春風

Last-modified: 2020-04-24 (金) 23:16:28
No.273
神風型駆逐艦の3番艦、春風と申します。春風(はるかぜ)神風型 3番艦 駆逐艦
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久12火力5 / 27
装甲5 / 17雷装12 / 36
回避38 / 74対空6 / 28
搭載0対潜18 / 56
速力高速索敵4 / 17
射程25 / 74
最大消費量
燃料15弾薬15
装備
12cm単装砲
53cm連装魚雷
装備不可
装備不可
改造チャート
春風春風改(Lv50)
図鑑説明
神風型駆逐艦の三番艦、春風と申します。舞鶴生まれです。
以前は第五駆逐艦とも呼ばれていたのですが、春風という大切な名前を頂きました。
第五駆逐隊、そして第一海上護衛隊に所属して、皆さんをお守りしました。
戦いが終わった後も…お守りします。

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:能登麻美子、イラストレーター:パセリ (クリックするとセリフ一覧が開きます)

セリフCV:能登麻美子、イラストレーター:パセリ
入手/ログイン神風型駆逐艦の三番艦、春風と申します。司令官様、どうぞお見知りくださいませ。
母港/詳細閲覧春風をお呼びで御座いますか?
ん? あら? 司令官様、お疲れ様です。
司令官様、わたくしの艤装に何か問題でも……ああ、花びらですか? うふふ、風流ですね。
母港/詳細閲覧(新春)司令官様、旧年は大変お世話になりました。新年も、どうぞ宜しくお願い申し上げます。神風型と、艦隊と、春風……お願いします。
母港/詳細閲覧(節分)節分なのですね。童心に返った気持ちになりますね。わたくしたちの鬼役は…神風お姉様?あっ、皆さん、そんなに強く……あっ、ああ~……
母港/詳細閲覧(バレンタイン)バレンタインですもの、少しだけ、ハイカラなチョコレイトを作ってしまったわ。司令官様、受け取ってくださるかしら……はぁ……(溜め息)
母港/詳細閲覧(ホワイトデー)司令官様、これをわたくしに? ありがとうございます! 神棚に飾っておき……え? 駄目? あっ、はい。早めに頂くように、致します。
母港/詳細閲覧(春)春。春は、春風の春。風が気持ちいいですね。春風を感じに、お出掛けしませんか? ふふっ。
母港/詳細閲覧(四周年)司令官様、艦隊は四周年を迎えました。嬉しいですね。第五駆逐隊も祝福いたします。
母港/詳細閲覧(五周年)司令官様、艦隊はついに五周年を迎えました。ずっと、ご一緒に……いえ、何でもない、です。
母港/詳細閲覧(周年記念)今日は、とても大切な日です。司令官様、もしかしてお忘れですか? わたくし、忘れるはずもありません。
母港/詳細閲覧(梅雨)雨。梅雨は苦手な方が多いですけれど、私は、好き。傘が似合うこの季節、大好きなんです。駄目でしょうか?
母港/詳細閲覧(初夏)そうですね、大正の頃はそんなに肌を……いえ、そうではなくて、最近の水着はその、何と申しますか……破廉恥ではないかと。
母港/詳細閲覧(秋)司令官様、秋は食べ物がおいしい季節です。わたくし、腕によりをかけて、おいしい物をお作りいたしますね。うふふっ。
母港/詳細閲覧(鎮守府秋刀魚祭り)秋刀魚漁を支援されるというのですね。了解致しました。わたくしも、出漁致します。
母港/詳細閲覧(Xmas)これが、クリスマスというものなのですね。わたくし、見慣れぬ料理ばかりです。この大きなお肉は……そう、鳥の肉なのですね。
母港/詳細閲覧(年末)この季節は、わたくしが進水した季節……師走の大掃除も大好きなんです。気持ちいいですね。
ケッコンカッコカリ(反転)司令官様、第五駆逐隊、お呼びでしょうか? えっ? わたくしですか? あっ、はい。これを…わたくしに…!? ありがとうございます。わたくし…大切に…します。
ケッコン後母港(反転)司令官様、春風が見た夢を聞いてくださいますか? わたくし、怪我をしてしまって…それでね、司令官様? 寝てしまったの?
編成第五駆逐隊、春風。出撃させていただきます。抜錨です。
出撃第五駆逐隊、春風。出撃させていただきます。抜錨です。
旗艦、春風。出発いたします。皆さん、どうぞよろしくお願い致しますね。
遠征選択時御機嫌よう。
アイテム発見御機嫌よう。
開戦どうしましょう…。敵艦を発見致しました。皆さん、合戦準備…お願い致します。
航空戦開始時
夜戦開始夜戦と参りましょう。皆さん、春風に続いてくださいませ。
攻撃どうしましょう…。敵艦を発見致しました。皆さん、合戦準備…お願い致します。
あら、こちらにも敵が…
行きましょう……撃ち方…始めっ。
連撃/弾着観測射撃/夜戦攻撃
小破きゃっ! 嫌っ!
ああっ! どうして…。
中破/大破ああーーっ! こ、こんな格好では、戦闘も、船団護衛も出来ません……ぅ、ううっ。
勝利MVPわたくしが? 本当ですか? 有難う御座います。嬉しいです。
旗艦大破ああっ! どうして…。
帰投司令官様、ご報告申し上げます。艦隊、帰投致しました。
補給補給、確かに頂きました。
改装/改修/改造これをわたくしに? 感謝いたします。司令官様。
これは…なんて素敵な兵装でしょう! 春風、嬉しく思います。
ご機嫌よう。うふっ。
入渠(小破以下)司令官様、身だしなみを直して参ります。少しだけお待ちくださいね。
入渠(中破以上)司令官様、大変申し訳ありません…。春風、傷を癒して…参ります。
建造完了新しい方をお迎えに行かなくては。
戦績表示情報をご覧になるのですね。春風がお持ちいたします。
轟沈(反転)わたくし、ここで沈むのですね…。朝風さん、松風さん、旗風さん、さようなら…きっと…どこかで…
時報にて実装
放置時朝風さんは、今どうしているかしら? 彼女の事ですから、きっと元気にしていますよね、司令官様。…ん? 司令官様? お疲れみたい…毛布をかけて差し上げよう。おやすみなさい。

ゲームにおいて

  • 2016年5月3日アップデートで新実装。同日から始まった2016年春イベントE-7でドロップした。
    • 通常海域でのドロップや建造では入手不可のため、通常は新規/追加入手の手段が無い。入手後はロックを忘れずに。
  • 提督の呼び方は『司令官様』。巻雲に続き2隻目である。

小ネタ

艦歴

192110.12第五駆逐艦の艦名を与えられる
19225.16舞鶴海軍工廠で起工
12.18進水
19235.31竣工。横須賀鎮守府籍となる
7.16第5駆逐隊に編入
19244.24「第五号駆逐艦」に改名
19288.1「春風」に改名
193012.1川内等と第1艦隊隷下に第1水雷戦隊を編成
19359.26第4艦隊事件に遭遇し、損傷する
19371.7駆逐隊ごと馬公要港部に転属となり、馬公要港部付属警備艦となる
12.1警備艦任務より除かれ第三予備艦となる
193910.?この頃より、南シナ海方面の警備行動に復帰する
194011.15名取、および第22駆逐隊とともに第5水雷戦隊を編制
194111.26比島攻略部隊に編入
19423.1バタビア沖海戦に参加
3.10第5水雷戦隊解散。第5駆逐隊は第1南遣艦隊に転属する
11.16スラバヤ入港時に触雷し、艦首部のうち一番魚雷発射管より前部を亡失する被害を受ける
19435.10スラバヤにて応急修理が完了する
5.27呉海軍工廠での本修理を開始する
8.12修理を完了
8.25呉防備戦隊に編入し船団護衛に従事
19442.19第一海上護衛隊に編事
10.24マタ30船団を護衛中に米潜水艦*1を爆雷で撃沈する
11.4ルソン海峡で米潜水艦*2から発射された魚雷を受けて艦尾を切断する
19453.20馬公にて応急修理を完了する
3.29佐世保に帰投
4.30第四予備艦に指定される
8.15佐世保で大破状態にて終戦
11.10除籍され、京都府竹野港の防波堤として転用
19489.16アイオン台風により破壊したため、スクラップとして売却され解体
  • 神風型(2代)駆逐艦の3番艦。舞鶴海軍工廠にて1922年(大正11年)5月16日起工、1922年12月18日進水、1923年5月31日就役。
  • 当初の艦名は「第駆逐艦」で、1924年に「第号駆逐艦」と改称し、1928年に「春風」となった。
    • 妙に5と縁がある駆逐艦であったが、悪い縁もあり、米潜水艦セイルフィッシュ (USS Sailfish, SS-192)から雷撃されたときは、艦の155フレームで切断されている。
    • 艦名はそのまま「春に吹く穏やかな風」の意。「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」(高浜虚子)
      • なお「秋風」は前級の峯風型に存在する一方で、「夏風」「冬風」は改マル五計画の改秋月型*3に予定されるも未成となったため、「春夏秋冬」の風が揃うことはなかった。
    • 「春風」の艦名は2代目。初代は神風型(初代)駆逐艦9番艦で、1906年に竣工、1924年に掃海艇となった後、1928年4月1日に除籍された。2代目春風の改称はこの年の8月1日である。なお、当初の予定艦名は「真風(まじ)」であった。
    • 就役後は「第三(朝風)」「第七(松風)」「第九(旗風)」とともに「第駆逐隊」を編成、就役直後は大湊要港部に所属し、北方海域カムチャッカなどで、ソ連との漁業を巡るトラブルに備える警備艦として任務にあたった。その後、昭和10年の海軍大演習に赤軍の第四艦隊として参加した。以後台湾の馬公要港部に移籍し南シナ海の大陸沿岸の警備、航行遮断などにあたっていた。
    • 竣工時の兵装は、12cm単装砲4基4門、53cm魚雷連装発射管3基6門、7.7mm機銃2挺。最終時は12cm単装砲2基2門、53cm魚雷連装発射管2基4門、25mm3連装機銃2基6挺、25mm連装機銃4基8挺、13mm連装機銃1基2挺、25mm単装機銃は不明。改ニは今より火力と雷撃値が下がって、対空が上がるのかもしれない。

艦歴の詳細

大湊要港部での春風

  • 大正6年11月、ロシア革命が発生しソ連が誕生して以降、沿海州方面における日本人の保護と、北洋漁業の権益を護るために、大湊要港部に大正12年4月から一等海防艦春日、第九駆逐隊に第五潜水隊が配備され、年を追うごとに駆逐隊及び潜水隊が増強された。春風の所属する第五駆逐隊もその一つであった。
    • ロシア時代からの日本の漁業権は、昭和3年から8年間認められたが、日本とソ連との間でトラブルが続出し、外交問題となった。交渉の結果、操業の継続は認められたものの、各漁場にソ連の国境警備艇が配置され日本側の違反を取り締まるとともに、極東漁業もカムチャッカに進出してきた。
    • 日本は最初占守島を根拠地に警備にあたるとしていたが、事件の発生しやすい地点に警備艦艇を常駐させ、事件を未然に防止する方針に切り替えた。この時にはじめて第五駆逐隊の出番となった。大湊要港部参謀長は始めて出動する第五駆逐隊に対し、次のように訓示を行った。「当初より彼を敵視することなく、出来る限り親善修好の観念を持って、右手に修好、左手に剣を持つ心意気により相接することが必要なり」
    • 昭和5年の北洋警備は、4月30日から7月初めまで春風と朝風が務めた。春風達が担当してた期間は概ね平穏であったが、旗風と交代した6月末あたりからソ連による拿捕、銃撃による死傷者の発生と緊張が高まった。第五駆逐隊司令は松風の出動を要請し、事件の中心海域に旗風、松風を配置し防止に務めたのであった。

第四艦隊事件

  • 昭和8年から9年にかけて、アメリカ大西洋艦隊がパナマ運河を通って太平洋に回航し、ハワイ周辺で百数十隻の艦船での演習を行った。この演習をうけて、アメリカ艦隊が北方より日本に侵攻するとの想定で、日本海軍の全艦艇が参加する艦隊対抗の海軍大演習を昭和10年9月に行うことになった。
    • 青軍は連合艦隊、一方の赤軍は足柄を旗艦として臨時編成された艦隊であり、春風は鳳翔龍驤の第一航空戦隊第五駆逐隊として第四艦隊に参加、北海道室蘭港に集結した。
    • 第四艦隊は寄せ集めの臨時編成のため、9月6日の入港以降、室蘭沖で連日猛訓練を行っていたが、足柄が砲塔爆発を起こし、39名の負傷者が出る大事故が起こった。
    • 約二週間の訓練の後、9月24日函館に集結、9月25日より海軍大演習は始まった。この時台風接近の情報ははいっていたが、予定通り演習は行われることになり、6時に抜錨し三陸沖の演習海面へ向かった。
    • 当然のごとく海は大荒れであり、10時頃より東北東の風が吹き、すぐ前の艦すら見失うほどの最悪の気象条件であった。14時30分ごろに台風の目に突入し、一瞬海は凪いだが、15時30分頃より再び大荒れとなり、風速は秒速50m、波高は25~30m、波長250mを観測した。
    • もはや演習どころではなく、沈没を防ぐのに精一杯、艦体が真っ二つになったり舵故障で動けなくなる艦が続出する中、春風は艦長、航海長の奮戦により、そのような事態は避けられた。しかし、上甲板にあったものはほとんどすべて波に攫われ、残ったものは一本の煙突と大砲だけ、艦内のものも50度に及ぶ傾斜により大部分が破壊され、乗員が転倒して負傷者が続出した。だが、他の艦のように波に攫われたり、重傷者は出なかった。もう演習で戦える艦はなかったため、各艦は母港または最寄りの港に寄港した。
    • 事件後、昭和天皇・香淳皇后より負傷者に御菓子料が下賜された。春風からは艦長竹内虎四郎少佐に10円、須藤岩五郎海軍二等兵曹に5円が下賜されている。

南シナ海警備と航路遮断

  • 昭和12年1月、第五駆逐隊は第一航空戦隊より外され、台湾の馬公要港部に所属した。第五駆逐隊の任務の範囲は、台湾周辺、上海から海南島までの中国大陸沿岸の航路遮断と警備であった。昭和12年7月に日中戦争が始まるまでは台湾の高雄、花連、基隆、台南をめぐって馬公に帰る平穏な航海であった。
    • しかし、日中戦争開戦後は、南シナ海の航路遮断が主任務となり、福州、汕頭、廈門、馬祖島方面での封鎖作戦に従事することとなる。時には沿岸部で陸戦隊による上陸戦闘もあったが、敵機や潜水艦の危険もなく沿岸からの砲撃も受けることなく、艦砲射撃を加える事もできたため危険は少なかった。春風の敵は、台風や大波等であったという。
    • 日本陸海軍が発行する航行証明書を保持していない船舶は、積み荷に内容を問わずすべて戦略物資として没収していた。船舶のほとんどはジャンクであり、米、豆、砂糖といった食べ物や織物、時には生きた豚や鶏といった雑多なものが混載されていた。戦略物資であると決めつけられても彼らには理解できなかった。ただ、生活のためにジャンクを動かし、魚を獲っていただけであった。

カムラン湾上陸援護作戦

  • 昭和16年7月、馬公港外に陸軍兵士を満載した輸送船が続々と集結した。春風も物資を満載し、出撃に備えた。だがどこに行くのかは航海中に命令が来るとのことで誰も知らなかった。この時の航海は平穏無事で、見張りの報告も船団についてくるイルカの報告ばかりであった。もっとも見える度に報告があるのでやっかいだったという。イルカに負われた飛魚が甲板に飛び込んできた時は、乗組員のごちそうとなった。飛行機発見で緊張が走るも、味方機であった。竹竿を潜望鏡と見間違えたりイルカや丸太を潜水艦の胴体と間違えたのを笑い話にしたりと、このころはまだ余裕があった。この船団の上陸地点はフランス領カムラン湾、時に昭和16年8月のことであった。

太平洋戦争開戦

  • 太平洋戦争開戦時は二二駆逐隊ともに、名取を旗艦とする第水雷戦隊を編成していた。すべて大正年間建造の老朽艦であったが、司令官の原少将は編成以来、猛訓練を重ねた結果高い練度を保っていると判断していた。春風はフィリピンのアパリ攻略の第一急襲隊として馬公にて待機していた。12月7日馬公を出港、途中悪天候のため天測ができず艦位を確認できなかったが、9日の夜にエンガノ岬の灯光を発見してやっと確認できたという場面もあった。翌10日、タバル沖に到着船団は上陸を開始した。10時、敵機を発見し7.7mm機銃による対空射撃を行った。これが太平洋戦争における春風最初の戦闘である。12時30分、停泊中の輸送船団の周囲に水柱が上がる。爆撃機による爆撃であったが、爆撃機は見えなかったという。そして夕方には春風も爆撃を受ける。この時も大音響とともに、水柱が上がってからはじめて気がついた。艦尾から50mも離れていなかった。ちょうど増速した直後の出来事であり、それがなければ、同時刻に爆撃され沈没した第十九号掃海艇のように春風も木っ端微塵であった。12日にアパリ飛行場は占領され、13日春風と旗風は第十九号掃海艇の負傷者を乗せ、馬公へ帰還した。

バタビア沖海戦

  • 春風は、太平洋戦争中、輸送船団の護衛にあたっており、この時が春風の生涯で唯一の海戦であった。
    • 昭和17年2月18日ジャワ攻略部隊の索敵艦としてカムラン湾を出港した。最初は26日到着予定であったが敵艦隊がジャワ海に出没するため2日延期となった。22日14時、敵艦隊がジャワ海にいるとの報告で、船団は北方に反転した。
    • この時、名取よりの命令で第五水雷戦隊は集結し、敵艦隊を攻撃することになった。春風は26ノットに増速、左舷後方には旗風と朝風も続く。北方に反転する輸送船団とは反航することになり、駆逐隊をみた陸軍の兵士たちが万歳を連呼していた
    • しかし、この時野間口第五駆逐隊司令は、魚雷の有効距離は6,000m、昼間では効果がないと艦長に話しかけていた。魚雷を発射するまで接近する前に砲撃で破壊される可能性が高いのであった。だが、敵艦隊の行動の変化によりこの作戦は中止となった。
    • バタビア港入港は28日となった。春風は先行しノースウオッチャー灯台の通信施設を破壊せよと命令が下った。春風が灯台のある島に接近し、砲撃準備を整えたとき、旗旒信号が信号塔に上る。意味は「我救助を求めんとす」。しかし艦長はかまわず砲撃を命じた。20発ほど撃ち込んだところで、目的を達したとし船団に合流した。
    • 敵哨戒艇を撃破後、哨戒任務につき当直を残して、乗組員は居住区で休憩していた。3月1日0時30分、吹雪から敵艦見ゆの無電が入る。春風も敵艦を発見する。その時吊光弾が船団上空に並んで輝き、船団が照らしだされた。「第一戦速急げ二分の一」艦長が瞬時に命令を下す。春風は20ノットに増速、20ノット即時待機から全缶が焚かれ、全速即時待機になり、さらに速度をあげてゆく。煙突から黒い煤煙幕、艦尾から白い薬煙幕を吹き出しながら春風は船団と敵艦隊の中間を高速で突進し、船団を覆い隠す煙幕を展開した。
    • 名取より駆逐艦集まれとの指令がくる。春風は名取に追従する。駆逐艦突撃せよとの命令に応じ、春風は魚雷戦を行うべく敵艦隊へ突撃を開始する。突撃を開始した春風の前方に吊光弾が投弾され春風達を照らしだす。名取が水柱に包まれるも、健在であり探照灯を照射し砲撃を続行する。名取が探照灯を消した後魚雷を発射し、反転する。次は春風の番である。春風の頭上に吊光弾が次々投下され春風はあますことなく照らしだされ、敵艦隊の砲撃は春風に集中する。1発、2発。そして修正が終わった3発目が艦橋右舷近くの至近弾となり大水柱があがり、破片が春風に突き刺さる。アンテナが破損し、電波が出せなくなっていた。応急アンテナによって復旧するまで、旗艦は春風は被弾大破炎上と判断していた。
    • 艦長によると一度突撃したが、ミスで発射の号令を出さず、もう一度雷撃するために春風だけ回頭したところで集中砲火を受けたのであった。機銃弾すら撃ち込まれるほどの至近距離であり、曳光弾により艦橋後部で火災が発生する。二回目の魚雷を至近距離から発射した。「敵まで3500、3000、2500」距離を測る測距員の声は2500で途切れたため、2,000mではないかと乗組員は推測している。だが、魚雷は味方船団へ疾走していったのであった。
    • 3時頃、戦闘は終了した。戦死者は通信士、測距長、一番砲手の3名であり、その他に操舵員長、隊信号長、3番砲手が負傷と開戦以来初めての死傷者の発生であった。死傷者は陸上で荼毘にふされたが、燃えるのは木の葉ばかりでしかたなく、指の骨だけを拾い、土葬にふされた。
    • 戦闘後、ふと海の中から声が聞こえてきた。言葉がわからず日本語ではないようであった。救助艇を下ろす直前に右舷後方で砲撃音が鳴り、探照灯の光が見えた。救助作業を中止し、その方向にスピードをあげて航走した。だがすぐに砲声はやんだ。後日それは、オランダ駆逐艦エバステンをスポコー島西方で撃沈した出来事と判明した。救助作業は他艦にまかせて、春風は哨戒を続けることにした。
    • その後春風は、3月10日バンタム湾を出港し、セレター軍港に向かう。浮きドックでバタビア沖での損傷を修理するためであった。

春風触雷

  • 昭和17年11月15日、春風はスラバヤ港に入港予定であった。しかし天候不良のためスラバヤ水道での対潜警戒を行うことになった。翌日もまた対潜警戒を続行し乗組員達がいつ入港するんだとイライラしていた頃である。突然の大音響とともに、艦全体が持ち上がるような衝撃が襲った。悪天候により、掃海完了海域を示すブイが流され、掃海未完了の危険海域入り込み、右舷前方火薬庫付近に触雷したのであった。
    • これにより艦橋の直前より春風は切断され、重油の雨が降ってきた。それが海面一帯に広がり、着火して火の海とかした。春風自体も燃え始めた。艦体は鉄でできていても、塗料が燃えるのである。火災が激しく一時は海上退避命令が出されたが、海自体も燃えていて逃げられなかった。幸い、機関は無事であり、海水ポンプによる消火作業により火は消し止められた。だが、海面は未だ猛火に包まれていたため、後進で火災海域から遠ざかった。
    • 一方ちぎり取られた艦首はまだ浮いていた。一番砲台長以下、7名が生存していることがわかったが、救助の方法はなく、時々内火艇が行って元気づけることしかできなかった。機雷原の真ん中のため、救援もすぐには来れなかった。春風本体もいつまた触雷するかわからなかった。やがて日が沈み、艦首は闇の中へ消えていった。艦首はその後発見されなかった。
    • 救援の掃海艇も掃海しながら接近してくるため、春風の曳航が始まったのは翌日の14時50分であった。11月18日にスラバヤ港でドック入りして応急修理。25日よりドックより出て弾薬兵器を陸揚げし、12月24日より翌年5月初めまでスラバヤ港にて大修理を行っていた。その間の昭和18年2月25日に第五駆逐隊は解隊、南西方面艦隊第一護衛隊に所属するも大破航行不能のため、第四予備艦に指定されていた。5月8日にスラバヤ港を出港し27日に呉入港、それから8月末まで艦首の復元や兵装の取り付けなど本格的な修理を行い、8月31日に佐伯湾に回航、呉鎮守府所属海上防備部隊所属として現役に復帰した。

船団護衛

  • 春風が現役に復帰した昭和18年9月あたりからいよいよアメリカ潜水艦が猛威をふるいはじめた。その中で、春風が護衛する船団は被害が少なかった。船団の損失が0の時も多かった。タマ21C船団やミ11船団ののように、複数のアメリカ潜水艦達の激しい攻撃にさらされ、複数の船が沈められたが、途中から船団の護衛にかけつけた春風と合流後は、攻撃はやみその後は無事に目的地についたことがあった。このようなことがあったからであろう、春風は幸運護衛駆逐艦と呼ばれ、商船側から春風の護衛する船団に編入してほしいという希望があったという。

春風船団の悲劇

  • 春風を語る上で避けて通れないのが、昭和19年10月20日から26日にかけて護衛した輸送船団マタ30船団*4の悲劇である。
    • 護衛部隊の旗艦を春風が務めていた事から、船団は春風船団とも呼ばれた。
      • 船団名に旗艦の名前が使われたことはなく、この時特別に命名された。司令部としても被害が少ない幸運の艦春風にあやかって、無事つくように願っていたのではないだろうか。大変名誉なことであり、名に恥じない護衛をと乗組員一同は緊張していた。
  • 19年10月にフィリピンへの攻撃作戦を開始したアメリカ軍は、台湾や南西諸島、ルソン島などに連日激しい空襲を加え、多数の日本船舶に被害が続出した。春風も10月4日にマニラ港入港時に沈んだ船のマストがまるで海面から森のように多数生えているのをみている。皐月が沈んだ9月21日の空襲によるものであった。
  • この空襲から輸送船を逃がす為にマタ30船団が編成され、船団には12隻の輸送船が参加した。
    • 船団に加わった輸送船には資源を満載した船や部隊輸送を終えた空船の他、700人近い民間人が乗船した黒龍丸や約1,800人のアメリカ人捕虜を乗せた“ヘルシップ”*5阿里山丸が含まれていた。
  • 船団は10月20日未明にマニラを出港し、およそ8ノットの低速で高雄を目指して航行していた。
  • だが、アメリカ軍は空母機動部隊だけでなく増援部隊を乗せた輸送船団が現れる事を想定して多数の潜水艦をフィリピン周辺に出撃させており、船団はこうした哨戒網の真っ只中に飛び込む事になる。
  • 23日朝からの強風の影響で船団から落伍する輸送船が表れだし、これら落伍した輸送船に船団を包囲した潜水艦部隊は容赦なく牙をむいた。
  • 23日午後から24日夜にかけて輸送船が次々と撃沈されていく中、春風を含む護衛部隊も必死で反撃し、多数の爆雷を投射。春風がシャークを撃沈したのもこの時である。
    • 結局、12隻の輸送船の内、黒龍丸と阿里山丸を含む大型船9隻が撃沈されてしまい、高雄には護衛艦6隻と小型船3隻がたどり着いたのみであった。
  • この襲撃の最中、阿里山丸に乗せられていた1,800人の捕虜の大半は救助される事なく見殺しにされた為、終戦後、戦争犯罪として日本軍の管理責任が問われて駆逐艦竹の艦長らが取り調べを受けている。*6*7
  • 昭和19年7月22日、春風はフィリピン・ビガンの沖合で座礁した、特設砲艦北京丸の救助活動に向かった。北京丸の艦長は谷原準造氏、俳優の谷原章介氏の祖父にあたる人物である。
    • ユタ09船団*8の護衛として対潜掃蕩に従事していた北京丸は、台風により完全に位置を見失い、7月21日2250、ルソン島ビガン南南西7km付近で座礁してしまう。
      北京丸の救援には春風のほか、特設砲艦「長壽山丸」、第26号海防艦、特設運送船「慶州丸」なども駆け付けたが、結局北京丸を離礁させることはできず救助は断念。その後米潜水艦アスプロ(USS Aspro SS-309)の雷撃により北京丸は大破し、放棄された。
      • 第一回目の離礁作業の後、春風と第26号海防艦のみが現場に残ったが、その春風にヒ86船団の遭難者の救助と対潜掃討の命令が出る。北京丸を離れ無事任務を遂行したが、さらにミ10船団の白馬山丸の乗員の救助の命令が出る。これらが終わり、北京丸に戻ってきた7月30日には北京丸は沈んでいた。この際は北京丸に搭載していた25mm機銃を持ち帰るよう指示を受けていた。この時、春風乗組員から2名の行方不明者が出ている。陸地に脱出していた北京丸の乗組員を収容、マニラに帰還したのは7月31日であった。
    • 谷原章介氏が北京丸艦長だった祖父の足跡を辿った件は、「ファミリーヒストリー(要約)」としてドキュメンタリーが組まれ、その中で北京丸の救助に当たった春風についても触れられている。

春風大破

  • 昭和19年6月4日、春風はタンカー瑞穂丸と激突。船首を小破し修理のために乗組員に一週間の休暇が出た。多くの乗組員にとってこの時が家族との最後の別れとなった。
  • 11月3日は明治節であった。半舷上陸第二陣が上陸のため集合の号令を待っていたがいつまでたっても下りない。半舷上陸は中止、出港準備かかれと号令された。バシー海峡にてモマ06船団が壊滅、なおも多数出没する潜水艦を掃討せよとの命令が下ったのである。
  • 高雄港の湾口で、水中聴音機がガリガリとものすごい音を拾った。海底をこすったような音である。高雄港の湾口は難しく艦長と航海士の腕の見せ所とは言われていたがこのようなことは今まで一度もなかった。艦体に問題はなし、聴音機の先端が接触したものの、問題なし。聴音機が故障になれば出撃とりやめになるかと期待していた乗組員もいたが、なぜか不吉な予感がし、幸先の悪さを感じていた。
  • 翌日の4日14時に現場に到着、すぐに雷撃を受けた。爆雷を投下するも効果は不明であった。潜水艦を発見することはできず、16時に戦闘配備が解かれ、第一警戒配備となる。16時55分に「総員手を洗え、食卓番用意」の号笛が鳴る。食事のために当直以外の乗組員は、居住区に移動した。
  • その時である。「左前方70度雷跡4本距離700」の声が上がる。魚雷は10m間隔で突進してくる。艦長は前進全速面舵一杯と号令する。魚雷を後部で回避しようとするもまず一本が機械室付近に命中した。だがこれは不発であった。爆発していたら春風は真っ二つであっただろう。だが春風の幸運もそこまでであった。もう一本が第2居住区と第3居住区の境界に当たり、爆発したのだ。ここは上甲板には爆雷投射機があり、常時爆雷が常時数発置かれていた。また居住区の下は爆雷庫、機銃庫であった。これらが誘爆し、また甲板上の爆雷も爆発、甲板に積んであったドラム缶入のガソリンにも引火、魚雷命中から数分で船尾は跡形もなく吹き飛んだのであった。第三居住区と第二居住区の大半は水中に没し、夕食のために非番のものは居住区にいたため、戦死及び行方不明79名、重傷者29名、春風乗組員の60数%が死傷したのであった。
    • この被雷の10日前に春風は米潜水艦「シャーク」*9と交戦し、見事これを撃沈している。シャークの沈没は米側は戦時中は確認できておらず、消息不明扱いだったが、戦後の調査で判明した。
      19年10月24日未明にルソン海峡で春風が自艦の真横約1,500メートルの位置に潜水艦を探知、17発の爆雷攻撃を実施した。春風は更に5時42分ごろにも右舷前方約1,700メートルに探知された潜水艦に対し17発の爆雷攻撃を行い「気泡、重油、衣類と破片」が水面に浮上したと報告。これがシャークの最期であった。潜水艦を追い払う筈が返り討ちに会い、潜水艦へのトラウマ持ちが多い駆逐艦娘たちの中で、最旧式ながらこれを撃沈した経験を持つ彼女の実績は評価されてしかるべきである。穏やかに見えて、実は本気をだすと怖いのだ。
      • もっとも当の乗員たちは米潜水艦を返り討ちにした事よりも10日後に起きた被雷の方が印象深かったのか、駆逐艦春風会の制作した『駆逐艦春風』にはその日頃の記述はない。
  • 翌日に僚船の哨戒艇第37号に曳航され、11月6日命からがら高雄港に入港した。

漂流12日

  • 高雄帰港後、機関の修理、居住区と機関室との間の隔壁の補強や、爆発の衝撃でネジ曲がった操舵軸や推進軸の切断等が修理工場の工員と乗組員によって行われていた。
  • 11月29日、数日分の燃料と飲料水、食料を積み込み澎湖島の馬公要港部に向けて出港した。春風を曳航する艦は汐風であった。高雄から馬公までは150kmくらいであり、通常なら5,6時間、曳航されていても一日あれば着く距離であった。今夜の港は馬公かと乗組員は気楽に考えていた。
  • 汐風に曳航され、春風は高雄を8時に出港する。曳航されながらの航海であり、馬公へはなかなか着かない。そのうちだんだん波が高くなってきた。夕方澎湖島がはるかに見えてきたが、季節風の北風が強まり前進することができなくなった。汐風の必死の作業により現状を維持し一夜を明かした。翌朝風がおさまるのを待って入港する予定であったが、さらに強まっていった。これ以上曳航索による曳航は不可能と判断、両艦長の協議により横抱き曳航に切り替えることになった。暴風雨の中、曳航索が巻き上げられ、汐風は春風に接舷する。一歩間違えれば衝突大破する危険で困難な操艦を見事汐風はやり遂げたのであった。すぐにワイヤーロープで両艦をつなぐ。汐風は機関を全開にし前進しようとするも、風雨はますます荒れ狂い、南へ流されていくばかりであった。両艦長ともこれ以上の曳航は危険だと判断、ついに曳航を諦めワイヤーロープを切断、汐風は東方向に去っていった。
    • その後、曳船の宮島や江田島が向かったとの連絡がはいったが、いつまで待っても来なかった。暴風雨によりどちらも行方不明となったのであった。もはや春風にできることは、錨をおろしてただ流されることだけであった。こうして漂流一日目が終わった。
  • 錨をおろしてもかかる岩も海底もなにもない。北風は吹き続け2日目も3日目も南へ流されるばかり、船酔いするものが続出した。4日目、5日目となるといよいよ食料が足りなくなってきた。積んであった緊急補助食の缶詰が出てくるようになってきた。7日目にようやく風は収まったが、春風が雷撃された緯度まで流されていた。風雨が収まると、今度は敵潜水艦の襲撃されるか不安が襲ってきた。また、食料がついになくなり、敵潜水艦にやられるか餓死するかという言葉が飛び出すようになっていた。
    • しかし、敵潜水艦の襲撃もなく、また主計科の倉庫のどこに隠されていたのか玄米が発見された。さっそく非番のものは一升瓶を使っての精米を始める。干物、缶詰なども出てきた。一人白米一杯に、鯖の缶詰が5人に一人の割合で配膳された。漂流12日目の12月11日、ようやく馬公要港部所属の曳航専門船がやってきたのであった。

馬公空襲

  • 馬公になんとか入港できたものの、春風は放棄し乗組員は馬公の警備部隊に編入されるという噂が流れていた。福山艦長が馬公の工作部で推進器と舵を取り付け、自力で内地へ帰還したいと強く訴え、突貫工事が始まった。先の噂はいつの間にか消えていた。
    • 幸い工作部に同型駆逐艦のスクリューが二個あったので、それを使うことになった。推進軸も、高雄に曲がったままのが一本あったので、これを切断し二本にして高雄から輸送した。これで修理のめどが付いたかとおもいきや、軸が太すぎて、春風に設置できなかった。工作部の工作機械では不可能だとおもわれたが、一人の工長が幾台もの旋盤を組み合わせて加工し、なんとか設置するといったこともあった。
  • 修理中にグラマンによる攻撃やB29の空襲により、犠牲者が出たのであった。
    • 昭和20年1月15日、春風は馬公港内で修理中であった。10時に敵機を発見、対空戦闘が開始される。12cm砲が発砲し、機銃も射撃を開始する。この日は春風を苦しめた季節風が吹き荒れ、F4F、F6Fが投弾した爆弾はすべて春風からそれていった。そして機銃弾2,000発以上の消費と12機の撃墜を春風の見張り員は数えた。だが敵機の機銃掃射により1名が戦死、数人の負傷者でた。なお、同じ港内では梅が沈没している。
    • さらに1月21日、今度はF4Fの4機編隊がやってきた。馬公の高射砲が砲撃するも、敵機の下で炸裂していた。前回一発の爆弾も当たらなかったため、乗組員はアメリカのパイロットは技術がなってないと高をくくっていた。春風上空を通り過ぎたあと、二機が反転、一直線に春風めがけて急降下してきた。今度もまた機銃が反撃するが撃墜はならず爆弾が二発投下され、一発は一番砲の左舷甲板に命中、もう一発は艦橋下甲板に命中した。また機銃も撃ちこんでくる。この時の戦闘では3人の戦死者と10数人が負傷した。乗組員の総数も限界に達しようとしていた。
    • 3月14日、春風はドック内にいた。午後を少し回った頃空襲警報が鳴った。ドック内では反撃もできないため艦長は総員退避を命じた。だが、艦長以下全部で4人が残っていた。この時の空襲はB29によるもので、一発は春風のいるドックぎりぎりの場所に落ちた。もう少しずれていたら春風に直撃し、木っ端微塵になっていただろう。しかし爆撃による土砂をかぶっただけで春風は無傷であった。がしかし、退避した先の防空壕に爆弾が直撃し、春風乗組員十数人が生き埋めとなり3名が死亡した。

珍型駆逐艦春風

  • 昭和20年3月19日、ついに修理は完了した。ドック内に水がはられ春風は再び水上に浮かんだ。この時のことを福山艦長は「尻切れトンボの珍型駆逐艦春風就航す。日本の海軍にも世界の海軍にも類例のないものと思われる」と語っている。
    • この時の春風は、風下を向くことができなかった。もともと横風を受ければ風上を向くのだが、艦尾が切断されてこの傾向が強まり、両舷に装備した舵が通常の数分の1の大きさであったためである。だが、港外にでれば北風のため、問題ないと福山艦長は判断し、日本回航が決断された。
  • 台湾から日本への直通航路は、沖縄経由であるがこの頃はもう沖縄戦が始まっており危険すぎたため、台湾海峡を横切り、中国大陸沿岸を北上、朝鮮半島を経て日本へ帰還することになった。
    • 3月20日馬公を出港、速度は6ノットしか出ず、乗組員も通常の3分の1以下、それぞれの部署も一人か二人しかおらず交代すらできなかった。発見された時が最後であった。幸い敵と遭遇することなく、台湾海峡の横断に成功、沿岸部の航行は昼は小島づたいに水深の浅い海面を北上、夜は島影で停泊を繰り返しながら北上した。気の休まる時間はなかったという。それでも3月26日、済州島に近づいた時はホッとした気分になったという。28日対馬海峡に差し掛かった頃、敵潜水艦ありとの情報が入る。緊張が走るものの、敵潜水艦はいなかったのか探知はできず無事通過する。翌29日午前、佐世保港入り口で上空にP-38が飛んでいるのを発見した。春風に気づかなかったのか攻撃されることはなく、無事佐世保港に入港した。昭和19年9月に門司港を出港して以来、半年ぶりの日本であった。

終わりの日

  • 佐世保港に入って安心したのもつかの間、ここ佐世保も馬公と同じように毎日のように空襲をうけ、いつ頭上に爆弾が降ってくるかわからない危険地帯であった。半年前に戦争中とは思えないくらい賑やかだった佐世保の街も勝つまではの軍事色一色になっていた。佐世保軍港も軍艦は見当たらず、魚雷艇らしき艦艇が数隻しか見えなかった。また建造途中で放棄された空母伊吹が港の片隅で赤錆びていた。
  • 4月1日よりドック入りし、6日まで調査が行われた。結局修理不可能の判定がくだされ、4月30日に第一護衛艦隊から除かれ第四予備艦となった。機銃など兵器は取り外され、砲弾、魚雷、爆雷、機銃弾等すべてを返納した。春風の軍艦としての生涯がここで終わりを告げたのであった。
    • もともと3分の1以下になっていた乗組員もさらに転属のため次々退艦していき、各科とも最小限の人間だけになった。特に砲術科と水雷科は全員転属となった。そして春風最後の艦長、福山艦長もまたこの頃退艦した。次の転属先は乗組員には知らされなかった。後任の艦長はなく、残留している中で先任の野武大尉が指揮をとった。
  • 4月8日、傷ついた駆逐艦4隻が佐世保に入港してくるのを艦橋の見張りが発見する。どこかで海戦でもあって傷ついての帰港だろうと話し合っていたという。後日不沈戦艦大和が沈んだこと、4隻の駆逐艦は、その時敵機の攻撃をうけて傷ついたものであると知ったという。
  • 6月28日深夜、佐世保はB29により空襲を受ける。春風の頭上をかすめるように次々と超低空で侵入し、市街地へ焼夷弾を落としていった。撃つ砲弾もそれを撃つ人間もいない春風には、なにもできなかった。佐世保の主だったところは焼け野原になっていた。
  • それからしばらくして、曳船に曳かれて、大村湾の入り口の大串村*10沖に移動した。ここは小島が多く、隠れるには最適の場所であった。ここには建造途中で放棄された空母や海防艦、春風のように修理不能と判定された大小の軍艦数隻が停泊する、いわば軍艦の墓場であった。軍艦達は、木や竹を切り出して甲板にならべ、付近の小島のように偽装していた。春風も同様に偽装するのに数日がかかった。その後は、防空壕堀に勤しんだ。竹による偽装の際に立派な竹を戦争に勝つためと切らしてもらい、協力してもらった大串村の住民にドブロクをもらったり、また春風の艦内を見物させたり激戦の話を聞かせたりしていた。
  • 8月9日11時過ぎ、南に閃光が走るのが見えた。それからしばらくして轟音が聞こえてきた。それがしばらく続いた。長崎のほうになにかすごい雷が落ちたらしいと話し合っていた。新聞電報で長崎に新型爆弾が落とされたらしいと入った。長崎への原爆投下であった。
  • 8月15日、終戦の詔勅。8月16日野武大尉は佐世保へ出頭。帰還、敗戦の訓示をする。8月23日より第一陣復員、8月26日は第二陣復員と、それぞれ故郷へ帰っていった。残務整理のため最後まで残っていた十数人も、11月半ばには陸上で生活することになり、春風を離れた。復員したのは11月29日であった。

その後の春風

  • 終戦後、兵器備品などを引き渡し後は佐世保港に繋がれていた。昭和22年10月、佐世保地方復員局より内務省に引き渡されることになった。当初の予定では大蔵省を経て秋田港の防波堤になるはずであったが、実際は京都竹野港の防波堤であった。
    • 当時の竹野村の村長野木善保が、昭和23年竹野浜に最初に漁港を築造した。その際、呉港から竹野の海まで春風を曳航し、現在もある堤防の位置で接岸させ土砂をいれて沈め堤防としたのであった。大型廃船を利用した日本初の軍艦堤防として、周辺町村の話題になったという。延長98m、事業費508万円であった。だが、直後のアイオン台風によって破壊されため、引き続き、復旧事業として方魂直立堤防が80m築造された。大破した春風の残骸は、スクラップとして売却された。
  • 防波堤としての役目も終え、本艦が解体されてから数年後の1955年、軍艦建造禁止が解除された日本は、白露型、朝潮型の設計、そして米駆逐艦の長所をミックスし、戦後初の国産戦闘艦を作りあげた。
    海上自衛隊初の国産護衛艦、その1番艦(DD-101)に「はるかぜ」の名が付けられた。
    運営Twitterにて「現代海自護衛艦にとっても大切な名前」と記されているのはこのことである。
    詳細は雪風ページ「雪風の帰還」項に譲るが、先に進水した2番艦(DD-102)「ゆきかぜ」とともに、発足間もない海上自衛隊を支えたのである。
    • 記念すべき国産護衛艦第1号を解体するに忍びなかったのか、はるかぜは1985年の除籍後も、永らく江田島の第1術科学校に浮き桟橋という名目で係留されていた。
      しかし退役した護衛艦に予算を割くことはできず、何らの保存措置も施されないまま老朽化が進行。危険な状態となったため、2002年ついに解体された。

この艦娘についてのコメント

最新の15件を表示しています。 コメントページを参照

  • 輸送ギミック2回目S勝利で来てくれた。正直ほっとした。輸送連合堀とか勘弁してほしいよほんと -- 2019-12-10 (火) 21:54:55
  • 輸送装備無しガチ編成で輸送破壊まで1度も泥せず輸送連合掘沼中ですが(旗風ヒューストン掘済) -- 2019-12-13 (金) 19:04:41
  • 燃料1万2千溶かしても来ず、2万貯めて再開したら2回で降臨した。ひとまず安心かな -- 2019-12-14 (土) 16:33:44
  • この子の髪型ドリルじゃない方が絶対かわいいと思う -- 2019-12-14 (土) 20:01:46
  • ギミック発動に向かって一発。3年かかってようやく着任してくれました! なおギミックはゲージ削りが足りずに不発(´・ω・`) -- 2019-12-17 (火) 00:06:52
  • バケツ150個以上使ってしまいましたが、やっと着任してしてくれました!ちょっと早めのクリスマスプレゼントです! -- 2019-12-23 (月) 23:37:15
  • やっと迎えに行ける!来てくれ! -- 2019-12-26 (木) 12:26:38
  • やっと迎えに行ける!来てくれ! -- 2019-12-26 (木) 12:26:40
  • E4Pマス掘りで来てくれた。これで全艦コンプリート。 -- 2019-12-27 (金) 18:32:49
  • E4Pマスで大みそかにやっと来てくれたわ…… -- 2019-12-31 (火) 14:46:02
  • あぁやっと逢えた!出た瞬間一瞬放心したわ -- 2020-01-02 (木) 23:26:21
  • 苦節数年第五駆逐隊がそろったー! -- 2020-01-12 (日) 15:15:11
  • お願いだから来てくれ・・・! -- 2020-01-13 (月) 22:04:27
    • やっっっと来てくれたーーー!ありがとーーー!!! -- 2020-01-14 (火) 12:30:13
  • 大破絵エロいっすね初めて実戦投入したけどやばいなこれは -- 2020-03-29 (日) 13:26:23
    • お知りになったのですね… -- 2020-03-29 (日) 13:42:30
  • わーい、新しいボイスだー!! -- 2020-04-23 (木) 20:20:05
お名前: URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

*1 シャーク (USS Shark、SS-314) 。
*2 セイルフィッシュ (USS Sailfish、SS-192) 。
*3 それぞれ仮称第5079号艦・第5080号艦。秋月型の船体を拡張し、雷装や機関出力を強化した改良型になる予定だった。
*4 日本軍はマニラ発、台湾の高雄行きの輸送船団をマタ船団と呼称し、マタ30船団は30番目の船団であった。
*5 捕虜輸送に使われた無標識の船舶の通称。船内の環境が劣悪な事からこう呼ばれた。
*6 助けを求めて乗船しようとした捕虜を、棒で海に突き落としたと言われる。
*7 よく似た事件として、1942年2月にオランダの輸送船ファン・イムホフ号が日本軍に撃沈された時、同乗させられたドイツ人抑留者をオランダ軍が見殺しにした事件がある。
*8 中国海南島の楡林発、台湾の高雄行きの輸送船団のこと。
*9 SS-314。山風またはが撃沈したとされるシャーク(SS-174)とは別の艦。
*10 現在の長崎県西海市西彼町。