|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.443|
|&attachref(./443.png,nolink,第四十三駆逐隊、丁型駆逐艦、梅、着任しました!);|>|梅(うめ)|>|松型 3番艦 駆逐艦|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
//下記にもある通り、左側の初期値は改造直後の値とは異なります。
|~|~耐久|14|~火力|5 / 24|
|~|~装甲|5 / 22|~雷装|16 / 56|
|~|~回避|33 / 69|~対空|16 / 64|
|~|~搭載|0|~対潜|26 / 76|
|~|~速力|高速|~索敵|11 / 24|
|~|~射程|短|~運|11 / 49|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|15|~弾薬|15|
|~|~搭載|>|>|~装備|
|~|>|>|>|[[12.7cm単装高角砲(後期型)]]|
|~|>|>|>|未装備|
|~|>|>|>|COLOR(gray):装備不可|
|~|>|>|>|COLOR(gray):装備不可|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''梅'' → [[梅改]](Lv52+高速建造材x10+開発資材x15)|
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:丁型駆逐艦、松型三番艦の梅です。&br;苦しい戦局の下で生まれ、姉妹と共に第四十三駆逐隊の一翼として活動しました。&br;艦隊の護衛や輸送作戦などに従事、最期は敵の空襲で被弾、短い艦歴に幕を閉じました。&br;提督、梅もどうぞお忘れなく!|
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、改造直後の値とは異なります。&br;最大値はLv99の時の最大値を指します。
#fold(CV:梅澤めぐ、イラストレーター:渡辺明夫 (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:梅澤めぐ、イラストレーター:渡辺明夫
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>梅/定型ボイス]])
#table_edit(梅/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>梅/時報ボイス]])
#table_edit(梅/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>梅/季節ボイス]])
#table_edit(梅/季節ボイス)
~
}}

*ゲームにおいて [#game]
-2022/02/23、令和4年冬イベント『[[発令!「捷三号作戦警戒」]]』[[E-2>発令!「捷三号作戦警戒」/E2]]にて実装。松型では初のドロップ艦。
--同イベントでは2隻目のドロップも狙えた。
~
-''改装すると[[大発動艇]]系を装備可能になる''。燃費の安さから遠征要員としては最適。
--改装後に[[13号対空電探改]]を持参する。6月[[イヤーリー>任務#id-Fy5]][[任務>任務#id-Fy6]]で多数要求されるため、幸運にも複数所持できた場合は牧場も検討できる。

**キャラクター設定について [#character]
-何がとは言わないが''&size(18){でかい。};''
-服装はぱっと見[[松]]と似ているが、左胸にポケットがある、腹部の重ね着のデザインが変わりボタンで留めている、など細部が変更されている。
また、姉妹の腰のスカーフと同じ物を胸元で結んでいる。
-艤装は竹と同じ、12.7cm単装砲を艤装に装着して両手が自由なスタイル。
-偶然か狙ってか&color(Silver){松[[以外>竹]][[全員>桃]]そうなので後者に違いないだろうが};、声の妖精さんが「''梅''澤めぐ」女史である。
-14隻目のメガネっ娘艦娘であり、5隻目のメガネっ娘駆逐艦娘。
--メガネっ娘の実装は21年春イベの[[Northampton]]以来。
--[[大淀]]に加え[[望月]]、[[巻雲]]、[[沖波]]、[[天霧]]と梅というメガネっ娘水雷戦隊の編成も可能となった。
---ネタのように見えて最終改装時は[[大発動艇]]を装備できる駆逐艦が[[巻雲改二]]、[[天霧改二丁]]、梅改と3隻おり、遠征・輸送用の艦隊としても優秀。
-下は髪の色と同じく、濃いめの桃色。サイドで結んだタイプで結構きわどい。

*小ネタ [#neta]
-梅は[[松]]型駆逐艦第3番艦として藤永田造船所で昭和19年4月24日に進水、同年6月28日に竣工した。
艤装員長・初代艦長には大西快治少佐が着任。艦歴が短かったため、初代にして最後の艦長であった。
--彼女の実装で「[[松]]・[[竹]]・梅」が揃ったことになる。
だが、彼女たちはまことお目出度いその名とは裏腹に、揃って凄惨で救いのない末期の戦場に直面する皮肉な運命であった。
&br;
#fold(艦名の由来){{
-艦名の「梅(ウメ)」は、中国原産のバラ科サクラ属の落葉広葉樹。1~3月頃に咲く花は樹木自体と共に観賞の対象となり、6~7月頃に成る果実は食用・薬用になるなど、古くから果樹として利用されている。
冬でも花を咲かせることから、中国では松・竹と共に清廉潔白を表すものとして「歳寒三友」に数えられ、日本では「松竹梅」としてお馴染み。
--未熟な梅の果実は生食すると中毒の危険があるため、梅干し・梅酒・梅シロップ・梅肉エキスなどに加工されるのが一般的。6月頃から盛んになるこれらの「梅仕事」は春~初夏の風物詩となっている。
特に、伝統的な塩分量であれば長期保存しても腐らず、疲労回復や塩分補給にも役立つ梅干しは陸海軍ともに[[戦闘糧食]]に欠かせぬ存在であり、戦時中は全国で自家製の梅干しの献納運動も行われた。そのため、軍の糧食の梅干しは業者製のみならず、全国のさまざまな家庭の味もとりどり入り混じっていた。
---なお、現在の自衛隊の戦闘糧食には梅干しは入っていないが、梅干しの果肉をタブレット状に加工した「凍結乾燥梅肉粒」((民生品がアサヒグループ食品から「梅ぼし純」として市販されている))が夏場の塩分補給用として使用されている。
--艦これにおいても、母港の季節家具で梅酒にちなんだ【初夏を楽しむ提督チェア】【艦娘手作り梅酒の棚】が実装されている。
}}
-梅の名を持つ艦としては二代目で、初代は樺型二等駆逐艦5番艦。川崎重工業神戸造船所で建造され、1915年3月31日に竣工した。
第一次世界大戦ではシンガポール方面の警備と地中海の海上護衛に従事した他、戦後にはドイツの賠償潜水艦、〇六潜水艦(旧UB125)の曳航を担当。1932年4月1日に除籍された。
-三代目は海上自衛隊のくす型護衛艦「うめ」(PF289)。元はタコマ級フリゲートの「アレンタウン」(PF-52)で、1953年に保安庁警備隊に貸与され、保管船YAC-14への区分変更を経て1970年に退役、翌年アメリカに返還された。
&br;
-完成後、彼女は松、竹、そして[[桃]]とともに第43駆逐隊を編成した。駆逐隊司令は菅間良吉大佐。
ご存知の向きも多いだろう。[[雪風]]艦長としてソロモン方面の激戦を戦い抜いた名うての駆逐艦乗りである。
同駆逐隊は第41駆逐隊((41駆創設(厳密には「再建」)は43駆創設と同日。初代司令として脇田喜一郎大佐が着任した。こちらは「雪風」2代目艦長。))[[冬月]]とともに教育部隊である第11水雷戦隊に編入され訓練を行っているが、戦況苛烈な時期だけに旗艦はころころ変わった。
[[長良]]、[[多摩]]、そしてなぜか[[扶桑]]が務めていたときもある。要はその時手すきの艦が旗艦をしていたのである。
また途中で修理の完了した[[涼月]]も合流し一緒に訓練を行っている。
-昭和19年10月、台湾沖航空戦により第二航空艦隊((「艦隊」と名乗ってはいるが、大多数の航空艦隊は所属艦艇のない陸上基地航空隊のみで構成された部隊であった。))所属の航空機が300機以上失われたため、
その補充のために[[龍鳳]]や海鷹(未実装)といった軽空母を用いて補充の航空機や要員などの輸送が行われる事となった。
梅は桃、[[榧]]、樅(未実装)とともにこの輸送船団の護衛に当たる事となった。
10月25日に輸送部隊は佐世保を出発、27日基隆着。物資や機体を揚陸した後30日に基隆を出港し、11月2日に呉へと帰投している。
-台湾方面への輸送に従事していた10月27日、梅の所属する第三十一戦隊はフィリピン方面への特別攻撃隊兵力などの緊急輸送を命じられる事となった。
梅と桃は呉帰投後、五島列島へと移動して南方へと進出する[[伊勢]]と[[日向]]の護衛部隊「H部隊」へと加わった。
護衛部隊は2隻の他、第三十一戦隊旗艦の[[五十鈴]]および霜月(未実装)、桑(未実装)、[[桐]]、[[杉]]が参加していた((資料によってはこれに槇(未実装)が参加していたとしているものもあるが、この時槇はレイテ沖海戦での損傷修理のため呉海軍工廠に入渠しており出撃は不可能であった。))。
H部隊は11月9日に五島列島北方沖を出撃、途中澎湖諸島の馬公に寄港し重油の補給を行いつつ南下を続けた。
--この頃台湾海峡には潜水艦が多数跋扈していた事、並びにH部隊が航行していた11月13~14日には第二次マニラ湾空襲((この空襲により、当時マニラ湾やその周辺にいた[[那智]]、[[木曾]]、[[曙]]、[[初春]]、[[沖波]]、[[秋霜]]が戦没または大破着底している。))が発生していた事などから、
H部隊は一時新南群島((現在の南沙諸島。日本海軍はここの長島(太平島)に陸戦隊や偵察機部隊などの部隊、潜水艦基地などを置いていた。))に回航する事となり、14日に北険礁に入泊する事となった。
--この時、ブルネイから第二艦隊所属の艦艇((レイテ沖海戦に第一遊撃部隊として参加していた[[大和]]、[[長門]]、[[金剛]]、[[榛名]]、[[足柄]]、[[羽黒]]、[[矢矧]]、[[大淀]]、[[雪風]]、[[浦風]]、[[浜風]]、[[磯風]]))が新南群島に寄港していた。
この頃、ブルネイはB-29による空襲を何度か受けており、一部艦艇の整備のため本土回航を行う事となったためである。
更に第二次マニラ湾空襲を生き延びた第一水雷戦隊指揮下の駆逐艦(([[潮]]、[[初霜]]、[[霞]]、[[朝霜]]、[[竹]]の5隻。))もマニラから新南群島へと退避してきたところであった。
そこで、H部隊は新南群島で再編される事となり、
[[伊勢]]と[[日向]]は霜月、一水戦およびブルネイから来た大型艦のうち比較的損傷の少なかった[[榛名]]、[[足柄]]、[[羽黒]]とともにリンガ泊地へと向かう事となり、
[[五十鈴]]、[[竹]]、[[桃]]、桑、桐はマニラへと向かう事となった((元々第三十一戦隊はマニラに到着後、南西方面艦隊指揮下に移る手筈となっていた。))。
一方、[[梅]]は桐とともに第二艦隊の残る艦艇とともに本土方面に向かう事となる。
--17日夕方、[[梅]]と桐を護衛に加えた第二艦隊の艦艇群は新南群島を出発する事となる。
しかしながらこの頃南シナ海では大時化が発生しており、20日に船団が馬公沖まで来たところで梅と桐は護衛任務を解かれる事となった。
---梅と同行していた桐の駆逐艦長である川畑誠少佐は、海面のうねりの中に小さな松型駆逐艦の艦影が時折隠れてしまうのを見た大和サイドから何度も「大丈夫か?」と心配の声を掛けられたと証言している。
ただし、実際にはそこまで過度に心配する程の事はなかったという。
---また、『戦藻録』によれば、この頃台湾海峡に米潜水艦群が多数跋扈していたものの、この時化によって日本側への攻撃のおそれが少ないだろうという判断も、梅と桐の護衛解任の一因だったとしている。
ただし実際には米潜水艦を完全に行動不能に陥らせる程ではなかったようで、後に船団は台湾基隆沖で米潜水艦シーライオンの襲撃を受け、金剛と浦風が撃沈されるという被害を受けている。
--その後基隆で補給を済ませた後、梅と桐は五十鈴ら他の第三十一戦隊各艦と合流するためマニラへと進出する事となった。
ところが抜錨直後に桐が風で煽られ触礁し、艦底を損傷してしまい、修理のためマニラに向かう事ができなくなってしまった。
そのため、梅は桐を残して単独でマニラへと進出した。
-実質的な初陣は昭和19年12月のレイテでの第八次多号作戦、陸軍第68旅団主力の4000名をレイテへ輸送する任務であった。&color(Silver){字面からしてもう嫌な予感しかしない。};
陣容は梅、[[桃]]、[[杉]]、駆潜艇第18号、同第38号、第11号輸送艦。輸送船が赤城山丸、白馬丸、第5真盛丸、日洋丸の4隻である。
待ちに待った増援を成功させるため、同作戦の支援として敵飛行場に対する陸軍総攻撃、さらには高千穂空挺隊による挺身突入作戦まで行われた。
--それほどの重要輸送にもかかわらず、護衛の陣容は駆潜艇や輸送艦まで動員されているという貧弱ぶりで、船団の船足もわずか6ノットにすぎなかった。
レイテ沖海戦と度重なる多号作戦により駆逐艦たちは傷つき果てるか沈むか、もう投入できる艦艇が払底してしまっていたのである。
---作戦参加のためマニラに到着した梅が目にしたのは、[[竹]]をはじめ先のレイテ沖海戦や多号作戦で傷だらけとなって応急修理を急ぐ駆逐艦たちの姿だった。
また、湾内の岸壁や浅瀬には、先日のマニラ大空襲で力尽きた[[曙]]や[[秋霜]]、[[木曾]]ら各艦や輸送船たちの焼け焦げ赤錆びた残骸がそのまま残り、漏れ出た油が怨念のように海面へ広がっていた。
梅乗員は今次作戦が容易ならぬものであることを悟って覚悟を固めたという。
--マニラを出発した同輸送部隊は予定では12月7日にオルモック湾に突入する手はずであったが、
折悪しく同日、オルモックからわずか15キロの地点へ米軍の大部隊が上陸したという情報が入った。
オルモックへの揚陸が絶望となった今、味方のいる海岸を探し無理やり揚陸するしか選択肢はない。
この作戦の支援のため陸軍部隊は敵飛行場へ総攻撃をかけ、おびただしい血を流している最中である。悠長に出直すことなど不可能だった。
菅間司令はついに北部サンイシドロへの強行擱座揚陸を決断した。雪風で勇名を馳せた歴戦の菅間大佐でも、もはや他に手の打ちようがなかった。
--B-24約30機、戦闘爆撃機約100機もの猛攻撃の中船団は海岸へ向かうが、白馬丸が被弾沈没((白馬丸は[[山汐丸]]の項にその粗製濫造ぶりをうかがわせる逸話がある。))。残る輸送船たちは真一文字に海岸へと突進擱座、揚陸にかかった。
輸送船の肉弾突撃とでも言うべき捨て身の奮闘により、将兵たちは死者負傷者を続出させながらもどうにか地上へ上がることができた。
だが、港湾設備もない海岸では物資は下ろせなかった。動けない輸送船たちはそのまま被爆炎上、揚陸できた重火器はわずか砲2門だけだったという。
輸送船全船および第11号輸送艦戦没、護衛部隊は11号以外の5隻が生き残ったものの、梅、桃、杉も損傷を負った。
輸送船の人的被害は甚大で、4隻の船員および船砲隊員のうち、生存者は日洋丸の船員4名のみで、特に赤城山丸では船長以下船員58名、船舶砲兵69名は最後まで持ち場を離れず、全員が壮烈なる最期を遂げたと記録されている。
---どうにか上陸を果たした第68旅団だったが、その後はレイテに上陸した他の部隊と同様、悲惨を極めたらしい。
「らしい」というのは4000名中生還者は0.2%、10名に満たず、ほとんど何も分かっていないからである。7月20日頃までに旅団の消息は全く途絶えた。
やむを得ず、旅団長栗栖猛夫少将以下そのほとんどの命日と戦没地は「昭和20年7月17日ビリヤバ付近で戦死」と一括して告示されている((戦後の厚生省の調査では、同旅団の復員者は約90名ほどいるが、その殆どは台湾~ルソン島間の海上輸送の際に負傷などの理由で旅団から離れた者たちで、レイテ島に上陸した者の中での生還者は10名も満たない。それらも7月20日以前に旅団とはぐれた者たちで以降の動向は判らず、周辺で戦っていた別部隊もみな同じ状況で目撃証言もないため、このような状況となってしまっている))、という。
---同旅団については[[桃]]の小ネタにも触れられているので、気になる方は併せて読まれる事をお勧めする。
--その後、梅はマニラ在泊中に12月14日から3日間にわたるマニラ大空襲に遭遇、艦首に直撃弾一発を浴びた。
幸い致命的ではなかったものの、この一発は錨鎖庫を破壊、梅は錨を上げられなくなった。
やむなく錨を20メートルも引きずったまま桃とともにマニラを脱出、途中別れて香港で緊急修理を受ける羽目になっている。
-錨鎖庫の修理を終えた梅は台湾へと移動、ここで第43駆逐隊の新司令として吉田正義大佐が着任している。
吉田司令も若い頃から数々の駆逐艦を渡り歩き、[[風雲]]艦長などを務めてきたベテラン駆逐艦乗りであった。
-昭和20年1月、危機的状況のマニラ・クラーク飛行場の1000名以上に及ぶ航空要員をアパリ((フィリピン北部、カガヤン川河口右岸の都市。現在のフィリピン・カガヤン州アパリ町(Municipality of Aparri)))から脱出させるバトリナオ輸送作戦((「バトリナオ」とは、アパリ近郊にある村の名。アパリから西に50kmの位置、現在のフィリピン・カガヤン州ゴンサガ町(Municipality of Gonzaga)にあるバトゥリナオ岬(Batulinao point)の事だと思われる。資料によっては「パトリナオ輸送作戦」と書かれている場合もある。))がはじまった。
司令部、搭乗員、整備員合わせてこれだけの人数がいながら、クラーク飛行場で健在な飛行機はすでにゼロであった。
今や貴重極まりない航空要員をむざむざ地上で玉砕させるわけにはいかず、その救援が急がれたのである。
当初は[[陸攻>一式陸攻]]、輸送機、月光、[[水偵>零式水上偵察機]]まで動員して125名までは救出できたものの、陸攻3機が彼らを乗せたまま撃墜されるなど空輸は困難を極めた。
そこで、駆逐艦や高速輸送艦でルソン島北から脱出させる計画が立てられた。この最初の作戦に白羽の矢が立ったのが梅であった。
-第一次作戦は梅が司令艦となり、楓(未実装)と汐風(峯風型・未実装)を従えた3隻編成で行うこととなった。
アパリ防衛の貧乏くじを引いた陸戦隊員や車両、物資を積み込んだ3隻は1月31日高雄を出撃した。
--台湾・高雄からアパリまで約500キロ、駆逐艦が高速で突っ走ればおよそ15時間の距離であるが、
問題は途中に敵機と敵潜水艦の絶え間ない哨戒の網の目が張られた「魔のバシー海峡」があることだった。
一つだけ方策があった。冬のバシー海峡は雨が非常に多い。その雨の中へ飛び込んで上手く夜まで発見されないよう駆け抜けることである
高雄を出た彼女たちはいきなり24ノットの高速を出し、潜水艦の追跡を振り切りつつ進撃した。
--だが、策はあっけなく崩れた。出発から2時間、バシー海峡の入り口でさっそく哨戒中のB-24に見つかってしまったのである。
やむなく一時進路を大陸へ向けたものの、敵機はしつこくぴったりと触接したままだった。
吉田司令はニヤリと笑い「どうやら敵さん、わかっているらしいね。その手には乗らんか」とつぶやきながら再度進路を南へ取らせた。
-やがて、並行して飛ぶ大型機の機影が見えた。あまりに悠々無防備な飛び方から、味方の哨戒機かと思ったという。
だがその機影は急に機首をめぐらすやまっしぐらに向かってきた。まごうことなき敵爆撃機だった。
「右30度敵飛行機!」と見張員が絶叫するとともに、雲間から多数の[[B-25]]とP-38、P-47が続々と飛び出して来た。
--敵機は爆弾とロケット弾を併用して攻撃を仕掛けてきた。
必死に右へ左へ舵を切り回避する梅だったが、やがて艦尾へ直撃弾が命中、搭載爆雷が誘発して艦尾が吹き飛び後部機械室へと浸水、航行不能となった。
また、一直線に飛んでくるロケット弾は避けようにも如何ともし難かった。
--うちロケット弾一発は艦橋の上にある主砲射撃指揮所を直撃、所員ほぼ全員を爆死させ、艦橋周辺へ砕け散った遺体が降り注ぐ惨劇となった。
砲術長山崎大尉は片脚をもぎ取られ上甲板に叩きつけられて即死。艦橋の横の電線には指揮所員のはらわたが絡みついていた。
艦橋前面窓には手のついた肉片がぶら下がり、艦が左右に揺れるたびに血飛沫を撒き散らして窓を叩く――まさにこの世の地獄絵図だった。
--さらにB-25の投下した爆弾が艦橋直前に命中、下甲板を貫通して炸裂し、前部機械室をも破壊。この一発が命取りとなった。
行き脚の止まった梅へP-38は反復機銃掃射を加えた。上甲板の機銃員はばたばた薙ぎ倒され、艦上は血の海となっていった。
-戦闘は約30分で決した。機械室をやられた梅は20度傾き、完全に航行不能となった。艦上は呻く重傷者と遺骸で埋まり、一面血に染まっていた。
そんな中にあって、吉田司令はタバコをスパスパ悠然とふかしながら艦橋から首を出し、あたりを見回していた。
実際問題もうタバコでも吸うぐらいしかすることはなかったのだが、この豪胆な態度が乗員たちに一種の安心感を与えたという。
--もはや動けず浸水も徐々に増してきてはいたものの、船体に致命傷を受けたわけではないため、沈没にはかなり時間がかかりそうであった。
楓も汐風も傷つき、空襲第二波のおそれもある中、吉田司令は作戦中止と梅の放棄を決断。軍艦旗を降ろし、生存者はボートで退艦、楓と汐風に分乗することなった。
そして、汐風が梅の喫水線を狙い砲撃処分を行った。梅は戦没者77名を乗せ、バシー海峡へと静かに消えていった。
初陣からわずか2ヶ月足らず。奇しくも、その名の由来となった初めての梅の季節を迎えるとともに戦没を遂げたのだった((司令駆逐艦は舞鶴海軍工廠で修理中の「[[榧]]」に移る。))。
--大西艦長は戦後、佐藤和正氏の取材に対し、こう述懐している。((『艦長たちの太平洋戦争 続編』))
「二度も((大西艦長は梅の前は駆逐艦朝凪の最後の艦長だった))艦を沈め、それによって死んでいった戦死者たちを思うと、呵責の念に耐えませんねえ。いまでもこの重圧は拭いきれません。
 いっそのこと、あのとき戦死していたほうがよかったのではないかと、ふと思うことがあります――――」
-吉田大佐はこののち、3月1日付で第41駆逐隊司令へと転任。駆逐艦[[冬月]]に座乗して坊ノ岬を戦うこととなる。
-戦後、同艦元乗組員による戦友会が行われ、その際に慰霊碑を建立する話が出たことからいくつかの候補地を選定するも、いずれも良い結果を得られなかった。
その話を耳にした静岡県の駿東海交会が協力し、三島市の妙法華寺に忠魂碑が建立されることが決定。昭和61年1月31日に除幕式と慰霊祭が執り行われた。
なお同寺には巡洋艦[[愛宕]]と駆逐艦[[朝霜]]の慰霊碑もあり、3艦の碑が寄り添うように建立されている。
-余談だが、第一次作戦の中止後、制空権が奪われたため駆逐艦による救出も困難と判断した日本海軍は、次の手段として潜水艦による救出作戦を行うことにした。この第二次作戦には呂46(呂35型)、呂112、呂113(呂100型。3隻とも未実装)の3隻が参加。2月7日、8日、10日にそれぞれ高雄を出港してバトリナオ沖に向かった((バトリナオから搭乗員を乗せてやってきた大発を横付けして移乗させる手はずとなっていた。))。
うち10日に到着した呂46は搭乗員46名を収容して12日に高雄に到着しているが、呂112は11日深夜に、呂113は12日未明にいずれも往路でアメリカ潜水艦バットフィッシュ((1944年8月には座礁していた[[五月雨]]を雷撃し放棄に追い込んでいる。))の雷撃により撃沈された。呂46による搭乗員の救出が成功した時点で作戦内容が暗号解読によりアメリカ軍に察知されており、バットフィッシュは僚艦のアーチャーフィッシュ、ブラックフィッシュとともに続く潜水艦を撃沈するよう命じられていた。
--どちらも発見されたことを察知して潜航しこれをやり過ごそうとしたが、バットフィッシュはしばらくすればまた浮上してくるだろうと待ち構えていた。案の定浮上してきたところを雷撃され、大きな火の玉と火炎を残し瞬時に轟沈。呂112艦長の湯地淳大尉以下乗員61名、呂113艦長の原田潔大尉以下乗員59名総員戦死という悲惨な最期を遂げた。
&br;

*この艦娘についてのコメント [#comment]
#fold(過去ログ){{
#ls
}}
#pcomment(./コメント1,reply,30)