No164 秋月/元ネタ解説

Last-modified: 2019-01-06 (日) 19:43:18
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型秋月型駆逐艦
正式名称秋月(あきづき)
名前の由来秋月 秋の月 特に中秋の名月((旧暦8月15日)、後の名月(旧暦9月13日)のことを指す
起工日1940.7.30
進水日1941.7.2
就役日(竣工日)(1942.6.11)
除籍日(除籍)1944.12.10( 1944.10.25沈没)
全長(身長)134.2m
基準排水量(体重)2700英t(2743.3t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶3基艦本式蒸気タービン2基2軸 52000shp(52721.2PS)
最高速度33.0kt(61.11km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/8000海里(14816km)
乗員273名
装備(1942)65口径八九式10cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x4(2x2)
61cm四連装魚雷発射管1基4門
爆雷投射機x2
爆雷投下軌条x2
装備(1944)65口径八九式10cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x28(5x3+13x1)
九三式13.2mm機銃x4(4x1)
61cm四連装魚雷発射管1基4門
爆雷投射機x2
爆雷投下軌条x2
装甲なし
建造所舞鶴海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社舞鶴事業所) (日本国京都府舞鶴市)

秋月型について

  • 大日本帝國海軍が建造した秋月型駆逐艦一番艦。艦隊決戦用の水上戦闘に特化して設計された甲型駆逐艦(陽炎型、夕雲型)に対し、対空戦闘に特化した乙型駆逐艦とも称される秋月型のネームシップである。
    1930年代の頃から急速に進化した航空機は、空母の登場もあって水上艦艇にとっても現実的な脅威になりつつあった。このため各国は防空能力に特化した艦艇の建造・既存艦の改修を進めた。
    秋月型もこの流れの中で生まれた艦である。当初は天龍型などの旧式巡洋艦の改装も考えられたが断念され、数を揃える観点からも駆逐艦ベースで新造することとなった。
    これまでの日本駆逐艦と異なり、主砲に平射砲ではなく両用砲を採用。新開発の日本九八式10cm連装砲を搭載したが、この砲は性能こそ優秀だったものの、砲身寿命が短く継戦能力が低いという欠点を抱えていた。
    空母に随伴できる航続距離なども要求されたことから、船体サイズは駆逐艦にしてはかなりの大型。軽巡洋艦である夕張に匹敵し、さらに軽巡洋艦で多く採用されていた誘導煙突を駆逐艦で初めて(かつ唯一)採用したことから、当初アメリカ軍は「日本は夕張型軽巡を量産している」と勘違いしたという。
    雷装については当初の計画にはなかったものの、「対空専門の艦など贅沢すぎる」という思想から4連装発射管1門+予備魚雷の4射線8本を搭載している。しかし秋月型が雷撃を行った事例はほとんどなく、結果から見れば「無駄な装備」であった。
    基本的に対空能力がお粗末だった日本海軍の中ではダントツの対空能力を誇ったものの、世界的に見ればそこまで傑出した艦というわけではない。特に当時の日本で開発が遅れていたレーダー関連能力の低さは致命的であり、竣工時にはレーダーの装備すらなかった。レーダー自体の性能差も重なり、射撃用のレーダーやレーダー連動型の射撃管制装置などを標準装備していたアメリカ軍の駆逐艦に比べ、防空艦に必要な「敵機を発見し、照準する」能力で大幅に劣っていた(ゲームではフレッチャー級などと同レベルだが、正直かなり盛られていると思っていい)。
    また、艦自体が高コストで量産に不向きな構造だったため、艦隊防衛に重要な「数を揃える」ことも出来なかった(量産性の問題は、松型を除く日本駆逐艦共通の問題点ではある)。秋月型は建造過程で何度か設計変更が行われており、特に後期型は工期短縮を重視した船体形状の変更などが行われたが、それでも1隻の建造に概ね1年以上の歳月がかかってしまった。
 
  • 1939年度、海軍軍備充実計画の乙型一等駆逐艦第104号艦として建造が決定。1940年7月30日、舞鶴工廠で起工。1941年5月15日に駆逐艦秋月と命名され、所属を佐世保鎮守府と仮定。7月2日に進水を果たし、1942年6月11日に竣工した。
    竣工時には既にミッドウェー海戦が終了しており、最初の任地は専らソロモン方面であった。6月29日、横須賀を出港し、鎌倉丸を護衛してマカッサルを目指した。
    とんぼ返りで横須賀に戻ったあと、今度はパラオへ向かう鳴門丸を護送。道中で米潜水艦が出現したため、対潜攻撃で追い払っている。
    9月29日、ショートランドに寄港。その時に米陸軍のB-17爆撃機3機が襲来し、秋月は対空砲火で迎撃。1機を撃墜する戦果を挙げた。
    また10月14日にはガダルカナル島近海で敵航空機1機を撃墜し、21日には更にB-17爆撃機を1機撃墜。防空艦としての本領を発揮した。
    だが25日、ドーントレスより2発の至近弾を受けて第1ボイラーが使用不能になり速力が23ノットに低下、乗員1名が死亡した。この損傷で旗艦の座を村雨に譲った。
    その後、航空攻撃で撃沈された軽巡由良の乗員を救助してラバウルに帰還した。
     
    1943年に入っても、秋月は献身的に鼠輸送に従事していた。ところが19日、ツラギ西方で米潜水艦ノーティラスが放った魚雷2本が命中。
    1本は不発弾だったが、もう1本が炸裂し大破。浸水が始まり、前部が上甲板まで水没。艦橋の装置や各種方位盤が使用不能となり、乗員も14名が死亡した。
    満身創痍の秋月だったが、生き残ったボイラーと後部操舵室を使ってショートランドまで自力で帰り着いた。この損傷により秋月はガダルカナル島撤退作戦に参加できなかった。
    2月2日、トラックまで後退した秋月は工作艦明石より修理を受ける。3月11日、東京丸を護衛してトラックを出港。さらなる修理のため佐世保を目指したが3月15日、途中で寄ったサイパンで艦首とキールが折損。
    急遽応急修理が行われ、艦橋と第一と第二砲塔を撤去。6月24日、後部に仮の艦橋と艦首を設置した状態で特設運送船神光丸に曳航、駆逐艦卯月の護衛を受けてサイパンを出港した。
    切断された艦前部も曳航されたらしいが詳細は不明。あまりの損傷の酷さに30日より予備艦になった。7月2日、長崎に辿りつく。
    さっそく三菱長崎造船所に入渠し、本格的な修理が始められた。艤装中だった姉妹艦霜月の艦首を流用し、失った艦首を補った。10月31日、修理完了。
    11月26日、カビエンに増援と物資を送る戌一号作戦に参加するべく岩国を出港。トラックとクェゼリンを経由して12月31日にカビエンへ到達した。
     
  • 1944年1月1日、秋月はカビエンで新年を迎えた。が、最悪の年明けだった。さっそく米空母バンカーヒル等からなる第50.2任務部隊より85機の艦載機が飛来し、お年玉をくれた。
    秋月は持ち前の対空砲火により13機を撃墜した。敵の攻撃から逃れるため、艦隊は二手に分かれて逃走。大淀と行動していた秋月は、雷撃で沈んだ清澄丸の乗員を救助した。
    2月1日、トラックに寄港。そしてすぐに出港していったため、この後のトラック空襲に巻き込まれずに済んだ。2月3日、パラオへ到達するが、米機動部隊接近に伴い、より遠くのリンガへ回航。
     
  • マリアナ沖海戦では空母大鳳の護衛につくも、大鳳および翔鶴は航空攻撃でなく潜水艦の攻撃により撃沈され、守ることはかなわなかった。
    最期は1944年のレイテ沖海戦にて迎える。小沢艦隊に所属し、もはや自慢の機動部隊も完全にすり潰され囮に使われるだけとなった空母たちの護衛についた。
    しかし正規空母だけでも10隻以上を数えるアメリカ軍の猛攻を防ぎ切れる道理もなく、空母たちは次々に嬲り殺しの目に逢う。秋月自身も爆撃を受け、急降下爆撃が艦中央部に直撃。その後大爆発が発生し、船体が断裂して沈没した。
    大爆発の原因は諸説あるが、最有力視されているのは搭載した予備魚雷への誘爆である。対空戦闘のために生まれ、太平洋戦争において最も求められた能力を持った駆逐艦のネームシップが、旧態依然の思想から詰め込まれた不要な装備にトドメを刺されるという、何とも皮肉な最期であった。
     

小ネタ

  • 秋月型が高コスト化した一因に要求された長大な航続距離がある。
    当時の日本海軍の駆逐艦は重油500~600トンを搭載して5000海里が限界であり、これは随伴し護衛を予定していた大和型(7500海里)や翔鶴型(9800海里)に対して全くの不足であった。
    そこで秋月型の建造にあたってまず要求されたのは1200トンの重油を搭載して航続距離10000海里、最大速力35ktという空母の直衛に十分なものであったが、
    この性能を満たすためにはどうあがいても巡洋艦(天龍夕張クラス)にならざるを得ず、コストが高いとして妥協が図られ、8000海里/33ktでまとめられた。
    それでも日本海軍の駆逐艦では破格の大きさである基準排水量2200tとなっている。
  • 他に電探なども当初は装備されておらず高角砲の射撃装置は光学照準式、対空機銃も人力操作だが、これはあくまでも大型艦の直衛であり、大まかな防空指揮は護衛対象の大型艦を軸とすることで対応できるとしていた。
    しかし戦局の悪化により守るべき大型艦も失われ、個艦としての能力強化のため電探が後付装備されていくことになる。が、コストは跳ね上がっていくのであった…。