年11月15日、第一艦隊第二潜水戦隊に編入。

1940年3月26日、有明湾より外洋に初進出。南支方面を経由して台湾の基隆へ入港した。その後、戦争の足音が聞こえてきたため同年11月15日、第四予備艦となって空母への改装工事が始まった。

1941年11月1日、内令第1346号に伴って特別役務艦に類別。12月4日、横須賀軍港第五船渠を出渠。5日から6日にかけて東京湾で公試を行う。
9日には重油を、10日には弾薬類を搭載し、徐々に戦備を整えていく。17日と18日に最後の公試を行うと、12月22日に竣工を果たす。同日に航空母艦祥鳳へと改名し、横須賀方面で訓練を開始した。

 

竣工後、横須賀鎮守府・第四航空戦隊に編入。横須賀軍港において単独で訓練を行っていたが、2月1日に南洋部隊に配属され、トラック諸島へ進出する事になる。
さっそく祥鳳は航空機輸送任務のため2月3日に横須賀を出港。翌4日、横須賀より小笠原列島東方に2隻、グアム方面に1隻の敵潜水艦が出現しているとの報告を受ける。
このため道中は前路哨戒や対潜用の艦載機を飛ばし、安全確保に努める。また護衛の駆逐艦帆風に補給を実施している。2月7日、一番機が潜水艦のような物を発見し投弾。帆風も爆雷を9個投下するが、効果不明。
その後は何事もなく航海が続き2月10日、無事にトラックへ入港。現地で第四航空隊向け航空機を積載し、特設運送船東邦丸より重油910トンを補給。13日にはトラック南水道の警戒を実施した。
敵潜水艦8隻が、大鳥島東方とマーシャル諸島北方に確認されていたのだ。2月15日、天候偵察のためラバウル北方で零戦9機を発進させたのち、ラバウルに入港。
輸送任務を完遂した後トラックに戻り、重油420トンを補給する。そしてマーシャル諸島を空襲した米機動部隊の捜索に従事。
再度ラバウルへの航空機輸送を行い、24日にトラックへ帰投。寶洋丸から重油1500トンを補給する。4月6日、トラックを出港。

4月11日に横須賀軍港へと帰投。艦載戦闘機が九六式艦戦から零戦に一新され、内地で訓練に従事した。同月18日、東京湾で訓練中、ドゥーリットル空襲に遭遇。
第二十三日東丸より敵発見の通報を受け、警戒を強める。午後12時57分、横須賀軍港を1機の敵機が爆撃。対空戦闘に参加し、高角砲2発を発射している。
すぐに追撃部隊に編入され、翌日野島崎で索敵中の艦載機を収容し、僚艦とともに米艦隊を捜索したが発見できず。20日に横須賀へ帰投した。
4月29日、トラックに寄港。第六戦隊とともに南方方面に進出し、5月3日にツラギ上陸を支援した。敵の抵抗は無く順調に占領が進んだが、その過程で零戦1機が発艦直後に墜落。田村二飛曹が死亡した。
5日には敵偵察機2機を追撃したが撃墜には至らず。運送船石廊から燃料補給を受けたあと、連合軍の重要拠点ポートモレスビーを攻略するため珊瑚海に進出。

 

5月8日、珊瑚海海戦に参加。人類史上初、空母同士の戦闘であった。祥鳳は第六戦隊と輸送船団の上空支援のため零戦4機と九六式艦戦2機を展開させた。
やがて米艦載機に発見され、90機から集中攻撃を受ける。運が悪い事に、祥鳳は早朝に発進した航空隊の収容と魚雷換装作業が重なり、艦載機の発艦が不可能だった。
上空にいるのは九六式艦戦3機という有り様であったが果敢に迎撃。しかし多勢に無勢でとても太刀打ち出来なかった。
第一次攻撃で祥鳳は28発の投弾を受ける。対空砲火で1機を、援護の九六式艦戦が1機のドーントレスを撃墜した。攻撃後、間隙を突いて零戦3機を出撃させる。
続いて第二次攻撃が始まり、ヨークタウン艦載機18機の攻撃より1000ポンド爆弾2発が命中。次にレキシントン艦載機の雷撃で艦体後部に魚雷1本が命中し、操舵不能に陥る。
それから10分以内に爆弾13発と魚雷7発を受けて大破。さらに対空砲火で撃墜したドーントレスの突入まで喰らい、もはや生存は絶望的だった。
すぐに総員退艦が命じられた。前部エレベーターから大量の蒸気を吹き出し、艦体を真っ二つにしながら沈没していった。乗員631名が死亡し、203名が救助された。
生き残った航空機はデボイネ基地に向かい3機が不時着、残りは行方不明となった。
1942年5月20日、除籍。帝國海軍が最初に喪失した空母となった。

 

ちなみに珊瑚海海戦前、陸軍への嫌がらせのため海軍は祥鳳しか空母を出さないつもりでいた。
しかし陸軍から猛反発を受け、渋々加賀を付け加えたがパラオで座礁してしまったため、代わりに第五航空戦隊が護衛に付いたエピソードがある。