七夕の悲劇

Last-modified: 2021-01-18 (月) 09:14:06

文字通り七夕、つまり7月7日の試合で起こった悲劇のこと。一般的には1998年版と2017年版が知られている。

1998年版

主役は千葉ロッテマリーンズ。こちらを指して語られる場合が殆ど。
当時ここ10年で5位4回・最下位5回*1暗黒時代真っ只中だったロッテであったが、1998年シーズンはジョニーこと黒木知宏*2小宮山悟*3のWエースを中心とした投手陣に福浦和也、フリオ・フランコ、初芝清の強力クリーンナップ、さらに球界最高とも言われる守備力と俊足で知られる遊撃手小坂誠らを備えた野手陣と戦力は十分。優勝候補の一角とも目された。
その予想通りシーズン開始直後は順調に白星を挙げ、6月12日の時点で2位につける*4など、今度こそ暗黒期脱出と思われた。

ところが、翌13日の試合で小宮山がオリックス打線にKO負けしたのをきっかけにロッテは突如全く勝てなくなってしまい、7月5日までに(1引き分けを挟み)16連敗を喫してしまう。原因は「投打のかみ合わなさ」と「守護神の不在*5」が重なったことで、7月6日までの16試合で逆転負け9度、サヨナラ負け3度と特に接戦に非常に弱かった。

そんな中でも何としても勝とうとしたロッテは、黒木を守護神に回す4番のフランコが自らバントをする、果ては試合前にお祓いをするなどあらゆる策を講じたが全て不発。特に黒木の抑え転向は連夜の逆転負けを招いたのみならず、当時投手三冠王を狙える位置にいた彼の成績を悪化させてしまい*6、勝敗面でも個人成績面でも手痛い大失敗だった。
そんな中、ダイエーに惨敗し連敗が16 *7まで伸びた7月5日に、500人のロッテファンがバスを包囲する事件が起こる。過去の事例から暴動も危惧されたが、ロッテファンは

「俺たちの誇り千葉マリーンズ!どんな時も俺たちがついてるぜ!突っ走れ勝利のために!さあ行こうぜ千葉マリーンズ!」

この状況下であってもバスの周囲でチームを鼓舞したのだ。
それを知った近藤監督は感謝の涙を流したという。そしてこの時、「何がなんでも連敗を止めなきゃいけない、そのためなら腕がもげてもいい」と強く決意した選手がいた。それこそがこの悲劇の主要人物・黒木知宏その人である*8
そして迎えた7月7日のオリックス戦。守護神から先発に戻った黒木は8回まで力投を見せ、イチローや谷佳知らを擁する強力打線を1点に封じていた。試合は9回の時点で3-1とロッテリード。この日、折からの高温多湿だったせいか6回に脱水症状を発症し全身痙攣を起こしていたという黒木だが、クローザー不在の台所事情を慮ってそれを明かさずに投げ続け、魂のこもった力投で2アウト1塁とする。ここで打席にはハービー・プリアム。プリアムはホームランは多いが内角攻めに弱く、攻略には内角攻めが有効とされていた。黒木はプリアムに対して外角で2ストライクを奪うと、139球目をセオリー通りに内角に投げ込んだ。

しかしプリアムは黒木渾身の一投*9完璧に打ち返し、そのままボールは無情にもマリーンズファンが陣取るレフト席にスタンドイン、あと一球で連敗脱出というところからの同点ホームランとなってしまった。直後に黒木はマウンド上で膝から崩れ落ち、チームメイトに抱えられながら降板*10。チームは3-3のまま迎えた延長12回、3番手の近藤芳久が広永益隆*11代打サヨナラ満塁弾を食らい*12敗北。ついに連敗記録の単独ワースト記録を樹立してしまった。

同8日も敗れて連敗は18まで膨れ上がったロッテだったが、同9日はオリックスとの乱打戦を制し、ようやく連敗を止めた。その時の先発は小宮山で、6失点を喫するも完投勝利。結果的にオリックスと小宮山ではじまり、オリックスと小宮山で終わった悪夢であった。

この18連敗はあまりにも高い壁であるのか、2021年現在もその記録は破られていない。

1998年版余談

  • 多くの者に賞賛や同情の声を寄せられた黒木だが、小宮山からは「なぜまだ同点だったのに諦めた?」と聞かれ、エースなら諦めてはならないと諭されたという。またこのことが自分の魂に火をつけるきっかけとなった、とも語っている。
  • この試合の後に黒木はイチローに「9回裏の打席、わざと三振したろ?」と冗談めかして聞いたところ、「何言ってんだ、お前相手にそんな失礼な事しないよ」と真顔で返されたという。この試合のイチローは6打数1安打と封じこまれており、後に黒木を「黒木ほどボールに魂を感じるピッチャーはいない」と評している。
  • 試合後、プリアムは「これがプロの厳しさだ。これを乗り越えれば彼は一流の投手になれる」と語ったという。
  • 七夕の悲劇の後のロッテは河本の復帰やブライアン・ウォーレンのフィットによるリリーフの安定、初芝やフランコ、盗塁王に輝いた小坂誠ら打撃陣の活躍で立ち直ったものの最終的には最下位でシーズンを終え、近藤昭仁監督*13は10月8日に辞任を表明*14。10月12日の辞任会見では「もっと強いチームでやりたかった」と発言してしまい、ロッテファンの顰蹙を買っている*15
    とはいえ20まで膨れ上がった借金は10まで減らし*16、最終的に61勝71敗3分けの勝率.462、優勝した西武とのゲーム差は9.5、3位(オリックス&ダイエー)とは4ゲーム差とそこまで引き離されてはいなかった。さらにはチーム打率.271はリーグ1位、チーム防御率3.70もリーグ2位と当時「史上最強の最下位」とまで呼ばれたほどであった*17
  • この試合に3番・一塁でフル出場して先制の犠牲フライを決め、後に当時の出場メンバーで最も長く現役を続けることとなった福浦は、2017年の七夕に再びほっともっとフィールド神戸でオリックスと戦うことになった(この試合については後述)際に当時の事をこう振り返っている。

    ぺーぺーで、毎日必死だったなあ。あの時は何やっても勝てなくてね。
    打ったら、もっと点を取られるし、投手が抑えたら向こうがもっと抑えて。
    野球って難しいね。勝つ時は、あっさり勝つのに。
    出典はこちら

2017年版

主役は東京ヤクルトスワローズ
当時のヤクルトは首位打者経験者の川端慎吾をはじめ主力選手に怪我人が続出する、いわゆるヤ戦病院」状態に陥っていた*18。そんな中でクローザーの秋吉亮(現日本ハム)までもが怪我で離脱してしまい、抑えができるまともな投手が一人もいなくなってしまった。そこで真中監督先発のエース的存在だったライアン小川こと小川泰弘を臨時クローザーに任命する。既視感のある展開である。

7月に入ると事態はさらに深刻化。5連敗を喫して迎えた7月7日広島東洋カープ戦、9回表、8-3の状況で小川はマウンドに立った。5点リードなら勝利は確実、と誰もが思っただろう……。
ところが小川は大乱調

先頭打者サビエル・バティスタ初球を被弾8-4

田中広輔は抑えるが菊池涼介にまたも被弾、8-5

丸佳浩(現巨人)に四球を与え1アウト1塁

鈴木誠也を抑え2アウトとするが松山竜平に粘られた末にタイムリー2塁打を浴び8-6、2アウト2塁
広島は即座に2塁ランナーを代走上本崇司に交代

西川龍馬はセカンドへ際どい打球も判定は内野安打、2アウト1・3塁
広島は西川の代走に野間を起用
(ここで今村猛が裏に備えて投球練習を開始する)



と一気に詰め寄られた上、逆転のピンチを招いてしまう。

ここでジェイ・ジャクソンの代打で新井貴浩が登場。

というどこかで見たことがあるような展開になんJややくせん、各SNSのヤクルトコミュなどは不穏にざわめきはじめる。一方の神宮ではカープファンのボルテージが最高潮に達し、地鳴りのような応援*19が鳴り響いていた。
そして新井はバックスクリーンに3ランホームランを放ち広島が逆転、なんJ民やヤクルトファンの嫌な予感は最悪の形で的中してしまった。試合は9回裏を今村が締めて終了。
大逆転勝利を収めた広島のファンが「七夕の奇跡」に沸く一方、連敗ストップを夢見たヤクルトファンドン底に叩き落とされた。さらに2日後の7月9日も小川は再び新井に打たれ*20またも連敗脱出失敗。この2試合だけで防御率31.50というプロとしてあり得ない成績を叩き出してしまい、前半戦終了間際に二軍落ちとなった

2017年版余談

  • この日は坂口智隆の誕生日であり、神宮球場で誕生日イベント仕様でお立ち台が(申し訳程度だが)豪華になっていたが、実際にヒーローインタビューに登場したのは新井というなんとも気まずいものになった。
  • この年のヤクルトは交流戦で都・リーグと化すなど序盤から低迷*21しており、惨劇レベルのこの敗戦に一般的に温厚と言われるヤクルトファンもついにブチ切れ 。30~40人ほどがヤクルトの車に詰め寄り、「采配が悪い」「謝罪しろ」などと怒声を上げる事態となったが、その中に「シャワーが長い」と叫んだ者がいたことが判明しネタにされた。
  • 2018年に現役引退し、翌年度より解説者デビューした新井氏が、2019年4月14日のプロ野球中継内で取り上げられた平成の名勝負において、あのホームランを選んでいたことが新井氏自らの口より語られた*22
  • この七夕の悲劇は氷山の一角にすぎず、オールスター前にこの試合を含めて10連敗を喫した。さらにはオールスター後にも4連敗の計14連敗を喫する。*23*24連敗が始まった7月の人気ホテルを見守るスレが立てられ、21日連続未勝利というその悲惨さが話題になった。8月時点で2000年代の暗黒期のベイスが作ったシーズン95敗を超えるペースという壮絶な負けっぷりに真中満監督はシーズン限りでの辞任を表明*25。最終的に球団ワースト記録および21世紀セリーグワースト記録となる96敗の最下位でシーズン終了、優勝した広島とは44ゲーム差、5位の中日にも15ゲーム差と圧倒的な差をつけられてしまった。さらには月間勝率5割越えとタイトル獲得者なし*26・勝率がこの年セリーグ首位打者の宮崎敏郎(DeNA)の打率よりも劣るという、ヤクルトファンにしてみれば悪夢としか言いようのない結果となった。
  • ちなみにこの日は奇しくも前述のロッテの悲劇の舞台となったほっともっとフィールド神戸(1998年当時はGS神戸)で、その悲劇の日から19年ぶりにオリックスとロッテの試合が組まれていた。結果はあの日黒木が抑えていた場合のスコアである3-1でロッテが勝利、見事前回のリベンジを果たし「七夕の歓喜」となった。なお、決勝点を挙げる犠牲フライを放ったのは、当時を知る唯一の選手だった福浦和也である。
  • 2020年にスポナビが開催した「ファンが選ぶ思い出の試合*27」の1つに選ばれ、4月23日に晒された速報形式で再放送された。

関連項目


*1 それ以外では1995年に2位につけたのみ。その2位を挟んで1986年-1994年、1996年-2004年と19年間で2度の9年連続Bクラスを経験している。
*2 2013~2017年に日本ハム一軍投手コーチ。現在は野球解説者。
*3 のちMLB→横浜。2019年から早稲田大学野球部監督。
*4 6月12日の試合で黒木は完投勝利を挙げているが、この試合で黒木からホームランを放ったのは他でもないハービー・プリアムである。
*5 Wストッパーとしてリリーフの軸となっていた成本年秀・河本育之が故障で離脱、補強したスコット・デービソンも5月に故障していた。
*6 日本ハム(当時)の金村曉に防御率トップを掻っ攫われる事になった。また黒木には元々小宮山と共に酷使されていた背景があり、そこへ持ってきてのこの無謀な抑え転向が後年故障に喘ぐ遠因となったともされており、山本功児やボビー・バレンタインからも批判されている。
*7 この時点で1970年のヤクルトアトムズの記録と並んでいた。また、21年後の2019年に東京ヤクルトスワローズ(アトムズの後身)が16連敗することとなる(こちらは引き分け挟まず)。
*8 のちに黒木は、「実は暴動を恐れて試合途中にスタジアムから逃げてしまい、ニュースでファンの激励を知ってひどく後悔した」と明かしている。
*9 このとき黒木が投げたインローの球はコースであったが、後にスポーツ報知の近藤昭仁追悼企画記事で「インハイに狙って投げたかったが引っかかってしまいそれが低く行ってしまった」と語っている。が、無論146km/hのスピードと共に決して甘いものではなかった。
*10 この際の映像でも彼の唇が真っ青な様子が見て取れる。この後黒木はベンチに下がり、ゲームセット直前に脱水症状と体力消耗で再度全身痙攣を起こし、命の危険に晒されていたとまで言われている。そのためバスに乗り込む際も当時のコンディショニングディレクターの立花龍司に抱えられて乗り込む程であった。
*11 元ダイエー→ヤクルト→オリックス。通算34本塁打の割に、NPB通算60000号、パリーグ通算30000号などなどメモリアルアーチが多いため、「メモリアル男」「記憶より記録に残る男」の異名を持つ。実はこの試合を以って両リーグ代打サヨナラ本塁打(セはヤクルト時代の1996年4月20日の巨人戦で達成)を達成。しかも五十嵐章人の代打である藤本博史の代打、いわゆる代打の代打で達成すると言う珍記録(2020年現在達成者は4人)まで達成している。
*12 敗戦投手は2番手の藤田宗一。
*13 1938-2019。元大洋ホエールズ。現役時代は典型的なバント職人で、監督時もバントを多用した手堅い攻めを志向。しかしバントへの固執が災いし度々スクイズを看破され、漫画『ササキ様に願いを』でも「ノーアウトかワンナウトでランナー3塁のときはスクイズしないと死んじゃう病」とネタにされていた。ロッテでは前述の通り黒木の酷使を問題視されている。監督としての成績は芳しくないが、横浜監督時代(1993-1995)に斎藤隆三浦大輔・鈴木尚典を、ロッテ監督時代も小坂誠福浦和也を見出しており若手登用には明るい。
*14 なお近藤が辞任を表明した1998年10月8日は、皮肉にも彼が3年前まで率いていた(=近藤の教え子たちが主力として活躍していた)横浜ベイスターズが38年ぶりのセ・リーグ優勝を決めた日(その後日本一)でもあった。
*15 ただしこの発言については本人曰く「1年目から結果(優勝)を求められるのならば、ヒルマンや伊良部の抜けた再建期のチームではなく、十分に戦力が整ったチームを引き受けたかった」というフロント批判としての言葉であり、前後をマスコミに端折られ本人の意図しない伝わり方をしてしまったのだという。
*16 18連敗後は38勝28敗2分けと大きく勝ち越していた。
*17 得失点差も+18。なお近藤監督は横浜監督時代の1994年にも得失点差+8での最下位を経験している。ちなみにこの時の借金は8。
*18 その状況たるや、引退してブルペン捕手をしていた新田玄気を現役復帰させたにも関わらず人員不足で2軍戦が数試合行えないほどの深刻なものだった。
*19 神宮球場には大勢の広島ファンが詰めかけており三塁側は真っ赤であった。
*20 このシーンに関しては、野村克也元監督も真中の采配に対し「抑えに向いていない」「この状況で長打なんてホームランの次に悪い結末」などと苦言を呈している。
*21 その低迷たるや、この年のオールスター出場者が監督推薦で選ばれた小川ただ一人という始末だった。
*22 その後、NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』2019年9月2日放送回に出演した際に、偶然出会ったヤクルトファンの少年に謝罪する一幕もあった。
*23 この他に、交流戦で開幕から引き分けを挟んで10連敗を喫するなどしていた。
*24 なお、2年後にはこの年を超える16連敗を引き分け無しで喫した。
*25 ただし、暗黒期のベイスを超える不名誉では辞めなくても当時の衣笠オーナーに解任されていた可能性は否定出来ない。
*26 月間MVPを含む。
*27 新型コロナウイルス蔓延でプロ野球開催が延期となったために行われた特別企画。他にも日ハムファンのトラウマとなった大逆転のあの試合巨人が目の前で優勝を決められたあの試合2人の行方不明者を出したあの試合などの各球団ファンのトラウマ名試合が再放送された模様。