IJN Shimakaze

Last-modified: 2024-11-24 (日) 10:13:43

日本 Rank III 駆逐艦 Shimakaze class, Shimakaze (1944) /丙型駆逐艦 島風

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概要

ランク3の部隊兵器
日本海軍の理想を体現した高速重武装の大型駆逐艦。
61cm5連装魚雷発射管3基15門という圧倒的な雷装と増強された対空火力が特徴。
ぜ か ま し

艦艇情報(v1.101)

必要経費

必要部隊研究値(RP)260,000
艦艇購入費(SL)370,000
艦艇購入費(GE)3,900
乗員訓練費(SL)72,000
エキスパート化(SL)***
エース化(GE)***
エース化無料(RP)***
バックアップ(GE)***
護符(GE)***

BR・報酬・修理

項目【AB/RB】
(初期⇒全改修完了後)
バトルレーティング5.0 / 5.0
RP倍率1.66
SL倍率1.2 / 1.3
最大修理費(SL)4200⇒*** / 3590⇒***

艦艇性能

項目数値
【AB/RB】(初期⇒全改修完了後)
主砲塔装甲
(前/側/後)(mm)
3 / 3 / 3
船体鋼, 16 mm
上部構造物鋼, 4 mm
排水量(t)3400
最高速度(km/h)68⇒90 / 65⇒76
乗員数(人)282

武装

種類名称砲塔搭載基数弾薬数購入費用(SL)
主砲127 mm
Type 3
連装39001
副砲25 mm/60
Type 96
三連装4180007
連装13000
単装710500
対空砲13.2 mm
Type 93
単装11800-

弾薬*1

搭載武装解説ページ(弾薬テンプレート置き場)を開く

艦砲

武装名砲弾名弾種弾頭
重量
(kg)
爆薬量
(g)
初速
(m/s)
信管
遅延
(m)
貫徹力(mm)
100 m1000 m2000 m3000 m4000 m5000 m
127 mm
Type 3
Type 1 HEHE2323109100.428
Type 1 HEHE-DF2323109100.128
 

機銃

武装名ベルト名ベルト内容貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
25 mm/60
Type 96
汎用HEF-T/HEF/
AP-T/HEI
565444373228
APTベルトAP-T/AP-T/
AP-T/HEF
565444373228
HEITベルトHEF-T/HEI
HEI/HEI
565444373228
 
武装名ベルト名ベルト内容貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
13.2 mm
Type 93
規定T/AP/HEI/AP313027242119

追加武装*2

分類名称搭載数費用
(SL)
搭載条件
魚雷610 mm Type 93 Model 315270-
爆雷投射機Type 958100爆雷投射機
魚雷
&
爆雷投射機
610 mm Type 93 Model 315370爆雷投射機
Type 958

魚雷

名称重量
(kg)
爆薬量(kg)水中最大速度
(km/h)
(初期⇒改修)
射程
(km)
(初期⇒改修)
610 mm
Type 93 Model 3
2700998.49115

爆雷

名称重量
(kg)
爆薬量
(kg)
Type 95160100

カモフラージュ

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説明

研究ツリー

前艦艇
派生艦艇
次艦艇(右)
次艦艇(下)
 
 

解説

日本海軍の駆逐艦としては秋月と並び最強格ながらBRは4.3と控えめ。いつぞやのアップデートでBR5.0に引き上げられ、戦艦やフレッチャーなどともマッチするようになった。これまで日本駆逐艦に乗ってきたプレイヤーならば立ち回りや相手を選べば性能を遺憾なく発揮させることができるだろう。

特徴

三文字で例えるならば、早・早・攻といったところ。高初速の12.7cm砲は中・遠距離での砲戦では他国駆逐艦に引けをとらず、ABでは非常に速度が早いので慣れている者は蛇行しながら敵弾を避け、敵に砲撃するという荒業もできる。(必ずしも当たるというわけではないが、相手からすれば80km前後で蛇行運転する駆逐艦はなかなか狙いづらいため、遠距離交戦では蛇行するメリットはある)
煙幕を装備しているため、速度と優秀な操舵性を活かし敵の弾を避けながら接近し、ある程度の距離で15発を流して、煙幕を展開、転舵反転で離脱するヒットアンドアウェイ戦法に長ける。

装甲は言わずもがな紙であり、榴弾すら油断できない。戦闘艦にとっていちばん重要である艦橋の装甲が他の駆逐艦と違わず紙なので注意すべし。万一155mm以上の榴弾の斉射をもろに食らったらほぼ戦闘はできないのでなるべく被弾しないようにしよう。
合計門数21門の25mm機銃を多数搭載しており、秋月に勝るとも劣らない弾幕を張ることができ、低空の敵機には無視できない脅威となる。レートはそこまで早くないものの門数でカバーできる。12.7cm砲は時限信管も使用できるので中・近距離の対空はこなせる。
25mmは初速も早くかつ比較的口径が大きいため、魚雷艇ならある程度乗員の射撃スキルをとっておけば瞬殺できるだろう。相手がグローザのような砲手むき出しの艦艇なら25mmの弾幕で攻撃手段を奪うこともできる。
高高度の爆撃機は言わずもがな対応不可である。(時限信管の射撃を極めればできなくもないが仰角が対空するには低すぎるので真上に敵機が来たら速度を活かして必死に逃げよう)

速度は非常に優秀で操舵性も悪くないため、前述のような蛇行しながら敵に砲撃するという戦法はもちろん、島陰や煙幕を活かして敵の側面に回り込み、横っ腹に一撃必殺の雷撃を叩き込むという裏取り戦法も可能だ。

 

【火力】

  • 主砲
    主砲は従来と同じ3年式12.7cm砲を3基6門搭載している。徹甲弾が無いものの初速が速く遠距離交戦では優秀なので、速度を活かして有利な距離で戦えるように心がけよう。
  • 機銃
    機銃は大幅に強化され、合計21門の25mm機銃と1門の13mm機銃を搭載している。高高度の敵に対しては無力だが、近距離の敵機やボートを撃破するのに役立つだろう。
    また、大口径かつ搭載量が多いため4km未満の至近距離で敵駆逐艦と交戦する際には補助的なダメージソースとして機能しうる。主砲がすべて破壊されるなどしても25mm徹甲弾をバラまけば砲塔や魚雷発射管を破壊する程度なら可能だ。
  • 魚雷
    島風の最も特徴的な武装。次発装填装置こそないものの、長射程高威力の酸素魚雷を一度に15本も発射可能。敵スポーンや敵の通りそうな場所に流してやろう。
    搭載魚雷はゲーム内最強の九三式魚雷三型。戦艦でも被弾すればただでは済まないだろう。
 

【防御】
装甲は特に無いものの乗員はやや多め。
また機関室の配置も優秀で、ボイラーは舷側燃料タンクによりカバーされており、タービンも前後にずらした配置となり一度に両方とも破壊されることが少なくなった。

 

【機動性】
未改修でも68km/h(AB)を発揮可能で移動にストレスを感じることはない。また、会敵するほとんどの駆逐艦より高速なので遠距離戦では有利な位置を保ちやすいだろう。
 
駆動系パーツ全改修により最高速度はABで90km/h、RBで76km/hとなる。

 

史実

島風型駆逐艦の島風(しまかぜ)は、日本海軍が舞鶴海軍工廠で建造した一等駆逐艦。1941年(昭和16年)8月に起工し、1943年(昭和18年)5月に竣工した。

続き

島風型駆逐艦は次世代の艦隊型駆逐艦として新型機関(公試全力7万5890馬力)を搭載、40.9ノット(時速換算約75km/h)の高速を発揮し、重雷装(五連装魚雷発射管3基、15射線)を備えていた。大東亜戦争(太平洋戦争)開戦による戦術の変更や水雷戦自体の可能性の低さ、手間のかかる生産から島風型の量産計画は放棄され、駆逐艦の建造は秋月型駆逐艦や丁型(松型駆逐艦)に移行した。
竣工後、島風は訓練部隊の第11水雷戦隊(旗艦「龍田」)に所属した。6月8日には、戦艦陸奥の爆沈に遭遇した。7月上旬よりアリューシャン諸島方面に進出し、第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)の指揮下でキスカ島撤退作戦に従事した。8月よりかの有名な第二水雷戦隊の僚艦と共に、艦隊や船団の護衛任務に従事した。
1944年(昭和19年)6月中旬以降、大和型戦艦を護衛して渾作戦やマリアナ沖海戦に従事する。一旦内地に戻ったあと、7月上旬にリンガ泊地へ進出し、訓練に従事した。10月中旬以降、捷一号作戦にともない栗田艦隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)に所属してレイテ沖海戦に参加する。10月24日、島風は沈没寸前の戦艦武蔵の救援を行い、同艦に収容されていた重巡洋艦摩耶(前日、米潜水艦により沈没)の生存者約600名を受け入れた。 レイテ沖海戦後、第二水雷戦隊はレイテ島への地上兵力増援作戦(多号作戦)に投入される。第二水雷戦隊旗艦(司令官早川幹夫少将)として第三次多号作戦に従事中の11月11日、島風はオルモック湾で米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、狭い湾内で自慢の速力を活かすこともできずに多数の至近弾と銃撃により僚艦(長波、若月、浜波)等と共に撃沈された。水雷戦のために生まれてきた駆逐艦のあっけない最期であった。
余談だが、この駆逐艦は大和型戦艦の1/20程度の重量にも関わらず、1/2近い7万5千馬力を叩き出す主機が搭載されていた。それによって40ノットを超える速さを実現していたようだ。はっやーい!

戦後

~島風の慰霊碑~
島風の慰霊碑はもとの呉海軍墓地、長迫公園に建立されている。
島風機関長だった上村嵐氏が戦後海上自衛隊呉教育隊の司令だった際、島風の慰霊碑を建立することを思い立った。
しかし当時、呉海軍墓地は大蔵省の所有として中国地方財務局の管理下で、慰霊碑建立は不可能なばかりか手入れもされずに荒れ果てていた。
それ以前にも瑞鶴の慰霊碑を同地に建立しようとする動きがあったが、やはり却下され実現しなかったという。
そこで上村氏は理詰めに感情論にとあの手この手で談判を重ね、ついに「願書を出されたらノーとしか言えないから、黙って建ててください。知らんぷりしますから」との言葉を勝ち取った。
かくして、島風の慰霊碑はどの艦よりもはっやーい!時期に、公然と無断の形で建立されたのだった。
さらに、島風慰霊碑建立の話を聞いた各艦戦友会や遺族会でも続々と呉市役所へ慰霊碑建立の申し入れをしてきた。
それらの話は財務局を経由して上村氏のところへ持ち込まれ、上村氏が「黙って建ててください」と許可を出すような形になってしまった。
かくして呉海軍墓地には呉鎮守府所属艦の一大慰霊碑群が誕生。のちに墓地が正式に呉市に移管されたこともあり、慰霊の園としての整備も進み、現在の長迫公園の姿となったのである。
『島風や 舞鶴レイテ 呉の碑よ』(上村氏が後に詠んだ句)
~受け継がれる島風の名~
「島風」の名前、実は二代目。初代は峯風型駆逐艦の四番艦。初代の島風も当時の日本記録ホルダー(40.7kt)であった。
二代目は「君も帝国海軍最速であれ」と願を掛けて名づけられている。
ちなみに、初代島風が最速を誇ったのは全くの偶然であり、二代目のように最速を目指して建造されたのではない。峯風型の計画速力は39ktだったが、たまたま精度の高い機関が初代島風に搭載されたため、最速艦と相成ったのだ。
日本駆逐艦の最高峰に自身の名が受け継がれ、初代も鼻高々だったかもしれない。
厳密に言えば、公式速度性能で帝国海軍駆逐艦最速は二代目ではなくこの初代島風である。
初代島風は1940年に哨戒艇に改装され「第1号哨戒艇」と改称、さらに強襲揚陸艦に改造された。
この時の改装で自慢の速力は5割減の20ktまで落ちてしまっている。
1943年1月12日、ビスマルク諸島カビエン沖にて米潜「ガードフィッシュ」の雷撃により沈没した。2代目の就役は同年5月のことである。
2代目島風の起工が1941年8月(進水は1942年7月)なので、1年半だけ初代・2代の島風がいたことになる。ただ、残念ながら直接会う機会は無かったと思われる。
旧式駆逐艦を改造して輸送艦に転用することは、アメリカも行っている。機関を半分にする手法まで同じ。
三代目は、1988年に就役した海上自衛隊のミサイル護衛艦「しまかぜ」(DDG-172)、はたかぜ型護衛艦の2番艦。2016年現在、現役である。残念ながら速度性能に見るべき点はなく、最大速は他の護衛艦と同じ30ktである。ちなみに40ktの座は、はやぶさ型ミサイル艇や次期DEXに取られてしまった。
しかしながら、二代目と同様、続く姉妹艦が建造中止になるというジンクスだけは継いでしまった。「はたかぜ」という姉がいるので、ぼっちではないのが救いだろう。
2隻そろって、「あまつかぜ」から長く使用されてきたターター・システムを見ることが出来る、最後の艦艇である。
また、はたかぜ型は主機にCOGAG方式をミサイル護衛艦として初めて採用し、その後の護衛艦の新機軸となった艦でもある。
2021年3月19日、はぐろの就役に伴い練習艦に種別変更、同時にハルナンバーがそれまでのDDG-172からTV-3521に変わった。2024年にはかしまと共に海自では初となるスターリンク衛星による艦内インターネット接続が可能になった。デジタルネイティブ世代に強制ネット断ち数ヶ月、というのは確かに志願者が減る一因ではあろうがそれで一発逆転とは…
2016/10/15・16、自衛隊大阪地本主催の「大阪防災フェスタ」のイベントの一つとしてDDG-172が堺港で一般公開されたのだが、艦娘「島風」のスタンドPOPが甲板に堂々と飾られていた。寄贈品だそうである。艦内備品だそうである。おそろしい。その後12/18のGC1グランプリでも活躍していたらしい!(「しまかぜカレー」スペシャルレシピ付(決して「はっや~いっ!」カレーではない。15時間も煮込むのだそう。))
なお、DDG-177あたごも一般公開の際、艦娘「愛宕」のタペストリーを展示していたのが目撃されている。なお、「愛宕」にも「あたご」にもそれぞれオリジナルのキャラが存在する模様。(これとこれ。)今日も日本は平和です。
余談ながら、海上保安庁「すずかぜ型巡視艇(現:ひめぎく型巡視艇)」にも「しまかぜ」がいる。番号はCL59。所属は第二管区の石巻。
ちなみに姉妹は161隻もおり、その中には「はまかぜ(CL50、第三管区・横浜)」、「はつかぜ(CL73、第二管区・宮古)」、「ゆきかぜ(CL81、第一管区・花咲)」、「さつき(CL119、第十管区・宮崎)」、「すずかぜ(CL11、第一管区・小樽から第五管区・姫路に配置換えに伴い「ひめぎく」に名称変更、その後CL143、第一管区・小樽が再襲名)」もいる。(速力は30ノットだそうだ…。残念!)
東日本大震災では、発災直後に乗組員が「しまかぜ」及び同じ石巻海上保安署所属の監視取締艇に分乗。港内の船舶などに避難を呼びかけつつ、沖合に避難することに成功。その後、不明者の捜索、船舶の曳航救助や急患搬送などで活躍した。

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高速力と強力な雷装、駆逐艦の最高峰を目指して技術の粋を集め、舞鶴海軍工廠で生み出された「駆逐艦版大和」のような存在。
速度の事だけが取り上げられがちだが、島風は高い航海性能・攻撃力・速度・航続距離・経済性など、相反する要素を全て高いレベルで実現しようとした艦である。
島風は一種のテスト艦であり、続く計画(第五次海軍軍備充実計画、通称マル5計画)では改正を加えた準同型艦16隻を建造する構想だった。しかし太平洋戦争開戦により島風のような高コスト艦を量産することは不可能となり、姉妹艦が生まれることはなかった。
ほぼ同時期の乙型駆逐艦(秋月型防空駆逐艦)も大型高性能で高コストだが、こちらは現場から引っ張りだこでしっかり量産されていた。
つまり、高速重雷装駆逐艦という島風のコンセプト自体が時代にそぐわなかった(はっきり言えば時代遅れ)のである。
島風は従来の甲型駆逐艦(朝潮型・陽炎型・夕雲型)と異なり、多数の魚雷発射管で遠距離から魚雷をばらまく先制雷撃というコンセプトを持った丙型駆逐艦(いわば重雷装駆逐艦)である。
しかし、戦術研究と演習の結果、そのような戦術はほぼ不可能ということになったのも、量産されなかった大きな要因になった。
上記、同じような高コストなのに秋月型ばかり量産されたのは、秋月が当時の現場の情勢に合致していた防空艦だったからである。翻って島風の高速・重雷装が必要とされる情勢はすでに過去のものになっていたのである。
姉妹艦がなく、速度差の大きい他艦と隊列を組ませると、衝突事故が発生しかねないため、水雷戦隊所属となってからも駆逐隊には編入されず、就役から沈没までずっと僚艦なしの「ぼっち」であった。
このため能代沈没時や多号作戦など、軽巡を使用できない場合には駆逐艦としては充実した通信設備を生かして第二水雷戦隊の旗艦になることが多々あった。ワンオフなりの使い方もあるにはあるのである。
電探装備が建造中に決定し、通信設備の充実なども行われたため、就役時点で艦橋後部に暗号室が建て増しされている。
彼女の計画番号は125号であり、夕雲型に割り込む形となっているが、これは本来夕雲型の一隻に割り当てられた番号(予算)であった物を試作艦を作るという事で流用したため。
つまり同型艦こそいないが、夕雲型とは遠い親戚と呼べる間柄なのである。ぼっちじゃないよ!良かったね!ぜかましちゃん!
便宜上「島風型」と呼ばれるが、海軍の公式な分類である艦艇類別等級別表おいては単に「島風」と記載され、「島風型」という型式は公式には存在していない。
竣工時は練成部隊である第十一水雷戦隊に配属。この当時は龍田が旗艦を務め、ハブられた第三次ソロモン海戦で戦没した暁を除く第六駆逐隊も所属していた。
初陣はキスカ島撤退作戦。木村昌福少将に特に請われての参加となった。
請われた理由はもちろん逃げ足の速さ……ではない。
当時最新鋭だった島風は、竣工時から濃霧でも索敵できる二号二型電探と三式超短波受信機(逆探知装置)を搭載していたから。作戦中はまずまずの作動を見せた模様。
木村少将はこの島風を旗艦として用いる意向を持っていたようで、通常の駆逐艦より通信設備を充実させている。
艦これで島風の参加が必要とされる初めての編成・出撃任務が、このキスカ島撤退作戦をモチーフとしているのも粋な演出といえる。
キスカ撤退作戦では島風は警戒艦という位置づけで撤退する陸兵は乗せていない。
この作戦において、第二十一駆逐隊の司令駆逐艦・若葉が駆逐艦初霜との衝突事故で後退したため、この駆逐隊の司令駆逐艦も兼務*6。その最期まで続く彼女の代理旗艦艦生は、初陣より始まっている。
この作戦中、彼女は部隊の総旗艦だった阿武隈が敵艦と誤認した「島(岩礁)」に向けて阿武隈と共に魚雷を発射、全弾命中。これが皮肉なことに、五連装酸素魚雷発射管3基15門という強力な兵装が挙げた唯一の「戦果」だった。
ただし、キスカ島の陸軍部隊においても米艦の存在が確認されており、島風の電探が探知していた目標が米駆逐艦だった可能性は否定できない。
1943年9月2日、訓練中に演習用魚雷を駆逐艦響に命中させ、響はスクリューを損傷。魚雷の命中率はかなり高い。
~南方進出~
書類上は1943年7月10日付で「栄光の第二水雷戦隊」に配属されているが、キスカ島撤退作戦のさなかである。北方部隊の指揮を離れたのは作戦後の8月3日である。
作戦後は呉に戻ってきたものの、しばらくは訓練やテストなどに追われ、南方へ進出するのは9月15日になってからである。そのときの相棒は長波。
当時、ソロモン方面では熾烈な戦闘の連続だったが、艦隊を組みづらい島風は最前線には投入されず、船団護衛をもっぱらとして内地とラバウル・トラックを往復して過ごしている。
「日本油槽船史に残る名船」と謳われた出光の優秀タンカー、日章丸の護衛にも就き、1944年2月25日には日章丸の最期を看取ったのであった。
護衛を終えて横須賀に11月15日に帰投したが、このときに巡航タービンが故障した。
このときは予備部品がない!修理に2ヶ月かかるかも!?と、第二艦隊を巻き込む大騒ぎになってしまった。
島風は閑職で干されてるのか期待されているのかよく分からない扱いだが、26日には修理完了、また船団を護衛してトラックへ出航。
レイテ沖海戦では、常に艦隊の先頭を進み抜群の機動力を持って護衛に活躍する。ここでも敵潜水艦を撃退…張り切りすぎて燃料が切れかける。
なお同海戦中、サンベルナルジノ海峡を突破する際に秋霜と衝突事故を起こしてたりもする。
島風が岩礁を敵魚雷艇と誤認し、「敵見ユ、敵見ユ」と連呼しながら転舵。艦隊が色めき立って混乱するなかで、逆方向に舵を切った秋霜とごっつんこしたのだった。
極度に狭く潮流の速い危険地帯を闇夜に24ノットの高速で強行突破している最中であり、ほとんど何も見えないうえに極度の緊張状態。
加えて緊急事態につき全員前方しか注視しておらず、お互い他所見運転状態で舵を切った……と、やむを得ない状況ではあった。
島風は左艦首、秋霜は右艦首とスクリューを損傷した程度で軽微な被害だったが、秋霜は後の突撃中に傷口が開き漏水し始め、慌てて応急作業する羽目になってたりもする。
~第三次多号作戦~
1944年10月26日、能代の沈没にともない、栄光の「華の二水戦」旗艦に指定され将旗を継承した。
島風が駆逐艦でありながら旗艦に選ばれたのは、居住施設や通信設備など、他の従来型駆逐艦と異なり水雷戦隊のリーダーとしての設備を備えていたからだった。
(二水戦旗艦を駆逐艦が務めた例は長波や霞など他にもあるが、これらは基本的に臨時旗艦である)
しかしその後間もなく、11月11日に島風は戦没することとなったため、二水戦旗艦であったのは僅かに16日間だけであった。
第三次多号作戦が最後の作戦参加となった。相手は約300機を越える敵機の大編隊。迎撃の四式戦 疾風30機と駆逐艦5隻の防御砲火では、歯が立つはずがなかった。
船団に襲いかかった敵機群は輸送船泰山丸、三笠丸、西豊丸、天昭丸を瞬く間に全船葬り去ると、次に護衛艦艇へその牙を向けた。
その中、島風は誘爆防止のために対空戦闘突入に先駆けて搭載魚雷を全弾投棄後、第二水雷戦隊(二水戦)司令官早川幹夫少将の将旗を掲げ疾駆した。
大型でひときわ目立つ先頭艦の島風には、最初から攻撃が集中した。狭いオルモック湾内にもかかわらず、彼女自身の言う「疾きこと、島風の如し」に違わぬ屈指の速力と的確な操艦で雷爆撃を全弾回避し続け奮戦する。
しかし数多の至近弾の弾片、さらに雨霰と叩き込まれる機銃掃射は回避のしようがなかった。
船体を縫う機銃弾の嵐により砲塔や機銃群は次々に沈黙、機関室から艦橋への伝令すら到達できない有り様で、艦内外は遺体と重傷者に埋め尽くされた。
早川司令官も「他の艦はどうか、頼む」の言葉を最期に直撃弾を浴び肉片となって四散。二水戦幕僚や艦首脳部も重傷の上井艦長や松原先任参謀、鈴木機関参謀を残し殆どが戦死。
蜂の巣と化してゆく船体は応急修理も間に合わず浸水が増大し続け、蒸気管も破れスチームが噴出し機関出力は急速に低下、ついに航行不能に陥った。
この敵航空機による機銃掃射の凄まじさは、救助に駆けつけた朝霜が接舷を断念するほどであったという。
最期はオーバーヒートした機関が爆発、艦体後部からオルモック湾に没していくという壮絶なものだった。時に、1944年11月11日17時30分。
行動不能になった後、総員退艦命令が出てからの爆発であり、意図的に空焚き状態にしてあったものと思われる。
この時「仲が良い」長波も全弾を撃ち尽くすほどの奮戦の末、同時に沈没。同じ海に眠っている。
二水戦司令官として島風とともに戦死した早川幹夫少将(戦死後中将)はかつて初代島風にも乗艦し、第二次上海事変に参加。
そして艦橋への中国軍の銃撃により重傷を負った過去がある。島風とは不思議な因縁のある人物と言えよう。
島風最後の艦長である上井宏少佐(兵学校51期)はかなり短気な性格で、「邪魔だ!」「どけ!」などと怒鳴りつけ、回りの兵を突き飛ばしながら甲板から艦橋に上がったなどの逸話を持っている。
「あれじゃウワイヒロシじゃなくコワイヒロシだ」と陰口を言われたり、部下の中には「俺は艦長と仕事以外では絶対に口を利かん」と宣言する者すらいたという。
しかし巧みな操艦術と戦闘に強い一面も持ち、文字通りの豪傑だったと言われる。オルモックでの奇跡的な回避技術もこの人のおかげなのかもしれない。
オルモック湾での戦闘で負傷したのち、艦を脱出するときには弱気になり艦に残ることを主張したが、「いつも威張ってるくせになに言ってるんだ」と部下にやり返され、カッターに担ぎこまれたという。
戦後は高校の教員となったが、そこでもコワイ先生であったと伝えられている。
~オルモック 極限な生存者たちの戦い~
島風沈没後の話として上井艦長(重傷なので機関長が代理指揮)、上村機関長など21名がカッターで脱出し、途中で不時着した特攻隊員1名を救助している。
そして漂流すること10時間、オルモックのイビル地区に上陸し、そこで長波・若月の生存者と遭遇、長波の艦長とも再会した。
しかし、米軍の艦砲射撃、航空機、魚雷艇などの攻撃に連日悩まされ続け、アメーバ赤痢にも感染し、最後に死に花を咲かせるため夜戦の斬り込みを決意する。
陸軍の第三五軍司令官鈴木宗作中将に上村機関長が代表して軍刀か何か武器を貸して欲しいと頼んだところ、
「陸の戦いは我々に任せてくれ。君たち海軍は海でしっかり戦ってくれ、頼む」と鈴木中将は答え、上村機関長は感動し、防空壕を掘って決戦にそなえた。
その後12月2日に救援の船団(第7次多号作戦でやってきた桑・竹ら)がやってきて、それに乗ってマニラに帰投した。

 
島風型駆逐艦
1島風-

小ネタ

消える連装砲ちゃん
Raining Fireで来た、島風ちゃん。しかし、大事な大事な2番砲塔の連装砲ちゃんが行方不明になった。その連装砲ちゃんがあったところには25mmの3連装が2基...
そんな2番砲塔の連装砲ちゃんは行方不明だったとこを運営に発見され、元の姿に戻されたさ。めでたしめでたし。 (実話です)

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*1 爆薬量はTNT換算
*2 爆薬量はTNT換算