No128 ドイッチュラント/元ネタ解説

Last-modified: 2019-04-06 (土) 22:13:26
所属Reichsmarine→Kriegsmarine(1935)→Военно-морской флот СССР(1946)
艦種・艦型ドイッチュラント級装甲艦→重巡洋艦(1940)
正式名称Deutschland→Lützow(1940)→Лютцов(1946)
名前の由来Deutschland ドイツ語でドイツ
→Ludwig Adolf Wilhelm Freiherr von Lützow プロイセン陸軍少将 解放戦争でプロイセン軍の義勇部隊であるリュッツォウ義勇部隊(通称:黒の猟兵)を指揮した。プロイセン国外の志願兵3000名で構成されたこの部隊は敵軍の後背で活躍した。
起工日1929.2.5
進水日1931.5.19
就役日(竣工日)1933.4.1
除籍日(除籍理由)(1945.5.4対は着底により放棄)
ソ連海軍編入日1946.9.26
ソ連海軍除籍日(除籍後)不明(1947.7.22標的艦として沈没)
全長(身長)186m
基準排水量(体重)10600英t(10770.1t)
出力MAN製9気筒ディーゼルエンジン8基2軸 48390PS(48231.1shp)
最高速度28.5kt(52.78km/h)
航続距離10.0kt(18.52km/h)/21500海里(39818km)
乗員951~1150名
装備(1935)28cm52口径SK C/28三連装砲2基6門
15cm55口径SK C/28単装砲8門
8.8cm78口径SK C/31連装高角砲3基6門
3.7cmSK C/30機関砲x8(4x2)
2cmC/30機関砲x10
53.3cm四連装魚雷発射管2基8門
艦載機x2
装甲舷側:60~80mm 甲板:18~40mm 砲塔:105~140mm 艦橋:50~150mm 隔壁:45mm
建造所Deutsche Werke, Kiel
(ドイチェヴェルケ社 ドイツ連邦共和国シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州キール市)

起工から戦闘訓練まで
誕生までの経緯

  • ドイツ海軍が建造したドイッチュラント級装甲艦一番艦。ドイッチュラントはドイツ語で祖国ドイツを指し、国の名前を冠する存在であった。
    艦名には「ドイツの復興」という切なる願いが込められていた。ドイッチュラントは世界を驚かせたポケット戦艦の先駆けだった。
    そしてドイッチュラントには専用の補給艦ヴェステルヴァルトが付けられ、航続距離の更なる延伸が可能となった。装甲艦は、ドイツ語ではパンツァーシッフと呼ばれる。
    イギリスとフランスの脅威になる艦の建造をちらつかせ、その艦の建造を断念する代わりにヴェルサイユ条約からワシントン条約の制限に変更し、より自由な環境で建造しようとドイツは考えた。
    駆け引きの結果、イギリスとアメリカは承諾したが、フランスの反対により失敗。ワシントン条約に加盟できなかったため、通常通りヴェルサイユ条約の制限内で建造を強いられる結果となった。
    だが、ドイッチュラントは意外と難産であった。1927年、中央党のゲスラー国防相は老朽化したブラウンシュヴァイク級戦艦3隻に代わる条約型軍艦の建造を計画。
    海軍のトップであるツェンカー大将の賛同を得て、国民議会の了承も取り付けた。ところが1928年1月、ゲスラー国防相は野党によって、ソ連との協力や条約違反の再軍備計画が暴かれてしまい辞任。
    さらに同年5月の国民議会選挙で内閣が入れ替わってしまったため、なかなか建造費が出なかった。おまけに推進者であったツェンカー大将も、ゲスラー国防相の責任を取る形で辞任。
    1928年10月1日、代わりに就任したエーリヒ・レーダー大将の手によって、ようやく予算を獲得するに至った。レーダー大将自身は、装甲艦の建造に疑問を抱いていたが、ヴェルサイユ条約下では妥当だと認めざるを得なかった。
    そして新しく首相になったミュラーを説き伏せ、同年11月に装甲艦3隻の建造が決定したのだった。
    装甲艦のコンセプトは北欧やソ連、バルト三国、ポーランド、デンマークといった諸国の海防戦艦を撃ち破り、バルト海の制海権を維持するというものであった。
    ドイツは飛び地で東プロイセンを領有しており、かの地の防衛にはバルト海の安全が必要不可欠だったのだ。当時は再び英仏との正面衝突は無いだろうと考えられており、通商破壊に用いる予定は無かった。
    旧協商国を刺激しないようヴェルサイユ条約に則った建艦を実施。保有が認められている1万トン以下の艦体で、出来うる限りの要素を詰め合わせる事にした。

だが、1万トン以下という制約は困難な課題となってドイツに重く圧し掛かった。次々に案が出されては検討・討議の末に没となり、堂々巡りが続いた。
当時、ドイツの仮想敵はフランスとその同盟国ポーランドであった。ポーランド艦隊は高速艦を有し、更に応援の艦隊を派遣するとフランスは公約していた。
東の高速艦隊と西の低速重武装艦隊という、2つの脅威を同時に相手しなければならない状況だった。この脅威をいなせる能力が求められた。つまり砲戦能力と機動力、そして軽量化である。
1923年に出されていた最初の案では、38cm砲4門搭載の軽装備で、速力はわずか18ノットだった。当然これには海軍も冷ややかな視線を送った。そもそも28cm以上の口径は条約違反である。
代替案として次に提示されたのは巨砲を搭載し、低速で重装甲な沿岸モニター艦だった。が、すぐに却下された。内密にB2と呼ばれる修正案では、薄めの装甲に30cm砲を6門搭載。
速力は21ノットというスペックになった。この性能だとバルト海での作戦に有利として、ツェンカーとレーダーが好意的に扱った。
1927年、この修正案を更に突き詰めた一連の案が提出された。この案こそ、ドイッチュラントの原型となる革新的な計画だった。電気溶接とディーゼルエンジンを投入すれば、
28cm砲6門と10cm厚の装甲を搭載し、速力26ノットを発揮でき、理論上は1万トン以下に排水量を抑えられるとした。この案を気に入ったツェンカーは早速「C型設計」(新案の名称)に賛同。
レーダーもまた、このC型設計には通商破壊の強みがあるとしてツェンカーを支持した。その後、先述した政治上の反対やツェンカーの辞任を経て、ドイッチュラントは産声を上げるのだった。

 
  • ドイツの軍備拡張を著しく阻害したヴェルサイユ条約の制約を(律儀に)順守した艦で、そのせいで戦艦としては小型・打撃不足・脆弱という欠陥を抱えていた。
    しかしそこはドイツ海軍、条約の抜け目を突く形で新開発のMAN社製MZ42/58複動2サイクルディーゼルエンジンを搭載。これにより快足を獲得し、通商破壊に向いた艦へと仕上げた。一方で振動や騒音、故障に悩まされたとか。
    素早いドイッチュラントを捕捉できるのは、イギリス海軍のフッドレナウンレパルスといった高速艦のみであった。
    この新型ディーゼルエンジンは、ドイッチュラントに搭載する前に砲術練習艦ブレムゼによって試験的に運用されており、一定の信頼度があった。

また条約により排水量は1万トン以内に収める制限があったが、ドイツ海軍は1万トンぎりぎりになるよう設計。こうする事で1万を僅かにオーバーさせ、限界まで排水量を増やした。諸外国には1万トンと発表している。
そして可能な限り装甲を軽量化しつつ巧みな防御の配置で、脆弱さを補った。それでも設計の都合上、機関の配管が外部に露出しており軽巡以下の攻撃でも行動不能になる危険性を孕んでいた。*1
火災対策は、1930年代の標準では最高クラスとされた。ドイッチュラントは幾度と無く被弾の炎に包まれているが、どの攻撃も沈没させるに至っていない事がその証左であろう。
船型は長船首楼型、艦首は直立型となり、水線下には小型のバルバス・バウを採用。燃料搭載量は3200トン。姉妹艦よりも多くの燃料を搭載できた。
このため航続距離も姉妹艦随一で、20ノットで1万海里を航行可能だった。しかし搭載量の多さは排水量の増加に繋がり、主機の重量と合わせると4500トンに及んだ。全体のほぼ半分である。
装甲厚は水線部60mm、甲板40mm、主砲塔前盾140mm、主砲塔天蓋105mm、司令塔150mm。

装甲を軽量化する事に加え、世界初となる電気溶接技術を盛り込んで更なる軽量化を実現。クルップ社が本級のために溶接可能な鋼材を新規開発していたのだ。
従来のリベット留めと比較して15%の重量軽減に成功。削減した分は兵装や防御に充てられた。この電気溶接技術は門外不出の機密で、大型艦に扱えたのは世界広しと言えどもドイツだけであった。
艦上構造物には高価な軽合金を多用。軽巡洋艦エムデンで培われた工業デザインを参考にしており、従来のドイツ戦艦とは異なる容姿となった。この大胆な発想に英仏は頭を悩ませたと言われている。
建造したは良いものの、政治的理由や制約に縛られたドイッチュラント級を海軍は煙たがった。「政治のおもちゃ」「戦艦には火力で、巡洋艦には速力で負ける艦」など、ぼろぼろに言われた。
それとは対照的に、周辺の列強国は高評価を下している。相手が重巡洋艦以下であれば火力で勝り、戦艦が相手なら自慢の快足で振り切る事が出来た。条約に縛られたドイッチュラントは決して強くはないが、非常に嫌らしい艦だったのだ。

先進的装甲艦ドイッチュラント竣工の報はフランスにも伝わった。フランス海軍の戦艦ではドイッチュラントを捕捉出来ず、主砲も28cmと侮れない。
防御力も「ドイツの事だから侮れない」という推測がなされ、かなりの脅威として捉えられた。こんな艦に遊弋されてはシーレーンが脅かされるのは明々白々。
そこでフランスはポケット戦艦キラーのダンケルク級戦艦の建造に着手した。この戦艦はドイッチュラントとの戦闘を考慮し、然るべき性能を保有していた。
が、あまりにも対ドイッチュラント戦に特化しすぎていたため他国の戦艦と比べると、火力や防御に劣るフランス版ポケット戦艦となってしまった。
新技術の試験的投入という別の目的は達せられたが、これでは力不足と考えたフランス海軍は次級のリシュリュー型を建造するのであった。

1931年にドイツ国立跡銀行へ外国筋債権回収請求が殺到。1日に1億マルクが流出する事態に陥った際、フランスが救済する条件としてポケット戦艦の建造中止を要求した事があった。
フランスがどれほどポケット戦艦を恐れていたのか、如実に示すエピソードである。ただし、要求は無視された

ドイッチュラント対策としてフランスがダンケルク級を建造する一方、そのフランスと地中海の覇権を争うイタリアも新型戦艦の建造に取り掛かった。
これに対抗するべくフランスはダンケルク級二番艦の建造に取り掛かり、ドイツもダンケルク級に対抗すべくビスマルク級の建造に至った。
そしてイギリスもまた他国の戦艦に対抗するため、旧型戦艦レナウン級に近代化改修を施し、新鋭艦に劣らない性能を獲得させた。
ドイッチュラントの誕生が、列強間の建艦ブームを巻き起こしたのである。

遠く離れた大日本帝國もドイッチュラントの影響を受ける
ロンドン海軍軍縮条約の締結で、潜水艦の保有数に制限をかけられた帝國海軍は個艦の性能を増大させる必要に迫られた。
そこで1927年より、独力によるディーゼルエンジン開発を目指したが、技術不足で国産に至る自信が無かった。何とか潜水艦用は開発に成功したが、水上艦は未開発のままだった。
途方にくれる日本に、一つのニュースが舞い込んだ。1932年にドイッチュラントの公試が終わり、騒音の問題は解決できなかったが、振動の問題は解決したとドイツが発表したのである。
これを聞いた帝國海軍は早速、MAN社に打診。特許料を支払い、技術を導入しようとした。ところがMAN社は特許料100万円(換算すると1億円)を要求。
特許権の使用料としては桁違いの金額に、折り合いがつかず交渉決裂。同額の巨費を投じれば開発可能として、独力での開発を続行した。
ドイッチュラントを真似て、新造艦こと潜水母艦大鯨に電気溶接技術やディーゼルエンジンを試験的に投入。完成の暁には大和型への搭載も考えられたが、
船体が反り上がったり、故障が多発する等の問題が続出して大失敗。排煙も濃く、出力に至っては計画の4割しか出せない有様であった。結局、大和型への搭載は見送られた。
1938年に航空本部が試算したデータによると、ディーゼルエンジンの問題が概ね解決されるのは1941年頃。下手したら1945年にまでずれ込むというものだった。
ドイツの技術力の高さが窺える一幕であった。

1万トンの船体に大口径の砲を載せたため、イギリスのマスコミは「ポケット戦艦」と称した。日本では「袖珍戦艦」「超海防戦艦」と呼称された。建造費は8000万ライヒス・マルク。姉妹艦と比べると最も安い建造費である。
28cm三連装砲は、ヴェルサイユ条約の制限下では最も大きい砲だった。最大仰角は40°、射程距離は3万6475メートルに達した。
副砲の15cm砲はドイッチュラントのためだけに製造された特別製で、45.3kgの砲弾を秒速875メートルの速度で発射できた。

世界初の電気溶接技術とディーゼルエンジンを投入して造られたドイッチュラントは非常に先進的で、世界に冠たる大ドイツを象徴する技術の結晶だったのだ。そんな彼女のために「装甲艦ドイッチュラント」という行進曲が作られた。

  • 公式テーマ曲「装甲艦ドイッチュラント」について
    作曲者はエーリヒ・シューマン(1898~1985)。作曲家ロベルト・シューマンの孫にあたる人物であった。彼はベルリン大学の正教授であり、ナチス党員でもあった。
    シューマンは趣味で行進曲の作曲を手掛けており、装甲艦ドイッチュラントは1937年に作曲された。1937年はドイッチュラント就役の四年後で、完成後すぐ作られなかったのはスペイン内戦が絡んでいると推測される。
    戦後、連合国に捕えられ取り調べを受けるも釈放。西ドイツで天寿を全うした。
     
    曲調は行進曲のように勇ましく力強いもので、古臭さは一切無く、現代でも通じるほど。静と動の緩急が付けられ、曲に彩りを添えている。全体で約2分半の曲である。
    戦前は勿論の事、戦後にも演奏されており録音されたものがYoutubeで聴ける。
 

のちに次級のシャルンホルストが建造されたが、表向きはドイッチュラントの同型艦とされた。ドイッチュラントの改良型たるシャルンホルストは多くの面で性能を凌駕しているが、
唯一巧妙な機関配置だけは受け継がれず、対艦防御・水雷防御のみドイッチュラントに劣っている。
姉妹艦として二番艦アドミラル・シェーア、三番艦アドミラル・グラーフ・シュペーが建造された。後発の妹には要所要所に改良が施されており、ドイッチュラントとは容姿が少々異なる。
例えばドイッチュラントのみ司令塔を内包した箱型艦橋を採用しているが、重心の上昇を招いたため二番艦以降は改められている。このため姉妹艦との見分け方が容易である。
諸元は排水量1万1700トン、出力5万6800馬力、最大速力28ノット、航続距離は19ノットで1万海里、乗員1150名。武装は28cm三連装砲塔2門、15cm砲8門、8.8cm高角砲3門、53cm四連装魚雷発射管2基。
軽量化のため、ドイツ海軍初の新設計三連装主砲を採用し、砲門数を減らしつつ強力な火力を得た。ドイッチュラントの完成を以って、ドイツはバルト海を支配したも同然となった。
ドイッチュラントの誕生は、思わぬ副次効果をもたらした。列強各国がドイッチュラントの対策を練っている間に、ドイツ海軍はより強力な艦艇の研究を行えた。
艦に動物を乗せる事が多い欧州だが、ドイッチュラントも例外ではなかった。ホッコーという熊がマスコットとして乗艦していたという。器用に梯子を昇る写真が残されている。

ドイッチュラントが竣工した後、記念のメダルが作られた。今も極一部が現存しており、高値で取引されている。

 

誕生
1929年2月5日、「A」という仮称の艦名を与えられ、ドイチェヴェルケのキール造船所で起工(219番目の建艦)。起工の報はすぐに各国へ伝わった。
大日本帝國で発行された3月24日付の中外商業新報には「ドイツが造る恐ろしい巡洋艦」との見出しで、紙面を飾った。
日本円にして4000万円(換算して約1200億円)を超える建造費を投じ、数十万本の鋲を用いる旧来の方法ではなく電気溶接を用いる科学的工夫をこらしていると報じた。
最後にドイッチュラントの出現は、軍縮条約関係国の頭を悩ませていると締めくくった。
1930年5月15日付けの中外商業新報では「独逸造船技術者の誇り」の見出しで、建造中のポケット戦艦(ドイッチュラント)の記事を作製した。
最新技術の粋を集めて建造されるドイッチュラントに、列強各国の目は釘付けとなった。建艦の見本として、見習うべき所が多いと締めくくった。

1931年5月19日、進水式を迎える。約6万人もの観衆と来賓が訪れてドイッチュラントの誕生を祝った。軍楽隊からは「海軍プレゼンティーア行進曲」が演奏された。

国防相グロエーネルは次のように祝辞を述べた。

 

「今日は我が新興海軍にとって最も重大な日である。この新しい戦艦は世界の造船技術界に一新紀元を劃するのみならず、実に我がドイツ民族の伝統的精神を象徴する所のものである。
祖国の名ドイッチュラント―――。嗚呼、何たる誇らかな名であろう。そしてこの名は我が新興海軍にとって、そもそも何を意味するものであろうか」

 

ハインリッヒ・ブリューニング首相は、全世界が見守るこの式典でこう述べた。

 

「ドイツ国民は様々な束縛を受け、また恐ろしい経済問題を抱えながらも、ヨーロッパ各国との平和共存を堅持していく力のあることを証明してみせたのであります」

 

続いてヒンデンブルク大統領によって洗礼を受け、大統領直々にスピーチを行った。艦内は絶対禁酒だと釘を刺したという。そのスピーチの途中で思わぬ事故が発生。
なんと船体が滑り出し、スピーチを終える前に進水してしまったのだ。唖然としたヒンデンブルク大統領はスピーチが途切れ、艦名の「ドイッチュラント」としか言えなかったとか。この時の混乱で祝賀用のシャンパンの瓶が1本割れた。
余談だが、ドイツの進水式では無作為に選ばれた少女が洗礼をする決まりがあった。しかしドイッチュラントの場合、一国の大統領が洗礼を行っており、いかに期待を寄せられていたかを物語っている。
先が思いやられる生まれ方をしたドイッチュラントだったが、間もなくヴィルヘルムスハーフェンへ回航される。期待の新鋭艦だったためか進水後から多くの写真が残されている。
ドイッチュラントの排水量を条約通り1万トン以下に収めた事について、ドイツの宣伝家たちは大いに賞賛した。独特な設計、電気溶接、ディーゼルエンジンの導入がこの革新的大型艦の竣工を可能にしたと。
だが実際は、ディーゼルエンジンが引き起こす振動や騒音問題は未解決で宣伝通りには行かなかった。また排水量は1万1700トンと、規定の1万トンを超過。
しかし溢れんばかりの数字と嘘で粉飾しまくったため、諸外国は完全に騙された。連合軍がポケット戦艦の真の諸元を知ったのは1945年の事だった。
ヴェルサイユ条約を破れば新たな制裁が加えられるからね、しょうがないね。

 

1932年5月に処女航海を行った。まずノルウェーとフェロー諸島を訪問。アイスランドとデンマークを経由して、スガゲラク海峡に到着。ユトランド沖海戦で戦死したドイツ兵を弔う儀式に参列し、
6月1日にヴィルヘルムスハーフェンに戻った。11月5日、エンジンテストを実施。
1933年1月から公試を開始。2月27日、全ての試験を終えてヘルゴラント諸島を出港。4月1日に竣工した。竣工後、レーダー提督を乗せて旗艦となったドイッチュラントは西バルト海で大演習を実施。
同年1月30日、政権交代が行われ、ヒトラーが総統になった。運命か、皮肉か。祖国の名を冠した艦は、ヒトラーの戦艦第一号となったのだ。
ドイッチュラントの実弾発射を目にしたヒトラーは感銘を受け、レーダー提督が支持する大型水上艦増強計画に賛同するようになった。
以降、ヒトラーは主力艦の進水式には必ず姿を見せるようになり、ドイッチュラントが与えた影響は大きかった。
演習が終わった後、ドイッチュラントはヒトラー総統と国防軍に秘密取引の場を提供。ナチス党史にはドイッチュラント協定と記された。
ヒトラーは広々とした会議室に軍首脳陣を招き入れた。ブロンベルク国防大臣、フリッチュ陸軍上級大将、ゲーリング航空大臣、レーダー提督といった要人が集まった。
会議の題目は、今や病床に伏して余命幾ばくも無いヒンデンブルク大統領(87)が亡くなった後の対応だった。ヒトラーは大統領没後、共和国大統領の座に就くため軍の支持を求めた。
その見返りとして褐色シャツの私兵集団SA(突撃隊)を現在の3分の1まで削り、ゆくゆくは陸海軍だけに武装する権限を与えるというものだった。
その結果、横暴で顰蹙を買っていた突撃隊が6月30日に粛清された。軍の支持を得られたヒトラーは首相と大統領職を兼任する事になった。
1933年6月6日よりバルト海に戻り、海上試験を続行。12月10日、全ての海上試験を終えた。
その後は演習に従事し続けた。

1934年4月、ヒトラーを乗せてノルウェーを訪問。翌5月にはヴァーネミュンデとザスニッツで行われた訓練に参加。同年6月9日から23日にかけて、軽巡洋艦ケルンとともに北大西洋で演習に参加する。
8月、スウェーデンのヨーテボリを訪問し、10月にはエディンバラへ公式訪問。そして11月12日に就役する。ヴィルヘルムスハーフェンに配備され、グライデッシュ中将麾下のドイツ戦闘艦隊の旗艦となる。
ドイッチュラントがスコットランドのリースを訪問した時、イギリス海軍専門家が艦体を十分に調査した。その結果、日英米が1万トン級の巡洋艦に載せる8インチ砲が
ドイッチュラントの前では全く歯が立たず、イギリス海軍が保有する軍艦で対抗できるのは僅か3隻のみという、とんでもない事実が発覚した。フフフーン。
12月13日からヴィルヘルムスハーフェンで改修工事を受ける。

翌1935年2月21日に完了。3月14日、機関の耐久試験のため南アメリカに向けて出港。16ノットの速度で航行しブラジル、トリニダード、アルーバに寄港。32日間で往復を果たして帰投。
更なる改装で射出機とHe60水上偵察機2機を搭載する。同年4月1日、大日本帝國の国民新聞はドイッチュラントの事を「豆戦艦の力、祖国の名で独の寵児」という見出しで記事にした。
ドイッチュラント級は、日米英の持つ同じ1万トン級巡洋艦より装甲と武装を遥かに凌ぐ、真に驚嘆すべき艦と書かれていた。
10月29日には大阪時事新報に掲載された。高級で軽量な装甲材料を用いた事、艦内設備に軽金属合金を使用した事、鋏鋲を使用すべき場所に出来得る限りの電気溶接を用いた事、
ディーゼルの応用を完全ならしめた事、この四点を高く評価。「魔の戦艦」と紹介した。

10月19日より21日間、アドミラルシェーアと一緒に大西洋で演習。砲撃や距離測定、曳航の訓練を行った。演習後、エムデンと合流してヴィルヘルムスハーフェンへ帰投。再度改修工事を受けた。
列強の航空機発達を受けて、高角砲を8.8cm連装砲3基6門に換装。更に電波探信儀De-Te装置を新たに装備した。これにより通商破壊艦として、大きく性能を向上させた。1936年春、工事完了。
1936年5月29日、キール近郊にあるラーボエに海軍記念館が開館。式典に参加するため艦隊の大部分とともにキールに停泊した。
6月6日から17日までイギリス諸島を巡航し、コペンハーゲンを訪問。北海とバルト海でアドミラル・シェーアと戦闘訓練を行った。7月からはヘルゴラント沖で訓練に従事。
ところが同月17日、スペイン内戦が勃発。急遽ヴィルヘルムスハーフェンへ戻される事になった。

 

新兵器の実験場と化したスペイン
1936年7月24日、スペイン内戦に伴ってスペイン沖へ出動。ロルフ・カールス中将が座乗する旗艦として他の装甲艦や駆逐艦を伴って内戦に介入した。識別のため砲塔に黒と白と赤の塗装を施していた。
再軍備を宣言したばかりのドイツ軍にとって、スペインは良好な経験値稼ぎの狩り場だったのである。実戦経験の場として内戦は利用された。
フランコ総統の要請を受け、スペイン国内のファシスト派を支援するため共和国軍の港湾都市や軍事施設を砲撃。この砲撃は国際法違反であったが非難する国は無かった。
共和国軍が保有する唯一の戦艦ハイメ1世は、ドイツが送り込んだコンドル軍団の攻撃で入渠中だったため、ドイッチュラントに対抗できる水上艦はいなかった。彼女は何の制約も受ける事無く、思う存分暴れる事が出来たのだ。
頭を悩ませる共和国軍は潜水艦による雷撃を行ったが、失敗に終わっている。航空攻撃も行われたが、対空砲火で撃退された。
ドイッチュラントはファシスト派を支援するため、ドイツ船団を護衛しつつ情報を収集する役目が課せられた。

1936年7月26日、サンセバスチャンの沖合で戦火から逃げる国民9300人(うち4550人がドイツ人)を乗せて避難させた。7月末にはコルーニャの港に到着。水域での危険度が高まったため、
ドイッチュラントの副砲と対空砲が常に空を睨んでいた。
8月3日午前、セウタ港に投錨したドイッチュラント。艦長以下将校たちが上陸し、反乱軍本部を来訪。そこでフランコ総統と会談した。ドイッチュラントの訪問は儀礼的に過ぎないと言われたが、
反乱軍は友好の表明と受け取った。翌日、反乱軍は「ドイツ軍艦のセウタ入港は数日前から我々が待望してやまなかったところである。ドイッチュラント号艦長以下、ドイツ海軍将校が
親しくフランコ総司令を訪問し、1時間余に渡って懇談を遂げた事は明らかに反乱軍に対する好意の表象と解釈する」と表明した。
これを知ったフランス政府は、1911年に生起したアカディール事件(ドイツの砲艦が港湾都市アカディールに派遣された事で勃発した国際紛争)を例に挙げ、スペインはドイツに抗議すべきと声を荒げた。
8月9日、自治を宣言したバルセロナに停泊。8月28日にスペインを出発し、ドイツ本国へ民間人を送り届けた。
ドイツ政府はドイッチュラント以下9隻が9月初旬までスペイン近海から離れない様子なので、新鋭艦のアドミラル・グラーフ・シュペーを追加で送り込み、3隻の装甲艦を以って示威行動を行うと発表した。
が、ほぼ入れ替わりでドイッチュラントが本国に帰投してしまったので、3隻が揃う事は無かった。

 

1937年1月31日、キールを出港し再びスペインに舞い戻った。3月31日にドイッチュラントはヴィルヘルムハーフェンへ入港。乗員保護のための圧力隔壁が追加され、
クレーンも新型に交換された。サーチライトも増備されている。5月10日、スペイン近海に移動。
同年5月24日、パルマの町で停泊していると共和国軍機や艦艇が出現。街や港湾を攻撃する前に退去するよう求められたのだ。
これを受けて最先任将校のイギリス軍人サー・ジェイムズ・サマヴィル中将は巡洋艦ガラディアに将旗を掲げ、ドイッチュラントとイタリア駆逐艦マロチェロを従えて港外に脱出した。
それぞれが全く異なる国の艦でありながら、一個戦隊のように見事な連携を見せた。共和国軍が退却すると、パルマの港へ戻った。ひと段落すると、サマヴィル中将は2隻に対し感謝の信号を送った。
「国際戦隊の占位位置の保持、信号、操船に、本官は心から賞賛の念を覚えました」と伝えられた。返礼としてドイッチュラント座乗のカールス中将は不慣れな英語で
「我ら三国海軍の全艦艇が本日のように一個の戦隊に纏まったら、多くの点で誠に好都合でありましょう」と返した。心温まるエピソードだが、それとは対照的にドイツ海軍への評価は下がっていった。
ドイツがフランコ軍を支援すると表明した事と、独伊の容赦ない空襲がスペイン難民の心を離していったのである。

そして、ついに重大事件が発生する。同年5月29日18時40分、バレアレス諸島イビサ島沖で停泊していたドイッチュラントは日没に伴って灯火管制を行う。
ところが夕日を背にして共和国軍のツポレフSB-2爆撃機2機が出現。対空砲が火を噴くが、敵機は投弾に成功し、ドイッチュラントに2発の50kg爆弾を喰らわせる。食堂の前で列を成していた乗員たちが犠牲となり、死傷者が出た。
護衛の駆逐艦レオパルドが救助活動を始めたが、これを合図に、周辺には共和国軍の駆逐艦が現れる。宵闇に包まれる海で、火災を起こしているドイッチュラントは恰好の獲物だった。
絶体絶命の窮地に立たされるが、お返しとばかりに猛反撃を開始。あまりの激烈さに敵駆逐隊は雷撃を行えず、終始遠巻きに砲撃する事しか出来なかった。敵を撃退し、静寂が戻った深夜。アドミラルシェーアと4隻の魚雷艇が合流。まだ船体が燃え盛っていた。
その後、何とか鎮火させドイッチュラントは危機を脱した。翌30日、損傷したドイッチュラントに共和国軍の駆逐艦が接近したが、サーチライトを向けられるとすぐさま離脱した。

この爆撃は、どうやら共和国軍がドイッチュラントを反乱軍の巡洋艦カナリアスと誤認したらしく、意図的な攻撃ではなかった。操縦していたロシア人も、ドイツの船との接触は避けるよう命じられていた。
一方で爆撃を手引きしたのはソ連軍の輸送船マゼランだったとされ、ソ連側が誤認に見せかけてドイッチュラントを葬ろうとした可能性がある。
ドイッチュラントもドイッチュラントで、自分の意見を押し通し、危険な共和国軍の海域に留まっていた。
共和国軍のパイロット、レオカジオ・メンディオラ大佐はドイッチュラントを爆撃したと生涯に渡って主張したが、報告書ではアドミラル・シェーアを爆撃した事になっていた。
この一件で激怒したヒトラーは報復を命令。31日、独伊から派遣された駆逐艦4隻やアドミラル・シェーアとともにアルメリア市に対して報復の砲撃を行う。200発以上の砲弾を撃ち込み、市民19人を死亡させた。
当時の新聞によると市内の建物は殆ど破壊され、1522年以来の由緒を誇るカトリック教の大伽藍やメキシコ大使館は完全に破壊されたという。建物の被害は数百万ポンドに達した。
イギリスの左翼系新聞は、これを犯罪行為として非難を浴びせた。ところがイギリス政府はドイツとの関係悪化を懸念し、犠牲者をジブラルタルの共同墓地に埋葬する事を許可した。
一方で他の国々は特に非難する姿勢を見せなかった。
負傷者の手当てが、艦内の医療設備では間に合わずアドミラル・シェーアから軍医を呼び寄せ、英領ジブラルタルへ向かった。理由は設備の整った病院があるからだった。
間もなくドイッチュラントはジブラルタルに入港した。
乗員24名が死亡し、79名が負傷する痛ましい事態となってしまった。殆どが火傷による死傷だった。負傷者のうち53名は軍の病院へ運ばれたが、医療スタッフの数が足りず、病院も手一杯になってしまう。
病院側から緊急要請が出され、イギリス本国から増員の医療スタッフが空輸される事になった。葬儀屋も呼ばれ、一晩かけて埋葬儀礼用の棺が用意された。
停泊中の6月5日、日本からはるばるやって来た重巡足柄と遭遇。遺体や負傷者を上陸させている様子を足柄側に観察されている。
24名の死者は棺に入れられ、ナチスドイツの国旗に包まれて造船所北口から2台のトラックに載せられた。警護にはイギリス海軍の警備員がつき、イギリスの軍楽隊によって鎮魂歌が奏でられた。
葬儀は知事の前で挙行され、英国国教会大聖堂とドイツ従軍牧師が司会を務めた。そして遺体は火葬された。その後も少しずつ死者が出て、最終的に31名が死亡した。
ドイッチュラントへの攻撃と乗員の死は、国際的な政治活動に動揺を与えた。ドイツは更なる報復として、イタリアを誘って海陸国際監視を離脱、スペインの監視体制は崩れた。
一連の事件は、遠く離れた大日本帝國でも取り上げられた。1937年6月25日付の大阪毎日新聞で、ドイッチュラント攻撃の事が書かれている。
アルメリア市砲撃の一報を聞いたスターリンは、独伊の艦艇に対する攻撃を厳格に禁止する命令を下した。ドイツの報復行為に慌てた英仏は、ドイツの機嫌を取る工作を開始。
綱渡りな駆け引きを経て、2週間後に条件付きで何とか国際監視に復帰させた。

犠牲者は一度ジブラルタルに埋葬されたが、ヒトラーの命令で6月11日にドイッチュラント艦上へ戻された。16日、ヴィルヘルムスハーフェンに帰投。艦から棺を降ろし、翌日に大規模な葬儀を挙行した。
ヒトラーを始め、市民数千人が葬儀に参列し、本国の公園に記念碑が建てられた。15人分の墓が建立され、現代でもその形を留めている。傷付いたドイッチュラントはキール軍港で入渠し、7月まで修理を受ける。
失った人員を補充するため、アドミラル・グラーフ・シュペーから5人を、軽巡ケルンから17名を集めた。
傷を癒したドイッチュラントは10月5日、スペイン近海に進出。エル・フェロール、カディス、タンジール、アルヘシラス、セウタ、メリリャを訪問。
11月14日、イタリアのガエータ港に通信を送り、ナポリでクリスマスを過ごした。

 

1938年1月29日、リスボンへ寄港。集まった民衆から称賛の声が寄せられた。抽選でドイッチュラントに乗艦できるサービスも提供された他、ポルトガル当局を招いて艦上で昼食会が行われた。

2月11日、ヴィルヘルムスハーフェンに入港。乾ドックで機関室の基礎にあった構造的欠陥を修復した。工事を終えた後の7月24日、ドイッチュラントはタンジールとジブラルタルを訪問。
5月、グナイゼナウ就役に伴い戦闘艦隊旗艦の座から外れる。7月24日から8月にかけて、タンジールとジブラルタルを通過。8月22日、重巡プリンツオイゲンの進水を祝福するべくキールに所在。
9月20日、北大西洋で新型レーダーの試験を実施。Uボートと協同で行われた。同月22日、スペインのヴィゴへ入港し、試験用に設置した新型レーダーを取り外した。レーダーには防水布が掛けられている。
同月27日、濃霧が酷いためドイッチュラントはヴィゴで待機を命じられる。霧が晴れた後、U27やU30等とともにカディス湾で訓練を行った。1933年5月から1938年夏までに航行した距離は13万海里に及んだ。
10月9日、スペイン領サンタクルス・デ・ラ・パルマ島に寄港。続いてタンジールとジブラルタルに立ち寄った。またズデーテン危機の際は戦争勃発に備えてアゾレス諸島とカナリアの間で待機した。
もしもの時は攻撃を命じられていたが、何事も無く終わった。ドイツの手でチェコスロバキアは滅亡し、親独のスロバキアが誕生した。11月12日、バルト海で砲撃訓練に従事。

 

1939年1月26日、フランコ軍がバルセロナを占領。内戦はファシスト側の勝利として、終息に向かいつつあった。2月26日、スペインのテネリフ、ラパルマ、エル・フェロルを訪問。現地で砲撃訓練を行った。
リトアニアがドイツにメーメル市の返還を申し入れ、記念式典が催される事になった。同年3月23日、シュヴィーネミュンデでヒトラー総統を乗せてメーメル地方へ訪問する。
ヒトラー総統は船酔いに苦しめられたが、入港するとドイツ系リトアニア人から盛大な歓迎を受けた。
4月1日、ヴィルヘルムスハーフェンへ入港。戦艦ティルピッツの進水式に立ち会った。4月17日から5月16日にかけて、春の巡航に出発。
補給艦ヴェステルヴァルトや巡洋艦3隻、駆逐艦隊とともに北大西洋で訓練。かなりの規模の艦隊が出港したにも関わらず、イギリス海軍は5日が経過するまで気づかなかった。
最初にドイツ艦隊を発見したのは偵察機や軍艦でもなく、ドーヴァー海峡からカレー方面に向かう民間の蒸気船であった。

6月12日、バルト海で訓練に従事。終了後、ヴィルヘルムスハーフェンに入港し、第二及び第三機械室の土台を強化する工事を受けた。この訓練は7月22日まで続いた。
6月16日、4名の補助要員とフロート水上機Ar196が新たに配備された。8月23日、出渠。連絡員と下士官4名と気象学者がドイッチュラントに乗り込み、弾薬の積み込みが行われた。
それより少し前の8月19日、ドイツはソ連と通商協定を結んだ。ソ連側は穀物や油粕、プラチナ、石油などの原料を提供する代わりに、ドイッチュラントを始めとする近代的戦艦の青写真を要求した。
約束通り交換が行われたが、ヴェルサイユ条約に違反しているシャルンホルストグナイゼナウの青写真が、イギリスに漏れない事をドイツは祈った。
8月24日、開戦の足音が迫ったため航海用の灯りを消す。人類史上最大かつ凄惨な戦争が、ドイッチュラントを包み込もうとしていた。

 

1939年 ~通商破壊、そして改名へ
そして1939年9月1日、運命の第二次世界大戦が勃発する。ポーランド侵攻の一週間前にドイッチュラントはヴェステルヴァルトとともにヴィルヘルムスハーフェンを出港し、
敵の哨戒線を突破してグリーンランド南方で開戦を迎えた。同日17時45分、ドイッチュラントは本国からの通信を傍受した。「英仏は兵士の動員を命じているが、さらなる姿勢は不明である」。

ドイッチュラントの艦長で、後に駐日大使館付海軍武官となる齢49歳のパウル・ヴェネガー大佐は、戦闘日誌にこう記した。「本艦はまず、北緯50度西経30度の点へ赴き、そこより西進して米英間の航路へ向かう」と。
英国海軍省はポケット戦艦群の出撃を察していたが、どこにいるのか分からないと報じた。ポケット戦艦3隻は誰にも気付かれずに北海の北方へ配置されたのだ。
9月3日、英仏から宣戦布告され戦争状態に突入。夕方、指揮官より状況の説明がなされた。しかし、ヒトラー総統は和平を期待していたため、なかなか通商破壊の許可が下りなかった。
それどころか英仏はおろかポーランド船舶への攻撃も禁じられた。主要通商ルートから外れて、北極圏の流氷に隠れているよう命じられた。
9月5日、搭載機が帰投に失敗。喪失したかに見えたが、数時間後に偶然発見され回収。手持無沙汰のまま、11日と17日と20日にヴェステルヴァルトから補給を受けた。
命令を待っている間にドイッチュラントは南下し、バミューダとアゾレス諸島との間に移動。ポーランドを降伏させても和平が望めなかったため、9月27日になってようやく通商破壊を命じられた。
ドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーには次の命令が下った。

 

一、艦長の任務は、敵に気付かれないよう大西洋に到達し、そこにおいて水平線上に船影を認めた場合には、まずこれを回避する事。
  この命令は英独間に戦争が勃発した後でも、戦闘開始の無電命令を受けるまでは守らねばならない。

二、ついで艦長の任務は、あらゆる手段を用いて敵商船を破壊し、撃沈する事である。また出来るだけ敵の軍艦との接触を避ける事。
  劣勢な軍艦の場合でも、主任務である敵補給線の妨害に貢献するときに限り交戦は許されるものとする。

三、行動海域で、しばしば位置を変える事は敵を当惑させるのに有効であると同時に、たとえ目に見える戦果が無くとも敵商船の行動を制限する効果がある。
  時には遠く離れた海面で逃げ回る事も、同様に敵の困惑を増加することになろう。

 

このような命令を受け、ドイッチュラントは密輸品を運ぶ商船がいないか目を光らせた。同時に強力な敵部隊が出現した際は退避に徹した。
こうしてドイッチュラント級3隻は、用途外の通商破壊に身を投じる事になった。だが、戦力に劣るドイツ海軍が英仏に勝利するには最も効果的な戦術だった。

10月5日、バミューダ諸島西方でイギリス貨物船ストーンゲート(5044トン)を発見。艦砲を向けて脅し、ストーンゲートを停船させた。船長は身柄を拘束されたが、翌月9日に釈放されている。
ストーンゲートは果敢にもR-R-R遭難信号を放ったため、砲撃して撃沈。ヴェネガー艦長は、このSOS信号を聞きつけてイギリス戦艦が数隻現れるだろうと判断。
ストーンゲートの亡骸が波間に没する頃には、新たな獲物を求めて全速力で北上した。ストーンゲートの沈没によってイギリス軍は大西洋に2隻のポケット戦艦が暴れている事を知る。
これはイギリスにとって大問題であった。ロンドンでは疑念や困惑が深まっている。SOS信号はドイッチュラントの存在を知らしめたが、そんな事はどこ吹く風。
ハリファックスとイギリス本国を結ぶ航路に出現し、10月9日にはアメリカ貨物船シティ・オブ・フリントを発見、停船を呼びかけて拿捕した。
密輸禁止令状を押収し、この貨物船が運んでいた果物やトラクター、穀物は押収され、乗員への賞与として配られた。
だが、この拿捕が米独間に外交問題を引き起こした。ワシントンが強硬に抗議してきたのである。アメリカの世論を敵に回したくないベルリンの政策当局は
貨物船をノルウェーの港へ回航するようドイッチュラントに命じた。これを受けてドイッチュラントから回航要員が派遣され、シティ・オブ・フリントはドイツへ送られたが、
途中でノルウェー海軍の駆逐艦に捕まる。回航要員はソ連兵に拘束された。貨物船は無傷のまま元の持ち主に返されたが、最終的にはUボートの雷撃で撃沈された。
この一件でヒトラーはドイッチュラントを心配。イギリス海軍との戦闘で撃沈されないかと気を揉むようになり、その危険が現実のものになる前に呼び戻すようレーダー提督に強く促した。
心配するあまり、ヒトラーは幾晩も眠れない夜を過ごした。

ナチス党大会に列席するため訪欧していた大角海軍大将は10月15日午後4時頃、リヴァプールとニューヨークの中間辺り(北緯46度、西経40度)でドイッチュラントと出会った。
大角大将が乗っていた箱根丸にもドイッチュラントに対する警報が出されていたようである。大角大将は最初、アメリカの軍艦だと思ったが、軍艦旗が翻ってない事を不審に思った。
箱根丸の8000メートル先を並走し、約1時間ほど伴走するとドイッチュラントは水平線に消えていった。ブリッジにいた小野田中佐がスケッチをしており、その絵をロサンゼルスで調べてみたら
ドイッチュラントであった。大角大将はヴェネガー艦長を知っており、ドイツ海軍武官時代の彼の姿を思い浮かべた。通商破壊中のドイッチュラントが箱根丸を攻撃しなかったのは、
舷側に掲げられた日章旗が目に入ったからであろう。この小話は1939年12月3日付の大阪朝日新聞で取り上げられた。

ドイッチュラントの活躍は続き、カナダ東方にまで進出。10月16日にはニューファウンドランド東方でノルウェー貨物船ローレンツ・W・ハンセンを撃沈。イギリスに届くはずだった木材は藻屑となった。
脱出した乗組員たちが乗った救命ボートが海面を漂っていたが、これには攻撃を加えず立ち去った。この頃になると、ヒトラーは毎日のようにドイッチュラントの帰港をレーダー提督に迫った。
それでもレーダー提督は三週間以上粘り、ドイッチュラントの活動期間を延ばし続けたが最終的には屈する事になった。
10月21日、撃沈されたローレンツ・W・ハンセンの生存者がオークニー諸島に漂着した。その翌日、拿捕されたシティ・オブ・フリントがムルマンスクに入港。
これらの情報からイギリス海軍本部は、北部海域で暴れているリヴァイアサンの正体がドイッチュラントである事を特定した。

3隻のポケット戦艦はそれぞれ北大西洋、西アフリカ海域、南アメリカで獲物を仕留め、英国海軍省を恐怖させた。神出鬼没のポケット戦艦を打倒するため、各任務から23隻の主力艦を抽出せねばならず、
ロイヤルネイビーに頭痛の種を植え付けた。もっとも、この状況こそがドイツ海軍の意図するところであった。ポケット戦艦の動向は、世界の関心を集めたのだった。
北大西洋の厳しい天候は不利に働いた。このため中々獲物を仕留める事が出来ず、歯がゆい日々を送った。獲物が見つからなかったため、11月1日に本国より帰投するよう命じられる。
イギリス海軍の警戒線を突破して北海に入り、キールを目指した。ところがヴェステルヴァルトから補給を受けている最中に猛烈な嵐に呑まれる。2日間に渡って激浪と暴風にさらされ、ドイッチュラントの上部構造物に亀裂が走った。
嵐が去った後、ヴェステルヴァルトで応急修理について会議。ドイッチュラントを救うため駆逐艦4隻が救援に現れた。翌日には大ベルト海峡で空軍機の誘導を受け、11月16日に辛くもキール軍港へ帰投した。
ドイッチュラントの帰港に心から安堵したヒトラーは、ようやく精神的恐怖から解放された。祖国の名を冠した艦が撃沈される事は、彼にとって耐え難い苦痛だったのである。

一方イギリス軍は、11月23日に撃沈された仮装巡洋艦ラワルピンディの報告で未だドイッチュラントが活動中と判断(実は発見したのはシャルンホルストだったが、ドイッチュラントと見間違えた)。
このためドイッチュラントの帰投に気付かず、多数の艦艇を投入して大西洋を探し続けたという。この誤報は訂正されず、ラワルピンディはドイッチュラントによって沈められたと判断していた。
今回の通商破壊でドイッチュラントは2隻を撃沈し、1隻を拿捕。合計6297トンを撃沈する戦果を挙げた。
アドミラルグラーフシュペー自沈を受けてヒトラーは、自国の名前を冠した艦が撃沈された時の悪影響を憂慮。仮にドイッチュラントが撃沈した場合、国民の士気を低下させる他、連合軍に宣伝材料にされる恐れがあったのだ。
このため同日15時11分、ソ連に売却されたアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦5番艦の艦名を襲名して、リュッツオーに改名させた。また改名する事により連合軍を混乱させる狙いも含まれていた。
リュッツオーは、ナポレオン戦争で活躍したドイツの最も優秀な指揮官の名前であった。この頃から「ディ・リュッツオー」と呼ばれるようになった。ディは女性の定冠詞で、つまりリュッツオーは女性扱いだった。
ちなみにこの改名はレーダー提督に事前の相談をしておらず、ヒトラーの独断であった。キールに入港した同日、艦長がアウグスト・ティーレ大佐に交代する。

11月21日、イギリスを訪れていた日本郵船の貨客船、照国丸が触雷して沈没した。日本政府は英独に対し回答と説明を求めたが、どちらが敷設した機雷なのか不明瞭で、
両国とも責任のなすり付け合いをした。イギリスはポケット戦艦が敷設した機雷のせいだと説明している。

 

11月22日、リュッツオーの下へケルン、ライプツィヒ、駆逐艦3隻、水雷艇3隻が参集。24日にスカゲラク海峡へ簡単な遠征を行った。翌日、ヴィルヘルムスハーフェンに帰投。
内港に入り、埠頭A4に沿って停泊した。11月28日、キールを出港し運河を通過。これはグナイゼナウとシャルンホルストの航海を隠すための陽動であった。
終了後、ダンツィヒ港に入り、修理と弾薬の補給を受けた。そして9ヶ月に渡る作戦の準備を始めた。
1939年12月4日付の東京朝日新聞は僅かながら袖珍戦艦ドイッチュラントの事に触れ、大西洋にて英仏艦船を脅かしていると書いた。
ポケット戦艦の脅威はイギリス首相チャーチルにも十分に伝わったようで、後年の回顧録にはこう綴った。
この強力な艦が我が国の主要通商ルートにいるというだけで、北大西洋の我が護衛部隊も対潜部隊も、重苦しい緊張を強いられる事になった。
この艦の発する漠然とした脅威を感じているより、実際にこれと砲火を交える方が我々にはやり易かった

 

1940年 ~ドレーバク海峡、首都への道を切り開く
1940年1月30日、弾薬の積み込みが完了。2月6日に近い将来、大西洋で二回目の通商破壊を行う命令を受ける。2月15日、リュッツオーへの改名がOKWによって正式に発表される。
16日から27日にかけて、グディニアを拠点にバルト海で訓練。28日には魚雷、砲撃、探照灯の訓練を実施している。その時に右スクリューを損傷し、12ノットで残りの訓練を行った。

その頃、リュッツオーは北極海で捕鯨船団を攻撃するため準備を進めていた。4月にはノルウェー侵攻ことヴェーザー演習作戦*2が控えており、
南大西洋で暴れる事でイギリスとノルウェーの戦力を誘引しようとしたのだ。独英の戦力差がありすぎる現状では有効な作戦である。
アドミラル・シェーアは修理中、グラーフシュペーは既に喪失と、通商破壊による敵戦力誘引を行える艦はリュッツオーただ一隻だった。
しかし3月5日、ゲーリング空軍元帥が「リュッツオーもヴェーザー演習作戦に投入すべき」と騒ぎ始め、ヒトラー総統もこれに同調したため捕鯨船団の攻撃計画は頓挫。
レーダー提督はヒトラー総統に従った。が、攻撃計画を諦めた訳ではなかった。リュッツオーは第5戦隊の先頭に立って、ノルウェーの首都オスロに入る。そしてすぐに大西洋へと進出する心算だったのだ。
このため9ヶ月の航海に必要な物資は全て積んであった。やがてノルウェー攻略部隊である第5戦隊の旗艦となったが、同月27日に竣工したブリュッヒャーにその座を譲った。
これを機に、リュッツオーをすぐに南極海へ派遣できるようレーダー提督は奔走したが、ヒトラーは頑なにノルウェー攻略の参加を強要した。
その後、第2戦隊へ転入しアドミラル・ヒッパーの指揮下に入った。突然の転属であった。今までリュッツオーはオスロ・フィヨルド向きの準備を進めていたが、ここに来て突如目標がトロンヘイムに変わったのだ。
リュッツオーの所属も東部方面海軍司令部ではなく、いつのまにか西部方面海軍司令部に変わっていた。29日、第2戦隊の集結地ヴィルヘルムスハーフェンへ入港。
リュッツオーは24ノットしか出せず、30ノットを誇る僚艦たちの足枷となった。このため司令代理のギュンター・リュッチェンス中将は非常に迷惑がった。
ティーレ艦長が着任申告の場で、「閣下、シェトランド海峡の北で英艦隊と遭遇したらどうしますか?」と訊くと、「艦隊に30ノットを出させねばなるまいな」と答えた。
要するに「イギリス艦隊と遭遇したら見捨てる」と言うのである。フフフーン(半ギレ)
ティーレ艦長は戦闘日誌に、「ヴェーゼル演習作戦が艦隊の主なる任務だがリュッツオーには副次的任務で、大西洋への突破こそが主たる任務だ」と記した。

3月12日、エムデンと補給艦ノルトマルク(元ヴェステルヴァルト)とともにスヴィースミュンデへ入港。極寒の港だったため、入港してすぐ氷に閉じ込められてしまった。
14日に浮きドックへと回航され、損傷したスクリューを修理。25日に対魚雷テストが行われ、翌26日には砲撃訓練が開始された。4月4日、ヴィルヘルムスハーフェンに入港する。
4月、高角砲を連装高角砲3基に換装。出撃10時間前の4月6日14時、リュッツオーの機関の台座でヒビ割れが発見される。ヴォルフガング・ギュンター機関少佐は「本格的修理には最低48時間かかります」と報告した。
トロンヘイムを攻略してから大西洋に出る事など、もはや不可能だった。機関に爆弾を抱えたリュッツオーが長期の航海なんて出来るはずがない。
そこでレーダー提督は単独で、17時に命令を下した。「リュッツオーはオルデンブルク・グループへ」。オルデンブルクはオスロの暗号名だった。
急遽、航続距離が短い第5戦隊へ戻る事になり、応急修理を行った。6日の夜遅く、400名の山岳猟兵と50名の空軍地上要員を乗せた。

 

8日、ヴェーザー演習作戦に参加しノルウェーの攻略支援を行う。大ベルト水道とカテガット海峡を通過、それまでに潜水艦出現の誤報が何度かあった。
しかし19時6分、スカゲンの線で本当に雷撃される。魚雷の主は英潜水艦トライデント*3であった。リュッツオーを葬るべく、10本の魚雷を扇状に放ってきたのだ。
だが、戦争の女神はリュッツオーに微笑んだ。なんと一斉射された魚雷が全て外れたのだ。うち1本はリュッツオーの艦首をかすめた。護衛の水雷艇アルバトロスが爆雷攻撃を始める。
トライデントはスカゲラクとカテガットで待ち伏せしていた英潜水艦の1隻だった。トライデントの追跡は24時間以上続き、正午には8000トンタンカーのポジドニアが犠牲となった。
オスロ・フィヨルドの入り口でドイツ船2隻が沈められたと無線で警告を受け、ティーレ艦長は予め警戒していた。

リュッツオーら水上艦隊には海路から首都オスロに突撃する任務が与えられた。ヒトラー総統の唱える平和的進駐を行うため、戦闘行動を取らずにオスロを目指す方針が取られた。
リュッツオー艦長のティーレ大佐は「ノルウェー軍の抵抗は必至」とし、全速力による突入を再三具申したが、上官のクメッツ少将は「ドイツ艦隊の威容を見ればノルウェー軍は震え上がって降伏する」と受け入れなかった。
オスロ駐在のドイツ大使館付海軍武官リヒャルト・シュライバー少佐からの助言で、第5戦隊は「ノルウェー政府同意の下」入港するはずだった。
だが、そう上手くはいかなかった。リュッツオーの通信士はラジオでノルウェー海軍省の命令を聞いた。「ただちに一切の航路灯を消せ!」。既に見破られていたのだった。
やがて戦場となるノルウェー沿岸が見えてきたが、灯火管制により暗闇に包まれていた。先行きを不安にさせるには十分すぎる現状であった。
ティーレ艦長は「疑いもなくノルウェーの防衛措置だった。奇襲的進入はもはや不可能」と呟いた。
進軍路となるオスロに至る水道は入り組んでいる上、ノルウェー軍は各所に要塞を配置して磐石な防衛体制を整えていた。9ノットの低速で、虎口に飛び込むが如く行軍するリュッツオーたち。
0時25分、オスロ・フィヨルドの入り口を守るラウエイ要塞とボレルネ要塞から探照灯が照射され、水道を煌々と照らしていた。
第5戦隊は18ノットでその海域を通過したが、旗艦のブリュッヒャーが両側から15センチ砲弾を浴びた。クメッツ少将は冷静に対処し、各艦に航海灯を点けるよう命じた。
すると砲撃が止まった。闇の中をぼんやりとした灯りを点けて航行する艦隊を、要塞群は友軍艦と誤認したのだ。見事、敵の目を欺いて見せた。
しかし安堵する暇は無かった。ノルウェーの警備艇ポルⅢに発見され、アルバトロスが撃沈したが、沈むまでに情報を報告された。0時45分、新手の警備艇2隻が現れ、ドレーバクの方へ発光信号を送られた。

夜明けの午前5時20分、ドレーバク水道を守る要塞からサーチライトが照射され、発見される。さらに警備艇にも発見され、周囲の要塞に発光信号を送る。これに呼応してオスカシボルグ要塞や周辺の島々から一斉に砲撃を受ける。
中にはドイツ軍が把握していなかったカホルム要塞からの砲撃もあり、第5戦隊は混乱。平和的進駐どころか窮地に立たされる。
要塞の砲台は軒並み旧式(しかもドイツ製)で、製造から40年以上が経過していたが果敢に砲撃してきた。
歩兵を哨戒艇に乗せ、要塞の制圧へ向かわせたが、狭い水道内では回避も難しく、カホルム要塞からの攻撃で僚艦ブリュッヒャーが被雷して転覆。期待の新鋭艦は脆くも沈没した。
ドイツ軍にとって不幸だったのは、ブリュッヒャーにはノルウェー首脳陣を拘束する部隊が便乗していた事だった。ブリュッヒャーとともに部隊も喪失し、ノルウェー政府を説得して中立化させる目論みは崩れ去った。
この影響で攻撃部隊の上陸が予定より3時間も遅れてしまった。図らずもこの一撃が、ドイツ軍にとって暗い影を落とす事になった。

リュッツオーもまた砲塔に3発の150mm砲弾を受けて、病室と手術室で火災が発生。2名の乗員が死亡し、6名の重傷者が出た。同時にクレーンが押し倒され、上部構造物と衝突。さらに4名の砲手が死亡した。
砲に直撃弾を受けたため《アントン》砲塔全体が一時的に動かなくなった。砲術長ローベルト・ヴェーバー少佐にも動かす事が出来なかった。敵の位置が悪く、艦尾の《ブルーノ》砲塔では反撃が出来なかった。
結局、リュッツオーは副砲と高角砲のみで反撃しなければならなかった。リュッツオーからはブリュッヒャーがどうなっているのかが見えた。5分後、どうにか《アントン》砲塔は再稼動した。
リュッツオーを沈めたくないティーレ艦長は、射線から逃れるよう命じる。ここにきてドレーバク水道の強行突破は失敗に終わった。この損傷で一旦後退を余儀なくされた。
クメッツ少将から指揮権委譲の連絡を受けたリュッツオーは臨時旗艦となり、便乗の山岳猟兵400名をソンス入江に揚陸させた。
戦闘が激化していく中、リュッツオーに凶報が届く。ラウエイ及びボレルネ要塞が強固に抵抗し、ドイツ軍を退けた。要衝の制圧を担当していた水雷艇アルバトロスとコンドルも猛攻を受けていた。
ホルテン軍港には僅かな歩兵しか上陸させられず、掃海艇R-17は撃沈された。ドイツ空軍の急降下爆撃機が救援に現れ、陸上砲台群を爆撃していったが無力化には至らず、未だ海峡を睨んでいる。
ブリュッヒャーの最期が明確に判明していなかったため、内燃機船のノルデンが水道に入り、ブリュッヒャーの現状を確認しに行こうと申し出てきた。
だが、ドレーバク海峡の敵砲台は健在。確認に向かわせれば、砲火に曝されるのは間違いなかった。一方で正確な情報が欲しかったティーレ艦長はノルデンの斥候を認めた。
海軍の無線技師と無線機をノルデンに乗せ、リュッツオーは火力支援を行うべくフィヨルドを上っていった。

14時17分、リュッツオーは28cm砲を以ってカホルム要塞を砲撃。リュッツオーの弾幕に阻まれて防衛隊はまともな抵抗ができず、ノルデンは無傷のまま海峡を通過した。
そしてノルデンからブリュッヒャーの詳細な情報が届けられた。ブリュッヒャーは撃沈。されど生存者は多く、大半が岸まで辿り着いたとの事だった。クメッツ提督も無事だった。
山岳猟兵がドレーバクの街を占領しカホルム要塞は降伏。また、アルバトロスよりホルテン軍港が降伏したとの報告を受けた。
ドイツ空軍機が再び現れ、ノルウェーの防衛施設を急降下爆撃していったが、大して損害を与えられなかった。だが、士気は衰えていると踏んだティーレ艦長は交渉を持ちかける事にした。
午後遅く、リュッツオーの艦上でティーレ艦長は降伏したノルウェー提督と二人きりの対話を行った。これ以上の流血は避けたいと頼んだが、提督はドレーバクに対して権限が無いとして、やんわりと断った。
一方、カホルム要塞は降伏したとはいえ、ブリュッヒャーを葬った魚雷発射管が健在だった。ここでティーレ艦長はシュヌールバイン大尉を軍使として送り、カホルム要塞司令エリクセン大佐と交渉させた。
その結果、魚雷発射管は接収され、ドレーバク水道はドイツのものとなった。リュッツオーとティーレ艦長の活躍で、ついにオスロへの道が開けた瞬間だった。
魚雷発射管はいつでも発射できるようにセットされており、接収していなければ更なる被害が降りかかったのは間違いないだろう。
ノルウェー軍の敢闘を称えるべく、ティーレ艦長はドイツ軍旗の隣にノルウェー軍旗を掲げる事を許可。要塞の上には両国の旗が翻った。

ブリュッヒャーの喪失という犠牲を払い、進軍再開。オスロに到達し、設けられた沿岸砲台と交戦するも損傷。
第5戦隊の到着が遅れた事により、ノルウェーの王族が金塊を持ってイギリスに亡命する時間を与えてしまった。
10日、ドイツ陸軍によりオスロは占領されノルウェーは降伏。エムデン等を率いてオスロ港へ入ったが、アルバトロスが触雷し炎上、放棄される事態が発生した。
ヒトラーに「軍事史上、最も大胆かつ厚かましい作戦」と評されたヴェーゼル演習作戦は見事ドイツ側の戦略的勝利に終わった。
ドレーバク海峡を開城させた戦功を称え、ティーレ艦長には鉄十字勲章が授与された。リュッツオーには封鎖線突破章が贈られている。

 

その後、修理のため帰国を命じられる。僚艦をオスロに残し、リュッツオーは帰路についた。夜明けを迎えると突破の確率が下がってしまうので、慌てて出港していった。
4月11日午前1時、単独での航行だったため、潜水艦を警戒して最大戦速でキール軍港を目指していた。敵の潜水艦が出現したカテガット海峡を避け、まずスカゲン岬へ向かった。
21分後、電波探信儀であるDe-Te装置が物体を捉えた。その物体は急速に接近し、衝突しそうになったので午前1時26分にティーレ艦長は退避行動を命令。
英潜水艦トライデントに雷撃された生々しい記憶が残っていたため、すぐに退避の手を打ったのだ。5分後、触接を失った。元の航路へ戻ろうとした瞬間、凄まじい衝撃が襲った。
英潜水艦スピアフィッシュ*4に雷撃されたのだ。2本が艦尾に直撃し大破。乗員35名が死亡した他、舵とスクリューを同時に失い航行不能になった。艦尾に亀裂が入って海没、今にも取れそうなくらいだった。
午前2時20分、無線封鎖の命令を破り、被雷状況を伝える通信を発信。応急処置としてBタレットの弾薬は全て投棄。少しでも艦尾を軽くしようとした。
浸水により、下段デッキからダメージコントロール要員を除いた全乗員が退避。スクリューを失ったリュッツオーは右回りするばかり。機関は無事だったが、これでは最早前に進むことが出来ない。
艦体はスカゲンの方へと流されていく。乗員は救命胴衣を着け始める。浸水が激しく、ティーレ大佐は艦の放棄も考えたが、幸いにもポンプ長と排水要員の活躍で食い止められた。
被害対策班が出動し、排水ポンプを使用したり、破壊された隔壁に支柱をあてがう。一方、乗組員は隊を作ってデッキに集合。不可避と見られる退艦命令に備えた。
リュッツオーの連絡艇が対潜警戒に駆り出され、誰もが次に来るであろうトドメの一撃を覚悟していた。しかし不思議な事にスピアフィッシュの追撃が無かったため、一命を取り留めた。
どうやらスピアフィッシュは、リュッツオーが瀕死の重傷を負っていた事に気づかず、護衛艦艇からの爆雷攻撃を警戒して早々に逃げ去ってしまったようだ。
午前3時5分、救援に現れた魚雷艇ルックス、シードラー、ジャガー、ファルケ、モウェ、コンドルと第2Eボート小隊と合流。午前3時40分より対潜警戒を開始した。
午前4時33分には第17UJ小隊が、午前5時には第19掃海小隊が加わり、リュッツオーはキールから来た海難救助船に曳航された。
その後もスカゲン救命艇や数多くの漁船が集結し、彼らに守られながらキールに帰り着いた。この損傷で来年の春まで修理に費やさなければならなくなった。
ヴェーゼル演習作戦を終えた後の評価で海軍総司令部は、「ブリュッヒャーとリュッツオーの派遣は決定的な誤りだった」と評した。
4月17日、ティーレ大佐は異動。功労者は静かにリュッツオーから去った。修理中も艦長が入れ替わっているが、実戦に参加しないためか6月23日から翌年3月30日まで大尉が艦長を勤めていた。
7月9日深夜、英軍機から不発弾と魚雷を喰らって再度大破。工期が延びてしまった。8月8日、修理中に重巡洋艦へと格下げされている。
修理ついでに8.8cm連装砲を10.5cm単装砲に換装し、測距儀上に22式レーダーを搭載した。同時に艦首をクリッパー型に改装している。
11月18日には1940年に開発されたばかりのS-Anlage装置を新たに搭載。艦上には宿泊用デッキが設けられ、乗員の寝起きに使われた。12月16日、そのデッキに出撃準備完了の報が伝えられた。

リュッツオーにとって不幸だったのは、修理している間に通商破壊の全盛期が過ぎてしまった事だった。以降、イギリス側は厳重な警備を施すようになり、思うように戦果が挙げられなくなってしまう。

 

1941年 ~受難の年
1941年1月1月から20日にかけて、前部砲塔に新たな銃座を増設する工事を受けた。21日、港内で機関のテストを行う。2月1日には乗員の準備も整い、リハビリの砲撃訓練を始める。
全乗員が居住できるよう部屋も整頓された。そして船体には白黒のダズル迷彩が施された。
3月31日、ヴェーザー演習作戦で立ち消えとなった大西洋での通商破壊を行うため準備に取り掛かる。6月にはトロンヘイムを出発地点とし、大西洋に出撃する予定だった。
補給艦としてウッカーマルクとエーゲルラントが指定された。こうして戦線に復帰したリュッツオーだが災難は続く。ビスマルクが撃沈された事を受け、リュッツオーが代わりに通商破壊を行おうと考えた。
この通商破壊はソムレアーズ作戦と命名された。駆逐艦5隻を率いて、6月11日にキールを出撃する。艦隊の前方には偵察のU79とU559が展開した。
ところがこの動きは10日の時点で既にイギリス軍に知られていた。さっそく、ノルウェー沖で警戒中の英偵察機に発見される。翌12日真夜中、20機の英軍機が攻撃のため出撃。
日付が変わった頃に空襲を受けた。敵機は600メートル以内にまで肉薄すると魚雷を投下。リュッツオーは艦中部に魚雷を喰らい、再び大破してしまう。
後続の2機目も雷撃し、命中を主張したが煙霧で確認できなかった。新艦長となったクライッシュ大佐は英軍機を友軍機と誤認し(敵機がBf110に似ていた)、
無抵抗のまま大破させられるという大失態を犯してしまっている。左舷推進軸を損傷し、自力航行が出来なくなった上、浸水も深刻だった。ただちに防水ハッチが閉められ、復旧作業が行われた。
午前11時、第二発電機の機能が回復。駆逐艦に曳航され、ライプツィヒ等に守られながら応急修理を進めた結果、かろうじて自力航行は可能になった。
満身創痍のままノルウェーのスタヴァンゲルを目指す事になり、牛歩での回航となった。しかしこの好機を敵が黙って見逃すはずが無かった。
イギリス沿岸防備隊のビューフォート機の攻撃が2回あり、攻撃こそ失敗に終わったが先行きを暗くするには十分だった。
午後四時、技術陣の不断の努力により右舷のディーゼル機関が生き返った。そして4度目の空襲に見舞われる。英雷撃機がトドメを刺そうと接近してきたが、リュッツオー怒りの高角砲に駆逐され失敗。
さらにドイツ空軍の戦闘機まで駆けつけ、生き残った英雷撃機も叩き落された。この光景にドイツ側の士気は高まったが、度重なる空襲にクライッシュ大佐は限界だった。
ノルウェーへの回航を諦め、反転。舳先を出発地点のキールに向けて撤退し始めた。それから12時間後、イギリス軍機がリュッツオーを発見したが、既に雷撃機が届かないスコー岬沖に入られてしまった。
イギリス軍は、網にかかった大物をみすみすと逃してしまう結果となった。

6月14日午後、キールまで戻ったがまた来年の1月まで修理する事になってしまった。損傷の具合を調べてみると、83箇所の穴や亀裂が確認された。装甲デッキでは水路管が破壊され、
魚雷の隔壁は酷く穿たれていた。探照灯は電力を断たれて全て稼動せず、砲撃用の指揮伝達システムも使用できないという有様であった。
間もなく独ソ戦が始まったが、ドイツの戦艦群が関与する事は無かった。レニングラードを奪取するまではバルト海での大規模作戦は避けよ、という特別命令をヒトラーが出していたのだ。

 

9月7日夜、キール軍港を連合軍が爆撃。その際に1939年1月1日より、リュッツオーの機密ファイルや書類を収容していたボートが撃沈され、完全に失われた。
9月17日、レーダー提督とヒトラーの月例打ち合わせが東プロイセンの総統本営で行われた。ビスマルク撃沈の衝撃から立ち直っていないヒトラーは、
リュッツオーとアドミラル・シェーアへの敵襲に不安を抱いていた。このため会敵の可能性が高い大西洋への出撃を拒んだ。代わりにノルウェーへ配備する事を指示した。
この頃からヒトラーは戦艦に対して不信感を抱いており、ノルウェーへの回航はイギリス艦隊に対して圧力をかけるものだったが、最終的には解体して巨砲を陸上砲台に転用しようと考えていたのだ。
まさかの発言にレーダー提督は驚いたが、何とか平然を取り繕った。グラーフ・シュペーとビスマルクの喪失が、ヒトラーの戦艦への信頼を下げていた。
爆撃は続き、9月23日夜、30日、10月24日の3回に渡ってキール軍港が攻撃を受けた。リュッツオーは無事だっだか、工廠施設に打撃を受けた。
12月8日、地球の裏側で大日本帝國が独伊の側に立って英米蘭豪に宣戦布告。前々から中立国のくせに、過剰なまでにイギリスの肩を持ってきたアメリカを殴れる口実を得たヒトラーは早速アメリカに宣戦布告。
名実ともに世界規模の戦争へと発展した。

 

1942年 ~夢の大戦果は虹のように消えた
1942年1月上旬、リュッツオーの工事は着々と進んでいた。弾薬を積み込み、傾斜試験を行い、ラジオ設備を充電。1月17日、工事を終えて戦列に復帰。同日に艦長が交代している。
翌日にキールを出港し、グディニアへと向かったが、バルト海の分厚い氷が行動を阻害し、スクリューを損傷させてしまう。
この氷は4月に入るまで残り、4月2日にレーダー装置を積む予定が天候のせいで10日に延期されてしまった。また燃料事情も厳しく、出撃が出来ない日々が続いた。
今までドイツ軍の作戦は、ソ連のカフカス油田地帯から産出される石油が支えていた。しかし独ソ戦が開幕してからは途絶え、代わりにルーマニアのプロエシチ油田に頼った。
しかしそのプロエシチ油田の産油量が減少し、北部方面海軍司令部は「燃料の備蓄が底を尽きかけている」と窮状を訴えた。また、イタリアには主力艦の出撃を控えるよう指令を出している。
4月2日、予定では4万6000トンの石油を得るはずが、8000トンしか得られないと報告が入った。月の消費量の10分の1。ベルリンは重ねて命令を発した。
「小型艦の部隊を含め、今後全作戦を打ち切る。燃料消費の禁止に対する唯一の例外は、敵の攻勢を受けて必要となった作戦のみとする」
ドイツ艦艇は、見えない鎖に繋がれていた。

4月21日、レーダー提督が艦を視察。その後、駆逐艦、Uボート、航空機と協同で掃海と砲撃訓練を行った。5月10日、万全な状態に仕上がったリュッツオーは、戦闘準備が整っていると報告した。
ちょうどその頃、イギリスから送られる援ソ船団の撃滅が急務になってきた。東部戦線の夏季大攻勢に備え、6月から7月にかけて海空軍が協同でノルウェー沖のイギリス船団を殲滅する計画が立案された。
この計画に参加するべく5月15日にキール軍港を出港。リュッツオーの動きは、イギリス軍のレーダーによって捕捉されていた。このため幾度と無く空襲警報や潜水艦警報が出されたが、何故か一度も攻撃されなかった。
5月17日、ノルウェー西部の海岸に到達したが、この海域はイギリス軍の監視が非常に厳しく、敵の偵察飛行や潜水艦の出現が頻発していた。
ベルゲンでイギリス軍に発見されると、すぐに最寄りの錨地へ避難。護衛の魚雷艇T15を加え、夜間に再出発していった。5月19日、ようやく目的地のトロンヘイム近郊で投錨。反魚雷網に囲まれ、腰を下ろした。
1942年5月25日、ナルヴィク作戦に参加。現地でアドミラル・シェーアと駆逐艦5隻とで第2戦隊を編成。燃料不足に悩まされながら、アドミラルシェーアと訓練に励んだ。6月3日、第2戦隊の旗艦となる。
装甲艦の配備は済んだが、各司令官は心配していた。この装甲艦が限られた状況下で、敵船団と触接できるとは思えなかったからだ。
アドミラル・シェーアとリュッツオーが近接護衛部隊として敵巡洋艦や駆逐艦と干戈を交える事になったとしても、勝機は少ないと考えられた。
小型艦が相手の場合、26ノットの速力では遅く、火砲で優位に立てるとはいえ北極海の悪天候では命中率も悪い。そして副砲は役に立たない。
敵船団の名前はPQ17船団と判明。みじめな燃料事情を無視して、この船団を攻撃するべくレッセルシュプルンク作戦が計画された。(チェスの)桂馬の動きという意味である。
ドイツ軍は厳しい懐事情に悩まされていたが、船団を送り出すイギリス軍も、気が気でなかった。
季節は夏、北極海は夜でも明るい白夜の時期で、天候はドイツ軍に味方していた。北欧のフィヨルドには化け物の戦艦ティルピッツが鎮座し、魔物のリュッツオーやアドミラル・シェーア、ヒッパーも待ち構えていた。
両軍の緊張は否応なしに高まっていく。

6月27日、アイスランドからソ連へ向かうPQ17船団が出港した。この情報は即座に独スパイを通して伝えられた。膨大な援ソ船団をドイツ海軍が見逃すはずが無く、ただちに出撃命令が下った。
7月3日、リュッツオーはPQ17船団の攻撃に向かったが、酷い濃霧に悩まされた挙句、潮の流れが速いストルボーエン灯台沖の海峡で座礁し中破。泣く泣く引き返す羽目になってしまった。
損傷は70~80メートルに及んだ。このため敵船団への攻撃は空軍機とUボートに譲っている。PQ17船団は蹂躙され、商船の2/3が撃沈。およそ10万トンの物資が水没し、スターリンを激怒させた。
この作戦では水上艦がまるで活躍できなかった。空軍に獲物を取られた形となったレーダー提督は、ヒトラーにリュッツオーら戦闘部隊をノルウェーに配備するよう進言した。
ヒトラーは前々からノルウェーの確保は必須と叫んでおり、この意見に同調する事で空軍との口論の際にヒトラーの支持を得ようと考えていたのだ。

バルト海の玄関口に位置するゴーデンハーフェンに帰投し、修理を受ける。8月9日、魚雷艇4隻と護衛艦1隻を伴ってトロンヘイム近郊を出港し、シュヴィーネミュンデへと向かう。
12日、多数の敵機が出現したと警報を受けたが、速力を上げてシュヴィーネミュンデに滑り込む。入港後、修理を受けた。停泊中の9月23日、埠頭で火災が発生したがリュッツオーは無事だった。
11月3日、修理が完了。ドックから出ようとした時、後部砲塔が左側のクレーンに接触する事故があったが、損害は軽微だった。9日に駆逐艦2隻を伴ってバルト海へ進出し訓練を実施した。
11月19日、ベルグホーフで定例会議が行われた。連合軍のノルウェー侵攻を恐れるヒトラーは、増援としてリュッツオーのノルウェー進出を承認。
12月8日、プロメテウス作戦に参加し、グディニアを出港。Z31ら駆逐艦5隻とともにノルウェーへ向かった。
艦隊はイギリス軍の追跡を受け、何度も空襲を受ける羽目になった。イギリス軍の執拗な攻撃を振り切りつつ、ボーゲン湾を経由。16日夜にアルタフィヨルドへと到着し、投錨した。
リュッツオーの到着で戦力が増強されたかに見えたが、ワンダーランド作戦で損傷したアドミラル・シェーアがノルウェーを入れ違いで去っており、プラスマイナスゼロだった。

そして2、3週間で北極海に出られるよう整備が始められた。リュッツオーはディーゼルエンジンだけで動くので、重油が必要ない。厳しい燃料事情に苦しむドイツ海軍には打ってつけの艦だったのだ。
アルタフィヨルドには軽巡ニュルンベルクやケルンといった艦が停泊しており、ドイツ海軍の隠れ家的拠点だった。

 

12月30日、レーゲンボーゲ作戦に参加。イギリスから出発した援ソ船団J5W1Bを攻撃するため、アドミラル・ヒッパーや駆逐艦6隻とともに出撃。
翌31日夜、ノルウェーの沖合いを進撃するリュッツオー。身を切るような寒さに加え、時々霰が吹き荒れて視界はゼロに等しかった。本国からの情報で、英国艦隊に動きが無い事が判明した。
こんな荒天ではノルウェーから出てこないだろうと踏んだのだろう。おかげでリュッツオーらは妨害される事なく航行できた。Uボートからの情報に耳を傾けつつ、作戦海域へと向かう。

アドミラルヒッパー隊と分離し、駆逐艦3隻を率いて敵船団に接近。敵船団の西側にヒッパー隊、東側にリュッツオー隊が付いた。これに気付いた英駆逐隊が7400メートルの距離から砲撃を開始し、バレンツ海海戦が生起。
敵の護衛艦が展開した煙幕と猛吹雪のせいで視界が極端に悪く、敵味方の区別が付かない状態だった。午前10時40分、まず敵船団の南側から襲撃をかけ、照準を輸送船に向ける。
ところが英駆逐隊の決死の抵抗を受け、イギリスの駆逐艦オブデュリトを大破させる戦果を挙げるも一時退却を余儀なくされる。
午前11時45分、再び敵船団に接近。ヒッパー隊も北から接近し、挟撃の体勢を整えた。船団撃滅まで後一歩……のところでドイツ地上司令部から「冒険するな」と戦闘中止命令を受けた。これによりドイツ艦隊は反転し、退却。
かくして海戦は終結したが、実はこの命令は誤りだった。ヒトラーの大局的な方針を海軍作戦本部が発しただけで、戦闘中止を意味するものではなかったが、地上司令部が間違って伝えてしまったのだ。
この海戦で脆弱なイギリス船団を取り逃がし、優勢だったにも関わらず僅かな戦果しか挙げられなかった。
護衛の駆逐艦アカテスと掃海艇ブラムベルを撃沈したが、肝心な商船は1隻たりとも沈められなかったのだ。
バレンツ海海戦の結果を夜も寝ずに待っていたヒトラーは、この失態を聞いて激怒。
最悪の年明けを過ごす羽目になった総統閣下は相当カッカし、大型艦の解体を命じたが、何とか取り成して実行はされなかった。だがこれを機に潜水艦の修理・建造に注力される事となる。

ヒトラーはいつも数字を好んでいた。弾薬、兵器、大砲、戦車などを積載している輸送船を沈めれば、一瞬で全てが無になる。
一方でこれと同等の物量をソ連大陸内で破壊するには、一体何回の陸上戦闘を交えないといけないのか。毎回ヒトラーは力説していた。
この故に、J5W1B船団の撃滅は完遂されなければならなかった。そんな中、バレンツ海海戦を遠巻きに観戦していたUボートから報告が入った。「砲声大となる。船舶多数炎上、赤き炎が天を焦がす」。
作戦の成功を確信させる報告に、ヒトラーは歓喜。大成功疑いなしとして、新年の祝いも兼ねて本部にはヒムラーを始めとする高官が集まってきた。
ヒトラーは上機嫌で、会う人全てに「ソ連に戦略物資を運んでいる大船団が撃滅された」「元旦に特別放送を以ってドイツ国民及び世界に知らしめるのだ」と言った。
だが、時間が経つにつれてヒトラーは焦り始めた。なぜ艦隊から報告が来ないのか、と。海軍代表のクランケ中将は「帰投の途上にあるから無線封鎖がされており、入港すれば報告を受けられるでしょう」と答えた。
時計の針が進み、帰投予定時刻になっても報告は来なかった。この時、既にリュッツオーらはノルウェーのフィヨルドへ帰投していたが、記録的な大吹雪によりベルリンとの交信が途絶していたのだ。
焦らされたヒトラーは興奮し、その晩は一睡も出来なかった。苛立つヒトラーは情報を要求し、ベルリンからは1時間ごとに海軍総司令部に報告を求めた。
海軍総司令部は黙り込むしかなかった。報告する内容が全く届いてないのである。初日の出が昇る頃、英国からの特別放送を聞く羽目になった。
「優勢なる敵艦隊に対して大勝利」「シャーブルック大佐指揮下の勇猛なる駆逐艦が敵を撃退」「船団は一隻も欠ける事無くムルマンスクへ入港」「ドイツ駆逐艦一隻撃沈、巡洋艦1隻大破」・・・。
ヒトラーが思い描いた大勝利の光景とは正反対の内容が、つらつらと流されたのだ。その朝の会議でついにヒトラーは怒りをぶちまけた。
さっさと報告をしろと声を荒げるが、ノルウェー方面の天候は依然悪く、通信不能の状態が続いた。何度か信号が発信されたが、むなしい努力に終わった。
お昼ごろになって、ようやくアドミラル・ヒッパーから途切れ途切れの報告が届いた。作戦を中止せざるを得なかった――。英国の放送は正しかった。
17時、ヒトラーはあたかも発狂したような様子だった。40時間眠っていない彼は、休憩を取る時間なのにクランケ提督を呼び出した。
「今後、軍艦を使う作戦は拒否する」。第一声はそれだった。「私は決心した。私の意志は変わらない。大型艦は金と資材と兵員の浪費である。そんな無用な長物は除籍させ、スクラップにして粉砕しろ!」
つまるところ水上艦の死刑宣告であった。その後、レーダー提督を呼び出すようクランケ提督に告げたが、レーダーは激務で病床に付していたので、1月6日にずれこんだ。

レーダーはヒトラーと対面した。海軍をぼろくそに非難するヒトラーに対し、レーダーは口を挟めなかった。だが、レーダーの願いで、傍聴の高官たちが退室すると反撃を開始した。
「ドイツ軍艦をスクラップにすれば、敵方は何ら努力する事なく勝利を得てしまうでしょう。また同盟国日本に大きな失望を与え、戦局が最終段階に近づきつつある現在において
海軍戦力の重要性について全く理解を欠いているものと言うべきである」「停泊を余儀なくされている軍艦が存在するだけでも英艦隊の自由を束縛する」と指摘。
そして「ドイツが我が艦隊を破壊すれば、英国は戦争に勝利したも同然」と言い放ち、ヒトラーは命令の撤回を強いられたのだった。
この責任を取る形でレーダーは辞任、後任にはデーニッツ提督が就いた。デーニッツ提督は怒るヒトラーをなだめ、練習艦隊を創設する事で大型艦の処刑を回避させた。

 

解体命令を撤回したヒトラーの命により、バルト海にて主に練習艦として運用されるようになった。主にUボートの標的艦で、乗員には退屈極まりないものだった。
リュッツオーが現役でいられるのは1943年8月1日までとされた。
実はこの時、リュッツオーとアドミラル・シェーアを空母に改装する計画があった。工事の期間は推定2年とされ、2000トンの鋼材と400名の人員を投入する予定だったが、実行されなかった。

海戦後、リュッツオーのディーゼルエンジンが故障。完全なオーバーホールが必要とされたため、ノルウェーのナルヴィクへ入港。現地で苦い年明けを迎えた。

 

1943年 ~雌伏の時、交戦の機会無し
1943年1月1日、レーゲンボーゲ作戦から帰投。猛吹雪に閉ざされたナルヴィクへ入港した。その後、不規則にカーフィヨルドとボーゲンを行き来し、連合軍の偵察機を混乱させた。
2月15日、ベルリンのホテル「アドロン」のロビーに座っていたティーレ提督は、レーダー提督の後任者デーニッツ海軍総司令官と謁見した。
そしてリュッツオー、ニュルンベルグ、シャルンホルストの今後について会議を行った。イギリス軍を威圧するために大型艦を留め置きたいという両者の意見は一致。
その後、第1戦闘部隊を指揮するためティーレ提督はノルウェー北部に移動したが、リュッツオーに乗艦して僅か2日で異動させられた。

3月14日、ティルピッツやシャルンホルストとともにナルヴィクを出港し、23日にアルテンフィヨルドへ到着した。その頃、イギリス軍は航空偵察によりドイツの有力艦隊が北方に集結している事を知る。
ティルピッツを皮切りにリュッツオー、シャルンホルストが鎮座し凄まじい威圧感を放っていた。怖気付いたイギリス軍は夏の間、ソ連行きの船団を全て取り止めた。
4月から7月にかけて、アルテンフィヨルドで試験航海を実施。その間の6月23日、北部方面艦隊司令部のオットー・シュニーヴィントとクメッツ提督がリュッツオーを訪ねた。
そしてティルピッツとともに共同訓練を行う。
7月5日、リュッツオーを含む全艦艇が訓練に従事。7月14日、ドイツ本国より帰投の命令を受け、補給艦ノルトマルクとともに出港。
キールで故障したディーゼルエンジンを修理し、万全な状態となったリュッツオーは再びアルテンフィヨルドに戻った。
前年、アドミラルシェーアが行ったワンダーランド作戦(北極海での通商破壊)を再現するべく、カラ海での作戦行動が予定されていたが、7月20日にディーゼルエンジンの問題で無期限延期となった。
9月6日、スピッツベルゲン島を砲撃するティルピッツとシャルンホルストを支援するべく、後方撹乱を実施。連合軍の航空偵察に混乱を与えた。
このシチリア作戦は久々の勝利となったが、より大きな凶報が余韻をかき消した。二日後に同盟国イタリアが降伏したのだ。北イタリアはドイツとともに抗戦する道を選んだが、
枢軸国の一角が崩れたのはあまりに大きな衝撃だった。

 

ソ連から再三船団の派遣を要求されたイギリス軍は、北方航路を蝕む脅威を排除しようと試みた。9月21日、イギリス軍のソース作戦により特殊潜水艇ことX艇数隻が港内に侵入。
停泊中のティルピッツが爆薬を仕掛けられ、中破。リュッツオーもX8号の標的にされていたが、トラブルにより攻撃を断念し難を逃れた。
中破したティルピッツを修理するには、キールかヴィルヘルムスハーフェンに帰投する必要があったが、1941年に道中の海域でリュッツオーが空襲を受けた事が想起され、現地での応急修理と相成った。

  • X8号について
    英潜水艦シーニンフに曳航され、作戦海域に向かっていたX8号。その途上で曳航索が切れ、母艦とはぐれてしまう。36時間後、どうにか合流に成功するが災難は続く。
    突如として右に深く傾斜し、右舷に積んでいた機雷が水浸しになってしまう。やむなくこの機雷を海中へ投棄する事になり、安全な状態にセットして投棄された。
    が、投下してすぐ、船尾付近で爆発。この損傷で左舷に積んでいた機雷まで水浸しになってしまう。今度は爆発する時間を二時間後にセットして投棄。
    このトラブルで機雷を全て失った上、損傷して潜水すら出来なくなったX8号はリュッツオー攻撃を断念。乗員をシーニンフに移したのち、放棄されてしまった。
    リュッツオーは攻撃圏外に停泊していたため、どのみち攻撃失敗となる運命だった。戦争の女神はここでもリュッツオーを守った。

翌日、リュッツオーは退避も兼ねてゴーデンハーフェンへ回航。リュッツオーが離れた事により、極北方面の英独の戦力バランスが大きく変動した。以降、本国には戻らず、バルト海に活動の場を移した。
9月27日、バルト海を目指し、駆逐艦を率いて航行しているとイギリス軍の偵察機に発見される。これを受けて翌日、ノルウェー南部のクリスティアンサンで駆逐艦2隻を分離、1隻を新たに加えた。
続く29日に駆逐艦3隻をキールへ避難させ、リュッツオーは単身バルト海に向かった。
10月1日、リュッツオーはグディニアの造船所に電話をかけ、グディニアがアメリカ軍の長距離爆撃機の射程に入ったと警告した。その後、グディニア造船所に入渠する。
10月9日、アメリカ軍がグディニアを攻撃し、病院船シュツットガルトが沈没。リュッツオーは退却に成功し、逃れられた。そして翌年2月27日までオーバーホールを受ける。

 

1944年 ~役立たずの汚名を雪ぐ
1944年1月、ヒトラーの総統指令によりバルト海での練習任務に就く事になった。2月からバルト海で士官学校の練習艦となる。同月27日、オーバーオール完了。
訓練を開始し、3月5日にリエパーヤの錨地へ停泊した。3月11日、1156名の乗員が配置につき、戦闘準備を完了する。
同月15日、プリンツオイゲン、アドミラル・シェーア、Uボート、魚雷艇等とともに大規模な訓練を行う。標的艦ヘッセンを相手に演習した。
時には士官候補生を乗せて、ソルバメ半島のソ連軍を砲撃する事もあった。6月にはスウェーデンから鉄鉱石を運ぶ輸送船団護衛に従事。
同月16日、リュッツオーが停泊中のグディニア沿岸に艦砲射撃が加えられた。
丁度その頃、連合軍はノルマンディー上陸作戦を敢行。銃後とされたフランス方面に新たな戦線が構築され、戦局が一段と悪化していく。

連合軍のノルマンディー上陸成功を受けて、ソ連軍はフィンランド領内へ侵攻。前々からソ連と単独講和しようとしたり、継戦能力無しを理由に降伏しようとしていたフィンランドは、此度の侵攻で枢軸国から脱落する可能性があった。
6月24日午前7時、ゴーテンハーフェンを出港。プリンツ・オイゲンや魚雷艇3隻とともにフィンランド南西の海岸を航行して戦闘訓練を実施した。27日にはフィンランド湾で訓練が行われている。
脱落を許さないドイツが、フィンランドを威圧したのだ。この訓練が功を奏し、フィンランドのリュティ大統領はドイツとともに徹底抗戦すると宣言。満足のいく回答を得られたドイツは援軍や武器を供与、フィンランドの脱落は先延ばしにされた。

リュッツオーに安息の時は無かった。今度は東部戦線の戦況が極端に悪化。津波のようにソ連軍が押し寄せ、東プロイセンが孤立。現地のドイツ陸軍とともに200万人の市民が取り残され、危機的状況に陥った。
焦燥したヒトラーは「陸軍とともに戦う、1万名の水兵を海軍から送れ」という緊急の要請を出した。だが、この要請は7月に撤回された。
代わりにバルト海を守るため、練習艦として過ごしていたリュッツオーたち大型艦の戦闘任務復帰を許可したのだった。苦節18ヶ月、ようやく彼女たちは戦場に舞い戻る事が出来た。

苦しむ同胞を助けようと、海軍のデーニッツ提督はハンニバル作戦を開始。生き残った水上艦をかき集め、市民を脱出させようとした。無論リュッツオーもこの作戦に参加。
既に多くの艦艇が散っていった中、数少ない生き残りであるリュッツオーは祖国の民を守る盾として、最高の輝きを放とうとしていた。
7月1日、アドミラルシェーア、プリンツオイゲン、アドミラルヒッパーとともに第2戦隊を編成。難民の救出は民間の船舶に任せ、戦隊は撤退する陸軍の支援に従事。
戦隊司令に元リュッツオー艦長のティーレ中将が就任。かつての乗艦と再会を果たしたのだった。
7月8日、グディニアを拠点にバルト海を巡回。そして最後の大規模訓練に参加。他にはプリンツオイゲン、ケルン、ニュルンベルク、ライプツィヒ、エムデンが参加していた。
バルト海の制海権はドイツ海軍側にあったとはいえ、バルト三国方面では空襲に遭う危険性が高まっていた。敵航空機の脅威があったため8月9日にゴーテンハーフェンで対空兵装を強化。
37mm連装機銃2基、40mm単装機銃6基、20mm機銃26基を新たに搭載し、戦備を整えた。そして赤き敵手との戦いが始まった。
8月20日午前7時、リガ湾で最初の砲撃支援が行われた。まずクアランドのドイツ前線とリガ守備隊の連絡を遮断したソ連軍に向けて、正確無比かつ猛烈な艦砲射撃を浴びせた。
この正確さは、目標地域上空を飛ぶ航空機や陸軍の戦車隊、観測隊との連携の賜物であった。これは、プリンツオイゲン砲術長パウル・シュマーレンバッハ少佐が編み出した戦術だった。
目標物を粉砕するたびに前線の陸軍から歓喜の報告が寄せられ、凄まじい戦果を叩き出した。艦砲による攻撃でソ連軍は浮き足立ち、驚くばかりで対応できなかった。
艦砲射撃でトゥクムス市内は猛爆され、48両ものT-34を破壊した。敵空軍機の襲撃を予想して艦隊は退却したが、敵機も敵艦も全く出現せず、リュッツオーは悠々と任務を完遂。
リュッツオーやプリンツ・オイゲン等の活躍によりトゥクムス市内のソ連軍防衛部隊は瀕死となった。その日の午後、臨時の戦車師団シュトラハヴィッツが市内に突入し、占領に成功。更に東へ進撃する。
そして孤立していたリガ守備隊も突撃を開始し、両部隊はケメルン市南方で合流。分断された北方軍集団と中央軍集団が再び接続し、強固な戦線を作り上げた。
これによりバルト海沿いに退却する北方軍集団の支援は無事に成功。午後遅くに陸軍より「適切なる支援を感謝する」と通信を受けた。
陸軍もまた国民の脱出路を確保するため攻勢に出た。その様相は最早戦争ではなく、生きるための逃避行であった。

9月19日、枢軸国から脱し、ソ連との講和条件である国内のドイツ軍の追い出しを実行したフィンランド。直前まで味方同士の関係だっただけに、
フィンランド軍とドイツ軍は戦闘するふりをして、なるべく穏便に追い出そう(追い出されよう)としていた。いわゆる、まやかし戦争である。
が、事実を知っているのは現地のドイツ軍だけで、他方面のドイツ軍にはフィンランドの裏切り行為と捉えられた。このため第2戦隊はフィンランド湾に展開しホグラント島を砲撃。
またフィンランドのケミから脱出する味方船団の護衛を行っている。9月22日、フィンランド軍を攻撃するため、リュッツオーは25日まで砲撃支援を行った。
9月27日、グディニア造船所に入渠し、4cm砲を更に追加。リュッツオーにはプリンツ・オイゲンと駆逐艦3隻と魚雷艇4隻が追随。
10月9日、メーメル近郊でソ連軍がドイツ第3装甲軍を破り、北方軍集団と中央軍集団が分断される。ヒトラーは軍の撤退を許さず、北方軍集団は橋頭堡クールラントで包囲された。
彼らを救うべく10月10日から15日にかけてメーメルとソルバメ半島に展開するソ連軍を砲撃。この5日間で28cm三連装主砲は勿論のこと、15cm副砲292発、10.5cm砲282発を発射。
撤退する陸上部隊の指揮も執っている。海軍の艦船が複数投入され、救助した兵員をグディニアへ運んだ。
リュッツオーらの活躍は潰走する守備隊、住民、避難民をソビエト兵から守り、西方へと脱出させた。
11月18日、ソルバメ半島*5でソ連軍が攻勢に出た。12時間の猛砲撃を加えてから進軍を開始、半島のドイツ軍を締め上げてきた。
既に増援を送る力を失っていたドイツ軍は撤退を決意。兵隊と装備だけでも救出するため艦砲射撃を要請された。これを受けてティーレ提督はリュッツオーとプリンツオイゲンを派遣。
撤退はダンケルク式で行われ、兵員を乗せる小型船舶をリュッツオーやアドミラルシェーアが援護した。艦砲や高角砲まで用いてソ連軍の足止めを開始。
11月23日のソーヴ半島撤退戦でリュッツオーは大活躍。砲塔から一斉射撃が行われ、驚くべき精密さで目標に命中した。36時間に渡って正確な砲撃を行い、砲弾が無くなるまでソ連軍を痛めつけた。
この時の砲撃は8月のトゥクムス砲撃の比ではなく、非常に激しいものだった。容赦のない一撃が、ソ連兵や兵器、車両等を吹き飛ばしていったのである。
人的被害や損失が増大していくのを目の当たりにしたソ連軍はようやく艦砲射撃の脅威を認識。厄介なドイツ艦艇を撃破するため様々な対策を講じるようになる。
弾切れになったリュッツオーはアドミラルシェーアやアドミラルヒッパーと交代し補給に戻ったが、その後シェーアがソ連軍機に襲撃されている。
リュッツオーの奮闘で地上部隊は無事に退却する事が出来、乗員の士気を盛り上げた。陸軍の司令官は海の同胞に感謝の意を表す簡単な電文を送った。それを見てティーレ提督は、自信に満ちた微笑みを浮かべたという。
海軍の役立たずとして長い間、練習艦という雌伏の時を過ごしてきた水上艦。それがようやく活躍する事が出来ただけに微笑みも当然であった。
ソ連海軍の砲艦や小艦艇が艦砲射撃の妨害に現れたが、護衛の第九救難隊の掃海艇や砲艦に撃退され無意味に終わった。
撤退作戦は成功した。11月25日、ソビエト兵がソルバメ半島の南端に到達したが、既にもぬけの殻だった。この一件でグデーリアン上級大将は、デーニッツ元帥に感謝の電報を送った。

「ソルベマの戦闘を終えるにあたり、海軍が我々に払ってくれた勇猛かつ自己犠牲的支援に関し、海軍の全員に対して、私自身及び東部戦線の全陸軍将兵よりの感謝の言葉を述べたい。
圧倒的に優勢な敵に対する今度の陸海協同作戦は、今後さらに海軍と陸軍の間の同志的絆を固く結び付けるものと確信する―――。」
陸軍大将グデーリアン

作戦後、グディニアの港で停泊していると、撤退してきた陸軍の兵隊から感謝の言葉が贈られた。
心配しないで、突撃も撤退もちゃんと守ってあげますからね。

12月18日から数日間、グディニアに爆撃が行われ、824トンの爆弾が降り注いだ。リュッツオーは被害を免れた。そしてグディニアを脱出し、月末にピラウへ撤退した。

 

1945年 ~数十万の命を背負って
1945年1月より始まったソ連軍のメーメル侵攻の際は、苛烈を極める艦砲射撃で第1バルト正面軍戦車部隊を粉砕、数週間に渡ってメーメルを死守した。
かつてメーメルがドイツに割譲された時、リュッツオー、もといドイッチュラントはヒトラーを乗せてこの地を訪問した。そして今、メーメルがソ連軍に奪取されようとしている時、
この地を守るべく懸命に砲撃を繰り返すリュッツオー。運命とは何と皮肉な事であろうか、過去の栄光が粉砕される様子を眼前で見せ付けられるリュッツオーだった。
第二戦隊決死の砲撃にも関わらず、ソ連軍の進撃は留まるところを知らなかった。1月20日には東プロイセンの防衛線を50マイルに渡って突破された。
デーニッツ提督はヒトラーに対し、避難民の脱出に全力を挙げると同時に陸軍の支援も引き続き優先されるべきだと力説した。

そんな中、アドミラルシェーアと合流し、小さな港町ピラウへ寄港した。ピラウは西方への脱出口として利用され、東から逃げてきた難民や軍人が集結していた。
この港町にはケーニヒスベルク運河が流れており、東プロイセン首都ケーニヒスベルクと直結していた。故に首都からの脱出者も多かった。
しかし小さい港に過ぎないピラウに大量の難民を収容できるはずが無く、事態が悪化していた。海軍の艦艇のみならず民間の船舶をも使って避難活動を行っていたが、ピラウにもソ連軍の魔手が迫った。
このため船は桟橋から離れて停泊するしかなく効率を悪くしていた。ソ連軍の勢いは激しく、フリッセス・ハフまで進出。ケーニヒスベルグへの連絡路も断たれた。現地では毎日2000人が殺される地獄であった。
そこでリュッツオーとアドミラルシェーアは自慢の艦砲で支援。一斉射がピラウの頭上を飛び越してバルチースクのソ連軍を吹き飛ばした。
ソ連軍が怯んだ隙にドイツ陸軍が東部プロシア首都への連絡を一時的に回復させ、数千の難民が脱出に成功した。この血路はピラウへ安全に行ける最後の道となった。
リュッツオーや陸軍が切り開いた最後の道は4月2日まで維持されたが、ソ連軍の重爆撃で失われた。都市部に取り残されていた市民数千人は殺害されている。
避難民の列は凍結した海岸湖を渡り、氷を割りながら横切っていった。長蛇の列を作る難民にソビエトの砲撃が襲いかかるが、乗員たちはただ見守る事しか出来なかった。
それでも難民はひたすら西へ逃げた。ソビエト兵に捕まれば、男性は射殺もしくはシベリア送り、女性は強姦という悲惨な運命が待ち受けていたからだ。
強制収容所から解放されたロシアの女性でさえ10人近くの兵士に強姦された。この世の生き地獄が、リュッツオーの眼前に広がっていたのである。

奮戦むなしく、同月28日にメーメルが陥落すると、次にダンツィヒの防衛を命じられる。この防衛戦では、かつて仮装巡洋艦アトランティスの艦長で、莫大な戦果を挙げた
ベルンハルト・ロッゲ中将が加わった。東部プロシアを出撃したリュッツオーはここでも火力を存分に発揮。ソ連軍の猛進撃を食い止めた。
2月8日、エルビング陣地で戦う味方を支援。魚雷艇T33とT8も加わり、ソ連軍の先陣にかなりの出血を強いた。
しかしエルビング陣地は陥落。対戦車砲が鹵獲され、モーゼル98Kが山積みにされた。ソビエトが陣地を占領すると、今度はその陣地へ砲弾の雨を降らせた。ビスラ・ラグーンのソ連軍にも砲撃を浴びせている。
エルビングでの戦闘は激化の一途を辿り、市街の65%が破壊された。独ソの壮絶な戦いは市民や建造物を巻き込みながら、西へ西へと移動していく。
2月19日未明、ピラウへ寄港し再度砲撃。アドミラルシェーアとの連携で強力な火力支援を行い、難民の避難を助けた。翌20日午前5時より更なる砲撃を実施し、
危うくなっていたピラウ=ケーニヒスベルク間の脱出路を再確立させた。3月3日、第2戦隊はシフィノウィシチェ沖に投入。
7日、アドミラルシェーアやZ31、魚雷艇T36がジブヌフを砲撃。リュッツオーはその南を砲撃した。同日、補給のため一旦シュヴィーネミュンデに戻ったが、
補給が完了すると素早く最前線に舞い戻り、グディニアとヘラ半島の防衛に尽力した。22日、グタニスクへ入港し砲撃支援を行った。
翌23日にはグディニア、カムペー、ヘラ半島の防衛に奔走。加えてゴーテンハーフェンの防衛戦にも参加した。息つく暇も無い多忙の日々が続く。
ゴーテンハーフェンを包囲するソ連軍を砲撃し、陸軍に立て直す時間を与えた。この街には無数の避難者、軍人、負傷者、婦人、子供などが残っていた。
彼らを救出するためノルウェーからも船が手配され、水路には見渡す限り商船が投錨し、列を成していた。ソ連軍の爆撃機IL2が日に数回飛来し、爆弾を落としていったが幸運にも命中しなかった。
外れた爆弾が海中で炸裂し、死んだ魚を数キロに渡って海面に残していった事が彼らの唯一の戦果だった。しかし多勢に無勢、3月30日にダンツィヒ市は陥落。
4月7日頃にはゴーテンハーフェンも陥落し、集合地点に使えるのは最早ヘラ半島しか残っていなかった。出撃拠点だった東部プロシアにもソ連軍が押し寄せ、戦火に包まれたため退避。
次に与えられた任務は、ヘラ半島で孤立した陸軍の撤退支援だった。ソ連軍の攻撃を撃退しつつ、クメッツ提督が集めた兵員脱出用の小型艦艇群を護衛した。

この時点でドイツの戦艦は殆ど全滅しており、リュッツオーは孤立した将兵の最後の希望だった。
4月9日、二番艦のアドミラルシェーアが爆撃により転覆し姉妹艦が全滅。リュッツオーは遂にドイツ戦艦の最後の一隻になってしまう。
またソ連海軍の妨害も激しく、潜水艦S-13の雷撃で1万人以上の避難民が乗ったグストロフ号や客船シュトイベンが沈没するなど出血も多かった。
だが、これまでのリュッツオーの活躍により27万6335人の国民が東プロイセンを脱出する事が出来た。かつてドイツの名を冠した艦は、まさしく国民を守る盾だったのだ。

しかし、献身的な支援を続けてきたリュッツオーにも限界が迫っていた。砲身が焼きただれ、燃料は底を尽き、弾薬も無くなった。
それでも的確に損害を与えてくるリュッツオーの存在は、ソ連軍最高司令部を悩ませた。シュチェチンとシチェを占領するにはリュッツオーの抹殺が不可欠だった。
そこでソ連はイギリスに助力を求めた。要請を受けたイギリスは、トールボーイ*6を携えたコマンド部隊を用意した。

 

1945年4月10日、燃料及び弾薬の補給のため、シュヴィーネミュンデに入港。敵機の雷撃から身を守るため、水深の浅いカイザーファールト運河に停泊した。
4月13日、イギリス空軍のアブロランカスター爆撃機34機が襲来。リュッツオーとプリンツオイゲンが標的にされたが、雲に妨害されて一発も命中しなかった。15日にも空襲が行われたが、前回同様に失敗。
ところが4月16日、シュヴィーネミュンデ南方で再びアブロランカスター爆撃機15機(英第617爆撃機中隊)が襲来。ダムバスターと呼ばれ、インフラや軍施設を破壊した他、ティルピッツをも沈没させた精鋭部隊だった。
そんな彼らがベルリンを攻撃すると見せかけて、リュッツオーを狙ってきたのだ。この影響でティーレ提督の視察は中止となった。

17時過ぎ、乗員たちは夕食を取っていた。ゴーテンハーフェン沖では一睡も出来なかっただけに、やっとの休息をのんびり過ごしていた。
拡声器から流れていたニュースが終わったところで突如空襲警報が発令される。〈四発爆撃機約18機がメクレンブルグを通過中。〉せっかくの休憩を邪魔されて不機嫌なのか、乗員は動かなかった。
「やれやれ、頭の上に来るまでは放っておけ」。誰かがそう言った。乗組員たちは座ったまま、お互いの顔を見るだけだった。
1分後、「全対空砲配置に付け」の命令が下り、要員は持ち場へ走った。周囲の駆逐艦が対空戦闘を始め、艦内には警報ベルが鳴り響いた。兵員室の残った乗員は慌てて舷窓の防御盲ふたを閉めたが、いくつか閉め忘れた。
17時15分、飛来したランカスターとリベレーターとムスタングはリュッツオー及びシレジアに照準を定め、5000mからの高高度空襲を敢行。
ランカスターがリュッツオーを亡き者にせんと、一気呵成に襲い掛かった。これに対し古強者のリュッツオーは強力な高角砲で反撃。
攻撃に参加した全ての機が被弾したかと思えるほど、熾烈な対空砲火を浴びせかけた。15機中、1機のランカスターが撃墜され、第二次世界大戦における英爆撃機最後の喪失となった。
だが、敵も精鋭。ランカスター数機を撃退したが、分厚い弾幕をかいくぐり、5トン爆弾のトールボーイを投弾。1発が至近弾となり、竜骨を損傷。この攻撃で20名の死者が出た。
艦全体が大振動を起こし、それが二回、三回と続いた。兵員室は大混乱に陥り、上甲板に続くハシゴは吹き飛んだ。
衝撃でパニックになった一部の乗員は海へ飛び込み、岸を目指して泳ぎ始めた。陸に上がると、付近の林の中まで駆けていった。
艦が左舷へ傾いていく。艦内が叫び声で満たされる中、「甲板へ上がれ、沈没だ!」の声が響く。足を引きずる士官候補生や乗員が安全な甲板を目指すが、赤褐色の煙が視界をふさぐ。
リュッツオーは更に傾斜し、艦首を水面から突き出しつつ艦尾が水没。艦底に大穴が開いて大破着底する。後甲板は水面下数十センチまで沈んだ。
続いて爆弾が艦と陸岸の間にある沼地に着弾し、噴水となってリュッツオーに降りかかった。艦内には足首の部分まで泥水が浸入。
悪いことにこの泥水は異様に粘着質で、足を滑らせて泥水に沈むと二度と起き上がれなかった。このため乗員の中には手すりを掴んで移動する者もいた。
その時、対空要員及びダメージコントロール要員以外の総員退艦命令が下った。そして敵爆撃機の第二陣が迫る。18機のランカスターが現れ、再び艦艇へ爆撃を行った。15分後、敵機は去った。

無電空中線と指揮所がマスト頂部もろとも吹き飛ばされ、また前部砲塔と後部砲塔にはトールボーイが突き刺さっていたが、幸運にも不発であった。
もし後部の不発弾が起爆していれば、弾薬庫に貯蔵されている500発の砲弾が誘爆し、リュッツオーは即死していただろう。
全体で見れば、損傷は驚くほど小さかった。リュッツオーを守ってきた戦争の女神が成せる神業であろうか。
リュッツオー大破の報はベルリンにも届き、ベルリンの在独日本大使館員の新関氏は「袖珍戦艦リュッツォウ号撃沈さる」と日本に伝えた。

 

翌17日、Ar196が飛来しリュッツオー付近に着水した。乗っていたのは戦隊司令のティーレ提督であった。艦体の損傷具合を視察した後、提督は尋ねた。
いずれ起こるであろうソ連軍のシュヴィーネミュンデ侵攻の際に、リュッツオーが使用できるか否か。シュヴィーネミュンデは今や数十万人の負傷者や難民を収容する拠点だった。
その防衛にどうしてもリュッツオーを使いたかったのだ。だが18日から19日にかけて、514名の乗員がリュッツオーから退艦。人手が少なくなりつつあった。
主甲板が水上に出た状態だったため、4月22日に着任した新艦長ランゲ中佐の応急修理で船体を修復。船体側面からの水漏れを止めるため、多くの材木でくさびを作り、破口を塞いだ。
救難船も動員され、四方八方の手を尽くした。その結果。左舷に傾いていたリュッツオーを元の姿勢に戻したが、浮揚には至らなかった。機関室が水没したので機関要員は任を解かれた。
同日、修理した前部主砲の試験砲撃が行われた。前部主砲は使えそうだったが、後部主砲は最早使い物にならなかった。
27日には一台の発電機が再稼動し、前部主砲と半分の副砲が使用可能となって陸上支援に充てられた。またサルベージ船の活躍で損傷した竜骨も修理され、不発だった2発の爆弾も取り除かれた。
着底したリュッツオーは文字通り不沈艦として最後の戦いに挑む事になる。

 

4月28日午前4時、パーゼヴァルクの防衛線を突破し、ソ連軍の大部隊がシュヴィーネミュンデに突入してきた。夜も明けやらぬ早朝に警報が鳴り響き、乗員を短い眠りから叩き起こした。
ソ連軍の部隊が海岸に押し寄せてきた。リュッツオーは288mm砲3門と150mm砲4門を使って反撃し、敵の重戦車を次々に破壊。街の防衛に死力を尽くし、制圧を許さなかった。
難民や負傷者数十万人の命を背負い、遂にリュッツオー最後の戦いが幕を開けた。
シュヴィーネミュンデは国境の街で、祖国ドイツへと通じる国境があった。ポーランド北西方面最後の防壁として、ソ連軍に喰らいつく。
リュッツオー魂の砲撃は、後方に展開するシュチェチンの重戦車をも破壊。その凄まじさ故に、ソ連軍はV1飛行爆弾による攻撃と勘違いしたほどだった。
コマンド部隊による攻撃で無力化したはずのリュッツオーの巨砲は、ソ連軍に向けられていた。

4月30日、ヒトラーが地下壕で自殺した時でさえリュッツオーは勇敢に戦い続けていた。273名の乗員は小型貨物船「イルムトラウトコーツ」に乗り込み、西への脱出を図った。
リュッツオーからは対空砲が取り除かれ、今や航空機に対し無力だった。リュッツオーに留まった乗員も殆どが上陸し、臨時編成の歩兵部隊に編入されていた。艦内に残ったのは砲手だけだったという。
5月1日夜、唯一稼動していた発電機で火災が発生し、火を噴いていた砲が全て沈黙してしまう。150mm砲の弾丸に着火する恐れがあったたため、乗員たちが弾丸を転がして除け始めた。
鎮火は困難と見られ、ランゲ中佐は総員退艦を命じた。引火や誘爆を避けるため、身を挺して火元に近い弾丸を除けていた乗員たちだったが、対空機銃の銃弾が弾け飛び、退艦せざるを得なくなった。
皆が林の中に避難した頃、主砲弾が誘爆。轟音が頭上にとどろいた。

翌2日の朝、太陽の光が鉛色の船体を照らし出す。煙突から薄い煙を吐き出し、炎をまとっているリュッツオーの姿があった。特に艦首の火災が激しかった。
誘爆が連鎖的に起きた事で、上部構造物は割れたり裂けたり曲がったりしていた。電気回路は燃え尽き、黒く焦げた前部砲塔は二度と動く事は無かった。武器が全滅したのだ。
これ以上の戦闘継続は不可能と判断され、乗員はモーターボートに乗ってシュヴィーネミュンデへ移送された。そこで予想外の命令を受けた。
「中口径砲員は全て艦へ戻る事」。機能を喪失したリュッツオーに戻る事を指示されたのだ。砲員は命令通り、踵を返した。

 

だが、リュッツオーは最後まで抗うつもりだったのか。火災が自然に鎮火していた。偶然か必然か、爆発から逃れた約3000発の弾丸が発見され、再び抗戦が可能となった。

 

5月3日朝、艦に戻った砲手たちは依然使用可能な副砲を以って抵抗し続けた。残りの弾数はごく僅かだった。だが砲手の捨て身の戦いは続いた。
同日深夜、ソ連軍は目と鼻の先にまで迫り、ついに機関銃が届く距離にまで追い詰められた。副砲の砲手に犠牲者が出る事を憂慮したランゲ中佐は22時15分、艦を爆破するよう命令。
リュッツオーの銃火器がソ連軍に鹵獲されないための措置でもあった。まず砲身に弾丸が詰め込まれた。後部砲塔には150mm砲弾、弾薬包などの爆発物が集められた。
そして右舷側に導火線を束ねた。小型船には零れるほどの乗員が乗り込み、全員いる事を確かめたのち、導火線に点火。そして小型船は艦から離れた。
―――1945年5月4日0時12分。皆が見つめる中、リュッツオーは爆炎に包まれた。一方で爆発物を集めた後部砲塔は何事も無かった。
失敗したんじゃないか、と乗員が思い始めたその時、恐ろしい爆発音が聞こえ、1.5km離れた小型船にまで爆風が届いた。
動けなくなるまでに350発もの28cm砲をソビエト兵に撃ち込み、多くを殺傷した。

 

同日中にソ連軍が現れ、バルト艦隊の海兵がリュッツオーの甲板で記念撮影を行った。この時点で既にヒトラーは自殺し、首都ベルリンも陥落。
オランダ、北ドイツ、デンマーク、ノルウェーのドイツ軍も同じ日に降伏した。そして4日後にはドイツそのものが降伏するのであった。
ランゲ中佐もこの日に艦長の任を解かれ、リュッツオーは記録上、死を迎える事になった。こうして、ドイツ海軍が誇った戦艦群は全滅したのだった。
終戦後のリュッツオーの行方は長らく不明であったが、後年の歴史家がソビエトの情報を調べた結果、2000年代初頭に行方が分かった。彼女にはまだ物語が続いていたのだ。

 

戦後の行方
終戦後の1946年春、ソ連軍の手によって残骸が引き揚げられ、レニングラードまで回航。リュッツオフに改名し、9月26日にバルト艦隊へと編入、モスボールに入れられた。
1947年、ソ連軍の第77救助隊がリュッツオフの残骸を調査し始めた。修復し、ソビエトの手先として再就役させるためである。
船体にはまだ28cm三連装主砲と15cm副砲が残されていたが、全ての対空砲と魚雷発射管はドイツ軍の手で取り除かれていた。
艦内を捜索した結果、副砲以下の弾薬が発見された。燃料タンクにもディーゼル燃料が残されており、ともすれば再稼動が可能のように見えた。
装甲にはかつての激戦を物語る、5つの爆発跡を確認。後方の機械室は水没。ダイバーが水中より船底を調査すると、5つの穴が開いている事が判明。
船体に開いた穴と弁を修理し密閉状態にすると、浸水している水を取り除くためモーターポンプを取り付けた。1時間あたり100kgを排水できる代物だった。
これらの修理によってリュッツオフは浮揚に成功。リュッツオフの魂が冥府より舞い戻った瞬間であった。防共の国の艦に、共産の心が吹き込まれようとしていた。

 

が、1947年7月20日に修復不能と判断され、7月22日に実験用の標的艦として沈没させる事になった。破氷船に5本の曳航索で引っ張られ、4.7ノットの速度でバルト海まで曳航されてきたリュッツオフ。
周りには記者と映画の撮影班がいた。
バルチック艦隊の演習の一環で準備が進められ、船体に爆薬を巻き付けた状態で実験が開始された。午前8時25分、まず250キロ爆弾が投下され、最初の爆発が起こった。この爆発では誘爆は起こらなかった。
午後12時45分、2つ目の爆弾が投下されカタパルトを破壊、火災が生じた。しかしまだ爆薬に引火せず、リュッツオフは沈没を拒み続けた。
沈まないリュッツオフに痺れを切らしたソ連側はモーターポンプを外し、巻き付ける爆薬を追加。第三と第四の実験で使うはずだった爆弾を一度に投下した。
午後3時45分、連鎖的に爆発が起こった。船体は煙で覆われたが、数分後にシルエットが浮かんできた。爆発から30分が経過した頃、浸水が始まったのか艦首から沈みかける。
そして午後4時24分、リュッツオフはその勇姿を海中に没し、113メートルの水深に沈んだ。かつての敵国に与する事を拒み、最期までソ連を煩わせた男らしい死に様だった。
彼女の遺骸はグダンスク湾にて、未だ現存しているという。

 

海軍に煙たがれながら誕生した本艦は、通商破壊という本来の役割はさほど果たせなかった。代わりに対地砲撃で大活躍し、ドイツが降伏する寸前まで抵抗を続けたその生き様は武勲艦と呼ぶに相応しいと言える。

 

余談

  • リュッツオーは銀幕デビューを果たしており、2015年にエストニアで製作された「独ソ・エストニア戦線」に2シーンだけ出演。奥にはプリンツ・オイゲンが見える。
    1944年11月19日、ソルバメ半島を進撃するソ連軍機甲兵力に対し砲撃を行い、何人かを打ち倒している。
    この映画は戦車から小銃まで実物を使用するという気合の入れっぷりだったが、さすがにリュッツオーはCGだった。バーチャルアイドルと化したリュッツオー
  • 上智大学名誉教授・渡部昇一氏の著書「国を語る作法:勇の前に知を」では、戦艦フッド及びプリンス・オブ・ウェールズと交戦し、フッドを撃沈したのはドイッチュラントと紹介している。
    また、ドイッチュラントの性能はその2隻より優秀とされた。フフフーン。
  • ドイツ海軍宿泊船にドイッチュラントという船舶が存在した。元々はハンブルク・アメリカ航路に就役していたバーン級客船だったが、第二次世界大戦の勃発で海軍に徴発された。
    グディニアで宿泊船の任に就いていたが、大戦末期になるとハンニバル作戦に参加。東プロイセンに取り残された市民を救出するため7度の往復を果たした。
    そして偶然か必然かリュッツオーが放棄される前日の1945年5月3日、リューベック湾でイギリス軍機の爆撃を受けて沈没した。
  • ドイッチュラントの艦名は戦後にも受け継がれ、ドイツ連邦海軍は同名の練習艦(A59 Deutschland)を就役させた。
    練習艦と言えど建造当時のドイツ連邦海軍では最大の艦艇であり、有事の際は機雷敷設や船団護衛といった用途に投入することも想定していたため、練習艦でありながら重武装であった。
  • 文献によってはドイッチェラントと記される場合がある。が、発音的にはドイッチュラントが正しい。当時の日本の新聞がドイッチュラントの事を何度か取り上げているが、
    「ドイチュランド」「ドイチェランド」「ドイツチュランド号」等、表記揺れが非常に激しい。統一せえや
    • 「ギョヘテとは俺のことかとゲーテ言い」に代表されるように当時のドイツ語の日本語表記はかなりブレが出る。
      オマケにドイツは1871年の統一後20年ぐらい立ってやっと標準語教育の普及を始めるがその時採用したのは舞台劇発音で、地方民の発音とは激しい差が出来た。
      (バイヤーンをバイエルン、イーザーローンをイゼルローン、フォイア-がファイエルになるアレである)
      1945年ぐらいまでは正式な教育に用いられており、独日辞典などでも長らくこの発音記号が変わらず、90年代にようやく改訂された。

*1 3番艦アドミラル・グラーフ・シュペーはこの配管を損傷し、自沈させられた。
*2 ヴェーゼル演習作戦とも。ドイツは中立国スウェーデンから鉄鉱石を輸入していたが、万が一隣国のノルウェーがイギリスに占領されれば輸入路が脅かされる。こうなる前にノルウェーに進駐して全土を占領してしまおうというのが作戦の概要であった。
*3 イギリス海軍が建造したT級潜水艦の1隻。7隻のドイツ船を沈め、プリンツ・オイゲンにも魚雷を当てている。太平洋戦線では2隻の日本船を撃沈し、終戦まで生き残った。
*4 イギリス海軍のS級潜水艦。5月20日に北海でデンマーク漁船2隻を撃沈する戦果を挙げたが、1940年8月1日にU-34の雷撃を喰らい撃沈される。
*5 サーレマー島の南にある半島。元々この島にはエストニア人が住んでいたが、1939年に締結した相互防衛条約により島の飛行場はソ連の物になった。1941年10月、ドイツ軍に占領され、住人はドイツを支持する者とソ連を支持する者に二分された。
*6 イギリス軍が開発した5トンの巨大爆弾。ルール地方にあるドイツのダムを破壊するために開発された。その激烈な威力はキノコ雲を作り、大地を揺るがす事から地震爆弾とも。