Last-modified: 2024-11-06 (水) 05:52:04
No.442
俺が丁型駆逐艦、松型の二番艦、竹。よろしくな。竹(たけ)松型 2番艦 駆逐艦
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久14火力5 / 25
装甲5 / 22雷装19 / 79
回避34 / 71対空19 / 58
搭載0対潜29 / 74
速力高速索敵9 / 24
射程28 / 88
最大消費量
燃料15弾薬15
装備
12.7cm単装高角砲(後期型)
未装備
装備不可
装備不可
改造チャート
竹改(Lv51)
図鑑説明
丁型駆逐艦、松型二番艦、竹だ。ああ、厳しい戦場だった。
強行輸送作戦の多号作戦、対空対潜が主の海上護衛では無用の長物と思われていたこの魚雷が役に立ったぜ。
最後の輝き、そして松型駆逐艦の奮闘、覚えていてくれよ。頼むぜ!

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、改造直後の値とは異なります。
最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:竹達彩奈、イラストレーター:渡辺明夫 (クリックするとセリフ一覧が開きます)

CV:竹達彩奈、イラストレーター:渡辺明夫

定型ボイス一覧

イベントセリフ改装段階備考追加

 

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入手/ログインよお。お前が提督なんだって?
俺が丁型駆逐艦、松型の二番艦、竹。よろしくな。
いい……顔つきだな。気にいったぜ!
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よお、今日も元気そうだな。結構。
丁型駆逐艦、松型の二番艦、竹。いつでもいけるぜ。
いい顔つきだ。そうでなけりゃな!
×編集
母港編集
詳細閲覧何だ? 俺の出番か?編集
いいだろう、任せろ。編集
クリック時ん? 何だ? 俺に何か用か?
ああ、この傷? なんでもねえよ。気にすんなって。
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ケッコンカッコカリ(反転)あ、なんだお前。変な顔してるぞ。……これを、俺に。何だ? 爆発物じゃ、ねえよな……。
ああ、あれ、か? 噂の? あ、……ふっ、貰っとくぜ。……返さねーから、な。
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ケッコン後母港(反転)あ、お前疲れてねえか?
ダメだろ、お前がそれじゃあ。休んどけって。その分、俺がなんとかするから。
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放置時あ? ああ、あの声か。「竹、頑張れ」な。
今でもしっかり覚えているさ。忘れるものか。
心は受け取った。後は全力でやるだけさ。
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編成出撃編集
編成第43駆逐隊、竹。抜錨だ! 遅れるな。×編集
第三十一戦隊、竹。抜錨だ。 遅れるな!×編集
出撃松型駆逐艦、竹。出るぜ、ああ、負けるかよ! 行くぞ!編集
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遠征選択やってやるぜ!編集
アイテム発見やってやるぜ!編集
戦闘編集
開戦見つけたぜ? 逃がすかよ!編集
航空戦開始編集
攻撃見つけたぜ? 逃がすかよ!×編集
構うことねえ、やっちまえ!編集
なめるな、やってやるぜ!×編集
弾着観測射撃/対空CIなめるな、喰らえ!×編集
夜戦開始勿論行くだろ? 負ける気がしねえ。突っ込むぜ!編集
夜戦攻撃なめるな、喰らえ!×編集
なめるな、やってやるぜ!×編集
特殊攻撃【僚艦夜戦突撃】号令等編集
戦闘時ステータス編集
小破ちっ……編集
まだまだ!編集
小破ボイスは2つあります。2つめは「小破/大破」ボイスです編集
中破/大破ちっ、食らっちまったか。まだまだいけんだろうよ!×編集
中破/大破ちっ、食らっちまったか。……だがまだまだだ! 俺達はこれからだぜ!×編集
轟沈(反転)……沈むか、俺も。まあいい。桑、待ってろ。今行ってやんよ……。編集
戦闘終了編集
勝利MVP俺か? ああ、まあたしかに敵は沈めたが……誇ることじゃねえよ。編集
旗艦大破小破ボイスと兼用されています。「小破/大破」ボイスが「旗艦大破」に該当します編集
その他編集
帰投ふぅ~っ、帰ってきたぜ。編集
補給ありがてえ!編集
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改装/改修/改造ありがたいぜ。×編集
ありがたい。だが、魚雷は外すなよ。頼むぜ。×編集
いい装備だ、助かる。編集
入渠(小破以下)ちっ、こんなのかすり傷だ。編集
入渠(中破以上)わりい、ちっと直すわ。そしたらまた出る。編集
建造完了出来たってよ。編集
戦績表示情報だな、待ってな。ん、これな。編集


時報ボイス一覧

時刻セリフ改装段階備考追加

 

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00ああ、そうか。俺が担当か。わかった、任せろ。今丁度零時を回ったところだ。×編集
01提督、マルヒトマルマルだ。……よし。×編集
02マルフタマルマルだ。よし、異常なしだ。×編集
03マルサンマルマルだ。ああお茶か。提督、助かる。×編集
04マルヨンマルマルだ。もうすぐ夜明けだな、よし。×編集
05マルゴーマルマルだ。提督、ほら、朝日だ。気持ちがいいな。よし、今日もやるぞ。×編集
06マルロクマルマルだ。よし、やろう。……総員、起こし! 朝だ! 艦隊総員、起こし! 今日も、やってやるぜ!×編集
07マルナナマルマルだ。朝は、簡単でいいな? 麦飯とたくあん、そして味噌汁。完璧だ、足りないものはない。食え!×編集
08マルハチマルマルだ。……なに、飯が?
何を言う。足りない足りないは工夫が足りないのだ。違うか? ……ん、よし。
×編集
09マルキューマル……お、清霜さん。おはようございます。×編集
10ヒトマルマルマルだ。……あ? 馬鹿を言うな。清霜さんは、僚艦であると共に信頼できる先輩だ。ああ、間違いない。×編集
11ヒトヒトマルマルだ。うん、もうすぐ昼飯だな。よし。×編集
12ヒトフタマルマルだ。うん、提督よ、昼飯だ。昼飯といえばこれ、握り飯だ。
……具だと? 何を言う。この潮風と握り飯の塩味、これで十分だろう。
特別にたくあんをやろう、よし。
×編集
13ヒトサンマルマルだ。食うと眠くなるな。よし、昼寝だ。×編集
14ヒトヨンマルマルだ。そうだ。海上護衛、それは戦いの生命線だ。勿論、敵と会敵すれば俺は全力で行く。それだけだ。×編集
15ヒトゴーマルマ……ああ、春風さん。お疲れさまです。……は、竹は健在であります。何時でも、お供できます。×編集
16ヒトロクマルマルだ。……うん、春風さんはすごい。何がすごいってそりゃあ……まあ一言では言えないな。
言えることは、春風さんはすごいってことさ。……今にわかる。
×編集
17ヒトナナマ……ああ、提督さ、見ろよ。日が落ちるぜ。……いつまでも、見ていたいな。提督もそう思うだろ?×編集
18ヒトハチマルマルだ。もうこんな時間か。夕飯の支度をせんと。提督、今夜はどうする?×編集
19ヒトキューマルマル。よし。出来たぜ、お待たせだ。竹特製の炊き込み飯だ。
……そうだ、野菜の切れっ端の具だがうまいぞ。たんと食ってくれ。ほれ、味噌汁も。
×編集
20フタマルマ……あ、誰だ! ……ああ、北上さんか。
……え、差し入れ? ありがとう、大丈夫だ。うん、ちゃんとやってる。……な、提督? ほら。
×編集
21でもさ、俺たち、アレは使うことがなくてよかったよ。今は本当にそう思う。
そんなことにはならないように、しっかり備えておかないと。……ああ、フタヒトマルマルだ。
×編集
22提督、フタフタマルマルだ。今日もよく頑張ったな。お疲れだ。俺たちも少しだけ休もうか。なに、少しだけだ。×編集
23フタサンマルマル。もうすぐ一日が終わるな。明日も、やってやるぜ。×編集


季節ボイス一覧


イベントセリフ改装段階備考追加

 

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桃の節句編集
春の訪れ編集
ホワイトデー編集
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春本番え? 花見? いいよ俺はそういうのは。梅、頼むわ。
松姉ぇ、今度夜戦演習なら付き合うからさ、悪ぃ。
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梅雨じめじめと降るねぇ。梅雨は俺は苦手だよ。ぱーっと晴れてるのが好きだな。提督はどうさ?編集
初夏あっちぃなー最近。何か妙に薄着の艦も多いが、まぁ、確かに楽そうだ。俺もそうすっかなー。編集
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盛夏編集
夏祭り編集
秋かぁ。なんかやたらいい匂いがするねぇ。あれか? 鎮守府秋祭りってやつか。いいね、美味そうだ。編集
秋刀魚聞いてるさ、秋刀魚獲るんだろ? ああ、漁場の平和を守るのも大事な仕事だ。やってやるぜ。編集
晩秋編集
ハロウィン編集
秋のワイン編集
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師走編集
クリスマスふぅーっ、贅沢なもんだな。飯もうまいぜ。
おっと、清霜さん、そいつは流石に食い過ぎじゃあ? 無理すっと、腹壊すぜ?
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年末あー、あれか。鎮守府年末大掃除ってやつ。師走だな。
うーん、こういうのはなんか苦手だねぇ。あ、やるけどさ。
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新年新しい年か、いいもんだな。提督、今年もよろしく頼む。ああ、俺もやってやるぜ。編集
節分はいはい聞いてるぜ。うちの節分はマジだろ。今年の俺達の鬼は?……はいはい、鹿島さんね。
よし、じゃあやっちまうか。かかれ!
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バレンタインあ-……なんだ、提督。これ、いるか? なんかよー、そういうもんらしいんで。
……一応、一応だ!
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周年記念編集
八周年記念艦隊は八周年なんだって? なんかすげえな。俺の艦歴より……ええっと……まあいいや、おめでと!編集
九周年記念艦隊は九周年なんだって? なんかマジすげえな。
俺の艦歴は、ええっと……まあいいな。提督、おめでと!
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十周年記念提督、艦隊は遂に十周年なんだって? ガチですげえな、どういうこっちゃ。まあいいよな。
提督、みんな、感謝だ!
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ゲームにおいて

キャラクター設定について

  • 以来4隻目の俺っ娘で、駆逐艦としてはかなり強気な性格の子。
    • 男勝りな話し方だがMVPをとっても手柄を謙遜し、改の時報では先輩に敬意を表す等、根は真面目でまっすぐな子。やはりの妹である。
  • 制服も細部が松と違い、腹部の重ね着の前が空いている上にその下は素肌なのでおへそ丸出し。
    また、スカートの代わりにかなり丈の短いパンツを穿いている。
  • 腰のスカーフは松とおそろい。
  • 艤装は基本松と同じだが、松が左手で持っていた12.7cm単装高角砲(後期型)は左肩に装着。
    その代わりに松が左肩に装備していた25mm三連装機銃は右肩に装備。両手を開けたステゴロスタイルになっている。
  • 偶然か狙ってか、声の妖精さんが「達彩奈」女史である。
    • 本艦以降の松型駆逐艦実装に際し、「狙って」担当声優を充てるようになっている。(の石橋女史、澤めぐ女史…)

期間限定グラフィック

  • 2021年7月15日のアップデートで、【水着mode】が実装された。
    • 逞しい腹筋とローレグっぷりをこれでもかと見せつけてくる。松型全般に言える事だが、中破絵がかなり痛々しい。
    • 白い上着に隠れているが、よく見ると左手には大きめの食べかけおにぎりを持っている。具は梅だろうか。
    限定グラフィック:水着mode

    限定グラフィック:水着mode
    あっちぃなー最近。何か妙に薄着の艦も多いが、まぁ、確かに楽そうだ。俺もそうすっかなー。

小ネタ

  • 駆逐艦「竹」は日本海軍が建造した戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦で、姉の松の他、妹達も完成しただけで30隻*1もいる。
  • 松沈没前に完成したのは竹、、桑だけでありその中で終戦まで健在だったのは竹のみのため、終戦直前に完成した駆逐艦「初梅」と艦歴が重なるのは竹のみである。*2
    • 松型は長姉のが竣工から3か月ちょっとで沈んでしまったので、長姉と面識のある妹は竹と(松型4番艦)しかいない*3。その桃も12月にはリンガエン湾西方で沈み、それ以降に完成した妹達との面識はないので、松型駆逐艦にとって実質的な長姉は竹だったのかもしれない
      • 橘型を除く16隻のうち、竹はほとんどの妹とは顔を合わせる機会が存在していた*4が、唯一檜(松型16番艦)だけは竹と邂逅できる機会があったかどうかが定かではない。強いて言えば、1944年12月18日から同20日の間竹は高雄に寄港しており、その直後に檜は樅とともに高雄に入港している*5ため、竹と檜が顔を合わす機会があったとすればこの高雄近海の洋上が唯一の機会であったと思われる*6
    • 多くの姉妹たちの中でも、竹は幸運の星の下に生まれた艦とも言える。戦争後期に完成し、短い艦歴の中で、武勲と幸運に恵まれた艦であった。
  • 竹の名を持つ艦としては二代目で、初代は樅型二等駆逐艦6番艦。川崎重工業神戸造船所で建造され、1919年12月25日に竣工した。
    1940年2月1日に除籍され、舞鶴海兵団の練習船となる。1944年2月10日には雑役船に編入され、海軍機関学校附属の練習船となる。戦時中は2代目の竹と併存していたのだが、舞鶴港を拠点としていたため顔を合わせたことはない。1948年に上部構造物の撤去の後、船体は鵜来型海防艦伊唐、橘型駆逐艦栃(終戦時未成、いずれも未実装)と共に軍艦防波堤となり秋田県秋田港北防波堤となった。1975年に秋田港の外港展開に伴う港拡張工事による新しい北防波堤を築造するため、旧来の北防波堤が撤去されるまで日本の復興と発展を支えた。
    略歴

    略歴

    194310.15横須賀海軍工廠において起工
    19441.25「竹」と命名
    3.28進水、横須賀鎮守府に所属
    6.16竣工、駆逐艦長田中弘国海軍中佐のもと第11水雷戦隊に所属
    7.15第43駆逐隊が新編され所属
    7.16-20沖縄や南大東島への輸送作戦に従事
    8.14-18台湾経由でパラオへ航行中、被雷した軽巡洋艦名取の救援に赴く
    8.20第43駆逐隊が新編の第31戦隊所属となる
    8.26パラオ入港。程なく近海で座礁した駆逐艦五月雨の救援に赴く
    8.30マニラ寄港。以後船団護衛に従事
    10.4-14マミ11船団の護衛に従事
    10.20-28マタ30船団の護衛に従事。生存者を救助しマニラに入港する
    10.30田中中佐の発病により、駆逐艦長職を飯村忠彦中佐が代行する
    11.9-11第三次多号作戦部隊として参加。しかし道中で先行して輸送作戦を実施し帰還途上の第四次部隊の一部艦艇と交代する事になり、マニラに帰還する。
    11.13マニラ大空襲に遭遇。空襲後残存艦艇と共にブルネイに退避する
    11.15ブルネイ退避の途上、と共に目的地を新南諸島に変えて寄港。
    11.17第四航空戦隊、第43駆逐隊と合流。ここで漸く正式の後任艦長である宇那木勁少佐と合流する事が出来、駆逐艦長を交代する。
    11.21マニラ寄港。
    11.24-25第五次多号作戦の第二梯団として参加。空襲を受け損傷し撤退する。
    11.26キャビテにて入渠修理
    12.1-4第七次多号作戦部隊として参加。オルモック湾で進入してきた米駆逐艦3隻と交戦。僚艦「桑」を失うも竹の反撃で米駆逐艦クーパーを撃沈する。
    12.5マニラ寄港、キャビテで再び入渠修理
    12.15応急修理を終え、本土回航のためマニラを出航
    12.18-20コブラ台風に遭遇、台湾高雄に避難
    12.31台湾から船団を護衛し、釜山に寄港
    19451.2呉入港
    2.28第31戦隊旗艦を継承
    3.15第31戦隊が第二艦隊に配属
    3.17旗艦を駆逐艦「花月」に移譲
    3.19呉空襲
    4.20大和の沖縄特攻により第二艦隊が壊滅。第31戦隊は連合艦隊直轄となる
    4.26-後甲板に人間魚雷「回天」搭載工事を実施
    7.3工事後屋代島日見海岸に接岸。その状態で終戦を迎える。
    10.25除籍
    12.1特別輸送艦に認定。復員業務に従事する。
    19467.26復員業務を終え特別保管艦へ
    19477.16特別保管艦の指定が解かれ、賠償艦としてイギリスに引き渡され、解体される。

戦歴

建造、そして南方進出

  • 1943年10月15日に横須賀海軍工廠軽船台で起工し、1944年3月28日に進水した。
    • 横須賀海軍工廠は1917年進水の江風型駆逐艦「江風(2代目)」以来長らく駆逐艦建造から遠ざかっていたものの、戦局の悪化と資材不足による建艦計画の狂いから、実に25年ぶりに駆逐艦建造を担当する事になった。
      • なお同じ横須賀市内には駆逐艦建造で知られる浦賀船渠が所在していた*7が、こちらは秋月型駆逐艦「宵月」建造を最後に終戦まで海防艦建造工場に変更となっている。
    • なお、同じ船台では竹起工の6日前に伊号第五十八潜水艦が進水している。奇遇にも竹と伊58はそれぞれ日本海軍で最後に魚雷戦にて敵艦艇を撃沈した水上艦・潜水艦という共通点がある。
  • 6月16日、竣工した竹は第十一水雷戦隊に所属、竣工後も引き続き横須賀で工事を受けたのち、7月に瀬戸内海に移動、共に竣工したばかりの駆逐艦「冬月」「清霜」や妹たちと共に訓練に明け暮れる。
    • 当時はソロモン諸島方面の戦いで大幅に消耗した駆逐艦の埋め合わせに松型を量産している時期であり、なおかつ年度が替わってすぐという事で各種兵学校新卒の志願兵が多く配属待ちとなっていたというタイミングも重なった事から、各科長が横須賀鎮守府人事部との交渉を重ねた結果、竹は就役初期の段階で既に多くの優秀な人材を勝ち取ることが出来たという。同年度末以降に竣工した艦の中には人員の2/3も新兵が占めるような状況となり練度も低い状態のまま実戦投入されていたものもあったという事を考えると、既に就役のタイミングの時点からしてその強運を発揮していたと言えるのかもしれない。
    幸運の竹幹部たち

    幸運の竹幹部たち

    • 初代艦長は海兵60期卒の田中弘國少佐。開戦時は第6号掃海艇艇長を務め、開戦初頭のボルネオ島攻略作戦に参加、敵機の空襲で艦が沈没するも生還する。その後重巡洋艦衣笠の水雷長となり、第三次ソロモン海戦に参加。11月14日早朝、重巡洋艦摩耶と共にヘンダーソン飛行場砲撃を終え、帰路についた衣笠は敵機の空襲をうける。そして艦橋に被弾し艦長ら幹部が全滅する中、生き残った田中水雷長が艦を指揮、結局衣笠は沈むが生存者と共に生還するという、二度の沈没を経験しながら生き残る幸運の人物だった。
      • 竹航海長を務めた高井義助氏は予備少尉任官後、第9駆逐隊付となりラバウル赴任を命ぜられるが、途中便乗した大鷹で赤痢騒ぎがあって2週間トラック島で隔離され、着任時乗艦予定だった峯雲はコロンバンガラ輸送に出撃してしまっていた。だが峯雲はそのまま帰ってこず、高井氏は寸でのところで命拾いしている。
        氏はそのまま司令駆逐艦だった朝雲配備となり、3回ほどコロンバンガラ輸送に従事したが、その間攻撃を受けることはなかった。その後数々の駆逐艦を乗り継ぎ、昭和19年5月竹艤装員を命ぜられた。
  • 7月15日付で竹は姉妹の松、梅、桃と共に第43駆逐隊を編成する。しかし横須賀で別行動をとっていた姉の松は、翌16日に硫黄島に向けて出撃し、二度と戻る事はなかった。
    当時の新設駆逐隊の現状

    当時の新設駆逐隊の現状

    • 第43駆逐隊は松型駆逐艦で編成された最初の駆逐隊で、最初の旗艦は梅。終戦までに全9隻*8が在籍、松、梅、桃の3隻が戦没した。
      • しかし戦局が逼迫していたこの頃、最前線では駆逐艦のような小型で使い勝手の良い艦艇が必要とされ、艦の準備ができ次第単艦で前線に送られる事が多く、隊として準備ができるまで待つというような悠長な事は出来なかった*9。このため駆逐隊も管理上の都合でしかなく、竹も完成後は隊から離れて活動することが殆どだった。
        • この時期になると、戦争前半のソロモン方面での戦いで駆逐艦を大量損耗したツケが日本海軍に回ってきていて、駆逐艦不足が深刻化していた*10。姉の松にしても、隊が編成された次の日に、準備が出来ていたので単独で小笠原方面への緊急輸送任務に駆り出されて戦没してしまっている。この他にも第43駆逐隊では、艦が編入されると片っ端から単艦で前線に投入されたりした為管理が煩雑になり、他の松型駆逐艦の隊として11月15日に第52駆逐隊が、1945年3月15日に第53駆逐隊がそれぞれ編成されたりしている*11
  • 8月20日、対潜機動部隊である「第三十一戦隊」が発足、司令部を呉鎮守府に設置した。第43駆逐隊はこれに編入される。
    第三十一戦隊とは

    第三十一戦隊とは

    • 第三十一戦隊は急増する日本の船舶損失を止めるための対策一つとして敵潜水艦が活動する海域に進出して積極的にこれを攻撃するハンターキラーとして編成された部隊である。特色としては航空戦隊ではないのに自前の航空隊たる933空が所属していたことである*12
      • 水上艦は第三水雷戦隊から横滑りした第30駆逐隊*13と第43駆逐隊、それに海上護衛総隊から派遣された海防艦5隻*14。海上護衛総隊の大井参謀はこの三十一戦隊が海上護衛総隊に編入されるものと考え、海防艦の中でも最精鋭を派遣したのにもかかわらず、連合艦隊直属になったことに不満を漏らしている。護衛空母とは神鷹と一度共同作戦を行い、海鷹とも行う予定があった。
    • 一方連合艦隊のほうでは、海上護衛総隊に渡したら船団護衛のためにバラバラにされて使われるのではないかと疑っていたそうである。しかし第三十一戦隊は結局はハンターキラーとして使われることはなく、船団護衛戦力として運用されることになる。
      • 第三十一戦隊は戦局の急転で船団護衛任務に数隻を割かれたり、レイテ沖海戦では前衛の第二遊撃部隊がの穴埋め*15として使われたり*16、海戦後はフィリピンでの一連の戦いで輸送護衛任務に従事し当時の司令官、江戸兵太郎少将含む司令部が全滅したりと、大きな損害を被りながら戦い続け、終戦時に残存するほぼ唯一の水上戦闘部隊として存続した。そして三十一戦隊編成から終戦までのわずか1年、編成時の艦で終戦時も在籍していたのは竹のみである*17
  • 初陣は1944年7月16日、南西諸島各方面への輸送作戦「呂号輸送」で、竹は第一輸送隊*18に所属、沖縄に向かい、7月17日には無事に沖縄中城湾に到着する。竹ら駆逐艦三隻はさらに第三輸送隊を編成して南大東島への緊急輸送を実施、20~21日にかけて無事に呉へ帰投した。
  • 8月10日には清霜と共にパラオ方面緊急輸送を実施、8月17日にマニラに到達した2隻だが、翌18日には沈没した軽巡洋艦名取の救援に清霜、鬼怒時雨浦波らと共に出動している。この後竹は南西方面艦隊の指揮下に入って船団護衛任務に従事する事になる
  • ほかにもパラオ諸島北部で座礁した駆逐艦五月雨の救援にも出動している。8月26日夜に現場に到着した竹は五月雨の生存者を救助したが、艦長の大熊安之助少佐は退艦を拒否しちょっとした騒動となる。この時は偶々田中艦長が大熊艦長と海軍兵学校で同期だったため、艦長自ら説得してどうにか大熊艦長を翻意させ竹に収容、事態を丸く収めている。

悲劇の春風船団

  • 10月18日、台湾沖航空戦で壊滅したはずの米機動部隊によるルソン島北部からマニラ湾にかけての大規模空襲が起こり、日本の艦船に被害が続出、更に20日にはレイテ湾に米軍が上陸し、米軍のフィリピン侵攻が本格化する。これに対して日本はフィリピン周辺の船舶の緊急避難を決定、19日にマニラ周辺の船舶12隻は駆逐艦春風、竹ら5隻の護衛をのもと「マタ30船団」通称春風船団を編成、20日23時40分にマニラを出港する。
  • この頃になると日本側でも初歩的ではあるが船団護衛戦術というのができており、落伍船が出て隊列が伸びないよう司令艦が船団の最後尾につき、船団の両側に配置した護衛艦を指揮するというのが基本隊形であったが、春風は船団の先頭に位置していた。
    • 船団は21日正午からの強風で船団は2つの集団にわかれてしまい、隊列は伸びる一方だった。更に針路上には7隻の米潜水艦が展開して日本船団を待ち構えていた。
      23日17時30分ごろ、船団最後尾にいた特設運送船君川丸がソーフィッシュ(USS Sawfish, SS-276)の雷撃を受けて沈没、翌24日1時以降、貨客船黒龍丸、陸軍油槽船菊水丸が米潜水艦スヌークの雷撃を受け相次いで沈没、更に7時58分には貨物船信貴山丸が潜水艦ドラム*19の雷撃を受けて沈没、と次々と沈没していき、最終的には12隻中9隻が撃沈されてしまう。
      • 伸び切った隊形のためあちこちで輸送船が襲われてしまい、護衛の竹らは翻弄されてしまう。唯一の戦果は春風によるシャーク撃沈だが、そのため船団指揮を継承した輸送船大天丸は別の潜水艦シードラゴンに雷撃され撃沈されてしまった。
    • この時、竹は営口丸と共に船員の救助にあたっていた。が営口丸もシードラゴンに雷撃され、再び海に投げ出された船員を竹と鞍崎が救助する。その後春風より営口丸の曳航指示が届いたが、敵潜がいる中で曳航作業をするのは危険であるため朝になってからの牽引を決断する。だが営口丸は沈んでしまい、実施する事はなかった。
    • なお、この襲撃では連合国軍捕虜を乗せていた阿里山丸も沈められたのだが、乗船していたアメリカ人捕虜1781人のうち救助されたのはわずか9人で、大半が死亡するという「阿里山丸事件」が発生する。竹は甲板上には既に救助した船員が多数*20いて収容が限界、更に前述の春風からの営口丸曳航命令が出で現場を離れなければいけなかったため、この事件には関わっていない。実際終戦後にこの事件が問題視され、連合国軍から艦長の田中弘國少佐と水雷長保坂博氏*21が戦犯容疑で取り調べられてるが、竹の行動に関しては問題なしと判断され、両名は無罪となっている。
  • こうして竹は347名を救助後、高雄に直行、高雄入港後すぐにまた出港し別の陸軍船団を救助、春風は24日に16名、25日には29名を救助し26日高雄に帰港した。

多号作戦

  • レイテ沖海戦時、レイテ沖海戦時、栗田艦隊に機動部隊直属の第10戦隊が引き抜かれ、穴埋めとして急遽第31戦隊に招集がかかる*22機動部隊前衛を務める筈の「第二遊撃部隊」が、台湾沖航空戦の誤報から端を発した連合艦隊の残敵掃討命令で出動させていて、前衛戦力が無くなってしまっていたので、その穴埋めとして急遽第三十一戦隊に招集がかかる。もはや他にまとまった戦力を出せる戦隊がなかったからだが、あまりにも急なため南方にいた竹を呼び戻す事はできず、竹は参加せずに済んでいる。
  • そしてレイテ沖海戦後、竹を含めた残存中小艦艇はマニラ湾に集結、レイテ輸送作戦である「多号作戦」に従事する。
    • 作戦の直前である11月3日、艦長の田中少佐が肺結核のため艦を去り、マニラ海軍病院に入院する。この時すでに後任の宇那木勁少佐が11月1日付で任命されていたが、当時宇那木少佐は内地にいて着任まで時間がかかるので、南西方面艦隊より飯村忠彦少佐*23を臨時艦長として任命、第3次多号作戦は飯村忠彦艦長の元で行われた。
      • 11月9日、マニラ湾を出撃した作戦部隊は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将のもと、駆逐艦島風(旗艦)、初春浜波、竹、第46号駆潜艇、第30号掃海艇、輸送船5隻で構成されていた。部隊はオルモック進出の途上、先行して輸送を実施して帰還する第四次多号作戦部隊*24と遭遇する。
      • ここで南西方面艦隊司令部より、第三次部隊の初春と竹を、第四次部隊の駆逐艦長波朝霜、若月と入れ替えるよう指示が出る。そしてこれが竹の運命を変える事になった。護衛戦力の一部を変更した第三次部隊はオルモック湾手前で延べ347機もの米軍機の空襲を受け、朝霜を除いて全滅してしまう。
      • 11月11日18時ごろ、竹らはマニラ湾に帰着する。2日後の13日、マニラ湾は大規模空襲に晒され、軽巡洋艦木曾、駆逐艦沖波秋霜初春が沈没若しくは大破着底となり壊滅するが、竹はいち早く錨を上げてマニラ港を脱出する事に成功、無傷で切り抜けた。
        乗員たちは「帰投したら空襲に出くわして運が悪い」「島風らと一緒にレイテに行けばよかった」と自嘲していたが、その後第三次部隊が朝霜を除いて全滅したことを聞くと、「竹は強運の艦だ」という認識が広まったという。
  • 空襲を受けたことで残余の艦艇はブルネイに緊急避難することになり、竹も木村少将の指揮下でブルネイに移動、だが途上でらと新南群島に目的地を変更、無事に到着する。ここで五十鈴や駆逐艦梅を乗り継いで前線に来た宇那木少佐がようやく着任し、マニラに引き返すことになる。11月20日付で第一水雷戦隊から第二水雷戦隊司令官となっていた木村少将のもと、竹は第五次多号作戦に参加する。
  • 宇那木少佐の竹着任までの長き道のり

    宇那木少佐の竹着任までの長き道のり

    • 宇那木勁少佐は海兵64期で、開戦時は駆逐艦磯波水雷長、1942年4月には浦波の水雷長として第三次ソロモン海戦に参加、奮闘して沈んだ僚艦綾波の乗員を救助したりしている。その後海軍兵学校航海科教官、水雷学校高等科学生を経て、昭和19年10月に建造中の松型駆逐艦椿の艤装員長*25に就任する。
      だが宇那木少佐に最初に付けられた部下は機関科の中尉1名だけ。これでは仕事にならないので呉鎮守府に掛け合うと「貴様はもう転勤になっている」と言われる。聞くと竹艦長に着任しろとのこと。まもなく五十鈴が南方に向かうからこれに便乗しろと言われ、宇那木少佐は急き立てられるように五十鈴にのりこんだ。
      • 宇那木少佐にとってほぼ2年ぶりの前線復帰であったが、2年も陸上勤務をしていたため「潮気の抜けた*26」少佐は船酔いになってしまい、同期である五十鈴航海長の好意で航海長のベットで寝込んでいた。
    • こうしてベッドで船酔いと格闘していた宇那木少佐だったが、彼は不覚にもこれから着任する竹の所属する駆逐隊が第三十一戦隊の所属であり、その旗艦が五十鈴であることに気づいていなかった。
      • 五十鈴は佐世保沖にさしかかると、同じくマニラに向かう第四航空戦隊*27や第十一水雷戦隊の桑、杉。竹と同じ第43駆逐隊の、桐らと合流する。その際編隊を組むための入列運動を行ったのだが、第三十一戦隊司令部は新任艦長にこの入列運動を見せるために宇那木少佐を何度か艦内マイクで呼び出したのだが、船酔いに苦しむ少佐はこれに全く気付いていなかった。
      • そして台湾の馬公に寄港した際、宇那木少佐は第三十一戦隊司令部に呼び出される。出頭すると、宮崎勲先任参謀から「まあ、飲めや」とグラスになみなみと注がれたウイスキーを渡される。
        いやーな予感のした宇那木少佐は「君はこれから駆逐艦に移乗して、司令の薫陶を受けてこい」と、五十鈴から降ろされてしまう。
        • 後に五十鈴の副長から聞いた話では、艦橋に来なかった事で宮崎参謀は機嫌が悪く「こんな艦長、駆逐艦に追っ払え」と罰勅も兼ねてより航海が厳しい駆逐艦に移させたのである。
    • 五十鈴を追い出された宇那木少佐だったが、代わりに乗艦する事になったのは竹と同じ松型駆逐艦「」で、竹の所属する第43駆逐隊の司令艦だった。しかも司令は開戦時に乗っていた磯波の艦長だった菅間良吉大佐だし、梅艦長は昭和14年に半年間、駆逐艦子日で共に勤務した大西快治少佐で気心の知れた人たちだった。結局宇那木少佐は大西艦長のベットを提供してしてもらい、船酔いを克服する事が出来たという。
      • この馬公停泊の間マニラが連合軍の大空襲を受けてしまう。そこで部隊は二手に分かれ、宇那木少佐の乗る梅を含めた5隻*28は新南群島へ、五十鈴他*29らは引き続きマニラに向かう事になる。こうしてマニラに向かうところを新南群島に向かう羽目になった宇那木少佐だったが、マニラからブルネイに避難する残存艦艇の数隻が新南群島に立ち寄る事になり、幸運にもその中に竹がいた。このため宇那木少佐は新南群島で竹に合流する事が出来たのである。
        • 宇那木少佐の幸運はこれだけではなかった。少佐の乗っていた五十鈴は、そのままマニラに向かった訳だが、コレヒドール島沖で米潜水艦の雷撃を受け艦尾切断の大損害を受ける。そこは宇那木少佐が同期の航海長の好意で寝ていた部屋に近く、もしそのまま五十鈴にいたら怪我もしくは戦死を遂げていたかもしれなかった。
  • 竹は第一輸送戦隊第二梯団*30として11月24日に出撃する。しかし第一梯団は避難先のマスパテ島南東で空襲をうけて全滅してしまう。第二梯団も翌25日に避難先のマリンドケ島パラナカン湾で空襲を受け、輸送艦2隻が沈み残りの1隻も損傷する。
    竹は搭載する3門の高角砲、24丁*31の機銃で応戦。直撃弾こそなかったが至近弾と機銃掃射で戦死15名*32、負傷60名を出す。さらに振動によりジャイロコンパスが故障、アンテナマストが破損する。
  • 被害を受け宇那木艦長は竹の幹部*33を集め、作戦を継続するか否かの協議をした。
    先任である水雷長は積極的に任務を遂行しようと意見し、航海長も損害はあるが航行は可能、あとは命令に従いますと発言。機関長も同様の意見を言う。だが砲術長のみ「これ以上の進撃は無謀だ。基地に帰って後図を策すべき」と反対した。
  • また生き残った第9号輸送艦からも「砲術長戦死、航海長負傷、乗員に多数の死傷者あり」「物資を運ぶために必要な大発を降ろすワイヤーが切断し、物資揚陸不可能」と損害報告がくる。結果宇那木艦長は作戦継続は不可能と判断しマニラへ引き返すことを決断する*34
  • 司令部に報告した後、ミンドロ島西部を迂回する航路を取って*35竹と第9号輸送艦は帰路についたが、その途上、司令部から「竹および9号輸送艦は、最善をつくしてオルモックに突入せよ」との返電が届いた*36。宇那木艦長はこれに対し、「命令違反で罰せられるなら、罰をあまんじて受けよう」と覚悟し、その電報を無視してそのまま翌26日午後にマニラに帰投した。

死闘!第7次多号作戦

  • 帰還した竹はカビテ軍港に移り応急修理を受け、完了後マニラ湾に移動、第七次多号作戦に参加するための準備に入る。
  • 第七次多号作戦は三梯団で行われ、竹は同じ松型駆逐艦桑と共に3隻の輸送艦*37を護衛しオルモック湾に向かう事になった。梯団指揮官は桑艦長の山下正倫中佐で、11月30日に出撃し、12月2日に突入と決まった。
    • 桑の山下中佐は海兵53期で、64期の宇那木にとっては大先輩であった。そもそも海兵53期なら駆逐艦長はもうすでに卒業しててもいいのだが、本人の希望で前線勤務となっていた。
  • この頃、既にレイテ島への輸送作戦はほぼ不可能な状況であった。そうした中で司令部の参謀の中には「任務を果たすまで、絶対帰ってくるな」と参加する輸送艦に説いて回るような者もいたという。
    • 宇那木艦長によると、竹にはそのような事を言ってくる参謀はいなかったそうだが、前回、自身の判断で輸送作戦を中止した事で、竹艦内には「前回の雪辱を果たすぞ」という空気があり*38、生きて帰らないぞという雰囲気だったという。前回の作戦で負傷した乗員の一部が、「ぜひ連れて行ってくれ」と病院を抜け出して戻ってきたりしている。
      • 生還を期さないという考えから、竹では出撃前に搭載していた酒やビールを「海に飲ませるくらいなら」と開放し、各科ごとに宴会を催した。宇那木艦長も各科を回り、兵員たちと酒やビールを酌み交わした。
  • 11月30日、第三梯団は桑、竹、9号、140号、159号の単縦陣でマニラ湾を出撃、天候も良く海も穏やか、進行中米機の接触を幾度か受けたが攻撃はなく、航行は順調だった。しかし魚雷の点検中に事故で1本投棄することになり、搭載魚雷は3本になった。2日夜、梯団はオルモック湾に到着、物資揚陸を開始、竹も先日沈没した駆逐艦島風の生存者*39を収容し、桑と共に周辺の警戒を行う。
  • 一方、連合国軍は竹らの動きを察知しており、第120駆逐群次席指揮官のジョン・C・ザーム大佐が、乗艦する駆逐艦アレン・M・サムナーと、モール 、クーパー の計3隻を率いて12月2日日没にレイテ湾を出港オルモック湾に向かった。この日は豪雨であったが日没以後雨は止み、オルモック湾突入直前には雲が薄くなって明るい月光がアレン・M・サムナー達を照らし出した。
    • 月光に照らし出される120駆逐群を、戦闘八〇四飛行隊の月光や第一四一航空隊の瑞雲が発見、攻撃を開始する。そしてアレン・M・サムナーが至近弾を受け14人ほど負傷者が出た。
      120駆逐群も直ちに航空支援を要請したが、レイテ島の飛行場は使用不能にとなっていて、この時ばかりは航空支援が出来なかった*40
  • そのころ竹と桑は揚陸完了までの間、二手に分かれて周辺の警戒をしていた。すると湾南方から120駆逐群の3隻が接近するのを桑が発見する。桑はこれを「巡洋艦3隻」と判断、各艦に警戒警報を出しつつ砲戦準備に入った。その頃竹はオルモック湾の北西方向に微速で向かっており、宇那木艦長は転舵しつつ第3戦速*41への増速を命じる。
    • 竹が転舵をしている間、米側はまず桑へ砲撃を集中する。桑も応戦していたのだが1対3では勝ち目はなく、桑は大破大炎上のうえ程なく沈没している。
  • 転舵を終える頃より120駆逐群の砲撃が竹に降り注ぎだした。だがアレン・M・サムナーは竹を揚陸作業中の小型輸送船と認識する*42
    • ザーム大佐は横陣を取るよう命じたが頻繁な変更指示で陣形は乱れてしまう。また戦闘中も断続的に月光と瑞雲により攻撃は続いており、これが120駆逐群の戦闘行動を妨害した*43
  • 宇那木艦長は双方が機銃まで動員して撃ち合うなか、魚雷発射のタイミングを図っていた。しかしなかなか成功せず、三度目で漸く魚雷2本を発射した*44。やがて竹の乗員らが待ち望んだ大音響が湾内に響き渡る。魚雷命中の轟音だった*45
    • 竹の放った魚雷をモールは気が付き*46回避したが、クーパーは航空機接近の警報で見張り員らがそちらに気を取られてしまい、魚雷の接近に気が付かなかった。クーパーは右舷に魚雷を受け船体は二つに分断され、命中から1分で沈没した。
  • 一方、竹も米駆逐艦の砲弾が前部機械室に命中する。浸水により前部機械室使用不能となり竹は左舷に傾斜しだした。宇那木艦長は両舷停止を命令、竹は傾斜しながら停止する。これを見たザーム大佐は竹を撃破したと判断、クーパーの沈没とモールの損傷、更に乗員の疲弊もあり、ザーム大佐は戦闘継続を断念して引き上げを命じた*47
    • 竹に命中した砲弾は不発であったため負傷者が一名でただけであったが、艦に一つしかない復水器が破壊されてしまう。
      蒸気を発生させる水がなくなれば竹は動けない。だが海水を代用すると機関が壊れ最悪二度と使えなくなってしまう。機関長らは壊れるまでにセブ島にたどりつくと悲壮な決意を固めたが、揚陸を終えた第9号輸送艦が「陸揚げ完了」の発火信号をしながら沖に出てくる姿を見て、誰か*48が「第9号輸送艦からわけてもらえばいい」と呟いた。
      • 竹は直ちに第9号輸送艦に接近、30度傾斜したまま横付けした。一方の第9号輸送艦はなんで竹が接舷してきたか理解できず、左舷に大傾斜している事から艦を捨てて乗員が移乗してくると勘違いしたという。事情を知ると直ちに手動ポンプを準備、真水を汲み出し竹に補給してなんとか解決した。
  • 午前3時、全揚陸作業が終了する。夜明けは午前5時なので明るくなる前に一刻も早くレイテ島から離れねばアメリカ軍の空襲がやってくる。このため竹は桑生存者の救助作業を断念、南西方面艦隊に空中援護を要請し地上部隊には大発による桑生存者救助を依頼する。揚陸の終えた輸送艦2隻は先発させ、自身は第9号輸送艦からの真水補給を終え次第共にオルモック湾を出航、帰路に就く。
    • 帰路、桑の沈没地点を通過した際、漂流する桑の生存者が「たけー」と呼ぶいう悲痛な叫び声が聞こえてきた。「大発動艇がくるから頑張れ」と励ますしかなかった乗員たちはこのときの叫びが忘れらないと証言している*49
      • 宇那木艦長も、桑の生存者救助を断念せざるをえなかった事について「肺腑をえぐられるような思い」「戦争とは、なんとむごいものか、かなしいものかとつくづく胆に銘じました」と回想する程に悔やんでいた。桑生存者のひとり山本貢氏*50によれば、1972年に桑の慰霊碑が建立された際に、宇那木元艦長が志賀元水雷長を通じて慰霊日参拝のため案内を依頼したものの、参拝予定日の前日に逝去してしまったという。宇那木艦長は悔悟の念が募り過ぎて英霊の下に直に謝罪に行ったのではないか、とは、山本氏からこの話を聞いた人物による言葉である*51
  • 3日は前日とかわって雲ひとつない晴天であった。船団は零戦隊による援護を受けたが、彼らが去ってゆくと入れ替わるようにアメリカ軍の大型機が触接を開始、竹は傾斜しているため砲が旋回できず艦ごと方向をかえて対空射撃を行った。
    • だがこの戦闘中、何故か艦の傾斜がひとりでに元に戻ってしまう。
      • 原因は燃料を消費した事で重量が軽くなり、喫水があがった事で破孔が水線より上となった。更に発砲やらコース変更などの振動で水が破孔から船外に排水された結果、傾斜が回復するという奇跡が起こったのである。
  • 12月4日、幾多の幸運に恵まれた竹はマニラに帰還する。マニラでは妹の梅、桃、杉らが第八次多号作戦の準備を行っていたが、杉の乗員は満身創痍で帰還した竹の姿を見て作戦の困難さを悟ったという。
    一方で帰還した竹の乗員らは賞賛を受け宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になったという。

日本回航

  • オルモック湾での戦いで損傷した竹は12月5日から15日まで工作部のあるキャビテ港にて修理を受ける。
    キャビテ港には修理待ちでろくに動けず、反撃も弱い損傷艦艇が並んでおりアメリカ軍にとっていい目標であった。事実ここが最後の地となった艦艇も多くいた。
    • だが竹が修理に入ったころ、すぐ側のマニラは激しい空襲に襲われていたがキャビテ港はなぜか攻撃はなかった。まさに竹の行くところ危険が竹を避けてゆく。
  • 現地での修理はとりあえず穴を塞ぎ復水器を修理し最低限航海できるようにしたが、ジャイロコンパスとアンテナマストは修理されなかった。日本で修理を行うため12月15日キャビテ港を出港し、高雄へ向かう。
    • この時アンテナマストが破損していたため天候情報が入らず、ジャイロコンパスも故障していたため、進路を誤り竹は台風に突っ込んでしまう。15日から18日までの間、竹がどこに居たかは高井航海長も分からないという。
      18日になって雲の切れ間からようやく太陽が見えたので天測を実施し現在位置が判明、一路高雄へ向かった。
    • もしこの時、竹が台風の存在を早くに知り、それを避けるコースを通っていたら、その針路上には暗号解読などで日本艦艇を待ち伏せていたアメリカ潜水艦部隊の餌食になっていた可能性があった。実際、12月15日に竹が通るはずだった進路を通った妹のは、米潜水艦ホークビル*52によって沈められている。
      • 因みに、後に「コブラ台風」と命名されるこの巨大台風は、フィリピン周辺で展開していたハルゼー率いる第3艦隊にも大損害*53を与えている。カミカゼは起きたのである。
  • 12月18日、竹は高雄に入港、20日に基隆にて船団と合流し、船団を護衛しながら日本を目指すことになる。
    • 台湾から日本へ向かうルートは2つあった。東シナ海を突っ切るか、中国大陸沿岸を航行するか、である。
      だがこのころ東シナ海はアメリカ潜水艦達の狩場であり、中国大陸沿岸は在中アメリカ第14航空軍の空襲が待っていた。もはやこの頃は日本周辺ですら安全な場所はなかった。
  • 宇那木艦長は沿岸航路を選択、そしてその判断は吉とでる。このころ第14航空軍は中国大陸の日本陸軍への攻撃を開始したばかりであり、一時的に沿岸航路が手薄になっていたのだ。
    更に宇那木艦長はかつて1939年頃より中国大陸沿岸封鎖任務に当たっていた経験があった事から、台湾海峡の季節風や時化、更には大陸近海に数多くいたジャンク船*54の特徴も熟知していた。そのため、潜水艦の航行が不可能なほど浅い大陸近海をいとも簡単に通過することができたのだという。
    • こうして竹は米潜水艦にもアメリカ機にも発見される事無く、昭和20年元旦に竹ら船団は無事に北九州の玄関口門司港へ到着、次に徳山第3海軍燃料廠までタンカーを護衛、その後は佐世保で修理の予定であったが冬の玄界灘をもう一度越えるのは艦の状況から困難と宇那木艦長は判断して行き先を呉へと変更、本格的な修理に入る。

帝国海軍の落日

  • この間、竹の所属する第三十一戦隊は第五艦隊解隊などもあり、連合艦隊附属を経て第二艦隊所属となる。2月28日から3月18日までの間、竹は臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めたりもしている。
  • 3月19日、米艦載機の大群が呉軍港を空襲、帝国海軍の本拠地呉に遂にアメリカ海軍が来襲する。ここには幸運艦として名高い雪風もいた。
    • この空襲で雪風はアメリカ軍機数十機による集中攻撃を受けたにもかかわらず無傷だった。一方竹には殆ど敵機は襲来せず、本来なら対空戦闘時は砲術員らを応援*55する水雷科員達はそれもなく、他の艦の対空戦闘の見物をしていた。
      攻撃を受けても無傷という幸運の雪風と、そもそも攻撃すらされない幸運という竹の対照的な事例である*56
      • この空襲の後、竹は再びドック入りして三式探信儀を装備する改修を受ける。工事中の4月6日に第二艦隊による沖縄突入作戦が実施され、所属の第三十一戦隊は途中まで航路警戒に従事したが突入自体には参加しなかった。
        この作戦で第二艦隊は壊滅し4月20日付で解隊、第三十一戦隊は再度連合艦隊附属となる。
  • 本土決戦が叫ばれる中で、陸海軍とも作戦は特攻作戦が主軸となり、日本海軍で唯一行動可能な水上艦艇部隊となった第三十一戦隊も特攻兵器「回天」を運用する事になった。竹も5月初旬に後甲板に回天搭載工事を行い、5月20日連合艦隊は第三十一戦隊と第十一水雷戦隊で「海上挺進部隊」を編成、竹もこれに加わる。
    • 部隊は屋代島に疎開する事になり、現地の受け入れ準備が済むと、竹は第三十一戦隊旗艦花月らと7月21日呉を出港、疎開先の屋代島日見海岸へ向かう。呉が再びアメリカ海軍の空襲により残存艦艇が壊滅したのはそれから3日後の7月24日のことである。

帝国海軍最後の艦隊

  • 7月に第十一水雷戦隊が解隊、海上挺身部隊は第三十一戦隊のみとなる。旗艦花月以下第43、52駆逐隊、駆逐艦11隻これが帝国海軍最後の艦隊であった。
    花月、桐、蔦が屋代島の対岸阿月相の浦に停泊、竹、槇、榧が日見海岸に停泊、桜井機関長の指導により藁縄で網を作り、艦の上を覆いそれに松の小枝等を差し込み偽装した。
    • 屋代島における戦争は上空を通り過ぎてゆくアメリカ機だけであり、一度退屈しのぎに降下してきて竹達がいる付近で漁船を銃撃したものの発見されることはなかった。またある時は水偵が付近に不時着し、救助に向かうとそれは特攻機で、前部座席には搭乗員はいたが、後部座席には人間ではなく爆弾が乘っていた。生還した搭乗員は愛機は壊れ自分は怪我をしたが沖縄へ特攻へ行かなくて済んだと言っていたという。
    • また、高井航海長の指導の元、竹の乗員は時々地引網を引き、新鮮な魚介類が竹の食卓に上がり乗員の士気の維持に繋がった。それにこの頃になると次の出撃こそ竹も自分たちも海軍もすべて最後だと乗員もわかっていたためか、海軍艦艇ではよくあった私的制裁も無くなっていたという。このように戦時中とはいえ楽しく充実した、だが虚しい日々が続いたのである。
      • このころ駆逐隊司令は、宇那木艦長が浦波水雷長を務めていた頃、同じ駆逐隊所属だった綾波の艦長だった作間英邇大佐であった。ある時酒が切れた*57ため作間大佐は保坂水雷長を同伴し広島まで酒を買いに行く。しかし日帰りは難しかったので、呉の水行社で一泊する。だが翌朝、彼らは広島方面で大轟音と巨大なキノコ雲を目撃する。1945年8月6日午前8時15分ごろ。広島への原爆投下だった。竹の加護は乗組員にも及ぶようである。
      • なお日見海岸からは広島は屋代島の影になるため見えず、広島が壊滅した事は特に士官達も説明しなかったが、どの艦もそうだが電文は下士官兵が受信して上官に届けるのだから、この事は皆しっていたという。
  • 8月15日、玉音放送により終戦を迎える。だが竹では雑音が酷くて何を言ってるのか誰もわからず、司令部に問い合わせて終戦の詔勅だとわかったのである。

特別復員船TAKE

  • 8月16日、屋代島にて機密書類の焼却。17日屋代島を出て呉へと向かう。この時戦時中もほとんど行わなかった第43駆逐隊としての編隊訓練、陣形運動を行い、これが最後となった。
  • 18日以降、動ける残存艦艇が呉へと集結、松型姉妹も終戦時健在な艦はすべて集結する。竹も第43駆逐隊所属艦と桑以外の妹達はこの時初めてあった。なので松と桑以外の戦没艦と終戦時行動不能だった妹は竹も直接の面識はない。
    • 乗組員たちも少数の回航員を除いて復員するが、復員輸送船として使われることになり組員を改めて呼び戻している。
  • 昭和20年11月、海軍経理学校35期卒業*58の大塚達雄少尉が竹主計長として就任、海軍と竹にとって最後の主計長である。
    • 因みに大塚少尉は着任後、竹の甲板に並ぶ野戦釜に驚いたという。前任の主計長に竹の調理室は乗組員たちの分の能力しかなく大勢の引揚者の分を作るためにあると説明されたのだが、早速陸上部隊から大きな蒸気釜をいくつももらってきて今までの重油バーナーの釜と交換する。だが機関停止中は蒸気が供給されず使えないため停泊中用として野戦釜は残した。
  • 復員船として従事する事になった竹は、主に南方方面の引揚者を運ぶこと多かった。
    • グアムでアメリカ軍の給油船から重油を給油した時、舷側中央にTAKEと書いてあるため、米兵も覚えやすく、乗員同士で物々交換が始まると「何を(TAKE)取るんだい?:と冗談も出たという。船酔いばかりで航海中は寝てばかりの軍医長は張り切ってギブアンドテイクをやっていたそうな。
    • 大塚氏によるとこの時竹では士官と下士官兵の食事を同じにしたが、実は下士官兵の方が良いのを食べていたという。なぜなら彼らは引揚者のための分も勝手に食べていたからである。本来なら違反行為なのだが、引揚者の多くは船に不慣れで船酔いの者が多く、食事もろくに食べれないことが判明、以後気にしないことにしたという。
  • 航海中は復員船に改装されたことで重い兵装の代わりに軽い引揚者用居住区となったため重心が下がり、極めて乗り心地の悪い船になった*59。大塚氏も復員業務中、45度までは経験したが、艦長によれば砲などをおろして居住区に変え、ダウンヘビーになったから水さえ入らなければ90度傾いても起き上がると豪語していたという。*60
    • なお45度ともなれば艦橋にいても傾いた側の海に手が届きそうに感じたという。
  • 1946年に復員輸送を終えた竹は、7月26日に特別保管艦となり横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留された。そして翌1947年7月16日には特別輸送艦の任も解かれシンガポールにてイギリスに賠償艦として引き渡されたが、イギリス側は不要と判断したため同地にて解体、波乱にとんだ生涯を終えた。
  • これは大戦中に大量に建造された自国の駆逐艦が終戦により余剰となっていたため。このうち状態の良いものは多くの国々へ供与されたが、それでも余ったものは予備役に編入された。予備役となった艦は50年代に順次復帰するが、L級の「ルックアウト」(1942年1月竣工)は1948年2月に、R級の「レースホース」(1942年10月竣工)は1949年にそれぞれ解体されるという短命艦となった。

この艦娘についてのコメント

  • 妹が正気に戻るまで殴るのをやめないッ!(魚雷カット院 -- 2022-02-28 (月) 07:50:30
  • E3-1だけど流石に三隻もいらないよな。 -- 2022-03-09 (水) 18:51:13
  • 竹さんサルベージ記念。長かった...... -- 2022-03-24 (木) 21:08:39
  • 初登場の時は「これだけキツイ海域で最終報酬は松型かァ…」とか思ってしまったが、特効が付く機会多いし、素の運も結構高いしでなかなか重要な艦になってるなこの娘 -- 2022-07-03 (日) 11:39:32
  • 妙に見覚えのあるやつやなと思ったら化物語の人じゃないですかヤダー -- 2022-12-12 (月) 08:07:38
  • アニメ登場にちょっと期待 -- 2022-12-24 (土) 16:44:27
  • 何故8月のカレンダー担当なのに水着じゃないんだ水着mode実装されてるのに。もしやこれを捲れば服の下が露に(ペラ)9月じゃないかい!? -- 2023-01-11 (水) 15:29:50
  • E3-3この子のおかげで突破出来ました、ありがとう!!! -- 2023-03-08 (水) 14:33:25
  • 竹ちゃんマンのサブ突貫で育成中。80あればとりあえず安心だよね -- 2023-03-12 (日) 00:07:45
  • 後期イベントだとかなり特効乗りやすいし、素運高いしで優秀やね。今回もしっかり活躍してくれたわ。 -- 2023-03-27 (月) 00:32:38
  • 改二でメス全開になってほしい -- 2023-04-19 (水) 20:53:48
  • E5-3甲、ゲージ割ったと同時に着任。ワイの「竹の輝き」は今終わったんや…2年半は長かったぜ -- 2023-04-19 (水) 22:13:40
  • 丁でドロップ。毎回特効欄にいるから欲しかったのよ! -- 2023-04-20 (木) 04:19:44
  • 夕暮堀時にサブ泥したからとりあえず空襲レベリングに投入。まず2隻目使うこと無いだろうけど、素運高いからまるゆ使わなくても即戦力になるのは良いよね。 -- 2023-04-23 (日) 14:04:57
  • 竹阿弥 -- 2023-04-23 (日) 14:08:03
  • 自分ですげえなあと感心した後どういうこっちゃと疑問に思うの見て笑っちまったwどういうことだよ -- 2023-04-29 (土) 07:10:09
  • 「やってやるぜ」で何故か「やってやる やってやる やってやるぜ♪イ」ってある劇場版アニメの挿入歌の冒頭を思い出してしまった -- 2023-05-12 (金) 03:03:24
  • 青竹がテカっている(8月のカレンダー眺めつつ) -- 2023-08-05 (土) 12:24:14
  • E-6ドロップして驚いた。水着変わった!?真っ正面向いてそそり立ってる -- 2023-09-04 (月) 19:48:30
  • ホロ背景で知らない子が来たと思ったら竹だった -- 2023-09-11 (月) 07:18:41
  • 竹くんの中破はてぃんてぃんがいらいらするのだ -- 2023-09-17 (日) 21:06:26
  • 竹目当てでイベ参加したけど… 「何の成果も得られませんでしたーっ‼」 orz -- 2023-10-11 (水) 12:25:54
  • ケッコンしてなくてまるゆもあげてないけど今回の南瓜で運上げるのってアリ?ちなみに2隻だけ -- 2023-10-12 (木) 12:19:35
    • 2隻ってのは素材にできる竹?去年の仕様のままだと南瓜改修は同名艦2人使用で+3確定ぽいから、基本は北上とか最上とかすぐ拾える艦が優先されがち。竹のフィニッシャー頻度はそこまででもないし駆逐には水見があるし、素運も対潜も高めなんで海防艦からチマチマ上げてくくらいでいい気はする -- 2023-10-12 (木) 13:17:43
      • アドバイスありがとうございます。2隻は素材ですね。ウチは去年に最上と北上の運上げが終わったので、竹が次の候補として入るかなーと。でも大井と木曽の方が優先度高そうなので、今回はそちらの運を上げようと思います! -- 2023-10-12 (木) 13:57:17
  • あーん!竹っぽい推しがパパに乗っ取られた上に死んだ!おっさんが入っただけでも嫌過ぎるのに!くすん…美形薄命だ…先生のカバッ!お前は自由か?竹・ブルースター… -- 2024-04-11 (木) 00:39:40
  • この子どこで手に入るのでしょうか? -- 2024-05-08 (水) 13:46:06
    • 直近だと…あれ、去年の夏辺りでイベントドロップあったかなあ…結構ドロップしてないね。イベント限定なので姉妹艦ともども今年の夏に期待しましょう -- 2024-05-08 (水) 18:39:40
  • E2-3攻略中、バリアントの次のドロップが竹だった。水着姿だったので一瞬誰だか判らんかった。遠征要員としてずーっと外出してたから、水着姿がこんなに可愛かったのに気づかんかった。しばらくサブで置いておこう(笑 -- 2024-08-04 (日) 23:18:27
  • みんな、3隻目は育てますか?ストックしますか?解体しますか? -- 2024-08-08 (木) 22:17:55
    • +1までじゃあないかねえ・・・3とか4欲しくなるのは雷巡あたりだと思う -- 2024-08-08 (木) 22:50:07
  • 水着グラでドロップすると本当にびっくりするなww -- 2024-08-08 (木) 22:32:21
    • 上の方にも有ったけど、遠征で育成していたし最近限定グラを追うのもしていなかったから一瞬新規艦かと思ったw -- 2024-08-18 (日) 14:07:36
  • 今回、お竹さん出過ぎ・・・とうとう改修に使ったよ -- 2024-08-09 (金) 17:58:00
  • めっちゃ声かっこいいな~ってCV確認しにきたら竹達でおったまげた。声優ってすごいんじゃ。 -- 2024-09-29 (日) 20:24:05

*1 準同型の橘型も含む。なお海軍の艦艇類別等級表では松型と橘型での区別はしておらず、全て松型で統一されている
*2 終戦後の動向も含めると、松型で最も長命だったのはВозрождённый(桐)の25年半とされるがソ連側の資料には不明点も多いため、確かな記録がある中では信陽(初梅)の16年が最長となる。なお、わかば(梨)は沈没期間を含めなければ15年となり2番目となる
*3 桃は舞鶴での残工事を終えて1944年6月17日13時すぎに内海西部に到着しているが、松は横須賀回航指示を受け、同日深夜に長良清霜と共に内海西部から横須賀に向かっている。横須賀到着後、松は竹の隣に係留して、機銃増設などの工事を受けている。なので松を直接知っている妹は竹と桃だけとなる
*4 同じ作戦に従事していたことがあるのは第七次多号作戦の桑が唯一であるが、それ以外の多号作戦参加艦である梅(松型3番艦)から杉(松型7番艦)までの5隻も竹と同時期にマニラ湾に停泊していた。多号非参加艦については樅(松型9番艦)が竹と交代するように横須賀海軍工廠において艤装工事に入っており、残る艦についても後述の檜を除く全艦が1945年春の時点で竹と同じく瀬戸内海にて活動している。
*5 檜と樅は時雨とともにマニラへの特攻用航空機桜花輸送に当たる雲龍の護衛をしていたが、1944年12月19日に雲龍が途中の東シナ海で米潜水艦「レッドフィッシュ」に撃沈されたため生存者を救援、高雄まで送り届けた。
*6 檜はこの後内地に戻ることなく1945年1月7日にフィリピン近海で米駆逐艦数隻と交戦し戦没している。
*7 浦賀は戦前の時点では三浦郡浦賀町という横須賀とは別の自治体であったが、海軍の意向もあって周辺町村とともに1943年4月に横須賀市に編入されている。
*8 松型駆逐艦松、竹、梅、桃、槙、桐、榧、蔦、椎の9隻
*9 平時だと駆逐隊は1番艦2番艦が完成した時点で編成され、3番艦4番艦が編入された後に活動を開始するのが通例だった。
*10 そもそも松型駆逐艦は、そういった大量損耗の穴を埋めるべく急速建造できるよう計画された駆逐艦だった
*11 第43・52駆逐隊は後述の第三十一戦隊所属であり終戦まで存続したが、第十一水雷戦隊所属の第53駆逐隊の方は発足からわずか4ヶ月後の1945年7月15日に同水雷戦隊もろとも解隊となっている
*12 933空の開設は9月1日で佐伯基地で編成、同日付で第三十一戦隊に配属となっている
*13 第三水雷戦隊は4月28日に旗艦としていた軽巡夕張が沈没、司令部は駆逐艦夕月に救助されてサイパン島で艦を降り、新旗艦に内定していた軽巡名取を待ったが、その間に米軍のサイパン侵攻が始まり司令部も玉砕。司令部を失った三水戦は解隊となり、所属艦艇は宙に浮いた存在となっていた
*14 このうち第二十二号海防艦が2023年8月に実装されている
*15 本来なら機動部隊と共に行動してその前衛を務める筈だった第二遊撃部隊(志摩艦隊)が直前の台湾沖航空戦で追撃戦力として引き抜かれてしまい、前衛として使う事が出来なかった
*16 ただしとんぼ釣りに行かせればそのまま勝手に帰る、航続距離と速度の不足から艦隊行動の邪魔とすこぶる評判は悪かった
*17 この他編成時に所属していた5隻の海防艦も終戦時に健在ではあったが、こちらは1944年12月25日をもって揃って第一護衛艦隊に移籍している
*18 軽巡洋艦長良、練習巡洋艦鹿島、駆逐艦冬月、清霜、竹
*19 瑞穂を撃沈した潜水艦
*20 それでも一部乗員を収容している
*21 当時先任将校(所謂ナンバー2)であったため
*22 第十戦隊は作戦立案当初より栗田艦隊に配属替えとなっていて(秋月型で構成する第61駆逐隊のみ小沢艦隊に残留)予定通りの話。穴埋めとして第三十一戦隊が急遽編入されたのは記述通り第二遊撃部隊の代行としてである。これは戦史叢書56巻「海軍捷号作戦2フィリピン沖海戦」28Pに記載されている
*23 沈没した軽巡洋艦鬼怒の航海長。鬼怒は10月26日に戦没しているので、救助されて直後の艦長代行拝命であった
*24 第一水雷戦隊司令木村昌福少将指揮の部隊で、駆逐艦(旗艦)、長波朝霜秋霜、若月、海防艦占守他2隻、輸送船3隻の部隊
*25 正式に艦長になる前の役職
*26 洋上勤務を長年していた者が、地上勤務を長期間務めたのちに海上勤務に戻ると、えてして船酔いを起こしてしまうという。海軍ではこれを「潮気が抜けた」と称していた。
*27 伊勢、日向
*28 日向、伊勢、霜月、梅、桐
*29 五十鈴、桑、杉、桃、槙
*30 竹と輸送艦3隻
*31 3連装機銃4門に単装機銃12丁、呉軍港空襲時の記録で全29丁
*32 竹艦上で戦死者が出たのはこの時が最初で最後である
*33 水雷長(先任将校)保坂(後に志賀に改姓)博大尉、航海長高井義助大尉、機関長桜井達也機関特務中尉、砲術長可児祥男大尉
*34 後に高井航海長に艦長が語ったところによると、引き返すことを決めていたが全員一致なら仕方ない、だが一人でも同意見なら自分の考えをすすめるつもりであったという。
*35 ジャイロコンパスの故障により、往路をそのまま逆に辿って帰還するには水路が複雑で安全性を確保できない、との判断によるもの
*36 第一輸送戦隊司令官の曾爾章少将が後にマニラ帰投直後の竹艦橋に上がって言うには、南西方面艦隊参謀長の有馬薫少将が強硬にオルモック輸送継続を求めていたため、不本意ながらあのような指示を出す事になった、との事であったという
*37 第9号、第140号、第159号
*38 艦長不在時に先任将校である保坂水雷長が全乗員を集めて「あれだけ善戦して、あれだけ戦死者も出して、やむなくマニラに帰ったのに、司令部は艦長を卑怯者と罵った。陸上に安閑としている司令部に何がわかるか!」と檄を飛ばしており、またそれを聴いていた乗員の方もその決意に賛同していたという。ただし実際には宇那木艦長は帰還後に司令部に報告に赴いても、「卑怯者」と罵られるどころかむしろ「ああ、貴様か。ご苦労だった」と一言あったのみだったそうで、この水雷長の行動にを「ちょっとおかしかった」と述懐している
*39 上井宏艦長や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀などを収容した。なお宇那木艦長は収容したのが島風の艦長たちだとは知らず、それを知ったのは戦後もだいぶたった昭和43年頃だという
*40 占領した飛行場は地形が悪く雨が降ると泥濘と化して利用不可能となっていた
*41 24ノット
*42 転舵の際海岸に座礁する危険があるほど接近したため。クーパーのみ竹を小型DEと認識した
*43 松型には上空からしか見えないようお椀で覆われた敵味方識別灯があり、このような状況が想定されていた。
*44 一度目は竹前部主砲の発砲炎で目がくらみ、二度目は水雷長の魚雷照準器と発射管を結ぶ電線が切れたため失敗、最後は伝令により発射タイミングを指示するという方法をとった。またこの間宇那木艦長は暗闇の中で何度も転舵を繰り返したことで、航海長に「前は大丈夫か」と何度も連呼していたという。
*45 なお竹が漂流する桑の乗員の近くを通過した時、洋上から「竹頑張れ!」の声か聞こえたと宇那木艦長は証言している。放置時ボイスの元ネタはこれ
*46 夜光虫がいる海面では航跡に夜光虫が集まってくるため酸素魚雷でも航跡が見える
*47 この時点でアメリカ側はクーパーを沈めた雷撃の原因はわかっていなかった。翌朝救助されたクーパーの生存者より湾をでてゆく2隻の潜水艦を見たと報告があったので、ザーム大佐は雷撃は潜水艦によるものと判断したという
*48 誰が発言したかは艦長、水雷長、航海長の3人共覚えていないという
*49 なお、桑生存者のうち8人は第159号輸送艦長の独断により同艦に収容されマニラに帰還、それ以外にも自力で陸上に辿り着き生還したものも複数いたという
*50 元砲術士、一番高角砲射手。1972年当時桑戦友会代表。
*51 参考:https://twitter.com/Blue_Marimon/status/1162033570413604864
*52 後にシンガポール沖で駆逐艦神風と死闘を演じる事になる潜水艦
*53 駆逐艦3隻沈没、空母8隻、巡洋艦1隻、駆逐艦10隻他が損傷、犠牲者790名
*54 中国古来の木造帆船。竜骨の代わりに水密隔壁で船体を支える構造となっている事から喫水が浅く水深の浅い海での航行に有利だったほか、帆には割竹の骨組みが入っており横風に対する安定性も高かった
*55 戦闘時に死傷者が出れば補充に回る
*56 なお空襲後の調査では、搭載する機銃の数は雪風も竹も他の駆逐艦も大体30丁なのだが、消費弾数は雪風が約6000発、他の駆逐艦でも約3000発ぐらいは消費しているのに対し、竹は約1100発とやたら少なかったという。如何に竹がほとんど攻撃されなかったのがわかる
*57 因みに作間氏は酒豪で有名で、前職の冬月艦長時代には酒に酔ったまま操艦し艦を座礁させたこともある。
*58 昭和20年3月30日卒業、海軍経理学校最後の卒業生
*59 浮力中心と重心の差をGM値といい、重心が高くGM値が低い船は揺れが大きいが周期が長くゆっくりとした揺れとなる。GM値が大きいと揺れは小さいが周期が短くコロコロと激しくゆれる
*60 船の復元力はGM値の他に乾舷の高さも関係する。日本駆逐艦はGM値は大であったが乾舷が低く復元力は小さかったが松型は例外的に高く、GM値も戦中より大きくなっていた。が造船官ではない艦長がそこまで理解してたかは…