No.592 | ||||
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![]() | 杉(すぎ) | 松型 7番艦 駆逐艦 | ||
艦船ステータス(初期値/最大値) | ||||
耐久 | 14 | 火力 | 5 / 24 | |
装甲 | 5 / 22 | 雷装 | 16 / 66 | |
回避 | 29 / -- | 対空 | 22 / 63 | |
搭載 | 0 | 対潜 | 28 / -- | |
速力 | 高速 | 索敵 | 8 / -- | |
射程 | 短 | 運 | 16 / 73 | |
最大消費量 | ||||
燃料 | 15 | 弾薬 | 15 | |
装備 | ||||
12.7cm単装高角砲(後期型) | ||||
未装備 | ||||
装備不可 | ||||
装備不可 | ||||
改造チャート | ||||
杉 → 杉改(Lv46+高速建造材x17+開発資材x22) | ||||
図鑑説明 | ||||
松型……ま、丁型でいっか、駆逐艦、杉だ。あの大戦後期に生まれたけれど、結構いろンな作戦に参加したぜ。 中でも礼号作戦、あれは忘れねぇ。戦局はもう最低の最低だったけど、それでも小さな小さな勝利は掴み取った。後は皆、繋いでくれよ?頼んだぜ。 |
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、改造直後の値とは異なります。
最大値はLv99の時の最大値を指します。
ゲームにおいて
- 2025春イベント後段作戦『北海道防衛作戦』E4にてドロップ艦として初登場。
アップデート履歴
- 2025/03/23:イベントドロップ艦として実装。
キャラクター設定について
- 初出は舞台「突入!礼号作戦1944」。演者の立野沙紀氏は艦娘遊撃隊の春雨役でもある。
また、艦娘・衣装デザインは海原さかな氏が担当している*2。- 実は25春イベにおいて「ミンドロ島突入に参加できる杉と清霜」というのは舞台版ではありえなかった最大のifだったりする。その代わり樫がいないけど
- 一方、後述するように杉は史実でミンドロ島に突入しているので、舞台における「ミンドロ島突入に参加できなかった杉」自体も史実との分岐点となったifと言えなくもない。
- 実は25春イベにおいて「ミンドロ島突入に参加できる杉と清霜」というのは舞台版ではありえなかった最大のifだったりする。その代わり樫がいないけど
小ネタ
艦歴
- 駆逐艦「杉」は松型駆逐艦の7番艦で、1944年(昭和19年)2月25日に起工し、同年7月3日に進水、同年8月25日に竣工した。
- 松型は従来の艦隊決戦の補助としての能力に主眼を置いていた甲型駆逐艦たちと比べて量産性を重視していた。
- 経緯や性能等の詳細は長姉の項に譲るが、昭和17年の後半から始まったソロモン方面での死闘で多くの駆逐艦を失った日本海軍は
・従来の駆逐艦よりも小型化して限られた資源の中で数を揃える事を優先
・合わせて工作規模の見直しをして工数を減らす
・武装の重点を対艦から対空対潜に移す
といった方向性でその穴埋めのための駆逐艦建造を企図、紆余曲折を経て*4H案を採用、従来の艦隊型駆逐艦とは明らかに一線を画する駆逐艦が誕生した。- 松型とそれまでの駆逐艦と一線を画するものとして建造日数の差が特に明確に違っている。
松型駆逐艦*5各艦の工程日数と造船所艦名 起工日 進水日 竣工日 かかった日数 造船所 松 1943年8月8日 1944年2月3日 1944年4月28日 264日 舞鶴 竹 1943年10月15日 1944年3月28日 1944年6月16日 245日 横須賀 梅 1944年1月25日 1944年4月24日 1944年7月25日 182日 藤永田 桃 1943年11月5日 1944年3月25日 1944年6月10日 218日 舞鶴 桑 1943年12月20日 1944年5月25日 1944年7月25日 218日 藤永田 桐 1944年2月1日 1944年5月25日 1944年8月14日 195日 横須賀 杉 1944年2月25日 1944年7月3日 1944年8月25日 182日 藤永田 槇 1944年2月19日 1944年6月10日 1944年8月10日 173日 舞鶴 樅 1944年2月1日 1944年6月16日 1944年9月7日 219日 横須賀 樫 1944年5月5日 1944年8月3日 1944年9月30日 148日 藤永田 榧 1944年4月10日 1944年7月30日 1944年9月30日 173日 舞鶴 楢 1944年6月10日 1944年10月12日 1944年11月26日 142日 藤永田 桜 1944年6月2日 1944年9月6日 1944年11月25日 176日 横須賀 柳 1944年8月20日 1944年11月25日 1945年1月18日 151日 藤永田 椿 1943年6月20日 1944年9月30日 1944年11月30日 163日 舞鶴 檜 1944年3月4日 1944年7月4日 1944年9月30日 210日 横須賀 楓 1944年3月4日 1944年7月25日 1944年10月30日 240日 横須賀 欅 1943年6月22日 1944年9月30日 1944年12月15日 176日 横須賀 - これに対し従来の艦隊型駆逐艦で同時期頃に作られた駆逐艦の工数はご覧の通りである
- 松型とそれまでの駆逐艦と一線を画するものとして建造日数の差が特に明確に違っている。
- 経緯や性能等の詳細は長姉の項に譲るが、昭和17年の後半から始まったソロモン方面での死闘で多くの駆逐艦を失った日本海軍は
- 夕雲型や秋月型と松型では工数に明確な差がでているのに分かる。それまでの艦は起工から竣工まで1年以上を要するものだったが、松型はそれを大きく短縮、中には5か月かからずに完成している艦もある。
それでいてこの頃の海戦の主要戦闘法となっていた対空・対潜戦闘力は甲型駆逐艦を上回り、電探やソナー最寄り新型のを搭載していたのだから、まさに「時期にあった」兵器であったと言える。
- 艦名の「杉(スギ)」は、ヒノキ科スギ属の常緑針葉樹で、日本固有種である。成長が早く加工しやすいため、古くから材木として利用され、建築・家具・日用品等幅広い用途に使われている。
その用途の広さから日本では最も広く植林され、その面積は日本の人工林の45%に達する。全国の産地で地域名を冠してブランド化されているほか、神社などの神木とされたり天然記念物に指定されているものも多い。
しかし一方で、その植林面積の広さ故に、春先の2~4月に大量に飛散する杉の花粉によるアレルギー症状、いわゆるスギ花粉症が1960年代から日本において蔓延するようになり、今や国民病とまでいわれるようになってしまっている。
そんな花粉症に悩まされる春の季節に「杉」の名を冠する艦娘が実装されたのは皮肉というべきか……- 「杉」の名を持つ艦船としては本艦は2代目。初代は1920年に就役した樺型駆逐艦の9番艦で、1932年に除籍。
- 3代目は海上自衛隊のくす型護衛艦5番艦「すぎ」(PF-285)。元はタコマ級哨戒フリゲートの「コロナド」(PF-38)で、1953年に日本へ貸与(後に供与)され、1969年に除籍、アメリカへ返還された。なお、除籍後は再び無償供与されて実艦標的となり、1971年に護衛艦の射撃標的として撃沈されている。
- 竣工後、8月25日に杉はこの頃完成した艦艇の登竜門である第十一水雷戦隊に配備される。当時の十一水戦旗艦は姉妹艦の「桑」*6。
- 訓練部隊である第十一水雷戦隊だが、この頃の日本海軍は戦力も枯渇しだし、練習途上であっても前線に動員するような状態だった。そのため第十一水雷戦隊も来る連合軍との決戦を企図した作戦「捷号作戦」で第一線部隊として投入されることが決定し、8月1日付で編成された「第二遊撃部隊」に編入される事になっていた。
- 第二遊撃部隊は第五艦隊司令長官志摩清英中将を指揮官とする、小沢機動部隊の前衛*7を担う事を目的として編成された部隊で、それまで主戦場とはならなかった北方海域を担当していて戦力も残っていた第五艦隊*8に、第二戦隊が解隊され連合艦隊直属となっていた扶桑、山城*9、第十戦隊より第六十一駆逐隊*10、そして第十一水雷戦隊で構成する予定だった。
- だが小沢長官の意見具申*11により扶桑と山城は第一遊撃部隊への編制替えとなってしまい、六十一駆も結局機動部隊本隊に残留、木曾は横須賀砲術学校の練習艦に指定されて転属、多摩は第十一水雷戦隊の旗艦に異動したがその第十一水雷戦隊自体が1944年10月14日付で第二遊撃部隊から機動部隊本隊に所属がかわってしまい、いざ捷号作戦が発動された際、その戦力は大きく減少してしまった。
- 第二遊撃部隊は第五艦隊司令長官志摩清英中将を指揮官とする、小沢機動部隊の前衛*7を担う事を目的として編成された部隊で、それまで主戦場とはならなかった北方海域を担当していて戦力も残っていた第五艦隊*8に、第二戦隊が解隊され連合艦隊直属となっていた扶桑、山城*9、第十戦隊より第六十一駆逐隊*10、そして第十一水雷戦隊で構成する予定だった。
- 「榧」もそうだったが風雲急を告げるこの時期は訓練途上でも前線に投入される艦艇が殆どであり、所属替え翌日の15日には小沢艦隊司令部より駆逐艦秋月と共に鹿児島への弾薬輸送を命じられる*12。
- 同時期に秋月の姉妹である涼月、若月にも台湾高雄への航空隊人員等の輸送任務が命じられている。台湾沖航空戦たけなわのこの時期の輸送任務は危険であり、涼月幹部は抗議したようだが却下されてしまう。だが彼らの不安は的中し、16日22時ごろ都井岬沖を航行中の涼月は米潜水艦の奇襲を受け2度目の艦首切断という損害を受け撤退、後のレイテ沖海戦に参加出来なくなってしまう。
レイテ沖海戦
- 1944年10月20日、数日前からレイテ湾に侵入していた米攻略部隊がレイテ島に上陸を開始する。18日に「捷一号作戦」を発動していた連合艦隊は小沢艦隊にも出動を命じる*13が、前衛の第二遊撃部隊は台湾沖航空戦大勝利の速報により、残敵掃討のため出撃していた。そのため、空母戦力の警戒、護衛部隊が不足していた。
- 10月20日、第三航空戦隊*22と第四航空戦隊*23 を中核とする小沢機動部隊は豊後水道を出撃する。だが杉を含む松型駆逐艦は他の駆逐艦と比べて燃料の積載量が少なく頻繁に補給をする必要があった。杉は22日に空母千歳から洋上補給を受けている*24。だが訓練不足もあり補給作業は難航、杉は予定量の搭載に成功したが他艦の中には予定量の半分も補給できなかった艦が続出し*25、なかには管を切断してしまう艦も出てきたため、結局補給は中止された。
- 10月24日、この日は小沢機動部隊から「機動部隊最後の航空隊」が出撃し、米機動部隊をおびき寄せるための反撃がなされていた。そうした中で上空警戒任務に就いていた零戦の1機が瑞鶴への着艦に失敗、洋上に墜落してしまう。更に搭乗員を救助しようと瑞鶴の乗員1名が海に飛び込み、両者は洋上を漂流する事になる。
そうした中、瑞鶴より杉と姉妹艦の桐に救助命令がくだり、2隻は反転して漂流現場に急行する。- 2隻は無事に漂流者を発見救助する。だが残念ながら搭乗員の方は既に死亡しており、飛び込んだ乗員1名のみの救助となった。
こうして指示を務めた2隻は本隊と合流すべく反転するが小沢機動部隊を見失ってしまう。
捜索を続けた2隻は深夜になり複数の艦影を視認する。友軍だと思った桐の川畑艦長はこれに続行するが、上空を米軍の夜間哨戒機が飛来し、英語の無線通信が混線したことから、2隻は前を行く艦影は米機動部隊だと判断、慌てて退避行動をとり逃げ出してしまう。 - 結局元々燃料補給が満足にできていない桐は燃料が不足しだしたので、独断で高雄に撤退、杉もこれに同行したので、翌25日の凄惨な対空戦闘に杉は参戦する事はなかった。
- なお、桐と杉の行動について公式報告には「燃料補給が出来ずに不足しだした桐に杉を護衛につけて撤退させた」とあり、溺者救助や誤認騒動の事は触れられていない。司令部側の判断で問題視はされなかったようである。このほかにも「伊勢型戦艦の低速力(編隊速力22ノット)、松型駆逐艦の航続距離が短いために、三航戦(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)の機動部隊としての行動が制限された」「母艦部隊を有効に使用するには少なくとも(編隊速力)24ノット以上にて相當航続力大なるものを以て機動部隊を編成すること緊要なり。」…と報告と評価がなされている。
- 2隻は無事に漂流者を発見救助する。だが残念ながら搭乗員の方は既に死亡しており、飛び込んだ乗員1名のみの救助となった。
多号作戦
- 10月26日に高雄についた2隻は奄美大島等を経由して10月30日に呉に帰還する。だが杉は休む間もなくレイテ沖海戦から帰還した伊勢、日向、五十鈴らと南方輸送部隊「H部隊」を編成、11月9日に五島列島を出撃して14日に南沙諸島に到着、翌15日に松型駆逐艦5隻で新たな駆逐隊「第52駆逐隊」を新編しマニラに進出、多号作戦に参加する事になる。
- 結局多号作戦は米軍のオルモック侵攻、および12月15日のミンドロ島への上陸から中止となり、杉たちはマニラから脱出して南沙諸島に移動する。そして南西方面艦隊はミンドロ島サンホセにある米船団への殴り込み作戦を発令、南沙諸島にいた杉、樫、榧に白羽の矢があたる。だが同作戦は台風の影響もあり延期となる(詳細は榧の項を参照)
礼号作戦
- 12月20日、連合艦隊司令部は改めてサンホセへの殴り込み作戦を南西方面艦隊に督促する。大河内伝七司令長官は麾下の第二遊撃部隊に第二水雷戦隊を中核とした部隊に突入を命令、志摩中将により木村昌福司令官を指揮官とする挺身部隊が編成され、杉も第43駆逐隊の樫、榧とともに参加、榧艦長岩淵悟郎少佐の指揮下に入る*26。
- 12月24日、カムラン湾を出撃した挺身部隊は偽装針路をとりながら進軍したためか、24日、25日は敵からの触接は受けなかった。26日未明にミンドロ島への針路をとり南下、16時半ごろ米爆撃機に発見される。
- 挺身部隊を発見した米爆撃機は慌てたのか「戦艦1,巡洋艦1,駆逐艦6」と敵情報告する。実際の挺身部隊は「重巡1,軽巡1、駆逐艦6」であったのだが、米軍はその後も周辺にいた米陸軍機が部隊上空に現れるが数も少なく攻撃もせずに周囲を飛行するだけだった。
- 彼らが攻撃しだしたのは日没後の20時45分頃からだった。当時は天候も晴れ月齢も11と日没後も艦隊は上空から丸見えという状態だった。まず朝霜が爆撃を受けるがこれを回避、21時には大淀も爆撃を受け250㎏爆弾2発が命中するが、慌てて出撃してきたからかどの爆弾も信管がついておらず爆発しなかったので難を逃れた。
- だが続いて狙われた清霜に幸運は訪れなかった。中央部に爆弾1発が命中し機関室を直撃、瞬く間に航行不能になり浸水も発生する。炎上する清霜はその後30分ほどで沈没するが、空襲を受ける杉ら他艦は清霜にかまう余裕もなく、部隊はそのまま進撃を継続する。損害は清霜だけにとどまらず、被弾したB-25が足柄に突入自爆、死傷者70名を出す大損害を出している
- 挺身部隊を発見した米爆撃機は慌てたのか「戦艦1,巡洋艦1,駆逐艦6」と敵情報告する。実際の挺身部隊は「重巡1,軽巡1、駆逐艦6」であったのだが、米軍はその後も周辺にいた米陸軍機が部隊上空に現れるが数も少なく攻撃もせずに周囲を飛行するだけだった。
- 空襲を受け、各艦に損害が出るも、杉の損害は軽微で死者はいなかった。挺身部隊はそのままマンガリン湾に突入、23時頃よりサンホセにいる敵部隊への攻撃を開始した。
その後
- 礼号作戦は成功したが、大局を好転させるような大勝利には程遠かった。帰路で杉たちは挺身部隊から警戒部隊への復帰を命じられ、足柄や霞とは別行動になる。香港経由で台湾高雄に移動、1945年1月8日杉は第52駆逐隊司令艦となる。ここでマニラ以来行動を共にしていた榧は内地に戻り、杉も高雄で応急修理後佐世保への回航が決まる。1月21日の高雄空襲で更に損害を受けるが行動には支障はなく、船団護衛をしながら2月8日に佐世保に帰港する
- 杉の修理が終わった頃には、第三十一戦隊は第二艦隊に所属していた。再度修理が必要になり入渠、その間大和と第二水雷戦隊の沖縄特攻作戦があったため、杉はそれにかかわることは出来なかった。5月20日、所属する第三十一戦隊を基幹とする海上挺身部隊が編成され、杉も姉妹たちと共にこれに加わる。だが燃料もなく、訓練もできない杉たちは待機する日々を過ごし、杉は呉でそのまま終戦を迎えた。
- 終戦後は復員船として復員輸送に従事、1947年7月31日に賠償艦として中華民国海軍に引き渡され「恵陽」(フェイヤン)と命名された。だが幾多の戦闘で船体は痛み、満足に修理も受けれていなかった杉は再戦力化されずに放置され、国共内戦中の1949年5月に台湾に移動する際に座礁事故を起こし、そのまま1951年に除籍解体となった。
- 杉の修理が終わった頃には、第三十一戦隊は第二艦隊に所属していた。再度修理が必要になり入渠、その間大和と第二水雷戦隊の沖縄特攻作戦があったため、杉はそれにかかわることは出来なかった。5月20日、所属する第三十一戦隊を基幹とする海上挺身部隊が編成され、杉も姉妹たちと共にこれに加わる。だが燃料もなく、訓練もできない杉たちは待機する日々を過ごし、杉は呉でそのまま終戦を迎えた。
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