所属 | Regia Marina |
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艦種・艦型 | ザラ級(ポーラ級)重巡洋艦 |
正式名称 | Pola |
名前の由来 | Pola 旧イタリア王国ポーラ県(現クロアチア共和国イストラ郡プーラ市) |
起工日 | 1931.3.17 |
進水日 | 1931.12.21 |
就役日(竣工日) | 1932.12.21 |
除籍日(除籍理由) | 1946.10.18(1941.3.29沈没) |
全長(身長) | 182.8m |
基準排水量(体重) | 14133英t(14360t) |
出力 | Yarrow式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン2基2軸 96318PS(95000shp) |
最高速度 | 32.0kt(59.26km/h) |
航続距離 | 16.0kt(29.63km/h)/5361海里(9929km) |
乗員 | 841名 |
装備(建造時) | 203mm53口径M1929連装砲4基8門 100mm47口径連装高角砲8基16門 ヴィッカース2ポンド機関砲x4(4x1) 12.7mm機関銃x8(8x1) 艦載機x2 |
装備(1941) | 203mm53口径M1929連装砲4基8門 100mm47口径連装高角砲6基12門 ブレダ37mm機関砲x8(4x2) 12.7mm機関銃x8(8x1) 艦載機x2 |
装甲 | 舷側:150mm 甲板:70mm 砲塔:150mm バーベット:150mm |
建造所 | Cantiere navale fratelli Orlando, Odero Terni Orlando, Livorno (オデーロ・テルニ・オルランド社オーランド・ブラザーズ造船所 イタリア共和国トスカーナ州リヴォルノ県リヴォルノ) |
- ポーラは1930年代にイタリアが建造した重巡洋艦。
第二次大戦中は幾度かイギリス海軍とも交戦し、1941年3月末のマタパン岬沖海戦にて航空雷撃を受け戦闘不能、のちに撃沈された。
- 1931年3月起工、同年12月進水、翌年就役。
就役後はムッソリーニの観閲を受けたり、観艦式へ参加したりと早速の活動。
また同時期に始まったスペイン内戦を受け、不干渉哨戒任務のためイベリア半島近海にも展開した。
1939年3月には黒海方面へ退避をはかったスペイン共和国艦隊(メンデス・ヌニェスら中小艦艇11隻)を捕捉、シチリアにて抑留を目論んだものの失敗に終わっている。
その後イタリアのアルバニア侵攻に合わせてポーラも同地への砲撃支援に参加した。
- 1940年6月10日にイタリアが第二次世界大戦に参戦すると、ポーラは第2戦隊旗艦に抜擢される。
巡洋艦5隻と駆逐艦17隻を引き連れての開戦初期の任務は、北アフリカ方面へ向かう掃海隊や輸送船団の護衛であった。
7月には現地に展開したイギリス艦隊とも衝突したものの、ポーラ自身は命中弾・被命中弾ともに無かった。 - 同年秋には、マルタ島へ度々やってくるイギリス輸送船団の迎撃にあたる。
しかしイギリス側もやられてばかりではなく、11月中旬のタラント空襲を皮切りに、同月末のアーク・ロイヤルによる航空雷撃、12月中旬のナポリ空襲など、頻繁にイタリア艦隊に航空攻撃を仕掛けた。
ポーラにとってはナポリ空襲が痛手で、ボイラー損傷と浸水、左舷への大規模傾斜の被害に至り、修理に3か月弱を要した。
- 修理と艦隊訓練を済ませたポーラは、3月下旬に再び英輸送船団迎撃任務にあたることとなり、ここでの戦闘が後に言うところの「マタパン岬沖海戦」となった(1941/3/27-29)。
- 第1波攻撃では伊戦艦ヴィットリオ・ヴェネトが英空母フォーミダブルの目に留まり航空雷撃を受け、同艦は撤退を余儀なくされた。
第2波攻撃では手負いのヴェネトを見つけられなかったことからポーラにその矛先が向けられ、右舷中央部に魚雷を撃ち込まれてしまう。
この攻撃の混乱から、僚艦かつ準姉妹艦のフィウメと衝突しそうになり、ポーラは停船。
浸水が拡大し主機関の動力喪失を招いたことから、頼みの主砲さえ使えなくなった。 - この窮状が司令部に伝わると、ザラ、フィウメと駆逐艦4隻がポーラ救援に振り分けられた。
しかしイギリス側にはポーラの所在がレーダーで割れてしまっており、近海に展開していた戦艦ウォースパイトらが急行していた。
結果として、救援に来たイタリア側とトドメを刺しに来たイギリス側が鉢合うことになった。
この戦いはイタリア側がイギリス側を友軍艦艇と誤認していたことから先制攻撃を許してしまい、一方的に撃破されてしまうこととなった。
動力を喪失し碌に行動できなくなっていたポーラには早々に退艦命令が下っており、3月29日の早朝、イギリス駆逐艦によって雷撃を受けて沈没した。