史実
1930年代、大日本帝国と欧米列強は犬猿の仲であった。
ロンドン海軍軍縮条約での紛糾により、国内政治における「条約守ろう派」はごくごく少数となってしまい、条約の廃棄は既定路線となってしまった。
またそのころ欧州では建艦競争が始まっており、ドイツはポケット戦艦を、フランスはダンケルク級戦艦を投入。
またアメリカでは26ノット程度の速度が出せる高速戦艦建造の機運が高まり、ロンドン海軍軍縮条約廃棄後には各国が大型艦を建造することが予想された。
日本では、1933年に海軍が持つ権限やなどが軍令部に移され、新型戦艦の検討を始めた。
そして1934年には、当時の齋藤駐米大使が、米国に単独廃棄を通告。1937年より世界は無条約時代に突入する。いわば作ったもん勝ちの世界が始まってしまったのだ。
ワシントン条約が生きていれば、日本は艦齢25年を優に超える金剛から陸奥までの9隻の代替艦を建造することになるが、廃棄された場合、「国防上適宜ノ艦種」、つまりは大戦艦を少数建造することで、費用面を抑えることができるのではないか、といった考えが存在していた。
また、アメリカはパナマ運河を通行させる都合上、最大でも16インチ級、過去の建造状況から、1948年まで15隻が限界だろうと分析している。
基本計画審議時に軍令部は、米国と量で競争することは到底できないとして大戦艦の長射程砲によるアウトレンジ戦法*3を強調した。
それらを踏まえ、1934年に示された基準は下記の通り。
- 排水量6万5000トン
- 速力34ノット
- 主砲は18インチ砲以上
さらに同年10月には、
- 18インチ砲(46cm砲)8門以上
- 15.5cm三連装4基12門または20cm連装砲4基8門以上
- 速力30ノット
- 航続距離18ノット8000マイル
という具体的な設計方針が定まった。
1936年、ついに予算書が提出。第70回帝国議会にて、新型戦艦「A140-F5」2隻分(1隻9800万円)とされている。
余談だが、当時の9800万円は現在の1200億円程度とされており、当時新聞が新聞(朝夕刊セット)で約1円50銭~2円、牛乳1升(約1.8L)約 60~70銭であった。また当時の日本の国家予算は22億円程度で、内軍事予算は10-12億円程度であったことから、日本の戦艦に対する期待の表れが見て取れる。
さらに、諸外国からは大型戦艦の建造とバレぬよう、架空の駆逐艦や潜水艦で偽装。列強諸国は、日本は何かでかい艦をこしらえていて、おそらく40cm砲、4万5千トン規模と予想していた。
しかしドイツ海軍だけは、1940年の段階で建造中である2隻の艦名を"Katori"、"Kashima"としつつも「1938年春頃、最初に起工した戦艦は45.7cm砲を搭載した45000トン級の三重底を採用した戦艦である」と正確な予想をしていたことが判明している。
そして、1937年、3月29日。A140-F6*4計画から「第一号艦」「第二号艦」へと名称の変更があり、11月4日、第一号艦「大和」は呉海軍工廠にて、第二号艦「武蔵」は三菱重工長崎造船所にて起工。
大和は1941年12月16日に、武蔵は1942年8月5日に就役した。
艦型の母体となったのは、ロシア出身の設計技師が提唱したYourkevitch(ユルケヴィッチ)船型である。これは流線形の細長い艦首で、滑らかな船体ラインであるが、これは水の抵抗を大幅に低減し、機関効率、推進効率を高めた形状である。彼が設計した豪華客船、SSNormandieがいい例で、これを戦艦用に再設計したものが採用された。
竜骨下端から最上甲板舷側までの深さは18.965mで、10層の甲板が重なっている。最上甲板、上甲板、中甲板、下甲板、最下甲板、第一船倉甲板、第二船倉甲板、船倉甲板、艦底(二重底)となっていて、大和型の設計技師の一人、牧野茂は、
「大和型戦艦は一見平甲板に見えるが、実質的には最上型重巡洋艦の形状といえなくもない。大和の中央切断面は最上と非常に似ている」
と評した。
- バルバス・バウ
大和型といえば、やはり球状艦首(通称:バルバス・バウ)が特徴的だろう。これは日本海軍としては、翔鶴型空母に次いで採用された2例目で、翔鶴型空母とは大きさが違うように見受けられるが、これはそれぞれの最高速度(大和型:27ノット、翔鶴型:34ノット)に合わせたためである。
このバルバス・バウを採用したことにより、
- 速力27ノット時で8.2%程度の抵抗減
- 排水量換算で約300t、水線長で3m艦体を短くする効果
- 軸馬力換算、約11,000馬力出力が大きい機関を搭載したのと同じ効果
をもたらした。さらに、シャフトブラケット*5の船体取付角度、ビルジキール*6の船体取付位置と角度などを調整したところ、バルバス・バウの効果と併せて約15,820馬力の節約となった。
これは排水量に換算すると1,900トンの節約となり、大型駆逐艦1隻の排水量に匹敵した。
バルバス・バウは25mmの鋼板を二重構造としていて、鋼板を三次元的に鍛造*7曲げ加工を施し、一体となるように製作されている。
そこには潜水艦対策として水中ソナーが設けられており、大和が全力航行中に主砲射撃試験を行った際に、30,000 - 40,000mで砲弾が水面に衝突した時の音を探知できたという。ただし艦内の機械的な騒音などにより聞き取りにくくなることも多く、主砲回転時の騒音は大きな妨げになった。
- 舵
通常、2枚舵は船尾に平行に設置されていて、従来の戦艦はこの方式である。
金剛型などで採用例があるが、舵の枚数が少ないため安価でメンテナンス性に優れる反面、被弾などにより舵が故障すると、ドイツ戦艦ビスマルクのように操舵不能に陥る可能性があった。そのため大和型では中心線上に前後に15mの間隔を開けて主舵と副舵を設置した。
当初は艦首に装備する案もあったが、試験の結果は最悪であったため。艦尾に取り付ける案が採用された。
両方の舵を35°にきった場合、27ノットであればに600m進んで90°向きを転換することができたといわれている。これは大型艦としてはかなり良好な部類ではあった。
しかし、何らかの原因で主舵が故障し副舵のみで操舵する場合、惰力により全く舵が利かず、艦を直進方向へ戻すことができなかった。対策として艦首に引き込み式の平衡舵を取り付ける設計もあったものの、予算的な面と戦局が悪化したことから工事は行われなかった。そのため、沖縄特攻時には、巨大な応急舵を搭載していた。当時の搭乗員、能村副長によれば、沖縄特攻時の大和は戦闘中に操舵装置が故障したため、舵取機室からの応急操舵に頼っていたという。
舵取機室が魚雷命中で全滅すると、大和は左旋回しか出来なくなったとされる。このように通常は電源稼動だが、電源喪失時には蓄電池、人力での操舵も可能であった。
- 運動・機動性
艦の操縦性能は、一般的に次の3点から評価されることが多い。
- 操舵に対する回頭性:追従性
- 定常円運動をしたときに、どれだけ小さく早く回れるか:旋回性
- 舵をそのままにした際に艦がどれだけ直進できるか:針路安定性
大和型はアイオワ型戦艦やノースカロライナ型戦艦に比べ、艦首は細く中央部は太い形状である。そのため、旋回性は当時の列強諸国では最良クラスではあったものの、追従性、針路安定性は最低であった。大和型は機動性が良かったと評価されるのはたいていの場合この旋回性のことであることに注意が必要だ。
海軍では、旋回性能は「旋回直径÷艦の水線長」の計算で出しており、縦方向と横方向で若干数値が違うものの、横の旋回性能標準は戦艦3、大型巡洋艦4、軽巡洋艦5、駆逐艦6、縦で戦艦3、大型巡洋艦3.5、軽巡洋艦4、駆逐艦4.5とされていた。
大和型の旋回性能は、横で2.43、縦で2.23で、旋回半径自体も他の戦艦より優れていた。大和型の旋回直径は26ノットで横640m、縦589m(横2.43、縦2.23)である。長門型戦艦は横530m、縦631m(横2.36、縦2.81)、金剛型戦艦は横826m、縦871m(横3.7、縦3.91)だから、船体の大きさを考えるなら、非常にコンパクトな旋回性能を持っていた。*8旋回時の甲板の傾きも大和型は9度、長門型は10.5度であったことから、安定性も非常に優秀な部類であったとされている。
ちなみにアイオワ型は20ノットで760 yd(694.94 m)、33ノットで1430 yd(1,307.59 m)である。
- 機関・タービン、推進装置など*9
もともと大和型戦艦にはディーゼル機関も検討されていたことを紹介したい。
だが実際試験してみたところ、
- 異常振動
- 不完全燃焼
などの問題を解決しきれなかった。
また、軽油や重油、石炭などを混載するのは燃料供給上の負担であったし、「国運を左右する大切な戦艦に、機関トラブルで長期間ドック入りするようなことはあってはならない」とのことから、初春型駆逐艦に搭載された艦本式高低圧タービン機関(21,000馬力)を、信頼性を向上させるために若干低出力化したものを搭載した。
その結果、4軸推進・12缶搭載で合計155,000馬力としていた。
またそれに合わせ、左右の推進用プロペラも左右に2枚ずつ装備された。これは左側2枚は時計回りに、右側2枚は反時計回りに、お互いから見て逆転するように取り付けられている。
プロペラは一つの推進軸に1枚取り付けられ、推進軸1つに対し1つの機械室、3つのボイラーで稼働。さらにそれぞれが独立した区画に配置され、缶はそれぞれが防水区画を持っており、かなり豪華なつくりとなっている。
この設計もあってか、魚雷20本、急降下爆弾10発以上を受けた武蔵は中央の2つの機械室には浸水は無く、大和においても片舷の機関室は傾斜復旧のために注水、反対側外側の機関室は魚雷によって浸水したが、その内側の機械室は、転覆時にもまだスクリューは回っていたことから、集中防御方式の高い防御力が証明されたといえるのではないだろうか。
燃料は重油で、16ノットで7200海里(=13,334km)の航続力を持つように設計されている。実際には満タンにして11,000海里(=20,372km)以上航行可能とされており、設計上求められた距離よりも大幅に長いことが判明している。つまり、余剰浮力を燃料で使ってしまい、少しの被弾で転覆する恐れがあることを示した。
これに対し、燃料タンクの配置の変更や副砲付近の防御強化によって燃料タンクの縮小の対策が取られた。*10
- 武装
特筆すべきは、世界の海軍史を見ても最大最重、45口径46cm3連装砲を3基9門搭載したことである。
もし仮に最大仰角の45度で射撃を行った場合、弾丸の高度は距離25km付近で11,900mに達し、着弾時の運動エネルギーは単純計算TNT換算約50kg相当の破壊力であった。現代戦車砲の20倍近い運動エネルギーを持ち、これによりいかなる敵艦の装甲も破壊する。
射程は最大40km以上*11にも及び、その巨大な砲身を支える機構や装置により、一基当たり2,500トンもの大重量になってしまう。そのため、旋回は油圧では行えず、水圧を用いた旋回装置を使用していた。当然ながら故障等が多発したが、他国の戦艦でも同じような事例の故障が報告されているため、大和型だけが直面した問題ではなかったようだ。
また、46センチ砲の爆風に耐えるため、機銃や高角砲はシールドが装備され、艦載機、艦載艇は艦内収納となった。主砲射撃時は警告ブザーが鳴り、人員は艦内へ退避する*12ように指揮されていた。
就役時の武装は、以下のとおりである。
- 主砲:45口径46cm三連装砲 ×3基(計9門)
- 副砲:60口径三年式15.5cm三連装砲塔 ×4基(計12門)
- 高角砲(対空・対艦両用):40口径八九式12.7cm連装高角砲 ×6基(計12門)
- 機銃(対空兵装):25mm三連装機銃 ×8基(計24挺)
最終時はの武装は以下のとおりである。
- 主砲:45口径46cm三連装砲 ×3基(計9門)
- 副砲:60口径三年式15.5cm三連装砲塔 ×2基(計6門)
- 高角砲(対空・対艦両用):40口径八九式12.7cm連装高角砲 ×12基(計24門)
- 機銃(対空兵装):25mm三連装 ×52基(計156挺)、単装 ×6基(計6挺)
- レーダー
最初に電探を装備したのは姉妹艦武蔵で、就航して直ぐの1942年(昭和17年)9月に二一号電探が15m測距儀の上に装備された。
大和は1943年(昭和18年)7月に二一号電探を測距儀上に装備し、同時に前二二号電探も前檣楼上部両側に2基装備した。武蔵も同様に二二号電探を装備する。
さらに1944年に入り大和の後檣に一三号電探2基を取り付け、全部で6基の電探が設置された。
- 21号電探
おもに対空見張用。1943年8月完成、波長150cm、出力5kW、測距精度1-2km、測角精度3-5度、重量840kgで、航空機編隊を120km、単機を70kmで探知する能力を持っていた。 - 22号電探
おもに対水上見張兼射撃用。1944年(昭和19年)9月完成、波長10cm、出力2kW、測距精度500m、測角精度3度、重量1,320kgで、戦艦を35km、駆逐艦を17kmで探知する能力を持っていた。 - 13号電探
おもに対空見張用。1943年(昭和18年)3月完成、波長200cm、出力10kW、測距精度3km、測角精度10度、重量110kgで、最大有効距離は航空機編隊120km、単機60kmであった。
日本軍はレーダー関係の装備は他国に大きく後れを取っており、また軍内部でも「電探射撃は、距離測定はともかく、方位角測定が当てにならないので、難しい」との意見が根強かった。
サマール沖海戦において大和は煙幕越しに電測射撃を行っている(主砲射撃手の村田兵曹長の手記に記載あり)。しかし、村田においても大和においても、初のレーダー単独測距の射撃であり、戦果の確認方法が無かったため、数回の砲撃で攻撃を中止している。砲弾が至近距離に落下したという米側の記載もあり、精度はある程度出ていたという説もある。
しかし、サマール沖海戦後の戦闘記録によれば、航空機、もしくは味方水上艦艇の観測補助があるという前提の上で、大和の電測射撃について「主砲の電測射撃は距離20キロ程度にあった目標(護衛空母または駆逐艦)に対して実施、精度良好(方位誤差3度以内)で射撃手段として有効と認められる」との戦訓が出されている。
- 防御配置
大和型は史上最大規模の戦艦であるが、すべてにそれ相応の装甲を施すことは不可能であった。
そのため、集中防御配置方式がとられた。
これは、具体的な守る場所(=シタデル)
- 弾薬庫
- 機関部(ボイラー・タービン)
- 主砲塔基部
- 司令部区画
などを断面で見ると八角形に近い装甲体で囲う設計。極端な装甲配置で、艦首・艦尾が破壊されやすく、操艦不能になる可能性や、浸水区画が増えると復原性が悪化するデメリットがあったものの、重量効率が良く、生存性の向上などのメリットもあった。
大和型では、
- 2トン爆弾:投下高度2,200m以下で耐えること
- 1.5トン爆弾:投下高度2,600m以下で耐えること
- 1トン爆弾:投下高度3,400m以下で耐えること
- 800キロ爆弾:投下高度3,900m以下で耐えること
- 炸薬200kgの艦底起爆魚雷に耐えること
といった要求が出され、これに従ったところ、
- 舷側装甲(ベルト)は最大約410mm(VH鋼)、約20度の傾斜装甲で実効防御力は垂直換算で約450~500mm
- 甲板装甲(水平防御)は主装甲甲板 約200~230mm
- 主砲塔前盾で約650mm、司令塔最大約500mm
- 水面下は外板(船体外板)-空所(空気層)-液体層(燃料・海水)-補助隔壁-主防御隔壁(装甲隔壁)、今でいう複合装甲のようなもの
でがっちりとした防御を施してあった。
さらに余剰浮力に関しては57,450トンで、基準排水量64,000トンの90%にも及び、これが沈みにくさを体現している。
1942年、ミッドウェイ海戦に主力部隊として出撃せるも、南雲機動部隊敗北により転進した。
1944年、マリアナ沖海戦及びレイテ沖海戦に参戦。
1945年、連合国軍が沖縄に上陸したことを受け、沖縄への海上特攻が下命される。
そしていよいよ戦況が厳しくなる。
本土の生命線とまで言われた沖縄には米軍が上陸しそうになる。
1945年4月2日、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧での第二艦隊の幕僚会議では、次の3案が検討された。
- 1. 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。
- 2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。
- 3. 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。
4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。
「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」
「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」※原文
4月6日には、
「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」
として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任された。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」を掲げた。
第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。
アメリカ海軍は、「マジック」極東情報が行った日本軍の暗号電報の傍受と解読と、F-13(B-29の偵察機型)の空中偵察により大和出撃についてほぼ全容を把握していた。
4月7日午前6時、日本艦隊は大隅半島を通過し外洋へ出ると、沖縄本島へ向かった。この時、大和は唯一搭載していた零式水上偵察機を発進させている。陸上航空部隊からは次々と特攻機突入の報告が入り、「正規空母3隻、特設空母1隻、戦艦1隻撃破」という誤戦果や、7日午前4時には「敵機動部隊大打撃。空母を含む数隻撃沈確実、敵艦隊大混乱」との誤報を受取っている。日本艦隊は大和を中心とし、その周りを1,500メートルずつ離れて矢矧と8隻の駆逐艦が輪形陣を敷き、20ノットで進んだ。
護衛する駆逐艦のうち、朝霜は午前7時に機関故障を起こして速力が12ノットとなり、午前11時、朝霜が第二艦隊の視界外に脱落した。
同時刻、大和の電探がアメリカ軍の大編隊を探知する。
第1波の攻撃隊は12時32分に攻撃を開始した。日本艦隊は速度を24ノット、続いて最大戦速として回避行動を開始し、対空戦闘を始める。しかし回避行動によって輪形陣はすぐに崩れてしまった。たとえば雷撃機を回避しようと大和が右に転舵したため、輪形陣先頭にいた矢矧は大和の左舷4000-5000mに引き離されている。
まず、ベニントンの第82爆撃中隊11機が艦隊に攻撃を開始した。雷撃機は転覆を狙うため大和の左舷に攻撃を集中したとされるが、特に拘っておらず、機会があり次第、左右同時雷撃を行っている。12時45分、駆逐艦浜風が被弾して航行不能となった。12時46分、矢矧の右舷機関部にベニントン隊の放った魚雷が命中した。これにより機関部員は全滅し、矢矧は航行不能となった。
第1波の攻撃で大和には爆弾2発と魚雷推定1本(森下2 - 3本、アメリカ軍主張8本)が命中した。左舷への傾斜は右舷への注水で回復したが、爆弾の命中により後部艦橋と後部副砲が破壊され、火災が発生した。
また、この攻撃で12時48分に浜風が爆沈した。13時8分には涼月が前部に爆弾の直撃を受け大破、落伍した。さらに、機関の故障で艦隊から落伍していた朝霜も大和以下に対する空襲の開始直前にサンジャシントの飛行隊14機、もしくはバンカーヒルの飛行隊10機に攻撃された。魚雷2本が艦橋右舷下と機械室に命中、大爆発を起こして朝霜は沈没した。最後の電信は12時21分であった。
13時20分から14時15分の間に第2波と第3波の攻撃隊が来襲した。
攻撃は大和に集中した。爆弾は艦上構造物に損害を与え、対空射撃能力が低下した。魚雷はほとんどが左舷に命中していたが、特に意図はなく、大和が左旋回を繰り返していたため左舷を狙いやすかったからだった。アメリカ軍は第2波、第3波攻撃で魚雷命中29本を主張。艦は傾き転覆の危機が迫った。
13時25分、通信施設を破壊された大和は、随伴する初霜に通信代行を依頼する。
13時33分、右舷の機関室とボイラー室に注水がおこなわれた。この際、機関科兵員に命令が伝わらず水にのまれたと一部の書物には記載されているが、注水作業を瞬時に行うことは不可能であり、退避する時間は十分にあったと能村副長は証言している。右舷の機関の喪失と多量の浸水のため、大和の速度は10ノットに低下した。低速で進む大和は雷撃機の格好の目標となり、航行能力を削ぐために舵や船尾に攻撃は集中した。この間、13時25分には霞が直撃弾2発、至近弾1発を受けて缶室に浸水、航行不能となり落伍。第一波攻撃で航行不能となっていた矢矧にはさらに複数の魚雷と爆弾が命中し、14時5分に沈没した。古村および第二水雷戦隊司令部移乗のため矢矧に接舷を試みていた磯風も攻撃を受けて機械室に浸水、やがて航行不能となった。
14時10-17分、ヨークタウン(CV-10)の雷撃隊による右舷への複数魚雷命中が致命打となり、大和の傾斜は急速に大きくなった。
このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である。
戦闘詳報では魚雷10本・爆弾5発、森下は魚雷命中15本・爆弾命中数十発、アメリカ軍第58任務部隊は魚雷13-14本・爆弾5発以上、アメリカ軍攻撃隊は合計魚雷30-35本・爆弾38発が命中したと記録している。大和の沈没が避けられないことを知らされ、伊藤は作戦の中止を命じた。その一方で森下によれば、伊藤は「駆逐艦冬月は大和に横付けせよ」「大和は沖縄まで到達不能。幕僚は駆逐艦に移乗して沖縄へ先行せよ」と命じ、自分は大和と運命を共にすべく艦橋下の長官控室に降りていったという。艦長の有賀は退艦を拒否して艦に残った。
総員退去命令が出て間もない14時20分、大和は転覆を開始、14時23分、完全に転覆すると大爆発を起こした。この爆発は弾薬庫の誘爆または、機関室の水蒸気爆発によるものと考えられている。
艦隊決戦のために生まれた船が、皮肉にも航空機によって沈められてしまったのであった。
この海戦で日本側は、大和、矢矧、浜風が撃沈され、霞は航行不能となり冬月に処分された。
被害の少なかった冬月、雪風、初霜の3隻の駆逐艦は大和の生存者280名、矢矧の生存者555名と磯風、浜風、霞の生存者800名以上、1706名(戦闘詳報)を救助したが、第二艦隊司令長官の伊藤(戦死後大将)、大和艦長の有賀(同中将)を始め、推定3,721名がこの戦いで戦死した。1945年(昭和20年)7月に連合艦隊司令長官が布告した戦死者総数は4,044名。
当時呉海軍工廠付近では、厳しい監視体制がとられた。
というのも、世界最大の戦艦を建造していることを米国など連合国に知られたら最後、対策を施した艦を製造してくるに決まっているからである。
そのため、下記のような対策が取られたとされている。
- 造船ドックは囲い・覆い屋根で外部から見えない構造にした
- 設計図は分割管理
- 自分の担当箇所以外は構造やその材質などは知らない仕組み
- 外国人・部外者の立入禁止
など。例を挙げればきりがないが、それだけ大和に対する海軍の思いが込められていたのもまた事実であった。
ちなみに、周辺に住んでいた一般住民は「なんか大きい船を作ってる」と丸見えだったそう。チャンチャン
ロンドン海軍軍縮条約で補助艦の保有制限を当時の濱口雄幸内閣は受け入れたところ、野党や海軍からは、「軍備の制限は統帥事項(軍事指揮の問題)だ。内閣が勝手に決めるのは統帥権干犯だ」といちゃもんを付けられてしまう。
そもそも統帥権とは何か?明治憲法では次のように規定している。
- 天皇は陸海軍の統帥権(軍の最高指揮権)を持つ
- 統帥権は内閣から独立している
つまり軍の編成・作戦・装備に関する最終決定権は形式上は天皇にあり、たとえ内閣が満場一致で軍の装備の変更を決定したとしても、天皇がNOといえばそれはNOになるという事だ。
濱口内閣では、条約は外交上の問題であるとしたことに対し、軍は統帥権の問題であると反対意見を突きつけ、真っ向から対立。
実際には、条約締結前に天皇への奏上(報告)と裁可は行われているとされており、天皇も認めたまっとうな条約であった。
が、対米7割ではいざ戦争となった際に絶対に勝てない、と海軍内での作戦論があった。
当時海軍では、「アメリカは圧倒的な工業力、造船能力が日本よりはるかに上であったため、戦争が長期化すれば確実に不利になる。そのため、少なくともアメリカの8割、願わくばそれ以上の艦艇を保有し、漸減邀撃作戦にて早期決戦、早期講和を目指したい。最初から数で負けている状態で決戦するのは自殺行為」という考え方が一般的であったし、5:5:3の比率を認めてはアメリカより劣ると公式に認めるという意味もあったので、海軍としては絶対に避けたい内容であった。
そのため、上記のようないちゃもんをつけたわけである。
しかし、財政重視・協調路線であった濱口内閣は条約を締結したため、国内政治は激しく揺れ動くこととなった。
野党・立憲政友会や海軍艦隊派は、「統帥権干犯」を声高に叫び、政府攻撃を本格化させる。
とりわけ問題視されたのは、「軍令部が反対しているにもかかわらず内閣が条約を締結した」という点であった。軍令部は統帥機関であり、その意向を無視したことが“天皇の統帥権を軽んじた”と論じられたのである。
だが実際には、条約は天皇の裁可を経て成立しており、法的手続き上の瑕疵はなかった。問題の本質は、統帥権の所在そのものではなく、「軍部が政治に対してどこまで独立し得るのか」という憲政上の力関係にあった。
この論争は、単なる条約問題を超え、次第に「政党政治か、軍部主導か」という国家の進路を巡る対立へと発展していく。
そして1930年11月14日、濱口雄幸首相は東京駅で右翼青年に狙撃される。
銃弾は首相の腹部を貫き、重傷を負わせた。この事件は、条約をめぐる政治的緊張が暴力へと転化した象徴的出来事であった。
濱口は一命を取り留めたものの、傷は深く、翌年に死去する。
これにより政党内閣は大きな打撃を受け、軍部や国家主義勢力の発言力は急速に増していった。
統帥権干犯問題は、法理論上の争いというよりも、
「軍が“天皇の名”を掲げて政治に圧力をかける先例」を作ってしまった点にこそ重大性があった。
以後、軍部は「統帥権」を盾に内閣の政策へ介入する姿勢を強め、
満州事変(1931年)、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)へと連なる軍部台頭の流れが形作られていく。
ロンドン海軍軍縮条約は、単なる軍備制限の問題ではなかった。
それは、政党政治が軍事と外交を統制できるのか、それとも軍が国家を主導するのかという、近代日本の統治構造そのものを揺さぶる転換点であったのである。
- 大和型戦艦の居住環境は、日本海軍軍艦としては恵まれていた。弾薬庫用冷却機の利用により士官用居住区には冷暖房設備(エアコン)が完備しており、冷蔵庫(東京芝浦電気製)の装備により、備蓄食糧も多彩かつ豊富だった。納豆、蒟蒻、もやし、うどん、豆腐、おはぎ、汁粉を艦内で製造していた他、アイスクリーム製造室があったことも確認されている。そして連合艦隊旗艦だったこともあり、厨房には料亭・レストランなどで働いていた人間を優先的に配属している。
- 長官昼食時には、司令部専属の軍楽隊による演奏が40分間行われ、放送で艦内に流れた。山本五十六長官の手がナイフに触れた瞬間、演奏が開始される。将校の食事は、朝は旅館朝食風の日本食、昼は洋食フルコース、夜は和食膳という内容だった。
- 対毒ガス戦を想定し、外気を遮断して戦闘することを想定したためエアコンを装備したとする説もある。実際に、濾過通風、炭酸ガス吸収、酸素放出、排気通風機などの対毒ガス装備が備えられていた。
- トラック泊地に碇泊中、たびたび分隊対抗運動会が行われた。種目はリレーで、一番砲塔から三番砲塔までの左右両舷の甲板上(一周300m)を走った。
※一部wikipediaより抜粋