No220 翔鶴/元ネタ解説

Last-modified: 2019-01-02 (水) 03:06:25
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型翔鶴型航空母艦
正式名称翔鶴
名前の由来漢成語で天を翔ける鶴という意味
起工日1937.12.12
進水日1939.6.1
就役日(竣工日)(1941.8.8)
除籍日(除籍理由)1945.8.31(マリアナ沖海戦/英Battle of the Philippine Sea 1944.6.19沈没)
全長(身長)257.5m
基準排水量(体重)25675英t(26087t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶8基艦本式蒸気タービン4基4軸 160000shp(162219.1PS)
最高速度34.2kt(63.33km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/9700海里(17964.4km)
乗員1660名
装備(竣工時)40口径八九式12.7cm連装高角砲8基16門
九六式25mm機銃x36(12x3)
艦載機x72+12
装備(1944)40口径八九式12.7cm連装高角砲8基16門
九六式25mm機銃x68(18x3+14x1)
艦載機x72+12
装甲舷側:46~165mm 甲板:25~132mm
建造所横須賀海軍工廠 (現 米海軍横須賀基地) (日本国神奈川県横須賀市)

1937年の海軍補充計画で建造が決定した空母。第三号艦の仮称で1937年12月12日、横須賀工廠第二船台で起工する。1939年5月16日に軍艦翔鶴と命名され、横須賀鎮守府に配備。
同年6月1日に伏見宮臨席の下、進水式を迎えるが突然の荒天により予期せぬ形で進水してしまう。1941年8月8日、竣工。初代艦長として城島大佐が着任。

 

翔鶴型は言わば「空母版大和」で、これまでに得られたノウハウと技術が惜しげもなく投入された、帝國海軍会心の出来だった。
泣き所であった機関部や弾薬庫の防御力を特に高め、800キロ爆弾や20cm砲弾の直撃にも耐えられるようになっている。また防御力も全体的に向上している。
波の抵抗を低減させるバルバス・バウを採用し、大型空母らしからぬ34ノットの快足を誇った。
搭載数も格納庫拡張により加賀に次ぐ多さの72機を運用可能。更に16万馬力という戦艦大和をも上回る馬力も持っていた。そのスペックは、エセックス級が就役するまで世界最高と言われた。

 

開戦直前に竣工した翔鶴は9月1日、春日丸とともに第五航空戦隊を編成。25日には妹の瑞鶴も編入された。翔鶴の初任務はあの真珠湾攻撃だった。
11月26日、集結地点の単冠湾を出撃すると一路真珠湾へ向かった。

 
大東亜戦争では

12月8日、開戦の狼煙となる真珠湾攻撃を敢行。第一次攻撃では九九艦爆を26機、零戦を6機、続く第二次攻撃では九七艦攻27機を放ち、真珠湾に駐機していた敵機を33機撃破した。
合計で戦艦4隻、標的艦1隻、機雷敷設艦1隻を撃沈し、231機の飛行機を破壊する大戦果を挙げる。この活躍により南方作戦は後顧の憂いなく遂行される事となった。
翔鶴たちは内地へ凱旋帰国し、新年を内地で過ごした。しかし多忙な日々は始まったばかり。1月8日、R作戦に参加するため内地を出撃。トラックに進出して準備を整える。
1月20日、ビスマルク諸島を攻略するR作戦が開始される。上陸作戦に先立って敵の抵抗を封殺するため、ラバウルを空襲。脆弱な豪軍は蹴散らされ、容易に勝負が付いた。
翌日にはラバウルを切り上げ、ラエ及びサラモアの空襲を行った。こちらも一方的な攻撃となり、抵抗らしい抵抗は無かった。
その後、空母群は散開して各々敵拠点制圧に当たったが、スターリング湾に再集結(座礁して修理中だった加賀を除く)。搭載機315機を擁して3月26日に出撃する。目標はインド洋に展開するイギリス東洋艦隊。
4月5日、まずセイロン島コロンボを空襲し湾内の輸送船を破壊。4月9日にはトリンコマリを二回空襲、地上施設や艦船に打撃を与え、敵機を23機叩き落とした。更に英空母ハーミーズを撃沈。
一連の戦闘で翔鶴隊は72%の命中率を叩き出し、帝國海軍の練度の高さを見せつけた。

 

5月7日、ポートモレスビー攻略を目指す帝國海軍とそれを阻止する米海軍が衝突。人類史上初の空母同士の戦い、珊瑚海海戦が生起した。
翔鶴、瑞鶴が放った航空隊は給油艦ネオショーと空母と間違えて全力攻撃したり、米軍もまた別働隊の祥鳳を全力攻撃したりと双方に混乱が生じた。
この戦闘でレキシントンを撃沈し、ヨークタウンにも3発の命中弾を与えた。攻撃隊の護衛を務めていた9機の直衛機が敵機を攻撃し、30機を撃墜している。
また翔鶴に迫った敵機を、直掩機9機が迎撃して21機を撃墜した。また、放たれた魚雷を全て回避する神業を見せている。米軍の雷撃機TBDデバステーターは旧式で、雷撃も満足に出来ないまま次々と零戦の餌食になった。
しかし1機だけ零戦の迎撃をかいくぐり、翔鶴へ肉薄した。絶好の雷撃位置で、このまま雷撃されれば被雷は確実だった。そこへ宮沢武男二飛曹の零戦が現れた。
20㎜弾や7.7mm弾による射撃が行われたが、慌てていて命中しない。そして次の瞬間、宮沢機はデバステーターに体当たりを敢行。2機はもつれ合うように墜落し、海面に叩き付けられた。
この様相は城島艦長も双眼鏡で見ており、深く感動。後に乗組員全員にその功績を伝えたという。だが、翔鶴自身も3発命中弾を受けて大破。
艦長の城島少将は米軍の雷撃を「実に拙劣」と回想した。被弾によって吐き出された黒煙は凄まじく、瑞鶴見張り員が撃沈されたと勘違いした程。
満身創痍であったが機関部は無事だったため全速力で退避。何とかトラック諸島へと逃げ込めた。内地へ回航中の5月16日、四国南西沖で米潜トライオンに発見されるが何故か攻撃されなかった。
横須賀軍港に辿り着く翔鶴であったが、工廠は大鯨の改装工事で手一杯だった。そのため渋々傷だらけの体で呉まで回航した。
その損傷により翔鶴はミッドウェー作戦には参加できなかった。そして第一、第二航空戦隊の全滅を呉で聞く事になる。
修理のついでに改装が行われ、25mm三連装機銃を6基増備。機銃用射撃指揮装置3機、二一号電探を新たに搭載した。
7月の改装工事では更に25mm三連装機銃を2基増設、二一号電探も一つ追加された。8月上旬に入ると偵察機3機が新たに配備されている。

 
新生第一航空戦隊として

7月14日に再編成が行われ、翔鶴は栄光の新生第一航空戦隊所属となる。
修理完了後、内地で訓練に従事していたが、米軍のガダルカナル島襲来の報を受けて8月16日、翔鶴は呉を出港。ガダルカナル島争奪戦を支援するためトラックに進出する。
8月24日、第二次ソロモン海戦に参加。エンタープライズへ向けて攻撃隊を放ち、二発の命中弾と二発の至近弾を与えて火災を発生させる。が、その代償も大きく艦爆17機と零戦3機を喪失した。
第二次攻撃隊も送り出されたが、日没までに発見できず撤退。翔鶴はエンタープライズ隊所属のSBDドーントレス2機に爆撃されたが至近弾のみで済んだ。本海戦は痛み分けで終わる。
10月26日、南太平洋海戦が生起。翔鶴は新型の二一号電探を装備し、来襲した敵機を逸早く察知している。瑞鶴、瑞鳳とともに攻撃隊を発進させるが敵航空隊から滅多打ちにされ、6発被弾して大破。
中破した瑞鳳とともに戦域を離脱した。一方、送り出した攻撃隊はホーネットを自沈に追いやり、エンタープライズを中破させる戦果を挙げた。そして瑞鶴へと着艦した。
重傷を負った翔鶴は体を引きずってトラックへ入港。同じく損傷した瑞鳳と横須賀まで戻り、11月6日から修理を受けた。また要員の交代も行っている。
少し遡ること11月1日、ろ号作戦により翔鶴の艦載機はラバウルへ進出。航空機を取り上げられる格好となった。
派遣された翔鶴隊の25機はブナカナウ飛行場に展開。襲来した敵機を迎撃し、40機撃墜。7機不確実を報じた。11月13日までに84機撃墜、23機不確実の大戦果を挙げたが8名の操縦者を失っている。

 

1943年5月25日、木更津沖で軽巡阿賀野及び大淀と合流。米軍の攻撃を受けるアッツ島支援のため待機していたが作戦中止となる。
9月12日、トラックで爆撃訓練中、搭載戦闘機が標的艦矢風のマストに衝突して墜落。乗員が死亡する事故が発生した。
同月17日、米機動部隊と雌雄を決するためZ作戦を発動。大艦隊の一員として翔鶴はトラックを出撃。敵を求めて東進した。
前哨基地ブラウン島を拠点に索敵を行うも、神出鬼没な米艦隊を捉えられず空振りに終わってしまう。10月26日、失意の内にトラックへ帰投。11月15日、横須賀に戻った。

 

1944年2月6日、護衛を率いて洲本沖を出港しシンガポールへ向かった。到着後、現地に搭載機と司令部を置いて23日にリンガ泊地へ回航、訓練に従事する。
ところが泊地内は無風状態が続き、航空隊の発着艦訓練が阻害された。沖合に出ると、手ぐすね引いて待ち構える米潜の群れに攻撃される恐れがあった。
対潜掃討に向かった駆逐艦も次々に沈められ、窮屈な泊地内に閉じ込められる格好となった。このため搭乗員の訓練が遅々として進まず、練度不足のままマリアナ沖海戦を戦わされる事になる。
熾烈な航空攻撃を受ける事を想定して25mm単装機銃を10門追加。対空砲がハリネズミの如く並び、対空性能が向上した。
6月17日夕刻、米軍のマリアナ諸島攻撃に呼応して出撃。一大決戦を挑むべく勇んで出港していったが、この時点で既に米潜の追跡を受けていた。

 

そして6月19日、運命のマリアナ沖海戦が生起する。質・量ともに劣る日本艦隊は苦肉の策としてアウトレンジ戦法を取る。
搭載機の航続距離が長い事を活かして、敵の空襲圏外から発進させ母艦を守ろうというものだった。母艦は安全圏にいるので問題ないが、搭載機には長時間の飛行を強いる事になり帰還は絶望的だった。
サイパン上空で撃墜した敵の捕虜から投入兵力の全容が判明しており、アウトレンジ戦法採択の背中を押したのは間違いない。
翔鶴は虎の子の主力空母として甲部隊を編成、攻撃隊を発艦させた。午前8時10分、旗艦大鳳が敵潜水艦の雷撃を受ける。続いて午前11時20分、翔鶴もまた米潜カヴァラに雷撃される。
このカヴァラはギマラス出撃時から執拗に追跡し、本隊の所在を掴んでいたのだ。翔鶴は新型魚雷3本を受け、一気に右側へ傾く。注水して傾きを戻そうとするも、今度は左側へ傾く。
また被雷の影響で艦首が突然沈下し、前のめりになっていく。艦内ではガソリンタンクに引火し、決死の消火活動もむなしく延焼。やがて艦内に気化した航空燃料が充満し、それに引火し大爆発を引き起こした。
ここに至り復旧は絶望的となり、遂に総員退艦が命じられる。艦尾が浮き上がり、艦首から海中へと引きずり込まれていく翔鶴。
脱出が遅れた乗員たちは艦首側へと滑り落ちる。そして彼らの先には燃え盛る大穴が口を開いて待っていた。甲板を滑り落ちる音や悲鳴は周囲の僚艦からも聞き取れ、その様子は地獄そのものだったという。
この惨劇があったため戦死者は1272名に上った。この数は空母史上最多であった。
二大正規空母の沈没と、その2隻が100機近い航空機を抱えたまま沈没した事でマリアナ沖海戦の敗色は一層濃いものになった。

 

1945年8月31日、除籍。除籍が終戦後とかなり遅く、それまでは生きている扱いだった。このため沈没後の11月15日には連合艦隊へ転属している。