ウィルバート・オードリー

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ウィルバート・オードリー

名前ウィルバート・オードリー/ウィルバート・ヴィア・オードリー/レブランドWオードリー/Rev W オードリー
英名Wilbert Awdry/Wilbert Vere Awdry OBE/The Rev. W. Awdry
性別
生年月日1911年6月15日
没年月日1997年3月21日(85歳没)
出生地イギリス ハンプシャー州ロムゼー
死没地イギリス グロスタシャー州ストラウド
説明・イギリスのキリスト教聖職者、児童文学作家。
・『汽車のえほん』シリーズの作者。
・TVシリーズ初期のOPテロップで「レブランドWオードリー」と表記されているが、『レブランド(Reverend)』とは聖職者に対する敬称である。
原作第22巻からほっそり牧師として劇中にも登場しており、TV版でも長編第11作を皮切りに、度々登場している*1
略歴・1911年6月15日、ハンプシャー州ロムゼーのアンプフィールド司祭館で当時56歳だった国教区牧師のヴィア・オードリー(1854-1928)と彼の3番目の妻、ルーシー・オードリー(1884-1965)との間に誕生。
・ウィルバートにはヴィアの1番目の妻マーガレット・エミリー・オードリーとの娘ヒルドレッド・マーガレット、2番目の妻メアリー・ルイザ・オードリーとの娘ブリジット・ヒルドレッド・ヴィア、息子のキャロル・エドワード・ヴィアと三人の異母姉兄がいるが、二人の姉は彼が生まれる前に幼くして亡くなっている。
・『ウィルバート』という名前は、父・ヴィアの二人の兄、『ウィリアム』と『ハーバート』の名前を合わせたもの*2
・司祭館の庭には父・ヴィアと兄のキャロルが製作した鉄道模型のレイアウトが置かれており、これが鉄道愛好家となるきっかけの一つとなる。
・1914年に第一次世界大戦が勃発。兄キャロルが少尉としてフランスに派兵されるが、同年8月27日に20歳の若さで戦死。1916年にウィルバートの弟となるジョージが産まれるが、翌年1917年にキャロルを失った悲しみから立ち直る為に家族揃ってウィルトシャー州ボックスに移り住む。1919年と1920年にもボックス内で引っ越し、3軒目の家は『ジャーニーズ・エンド(Journey's End)』と呼ばれ、1928年8月まで一家の家となった。
・『ジャーニーズ・エンド』はボックス・トンネルの西端からわずか200ヤード(180m)のところにあった。そこでは、グレート・ウェスタン鉄道の本線が100分の1の勾配を2マイル(3.219km)にわたって登っていた。ここには、貨物列車がこの坂を上るのを助けるための後押し機関車が置かれていた。幼いウィルバートは、ベッドの上からでも聞くことができる機関車の汽笛や、機関車が坂道を登っていくときの鋭い蒸気の音が、まるで機関車が意志を持っているように感じた。
・1929年、オックスフォード大学のセント・ピーターズ・ホール(現:セント・ピーターズ・カレッジ)の第一期生として入学し、1932年に学士号を取得するが、父ヴィアの影響で聖職に就くことに決め、同大学の神学部であるウィクリフ・ホールで神学も学び、1933年に神学のディプロマ(学位)を取得している。
・1933年から1936年まで、イスラエルのエルサレムにあるセント・ジョージズ・スクールで教鞭をとり、同じく教師として赴任していたマーガレット・エミリー・ウェイルと出会う。
・1936年、帰国。英国国教会の聖職者に叙任され、ハンプシャー州オディハムで助祭の職に就いた。
・1938年、帰国したマーガレットと結婚。1940年に長男のクリストファー、1941年に長女のヴェロニカ、1946年に次女のヒラリーの1男2女をもうけた。
・1939年にはウィルトシャー州のウェスト・ラヴィントンに移り、教区長に任命された。戦争が近づいていたが、平和主義の考えを持つ彼にとっては、教区の先輩たちとは一線を画した平穏な日々であった。
・1940年にバーミンガムのキングス・ノートンにあるセント・ニコラス教会で奉仕することになり、1946年までそこで過ごした。
・1942年、2歳半の息子クリストファーがはしかにかかったとき、彼を励ますためにウィルバート自らが少年時代に想像したように、意志や感情を持つ蒸気機関車が会話をする物語を語ることにし、ここで、後押し機関車が大きな機関車のの列車を助けて丘を登る話を聞かせた。
クリストファーは、勤勉なエドワード、偉そうなゴードン、臆病なヘンリーの話を何度も聞きたがったので、簡単な絵を添えてそれを書き留めた。
クリストファーエドワードゴードンの話を聞かせた後、ウィルバートはクリストファーに木のホウキと廃材を使ってエドワードといくつかの貨車や客車のおもちゃを作ってプレゼントした。クリストファーゴードンのおもちゃを欲しがったが、資材不足だったため代わりにありあわせの材料でタンク機関車のおもちゃを作り、青く塗って、クリスマスプレゼントとしてクリストファーに贈った。クリストファーはそのおもちゃをトーマスと名づけた。その後、クリストファートーマスにまつわる物語をリクエストしていった。
・ウィルバートはこれらの物語を何かに使おうとは考えていなかったが、妻のマーガレットは、戦時中に出回っていた他の子供向けの本よりも良いものだと考え、出版社を探すように説得した。紙の切れ端に書かれた最初の3つの物語は、エージェントに送られ、エドモンド・ウォードという出版社が見つかった。ウォードは、戦時中に不足していた子供向けの本を補おうと、原稿を受け取った。
・これらの物語は1945年5月12日に『三だいの機関車』として出版され、初版22,500部がすぐに完売し、年末までにさらに重版する事も決まった。
・1946年にはクリストファーに語ったトーマスの物語が『機関車トーマス』として出版され、彼の最も有名な本となる。
・『機関車トーマス』が出版された1946年、ウィルバートはケンブリシャーのエルズワースに移り住み、その後6年間、教区牧師として生活、仕事をし、執筆活動を行うことになる。
・戦時中は、教会、学校、牧師館の維持管理に大きな負担がかかっており、ウィルバートの最初の仕事は、一家が住めるように牧師館を整備することだった。教会は水漏れがひどく、水道も通っていなかった。その上、教会は雨漏りしていた。
・修繕費はかなりの額にのぼり、その費用を分担するために借家人が住めるようにしようとすると、教会との間で議論が起こる。さらに、19年間教区牧師を務めた前任者の後を継ぐことは容易ではなかった。
・そんな時、出版社からの思わぬ後押しがあった。エドモンド・ウォード社の編集者、エリック・マリオットは、ウィルバートの最初の2冊の本が、鮮やかなイラストと「小さな手のための小さな本」というフォーマットであることに魅力を感じていた。マリオットは、ウォードが計画していた最初の2冊だけの出版に異議を唱え、毎年新しい本を出すべきだと主張した。マリオットの決意が実を結び、『汽車のえほん』シリーズの成功の鍵となったのである。
・1995年に出版されたブライアン・シブリーの伝記『The Thomas the Tank Engine Man』には、この知らせを受けた際の反応が記されている。「私にとって、これは素晴らしいことでした。出版社が自分のために本を書いてくれと頼むなんて!」と驚きを隠せない様子だった。
・ウィルバートは当初、定額で著作権を放棄していたが、エドモンド・ウォード社は4冊目の本に対して200ポンドの無償援助を申し出た。これは、エルズワースで細々と暮らしていたオードリー一家にとって、ありがたい話だった。
・これは請求書の支払いを助けただけでなく、そのお金で牧師館の外壁の1つに鉄道模型を作るための投資をすることができた。彼は作業を始め、1949年7月の教会祭に間に合うように完成させた。入場料は祭りに使われたが、その後の見学会では、祭壇の前立てや聖体拝領のウェハースを入れるオーク材の箱など、教会のための資金が集められた。
・1972年の『わんぱく機関車』で『汽車のえほん』の執筆を終了するまでには26巻になっていた。彼の引退後、息子のクリストファーが引き継ぎ、42巻で完結するまで16巻執筆した。
・ウィルバートの鉄道や機関車に対する知識は相当なものだった。『汽車のえほん』の物語はすべて、実際に起こったことを題材にしている。
・しかし、鉄道の正確さや文章の信憑性に対する彼のこだわりは、本のために依頼された画家には伝わらなかった。特に、レジナルド・ダルビーは、細部を無視した絵を描き、彼を怒らせた。
ダルビーの描く絵には不正確な点や矛盾点があり、読者からの問い合わせが後を絶たなかった。また、彼の風景描写は、物語の舞台となる場所の雰囲気を大切にしたいというウィルバートの考えとは相反するものであった。そこでウィルバートは、弟のジョージと共に、架空のソドー島という新たな物語の舞台を考案した。兄弟は地図を作り、島の歴史、人々、鉄道、機関車について詳しく書き、後の巻で描かれる多くの出来事を形作った。
・1950年から1953年までボーンの地方参事、1953年から1965年までエムネスで牧師として務めた。
・1965年に聖職から引退し、グロスターシャー州ストラウドに移った。
・彼の鉄道への情熱は出版物だけに留まらず、1952年以降はタリスリン鉄道等の保存鉄道のボランティア活動にも取り組んでいる。
・1968年にアラン・ペグラーが行ったフライング・スコッツマンロンドンキングス・クロス駅からエディンバラ駅へのノンストップ運転に乗車した*3他、鉄道模型を製作しては各地の展示会に出展したという。そのころ特に行動を共にした親友に、テディ・ボストン牧師がいる。
ディーン・フォレスト鉄道の会長も務め、1987年には同鉄道のオーステリティー型機関車であるG.B.キーリングを彼にちなんでウィルバートと改名された。この機関車は後にクリストファー執筆の『Wilbert the Forest Engine』のタイトルキャラクターとして登場した。
・1957年、彼はレコードのリリースのために『三だいの機関車』の最初の2つの物語のナレーションを担当した。
・『汽車のえほん』以外にも、赤い車を題材にした『Belinda the Beetle』や、育児書『Our Child Begins to Pray』など、フィクション、ノンフィクションを問わず、さまざまな本を執筆しており、P.J.ロング氏と協力してバーミンガム・グロースター鉄道に関するノンフィクションを執筆し、『Industrial Archaeology of Gloucestershire』の編集者も務めた。
・その後、テレビシリーズのデビューの日にはTV番組でリンゴ・スターとともにインタビューを受けた。その2年後、BBCラジオ4の番組で、後に彼の伝記を書くことになるブライアン・シブレーが彼を紹介している。
・1988年には、彼の鉄道模型ジオラマがITNニュースで紹介され、1990年には『汽車のえほん』40周年記念として再び紹介された。この間、彼は健康問題、うつ病、の死、と親友のテディ・ボストンの死など、多くの苦難に直面した。1995年2月25日に放映されたドキュメンタリー番組「The Thomas the Tank Engine Man」では、彼は何の抵抗もせず、インタビューに答えている*4
・1996年、大英帝国四等勲士が叙勲されるが、健康状態が悪化しており、ロンドンに行くことができなくなっていた。
・1997年3月21日、グロスターシャー州ストラウドの自宅で老衰のため死去。85歳没。彼の遺灰はグロスター火葬場に埋葬されている。
・牧師として奉仕したエムネスにあるセント・エドモンド教会と、晩年を過ごしたロッドバラ教会にはトーマスが描かれたステンドグラスが展示されている。また、タリスリン鉄道のナローゲージ鉄道博物館内には、彼の書斎が復元され遺品が保存展示されている。
・2011年には、1953年から1965年まで彼が住んでいたエムネスのオールド・ビカレージに、娘のヴェロニカ・チャンバースによって著名人がかつて居住した建物を示すブルー・プラークが設置された。
・2013年、ケンブリッジシャーの小さな町ウィズベックにある郡議会の新しいオフィスビルは、オンラインでの一般投票の結果『Awdry House』と名付けられた。
・2017年には、彼の生まれ故郷であるアンプフィールドに非常に近いハンプシャー州の小さな町チャンドラーズ・フォードにある跨線橋に『Rev. Wilbert Awdry Bridge(ウィルバート・オードリー牧師橋)』という名前が付けられた*5
・2020年12月、エルズワースのチャーチ・レーンにある彼が奉仕したホーリー・トリニティ教会の隣りにあり、オードリー一家が暮らした旧牧師館にブルー・プラークが設置された。新型コロナウイルス感染症によるパンデミックのため、娘のヴェロニカは出席できなかったが、彼女からの手紙が除幕式で読み上げられた。
・2021年10月、1940年から1946年まで奉仕し、この間に原作第1巻を執筆したキングス・ノートンにある聖ニコラス教会に彼を記念するプラークが設置された。
・彼が少年時代に住んでいた自宅『ジャーニーズ・エンド』は現在、B&Bホテル『ローン・ハウス(Lorne House)』として使われている*6
その他第3シーズンヘンリーのもり』では機関士の発言に対し「運行が乱れる」、のセットに対し「線路が近いから火事になる危険性がある」など指摘した。
関連項目ほっそり牧師
担当期間原作:第1巻-第26巻
TV版脚本(原作):第1シーズン-第4シーズン第20シーズン
執筆三だいの機関車
機関車トーマス
赤い機関車ジェームス
がんばれ機関車トーマス
やっかいな機関車
みどりの機関車ヘンリー
機関車トビーのかつやく
大きな機関車ゴードン
青い機関車エドワード
四だいの小さな機関車
ちびっこ機関車パーシー
八だいの機関車
ダックとディーゼル機関車
小さなふるい機関車
ふたごの機関車
機関車トーマスのしっぱい
ゆうかんな機関車
がんばりやの機関車
山にのぼる機関車
100さいの機関車
大きな機関車たち
小さな機関車たち
機関車のぼうけん
機関車オリバー
きえた機関車
わんぱく機関車

*1 CGIモデルを制作する際、アーク・プロダクションはオードリー家からの了承を得た。
*2 この内の一人、ウィリアム・オードリーは、日本聖公会と深い関わりを持つ聖職者で、1896年に大阪主教、翌年1897年に南東京主教に任命され、教区の発展、日英の外交関係の改善、社会的・政治的な変化が急速に進む中で教区を率いた。
*3 その際、BBCで放送されたドキュメンタリー番組にゲスト出演し、短いインタビューを受けた。
*4 この番組は彼の死後、1997年4月15日に再放送された。
*5 因みに、チャンドラーズ・フォードの教区がまだアンプフィールド教区の一部だった時代、アンプフィールドの牧師であるウィルバートの父ヴィア・オードリーがこの地域の最初の説教者であった。
*6 彼の部屋は現在は浴室になっている。