
試作1号機
Yak-23は、Yak-15シリーズの完成形で、機体構造をYak-3からほぼ流用したYak-15・Yak-17とは違って、ほぼ全面的に改良などを行った。そのため、エンジンの配置場所などこそ特に変わっていないが、実際は新型機と呼んでもいい機体だった。1949年から1951年にかけて量産され、後述の理由もあり、313機の製造にとどまった。初飛行は1947年7月。
武装は戦中のNS-23ではなく、戦後のNR-23が2門機首下部につけられた(本来は別のを搭載する予定だった)。また、当時ソ連の中でも先進的な機器(敵味方識別装置など)を搭載していた。
先述の通り、試作1号機は1947年6月に完成、7月8日に初飛行し、8月3日にツシノ空港にてお披露目された。試作2号機もあったが、1948年7月14日、ツシノ空港で行われるエアパレードのリハーサル中、突如翼が破損し回転しながら墜落し、パイロットも死亡した。
こんな事故もあった本機だが、優秀な機体であったことには変わりなく、大量生産がされる・・・はずだった。ちょうどこのころ、先進的な後退翼を備えたMiG-15が完成し、本機は「MiG-15の保険」になった。だが、MiG-15は大きな失敗もなく完成したため、本機は特に必要性がなくなり、僅か2年ほどの生産に止まった。
一応、Yak-23UTIという複座練習機型も製造されたが、元々の生産数が少ないので、少数の生産に止まった。
生産数・運用期間ともに少ない本機だが、ブルガリア・ハンガリー・ポーランド・ルーマニア・チェコスロヴァキアに輸出された。なお、ルーマニアに輸出された内の1機が、ユーゴスラヴィアに捕獲され、アメリカに送られた。なお、ルーマニア独自の派生型として、Jak-23DCという、Yak-23の改造機が4機存在した。
なお、パイロットには割と好評であった。利点として、安定した3輪や離陸にそこまで長い滑走路が不要なことであった。当然欠点もあり、MiG-15・La-15と比べて武装が貧弱なことや高度10000mでM0.81を超えると機体が揺れ始めたり、RSI-6無線機やレーダーに欠陥があったり、着陸灯が暗いことであった。
現在は、ロシアに2機、チェコ共和国に1機、ポーランドに6機、ブルガリアに3機が保存されている。
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