No.442 | ||||
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竹(たけ) | 松型 2番艦 駆逐艦 | |||
艦船ステータス(初期値/最大値) | ||||
耐久 | 14 | 火力 | 5 / 25 | |
装甲 | 5 / 22 | 雷装 | 19 / 79 | |
回避 | 34 / 71 | 対空 | 19 / 58 | |
搭載 | 0 | 対潜 | 29 / 74 | |
速力 | 高速 | 索敵 | 9 / 24 | |
射程 | 短 | 運 | 28 / 88 | |
最大消費量 | ||||
燃料 | 15 | 弾薬 | 15 | |
装備 | ||||
12.7cm単装高角砲(後期型) | ||||
未装備 | ||||
装備不可 | ||||
装備不可 | ||||
改造チャート | ||||
竹 → 竹改(Lv51) | ||||
図鑑説明 | ||||
丁型駆逐艦、松型二番艦、竹だ。ああ、厳しい戦場だった。 強行輸送作戦の多号作戦、対空対潜が主の海上護衛では無用の長物と思われていたこの魚雷が役に立ったぜ。 最後の輝き、そして松型駆逐艦の奮闘、覚えていてくれよ。頼むぜ! |
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、改造直後の値とは異なります。
最大値はLv99の時の最大値を指します。
CV:竹達彩奈、イラストレーター:渡辺明夫
定型ボイス一覧
イベント | セリフ | 改装段階 | 備考 | 追加 | |
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竹 | 竹 改 | 追加 | |||
入手/ログイン | よお。お前が提督なんだって? 俺が丁型駆逐艦、松型の二番艦、竹。よろしくな。 いい……顔つきだな。気にいったぜ! | ◯ | 編集 | ||
よお、今日も元気そうだな。結構。 丁型駆逐艦、松型の二番艦、竹。いつでもいけるぜ。 いい顔つきだ。そうでなけりゃな! | ◯ | 編集 | |||
母港 | 編集 | ||||
詳細閲覧 | 何だ? 俺の出番か? | ◯ | ◯ | 編集 | |
いいだろう、任せろ。 | ◯ | ◯ | 編集 | ||
クリック時 | ん? 何だ? 俺に何か用か? ああ、この傷? なんでもねえよ。気にすんなって。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
ケッコンカッコカリ(反転) | あ、なんだお前。変な顔してるぞ。……これを、俺に。何だ? 爆発物じゃ、ねえよな……。 ああ、あれ、か? 噂の? あ、……ふっ、貰っとくぜ。……返さねーから、な。 | ◯ | 編集 | ||
ケッコン後母港(反転) | あ、お前疲れてねえか? ダメだろ、お前がそれじゃあ。休んどけって。その分、俺がなんとかするから。 | ◯ | 編集 | ||
放置時 | あ? ああ、あの声か。「竹、頑張れ」な。 今でもしっかり覚えているさ。忘れるものか。 心は受け取った。後は全力でやるだけさ。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
編成出撃 | 編集 | ||||
編成 | 第43駆逐隊、竹。抜錨だ! 遅れるな。 | ◯ | 編集 | ||
第三十一戦隊、竹。抜錨だ。 遅れるな! | ◯ | 編集 | |||
出撃 | 松型駆逐艦、竹。出るぜ、ああ、負けるかよ! 行くぞ! | ◯ | ◯ | 編集 | |
編集 | |||||
遠征選択 | 編集 | ||||
アイテム発見 | やってやるぜ! | ◯ | ◯ | 編集 | |
戦闘 | 編集 | ||||
開戦 | 見つけたぜ? 逃がすかよ! | ◯ | ◯ | 編集 | |
航空戦開始 | 編集 | ||||
攻撃 | 見つけたぜ? 逃がすかよ! | ◯ | 編集 | ||
構うことねえ、やっちまえ! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
なめるな、やってやるぜ! | ◯ | 編集 | |||
弾着観測射撃/対空CI | 編集 | ||||
夜戦開始 | 勿論行くだろ? 負ける気がしねえ。突っ込むぜ! | ◯ | ◯ | 編集 | |
夜戦攻撃 | なめるな、喰らえ! | ◯ | 編集 | ||
なめるな、やってやるぜ! | ◯ | 編集 | |||
特殊攻撃 | 【僚艦夜戦突撃】号令等 | 編集 | |||
戦闘時ステータス | 編集 | ||||
小破 | ちっ…… | ◯ | ◯ | 編集 | |
まだまだ! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
小破ボイスは2つあります。2つめは「小破/大破」ボイスです | 編集 | ||||
中破/大破 | ちっ、食らっちまったか。まだまだいけんだろうよ! | ◯ | 編集 | ||
中破/大破 | ちっ、食らっちまったか。……だがまだまだだ! 俺達はこれからだぜ! | ◯ | 編集 | ||
轟沈(反転) | ……沈むか、俺も。まあいい。桑、待ってろ。今行ってやんよ……。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
戦闘終了 | 編集 | ||||
勝利MVP | 俺か? ああ、まあたしかに敵は沈めたが……誇ることじゃねえよ。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
旗艦大破 | 小破ボイスと兼用されています。「小破/大破」ボイスが「旗艦大破」に該当します | 編集 | |||
その他 | 編集 | ||||
帰投 | ふぅ~っ、帰ってきたぜ。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
補給 | ありがてえ! | ◯ | ◯ | 編集 | |
編集 | |||||
改装/改修/改造 | ありがたいぜ。 | ◯ | 編集 | ||
ありがたい。だが、魚雷は外すなよ。頼むぜ。 | ◯ | 編集 | |||
いい装備だ、助かる。 | ◯ | ◯ | 編集 | ||
入渠(小破以下) | ちっ、こんなのかすり傷だ。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
入渠(中破以上) | わりい、ちっと直すわ。そしたらまた出る。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
建造完了 | 出来たってよ。 | ◯ | ◯ | 編集 | |
戦績表示 | 情報だな、待ってな。ん、これな。 | ◯ | ◯ | 編集 |
時報ボイス一覧
時刻 | セリフ | 改装段階 | 備考 | 追加 | |
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竹 | 竹 改 | 追加 | |||
00 | ああ、そうか。俺が担当か。わかった、任せろ。今丁度零時を回ったところだ。 | × | ◯ | 編集 | |
01 | 提督、マルヒトマルマルだ。……よし。 | × | ◯ | 編集 | |
02 | マルフタマルマルだ。よし、異常なしだ。 | × | ◯ | 編集 | |
03 | マルサンマルマルだ。ああお茶か。提督、助かる。 | × | ◯ | 編集 | |
04 | マルヨンマルマルだ。もうすぐ夜明けだな、よし。 | × | ◯ | 編集 | |
05 | マルゴーマルマルだ。提督、ほら、朝日だ。気持ちがいいな。よし、今日もやるぞ。 | × | ◯ | 編集 | |
06 | マルロクマルマルだ。よし、やろう。……総員、起こし! 朝だ! 艦隊総員、起こし! 今日も、やってやるぜ! | × | ◯ | 編集 | |
07 | マルナナマルマルだ。朝は、簡単でいいな? 麦飯とたくあん、そして味噌汁。完璧だ、足りないものはない。食え! | × | ◯ | 編集 | |
08 | マルハチマルマルだ。……なに、飯が? 何を言う。足りない足りないは工夫が足りないのだ。違うか? ……ん、よし。 | × | ◯ | 編集 | |
09 | マルキューマル……お、清霜さん。おはようございます。 | × | ◯ | 編集 | |
10 | ヒトマルマルマルだ。……あ? 馬鹿を言うな。清霜さんは、僚艦であると共に信頼できる先輩だ。ああ、間違いない。 | × | ◯ | 編集 | |
11 | ヒトヒトマルマルだ。うん、もうすぐ昼飯だな。よし。 | × | ◯ | 編集 | |
12 | ヒトフタマルマルだ。うん、提督よ、昼飯だ。昼飯といえばこれ、握り飯だ。 ……具だと? 何を言う。この潮風と握り飯の塩味、これで十分だろう。 特別にたくあんをやろう、よし。 | × | ◯ | 編集 | |
13 | ヒトサンマルマルだ。食うと眠くなるな。よし、昼寝だ。 | × | ◯ | 編集 | |
14 | ヒトヨンマルマルだ。そうだ。海上護衛、それは戦いの生命線だ。勿論、敵と会敵すれば俺は全力で行く。それだけだ。 | × | ◯ | 編集 | |
15 | ヒトゴーマルマ……ああ、春風さん。お疲れさまです。……は、竹は健在であります。何時でも、お供できます。 | × | ◯ | 編集 | |
16 | ヒトロクマルマルだ。……うん、春風さんはすごい。何がすごいってそりゃあ……まあ一言では言えないな。 言えることは、春風さんはすごいってことさ。……今にわかる。 | × | ◯ | 編集 | |
17 | ヒトナナマ……ああ、提督さ、見ろよ。日が落ちるぜ。……いつまでも、見ていたいな。提督もそう思うだろ? | × | ◯ | 編集 | |
18 | ヒトハチマルマルだ。もうこんな時間か。夕飯の支度をせんと。提督、今夜はどうする? | × | ◯ | 編集 | |
19 | ヒトキューマルマル。よし。出来たぜ、お待たせだ。竹特製の炊き込み飯だ。 ……そうだ、野菜の切れっ端の具だがうまいぞ。たんと食ってくれ。ほれ、味噌汁も。 | × | ◯ | 編集 | |
20 | フタマルマ……あ、誰だ! ……ああ、北上さんか。 ……え、差し入れ? ありがとう、大丈夫だ。うん、ちゃんとやってる。……な、提督? ほら。 | × | ◯ | 編集 | |
21 | でもさ、俺たち、アレは使うことがなくてよかったよ。今は本当にそう思う。 そんなことにはならないように、しっかり備えておかないと。……ああ、フタヒトマルマルだ。 | × | ◯ | 編集 | |
22 | 提督、フタフタマルマルだ。今日もよく頑張ったな。お疲れだ。俺たちも少しだけ休もうか。なに、少しだけだ。 | × | ◯ | 編集 | |
23 | フタサンマルマル。もうすぐ一日が終わるな。明日も、やってやるぜ。 | × | ◯ | 編集 |
季節ボイス一覧
季 節 | イベント | セリフ | 改装段階 | 備考 | 追加 | |
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竹 | 竹 改 | 追加 | ||||
春 | 桃の節句 | 編集 | ||||
春の訪れ | 編集 | |||||
ホワイトデー | 編集 | |||||
春 | 編集 | |||||
春本番 | 編集 | |||||
夏 | 梅雨 | 編集 | ||||
初夏 | 編集 | |||||
夏 | 編集 | |||||
盛夏 | 編集 | |||||
夏祭り | 編集 | |||||
秋 | 秋 | 編集 | ||||
秋刀魚 | 編集 | |||||
晩秋 | 編集 | |||||
ハロウィン | 編集 | |||||
秋のワイン | 編集 | |||||
冬 | 冬 | 編集 | ||||
師走 | 編集 | |||||
クリスマス | 編集 | |||||
年末 | 編集 | |||||
新年 | 編集 | |||||
節分 | はいはい聞いてるぜ。うちの節分はマジだろ。今年の俺達の鬼は?……はいはい、鹿島さんね。 よし、じゃあやっちまうか。かかれ! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
バレンタイン | あ-……なんだ、提督。これ、いるか? なんかよー、そういうもんらしいんで。 ……一応、一応だ! | ◯ | ◯ | 編集 | ||
周 年 | 周年記念 | 編集 |
ゲームにおいて 
- 2020/12/10、イベント「護衛せよ!船団輸送作戦」E-4突破報酬として実装。
キャラクター設定について 
- 嵐以来4隻目の俺っ娘で、駆逐艦としてはかなり強気な性格の子。
- 男勝りな話し方だがMVPをとっても手柄を謙遜し、改の時報では先輩に敬意を表す等、根は真面目でまっすぐな子。やはり松の妹である。
- 制服も細部が松と違い、腹部の重ね着の前が空いている上にその下は素肌なのでおへそ丸出し。
また、スカートの代わりにかなり丈の短いパンツを穿いている。 - 腰のスカーフは松とおそろい。
- 艤装は基本松と同じだが、松が左手で持っていた12.7cm単装高角砲(後期型)は左肩に装着。
その代わりに松が左肩に装備していた25mm三連装機銃は右肩に装備。両手を開けたステゴロスタイルになっている。
小ネタ 
- 駆逐艦「竹」は日本海軍が建造した戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦で、姉の松の他、妹達も完成しただけで30隻*1もいる。
- 松沈没前に完成したのは竹、梅、桃、桑だけでありその中で終戦まで健在だったのは竹のみのため、終戦直前に完成した駆逐艦初梅と艦歴が重なるのは竹のみである。*2
- 多くの姉妹たちの中でも、竹は幸運の星の下に生まれた艦とも言える。戦争後期に完成し、短い艦歴の中で、武勲と幸運に恵まれた艦であった。
略歴
1943 | 10.15 | 横須賀海軍工廠において起工 |
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1944 | 1.25 | 「竹」と命名 |
3.28 | 進水、横須賀鎮守府に所属 | |
6.16 | 竣工、駆逐艦長田中弘国海軍中佐のもと第11水雷戦隊に所属 | |
7.15 | 第43駆逐隊が新編され所属 | |
7.16-20 | 沖縄や南大東島への輸送作戦に従事 | |
8.14-18 | 台湾経由でパラオへ航行中、被雷した軽巡洋艦名取の救援に赴く | |
8.20 | 第43駆逐隊が新編の第31戦隊所属となる | |
8.26 | パラオ入港。程なく近海で座礁した駆逐艦五月雨の救援に赴く | |
8.30 | マニラ寄港。以後船団護衛に従事 | |
10.4-14 | マミ11船団の護衛に従事 | |
10.20-28 | マタ30船団の護衛に従事。生存者を救助しマニラに入港する | |
10.30 | 田中中佐の発病により、駆逐艦長職を飯村忠彦中佐が代行する | |
11.9-11 | 第三次多号作戦部隊として参加。しかし道中で先行して輸送作戦を実施し帰還途上の第四次部隊の一部艦艇と交代する事になり、マニラに帰還する。 | |
11.13 | マニラ大空襲に遭遇。空襲後残存艦艇と共にブルネイに退避する | |
11.15 | ブルネイ退避の途上、霞、潮と共に目的地を新南諸島に変えて寄港。 | |
11.17 | 第四航空戦隊、第43駆逐隊と合流。ここで漸く正式の後任艦長である宇那木勁少佐と合流する事が出来、駆逐艦長を交代する。 | |
11.21 | マニラ寄港。 | |
11.24-25 | 第五次多号作戦の第二梯団として参加。空襲を受け損傷し撤退する。 | |
11.26 | キャビテにて入渠修理 | |
12.1-4 | 第七次多号作戦部隊として参加。オルモック湾で進入してきた米駆逐艦3隻と交戦。僚艦「桑」を失うも竹の反撃で米駆逐艦クーパーを撃沈する。 | |
12.5 | マニラ寄港、キャビテで再び入渠修理 | |
12.15 | 応急修理を終え、本土回航のためマニラを出航 | |
12.18-20 | コブラ台風に遭遇、台湾高雄に避難 | |
12.31 | 台湾から船団を護衛し、釜山に寄港 | |
1945 | 1.2 | 呉入港 |
2.28 | 第31戦隊旗艦を継承 | |
3.15 | 第31戦隊が第二艦隊に配属 | |
3.17 | 旗艦を駆逐艦「花月」に移譲 | |
3.19 | 呉空襲 | |
4.20 | 大和の沖縄特攻により第二艦隊が壊滅。第31戦隊は連合艦隊直轄となる | |
4.26- | 後甲板に人間魚雷「回天」搭載工事を実施 | |
7.3 | 工事後屋代島日見海岸に接岸。その状態で終戦を迎える。 | |
10.25 | 除籍 | |
12.1 | 特別輸送艦に認定。復員業務に従事する。 | |
1946 | 7.26 | 復員業務を終え特別保管艦へ |
1947 | 7.16 | 特別保管艦の指定が解かれ、賠償艦としてイギリスに引き渡され、解体される。 |
戦歴 
竣工、そして南方進出 
- 1944年6月16日、横須賀海軍工廠で竣工した竹は第十一水雷戦隊に所属、竣工後も引き続き横須賀で工事を受けたのち、7月に瀬戸内海に移動、共に竣工したばかりの駆逐艦「冬月」「清霜」や妹たちと共に訓練に明け暮れる。
- 当時はソロモン諸島方面の戦いで大幅に消耗した駆逐艦の埋め合わせに松型を量産している時期であり、なおかつ年度が替わってすぐという事で各種兵学校新卒の志願兵が多く配属待ちとなっていたというタイミングも重なった事から、各科長が横須賀鎮守府人事部との交渉を重ねた結果、竹は就役初期の段階で既に多くの優秀な人材を勝ち取ることが出来たという。同年度末以降に竣工した艦の中には人員の2/3も新兵が占めるような状況となり練度も低い状態のまま実戦投入されていたものもあったという事を考えると、既に就役のタイミングの時点からしてその強運を発揮していたと言えるのかもしれない。
- 7月15日付で竹は姉妹の松、梅、桃と共に第43駆逐隊を編成する。しかし横須賀で別行動をとっていた姉の松は、翌16日に硫黄島に向けて出撃し、二度と戻る事はなかった。
- 第43駆逐隊は松型駆逐艦で編成された最初の駆逐隊で、最初の旗艦は梅。終戦までに全9隻*4が在籍、松、梅、桃の3隻が戦没した。
- しかし戦局が逼迫していたこの頃、最前線では駆逐艦のような小型で使い勝手の良い艦艇が必要とされ、艦の準備ができ次第、単艦で前線に送られる事が多く、隊として準備ができるまで待つというような悠長な事は出来なかった*5。このため駆逐隊も管理上の都合でしかなく、竹も完成後は隊から離れて活動することが殆どだった。
- この時期になると、戦争前半のソロモン方面での戦いで駆逐艦を大量損耗したツケが日本海軍に回ってきていて、駆逐艦不足が深刻化していた*6。姉の松にしても、隊が編成された次の日に、準備が出来ていたので単独で小笠原方面への緊急輸送任務に駆り出されて戦没してしまっている。この他にも第43駆逐隊では、艦が編入されると片っ端から単艦で前線に投入されたりした為管理が煩雑になり、もう一つの松型駆逐艦の隊として第52駆逐隊が編成されたりしている。
- 8月20日、対潜機動部隊である「第三十一戦隊」が発足、司令部を呉鎮守府に設置した。第43駆逐隊はこれに編入される。
- 第三十一戦隊は急増する日本の船舶損失を止めるための対策一つとして敵潜水艦が活動する海域に進出して積極的にこれを攻撃するハンターキラーとして編成された部隊である。特色としては航空戦隊ではないのに自前の航空隊たる933空が所属していたことである*7
- 連合艦隊のほうでは、海上護衛総隊に渡したら船団護衛のためにバラバラにされて使われるのではないかと疑っていたのであるが、結局はハンターキラーとして使われることはなかった。
- 結局第三十一戦隊は戦局の急転で船団護衛任務に数隻を割かれたり、レイテ沖海戦では機動部隊前衛の第二遊撃部隊が台湾沖航空戦での米機動部隊追撃に引き抜かれ、その穴埋めとして機動部隊の前衛に使われたり*9、レイテ沖海戦後はフィリピンでの一連の戦いで輸送護衛任務に従事し当時の司令官、江戸兵太郎少将含む司令部が全滅したりと、大きな損害を被りながら戦い続け、終戦時に残存するほぼ唯一の水上戦闘部隊として存続した。そして三十一戦隊編成から終戦までのわずか1年、編成時の艦で終戦時も在籍していたのは竹のみである。
- 初陣は1944年7月16日、南西諸島各方面への輸送作戦「呂号輸送」で、竹は第一輸送隊*10に所属、沖縄に向かい、7月17日には無事に沖縄中城湾に到着する。竹ら駆逐艦三隻はさらに第三輸送隊を編成して南大東島への緊急輸送を実施、20~21日にかけて無事に呉へ帰投した。
- 8月10日には清霜と共にパラオ方面緊急輸送を実施、8月17日にマニラに到達した2隻だが、翌18日には米潜水艦の攻撃で大破沈没した軽巡洋艦名取の救援に清霜、鬼怒、時雨、浦波らと共に出動している。この後清霜はパラオに向かい、竹は南西方面艦隊の指揮下に入って船団護衛任務に従事する事になる。
- ほかにもパラオ諸島北部で座礁した駆逐艦五月雨の救援にも出動している。竹到着の数時間前、五月雨は潜水艦バットフィッシュに雷撃され断裂状態で座礁している状態だった。
- 8月26日夜に現場に到着した竹は五月雨の生存者を救助したが、艦長の大熊安之助少佐は退艦を拒否し騒動となる。
- 竹の艦長田中弘國少佐は大熊艦長と海軍兵学校で同期だったため、田中艦長自ら説得し、どうにか大熊艦長を翻意させて竹に収容、事態を収束させている。
悲劇の春風船団 
- 10月18日、台湾沖航空戦で壊滅したはずの米機動部隊によるルソン島北部からマニラ湾にかけての大規模空襲が起こり、日本の艦船に被害が続出、更に20日にはレイテ湾に米軍が上陸し、米軍のフィリピン侵攻が本格化する。これに対して日本はフィリピン周辺の船舶の緊急避難を決定、19日にマニラ周辺の船舶12隻は駆逐艦春風、竹ら5隻の護衛をのもと「マタ30船団」通称春風船団を編成、20日23時40分にマニラを出港する。
- この頃になると日本側でも初歩的ではあるが船団護衛戦術というのができており、落伍船が出て隊列が伸びないよう司令艦が船団の最後尾につき、船団の両側に配置した護衛艦を指揮するというのが基本隊形であったが、春風は船団の先頭に位置していた。
- 船団は21日正午からの強風で船団は2つの集団にわかれてしまい、隊列は伸びる一方だった。更に針路上には7隻の米潜水艦が展開し、日本船団を待ち構えていた。23日17時30分ごろ、船団最後尾にいた元特設水上機母艦の特設運送船君川丸がソーフィッシュ(USS Sawfish, SS-276)の雷撃を受けて沈没、翌24日1時には貨客船黒龍丸が魚雷二本を受けて横転沈没、3時15分陸軍油槽船の菊水丸がスヌーク(USS Snook, SS-279)の雷撃を受けこれも沈没、7時58分には貨物船信貴山丸がドラム(USS Drum, SS-228)*11の雷撃を受けて輸送中の物資*12もろとも沈没、と船団は次々と米潜水艦の攻撃を受けて沈没していき、最終的には12隻中9隻が撃沈されてしまう。
- 伸び切った隊形のため船が雷撃されてそちらに護衛の艦が向かえば、別の船が雷撃される、という状況となってしまい、竹らは翻弄されてしまう。唯一の戦果である春風によるシャーク (USS Shark、SS-314) 撃沈も、大天丸に「他船を指揮し、前進すべし」と命令して自身は信貴山丸救助と潜水艦制圧に向かい、基準船となった大天丸はシードラゴン(USS Seadragon, SS-194)に雷撃される。大天丸は部隊輸送の帰りの空船であったため船体が浮かび上がって5ノットしか出せなかったが、魚雷2本は何とか回避。しかし、1本が命中し撃沈されてしまった。
- 竹はこの時営口丸と共に船員の救助にあたっていたが、営口丸もシードラゴンに雷撃され、再び海に投げ出された船員を竹と鞍崎が救助する。その後春風より営口丸の曳航指示が届いたが、敵潜がいる中で曳航作業をするのは危険であるため、朝になってからの牽引を決断する。だが23:50には営口丸は沈んでいたので、実施する事はなかった。
- この時、連合国軍捕虜を輸送していた阿里山丸が沈められたのだが、乗船していたアメリカ人捕虜1781人のうち救助されたのはわずか9人で、大半が死亡するという阿里山丸事件が発生する。竹は甲板上には既に救助した船員が多数*13いて収容が限界、更に前述の春風からの営口丸曳航命令が出で現場を離れなければいけなかったため、その後の悲劇に関わっていない。実際終戦後にこの事件が問題視され、連合国軍から艦長の田中弘國少佐と水雷長保坂博氏*14*15が戦犯容疑で取り調べられてるが、竹の行動に関しては問題なしと判断され、両名は無罪となっている。
- 竹は347名を救助後、高雄に直行、高雄入港後すぐにまた出港し別の陸軍船団を救助、春風は24日に16名、25日には29名を救助し26日高雄に帰港した。
多号作戦 
- レイテ沖海戦時、
レイテ沖海戦時、栗田艦隊に機動部隊直属の第10戦隊が引き抜かれ、穴埋めとして急遽第31戦隊に招集がかかる*16機動部隊前衛を務める筈の「第二遊撃部隊」が、台湾沖航空戦の誤報から端を発した連合艦隊の残敵掃討命令で出動させていて、前衛戦力が無くなってしまっていたので、その穴埋めとして急遽第三十一戦隊に招集がかかる。もはや他にまとまった戦力を出せる戦隊がなかったからだが、あまりにも急なため南方にいた竹を呼び戻す事はできず、竹は参加せずに済んでいる。 - そしてレイテ沖海戦後、竹を含めた残存中小艦艇はマニラ湾に集結、レイテ輸送作戦である「多号作戦」に従事する。
- 作戦の直前である11月3日、艦長の田中少佐が肺結核*17のため艦を去り、マニラ海軍病院に入院する。この時すでに後任の宇那木勁少佐が11月1日付で任命されていたが、当時宇那木少佐は内地にいて着任まで時間がかかるので、南西方面艦隊より飯村忠彦少佐*18を臨時艦長として任命、第3次多号作戦は飯村忠彦艦長の元で行われた。
- 11月9日、マニラ湾を出撃した作戦部隊は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将のもと、駆逐艦島風(旗艦)、初春、浜波、竹、第46号駆潜艇、第30号掃海艇、輸送船5隻で構成されていた。部隊はオルモック進出の途上、先行して輸送を成功させて帰還する第四次多号作戦部隊*19と遭遇する。
- ここで南西方面艦隊司令部より、第三次多号作戦部隊の初春と竹を、第四次部隊の駆逐艦長波、朝霜、若月と入れ替えるよう指示が出る。そしてこれが竹の運命を変える事になる。護衛戦力の一部を変更した第三次多号作戦部隊はオルモック湾手前で延べ347機もの米軍機の空襲を受け、朝霜を除いて全滅してしまう。
- 11月11日18時ごろ、竹らはマニラ湾に帰着する。2日後の13日、マニラ湾は大規模空襲に晒され、軽巡洋艦木曾、駆逐艦曙、沖波、秋霜、初春が沈没若しくは大破着底となり壊滅するが、竹はいち早く錨を上げてマニラ港を脱出する事に成功、無傷で切り抜けた。
乗員たちは「帰投したら空襲に出くわして運が悪い」「島風らと一緒にレイテに行けばよかった」と自嘲していたが、その後第三次多号作戦が朝霜を除いて全滅したことを聞くと、「竹は強運の艦だ」という認識が広まったという。 - なお、この「強運の艦だ」との認識が結果的に思いもよらないところへと繋がった可能性がある。他の艦が次の空襲を警戒し、魚雷を陸揚げして誘爆による爆沈を回避する中、竹は最大の武器である酸素魚雷を陸揚げすることなく積み続けたのである。これが結果的に後述の戦果に繋がったとも言えるのかもしれない。
- 作戦の直前である11月3日、艦長の田中少佐が肺結核*17のため艦を去り、マニラ海軍病院に入院する。この時すでに後任の宇那木勁少佐が11月1日付で任命されていたが、当時宇那木少佐は内地にいて着任まで時間がかかるので、南西方面艦隊より飯村忠彦少佐*18を臨時艦長として任命、第3次多号作戦は飯村忠彦艦長の元で行われた。
- 空襲を受けたことで残余の艦艇はブルネイに緊急避難することになり、竹も木村少将の指揮下でブルネイに移動、だが途上で霞、潮らと新南群島に目的地を変更、無事に到着する。ここで五十鈴や駆逐艦梅を乗り継いで前線に来た宇那木少佐がようやく着任し、マニラに引き返すことになる。11月20日付で第一水雷戦隊から第二水雷戦隊司令官となっていた木村少将のもと、竹は第五次多号作戦に参加する。
宇那木少佐の竹着任までの長き道のり
- 宇那木勁少佐は海兵64期で、開戦時は駆逐艦磯波水雷長、1942年4月には浦波の水雷長として第三次ソロモン海戦に参加、奮闘して沈んだ僚艦綾波の乗員を救助したりしている。その後海軍兵学校航海科教官、水雷学校高等科学生を経て、昭和19年10月に建造中の松型駆逐艦椿の艤装員長*20に就任する。
- 因みに、第三次ソロモン海戦で救助した綾波艦長の作間英邇大佐は、戦争末期の1945年3月1日付で最後の第43駆逐隊司令として着任しており、宇那木艦長ら竹乗組員たちの上官となる。
- だが宇那木少佐に最初に付けられた部下は機関科の中尉1名だけ。これでは仕事にならないので呉鎮守府に掛け合うと「貴様はもう転勤になっている」と言われる。聞くと竹艦長に着任しろとのこと。まもなく五十鈴が南方に向かうからこれに便乗しろと言われ、宇那木少佐は急き立てられるように五十鈴にのりこんだ。
- 宇那木少佐にとってほぼ2年ぶりの前線復帰であったが、2年も陸上勤務をしていたため「潮気」の抜けた少佐は船酔いになってしまい、同期である五十鈴航海長の好意で航海長のベットで寝込んでいた。
- 洋上勤務を長年していた者が、地上勤務を長期間務めたのちに海上勤務に戻ると、えてして船酔いを起こしてしまうという。海軍ではこれを「潮気が抜けた」と称していた。
- 宇那木少佐にとってほぼ2年ぶりの前線復帰であったが、2年も陸上勤務をしていたため「潮気」の抜けた少佐は船酔いになってしまい、同期である五十鈴航海長の好意で航海長のベットで寝込んでいた。
- こうしてベッドで船酔いと格闘していた宇那木少佐だったが、彼は不覚にもこれから着任する竹の所属する駆逐隊が第三十一戦隊の所属であり、その旗艦が五十鈴であることに気づいていなかった。
- 五十鈴は佐世保沖にさしかかると、同じくマニラに向かう第四航空戦隊*21や第十一水雷戦隊の桑、杉、貴下で竹と同じ第43駆逐隊の梅、桃、桐らと合流する。その際編隊を組むための入列運動を行ったのだが、第三十一戦隊司令部は部下となる新任艦長にこの入列運動を見せるために宇那木少佐を何度か艦内マイクで呼び出したのだが、船酔いに苦しむ少佐はこれに全く気付いていなかった。
- そして台湾の馬公に寄港した際、宇那木少佐は第三十一戦隊司令部に呼び出される。出頭すると、宮崎勲先任参謀から「まあ、飲めや」とグラスになみなみと注がれたウイスキーを渡される。
いやーな予感のした宇那木少佐は「君はこれから駆逐艦に移乗して、司令の薫陶を受けてこい」と、五十鈴から降ろされてしまう。- 後に五十鈴の副長から聞いた話では、艦橋に来なかった事で宮崎参謀は機嫌が悪く「こんな艦長、駆逐艦に追っ払え」と罰勅も兼ねてより航海が厳しい駆逐艦に移させたのである。
- 五十鈴を追い出された宇那木少佐だったが、代わりに乗艦する事になったのは竹と同じ松型駆逐艦「梅」で、竹の所属する第43駆逐隊の司令艦だった。しかも司令は開戦時に乗っていた磯波の艦長だった菅間良吉大佐だし、梅艦長は昭和14年に半年間、駆逐艦子日で共に勤務した大西快治少佐で、気心の知れた人たちだった。結局宇那木少佐は大西艦長のベットを提供してしてもらい、船酔いを克服する事が出来たという。
- 馬公停泊中、マニラが大空襲を受けてしまう。これを受けて部隊は二手に分かれ、宇那木少佐の乗る梅を含めた5隻*22は新南群島へ、五十鈴他*23らは引き続きマニラに向かう事になる。こうしてマニラに向かうところを新南群島に向かう羽目になった宇那木少佐だったが、空襲を受けてブルネイに避難する残存艦艇の数隻が新南群島に向かう事になり、幸運にもその中に竹がいた。このため宇那木少佐は新南群島で竹に合流する事が出来たのである。
- 宇那木少佐の幸運はこれだけではなかった。少佐の乗っていた五十鈴は、そのままマニラに向かった訳だが、コレヒドール島沖で米潜水艦の雷撃を受け艦尾切断の大損害を受ける。そこは宇那木少佐が同期の航海長の好意で寝ていた部屋に近く、もしそのまま五十鈴にいたら怪我もしくは戦死を遂げていたかもしれなかった。
- 馬公停泊中、マニラが大空襲を受けてしまう。これを受けて部隊は二手に分かれ、宇那木少佐の乗る梅を含めた5隻*22は新南群島へ、五十鈴他*23らは引き続きマニラに向かう事になる。こうしてマニラに向かうところを新南群島に向かう羽目になった宇那木少佐だったが、空襲を受けてブルネイに避難する残存艦艇の数隻が新南群島に向かう事になり、幸運にもその中に竹がいた。このため宇那木少佐は新南群島で竹に合流する事が出来たのである。
- 竹は第一輸送戦隊第二梯団*24として11月24日に出撃する。しかし第一梯団は避難先のマスパテ島南東で空襲をうけて全滅する。第二梯団も翌25日に避難先のマリンドケ島パラナカン湾で空襲を受け、輸送艦2隻が沈み残りの1隻も損傷する。
竹は搭載する3門の高角砲、24丁*25の機銃で応戦。直撃弾こそなかったが至近弾と機銃掃射で戦死15名*26、負傷60名を出す。さらに振動によりジャイロコンパスが故障、アンテナマストが破損する。 - 被害を受け宇那木艦長は竹の幹部*27を集め、作戦継続の可否の協議が始まる。
- 先任である航海長は積極的に任務を遂行しようと意見し、航海長もジャイロコンパス等が故障しているがマグネットコンパスで針路確保は出来るので航行は可能、あとは命令に従いますと発言。機関長も燃料流出で片道航行になるかもしれないが、命令なら従うと進言する。だが砲術長のみ「これ以上の進撃は無謀だ。基地に帰って後図を策すべき」と反対した。
- また第9号輸送艦からも「命令なら従うが、本艦は砲術長戦死、航海長負傷、乗員に多数の死傷者あり、また物資を運ぶために必要な大発を降ろすワイヤーが切断し、物資揚陸不可能」と連絡がくる。これでは作戦継続は無意味と宇那木艦長は判断、マニラへ引き返すことを決断する。後に高井航海長に艦長が語ったところによると、引き返すことを決めていたが全員一致なら仕方ない、だが一人でも同意見なら自分の考えをすすめるつもりであったという。
- 損害状況と反転の旨を司令部に打電した後、ミンドロ島西部を迂回する航路を取って*28マニラに帰還していた竹だったが、ミンドロ島西部に回り込んだ頃に司令部から「竹および9号輸送艦は、最善をつくしてオルモックに突入せよ」との返電が届いた*29。宇那木艦長はこれに対し、「命令違反で罰せられるなら、罰をあまんじて受けよう」と覚悟し、その電報を無視してそのまま翌26日午後にマニラに帰投した。
死闘!第7次多号作戦 
- 帰還した竹はカビテ軍港に移り応急修理を受け、完了後マニラ湾に移動、第七次多号作戦に参加するための準備に入る。
- 第七次多号作戦は三梯団で行われ、竹は同じ松型駆逐艦桑と共に3隻の輸送艦*30を護衛しオルモック湾に向かう事になった。梯団指揮官は桑艦長の山下正倫中佐で、11月30日に出撃し、12月2日に突入と決まった。
- 桑の山下中佐は海兵53期で、64期の宇那木にとっては大先輩であった。そもそも海兵53期なら駆逐艦長はもうすでに卒業しててもいいのだが、本人の希望で前線勤務となっていた。
- この頃、既にレイテ島への輸送作戦はほぼ不可能な状況であり、成功はほぼ不可能な状況であった。そうした中で司令部の参謀の中には「任務を果たすまで、絶対帰ってくるな」と参加する輸送艦に説いて回るような者もいたという。
- 宇那木艦長によると、竹にはそのような事を言ってくる参謀はいなかったそうだが、前回、自身の判断で輸送作戦を中止した事で、竹艦内には「前回の雪辱を果たすぞ」という空気があり*31、生きて帰らないぞという雰囲気だったという。前回の作戦で負傷した乗員の一部が、「ぜひ連れて行ってくれ」と病院を抜け出して戻ってきたりしている。
- 生還を期さないという考えから、竹では出撃前に搭載していた酒やビールを「海に飲ませるくらいなら」と開放し、各科ごとに宴会を催した。宇那木艦長も各科を回り、兵員たちと酒やビールを酌み交わした。
- 宇那木艦長によると、竹にはそのような事を言ってくる参謀はいなかったそうだが、前回、自身の判断で輸送作戦を中止した事で、竹艦内には「前回の雪辱を果たすぞ」という空気があり*31、生きて帰らないぞという雰囲気だったという。前回の作戦で負傷した乗員の一部が、「ぜひ連れて行ってくれ」と病院を抜け出して戻ってきたりしている。
- 11月30日、第三梯団は桑、竹、9号、140号、159号の単縦陣でマニラ湾を出撃、天候も良く海も穏やか、進行中米機の接触を幾度か受けたが攻撃はなく、航行は順調だった。しかし魚雷の点検中に事故で1本投棄することになり、搭載魚雷は3本になった。2日夜、梯団はオルモック湾に到着、物資揚陸を開始する。
- 一方、連合国軍は竹らの動きを察知していた。直ちに第120駆逐群次席指揮官のジョン・C・ザーム大佐が、乗艦する駆逐艦アレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692)と、モール (USS Moale, DD-693) 、クーパー (USS Cooper, DD-695) の計3隻を率いて12月2日日没にレイテ湾を出港、日本輸送部隊攻撃にオルモック湾に向かった。この日日中は豪雨であり、日没以後雨は止むが分厚い雲に覆われ真っ暗闇とレーダー装備のアメリカ艦隊に有利な条件下であった。
- だがオルモック湾突入直前、雲が薄くなってゆき、月齢17の明るい立待月がアレン・M・サムナー達を照らし出した。そこにPTボート狩りにセブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光や第一四一航空隊の瑞雲に接触され攻撃を受ける。うち50kg爆弾の至近弾によりアレン・M・サムナーに14人ほど負傷者が出た。そしてこの攻撃は断続的に数時間繰り返されたことが、後の竹の勝利に大きく関わる事になる。
- 120駆逐群も直ちに航空支援を要請したが、レイテ島タクロバン飛行場は地形が悪く、大雨が降ると泥沼と化し使用不能になるため、この日アメリカ軍は航空支援が出来なかった。そのためオルモック湾上空の制空権はこの時だけは日本側にあった*33。
- またアレン・M・サムナーとモールは閃光が強く、煙が少ない昼戦用発射薬を使っていたため、対空戦闘により見張りの目がくらんでしまい、監視能力が一時的に低下していた。もし夜戦用発射薬を使っていたクーパーが旗艦だったなら、こののちの戦闘の経緯も大きく変わっていたかもしれない。
- だがオルモック湾突入直前、雲が薄くなってゆき、月齢17の明るい立待月がアレン・M・サムナー達を照らし出した。そこにPTボート狩りにセブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光や第一四一航空隊の瑞雲に接触され攻撃を受ける。うち50kg爆弾の至近弾によりアレン・M・サムナーに14人ほど負傷者が出た。そしてこの攻撃は断続的に数時間繰り返されたことが、後の竹の勝利に大きく関わる事になる。
- そのころ竹と桑は揚陸完了までの間、二手に分かれて周辺の警戒をしていた。すると桑が警戒する湾南方から、米艦艇が接近するのが判明する。米海軍第120駆逐群の3隻だった。
- 発見した桑はこれを「巡洋艦3隻」と判断、各艦に警戒警報を出しつつ砲戦準備に入る。この時竹はオルモック湾の北西方向に微速で向かっており、艦長は第3戦速24ノットへの増速を命じる。舵は転舵中だったのでそのままとしたが、船というのは速度が遅いと舵が効かない。速力の上昇よりも先に舵が効きださないか、宇那木艦長はヒヤヒヤしたという。
- 宇那木艦長は転舵中、桑も応戦を開始しているのを目視していた。米側はまず桑砲撃を集中し、桑も応戦していたのだが1対3では勝ち目はなく9分ほどで決着がつき、桑は程なく沈没している。
- 増速しながら竹は突進、座礁寸前でかろうじて回頭に成功する。直ちに敵の方へ艦首を指向するが、そこにアレン・M・サムナー達の砲撃が降り注いだ。だがあまりに岸辺に近いところにいる竹を、アレン・M・サムナーは揚陸作業中の小型輸送船と認識する。一方クーパーは竹を小型DEと正しく認識した。竹も反撃するがアレン・M・サムナーからは船の向こうの陸上砲台の砲撃と認識され、自身の錨鎖庫とモールの船尾に命中したが損害は軽微と記録されている。
- この時、ザーム大佐は横陣を取るよう命じたが狭い湾内での頻繁なコース変更により陣形は乱れていた。また戦闘中も断続的に月光と瑞雲により攻撃は続いており、米側の方では桑と竹を攻撃しつつ上空の敵機に対応せねばならず、損傷はなくてもかなりの嫌がらせになっていた。*34
- 発見した桑はこれを「巡洋艦3隻」と判断、各艦に警戒警報を出しつつ砲戦準備に入る。この時竹はオルモック湾の北西方向に微速で向かっており、艦長は第3戦速24ノットへの増速を命じる。舵は転舵中だったのでそのままとしたが、船というのは速度が遅いと舵が効かない。速力の上昇よりも先に舵が効きださないか、宇那木艦長はヒヤヒヤしたという。
- 竹と米駆逐艦たちは、機銃すら打ち合う至近距離での戦闘に関わらず、不思議とどちらにも命中はでなかった。宇那木艦長は魚雷発射のタイミングを図っていたが、一度目は竹前部主砲の発砲炎で目がくらみ、二度目は水雷長の魚雷照準器と発射管を結ぶ電線が切れたため失敗、最後は伝令により発射タイミングを指示するという方法をとり、三度目で漸く魚雷2本を発射した。
- そもそも魚雷戦では目標の速度と進路を測定し、未来位置を計算しそこをめがけて発射する。だが速度と進路の測定には誤差がでるので*35、命中させるには複数発放つ必要があった。だがミスで魚雷を1本投棄、さらにもう1本が発射弁が故障して開かず、竹が発射できたのは2本だけ、命中する可能性は低かった。
- この間宇那木艦長は暗闇の中で何度も転舵を繰り返したことで、航海長に「前は大丈夫か」と何度も連呼していたという。
- 前回の出撃でジャイロコンパスが破壊された竹だが、カビテ軍港での応急修理では修理できず、航海長はジャイロコンパスなしでの操艦を余儀なくされていた。暗夜の、オルモック湾のような狭い湾内での戦闘航行で、実は高井航海長自身も位置の把握は出来ていなかったのだが、暗礁は湾口にしかなく岸に接近しなければ問題ないと考え、「大丈夫です」と答えていた。
- 竹が激しく湾内を駆け回っている時、漂流する桑の乗員の近くを通過した時、乗員から「竹頑張れ!」の声援がかけられたと宇那木艦長は証言している*36。そして竹の乗員らが待ち望んだ大音響が湾内に響き渡る。魚雷命中の轟音だった。
- この時、モールは魚雷の接近に気が付き*37回避したのだが、クーパーはこの直前、レーダーから航空機接近の警報がでていて見張り員らがそちらに気を取られてしまい、魚雷の接近に気が付かなかった。クーパーは右舷に魚雷を受け船体は二つに分断され、命中から1分で沈没した。
- 更に竹は故障した発射弁を強引に開け、再度雷撃を敢行する。だがこれは当たらず、外れた魚雷はアレン・M・サムナーの側を通り過ぎていった。
- ザーム大佐は2隻の乗組員たちが出撃以来空襲への対応などで疲れ果てていたことや、竹との砲戦でモールにも損傷が出ていた事もあり戦闘継続を断念、引き上げを命じた。
- アメリカ側は引き上げ決定の時点では雷撃の原因はわかっていなかったのだが、翌朝救助されたクーパーの生存者より湾をでてゆく2隻の潜水艦を見たと報告があったので、ザーム大佐は雷撃は潜水艦によるものと判断したという。
- 第120駆逐群が湾口、竹が湾の奥で反転し再び突進しようとした時、米駆逐艦の砲弾が竹の前部機械室に命中する。機関長より「浸水甚だしく前部機械室使用不能」との報告を受け、同時に竹は左舷に傾斜しだした。宇那木艦長は両舷停止を命令、竹は傾斜しながら停止する。一方これを見たザーム大佐は竹を撃破したと判断、そのままオルモック湾から撤退した。
- 竹に命中した砲弾は誰もいないところを通ってゆき、不発であったため負傷者が一名でただけであったが、艦に一つしかない肝心の復水器が破壊されてしまった。蒸気を発生させる水がなくなれば竹は動けなくなる。機関長は海水を炊いて、壊れるまでにセブ島にたどりつくと悲壮な決意を固めたが、揚陸を終えた第9号輸送艦が「陸揚げ完了」の発火信号をしながら沖に出てくる姿を見て、誰か*38が「第9号輸送艦からわけてもらえばいい」と呟いた。
- 宇那木艦長は直ちに接近、30度傾斜したまま第9号輸送艦に横付けした。一方の第9号輸送艦はなんで竹が接舷してきたか理解できず、左舷に大傾斜している事から艦を捨てて乗員が移乗してくると勘違いしたという。事情を知ると直ちに手動ポンプを準備、真水を汲み出し竹に補給する。これをマニラにたどりつくまで何度も繰り返した。
- 竹に命中した砲弾は誰もいないところを通ってゆき、不発であったため負傷者が一名でただけであったが、艦に一つしかない肝心の復水器が破壊されてしまった。蒸気を発生させる水がなくなれば竹は動けなくなる。機関長は海水を炊いて、壊れるまでにセブ島にたどりつくと悲壮な決意を固めたが、揚陸を終えた第9号輸送艦が「陸揚げ完了」の発火信号をしながら沖に出てくる姿を見て、誰か*38が「第9号輸送艦からわけてもらえばいい」と呟いた。
- 揚陸作業が終わったのが午前3時、この日レイテ島の夜明けは午前5時、明るくなる前に一刻も早くレイテ島から離れねばアメリカ軍の空襲がやってくる。このため竹は傾斜したまま探照灯を使う救助作業を断念、南西方面艦隊に空中援護を要請し、地上部隊には大発による桑生存者救助を依頼する。揚陸の終えた輸送艦2隻は先発させ、自身は第9号輸送艦からの真水補給を終え次第、それを護衛しつつ、3日3時にオルモック湾を出航、帰路に就く。
- 帰路、桑の沈没地点を通過した際、漂流する桑の生存者が「たけー」と呼ぶいう悲痛な叫び声が聞こえてきた。「大発動艇がくるから頑張れ」と励ますしかなかった乗員たちはこのときの叫びが忘れらないと証言している*39。
- 翌日は前日とかわって雲ひとつない晴天であった。竹上空に航空機が飛来、とっさに対空戦闘準備に入るも、このころは燃料不足から殆ど行われなくなっていた零戦隊による援護であった。最も危険なレイテ島西岸をすぎると零戦隊は去ってゆき、それと入れ替わるようにアメリカ軍の大型機が触接を開始、竹は傾斜しているため砲が旋回できず艦ごと方向をかえて対空射撃を行った。
- この時竹に驚くべき奇跡が起こった。30度もの艦の傾斜がひとりでに元に戻ったのである。
- 激しい戦闘の中、燃料を消費した竹は重量が軽くなり、喫水があがった事で破孔が水線より上となった。更に発砲やらコース変更などの振動で、浸水した水が破孔から船外に排水された結果、傾斜が回復するという奇跡が起こったのである。乗組員は竹は不沈艦であると更に確信したという。
- この時竹に驚くべき奇跡が起こった。30度もの艦の傾斜がひとりでに元に戻ったのである。
- 12月4日、竹はマニラに帰還する、マニラでは妹の梅、桃、杉らが第八次多号作戦の準備を行っていたが、杉の乗員は満身創痍で帰還した竹の姿を見て、作戦の困難さを悟ったという。一方で帰還した竹の乗員らは賞賛を受け、宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になったという。
日本回航 
- オルモック湾での戦いで損傷した竹は12月5日から15日まで工作部のあるキャビテ港にて修理を受ける。
- キャビテ港には修理待ちでろくに動けず、反撃も弱い損傷艦艇が並んでおりアメリカ軍にとっていい目標であった。事実ここが最後の地となった艦艇も多くいた。
- だが竹が修理に入ったころ、すぐ側のマニラは激しい空襲に襲われていたがキャビテ港はなぜか攻撃はなかった。まさに竹の行くところ危険が竹を避けてゆく。
- キャビテ港には修理待ちでろくに動けず、反撃も弱い損傷艦艇が並んでおりアメリカ軍にとっていい目標であった。事実ここが最後の地となった艦艇も多くいた。
- 現地での修理はとりあえず穴を塞ぎ復水器を修理し最低限航海できるようにしたが、ジャイロコンパスとアンテナマストは修理されなかった。日本で修理を行うため12月15日キャビテ港を出港し、高雄へ向かう。
- この時アンテナマストが破損していたため天候情報が入らず、ジャイロコンパスも故障していたため、進路を誤り竹は台風に突っ込んでしまう。15日から18日までの間、竹がどこに居たかは高井航海長も分からないという。18日になって雲の切れ間からようやく太陽が見えたので天測を実施し現在位置が判明、一路高雄へ向かった。
- もしこの時、竹が台風の存在を早くに知り、それを避けるコースを通っていたら、その針路上には暗号解読などで日本艦艇を待ち伏せていたアメリカ潜水艦部隊の餌食になっていた可能性があった。実際、12月15日に、竹が通るはずだった進路を通った妹の桃はワース・スキャンランド艦長率いる米潜水艦ホークビルによって沈められている。
- 因みに、後に「コブラ台風」と命名されるこの巨大台風は、フィリピン周辺で展開していたハルゼー率いる第3艦隊にも大損害*40を与えている。カミカゼは起きたのである。
- この時アンテナマストが破損していたため天候情報が入らず、ジャイロコンパスも故障していたため、進路を誤り竹は台風に突っ込んでしまう。15日から18日までの間、竹がどこに居たかは高井航海長も分からないという。18日になって雲の切れ間からようやく太陽が見えたので天測を実施し現在位置が判明、一路高雄へ向かった。
- 12月18日、竹は高雄に入港、20日に基隆にて船団と合流し、船団を護衛しながら日本を目指すことになる。
- 台湾から日本へ向かうルートは2つあった。東シナ海を突っ切るか、中国大陸沿岸を航行するか、である。
- だがこのころ東シナ海はアメリカ潜水艦達の狩場であり、中国大陸沿岸は在中アメリカ第14航空軍の空襲が待っていた。もはやこの頃は日本周辺ですら安全な場所はなかった。
- 台湾から日本へ向かうルートは2つあった。東シナ海を突っ切るか、中国大陸沿岸を航行するか、である。
- 宇那木艦長は沿岸航路を選択した。そしてその判断は吉とでる。このころ第14航空軍は中国大陸の日本陸軍への攻撃を開始したばかりであり、一時的に沿岸航路が手薄になっていたのだ。
- 幸いなことに宇那木艦長はかつて1939年頃より中国大陸沿岸封鎖任務に当たっていた経験があった事から、台湾海峡の季節風や時化、更には大陸近海に数多くいたジャンク船*41の特徴も熟知していた。そのため、潜水艦の航行が不可能なほど浅い大陸近海をいとも簡単に通過することができたのだという。
- こうして竹は米潜水艦にもアメリカ機にも発見される事無く、昭和20年元旦に竹ら船団は無事に北九州の玄関口門司港へ到着、次に徳山第3海軍燃料廠までタンカーを護衛、その後は佐世保で修理の予定であったが冬の玄界灘をもう一度越えるのは艦の状況から困難と宇那木艦長は判断して行き先を呉へと変更、本格的な修理に入る。
- 幸いなことに宇那木艦長はかつて1939年頃より中国大陸沿岸封鎖任務に当たっていた経験があった事から、台湾海峡の季節風や時化、更には大陸近海に数多くいたジャンク船*41の特徴も熟知していた。そのため、潜水艦の航行が不可能なほど浅い大陸近海をいとも簡単に通過することができたのだという。
帝国海軍の落日 
- この間、竹の所属する第三十一戦隊は第五艦隊解隊などもあり、連合艦隊附属を経て第二艦隊所属となる。2月28日から3月18日までの間、竹は臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めりもしている。
- 3月19日、米艦載機の大群が呉軍港を空襲、帝国海軍の本拠地呉に遂にアメリカ海軍が来襲する。ここには幸運艦として名高い雪風もいた。そして竹と雪風の幸運の違いも明確となったのである。
- この空襲の後、大和出撃に随伴する艦が募集される。竹は真っ先に手を上げた。この時竹は探信儀が故障していたが、水上戦闘なら関係あるまいと立候補したのである。だがそれっきりなんの音沙汰もなく、竹は再びドック入りして三式探信儀を装備、出てきた時には大和は沈んでいた。
- 4月6日の第二艦隊による沖縄突入作戦では、第三十一戦隊は途中まで航路警戒に従事しつつも突入自体には未参加となる。この作戦で第二艦隊は壊滅、艦隊は4月20日に解隊となり、第三十一戦隊は再度連合艦隊附属となる。
- 本土決戦が叫ばれる中で、陸海軍とも作戦は特攻作戦が主軸となり、日本海軍で唯一行動可能な水上艦艇部隊となった第31戦隊も特攻兵器「回天」を運用する事になり、竹も5月初旬に後甲板に回天搭載工事を行った。5月20日、連合艦隊は第三十一戦隊と第十一水雷戦隊で海上挺進部隊という軍隊区分を編成、竹の第43駆逐隊もこれに加わる。
- 疎開先の屋代島の陸上での下宿先や、日見海岸への電線の敷設等*44準備のために先遣隊が6月中旬屋代島を訪問、準備ができたため第三十一戦隊旗艦花月と竹を含む第43駆逐隊は7月21日呉を出港、疎開先の屋代島日見海岸へ向かう。呉が再びアメリカ海軍の空襲により残存艦艇が壊滅したのはそれから3日後の7月24日のことである。
帝国海軍最後の艦隊 
- 7月に第十一水雷戦隊が解隊、海上挺身部隊は第三十一戦隊のみとなる。旗艦花月以下第43、52駆逐隊、駆逐艦11隻これが帝国海軍最後の艦隊であった。
- 一応海軍は9月以降、残された最後の重油3500tを呉に用意し、第三十一戦隊に補給する予定ではあった。しかし日本各地に分散貯蔵された重油を呉まで輸送できたかどうかは疑わしい。
- そして第三十一戦隊以外の艦は燃料タンクに入っている分が最後であり、給油の予定はなかった。光海軍工廠ではパイプにカーリット爆薬を詰めて葉書で封をした爆弾や、パイプ砲身の迫撃砲等代用武器が生産されており、乗組員たちは本土決戦時、陸戦隊となる予定であった。なおカーリット爆弾は終戦後爆弾漁に使われたが、魚一匹浮いてこなかったという。
- 一応海軍は9月以降、残された最後の重油3500tを呉に用意し、第三十一戦隊に補給する予定ではあった。しかし日本各地に分散貯蔵された重油を呉まで輸送できたかどうかは疑わしい。
- 花月、桐、蔦が屋代島の対岸阿月相の浦に停泊、竹、槇、榧が日見海岸に停泊、桜井機関長の指導により藁縄で網を作り、艦の上を覆いそれに松の小枝等を差し込み偽装した。
- 屋代島における戦争は上空を通り過ぎてゆくアメリカ機だけであり、一度退屈しのぎに降下してきて竹達がいる付近で漁船を銃撃したものの発見されることはなかった。またある時は水偵が付近に不時着し、救助に向かううとそれは特攻機で、前部座席には搭乗員はいたが、後部座席には人間ではなく爆弾が乘っていた。生還した搭乗員は愛機は壊れ自分は怪我をしたが沖縄へ特攻へ行かなくて済んだと言っていたという。聞いていた竹の乗組員たちも彼の心情を理解した、誰も死にたくて死ぬわけではないのだから。然るべきところへ送り届けたが、その後の彼の消息は不明である。
- また、高井航海長の指導の元、竹の乗員は時々地引網を引き、新鮮な魚介類が竹の食卓に上がり乗員の士気の維持に繋がった。それにこの頃になると次の出撃こそ竹も自分たちも海軍もすべて最後だと乗員もわかっていたためか、海軍艦艇ではよくあった私的制裁も無くなっていたという。このように戦時中とはいえ楽しく充実した、だが虚しい日々が続いたのである。
- このころ駆逐隊司令は、宇那木艦長が浦波水雷長を務めていた頃、同じ駆逐隊所属だった駆逐艦綾波の艦長だった作間英邇大佐であり、ある時酒が切れた*45ため保坂水雷長は広島まで酒を買いに行く。しかし日帰りは難しかったので、呉の水行社で一泊する。だが翌朝、彼は広島方面で大轟音と巨大なキノコ雲を目撃する。1945年8月6日午前8時15分ごろ。広島への原爆投下だった。竹の加護は乗組員にも及ぶようである。
- なお日見海岸からは広島は屋代島の影になるため見えず、広島が壊滅した事は特に士官達も説明しなかったが、どの艦もそうだが電文は下士官兵が受信して上官に届けるのだから、この事は皆しっていたという。
- 8月15日、玉音放送により終戦を迎える。だが竹では雑音が酷くて何を言ってるのか誰もわからず、司令部に問い合わせて終戦の詔勅だとわかったのである。
特別復員船TAKE 
- 8月16日、屋代島にて機密書類の焼却。17日屋代島を出て呉へと向かう。この時戦時中もほとんど行わなかった第43駆逐隊としての編隊訓練、陣形運動を行い、これが最後となった。
- 18日以降、動ける残存艦艇が呉へと集結、松型姉妹も終戦時健在な艦はすべて集結する。竹も第43駆逐隊所属艦と桑以外の妹達はこの時初めてあった。なので松と桑以外の戦没艦と終戦時行動不能だった妹は竹も直接の面識はない。
- 乗組員たちも少数の回航員を除いて復員するが、復員輸送船として使われることになり組員を改めて呼び戻している。
- 昭和20年11月、海軍経理学校35期卒業*46の大塚達雄少尉が竹主計長として就任、海軍と竹にとって最後の主計長である。
- 因みに大塚少尉は着任後、竹の甲板に並ぶ野戦釜に驚いたという。前任の主計長に竹の調理室は乗組員たちの分の能力しかなく大勢の引揚者の分を作るためにあると説明されたのだが、早速陸上部隊から大きな蒸気釜をいくつももらってきて今までの重油バーナーの釜と交換する。だが機関停止中は蒸気が供給されず使えないため停泊中用として野戦釜は残した。
- 復員船として従事する事になった竹は、主に南方方面の引揚者を運ぶこと多かった。
- グアムでアメリカ軍の給油船から重油を給油した時、舷側中央にTAKEと書いてあるため、米兵も覚えやすく、乗員同士で物々交換が始まると「何を(TAKE)取るんだい?:と冗談も出たという。船酔いばかりで航海中は寝てばかりの軍医長は張り切ってギブアンドテイクをやっていたそうな。
- 大塚氏によるとこの時竹では士官と下士官兵の食事を同じにしたが、実は下士官兵の方が良いのを食べていたという。なぜなら彼らは引揚者のための分も勝手に食べていたからである。本来なら違反行為なのだが、引揚者の多くは船に不慣れで船酔いの者が多く、食事もろくに食べれないことが判明、以後気にしないことにしたという。
- 航海中は復員船に改装されたことで重い兵装の代わりに軽い引揚者用居住区となったため重心が下がり、極めて乗り心地の悪い船になった*47。大塚氏も復員業務中、45度までは経験したが、艦長によれば砲などをおろして居住区に変え、ダウンヘビーになったから水さえ入らなければ90度傾いても起き上がると豪語していたという。*48
- なお45度ともなれば艦橋にいても傾いた側の海に手が届きそうに感じたという。
- 1946年に復員輸送を終えた竹は、7月26日に特別保管艦となり横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留された。そして翌1947年7月16日には特別輸送艦の任も解かれシンガポールにてイギリスに賠償艦として引き渡され同地にて解体、波乱にとんだ生涯を終えた。
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