文字通り七夕、つまり7月7日の試合で起こった悲劇的な敗戦のこと。
1998年の千葉ロッテマリーンズと2017年の東京ヤクルトスワローズがよく知られている。
1998年ロッテ
単に「七夕の悲劇」と言えば、こちらを指して語られる場合が殆どである。
当時ここ10年で5位4回・最下位5回*1と暗黒時代真っ只中のロッテであったが、1998年シーズンは
- 『ジョニー』こと黒木知宏、『精密機械』こと小宮山悟のWエースを中心とした投手陣
- 福浦和也、フリオ・フランコ、初芝清の強力クリーンナップ+マーク・キャリオンの打撃陣
- 「球界最高」とも言われる守備力と俊足で知られる小坂誠を備えた野手陣
と戦力は十分で、優勝候補の一角とも目される。その予想通りシーズン開始直後は順調に白星を挙げ、6月12日の時点で2位につけるなど、今度こそは暗黒期脱出かと思われた。
ところが、翌6月13日の試合で小宮山がオリックスにKOされたのをきっかけにロッテは突如全く勝てなくなってしまい、7月5日までに(6月30日の引き分けを挟み)16連敗。「投打のかみ合わなさ」と「守護神の不在*2」が重なったのが主な原因で、7月6日までの16試合で逆転負け9度、サヨナラ負け3度と特に接戦に非常に弱かった。
それでも何としても勝とうとしたロッテは、黒木を守護神に回す、4番のフランコが自らバントをする、果ては試合前に神社でお祓いをするなどあらゆる策を講じたが全て不発。特に黒木の抑え転向は連夜の逆転負けを招いたのみならず、当時投手三冠王を狙える位置にいた彼の成績を悪化させてしまい*3、勝敗面でも個人成績面でも手痛い大失敗だった。
そんな中、ダイエーに惨敗し連敗が16まで伸びた7月5日に、500人のロッテファンがバスを包囲する事件が起こる。ダイエーでの過去の事例から暴動も危惧されたのだが、
「俺たちの誇り千葉マリーンズ!どんな時も俺たちがついてるぜ!突っ走れ勝利のために!さあ行こうぜ千葉マリーンズ!」
と彼らはチームを鼓舞した。それを知った近藤監督は感謝の涙を流したという。
そしてこの時、「何がなんでも連敗を止めなきゃいけない、そのためなら腕がもげてもいい」と強く決意した選手がこの悲劇のヒーロー・黒木知宏であった*4。
迎えた7月7日のオリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)。守護神から先発に戻った黒木は8回まで力投を見せ、イチローや谷佳知らを擁する強力打線を1点に封じていた。試合は9回表終了時点で3-1とロッテがリード。この日は高温多湿だったため6回に脱水症状を発症し全身痙攣を起こしていたという黒木だが、クローザー不在の台所事情を慮ってそれを明かさずに投げ続け、魂のこもった力投で2死1塁とする。ここで打席にはハービー・プリアム。プリアムはホームランは多いが内角攻めに弱く、攻略には内角攻めが有効とされていた事もあり、黒木はプリアムに対して外角で2ストライクを奪い、139球目をセオリー通りに内角に投げ込んだ。
しかしプリアムは黒木渾身の一投*5を完璧に打ち返し、そのままボールは無情にもロッテファンが陣取るレフト席にスタンドイン、あと一球で連敗脱出というところからの同点ホームランとなってしまった。直後に黒木はマウンド上で膝から崩れ落ち、チームメイトに抱えられながら降板*6。チームは3-3のまま迎えた延長12回、3番手の近藤芳久が広永益隆に代打サヨナラ満塁弾を食らい敗北。ロッテはついにNPB史上初の17連敗を記録してしまった。
本人による談話(2023年)
翌8日も敗れて連敗は18まで膨れ上がったロッテだったが、9日はオリックスとの乱打戦を制し、ようやく連敗を止めた。その時の先発は小宮山で、6失点を喫するも完投勝利。結果的にオリックスと小宮山で始まり、オリックスと小宮山で終わった悪夢であった。
この18連敗はあまりにも高い壁であるのか、2023年現在もその記録は破られていない*7。
1998年版余談
- 多くの者に賞賛や同情の声を寄せられた黒木だが、小宮山からは「なぜまだ同点だったのに諦めた?」と聞かれ、「エースなら諦めてはならない」と諭されたという。またこのことが自分の魂に火をつけるきっかけとなった、とも語っている。
- オリックス戦の試合後、黒木は同い年でもある対戦相手・イチローに「9回裏の打席、わざと三振したろ?」と冗談めかして聞いたところ、「何言ってんだ、お前相手にそんな失礼な事しないよ」と真顔で返されたという。この試合のイチローは6打数1安打と封じこまれており、後に黒木を「黒木ほどボールに魂を感じるピッチャーはいない」と評している。
- 試合後にプリアムは「これがプロの厳しさだ。これを乗り越えれば彼は一流の投手になれる」と語ったという。
- この試合でサヨナラ打を放った広永益隆は五十嵐章人の代打として登場した藤本博史*8の代打(いわゆる代打の代打)で起用、しかもヤクルト時代の1995年4月20日に対読売ジャイアンツ戦で代打サヨナラ本塁打を放っており、加藤俊夫(ヤクルト:1970年、日本ハム:1975年)以来のNPB史上2人目の両リーグ代打サヨナラ本塁打記録者になっている。
- 七夕の悲劇の後のロッテは、河本の復帰やブライアン・ウォーレンのフィットによるリリーフの安定、クリーンナップや盗塁王に輝いた小坂誠ら打撃陣の活躍で立ち直ったものの、最終的には最下位でシーズンを終え、近藤昭仁監督は10月8日に辞任を表明*9。10月12日の辞任会見では「もっと強いチームでやりたかった」と発言してしまい、ロッテファンの顰蹙を買っている*10。
とはいえ、20まで膨れ上がった借金は10まで減らし*11、最終的に61勝71敗3分けの勝率.462、優勝した西武とのゲーム差は9.5、3位(オリックス・ダイエー)とは4ゲーム差とそこまで引き離されてはいなかった。さらにはチーム打率.271はリーグ1位、チーム防御率3.70もリーグ2位と当時「史上最強の最下位」とまで呼ばれたほどであった*12。
- この試合に3番・一塁でフル出場して先制の犠牲フライを放ち、後に当時の出場メンバーで最も長く現役を続けることとなった福浦は、2017年の七夕に再びほっともっとフィールド神戸でオリックスと戦うことになった(この試合については後述)際に当時の事をこう振り返っている。
ぺーぺーで、毎日必死だったなあ。あの時は何やっても勝てなくてね。
打ったら、もっと点を取られるし、投手が抑えたら向こうがもっと抑えて。
野球って難しいね。勝つ時は、あっさり勝つのに。
- セ・リーグでは近藤昭仁がかつて指揮を執った横浜ベイスターズが1-0で迎えた9回裏に逆転サヨナラ負けを喫しており、こちらも『七夕の悲劇』と言えるのだが、本家のインパクトの前に霞んだ。
なお、9回裏に登板した佐々木主浩はこのシーズンここまでセーブ失敗が0であったのだが、大学時代の先輩である阪神タイガースの矢野燿大に逆転サヨナラタイムリーを浴びた。なお、この年の佐々木はシーズンで46セーブを上げ、チームのリーグ優勝、日本一に貢献するという完全な無双状態であり、この試合がシーズン唯一の敗戦投手だったのである。*15。
- 翌年1999年7月7日の対日本ハム戦でロッテが勝利、一日だけだがリーグの首位に立った。
- 2023年7月24日に11連敗中のソフトバンクが迎えたロッテとの一戦(ZOZOマリンスタジアム)では、初回にロッテ先発・佐々木朗希から中村晃が適時打を放ち1-0と先制。その後は両者無得点のまま進み、9回裏は今季ここまで防御率0.37、2勝16S*16の絶対的守護神ロベルト・オスナ*17が2死まで抑え、ついに連敗が止まると誰もが確信したのだが、ここで代打・角中勝也に逆転サヨナラ2ラン本塁打*18を被弾し、12連敗を喫してしまった。
また、この日はこの試合だけだったこともありネット上では大盛り上がり。対戦相手がロッテ、大型連敗脱出目前で守護神が痛恨の被弾、さらにオスナの背番号が黒木と同じ「54」だったこともあり『七夕の悲劇』を思い出したファンも続出*19。
なお、何の因果かソフトバンクの連敗は7月7日の楽天戦から始まったことから、「七夕からの悲劇」とネタにされた。ちなみに翌25日のオリックス戦でようやく連敗がストップした*20。
当時のスポーツニュース
2017年ヤクルト
当時のヤクルトは2年前の首位打者川端慎吾をはじめ主力選手に怪我人が続出する、いわゆる「ヤ戦病院」状態に陥っていた*21。そんな中でクローザーの秋吉亮までもが怪我で離脱してしまい、抑えがまともにできる投手が一人もいなくなってしまった。そこで真中監督は先発のエース的存在だった小川泰弘を臨時クローザーに任命するという既視感のある行動に出る。
7月に入ると事態はさらに深刻化。5連敗を喫して迎えた7月7日の広島東洋カープ戦(神宮球場)、9回表で8-3と大量リードをしている状況で小川はマウンドに立った。5点リードなら勝利は確実、と思いきや、まさかの大乱調。
先頭打者サビエル・バティスタに初球を被弾し8-4
↓↓↓鈴木誠也(現シカゴ・カブス)を抑え2アウトとするが松山竜平に粘られた末にタイムリー2塁打を浴び8-6、2アウト2塁
広島は即座に2塁ランナーを代走上本崇司に交代↓西川龍馬はセカンドへ際どい打球も判定は内野安打、2アウト1・3塁
広島は西川の代走に野間を起用
(ここで今村猛が裏に備えて投球練習を開始する)
と一気に詰め寄られた上、逆転のピンチを招いてしまう。ここで広島は代打の切り札としてジェイ・ジャクソンに代わり新井貴浩を登場させる。
というどこかで見たことがあるような展開になんJややくせん、各SNSのヤクルトコミュなどは不穏にざわめきはじめる。一方、神宮球場ではカープファンのボルテージが最高潮に達し、地鳴りのような応援*22が鳴り響いていた。
そして新井はバックスクリーンに3ランホームランを放ち広島が逆転。ヤクルトファンの嫌な予感は最悪の形で的中してしまった。試合は9回裏を今村が締めて終了、ヤクルトの連敗は今月未勝利のまま6に伸びた。
大逆転勝利を収めた広島のファンが「七夕の奇跡」に沸く一方、連敗ストップを夢見たヤクルトファンはドン底に叩き落とされた。さらに2日後の7月9日にも小川が新井に打たれ*23、連敗脱出に失敗した。小川はこの2試合だけで防御率31.50というプロとしてあり得ない成績を叩き出してしまい、前半戦終了間際に二軍落ちとなった。
2017年版余談
- この年のヤクルトは交流戦で都・リーグと化すなど序盤から低迷しており、惨劇レベルのこの敗戦にヤクルトファンもついにブチ切れ。30~40人ほどがヤクルトの車に詰め寄り、「小川は悪くない」「采配が悪い」「謝罪しろ」などと怒声を上げる事態となったが、その中に「シャワーが長い」と叫んだ者がいたこと*24が判明しネタにされた。
- この七夕の悲劇は氷山の一角にすぎず、ヤクルトはオールスター前にこの試合を含めて10連敗を喫した。さらにはオールスター後にも4連敗の計14連敗を喫する*26*27。連敗が始まった7月には「人気ホテルを見守るスレ」が立てられ、21日連続未勝利というその悲惨さが話題になった。8月時点で2000年代の暗黒期の横浜ベイスターズが作ったシーズン95敗*28を超えるペースという壮絶な負けっぷりに真中監督はこのシーズン限りでの辞任を表明*29。最終的に球団ワースト記録および21世紀セリーグワースト記録となる96敗、21世紀のセリーグ初の借金50超えの借金51の最下位でシーズン終了、優勝した広島とは44ゲーム差、5位の中日にも15.5ゲーム差と圧倒的な差をつけられてしまった。さらには月間勝率5割越えとタイトル獲得者なし*30・勝率がこの年セリーグ首位打者の宮﨑敏郎(DeNA)の打率よりも劣る*31という、ヤクルトファンにしてみれば悪夢としか言いようのない結果となった。
- ちなみにこの日は奇しくも前述のロッテの悲劇の舞台となったほっともっとフィールド神戸(1998年当時はGS神戸)で、その悲劇の日から19年ぶりにオリックスとロッテの試合が組まれていた。結果はあの日黒木が抑えていた場合のスコアである3-1でロッテが勝利、見事前回のリベンジを果たし「七夕の歓喜」となった。なお、決勝点を挙げる犠牲フライを放ったのは、当時を知る唯一の選手だった福浦和也である。
- 2020年にスポナビが開催した『ファンが選ぶ思い出の試合*32』の1つに選ばれ、4月23日に
晒された速報形式で再放送された。
- この試合から間もないオールスターゲームでは、チーム事情に反して開幕から好調でファン投票を狙える位置にもいた雄平もオールスター前に負傷離脱してしまっていたため、ファン投票・選手間投票の選出者がチーム内で皆無。監督推薦で選ばれた小川がヤクルトから唯一の選出となってしまった。七夕の悲劇よりも前にこのことは判明済みだったため、ヤクルトファンは「このままではオールスターで小川が嘲笑され、晒し者にされてしまう…」と危惧していた。
すると、この事情を斟酌したつば九郎は小川と共にリリーフカーに同乗し「ふざけてる!って、いわれたっていい。おれがたてになってやる」と男気を見せた。この事は、つば九郎が普段おちゃらけていても肝心な場ではスワローズに尽くす者としてファンに信頼される所以だと語られている。loading...