|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.026|
|&attachref(./026_2nd.jpg,nolink,扶桑型超弩級戦艦、姉の扶桑です。妹の山城ともども、よろしくお願い致します。);|>|扶桑(ふそう)|>|扶桑型 1番艦 戦艦|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
|~|~耐久|67|~火力|74 / 94|
|~|~装甲|59 / 79|~雷装|0|
|~|~回避|19 / 39|~対空|23 / 79|
|~|~搭載|12 |~対潜|0|
|~|~速力|低速|~索敵|9 / 33|
|~|~射程|長|~運|5 / 39|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|85|~弾薬|120|
|~|~搭載|>|>|~装備|
|~|3|>|>|[[35.6cm連装砲]]|
|~|3|>|>|[[15.2cm単装砲]]|
|~|3|>|>|[[零式水上偵察機]]|
|~|3|>|>|未装備|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''扶桑'' → [[扶桑改]](Lv20) → [[扶桑改二]](Lv80+[[改装設計図>改造#blueprint]])|
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:初の日本独自設計による超弩級戦艦、扶桑です。&br;妹の山城ともどもよろしくお願いしますね。&br;レイテ沖? そうね、いつか突入してみたいわ。ホントよ?|
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
#fold(CV:藤田咲、イラストレーター:六花 (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:藤田咲、イラストレーター:六花
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>扶桑/定型ボイス]])
#table_edit(扶桑/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>扶桑/時報ボイス]])
#table_edit(扶桑/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>扶桑/季節ボイス]])
#table_edit(扶桑/季節ボイス)
}}
*ゲームにおいて [#game]
-戦艦の中で最もレアリティが低く、様々な海域でのドロップが確認されている。
「戦艦」として他の艦種を凌駕する耐久や火力を持つ。
-ただし改造前は運がたったの5、回避上限も妹の[[山城]]と共に極めて低いので被弾に注意。
--運の上限値も改造前は姉妹共に39とぶっちぎりに低い([[大鳳改]]と同値)。改造後は59、改二では69と人並み。
-Lv20と比較的低レベルで航空戦艦に改造することが出来る。
改造すると水上爆撃機の装備が可能となり、搭載すれば開幕の航空戦ターンでの攻撃・砲撃戦時の対潜攻撃を行える。
全体的な性能面での向上も見込めるが、火力上限は94から79と15も下がってしまう。
詳しくは[[扶桑改]]や [[FAQ>FAQ#g7b386ef]]を参照。
--改二になれば火力上限99と未改造時を上回る。
-[[扶桑]]あるいは[[扶桑改]]を必要とする任務は2013年12月現在、『「扶桑」型戦艦姉妹の全2隻を編成せよ!』『「西村艦隊」を編成せよ!』『&color(red){「西村艦隊」出撃せよ!};』の3つが確認されている。
この内、&color(red){赤字};は出撃任務だが、指定は4隻なので残り2隻に強力な艦艇を配置すれば達成は難しくない。
-2014年10月10日のアップデートで実装された[[一式徹甲弾>一式徹甲弾]]が入手できる「第二戦隊」の編成・出撃任務にも必要となった(構成は扶桑型2隻と長門型2隻、改でも可)。
-そして2014年10月24日のアップデートで待望の[[改二>扶桑改二]]が実装され、同日追加された任務『「西村艦隊」を再編成せよ!』『「西村艦隊」南方海域へ進出せよ!』の必須艦にも指定された(改二でなくとも可)。
--後者の出撃任務では勲章が入手できるので、改装設計図が用意できない勲章不足の提督には朗報かもしれない(同任務の出現や達成にはそれなりの労力が必要、弾着観測射撃を考慮すると扶桑型改二が必須というべきレベルにある。詳しくは[[任務]]の項目を参照)。
**キャラクター設定について [#character]
-このキャラの第一印象を一言で言い表すと「''でかい''」。
ゲームでの「艤装の大きさ」なら[[伊勢]]、[[日向]]どころか[[金剛]]型、[[長門]]型すらも凌駕し、[[大和]]型に匹敵する。
--後に稼働したアーケード版では3Dモデルということもあって、山城共々艤装の大きさは際立っている。
部屋入ってこれないだろと突っ込みたくなるほどの巨大さである他、出撃して背の低い艦娘と一緒に海面を移動している姿はシュールに見えることも。
-図鑑説明での文面通り、非常に慎ましくお淑やかな「お姉様」タイプ。
物憂げな発言も多く、しっとりとした雰囲気をまとった大和撫子然とした艦娘。
--だが後輩の伊勢型には強い対抗心を持っており、割と内に秘めた情念が漏れ出てくることが多い。儚げに見えるが芯は強いご様子。
--妹の山城を心配することも多く、姉妹で強い絆で結ばれている。&color(silver){%%こちらは妹の跳ねっ返り具合への心配が多いが%%};
-提督に対しては基本的に一歩下がった慇懃な態度で接してくる。
--しかし[[改二>扶桑改二]]実装のタイミングでボイスが増えたことで、実は提督に対してかなり好意的な節がみられるようなった。&color(silver){%%提督冥利に尽きるがやはり山城からの視線が気になる……%%};
**[[期間限定グラフィック>艦娘カード一覧(期間限定グラフィック)]] [#graphic]
-2016年年始限定で、期間限定グラフィック「新年の晴れ着mode」が公開された。
--晴れ着バージョンのグラフィックは立ち絵限定で、カードイラストはそのまま。
//他の限定グラフィック同様、限定期間終了後に図鑑に格納された。
--扶桑型姉妹は初のゲーム中へのグラ実装で、扶桑提督は歓喜した。
砲塔に並んだマークは[[国際信号旗>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E6%97%97]]で「NEW YEAR」の意味。
&color(Silver){しかし、この髪量があの大きさのシニヨンにまとまるものなのだろうか…?};
-
#fold(限定イラスト:新年の晴れ着mode){{
限定イラスト:新年の晴れ着mode
&attachref(./026_Nensi_2016.jpg,nolink,提督。あけまして、おめでとうございます。本年も、扶桑型、よろしくお願い致します。);
}}
-2016年7月15日のアップデートで夏の季節限定グラフィックの水着modeが実装された。
--2017年も実装されたが、後述する瑞雲modeの実装に伴い、早期終了した。
-
#fold(限定イラスト:夏季限定(2016)Ver.){{
限定イラスト:夏季限定(2016)Ver.
&attachref(./026_Summer_2nd.jpg,nolink,山城。もうすぐ夏ね。扶桑型姉妹でたまには何処かへ行く? 何処がいいかしら。);
//中破絵は無しで
}}
-2016年10月21日のアップデートにて鎮守府秋の秋刀魚祭りmode及び期間限定ボイスが実装された。
-
#fold(限定イラスト:鎮守府秋の秋刀魚祭りmode){{
限定イラスト:鎮守府秋の秋刀魚祭りmode
&attachref(./026_Autumn.jpg,nolink,山城、一緒に頑張りましょうね。);
}}
-2017年6月6日のアップデートにて梅雨modeが実装された。
-
#fold(限定イラスト:梅雨mode){{
限定イラスト:梅雨mode
&attachref(./026_Tsuyu.jpg,nolink,山城。もうすぐ夏ね。扶桑型姉妹でたまには何処かへ行く?);
}}
-2017年7月31日のアップデートにて瑞雲modeが実装された。
-
#fold(限定イラスト:瑞雲mode){{
限定イラスト:瑞雲mode
&attachref(./026_Fujiq.jpg,nolink,);
}}
-
-2017年秋の期間限定海域「[[捷号決戦!邀撃、レイテ沖海戦(前篇)]]」終了後に図鑑に同イベント限定任務関連の特殊ボイス再生項目が追加された。
*小ネタ [#u2b62cc3]
//外部サイトへの直リンクは、書き換え等によるリスクが非常に高いため、可能な限り避けていただきます様よろしくお願い致します。
-扶桑型戦艦1番艦扶桑は、1912年(明治45年)3月11日に呉海軍工廠で起工、1914年(大正3年)3月28日に「扶桑」と命名され進水、1915年(大正4年)11月8日に進水した。
-この時点で3万トンクラスの船を「ドック」で建造する((当時の大型船舶建造の多くは海岸近くに設けた船台で船体を造り、その後船台から滑らせて洋上に浮かせる方式が多かった))こと自体世界初の試みであり、ましてや日本にとっては初の3万トンクラスの船舶の建造であり、彼女の名に日本を表す「扶桑」と命名した((明治38年8月1日制定の「大日本帝國海軍艦艇の命名基準」により、戦艦は「旧国名」で命名する事が規定されていた。実際基準が定められて以降進水した戦艦は全て旧国名での命名(薩摩、安芸、河内、摂津)だった))事にも、彼女への当時の日本の期待を伺う事が出来る。
--少々読みにくい彼女の名前は、扶桑と書いて「ふそう」と読む。元々は中国の「山海経」等に記述されている、東方の果てにある伝説の巨木のことで、巨木がある国を「扶桑国」と呼んでいた。これを日本が(地理的に中国の東方の海の果てにある事から)別称として利用した事で、日本を指す言葉ともなった((古くは貞観元年(859年)に使用された例がある))。
---室町時代制作の日本地図(いわゆる行基図)には「日本扶桑国之図」と記載されたりしている。また松尾芭蕉の『奥の細道・松島湾』の一文、「松島は扶桑第一の好風にして~(松島は日本一風景のよい場所)」という形で引用されたりもしている。
--「扶桑」の漢字を使う花にハイビスカス(扶桑花・仏桑花とも)((7月11日・9月22日の誕生花。花言葉は「勇ましさ」「華やか」。))がある。
担当イラストレーター六花氏によると、「扶桑姉妹のスカートは[[ハイビスカスを意識しています。>https://twitter.com/rossignuol/status/459758250183778304]]」とのこと。
-当時の軍艦には武運長久を願ってその名前の由来となった地に縁のある神社から分霊して祭る「艦内神社」があったのだが、扶桑の場合は由来が日本自体のためか、国内で2つしかない「宗廟」((皇室の祖先を祀っている廟のこと。伊勢神宮は皇室の祖とされる「天照大神」、石清水八幡宮は「神功皇后」及び「応神天皇」が祀られており、2社を指して二所宗廟ともいわれている))の「伊勢神宮」及び「石清水八幡宮」の2社から分霊されたのが祭られていた((元々は石清水八幡宮のみ分霊して祀っていたようだが、昭和8~12年の頃に伊勢神宮からも分霊して合祀されたことが、高松宮日記に記述されている))。後輩の「[[伊勢]]」と同じである。&color(gray){なのにこの差は一体?};
因みに妹の[[山城]]は名の由来である山城国(現京都府)にある「石清水八幡宮」と姉と一緒の神宮から分霊を祭っていた。&color(gray){姉さまと一緒…ヤッター!};
-軍艦の名前としては二代目。
--初代扶桑は、明治時代に初代[[金剛]]、初代[[比叡]]と共に英国に発注された装甲艦(後に二等戦艦)であり、東洋初の装甲艦だった。
#fold(装甲艦扶桑){{
-1872年に兵部省から分離して設立された海軍省が初めて海外に発注した艦艇の1隻。他に金剛型コルペット2隻(([[金剛]]と[[比叡]]の先代にあたる))が発注されている。
--設計はイギリス軍艦設計の最高責任者である「海軍建造部長」を長らくつとめて数多くの近代甲鉄艦を完成させ、海軍を去ってからも設計工務所を主宰して艦船設計に携わっていたエドワード・ジェームス・リード卿。サミューダ・ブラザーズ造船所にて建造、1878年初頭に完成した。
---リード卿は扶桑の日本への回航の際に夫人を伴い来日。今後の日本軍艦に関して多くの意見具申を行い参考になったと言われている。
-構造としては汽帆併用の中央砲郭式装甲艦である。中央砲郭式というのは従来の艦艇の砲塔配置が、帆船時代の艦船のように船体舷側一面に砲を並べるのの主流だったのに対して、大きめの砲を機関のある中央に配置し、それらを囲むように装甲を箱状に作る事で主要部の防御性能を上げる構造で、装甲帯が従来よりも短い分、厚い装甲を張る事もできた。
--扶桑も主砲である24センチ単装砲を中央の両舷に2基ずつ搭載し、機関も含めてそれらを厚さ203㎜~230㎜の装甲ボックスで覆う構造となっていて、後の「集中防御方式(All or nothing)」に通じるものになっている。
⇒[[竣役時の扶桑>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91_(%E7%94%B2%E9%89%84%E8%89%A6)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_ironclad_Fus%C5%8D.jpg]]
---但し「装甲艦」とはいっても扶桑は3,700tほどしかなく、規模・性能ともに「フリゲート」もしくは「コルベット」であり、当時の欧米列強が建造していた装甲艦(平均して排水量は10,000t以上)とは大きく性能が劣るものだった。一部の書籍では「日本初の戦艦」と評される事もある初代扶桑だが、実際には戦艦のような性能はなく、後に清国海軍が保有する定遠級装甲艦に対抗できるものでもなかった。
---もっとも明治維新から日も浅い日本で欧米列強や清国のような装甲艦を保持できるような予算、整備等をする港湾設備などは充実しておらず、そういった面から見てもこの時点の日本にとっては扶桑クラスの装甲艦を保持する方が良かったとも言える。
-日本回航中、扶桑はスエズ運河でプロペラやシャフトを損傷し、現地で3週間の修理を行っている。プロペラの方は予備と交換したようだがシャフト自身は応急では修理できず、航海自体には問題なかったのでそのまま日本に向かう事になり、到着後金剛、比叡らと天覧を受けたのちに、届いた部品をで修理をするためにドック入りする羽目になっている。
--12月に修理を終えて試用運転を開始し、翌年4月には主砲の試験射撃を行ったが、一弾が誤って民家((神奈川県三浦半島にあった三浦郡公郷村の石戸三郎左衛門宅))に直撃してこれを半壊させてしまっている。日清戦争後は松島との衝突沈没も経験しており、先代の扶桑は次代よりも不運、不幸なネタが多い。
-1893年、日清戦争の直前に扶桑は近代化改装工事が行われ、艦容を一新している。特に帆走設備は外されてマストも近代的なものとなっている。⇒[[近代化改装後の扶桑>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Fuso.jpg]]
-1894年の日清戦争では常備艦隊の1隻として行動し、黄海海戦にも参加している。
本隊の最後尾に陣取っていた扶桑だが他艦と比べて低速であったため単縦陣を維持するのも苦労したという。
--海戦では清国の装甲艦定遠と防護巡洋艦来遠の2隻が、扶桑の前を行く比叡にラムアタックを仕掛けるも躱され、ならばと今度は低速の扶桑にラムアタックを仕掛けてくる場面もあった。こちらも扶桑側の回避行動が功を生じて回避する事に成功するが、これにより後方にいた樺山軍令部長以下要員が乗っていた商船「西京丸」と護衛の砲艦「赤城((航空母艦[[赤城]]の先代))」の前面に清国北洋艦隊が躍り出る形となり、西京丸らは集中砲火を浴びてしまう((一応西京丸らは伊東連合艦隊司令長官の「退避せよ」の命を受けて退避行動をとろうとしていたのだが、日清双方の艦隊運動によって気づいたら本隊に続行する形となってしまっていたと言われる))。
---赤城の身を挺した反撃もあり、西京丸は無事に脱出できたが、下手すれば日本海軍軍令のトップが戦死もしくは捕虜となるかもしれない事態であっただけに、ある意味日本海軍創建以来の最大のピンチであった。
なお奮闘した赤城は中破し、艦長の坂元八郎太少佐は頭部に被弾して戦死している。
-日清戦争後も引き続き日本海軍に在籍していたが、六六艦隊計画で急速に巨大化する日本海軍の中で、扶桑は既に旧式化していた。前述のように1897年には伊予長浜沖で巡洋艦松島と衝突して沈没するなども経験している。
--沈没中の1898年3月21日、海軍艦艇類別等級が制定され、扶桑は「二等戦艦」に類別された。だが二等「戦艦」といっても前述の通り扶桑に戦艦と呼べるような性能はなく、主力艦として扱われる事もなかった。
日露戦争では旧式艦艇の集まりである第七戦隊の旗艦として警備行動に終始しており、日本海海戦でも参加はしているが主戦場に赴いて戦った訳ではない
-日露戦争終戦直後の1905年12月11日に二等海防艦に変更され1908面4月1日付で除籍、1910年に横浜で解体された
}}
-実は扶桑の建造計画は日露戦争前の頃までに遡る。六六艦隊計画により世界第四位の海軍国となった日本が、欧米列強の建艦競争に乗り遅れないために日露戦争前の1902年(明治35年)に計画した「第三次海軍拡張計画」で計画された「第三号戦艦」が扶桑の大元の計画艦である。ただこの計画は第一第二号戦艦は発注されたが第三号戦艦だけは保留状態となっていたのを、明治44年の「明治44年度軍備補充費」にて超弩級戦艦の計画艦として改めて計上されて実現した艦であった。
⇒詳細についてはこちらの[[「日本海軍の主力艦建造史~4.ドレットノート・ショック」>雑学#baa7b419]]を参照されたし。
**竣工後~太平洋戦争開戦まで [#xf0fa0b7]
-竣工した1915年当時、世界は第一次世界大戦真っ只中で、日本も連合国側として大陸や太平洋に拠点をもっていたドイツ帝国と相対していたが、扶桑を必要とするような大規模海戦は起こる事もなく、作戦行動をとる事もなく終戦を迎えている。
-日本の誇る3万トンクラスの超弩級戦艦として完成した訳だが、やはり初の試みというのには不具合が発生するのが常であり、扶桑型にもいくつかの不具合が発生していた。
--よく聞かれるのは主砲斉射時の爆風問題で、船体に連装砲塔6基をまんべんなく配置した構造は、斉射時の爆風を船体のほぼ全てに受けてしまう形となり、1915年(大正4年)に行われた扶桑の砲熕公試では前部射撃指揮塔では砲身の角度によっては爆風をもろに浴びてしまい瞬時観測が出来ないなどの問題が報告されている。
そういった不具合を修正する事も含め、3、4番艦として計画されていた第五号戦艦、第六号戦艦は設計変更の上「伊勢型戦艦」として完成する事になる。
---もっとも「実用するのに問題がある」ほどのものではなかったようで、山城竣工後の1918年(大正7年)8月6日に行われた戦闘射撃訓練の際に、山城が距離18,800m~18,100mの距離からの射撃で遠近散布界平均285m、斉射間隔28秒。計69発の使用弾数中第一有効弾7、第二有効弾5、第三有効弾11と優秀な成績を記録している一方、爆風の影響に関しては報告されておらず、実用上問題のある艦であったとはされていない。
扶桑自身も、前述砲熕公試では爆風問題が指摘される一方で扶桑の檣楼は金剛型と比べると射撃時の激動は小さく、高速航行時の振動も極めて少ないため高所指揮所としては適等な物との報告がされたりしており、これも「実用上問題がある」とはされていない。扶桑型が「戦艦として運用に耐えれない欠陥戦艦」というような話は、こういった初期問題を誇張した話であり、事実ではない。
--また竣工時で22.5ノット、改装後も24.7ノットだった最高速力を低速であるとして、扶桑型の問題点とする意見も戦後見受けられ、艦これでも扶桑自身が自虐しているが、そもそも扶桑竣工時の列強海軍の超弩級戦艦は20~21ノットが標準であり、実は特段遅いわけでもない。
---扶桑型と同世代の各国戦艦の速力比較
|艦名|建造国|速力(ノット)|
|扶桑|日本|22.5((ただ、就役後は最高速力は21ノット前後とみなされることもあった。))|
|アイアン・デューク|英国|21.3|
|ケーニヒ|独国|21|
|クールベ|仏国|21|
|ニューヨーク|米国|21|
|カイオ・ドゥイリオ|伊国|21|
|インペラトリッツァ・マリーヤ|露国|21|
|テゲトフ|墺国|20.3|
--後述の2度にわたる近代化改装後にしても、24.7ノットというのは各国戦艦と比較しても特段低速なわけでもなく、仮想敵国であるアメリカの戦艦と比較しても、海軍休日後の設計である新鋭戦艦[[Iowa]]級や[[South Dakota]]級、海軍休日期にドイッチュランド級ポケット戦艦から端を発するドイツ・フランス・イタリアでの建艦競走で生まれた高速戦艦群には及ばないまでも、仮想敵国であるアメリカの主力である「標準型戦艦群」と比しても染色ない速力であり、速力で問題になるような性能ではない。
---1912年~1936年((扶桑起工からロンドン海軍軍縮条約が失効して海軍休日が終了した1936年まで))に起工した主要戦艦の開戦時の速力比較
|艦名|建造国|起工年|速力(ノット)|
|扶桑|日本|1912|24.7|
|長門|日本|1917|25.8|
|[[ネルソン>Nelson]]|イギリス|1922|23.9|
|リヴェンジ|~|1913|21~21.5|
|[[ウォースパイト>Warspite]]|~|1912|24|
|[[コロラド>Colorado]]|アメリカ|1923|21|
|[[ネヴァダ>Nevada]]|~|1916|20.5|
|[[リシュリュー>Richelieu]]|フランス|1935|30|
|ダンケルク|~|1932|30|
|プロヴァンス|~|1912|20|
|[[リットリオ>Littorio]]|イタリア|1934|31.5|
|カイオ・ドゥイリオ|~|1912|27|
|シャルンホルスト|ドイツ|1935|31|
|ビスマルク|~|1936|30.8|
|ミナス・ジェライス|ブラジル|1913|21|
|リバダビア|アルゼンチン|1914|22.5|
-ただし、これは扶桑型に限らず当時イギリス海軍を範にして海軍を組織し、その艦艇もイギリスの影響を色濃く受けていた日本海軍の戦艦すべてに言えることだが水平防御の能力が低く、それが竣工前から扶桑型の欠点と認識されていた事実は存在している。
--当時艦砲による砲戦距離は長大化の一途をたどっていたが、それによっておこる事象への対応は後手に回っており、特に「長大化することで砲弾の落下角度が変わった」事への対応について、どの国も軽視しているのが殆どの状態であった。
--日露戦争日本海海戦の場合だと、砲戦距離は最大でも8,000mであり、通常6,000~7,000mで行われていた。この距離だと当時の戦艦主砲の標準サイズである30㎝砲だとほぼ水平角度での射撃となり、砲弾も自然と横から飛んでくるものとなり、艦艇の装甲も垂直装甲を重視しているのが殆どだった((水平装甲を厚くすると船体の重心が上がってしまい安定性が落ちてしまうという問題もあった))。
だがドレットノートショックを受けて戦艦の主砲サイズが大きくなり、それにつれて射程距離も1万mを超えだすと、自然と主砲は仰角を上げて撃つようになり、着弾も横からではなく上から落下して落ちてくるようになり、垂直装甲ではなく水平装甲に命中する可能性の方が大きくなってしまった。
---このことについて対策をとる国はほとんどなく、各国はそのまま建艦競争をし続け第一次世界大戦を迎える訳だが、この問題は早速表面化する。
扶桑竣工の翌年に発生した「ユトランド海戦」では、ただでさえ戦艦よりも装甲の薄いイギリス巡洋戦艦が、砲戦のなかで落下してくる敵砲弾を水平装甲で受けた結果、簡単に貫通されて即爆沈する事例が複数発生し、水平防御の重要さを世界に痛感させる結果となった。扶桑も水平防御は重視していない設計だった((水平装甲は中甲板に31㎜、上甲板に35㎜、砲塔天蓋で127㎜。同時期に建造されたイギリスの戦艦アイアンデュ―クだと主甲板に64㎜、砲塔天蓋で102㎜と同程度))ため、扶桑に限らず日本の戦艦の水平防御不足は懸念事項として問題視されていた。
-こういった問題も報告されている扶桑であったが、全体的には「実用できる戦艦」であり、細々とした改装を受けたりもしたが、本格的な改装を受けるのは1930年と15年ほどは竣工時の状態で過ごしている。
--ただ、砲戦距離が増大化したことでそれにかかわる則距儀などの機器も進化し続けている時期でもあり、従来の艦橋構造物では高さや機器を置くための面積も足りなくなっていた。
そこで艦橋後ろにそびえる前部マストを軸にそういった各設備を備え付ける工事が行われており、扶桑は1927年には完成して初めて背の高い艦橋構造物を持つことになる。
⇒[[竣工時の扶桑>https://yamato2199.exblog.jp/iv/detail/?s=22216185&i=201407%2F22%2F58%2Fe0266858_20134287.jpg#google_vignette]]
⇒[[艦橋構造物設置後の扶桑>https://kurekaigun-gourmet.com/cont/wp-content/uploads/2021/10/fuse-768x473.jpg]]
-1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では江田島の海軍兵学校にいた東京出身の学生を乗せて東京に急行し、救援作業に従事している。
--1924年には高松宮宣仁親王ら海軍兵学校52期生の卒業に際し、摂政宮だった後の昭和天皇が行啓することになり、扶桑がお召し艦に指名されていたのだが、直前に艦内で腸チフス患者が発生した為、これは中止となっている。&color(gray){不幸だわ…};
-ワシントン海軍軍縮条約を受けて八八艦隊構想が流れてしまい、既存の戦艦でやりくりしていくことになった日本海軍は、それらの近代化改装工事を進めていくことになる。
扶桑も1930年(昭和5年)4月より呉海軍工廠にて改装工事を開始するが、これは足掛け3年にも及ぶものとなった。
--主な改良点としては
①艦橋構造物の新設、改装
②装甲防御の増設、改善
③対空兵装の設置
④主砲仰角の引き上げ(25度から30度へ)による射程の延長
⑤機関を重油・石炭の混焼缶から重油専勝缶へ変更(煙突も1本化)
⑥水偵搭載設備の新設
といったもので、特に艦橋設備は水面からトップまでおよそ50mもある長大なものとなり、その(異質」な形状とも相まって扶桑の特徴となった。
⇒[[第一次近代化改装後(1933年頃)の扶桑>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b5/Fuso_Trial_Heading_Left.jpg]]
---多くのファンから「違法建築」「ジャックと豆の木」「ジェンガ」「九龍城」などなど、山ほどあだ名がつけられている扶桑の艦橋構造物だが、これはこの第一次改装がきっかけで設置されたものである。
⑥の水偵搭載設備を新設するにあたり、扶桑は3番砲塔の上にカタパルト設備を置き、砲塔の旋回で風上に向けれるようにしたのだが、従来艦尾方向に向けて設置していた3番砲塔を艦首方向に向けなおす必要があった。
そのため3番砲塔を艦首方向に向けるための移設((艦尾方向に向けたままだった姉妹艦山城の位置と見比べたらわかるが、改装後の扶桑の3番砲塔の基部は山城のそれよりも艦尾方向に移動している))が行われたのだが、中央にある煙突ギリギリまで動かしたとしても、主砲砲身が艦橋構造物とぶつからないようにするにはどうしても艦橋基部の面積を山城よりも狭くする必要があり、その結果がご存じのようなくびれた形の艦橋となってしまった訳である。
---海外(特にアメリカ)ではその特徴的な艦影が美的センスの琴線に触れたのか、日本戦艦としては[[大和]]並みの人気艦となっている。公式四コマ49話においても、ビスマルクがつつきまわして「クールだわ!」と評していた。&color(Silver){「本当に倒れないわ!!」};
そして2015年春、今度は[[リットリオ>Littorio]]に「アートのような艦橋」と評された。&color(Silver){とうとう鎮守府の観光名所に…。};
「World of Tanks」で有名になったベラルーシのゲーム会社Wargaming.netの新作「''World of Warships''」のアバントレーラームービーで、日本はおろかWW2世界戦艦諸嬢の先頭を務めている。カメラはえぐり込まれた第1艦橋基部及び第3砲塔にガン寄せで、実に明らかなリスペクトだ。
もちろん当の米国艦である[[アイオワ>Iowa]]が見逃す筈も無く、着任5分程で目敏く見つけるや「気に入った」と追跡を受ける羽目になっている。
--機関の改装により出力はほぼ倍増され、速力も公試実験の際には24ノットを出すなど、かなりの高速化がされているが、実速は21.5ノットどまりだったとか、いや戦闘航行で26ノット近くを出せたとか、関係者内での証言もまちまちである。
-実はワシントン海軍軍縮条約が締結される辺りの頃に、扶桑型に41㎝砲を搭載する改装案があったのだが、条約で主砲や舷側装甲を変更する改装を禁止することとなったので、この改装が実現しなかったという経緯もあったりする。
#fold(幻の扶桑型大改装案){{
幻の扶桑型大改装案
-扶桑型は、戦艦としては高速で船としての信頼性は高く、有力な艦だったのは間違いなかったので、海軍は抜本的な改装を検討していた。
艦政本部がまとめた案で、主砲を35.6cm連装6基12門から、41cm三連装2基・連装2基10門に換装し、バルジを追加して水中防御を抜本的に改善するものだった。
主砲塔が混載になるのは、幅の狭い艦首には三連装主砲の装備が不可能なため、元のレイアウトを生かして連装2基を背負い式に搭載、幅に余裕のある中部と後部は、それぞれの主砲塔2基を三連装1基に交換することにしたためである。
--これにともない、エンジンのレイアウトも変更され缶は中央部主砲塔の後ろに移動、機械室と隣接して配置される。
事実上、艦の外皮以外丸ごと入れ替えるような、完全な作り直しである。
-この案は、前述の通りワシントン軍縮条約により破棄され、沙汰止みとなってしまった。ワシントン軍縮条約では改装による排水量増加は3,000トン以内にするなどの制限内で改装が認められていたのだが、主砲や舷側装甲の換装は禁止となっていたので、計画が取りやめとなったのである。
}}
-3年近くかかった改装は1933年(昭和8年)5月12日に完了し、扶桑は再び現役に復帰する。同年11月15日には皇弟の高松宮宣仁親王(当時海軍大尉)が扶桑の主砲後部砲台長として配属されている。
--この頃のことは高松宮も日記に書き残しているが、どうも艦長以下が親王陛下にかなりの特別待遇で接していたらしく、親王も呆れかえっていたことを書き留めている。また在任中に乗員の自殺騒動もおこったようで、『いやはや不景気な艦である』とかなり辛辣な評を書かれてしまっている。&color(gray){不幸だわ…};
---こののち、高松宮は海軍大学校進学のため1934年(昭和9年)11月をもって艦を離れるが、それとあわせるように扶桑は第二次改装を受けるために再度呉に戻ることになる。
-第一次改装から1年半ほどで、扶桑は第二次近代化改装を受けることになる。
今度の改装は
①主砲仰角のさらなる引き上げ(30度から43度へ)
②砲塔外筒と天蓋の装甲強化
③副砲の仰角引き上げ(15度から30度へ)
④舷側装甲の範囲拡大((これにより装甲重量は8,558tから12,199tに増大))
⑤艦尾を約5m延長し両舷にバルジを増設
などがなされている。
--「ドックで寝たきり」とよく言われるが、これは二度の近代化改装が1年半の短期間を挟んで行われていた事も影響していると思われる。
-工事を終えたことで、扶桑及び山城は相当な戦力向上を果たしている。だが重量増加による乾舷の低下は水線最厚部の装甲の占める割合が低下したり、予備浮力の減少なども発生しており、目に見えない点、気付きにくい点での不安要素も内包している状態であった。
#fold(扶桑型の新造時と第二次改装後の性能比較){{
|要目|新造時&br;(1915年)|第二次改装後&br;(1935年)|
|排水量|基準:29,330t&br;常備:30,998t|基準:34,700t&br;公試:39,154t|
|全長|205.13m|212.75m|
|全幅|28.65m|33.08m|
|主缶|宮原式混焼缶両面8基&br;同片面16基|ロ号艦本式4基&br;同ハ号缶2基|
|主機|ブラウンカーチス式タービン|艦本式タービン4基4軸|
|馬力|40,000shp|75,000shp|
|速力|22.5ノット|24.5ノット|
|航続距離|14ノットで8,000浬|16ノットで11,800浬|
|武装|41式35.6㎝連装砲6基&br;41式15.2㎝単装砲16門&br;53㎝魚雷発射管(水中式)6門|41式35.6㎝連装砲6基&br;41式15.2㎝単装砲16門&br;12.7㎝連装高角砲4基&br;25㎜連装機関砲8基&br;13㎜4連装機関砲4基|
|搭載機|なし|水偵3機&br;カタパルト1基|
|装甲|水線部:305㎜&br;甲板部:66㎜((中甲板31㎜、最上甲板35㎜))&br;主砲天蓋:152mm|水線部:305㎜&br;甲板部:最大151㎜((中甲板67㎜に最上甲板35㎜という従来の装甲に、機関室上部のみ更に19㎜の装甲を追加))&br;主砲天蓋:152mm&br;縦壁75㎜|
}}
**太平洋戦争開戦 [#de01e387]
-太平洋戦争開戦時、扶桑は姉妹艦山城や伊勢、日向と共に第二戦隊を編成し、主力部隊である第一艦隊の基幹戦力として桂島泊地にとどまっていた。
一応真珠湾攻撃を終えて帰還する第一航空艦隊(南雲機動部隊)が追撃されるの場合に備え、連合艦隊直轄の第一戦隊(長門、陸奥で編成)と共に東経160度線付近まで進出する予定だったが、出撃後南雲機動部隊が追撃されている気配もなかったので12月11日には反転している。
--その際随伴していた[[おかん>鳳翔]]が迷子になる騒動が起こったりしている
-序盤の第一段作戦((太平洋戦争開戦時の日本の侵攻計画「南方作戦(陸海軍中央協定での名前は「あ号作戦」)」の海軍での呼称))中、扶桑が行動したのはこれだけに終わった。
--艦隊決戦に備えて待機していたというのもあるが、まず相対する米戦艦部隊自体真珠湾攻撃で壊滅してしまったため、戦艦を主力とした艦隊決戦は発生せず、シンガポールを拠点とするイギリス東洋艦隊も主力戦艦がマレー沖海戦で日本の基地航空隊の猛攻で撃沈されてしまったので、こちらも艦隊決戦が起こる可能性はゼロに近かった。そのため南方への侵攻は巡洋艦以下の艦艇で十分対応できたため、扶桑を含めた日本戦艦群は高速性を活かして機動部隊の随伴などで活用の道があった金剛型以外は長門だろうが、新鋭戦艦大和だろうが、皆扶桑と同様出番もなく待機し続ける事となったのであった。
-1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦には、扶桑以下戦艦部隊は久しぶりに出撃したが、此方は前衛として戦った南雲機動部隊が空母4隻を失う大敗となり、扶桑らは接敵することなく撤退した。
--この後、扶桑らは再び桂島で停泊し続ける事になる。この間伊勢と日向が航空戦艦への改装のため第二戦隊から外れたが、替わりに連合艦隊直轄だった第一戦隊から長門と陸奥が第二戦隊に配属替えとなり、第二次ソロモン海戦で陸奥が出撃した以外は瀬戸内海で実弾射撃訓練に精をだしたり、海軍兵学校の練習艦に使用されたりと、激戦が続くソロモン海域をしり目に「桂島艦隊」と揶揄されながら過ごす日々が続いていた。
**陸奥爆沈 [#p2f90f03]
-1943年6月7日、扶桑の新艦長として鶴岡信道大佐が着任した。この頃扶桑は長門、陸奥と連なって停泊していたが、陸奥の艦長三好輝彦大佐は鶴岡新艦長とは兵学校同期で親友であったので、鶴岡は着任当日早速三好大佐に挨拶すべく陸奥に赴いていたのだが、三好大佐の方も早速翌8日午前に扶桑に来艦、鶴岡大佐と旧交を温めていた。
--鶴岡は昼食を一緒に食べないかと三好を誘ったが、13時から陸奥が繋留しているブイを長門に譲る作業があったので、三好はこれを断り正午前に陸奥に戻っていった。そして鶴岡にとって親友を見た最後となった。
--昼食が終わり休憩時間となった12時15分((陸奥生存者の証言より))ごろ、陸奥3~4番砲塔間で突然煙が吹き上がり、その後大爆発が発生する。船体は4番砲塔後部甲板付近で真っ二つに折れ、3番砲塔は艦橋と同じぐらいの高さまで吹き飛んだ。
前部は右舷に傾斜していき程なく転覆沈没、引きちぎれた後部は艦尾を上に午後5時頃まで浮いていたが日没後に沈没している。
-この時の天候は悪く、靄がかかっている状態だったので、付近にいた扶桑からも陸奥の姿はおぼろげに見える程度であったという((爆沈の原因究明や遺体改修などの作業を指揮した松下喜与作技術大尉が戦後纏めた調査資料等の記述による))。呉より泊地にむかっていた((この時点で厳島南東にある小黒神島付近まで到達))長門も目撃しておらず、爆発の轟音も「砲熕試射」だと勘違いしている。そのため扶桑をはじめ爆発音と霧上に立ち込めた噴煙を目撃した各艦は異変を察したが、陸奥が「轟沈」したのか?まではすぐには分からなかったそうだ((扶桑についで陸奥の近くにいた(距離は約5㎞)[[龍田]]に座乗していた第十一水雷戦隊司令官の木村進少将も、「食事中に爆発音を聞いたので外に出たが、霧上から大きな噴煙が立ち上っていくのを目撃しただけで陸奥の姿は見えなかった」と証言している))。
--鶴岡は艦長室で昼食をとり、煙草を一服しているところで爆発の轟音を聞いた。直後に当直将校が異変を報告してきたので外に飛び出し、陸奥がいた方向から湧き上がる噴煙を目撃する。事態を悟った鶴岡は直ちに戦闘配置を発令((爆発の原因が不明のため、敵潜水艦が侵入しての奇襲という可能性もあるので、まずは自艦に戦闘態勢を取らせるのが最善の措置である))すると、程なく陸奥搭載の水雷艇が異変を伝えてきた((この水雷艇は士官の移動用に2隻のランチと共に繋船桁を通じて繋がれていた。三好艦長も扶桑との行き来にこれらを使っていたと推察される。ランチの1隻は陸奥爆沈時に巻き込まれて沈んだが、水雷艇とランチのもう1隻はなんとか繋留綱を外す事に成功し、沈んだランチの乗員を救助したうえで水雷艇が救助要請のため扶桑に向かっていた))ことで陸奥が爆沈した事が判明、12時20分に周辺の各艦に「ムツバクチンス」の緊急電を打電した。その後敵襲の気配がない事を確認すると直ちに陸奥生存者の救助に当たる事になる。
---緊急電を受けて事態を悟った各艦が救援に駆けつけ、扶桑も含めて救助作業を開始する。その結果乗員1474名((乗員のほか偶々艦務訓練のため11時に乗艦していた予科練甲飛第十一期練習生と教官134名が乗艦していた))中、353名((うち予科練甲飛第十一期練習生と教官のなかで生還者は10名))が救助されたがその中には艦長の三好輝彦大佐の姿はなかった。
数日後に行われたダイバーによる調査で、艦長室内に三好の遺体が発見された。遺体は扶桑に運ばれ鶴岡は物言わなくなった親友との再会を果たした。
扶桑軍医長による解剖が行われたが外傷はなく海水も殆ど飲んでいない事が判明。死因は爆発の衝撃で昏倒した際の頚椎骨折による即死と診断された。この報を聞いた鶴岡は三好も自分と同様、爆発時は艦長室で食事をとり一服していたのだろう。海水も飲まず苦しまずに亡くなった事がせめてもの救いであったと、戦後回想している。
**南方進出 [#vb58934d]
-陸奥爆沈後、扶桑は引き続き航空隊の演習目標になったりと、練習等に終始していたが、8月17日、扶桑は長門や大和らと共にトラック泊地に進出する事になる。因みに姉妹艦の山城は引き続き練習艦として残留する事になったので、ここで姉妹は一時的に分かれることになる。
--「''太平洋戦争中は殆ど山城と共に練習艦任務に従事してて、レイテ沖海戦までは実戦参加していない''」と思われがちな扶桑だが、実はレイテ沖海戦の1年以上も前から扶桑は前線に出動して働いている。これもイメージからくる勘違いである。
-連合艦隊司令長官古賀峯一大将率いる主力部隊((編成は大和、長門、扶桑の他[[大鷹]]、[[愛宕]]、[[高雄]]、[[能代]]、[[涼風]]、[[海風]]、[[秋雲]]、[[夕雲]]、[[天津風]]、[[初風]]、若月))として出撃し23日に到着。そのまま同泊地で待機し続けることになる。
--実はこの南方進出、陸奥爆沈の事実を秘匿するための口封じを兼ねていたのでは? と推測している元乗員もいる((扶桑は陸奥爆沈をもっとも近い位置で目撃してしまっていた上、%%それらを乗せたままのトラック泊地進出であり%%(実際は生存者は長門に集められたうえでトラックに進出している)陸奥の生き残りはそのまま南方の最前線へ送り込まれている。扶桑も輸送任務の完了後、他の艦が内地とかに帰還する中で帰されることなくそのままトラック島に留め置かれたのは、陸奥爆沈を目撃していた扶桑の乗員が、内地でふっと喋ってしまい、それが広まるのを恐れたからではないか?という推測である))。ただ南方進出が決定していた陸奥が事故で失われた事に対する穴埋めで選ばれただけであるという意見や、そもそも大和、長門ら「主力部隊」の一翼としての出動であり、先行してトラックに到着していた[[武蔵]]や[[金剛]]、[[榛名]]と合流した後は戦力の要として前線に居続けた((実際1943年10月にウェーク島南方海面で米艦隊を迎撃するためこれら6隻の戦艦は大艦隊を率いて出動している))わけだから、当時米軍の中部太平洋方面への反攻が始まりだした時期でもあり日本側はそれに備えた戦力を前線に張り付ける必要があったのだから扶桑が残されていたのは当然であり、内地へ帰されなかったのも陸奥爆沈云々とは全く関係ない。あくまでこの話は「推測の話」「根拠のない空想」として見た方がいいだろう。
---そのためこの時期、扶桑にはいつまで経っても新兵配属がされず、一番下っ端だった二等水兵たちが迷惑を被った。なんて笑い話?も残っている。
彼らは一等水兵、上等水兵、そして水兵長に進級する者すら出始めても、相変わらず新兵の仕事をやり続けなければならなかった。しかも元々居住性が良いとは言えない扶桑が、暑い南方にずっと居続ける羽目になったものだからたまらない。
ただでさえ職場が蒸し暑い烹炊所員や機関兵を中心にストレスがMaxとなり、悪性の皮膚病が蔓延して見るも無残なありさまになってしまったという。
-そうした悲喜交々な話題が生まれた扶桑だが、1944年(昭和19年)になると長らく南方への前線基地となっていたトラック泊地も危険となってきており、扶桑らもリンガ泊地に移動する事になった。
--当時の第一艦隊司令長官は南雲忠一中将であり、リンガに移動する部隊は長門、扶桑ほか[[熊野]]、[[鈴谷]]、[[利根]]、[[秋月]]、[[谷風]]、[[浦風]]、[[浜風]]、[[磯風]]の10隻で「敷島部隊」と呼称された。
2月1日、敷島部隊はトラック泊地を出撃してパラオ経由でリンガ泊地に向かい、2月前半までに主力艦艇の多くがトラック泊地から離脱していった。その直後の2月17日、米機動部隊によるトラック諸島空襲が実施されたため、扶桑らはギリギリのところで米機動部隊の魔の手から脱出する事に成功した事になる。
---移動したリンガ泊地はシンガポールの沖合にある穏やかな泊地で、適度な広さと潜水艦が潜水進入するには不向きな海底の浅い泊地であり、油田地帯も近い事から艦隊の宿泊地としては適切なところだった。
ただこの海域は赤道直下であり気温は激熱、周辺にはシンガポールしか大きな町はないため乗員達が休養する設備も乏しく、扶桑らが到着した当初は大艦隊が長期間留まるには過酷な環境であった。
&color(Silver){ただでさえストレスMaxな扶桑乗員達には更なる試練となったのであった};
-なお、前述した鶴岡信道大佐は2月23日付で艦長を退任し、最後の艦長となる阪匡身大佐に艦長職を引き継ぐことになる。
**渾作戦とあ号作戦 [#uc07f685]
-1944年5月中旬、扶桑は長門と共に機動部隊乙部隊に編入となり、タウイタウイに進出する。
6月になるとビアク島に侵攻したアメリカ軍を撃退すべく、扶桑、[[風雲]]、[[朝雲]]は間接護衛隊を編成する。
--海上機動第2旅団を中心とする増援部隊を送り込むため、敵艦隊を引き付ける「囮」としての役割を担う部隊だったが、肝心の米艦隊は主力の機動部隊をこの海域には投入しておらず((直後に予定しているマリアナ侵攻のため、マーシャル諸島に集結していた))、この方面には重巡1隻、軽巡3隻、駆逐艦10隻ほどの水上戦力しかいなかった。
---だが日本側はこの部隊を米空母部隊と誤認してしまい、扶桑らは撤退、上陸部隊も後退してしまった。
最終的には大和、武蔵の投入も検討されたがその後マリアナ周域での米機動部隊の活動が報告されたことでマリアナ方面での決戦が現実視され、小沢機動部隊らはタウイタウイ泊地を出てマイ孔方面に進出する。だが扶桑はこれに加わらず引き続きダバオでの待機となるが、結局マリアナ沖海戦で小沢機動部隊は壊滅し、扶桑は7月1日に第四駆逐隊([[山雲]]、[[野分]]、[[満潮]])の護衛を受けて久しぶりに内地に帰還した。
**レイテ沖での奮闘 [#g651016d]
-呉に戻った扶桑は長期の南方での活動による損傷個所の修理と、機銃の増設などを行っていたが、9月10日付で西村祥治中将を司令官とする第二戦隊が編成され、扶桑は山城と共にそこに配備される。
--実は旧来の第二戦隊は1944年2月25日に第一艦隊の解隊と共にこちらも解隊となっていて、長門の方は直後に大和、武蔵のいる第一戦隊へ編入されたが、扶桑と内地にいる山城の方はそのまま放置?された状態のままで連合艦隊の直轄のようなポジションに置かれていた。その後捷号作戦が立案される中で第五艦隊を基幹とする第二遊撃部隊の主力として配備されたりもしていたのだが、小沢提督の「栗田艦隊の戦力をもっと強化した方が良くない?」という意見具申が通った結果、2隻で改めて第二戦隊を組むことになり、栗田艦隊こと第一遊撃部隊へ編入される事になったのである。
---この時、元々長門も第二戦隊だった事から長門を今いる第一戦隊から第二戦隊へ移籍する話もあった。だがその打診を受けた栗田艦隊と第一戦隊の両司令部から猛抗議((捷号作戦にむけて第一戦隊は3隻体制で連携訓練等して運用法も固まりつつあったなかで、長門を引き抜かれては一から運用法を考える必要があり非常に迷惑、という主張であった))があった事で、この話はなくなっている。
もしこの移籍が実現していたら、後述するスリガオ海峡での戦いに「長門」vs「ウエストバージニア」「メリーランド」というビッグ7同士の戦いが実現してた可能性が高い。
---なお、第二戦隊司令官に選ばれた西村だが、元々軍令部は当時、南西方面艦隊司令部附だった有馬馨少将(戦艦武蔵の初代艦長)を司令官にするつもりで、有馬に内示までだしていた。だが連合艦隊司令部がこれに難色を示して対立((連合艦隊は有馬を南西方面艦隊司令部の参謀長に推そうと考えていた))、その結果有馬は9月10日付で新設された第三十一根拠地隊司令官に補職となり、レイテ沖海戦後の11月に南西方面艦隊参謀長になる一方、第二戦隊司令官に選ばれたのが西村だった。
第二遊撃部隊を指揮している志摩清英中将(当時は第五艦隊司令長官)と兵学校同期であり、既に第四水雷戦隊や第七戦隊といった各戦隊も司令官を歴任していて海上経験では志摩より勝っている西村を、また再び戦隊司令官として前線に送り出す((実は西村は当時第二艦隊司令長官で兵学校では1期上の先輩である栗田健男中将と非常によく似た経歴を持っていて、①艦隊司令長官の役職に就くための登竜門である海軍大学校甲種卒ではない(二人は兵学校卒なら誰でも入れる乙種卒)、②栗田は開戦時第七戦隊司令官だが、前任は第四水雷戦隊司令官で、栗田の後任が西村だった。そして第七戦隊司令官から第三戦隊司令官に異動した際の後任としてきたのが、またまた西村だった。③二人とも前線勤務が長く甲種卒でない事から戦隊司令官を務めれば予備役入りするのが通例のポジションだった。などがあった。だが本来なら艦隊司令長官という親補職につけるはずのない経歴の栗田が第二艦隊司令長官に選ばれている状況であったので、同様に前線勤務が長く、同じような経歴である西村も艦隊司令長官になれる可能性は十分にあり、有馬を始め周囲からも「艦隊司令長官に選ばれてもおかしくない」と思われていた。なお同期の志摩が既に艦隊司令長官になっているのは、彼が甲種卒である事から進級が早いという事情もあった))人事に、有馬は後年「西村中将は志摩中将と同期であり海上の経験は数等上であり今更第二戦隊司令官でもなかったろうが何も運命である。これで余(有馬)は二度目の生命の代りとなって頂いたのであるが、この日の西村中将の風貌が忘れられない。』と述べている。
-9月22日、扶桑は第二戦隊旗艦山城と、第十七駆逐隊の[[浦風]]、[[浜風]]、[[磯風]]、[[雪風]]と共に内地を出撃し、10月4日に到着した。
だが彼らが第一遊撃部隊に合流して間もない10月10日、沖縄を17隻の空母を中心としたアメリカ第38任務部隊が急襲したことを契機に、台湾沖航空戦が勃発する。この状況下、第一遊撃部隊には台湾へ出動する可能性も考慮して臨戦態勢となった結果、扶桑と山城は第一遊撃部隊各艦との連携訓練を思うようにすることが出来ず、これがのちに第二戦隊を分派する決定の一因となる。
--台湾沖航空戦終盤の17日、米軍がレイテ湾口にある小島を占領した事でレイテ侵攻が判明、第一遊撃部隊はブルネイに異動する事になり20日に到着。ここでレイテ湾に突入する最終作戦が決定し、扶桑ら第二戦隊は新たに第一遊撃部隊第三部隊を編成、サンベルナルシノ海峡を経由して侵攻する第一遊撃部隊本隊とは別に、スル海を経由してシブヤン海峡側からレイテ湾を目指す事になる。
---この編成について、従来は扶桑型の低速性が問題視されて分派されたといわれていたが、最近では直近で編入されたために艦隊運動等の訓練がちゃんとできていない第二戦隊を主力と共に連れていくことを不安視しての分派ではないか?とも言われている。
実際のところ扶桑型の速力は24.5ノットに対して、第一遊撃部隊の長門もほぼ同じ速力の25ノットであり、速力を問題視してたのなら長門を主力に残している説明がつかないというのが理由である。
前述の長門の第二戦隊への異動騒動から察するに、速力の問題よりも直近に編入されたばかりで部隊としての練成や運用が定まっていない第二戦隊を別行動部隊として分離したのではないか?と考える方が妥当かもしれない。
---またレイテ湾に分派して進という事自体は連合艦隊司令部も推薦していた作戦であり、同じく第三部隊に編入された駆逐艦4隻はどれも陽炎型、夕雲型よりも古い艦で航続力的に劣るので、サンベルナルジノ海峡を通過する遠回り航路を進む主力と行動するには不安があった。こういった事情も合わさって、最短距離を進むスリガオ海峡ルートが選ばれたという事情もある。
-10月22日15時、第三部隊(通称「西村艦隊」)はブルネイ泊地から出撃してスリガオ海峡に向かった。スリガオ海峡ルートは最短で進める反面敵航空機の哨戒線に真っ先に侵入してしまうのと、行程の最後にスリガオ海峡という狭く長い航路を進まないといけないので敵艦隊の待ち伏せをもっとも受けやすいルートであった。
--戦史好きの中には栗田艦隊全体でスリガオ海峡に進むべきだったという意見をする者もいるが、最も早く哨戒線に入ってしまう事で空襲を長期間受ける危険が高く、スリガオ海峡はレイテ湾のすぐ近くの為敵水上艦隊の展開もしやすい。また海峡の長さもかなりあるので大艦隊でいくと長蛇の列となってしまい、それこそ「T字不利」を長期間受けてしまうので、スリガオ海峡ルートを栗田艦隊全体で進むというのは自殺行為である((史実で栗田艦隊が進んだルートにもサンベルナルジノ海峡があるが、同海峡はスリガオ海峡よりも奥行きはなく、実際栗田艦隊は数10隻で一列で進入しながら1時間で通過できているが、西村艦隊は数隻ながらスリガオ海峡突入から出口付近に到達するまで、戦闘しながらとはいえ2時間以上擁している))。むしろ分派して進んだことで西村艦隊は最も早期に発見されながらも空襲の大部分は栗田艦隊側が吸収したので、空襲は1回のみで済んでスリガオ海峡入口まで無事に到達できたという事実もある。
---扶桑はこの空襲で艦尾カタパルト附近に爆弾1発を受け、航空用ガソリンに引火して火災が発生している。また艦橋右舷の第一カッター・ダービット近くの甲板にも命中弾を受け前部水圧機室で爆発。これによって水圧機室は大破し付近の防水隔壁が押し上げられた事で、中甲板と上甲板の床を突き上げられるという損害を受けただけでなく、副砲一番砲員、弾火薬庫員がほぼ全滅し、医務室士官、前部応急員十数名が即死し被服事務室、厨房事務室が破壊された。このため第1第2砲塔の操作に支障をきたし、被弾の衝撃で浸水が発生し右舷に2度傾斜、扶桑は傾斜しながら進軍を続けることになる。
-海峡に侵入した西村艦隊は先頭を満潮とし、次いで朝雲、山城(旗艦)、扶桑、最上の単縦陣の体制をとり、山城の右1.5㎞に山雲、左1.5㎞に時雨がつく体形だった。
午前3時前、海峡内を進軍する西村艦隊に米第54駆逐連隊東方隊の駆逐艦3隻が闇夜に乗じて接近、魚雷攻撃を仕掛ける。日本側は時雨が発見して探照灯を照射し攻撃するも、米駆逐隊は魚雷を放った後で西村艦隊は接近する魚雷を感知できなかった。
--3時頃、最後尾を進む最上が接近する魚雷を発見して回避行動をとるが、その前を進む扶桑はこれに気づかず、そのまま右舷中央に被雷してしまう。
扶桑はそのまま落伍するが電源系統を喪失したためか無線も電話も発光信号も送ることができず、扶桑は完全に沈黙してしまう。
最上は落伍した扶桑を追い越して旗艦山城の後方に位置するが、どうも山城にはこれらの状況を確認できていなかったようで、以後山城は続行する最上を扶桑だと思い込んでしまったと言われている((このあと、米駆逐艦部隊による二度目の雷撃で山雲が轟沈、満潮と朝雲が大破航行不能となった際、西村提督は状況報告を連合艦隊や栗田艦隊にしているが、山雲らの壊滅の事は報告しているのに、その前に起こっている扶桑の落伍については全く触れていない。また、その後時雨が扶桑宛に「扶桑に続航する」との無線電話(実は時雨は落伍したのが山城、進撃を続けているのは扶桑と勘違いしていた)をしたのだが、それを聞いていた西村が扶桑に対して「出せる最大速力を知らせ」という無線電話をしており(扶桑からの返事はなし)、扶桑は山城の後を続行していると西村らは思っていた事が推察できる))。
--被雷した事で右舷に傾斜しだした扶桑は3時10分(米側記録では3時38分)に%%船体が2つに折れて%%((後述するが海底に沈む扶桑を**レイテ沖での奮闘 [#g651016d]
-呉に戻った扶桑は長期の南方での活動による損傷個所の修理と、機銃の増設などを行っていたが、9月10日付で西村祥治中将を司令官とする第二戦隊が編成され、扶桑は山城と共にそこに配備される。
--実は旧来の第二戦隊は1944年2月25日に第一艦隊の解隊と共にこちらも解隊となっていて、長門の方は直後に大和、武蔵のいる第一戦隊へ編入されたが、扶桑と内地にいる山城の方はそのまま放置?された状態のままで連合艦隊の直轄のようなポジションに置かれていた。その後捷号作戦が立案される中で第五艦隊を基幹とする第二遊撃部隊の主力として配備されたりもしていたのだが、小沢提督の「栗田艦隊の戦力をもっと強化した方が良くない?」という意見具申が通った結果、2隻で改めて第二戦隊を組むことになり、栗田艦隊こと第一遊撃部隊へ編入される事になったのである。
---この時、元々長門も第二戦隊だった事から長門を今いる第一戦隊から第二戦隊へ移籍する話もあった。だがその打診を受けた栗田艦隊と第一戦隊の両司令部から猛抗議((捷号作戦にむけて第一戦隊は3隻体制で連携訓練等して運用法も固まりつつあったなかで、長門を引き抜かれては一から運用法を考える必要があり非常に迷惑、という主張であった))があった事で、この話はなくなっている。
もしこの移籍が実現していたら、後述するスリガオ海峡での戦いに「長門」vs「ウエストバージニア」「メリーランド」というビッグ7同士の戦いが実現してた可能性が高い。
---なお、第二戦隊司令官に選ばれた西村だが、元々軍令部は当時、南西方面艦隊司令部附だった有馬馨少将(戦艦武蔵の初代艦長)を司令官にするつもりで、有馬に内示までだしていた。だが連合艦隊司令部がこれに難色を示して対立((連合艦隊は有馬を南西方面艦隊司令部の参謀長に推そうと考えていた))、その結果有馬は9月10日付で新設された第三十一根拠地隊司令官に補職となり、レイテ沖海戦後の11月に南西方面艦隊参謀長になる一方、第二戦隊司令官に選ばれたのが西村だった。
第二遊撃部隊を指揮している志摩清英中将(当時は第五艦隊司令長官)と兵学校同期であり、既に第四水雷戦隊や第七戦隊といった各戦隊も司令官を歴任していて海上経験では志摩より勝っている西村を、また再び戦隊司令官として前線に送り出す((実は西村は当時第二艦隊司令長官で兵学校では1期上の先輩である栗田健男中将と非常によく似た経歴を持っていて、①艦隊司令長官の役職に就くための登竜門である海軍大学校甲種卒ではない(二人は兵学校卒なら誰でも入れる乙種卒)、②栗田は開戦時第七戦隊司令官だが、前任は第四水雷戦隊司令官で、栗田の後任が西村だった。そして第七戦隊司令官から第三戦隊司令官に異動した際の後任としてきたのが、またまた西村だった。③二人とも前線勤務が長く甲種卒でない事から戦隊司令官を務めれば予備役入りするのが通例のポジションだった。などがあった。だが本来なら艦隊司令長官という親補職につけるはずのない経歴の栗田が第二艦隊司令長官に選ばれている状況であったので、同様に前線勤務が長く、同じような経歴である西村も艦隊司令長官になれる可能性は十分にあり、有馬を始め周囲からも「艦隊司令長官に選ばれてもおかしくない」と思われていた。なお同期の志摩が既に艦隊司令長官になっているのは、彼が甲種卒である事から進級が早いという事情もあった))人事に、有馬は後年「西村中将は志摩中将と同期であり海上の経験は数等上であり今更第二戦隊司令官でもなかったろうが何も運命である。これで余(有馬)は二度目の生命の代りとなって頂いたのであるが、この日の西村中将の風貌が忘れられない。』と述べている。
-9月22日、扶桑は第二戦隊旗艦山城と、第十七駆逐隊の[[浦風]]、[[浜風]]、[[磯風]]、[[雪風]]と共に内地を出撃し、10月4日に到着した。
だが彼らが第一遊撃部隊に合流して間もない10月10日、沖縄を17隻の空母を中心としたアメリカ第38任務部隊が急襲したことを契機に、台湾沖航空戦が勃発する。この状況下、第一遊撃部隊には台湾へ出動する可能性も考慮して臨戦態勢となった結果、扶桑と山城は第一遊撃部隊各艦との連携訓練を思うようにすることが出来ず、これがのちに第二戦隊を分派する決定の一因となる。
--台湾沖航空戦終盤の17日、米軍がレイテ湾口にある小島を占領した事でレイテ侵攻が判明、第一遊撃部隊はブルネイに異動する事になり20日に到着。ここでレイテ湾に突入する最終作戦が決定し、扶桑ら第二戦隊は新たに第一遊撃部隊第三部隊を編成、サンベルナルシノ海峡を経由して侵攻する第一遊撃部隊本隊とは別に、スル海を経由してシブヤン海峡側からレイテ湾を目指す事になる。
---この編成について、従来は扶桑型の低速性が問題視されて分派されたといわれていたが、最近では直近で編入されたために艦隊運動等の訓練がちゃんとできていない第二戦隊を主力と共に連れていくことを不安視しての分派ではないか?とも言われている。
実際のところ扶桑型の速力は24.5ノットに対して、第一遊撃部隊の長門もほぼ同じ速力の25ノットであり、速力を問題視してたのなら長門を主力に残している説明がつかないというのが理由である。
前述の長門の第二戦隊への異動騒動から察するに、速力の問題よりも直近に編入されたばかりで部隊としての練成や運用が定まっていない第二戦隊を別行動部隊として分離したのではないか?と考える方が妥当かもしれない。
---またレイテ湾に分派して進という事自体は連合艦隊司令部も推薦していた作戦であり、同じく第三部隊に編入された駆逐艦4隻はどれも陽炎型、夕雲型よりも古い艦で航続力的に劣るので、サンベルナルジノ海峡を通過する遠回り航路を進む主力と行動するには不安があった。こういった事情も合わさって、最短距離を進むスリガオ海峡ルートが選ばれたという事情もある。
-10月22日15時、第三部隊(通称「西村艦隊」)はブルネイ泊地から出撃してスリガオ海峡に向かった。スリガオ海峡ルートは最短で進める反面敵航空機の哨戒線に真っ先に侵入してしまうのと、行程の最後にスリガオ海峡という狭く長い航路を進まないといけないので敵艦隊の待ち伏せをもっとも受けやすいルートであった。
--戦史好きの中には栗田艦隊全体でスリガオ海峡に進むべきだったという意見をする者もいるが、最も早く哨戒線に入ってしまう事で空襲を長期間受ける危険が高く、スリガオ海峡はレイテ湾のすぐ近くの為敵水上艦隊の展開もしやすい。また海峡の長さもかなりあるので大艦隊でいくと長蛇の列となってしまい、それこそ「T字不利」を長期間受けてしまうので、スリガオ海峡ルートを栗田艦隊全体で進むというのは自殺行為である((史実で栗田艦隊が進んだルートにもサンベルナルジノ海峡があるが、同海峡はスリガオ海峡よりも奥行きはなく、実際栗田艦隊は数10隻で一列で進入しながら1時間で通過できているが、西村艦隊は数隻ながらスリガオ海峡突入から出口付近に到達するまで、戦闘しながらとはいえ2時間以上擁している))。むしろ分派して進んだことで西村艦隊は最も早期に発見されながらも空襲の大部分は栗田艦隊側が吸収したので、空襲は1回のみで済んでスリガオ海峡入口まで無事に到達できたという事実もある。
---扶桑はこの空襲で艦尾カタパルト附近に爆弾1発を受け、航空用ガソリンに引火して火災が発生している。また艦橋右舷の第一カッター・ダービット近くの甲板にも命中弾を受け前部水圧機室で爆発。これによって水圧機室は大破し付近の防水隔壁が押し上げられた事で、中甲板と上甲板の床を突き上げられるという損害を受けただけでなく、副砲一番砲員、弾火薬庫員がほぼ全滅し、医務室士官、前部応急員十数名が即死し被服事務室、厨房事務室が破壊された。このため第1第2砲塔の操作に支障をきたし、被弾の衝撃で浸水が発生し右舷に2度傾斜、扶桑は傾斜しながら進軍を続けることになる。
-海峡に侵入した西村艦隊は先頭を満潮とし、次いで朝雲、山城(旗艦)、扶桑、最上の単縦陣の体制をとり、山城の右1.5㎞に山雲、左1.5㎞に時雨がつく体形だった。
午前3時前、海峡内を進軍する西村艦隊に米第54駆逐連隊東方隊の駆逐艦3隻が闇夜に乗じて接近、魚雷攻撃を仕掛ける。日本側は時雨が発見して探照灯を照射し攻撃するも、米駆逐隊は魚雷を放った後で西村艦隊は接近する魚雷を感知できなかった。
--3時頃、最後尾を進む最上が接近する魚雷を発見して回避行動をとるが、その前を進む扶桑はこれに気づかず、そのまま右舷中央に被雷してしまう。
扶桑はそのまま落伍するが電源系統を喪失したためか無線も電話も発光信号も送ることができず、扶桑は完全に沈黙してしまう。
最上は落伍した扶桑を追い越して旗艦山城の後方に位置するが、どうも山城にはこれらの状況を確認できていなかったようで、以後山城は続行する最上を扶桑だと思い込んでしまったと言われている((このあと、米駆逐艦部隊による二度目の雷撃で山雲が轟沈、満潮と朝雲が大破航行不能となった際、西村提督は状況報告を連合艦隊や栗田艦隊にしているが、山雲らの壊滅の事は報告しているのに、その前に起こっている扶桑の落伍については全く触れていない。また、その後時雨が扶桑宛に「扶桑に続航する」との無線電話(実は時雨は落伍したのが山城、進撃を続けているのは扶桑と勘違いしていた)をしたのだが、それを聞いていた西村が扶桑に対して「出せる最大速力を知らせ」という無線電話をしており(扶桑からの返事はなし)、扶桑は山城の後を続行していると西村らは思っていた事が推察できる))。
--被雷した事で右舷に傾斜しだした扶桑は3時10分(米側記録では3時38分)に%%船体が2つに折れて%%((後述するが2017年に海底に沈む扶桑を調査したところ、船体は分離しておらず艦首部分が大きく右側に曲がっている状態であった))横転。午前5時20分頃に志摩残存艦艇を追撃してきた重巡ルイビルの砲撃により沈没した。
-扶桑の沈没により、艦長阪匡身少将を含む幹部以下乗員の大多数が戦死した。生還者数については戦後しばらくは総員戦死と紹介されていたが、扶桑の第二分隊主砲二番砲塔換装室員であった小川英雄一等兵曹の手記とかが紹介されていくことで生存者もいた事が判明している。
--但しどの程度の人数が生還したのかについては現在でもはっきりとは分かっていない。
同様に沈んだ山城の生還者である江崎寿人主計長は山城と同じぐらい((山城は江崎主計長以下10名が捕虜となり戦後生還している))の生還者が捕虜となったと証言し、小川一等兵曹も似たような証言をしている。
一方で扶桑の生存者7名を10月25日付でマニラ防衛部隊の増援に回している記録((アジア歴史資料センターが公開している資料「一九四四―四五年在比島日本軍兵力(海軍)/附表/第一表 海軍陸上部隊(航空部隊を除き被害艦船乗員を含む)兵力表/二、一九四四年十月十八日以降増援兵力」(レファレンスコード: C14061098700)より。))があるので、捕虜となった者以外にも日本側に収容された生還者が複数人いたと思われる((該当資料にも扶桑以外に山城や山雲、朝雲、満潮の生存者をマニラ防衛の増援で送ったと記述があるので、西村艦隊沈没艦艇の生存者は知られているよりももっといた可能性がある))。但し彼らが送られたマニラはその後凄惨な地上戦の場となったので、これらの方々の殆どはその中で亡くなったと思われる。
-こうして悲劇的な最期を迎えた扶桑だが、海軍籍は戦後まもない1945年(昭和20年)8月31日であるため、書類上は最期まで海軍に籍を置いている扱いになっている。
***沈没時の状況について [#kdd1eade]
-扶桑がどのような状況で沈んでいったかについては、生存者の証言を含めて多くの説があるのだが、2017年に海底に眠る扶桑の残骸が発見されて以降の調査で、従来の説とは異なる事も判明している。
-第2主砲塔の換装室員だった小川英雄一等兵曹は沈む扶桑から奇跡的に生還し戦後証言を残したので、同氏の証言が日本側で知られる扶桑の最期の話の基礎となっている。
--同氏によると扶桑は右45度方向から向かってくる駆逐艦に対して「撃ち方はじめ」の号令をだしたと同時に第2主砲塔右舷に魚雷が命中し、続けて2本目が命中した事で全電源を喪失してしまい、無線も信号も使えなくなってしまったとのことで、不意打ちを食らったわけではないが対応が間に合うまもなく深刻なダメージを受けてしまったらしい。
浸水も止める事が出来ず、自分たちの部署にも浸水が迫ってきたことで小川氏は甲板に出ると、扶桑は前のめりに傾斜していて艦首部は既に水没していた。やがて右舷側に傾きだしたので総員退艦が発令され、小川氏は部下2名と共に海面に飛び込んだが、扶桑中央部で爆発が発生して船体が切断、その衝撃で右に傾いていた扶桑は急速に左に傾いて横転しまだ左舷側の甲板にいた生存者の多くを巻き込んで沈んだ。としてる。
---この時「2ヶ所で炎上して漂う扶桑」の姿は、後続していた志摩艦隊に乗船していた報道班員の手で撮影されており、当時の日本ニュースでも[[放映されている>https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300363_00000&chapter=003]]((但しニュースでは「沈む扶桑の姿」ではなく「日本側の攻撃で炎上する2隻の敵艦」として公開されている))。
---現場にいた小川氏の証言や「2ヶ所で炎上する扶桑」の姿が映像に残っていた事から、「扶桑は大爆発を起こして2つに分断して沈んだ」というのが定説となっていた。だがそれほどの大爆発を起こしたのなら、先を進む西村艦隊にも聞こえていた筈だがそういった証言はなく、前述したように「西村提督は扶桑の落伍を知らなかったのではないか?」ともとれる意見もあり、攻撃した側である米駆逐艦「ハッチンス」の戦闘詳報にも爆発はしていない((但し船体が2つに折れたという事はハッチンスも記録している))という記述があり、本当のところはどうだったのか?わからないところも多い状況だった。
-だが2017年12月、マイクロソフト共同創業者ポール・アレン氏率いる海洋調査チームによって姉妹艦山城や他の西村艦隊艦艇と共に発見、調査が行われた事で扶桑の沈没に至る状況が少しずつ分かってきた。
--発見された扶桑の船体は生存者の証言や米側の報告と異なり分離しておらず、[[ひっくり返った状態で前部1.2番砲塔辺りで右舷側に折れ曲がっていた>https://tse1.mm.bing.net/th/id/OIP.EouMWhFIcDOg-irRhr45BAHaEK?r=0&rs=1&pid=ImgDetMain&o=7&rm=3]]。艦橋は船体から45mほど離れた位置に横倒した状態で残っており、その周囲には細かい残骸が散らばっていたという。
これにより扶桑は実際には船体は分裂しておらず、繋がったままの状態で横転して沈んだ事が判明した。右舷側に折れ曲がっているのは着底時に船首側から海底にぶつかった事で折れ曲がったと考えられている。
--離れて着底していた艦橋については、沈没後に離れたのなら水深100~200mほどしかないこの海域で45mも離れた位置に着底するのは考えずらく、扶桑が横転後「2つに分かれて炎上」していた事は映像で記録されている事から、炎上していたのは「2つに分かれた船体」ではなく「船体と横転した衝撃で分離した艦橋」だったと思われる。
---これらの調査はナショナルジオグラフィ制作のドキュメンタリー番組「仰天!海の底まる見え検証2 太平洋の残骸」2021年7月23日放送回で[[Saratoga]]など他の艦艇と共に紹介されており、youtubeでも公式より一般公開されている⇒[[該当番組(29:30頃より扶桑が扱われている)>https://youtu.be/aHprkLiR_tA]]
**余話 [#e25c863c]
-国の威信をかけて建造された扶桑型への期待は、大和型に懸けられた期待と同等のものであった扶桑なのだが、実は連合艦隊の旗艦になったことが一度も''無い''。[[妹>山城]]は旗艦になったことがあるため、公式四コマでネタにされたこともある。
--だが元々連合艦隊とは戦時に編成されるものであり常設組織ではなかった。これが常設化されるのは1922年12月1日からなので、上記の話はそれ以降連合艦隊旗艦になった事がないという話である。
常設でなかった時期も毎年秋に実施される大演習時に臨時に編成される事があり、その時は第一艦隊司令部が連合艦隊司令部を兼務する事から同艦隊旗艦が連合艦隊旗艦となり、扶桑も1915年12月13日、1916年12月1日、1919年12年1日の3日だけ連合艦隊旗艦を務めている。
---なお山城は連合艦隊が常設へと変わってからも務めたことがある((常設化以後に連合艦隊旗艦となったのは、[[長門]]、[[陸奥]]、[[金剛]]、[[山城]]、[[伊勢]]、[[榛名]]、[[大和]]、[[武蔵]]、[[大淀]]であり、実は[[日向]]や[[比叡]]、[[霧島]]も経験はない))。&color(silver){''なぜ私だけ…''};
--ただ、連合艦隊旗艦はたしかに軍艦としての栄誉ではあるが、当然長官以下えらい人たちが大勢乗り込むから気を使うし、通信量も一挙に増大するなどで負担が急増。しかも
「貴様らは連合艦隊旗艦に相応しい立派な兵隊にならねばならん。しかるに昼間のあのザマはなんだ、ブッたるみやがって!よってこれより気合を入れる!」
といった具合に、往々にして栄誉が制裁の口実に化けて水兵たちに襲いかかった。栄誉と引き換えに、乗員たちの気苦労が絶えない肩書でもあったのである。
---なお、妹の方は常設旗艦経験者だけに訓練の厳しさと制裁の凄まじさで知られ、「鬼の山城」「乗るな山城、鬼より怖い」をはじめに数々のおどろおどろしい二つ名が知られている。
もっとも、こういった手合いの二つ名は程度の差ほどあれ当時の戦艦たちは皆ついており、姉は姉で「鬼扶桑」「蛇の扶桑」などの二つ名で知られている。こういった名は伊勢姉妹、金剛姉妹、長門姉妹と皆が持っており、それだけ戦艦という当時の主力艦での訓練(及び制裁)が如何に苛烈なものであったかを物語っている。
-公式四コマの第22話5ページ目で、頭部艤装(艦橋)がクリスマスツリーに置き換わった%%ツッコミ待ちな%%姉さまが登場した。
その微笑ましい姿に心を撃ち抜かれた提督達から、「クリスマスツリー」というあだ名も新たに頂戴することとなった。
//↓さらに増えそうな場合、下の行に追加していけば冗長にならないと思います。タブン(汗。
また、その後もぼんぼり(公式4コマ第32話)、桜の木(同35、119話)、玉入れのカゴ(同60話)、柊鰯(同114話。柊鰯そのものは28話で登場している)に置き換わっていたりと、今後もあだ名が増えていきそうである。
-[[伊勢]]、[[日向]]は扶桑型の3,4番艦として計画されたが、建造予算の遅れで着工が遅れたのが幸いし、扶桑型の欠点を改良すべく大幅に設計変更されたため、スペックは似通っていながら全く異なる戦艦として誕生した。
--実は伊勢型の航空戦艦への改造も扶桑型にも同様の改装を施す案があり、日向が演習中に砲塔爆発事故を起こして第五砲塔を外していたので、これ幸いと伊勢型が先に実施されたのだが、戦況悪化により扶桑型の改造は見送られた結果、戦艦のまま最期を迎える事になったという経緯がある。
世界情勢の影響を受けていたとはいえ、下の妹達への待遇に対する扶桑の想いは、戦闘時の「''伊勢、日向には負けたくないの…''」というセリフに表れている。
---扶桑と似たような境遇の艦艇は、世界でもいくつか事例がある。テネシー級とか[[ガングート級>Гангут]]とか[[ヴィットリオ>Littorio]][[・ヴェネト級>Roma]]とか…興味のある方は各自ググってみよう。
ってか、戦艦に限定しなければ、すぐ近くに同じ境遇の艦(娘)はいたりする。[[古鷹]]型と[[青葉]]型である。
ただ、古鷹と[[加古]]は彼女らの歳の離れた姉である[[金剛]]((日本海軍の正式な艦種別では、古鷹型は建造時の金剛型以来の一等巡洋艦である。))もかくやの大改装の末、基本コンポーネントは青葉型と揃えられているので、
扶桑のそれほどコンプレックスは強くないのかもしれない。
&color(Silver){もっとも直接実害食らってるのはあっちの方なのだが……。};
-扶桑の慰霊碑は広島県呉市の長迫公園(旧海軍墓地)に建立されており、沈没日の10月25日前後には遺族と有志による慰霊祭が執り行われている。
--慰霊碑の前には赤く塗られた係船柱がひとつ置かれている。これは彼女が大改装工事や修理を受ける際にいつも係留していた係船柱であり、戦艦扶桑を偲ぶ思い出の品として移設されたものである。
[[扶桑の雄姿(着色カラー)>https://www.youtube.com/watch?v=emK2Qn_QBIA]]
-2019年7月5日付で海上保安庁のヘリコプター搭載型巡視船「[[みずほ>瑞穂]]」(PLH-41)の就役により、先代の「みずほ」(PLH-21)が名古屋の第四管区から舞鶴の第八管区へ転籍、それに伴い船名が「ふそう」に変更された。
PLHに「ふそう」の名を使うのは海保でも初で、先代の戦没から75年経って三代目を襲名したことになる。
「ふそう」は2024年3月15日に解役となり、38年の船歴に終止符を打った。
初代の31年、二代目の30年に比べると名跡としてはやや短命であった。%%不幸だわ…%%
-戦艦扶桑・山城と戦艦時の伊勢型は主砲が6基あり艦影が似ていて紛らわしく、甘味処 間宮の展示でプラモデルが取り違えられるという珍事が起きた。&br;しかし三番砲塔周辺に注意すれば見分けることが出来る。その為、分かり易くするために図も同時に掲載する。
#fold(扶桑型三番砲塔周辺図){{
&attachref(./扶桑.png,nolink,扶桑……艦橋の真後ろに三番砲塔。三番砲塔と四番砲塔が煙突を挟みこむ。三番砲塔を前向に取り付けたため艦橋下部がえぐり取られ、今にも倒壊しそうな状態。,50%);
&attachref(./山城.png,nolink,山城……艦橋の真後ろに三番砲塔。三番砲塔と四番砲塔が煙突を挟みこむ。三番砲塔を後ろ向きに取り付けたので、艦橋はえぐれていない。,50%);
}}
--扶桑……艦橋後ろの第三砲塔の砲身が前向き(艦橋側)に配置されている。それにより艦橋の根元が抉れ今にも倒れそうな独特の艦影を形作っている。
--山城……第三砲塔の砲身が後ろ向き(煙突側)に配置されている。
--伊勢型……艦橋後ろに煙突があり、第三砲塔はその後ろに二段重ねに配置されている。
これにより、射撃効率の向上、被弾危険区域の縮小等の効果を得た。
#fold(伊勢型三番砲塔周辺図){{
&attachref(./伊勢.png,nolink,伊勢型……艦橋の真後ろに煙突があり、砲塔はその後ろで二段重ね。三番砲塔と四番砲塔が背負い式なので機関を挟んでいない。,50%);
//元画像:[[いやぽぽ>http://www.sam.hi-ho.ne.jp/t_fukuda/index.htm]]様
-この砲塔の積み方を考えたのは日本海軍だけではなく当時の戦艦としては珍しいものではなかった。
--ここでもう一つ注目して欲しいのは、扶桑型よりも副砲門数が増えたのに、副砲が配置されている甲板が短くなったこと。
実は、この甲板には兵員居住区が配置されているため、その区画が圧縮されたことを意味する。
果たして伊勢型戦艦は、火力・防御力向上の代償に戦艦最悪の居住性という不評を囲うことになってしまった。戦闘力向上の代償に居住性を削るという傾向は[[飢えてる娘>足柄]]のあたりまで続く。
}}
#clear
~
*この艦娘についてのコメント [#comment]
#fold(過去ログ){{
#ls(./)
}}
//&color(Red){''過去ログ化作業中''};
#pcomment(./コメント5,reply,15)