三式戦 飛燕

Last-modified: 2020-04-17 (金) 12:55:02
No.176
weapon176-ni.png三式戦 飛燕陸軍戦闘機
装備ステータス
火力雷装
爆装対空+8
対潜索敵
対爆+1迎撃+3
戦闘行動半径3
装備可能艦種
駆逐艦軽巡洋艦重巡洋艦戦艦
軽空母正規空母水上機母艦航空戦艦
備考
開発不可、改修可
全ての艦娘に装備不可、基地航空隊にのみ装備可能
2016年春イベントE-4甲作戦、E-5乙・丙作戦突破報酬
2016年夏イベントE-2乙作戦突破報酬
2016年秋イベントE-1丙作戦突破報酬
任務「戦闘機隊戦力の拡充」選択報酬
改修更新
三式戦 飛燕*1 三式戦 飛燕一型丁
かの国で開発された液冷エンジンを参考に開発された、液冷エンジンを装備した陸軍戦闘機、三式戦「飛燕」です。
残念ながら信頼性に難があり、その実力を十分に発揮できませんでしたが、万全な状態であれば高い潜在力を持っています。

ゲームにおいて

  • 2016年5月3日アップデートで実装された新装備で、艦これ初の「陸軍戦闘機」。
    現在の入手方法は2016年春イベントE-4甲作戦、E-5乙丙クリア報酬のみ。
    • 2017年4月28日までは雷電と同じ局地戦闘機に分類されていたが、29日の一式戦の実装と共に上位機種共々新設された陸軍戦闘機カテゴリに再分類された。
    • 艦娘には装備できず、基地航空隊にのみ装備可能。
    • 艦娘は問わず装備画面で「・・・」(その他)、または【全装備】を選択で装備ロック/ロック解除が可能。
      この他に、基地航空隊への配備の際、艦娘の装備と同様の方法でロックする方法もある。
    • 廃棄画面では最後尾、洋上補給二式水戦改などの後にある。
    • 同日のアップデートでは用途が同じ雷電やネームド機である三式戦 飛燕(飛行第244戦隊)も実装されている。
    • 2018年12月7日にようやく恒常の入手手段が実装されたが、よりによって1回きりの報酬選択肢が【烈風 一一型三式戦 飛燕2機・Spitfire Mk.I 2機】というラインナップ。
      • 同日、明石改修工廠にて、あきつ丸春日丸/大鷹のサポートで改修→三式戦 飛燕一型丁への更新が可能となった(新型航空兵装資材が1個必要)
        ……ですから提督殿……改修に零戦21型と32型を使うのには、陸軍である自分の心が痛むと申し上げたはずです……飛燕の発動機には自信があるのです……
  • 2016年8月12日アップデートでは、改良版である三式戦 飛燕一型丁が実装された。
  • 艦上戦闘機に比べ対空値が低い代わりに対爆、迎撃というパラメータがついている。
  • 詳しい使用方法は基地航空隊を参照。
    • 「出撃時」の制空値*2は対空+12.5相当と烈風 一一型よりも僅差で高く、「防空時」の制空値*3は対空+13相当。
    • 足が短いものの、下位機体としては破格の性能を持っている。同じ半径3の紫電一一型は改修可能だが★MAXでも出撃値でこの機体に届かない程である。

性能比較表(装備最大値/局戦・陸戦早見表/テーブルより転送)

No名称火力対空索敵対爆迎撃装甲対空値
(出撃時)
対空値
(防空時)
戦闘行動半径配置コストボーキ
消費*4
入手方法改修備考追加
175雷電65291826108任務、イベント、ランキング-編集
201紫電一一型81119.51136108、ランキング編集
202紫電二一型 紫電改913213.51446108改修、ランキング-編集
263紫電改(三四三空) 戦闘30111242171946108イベント-編集
333烈風改10621132449162イベント-編集
334烈風改(三五二空/熟練)1173115.52849162イベント-編集
350Me163B292201472ランキング、イベント-高高度局戦編集
351試製 秋水282181472ランキング、イベント-高高度局戦編集
352秋水393211472ランキング、イベント-高高度局戦編集
354Fw190 D-92123316.52138144イベント-編集
176三式戦 飛燕81312.51337126任務、イベント編集
177三式戦 飛燕(飛行第244戦隊)934151947126イベント、ランキング編集
185三式戦 飛燕一型丁92313.51647126改修、イベント、ランキング編集
218四式戦 疾風101111.51357126イベント-編集
221一式戦 隼II型62986472、イベント、ランキング編集
222一式戦 隼III型甲171311.5126472改修、イベント、ランキング編集
223一式戦 隼III型甲(54戦隊)2811312.5137472イベント、ランキング-編集
225一式戦 隼II型(64戦隊)11111518.5187472イベント、ランキング-編集
250Spitfire Mk.I17218.5124590任務、イベント編集
251Spitfire Mk.V193212175590改修、イベント-編集
253Spitfire Mk.IX(熟練)11024161846108イベント-編集
  • 濃緑色は局戦薄緑色は陸戦
  • 火力および装甲の効果は不明
  • 艦載機との制空値比較はこちらの表を参考のこと
  • ウグイス色は出撃時対空値空色は防空に関連する数値

小ネタ

  • 元ネタは大日本帝国陸軍が1943年に制式採用した戦闘機である「三式戦闘機」。試作名称は「キ61」。設計者は土井武夫技師*5。連合軍によるコードネームは「Tony」。
    • この機体の呼称として有名な「飛燕」はいわゆる愛称であり、海軍の「紫電」や「烈風」などとは異なり正式名称ではない。が、愛称があったほうが国民からの印象も良いとされ、一式戦闘機以降の機体は多くが愛称を持っている。
    • 連合軍コードネームの「Tony」は、当初米軍がイタリア空軍のマッキMC.202『フォルゴーレ』*6のコピーだと思い込んでいたかららしい。ちなみに、「Tony」はアメリカではイタリア系移民の典型的な名前なんだそうな*7
    • 「和製メッサー」と呼ばれることもあるが、遠目で似ているBf109と発動機以外での設計での共通箇所は殆ど無い
      公式四コマ127話でもあきつ丸の「和製メッサーシュミット」との言葉に、Graf Zeppelinは「似ていると言えば似ている気もするが……」と口を濁している。

構想と開発

  • 1940年に川崎航空機に試作発注された、液冷発動機「ハ40」を搭載する軽戦闘機「キ61」が本機の原形である。
    • ハ40は盟邦ドイツの傑作発動機「DB601A」*8のライセンス生産品である。製造は川崎航空機。
      • 液冷発動機を搭載した場合、空冷発動機よりも機体断面を小さく押さえられる。空気抵抗を減らせ高速戦闘機に向いているとして陸軍は過去にBMW水冷発動機のライセンス生産をさせるなど、積極的に液冷発動機特化メーカーとして川崎を育成しようとした経緯がある。
    • 以前から生産していたBMW系の出力向上に限界が見えたために、DB601のライセンスを取得し川崎に製造させたところまでは自然な成り行きだったが……このハ40が問題児となる。
      詳しくは後述するが、三式戦の高性能を支えたのも、足を引っ張ったのもこの発動機であった。

ハ40の悲劇

  • ドイツで開発されたこの発動機は、その技術力をフルに生かし軸受けはローラーベアリング*9、燃料はキャブレターではなく直噴式*10と凝りに凝った仕組みであった。その細やかさに日本の工業技術はついていけなかったのである。
    • 戦争によりドイツ製の工作機械を新たに入手するのはきわめて困難になってしまった。そのため各種部品の精度は公差で1桁から2桁、つまり10倍から100倍ほども仕上げが荒いものを使わざるを得ず、軸受けは焼きつきを起こし燃料噴射ノズルの検査合格率はたったの5%という有様だった。
      • ただし、実際にはインジェクターの方がキャブレターより本来要求される精度はずっと低い。当時特に問題になっていたのは燃料ポンプである。
      • 燃料直噴式は各シリンダーに均等に燃料を供給できるため爆発力のアンバランスや異常燃焼が起きにくく、また姿勢による影響を受けないため戦闘機用エンジンの燃料供給装置として向いている。ただ、各シリンダーに燃料を送り込むポンプの構造が複雑で、特に調整は専用の試験機がないと困難だった。燃料ポンプの不調は発動機故障に直結し搭乗員の生命を脅かすものであるため、前線の整備員はなによりも恐れていたという。
      • ちなみに燃料噴射装置自体は製造元のボッシュ社がライセンス許可をくれなかったので、三菱で熱田(彗星の発動機)用に製造していたものの設計を流用した。あれ?アツタの噴射装置って無断コピーじゃなかったっけ?*11
    • ここに追撃して来るのが希少金属の欠乏。陸軍の命令でニッケルを使えなかった川崎は、仕方なく代用金属でクランクシャフトを作ったが強度がまるで足りていなかった。ドイツでもニッケル不足によりクロム・モリブデン鋼に処理を施して強度を上げていたのだが、日本ではそこにも及ばなかった。
      • ハ40では高周波焼入れや浸炭処理で強度を上げようとしたが不完全で、表面しか硬化しておらずやっぱり強度は足りなかった。
        アツタは高周波焼入れに加えて従来の高温焼入れを超長時間施すことである程度改善を見た。この為生産は隘路になったが、完成品は空冷と同じくらいの信頼性を持つことに成功。アツタでシャフト折損が問題にならなかったのはこの為である。
    • トドメをさしたのが熟練工不足である。戦況が不利になるにつれ工員も徴兵されていったが、工員の技術力でなんとかギリギリをいっていた日本の工業は以降瓦解する。
      • 米国では機械工作でできた部品がピタリと嵌まったが日本では工員がやすりがけをしている────というのは有名な話*12であるが、そのやすりがけをしていた熟練工さえ徴兵でいなくなり、組み立てをするのは素人同然の新人や勤労学徒だった。当然加工精度は更に落ち、ハ40に限らず戦争後期の新型兵器はカタログ上は高性能でも実機は満足に動かない、といった状況が多発するようになっていった*13
      • と、まあとかくなんでも熟練工不足のせいにされがちであるが、当時の日本も人間の能力に頼りきった体制は問題にしており、開戦の時点でも割に機械化が進められている。ではなぜ戦争末期の日本工業がズタボロになったかといえば、資源不足と本土空襲が本格化したため。いくら自動化しても、機械を壊され、燃されてはどうしようもないのだ*14
  • しかしハ40が満足に働けなかったのは製造元のせいだけではなく、整備側にも問題があった。
    • そもそも太平洋戦争時の日本軍全体で液冷発動機を搭載しているのは海軍では彗星、陸軍では九八式軽爆撃機や本機ぐらいなもの。整備兵の多くは液冷には不慣れであった。そのことも稼働率の低下に拍車をかけていたとされ、実際整備に力を入れたいくつかの部隊では7~8割という高い稼働率を維持できている。

  • もうひとつの同盟国イタリアではアルファロメオ社がDB601Aaのライセンス生産を行った。
    しかもこちらはアツタやハ40と違いきちんと良品を送り出している。まあ陸続きだし。
    • が、こちらはこちらで問題があった。アルファロメオのエンジン生産能力が低すぎたのだ*15。モノは良くても肝心の生産数が月産50基ちょいでは流石にどうしようもない。
      結局エンジン生産量の低さがMC.202生産の足を引っ張り続け、これに懲りたイタリア空軍は改良型のDB605のライセンス生産する際、大量生産を行えるフィアット社に発注したのだった。
      • 最初はドイツからDB601Aを輸入して据え付けるつもりだったが、ドイツ側に「自国の機体でも使用する上に輸出できるほどエンジンの生産に余裕は無い」と回答されたため、自分たちでライセンス生産を行う事に。こちらも初期は製造に苦労した模様。

「ライセンス料を2社分払った」話

  • 愛知の熱田、川崎のハ40それぞれを語る上で必ずといっていいほど出てくるのが「ライセンス料を2社分払った」話。チョビ髭のオヤジが「日本の陸海軍は敵同士なのか?」と笑った、などとマコトシヤカに囁かれているが……
    • 実際のところ、資本主義経済において複数の会社である製品のライセンス生産を行うときは、製造する会社の数だけライセンス契約が結ばれるのが常識である。
      • 例えば米B-17では開発元のボーイングの他にダグラス、ロッキード、マーチンの3社でライセンス生産を行った。納入先は全て米国、もとい米陸軍だが、ボーイングは3社分のライセンス料を受け取っている。
    • また、愛知も川崎もそれぞれの需要を完全に満たすことはできなかったから、2社の契約は必要だったといえる。
    • つまり、愛知と川崎が別々にライセンス料を払った、という話に微塵もおかしい点は無い。ついでに言えば、ヒトラーの発言とされるアレも、実際にあったことなのかは不明なのが実情。後世の誰かの作り話の可能性も十分にある
  • ちなみに、ナチスの経済政策は民有資本は認めつつも、政治側で有望と判断した企業を積極的に育てて行くという、どちらかと言うと共産主義経済に近いものである*16。現在においては、ナチスの経済政策は非主流派マルクス主義と言われている。一方、日本は戦時統制はかかっていたとはいえ、そもそも資本主義経済が憲法で保障されていた。
  • キ61では陸軍は「軽戦闘機」を要求したが、開発陣は「中戦のつもり」で開発している。
    • 従来、陸軍の戦闘機の開発方針は、高速力と重武装、上昇力で相手を選ばない「重戦闘機」と、軽武装に留め格闘性能と水平速度を追求し対戦闘機に特化させた「軽戦闘機」の二本立てであった。
      しかし将来の敵機の強化を見越し、キ61以降は軽戦闘機も口径12.7mm以上の「機関砲」の搭載が要求されるようになる。
    • そして試作機は590km/hと予想以上の高速力、優れた旋回性能・高高度性能を発揮し、陸軍の次期主力戦闘機として戦力化が急がれることとなった。
      特に重戦闘機「キ44」(後の二式単座戦闘機「鍾馗」)より高速だったことから武装強化がすぐさま計画され、結果的に重戦闘機化*17が行われることになった。
      • ちなみに1943年の開発要綱では「軽戦闘機/重戦闘機」の区分はなくなり、従来の重戦闘機をベースとした「近距離戦闘機/遠距離戦闘機」に分けられている。
  • 三式戦飛燕ことキ61には、兄弟機とも言うべき重戦闘機キ60がいた。
    メーカーは川崎、発動機はハ40、設計主任は土井技師とキ61とまったく同じで、試作機は1941年3月に初飛行。キ44と比べ速度と操縦性で優れていたものの加速と旋回で劣り、残念ながら不採用となった。
    あとを追って12月に初飛行したキ61には速度さえ抜かれてしまい、最終的にキ60はキ61誕生のための叩き台として一生を終えた。

機体について

  • 機体は高速で機動しても空中分解しないように、かなり頑丈に設計されている。
    • 主翼は全幅12m、アスペクト比7.2という細長いものを採用している。これは高高度性能を確保するためだったが、細長い主翼を支えるために左右を貫く箱型の主桁を用いる変わった方法が採られた。
      • この主桁を芯にトラス構造になった主翼はとても頑丈で、荷重試験で15G相当*18の負荷をかけても壊れないほどだった。そのため装備追加で重くなった機体も十分に支えることができ、改設計のスムーズさにも貢献している。
      • ただこの数字に実用性があるのかと言う話にもなり、土井技師は軽量化案を提出していたが最終的に十分な性能が得られたので見送られている。
        しかしこの反省はどこへやら、戦後YS-11開発に参加した土井技師は同じことを繰り返す*19
      • ちなみに旋回性能を左右する重要な数値である翼面荷重だが、格闘戦向きの一式戦より大きく、一撃離脱向きの二式単戦より小さい147kg/m^2となっている。ここからも「中戦闘機」としての設計が伺える。
    • 胴体は液冷発動機のために幅の狭いものとなり、機首もなめらかに仕上げて空気抵抗の軽減を狙った。機体構造をなるべく一体化し強度向上と軽量化を狙った他、量産性を考慮しブロック工法とも呼べる手法を採用、生産性の向上に成功している。
      • 発動機を載せる発動機架は鉄パイプの溶接構造が主流だったが、三式戦では機体と一体のセミ・モノコック構造とした。そのため従来より強度が上がり、前述の主翼構造とあいまって降下制限速度の引き上げに貢献した。
    • これらの工夫の結果、急降下制限速度は850km/hとなった。低すぎない翼面荷重と相まって急降下が楽に行えたため、降下離脱しようとする連合軍機に食いつける数少ない日本戦闘機になった。
      • ちなみに速度計は当初750km/hまでのものが取り付けられていたが、あまりに壊すので(急降下の加速で針が振り切れた)1000km/hまで測れるものに取り替えたとか。音速を突破したとかいう話もあったり。*20
  • あまり知られていないが、三式戦はカタログデータでは零戦に匹敵する航続距離を持っている。
    • 両主翼内と胴体内に合わせて820l、増槽を足すと1220lとなり、航続距離は3200kmに及び陸軍戦闘機の中では突出た性能だがこれは長距離輸送ぐらいにしか使えないのであった
      • 飛燕は胴体内タンクに燃料があると背面飛行時に回復不能の水平錐揉みに入る質の悪い飛行特性があり、戦闘時には胴体内タンクは絶対に空である必要があり、燃料の使用する順番は胴体タンク、増槽、翼内タンクの順であった。戦闘開始時に増槽を切り離すので、空戦と帰りで使える燃料は翼内タンクの分だけであり、これが飛燕の行動半径の限界を決めた。ある部隊では行動半径を550kmとしていたのである。
      • なおパイロットの背面にある燃料が空になった胴体タンクにはガソリンの蒸気が充満しており、被弾したら大炎上するためニューギニアのパイロット達はカチカチ山と芳しくないあだ名で呼んでいた。
      • 大容量の胴体タンクがあっても結局は無駄であり、また被弾の際に危険すぎるため現場は撤去を求めたが、航空本部は航続距離が減ると反対、撤去はしないが胴体タンクを50lに減らすことになった。
  • 前述のとおり、三式戦はそれまでよりも火力面で強化されていた。
    • 甲型では7.7mm機銃2門と12.7mm機銃(ホ103)2門であるが、これはホ103の信頼性と生産にまだ不安があったため。
    • 乙型ではホ103を4門になる。ここで計画時の火力が実現したわけだが、これは当時の主力戦闘機としては並であった。
    • そして丙型は有名な「マウザー砲」装備型である。詳しくはこちらに譲るが、マウザー砲の高火力で連合軍機に対して猛威を振るった。
    • しかしマウザー砲は輸入品であり、国産化もできなかったため輸入分を使い切った後はそれ以上の増備は不可能だった。そこでホ103の口径を20mmに拡大した「二式二〇粍固定機関砲(通称「ホ5」)」を開発、機首の2門をこれに置き換えたのが丁型である。マウザー砲の薄殻榴弾ほどではないものの高い威力を発揮し、捩れやすい主翼から胴体に位置が変わり命中率があがったとも言われる。
      ホ5の一番の特徴は国産20mm機銃で唯一機械式同調装置を使えたこと。この為モーターカノン用の中空軸プロペラシャフトを採用していない本機でも機首に搭載することができた*21
      • 但し、胴体の延長や重量バランスを調整するためにバラストを搭載したせいで丙型より自重が250kg増え、速度や運動性はさらに低下することになった。一方で、主翼にかかるモーメントが少なくなったため丁型の方が振り回しやすかったと回顧する搭乗員もいる。台湾防空戦で活躍した飛燕はこの丁型だったと言われている。
    • 発動機をハ140に換えた二型は、装備は一型丁と同様だが弾薬数が倍近く増加している。
  • 陸軍機全般の特徴として、海軍より比較的防弾装備が充実していることがあげられる。
    • 紙といわれる零戦や一式陸攻にもそれなりの理由があるのだが、やはり実戦ではあるとないとでは大違いであった。
      • しかし、43年末からは海軍機も多少は防弾装備を施すようになり陸軍機だけの特徴とは言えなくなった。
    • 三式戦一型甲の防弾装備は燃料タンクに防漏ゴムとフェルトが貼られているだけだったが、乙からは防弾鋼板の追加やゴムの増厚、自動消火装置搭載などが行われ米戦闘機の機銃に対抗していった。
      • 戦後の米軍調査によれば「こんなの気休め程度」とのこと。しかし無いよりはマシ。
      • そもそも12.7mmの時点で戦闘機に施せるレベルの防弾設備では貫通を完全に防ぐことは不可能であり、米軍機も一部を除いて7.7mmクラスを防げればいいとしている*22*23
        これは開戦当初の主力機銃が7.7mmだったためだが、結果的に弾片や高射砲による死傷を減らせている。「将来は弾丸の威力が上がるから防ぎきれない」という予測は正しかったが、「だから防弾を無くす」という海軍の選択は最善策とは言いがたかったといえる*24

  • 1942年秋に陸海軍戦闘機や鹵獲機を集めて行った性能比較では、多くの機体に対して速度と旋回で勝っていたという。海軍のテストパイロットからは、「前方視界と上昇力以外は概ね良好」と悪くない評価を貰っている。
    • が、この上昇力が本機のネックとなった。長距離侵攻を行う爆撃機の護衛に就くには機体タンクはもちろん満タン、場合によれば増槽もブラ下げていく訳だが、そうして鈍重となった機体は護衛対象である「燃料爆弾満載の」爆撃機についていくことすら難しいほど上昇力が弱かった。そうでなくても高度6000mまで8分以上かかり、邀撃戦でもデメリットとなった。
    • 実戦に投入されたころには速度の優位も無くなり、日本機としては旋回性能に劣る本機は連合軍戦闘機には苦戦を強いられている。
      米軍側から見ても、やや優れた急降下性能以外、速度・上昇力・旋回性能・防弾性能・火力等いずれの性能も中途半端な飛燕との戦闘を米パイロットの多くが好み、「最も落としやすい日本戦闘機」との酷評すらあった。

戦績

  • さて、陸軍の期待を背負って生まれた三式戦闘機だったが、そのデビューは決して華々しいものとは言えなかった。
  • 1943年のニューギニア戦線から実戦投入されたが、まだ初期不良を消化しきれないうちに戦力化したために故障で脱落する機が続出、さらにはハ40の故障や冷却機の油漏れなどで稼働率もきわめて低くしばらくは不遇に甘んじた。
  • ニューギニアに於いてはP-40に対しては優勢、P-38とは互角に戦えていた*25という。しかし稼働率の低さと日本機共通の無電の低性能のために苦戦は続く。

無線機くらべっこ

  • 無線機に関してはドングリの背比べ的なところもあるが、概ね陸軍の方が海軍よりも高性能……とは言いがたいが、所定の性能を維持できたようである。
  • 無線機の構造はほぼ同じなのだが、仕様に違いがあった。
    • 陸軍は出力、整備性、操作性に、海軍は消費電力、音質、重量にそれぞれ重点を置いていた。
      そのため海軍の無線機は陸軍と比べ音質が良く、消費電力も控えめで、発電機も含めた重量が小さいものの、整備がしにくく、消費電力低減のための仕掛けが故障を誘発していた。ちなみに陸軍の無線電話はデカい発電機を積んで送信機受信機両方入っていても問題ないようにしてある。
    • また、海軍の無線電話機は基本的に移動局では当然のPTTスイッチ方式*26を採用しておらず、さらに諸事情により電源切り替え式という世界的に見ても類を見ない無線機を開発した。
      • なぜこうなったかというと、初期の九六式無線電話機は送受信両方とも電源を入れた状態*27でも運用できたのだが、改良型の九六式無線電話機改一型*28から電源を送信か受信かに固定*29されてしまった。
        もちろんパソコンのようにいちいちシャットダウンして切り替えて再起動、ではなく、送信と受信の電源が別々なだけなのでスイッチを押しかえるだけ。つまり送信機のスイッチを切って受信機スイッチを押して受信の方に電源が入れる。受信機スイッチを切って送信機スイッチの方を押すと送信の方に電源が入るのでそこまで複雑なものではないが、電源を入れ替えたあとは受信機もしくは送信機の真空管が温まるのを待つ必要があった。理論上は両方とも押しておけば送受信同時にできるのだが実際にはバッテリーが持たないので不可能だった。また真空管は今日の半導体に対して電気的にも数段デリケートで、*30、それを頻繁にON・OFFするのならすぐ故障しかねなかった。*31
      • 運用においては海軍航空隊においては基本的に指示を出す隊長機が送信状態にして、列機が受信状態のままにすることが多かったのでこの方式でも特に問題視する報告は無かった。無線連携で有名な三四三空ですら無線機は長機が送信状態、列機は受信状態にしておくのが基本だった。
      • またノンフィクションで有名な「零戦燃ゆ」では零戦搭乗員は無線機の設定を受信にした状態で、陸攻の無線電話機により敵襲の知らせを受けたことで難を逃れた、という証言がある。
    • それがすべての原因ではないだろうが、陸軍の戦闘機乗りの中にはあの飛行第六四戦隊を中心に無線連携戦闘を重視する部隊がそこそこあった。無線機が使えたかは別にして。
      対して、海軍の戦闘機乗りは無線機を使用することはあったものの、主にモールス信号や手話、果ては携帯用のボードで筆談していた(ここらへんは陸軍と変わらない)が、時には無線機を死重扱いして降ろしてしまう古参搭乗員も居た。
      • ちなみに「無線の調子が悪い」というのは操縦者に多い。地上勤務員には「よく聞こえた」と回想している人がけっこういる。

これは空戦中はエンジン音や緊張などで心理的余裕が少ないのに対し、地上では余裕を持って無線に耳を傾けられること、さらに地上に設置された無線機は下記の原理上の優位を持つことが関係していると思われる。
・充分な長さのアンテナを展開できる
・地面と言う理想的なアースに接続できる
・エンジンの点火回路や発電機といった強大な妨害電波源から無線機を充分に離せる。また充分なノイズシールドを施すことが出来る
・空気と機体の摩擦による静電気の蓄積と不規則放電と言う妨害電波源がない
・騒音が少ない場所で聞ける

  • なおこの頃の戦場は南方。交換部品が潤沢にあるわけではなく、無線機自体にもまだまだ改善の余地がある時期だ。実際に無線機が所定の性能を満たしていなかった可能性も十分にある。
  • ニューギニア戦線は激戦区であり、新型のP-47やB-24、B-25も積極的に投入された。格闘戦に持ち込めれば、P-47とも互角以上に戦えた。
  • しかし1943年8月と9月の戦爆連合による奇襲的な空襲で90機を喪失。その後は消耗した機材の補充や、新型機銃(マウザー砲)の搭載型の受領などでなんとかしのごうとしていたが、三式戦全体の生産が伸び悩んでいたために旧式の一式戦闘機を使わざるを得ない部隊もあった。
    • さらにアメーバ赤痢やマラリア、戦死等で部隊の人員は消耗しており、例え三式戦が順調に生産されても満足に戦えたかはわからない。
  • 1944年に入り、日本軍はニューギニアから順次撤退。7月にはニューギニアにおける三式戦の戦闘は幕を下ろすことになった。
  • このころには一撃離脱戦法の徹底もあって新型戦闘機に対して劣勢は免れえなくなり、続くフィリッピンに於いても苦しい戦いを続けていた。
    • 爆撃機の護衛にも使われていたが、やっぱり力不足でもろとも落とされた。
  • そして1944年中ごろからは本土防空戦に参加することになる。
    • 本土防空戦では本機の比較的マシな高高度性能が多少役に立った。しかし高度1万mのB-29へは接近もままならず、無電や塗装を剥いで軽量化し、さらには武装や防弾を外して空へ上がる機体もあった。
      • それでも超空要塞は手ごわく、ついには空対空特攻部隊が編成された。有名な「震天制空隊」である。
        彼らは極限まで軽量化された機体を操って高空のB-29へ向かっていった。中には体当たりで撃墜した後、ボロボロになった三式戦で生還した猛者もいた。
      • もっとも、一式陸攻と米軍戦闘機の関係を見る限り、日本の戦闘機が高々度に極度に弱いというのは戦後広まった誤解のようである。
        単発戦闘機が8000mを巡航する、水平速度で100km/hと変わらない速度の爆撃機を迎撃するには、1万mあたりからパワーダイブをかけるしかなく、日本機に限らずレシプロ時代には難易度が高かった。
        同じように2速過給機が標準となった一式陸攻の後期型や四式重爆『飛龍』*32などはなかなか落ちないと米側は回想している。
      • 過給機は1段でも過給機回転数次第。日本機が致命的に研究が遅れていたのはインタークーラー周りで、機械式のみならず排気利用のターボチャージャ開発でもネックだった。反面、低翼面荷重で高アスペクト比の主翼は高々度でも高度の維持に一役買ったはずである。
      • 事実、日本軍に撃墜されたB-29は400機弱とされ、これは終戦までのB-29の総生産数の10%を超えており、決して無視していい数字ではない。
    • 1945年になると米軍の爆撃は高高度からの昼間精密爆撃から低高度の夜間爆撃に変更される。
      海軍では夜間戦闘は専門の部隊に一任されていたが、陸軍では単発単座戦闘機の操縦者に対しても夜間戦闘の教育を施していた。そのため三式戦も積極的に夜間迎撃に参加している。
      • しかし4月からは護衛戦闘機としてP-51を引き連れてくるようになり、あらゆる性能面で劣る三式戦は苦戦を強いられていった。
    • 1945年2月からは艦載機も本土にやってくるようになった。米新型艦戦に対してはほとんど劣勢で、損害を見かねた上層から艦載機に対して迎撃禁止命令が出た部隊もあったとか。
      • ただしこの単発機相手の不利は、戦闘機の性能より搭乗員がB-29迎撃に特化しすぎた面が大きかったようである。
  • 沖縄戦が始まると特攻機の護衛や、自らも特攻機として運用され、多くが散っていった。
    • この頃生産していた三式戦は発動機を換装した二型であったが、新型のハ140が製造数どころか品質まで最悪、完成機数は100にも届かず、発動機の間に合わない機体は空冷発動機を載せて五式戦として戦うことになる。
  • 三式戦闘機の総生産数は、五式戦闘機に改造された分を含めると3150機前後、純粋に三式戦闘機として生まれたものは約2875機であった。
    • これは中島の一式戦の約5750機、四式戦の約3500機に続く数であり、陸軍内では第3位である。
    • 各型の生産数は以下。
      • 一型甲:388機
      • 一型乙:約600機
      • 一型丙:約400機(既存機からの改造も含む)
      • 一型丁:約1350機
      • 二型:99機
      • 五式戦に改造されたもの:275機
      • 他、原型機・試作機:数十機


  • ところで、陸軍は海軍と違って無線連携や編隊空戦を積極的に行っていた、というのはそれなりに知れた話である。
    • 操縦者の回想録によれば、戦闘中は小隊(4機)、最低でも分隊(2機)で戦い、単機になるのはできる限り避けるよう指示されていた。多数を相手にした単機戦闘は、攻撃中に他敵機からの攻撃を受ける可能性が高かったためである。
    • これはドイツ発祥のロッテ戦術そのものである。
      編隊長機が敵機を追う間、僚機は後方について援護を行い、長機を助け、それが部隊の戦果向上に繋がり、また僚機も有利な位置に付き、戦果を挙げることができる……というもの。
      1938年のスペイン内戦中にドイツ空軍コンドル軍団のヴェルナー・メルダースが考案したもので、それまでの3機を1単位とする「ケッテ」よりも柔軟に戦場に適用できるとして、第二次世界大戦における編隊空戦戦術の基礎となった。
    • 日本には1941年、輸入したBf109の模擬空戦のために呼ばれたドイツ在日武官のエースパイロット、フリッツ・ロージヒカイト大尉から一撃離脱戦法と共に伝授されたとされる。
      その後、新設ないし戦力回復に帰国した部隊から順次教育を始め、戦地の部隊には内地に指揮官訓練に戻ったものに技術を持ち帰らせるなどして、1942年後半から実戦部隊に普及を始めた。
    • 毎日のように来襲する敵機に対し、ニューギニアやビルマの各戦隊はロッテ戦術の徹底で戦果を挙げた。ばらばらの単機戦闘でかかった部隊が壊滅してしまった事例からもこの戦術の有効性が伺えよう。
  • 対して我らが海軍、個人の技量に頼り単機での格闘戦を中心に今まで戦ってきたためか、ロッテ戦術はなかなか浸透しなかった。よく日本海軍は単機戦闘を中心にした、と言われているが、ミッドウェー海戦でのジョン・サッチ少佐が高評価してるようにケッテ戦術と呼ばれる三機一組の編隊戦闘を中心に行っていた。これは太平洋戦争前の日中戦争でも行っており、編隊による戦闘は当然だが海軍もやっていた。ましてや編隊戦闘を行っていなければ、共同撃墜という言葉はまずない。もちろん訓練でも編隊飛行や編隊での空戦もあり、元海軍パイロットの手記をよく読めば分かるが、基本的に空戦では必ず編隊空戦であった。
    • ケッテ戦術というのはこれもドイツ発祥であり、長機が敵機の攻撃を担当し、列機がそれを支援するものであった。火力を集中でき、ロッテ戦術のようにニ機一組よりも役割分担により周辺警戒などの負担が少なく、密集飛行隊形の為意思疎通も取りやすかった。ケッテ戦術は密集すればするほど効果が高かった。ただし、ロッテ戦術と違い、奇数による編隊なので相互支援など柔軟な対応はしにくい欠点もあった。また、ロッテ戦術は自分の組より敵機の数が多いと不利になる欠点もあった為、ミッドウェー海戦を例に挙げるとサッチ少佐率いるロッテ戦術を行ったF4F隊は零戦の数が多く、ケッテ戦術で空戦を行った為どちらかと言えば逃げるしかなかった。(とはいえ1機の未帰還と引き換えに戦闘機を5機撃墜してるが)
    • しかし、末期にはいくらか広まったようで、有名な343空のほか、いくつかの部隊で確実にロッテ戦術を使用していたと確認できる。その部隊の搭乗員の回想によれば、やはり有効な戦術だったようだ。
    • ただし海軍で導入が遅れたのはそれなりの理由がある。編隊戦闘であるロッテ戦術には無線による意思疎通が不可欠だったのだ……。

五式戦闘機

  • 五式戦闘機(試作番号:キ100)は、発動機の供給が間に合わずに「首無し」で工場にズラッと並んでいた機体に、空冷のハ112-II(海軍名:金星62型)*33を載せて急遽戦力化したもの。
    • 「首無し機」は二型が知られているが、実際は一型でも1944年秋ごろから供給不足によって発生している。11月には190機を数えたという。
      • ハ40の供給が滞った原因はもちろん生産能力の不足もあるが、性能向上のための改良にリソースを食われたせいもある。
    • 二型に搭載されたハ140は確かに高スペックだった。カタログ上では。只でさえ繊細な構造をもてあましていたハ40にさらに無理をさせて出力を上げたため、先行品はまだしも量産品ではカタログスペックを発揮できるものは皆無といっていい状況だった。それも二型の生産がわずか99機で打ち切られた要因のひとつである。
      • アツタは本家よりオクタン価の高い燃料を使っていたから稼働率が高かった、という主張があるが、現在残されている当時の資料を見る限り、陸海軍共に最も多く使用されたガソリンは91オクタンのものである*34。原型のDB601Aは87オクタンのB4燃料が指定なので、日本陸海軍において燃料による状況の差は無い
        なおドイツでも、改良型のDB601Nや発展型のDB603では96オクタンのC3燃料が指定されている。
      • そもそも、海軍のアツタも、陸軍のハ40も、どちらも稼働率が高い部隊もあれば低い部隊もあった。その差は燃料の質ではなく、整備と潤滑油であると言われている。
        アツタ搭載の液冷彗星を多数運用したことで有名な芙蓉部隊は整備員をメーカーに送り込んで教育させ、また近衛飛行隊と謳われた三式戦の244戦隊では経験とあまたの試行錯誤からそれぞれ高い稼働率を実現した。
        また従来低オクタンガソリンのせいで稼働率が低かったとされてきた誉を実働率100%近くまで引き上げた104戦隊では、支給、または自家で処理した再生潤滑油*35の使用を禁じ、在庫の米国製潤滑油を使用していた。明野飛行学校の分析結果からも、四式戦の故障原因は主に電気系統と潤滑油の問題であると結論づけられている。
      • 従って、ハ40やアツタの稼働率問題を使用燃料の品質だけに原因を求めるのは全くの愚である。連合軍に比べれば確かに劣っているが、水メタノール噴射装置を使うなど対策は講じられており、無策のまま無茶をさせていたわけではない。稼働率の低さはさまざまな要因が合わさって引き起こされたもので、たとえ日本軍の使用燃料がすべて100オクタンになったとしても、根本的な解決をみるわけではないのだ。
    • 一方で「空冷エンジンに生産リソースを集中させるためにハ40/アツタの生産打ち切りが決まり、その余波として五式戦闘機が開発された」という説がある。
      これに対しては「空冷エンジンに集中するからと言って、そもそも製造をしていない液冷専業メーカーに生産停止を命じないのではないか」という意見がある。特に彗星は三三型登場後も一二型の製造が続けられていたし、同じアツタを搭載する晴嵐の開発製造も行われていた。また、三式戦二型も完全に諦められていた訳ではなかったようで、補給計画や更なる戦力充当を目指していたという文献もある。
      • ただ、愛知は過去に寿二型改一*36のライセンス生産を行っており、生産設備を空冷用に転換することも不可能ではない。あまり現実的ではないが……
    • 三式戦の設計者である土井技師は1944年の初期には既に三式戦の空冷エンジン化を検討していたようだが、川崎航空機の生産工場ではハ140の生産に心血が注がれており、それを提案できる状況では無かったようだ..
  • 急造品で固有の名称も無かった五式戦*37だが、発動機換装による軽量化と馬力向上でまずまずの性能を発揮。日本陸軍最期の制式戦闘機として有終の美を飾った。
    • 五式戦で戦った操縦者からは、三式戦と比べて軽く、P-51とも対等に戦えるなどいい評価をもらっている。
  • なお、一部において「内地ですらエンジン不調に泣かされた」という話も残る。
    • 名機として知られる金星/ハ112系エンジンだが、末期のそれは資源不足や工場被災、未熟な工員と整備員によって仕上げられたこともあって幾分品質は落ちていた。そこに追い打ちをかけたのが複雑で調整の難しい水メタノール噴射機構であり、一部では「あんなものより、整備すれば出力が上だけ誉のほうがマシだ」という声すらあった。
    • それでも、多くの部隊で「ハ40より整備楽だしよく回った」と歓迎されたのは事実である。慣れもあるんだろうけど。
  • 太平洋戦争で戦えたのはすべて一型。二型は排気タービン過給器つきの「ハ112-IIル」を搭載した高高度戦闘機型である。
    • ハ112-IIは高度1万mで1000馬力を発揮し、五式戦二型は高度1万mで565km/hを発揮したとか。納入された試作機は大きな故障も無く、担当者は手応えはよかったと回想している。
      終戦までに試作機が3機完成したものの、量産は間に合わなかった。もしかしたら、五式戦二型が日本陸軍で唯一ターボチャージャを実用した戦闘機になっていた……かもしれない。
    • 終戦直後の飛行第244戦隊において2機の五式戦が機密保持目的で焼却処分されている。そのため二型が244戦隊に配備されていたのでは、といわれることがある。3号機は終戦後に岐阜工場で撮影された写真が残っているので、配備されていたとすれば1,2号機である。量産前の試作高性能機とか胸アツ
  • ちなみに五式戦は三式戦の機体流用だけでなく、最初から五式戦として百数十機が製造された。(三式戦の代名詞とも言えるファストバック型風防から、視界がよく日本軍機で多い涙滴型風防へと変更されている。)また改造機の中にはエンジン不調の一型から改造されたものもあったとか。
  • そんな五式戦だがイギリスの「イギリス空軍博物館(RAF博物館)」にたった一機だけ綺麗な状態で現存・展示されている。
    • 但し、イギリス軍が飛行機試験中に破損してしまい、様々な機体(四式戦、三式戦、百式司偵など)の部品を使って修理された"ツギハギ"機体である..
  • イラストの機体は第149振武特別攻撃隊(福岡県・芦屋飛行場)所属機に見える。
    • だとすれば機体は一型甲または乙、なのだが……名前から分かるようにアレの部隊なのだ運営どうした
  • 機体自体は飛行第59戦隊(福岡県・雁ノ巣飛行場)で福岡都市圏の防空任務に当たっていた機体で派手な胴体塗装は同戦隊由来のもの。
    • 飛行第59戦隊は損耗と三式戦の稼働率低下で芦屋飛行場に移動後、五式戦闘機に転換しており、この際同基地の振武隊へ抽出された可能性があるが、よく見ると振武隊の部隊章は方向舵だけで途切れている
    • 方向舵は明野教導飛行師団の部隊章(明野陸軍飛行学校校章)の上から振武隊の部隊章を上書きしたもの。元となった写真は戦後米軍により撮影されたものなので如何なる経緯でニコイチになったかは不明


  • 三式戦パイロットの実録戦記として、独立飛行一〇三中隊(飛行第78戦隊直属)で活躍した松本良男少尉の「秘めたる空戦~三式戦「飛燕」の死闘~」(光人社NF文庫)がある。氏の場合は「キ六一に適した操縦センス(未修訓練で他訓練生を圧倒)」「小澤郁夫中隊長(大尉)の育成」「機付整備員日野実軍曹の経験(川崎飛行機へキ六一の整備学習のため派遣)」「日野軍曹による徹底的なスペシャルチューニング」の四点により三式戦の能力を「カタログスペック」まで引き出せたことも活躍の理由なのだが、その「中戦」独特の空戦をぜひ堪能していただきたい(部隊名など様々な部分で脚色された可能性は高いのだが)。
    • 他、小山進伍長がニューギニアのウエワク基地ですごした飛行第六八戦隊の日々を記した「あゝ飛燕戦闘機隊」(1996年、光人社)や、飛行第八師団第八教育飛行戦隊から台湾防空戦に参加した田形竹尾准尉の「「飛燕」よ 決戦の大空へはばたけ」(「リバイバル昭和の証言コレクション」14巻(1991年、光人社)に収録)などいくつかあり、読み物としても十分楽しめるものなので是非オススメしたい。

この装備についてのコメント

最新の15件を表示しています。 コメントページを参照

  • 説明見てて思ったんだけど、和製メッサーとか潜水空母って言葉を考えた人ってほんとセンスないと思う。東西冷戦時代に、西側諸国がTu144にコンコルドスキーって言うあだ名を付けてたって知ってから尚更。 -- 2019-05-18 (土) 21:16:50
    • 正直見た目はメッサーじゃなくてマッキだしね…米軍もマッキに似てるからトニー(イタリア男性名)にしたという説もあるし。コンコルドスキーの前にTu-4にボーイングスキーって付けてたような -- 2019-08-01 (木) 21:23:01
      • 個人的にはマッキにすら似てないと思う… 飛燕って一見欧州機っぽいようで思いっきり日本機らしい見た目だから、まあ仕方ないけど。 ボーイングスキーってあの、B-29の被弾痕とか間違えて開けたドリル穴とかまでコピーしたやつだよね? -- 木主? 2019-08-01 (木) 21:31:36
      • ↑国籍マークもアメリカにしたほうがいいですか?って態々書記長に聞いたという伝説もw -- 2019-08-02 (金) 13:04:17
      • ↑相手がヨシフおじさんだけに、命がけのユーモアだな。聞いた方は、そこまで考えてないのかもしれないが -- 2019-08-03 (土) 09:00:17
    • 和製メッサーはともかく潜水空母はかっこいいダルオオン!?(個人の感想です) -- 2019-08-01 (木) 23:17:34
      • 水上機たかだか数機飛ばせて空母なら重巡は全部重巡洋空母になるし戦艦も全部航空戦艦になるぢゃん ダサい以前に本質を理解してないんだろうなって感じ -- 木主? 2019-08-01 (木) 23:25:19
      • そうですか。潜水空母かっこいいよね -- 2019-11-25 (月) 02:15:08
  • 素飛燕持ってたら丁もまず持ってるからほとんど改修は無意味だな -- 2019-06-05 (水) 10:26:49
    • ないです(憤怒) -- 2019-08-03 (土) 12:50:34
    • 素の飛燕さえ持ってないです -- 2019-08-03 (土) 12:58:10
  • この塗装って震武特攻隊のじゃないの? -- 2019-06-17 (月) 12:37:07
    • 説明にある通り、元59戦隊の飛燕に振武隊の飛燕の方向舵を取り付けたものなのでこれが特攻機かどうかは不明。元59戦隊の飛燕は五式戦用に部品取りされてたようなので、部品取られた飛燕に離着陸事故等で大破した振武隊機の部品くっつけたとかありそうな気がします。もう真相がわかることはないでしょうが -- 2019-10-02 (水) 17:10:38
  • これの丁型持ってるからずっと所持してる物と思ってたけど16秋開始提督は秋イベe1丙クリアと後の拡充任務で選択してない場合貰えないんですね。何気に丁型よりレア? -- 2019-11-25 (月) 00:57:35
  • 三式戦系統では下位装備だが、☆10にすると出撃対空14.5防空15と侮れない性能になるな。出撃対空は飛燕丁より上で高級陸戦よりちょい下くらいの地位だな。行動半径の都合陸偵で伸ばすのがほぼ前提になるけど。 -- 2020-04-17 (金) 12:55:02
お名前: URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

*1 新型航空兵装資材が1個必要
*2 対空+迎撃×1.5で計算
*3 対空+迎撃+対爆×2で計算
*4 1スロ当たり
*5 他にもキ60をはじめ、九二式戦、九五式戦等の液冷戦闘機、二式複座戦闘機、キ102等の双発戦闘機などの多くの傑作航空機を手掛けている。
*6 空冷のMC.200『サエッタ』のエンジンをDB601Aに換装したもの。公式四コマでLittorioが飛燕を見て似てるかもと言った「うちの子」は、多分これのこと。
*7 有名どころだと、「テキサス親父」こと親日ベッタリで有名な米国の保守論者トニー・マラーノ氏はイタリア移民の子孫(3世)である。
*8 独ダイムラー・ベンツ社の液冷発動機。独Bf109や伊MC.202などに搭載され、日本での川崎「ハ40」、愛知「アツタ」のほか伊アルファロメオ社でも「R.A.1000 R.C.41-I Monsone」としてライセンス生産が行われている。
*9 当時のドイツではアメリカのような薄メタルの高負荷対応のプレーンベアリングは未開発であり、ローラベアリングがもっとも負荷をかけられる軸受けと考えられていたため。しかし実際にはユンカースが肉厚プレーンベアリングでほぼ同等の性能を発揮しており、ローラベアリングは必須とは言えなかった……かもしれない。なお実際には往復するコネクションロッドの影響で軸にかかる横圧が強く、この影響でローラーベアリングは正常に機能しないと言われている。ドイツでも採用したのはDBのみで、ユンカースなどは高回転型のJumo213でも採用していない。DB601よりもはるかに高精度になった現代の日本車のエンジンでもこのような機構は採用されていない。
*10 ここで言う「直接噴射式」とは、現在のインジェクター方式の事を言う。三菱GDIに代表される『ディーゼルエンジンよろしく圧縮時に噴射する』方式とは異なる。
*11 三菱はこれを空冷の『瑞星』『金星』『火星』にも搭載している。
*12 実のところ米国でも不良品の割合は決して少ないものではなかったのだが、彼の国は圧倒的工業力で「不良品が出るなら、それを補って余りあるほどに大量生産すればよい」という発想に向いていた。有名な『航空エンジン用ターボチャージャーを使い捨てる』話もこれと繋がっている。これぞ米帝、なのだがアメリカでもやっぱ中央の頭でっかちが考えるようには行かないもので実際には現場が苦労して何とかした話はいくらでもあったりする。
*13 と言っても、空冷エンジンは戦間期のアメリカ製エンジンのデッドコピーを発展させたものなので、要求される製作精度はそれほど高くない。『火星』などはその典型である。『誉』は……そもそもサイズそのままで出力倍なんて無茶をしたらあちこちに「代償」が来るのは当然なのだ。出力重量比や出力容積比で同クラスを目指した米英のエンジンもあんまり上手くいってないし。
*14 たとえばハ43(金星の18気筒版。烈風震電に搭載予定だった。)の開発過程ではシリンダーブロックの穴あけを全て自動で行う機械を作っていたと秋水開発スタッフが回想している。ところが1944年12月の空襲で木端微塵にされてしまい、また日本の発動機生産の27%を担っていた三菱名発大幸工場もほとんど更地になってしまったのである。ここまでされたら例えば米GM社でもそう簡単には立ち直れまい。
*15 もともとは少量生産の高級車メーカだったため大量生産に慣れていなかった。
*16 その結果が有名な“ハインケル・パージ”
*17 キ60以降の重戦闘機には20mm砲の搭載が求められている。
*18 重力の15倍、普通の人間なら10秒立たずに失神するレベル。
*19 ぶっちゃけて言うと、YS-11も計測機器の方が先に参ってしまう事態が続出、挙げ句の果てには「空中衝突して相手は墜落したけど俺はなんともなかったぜ」という事故を経験していたりする。
*20 音速に達していなくても衝撃波が聞こえる可能性はある。マッハ0.7~0.8あたりから、流速の速い部分で局所的に衝撃波が発生する場合があるからだ。また衝撃波の発生とは関係なく、当時の対気速度計はマッハ0.5を超えたあたりから過大な数値を示すようになる。このため、「プロペラ機が音速を超えた」と言う誤認は当時の他国でも複数見られる。設計者の土井技師自身が戦後、大学教授を務めていたころに「計器の誤差」と講義している。
*21 海軍の九九式二〇粍機銃は動作方式の関係で同調装置そのものが使用できなかった。Fw190Aの20mm機銃のうち2丁も主翼装備ながらその付け根でプロペラ回転圏内であったため同調装置が設けられていたが、この同調装置は電気式であった。もちろん、当時の日本がマネできるはずもない。
*22 例えば連合軍機に多く搭載された12.7mm機銃は、200mで10mm以上の鋼板を貫通する能力がある。三式戦の操縦席背面には厚さ8mmの防弾鋼板が取り付けられたが、その重量は20kgを超える。全方向完全防護したらどうなることやら。
*23 ……はい。そう言う機体、あります。日本では三菱キ-51 九九式襲撃機があり、エンジンカウルとコクピットブロックが6mm防弾鋼鈑でできていた。その割に戦闘機並みの機動性を誇ったが、航続距離は1,067kmと日本機としては短くなってしまった。さらにソ連には13mm鋼鈑でエンジンマウント・コクピットブロックをセミモノコックの“バスタブ”状に形成し、そこに翼をつけたようなイリューシンIl-2/Il-10『シュトルモビク』がある。ちなみにドイツでもヘンシェルHs129と言うのを作っていた。そしてそれらの延長線上にあるのが皆さんご存知フェアチャイルドA-10『サンダーボルトII』である。
*24 気合の入ったお客様ならお気づきだろうが、先に書かれている“ブローニング12.7mm機銃は200mで10mm鋼鈑を貫通する”のはあくまで“垂直に入った”場合。実際には空中戦においてそんな理想的な着弾が期待できるはずもなく……被弾径始で弾かれてしまうのがオチである。この為12.7mm用の炸裂弾を持っていなかった米軍は日本陸軍機相手にはガンガン撃ってもまんまと逃げられてしまうことが多かった。ある程度のあたりからは日本海軍機もそうなったため対策が叫ばれたが、まぁタイガー1台にシャーマン5台で対処しろとか抜かすくらいには米側も充分トンチキなので……ただ、日本軍の夜襲で度々損害を被った結果、F6F-5ベースの夜戦型F6F-5Nではイスパノ20mm機銃2丁を装備した。
*25 とはいえ、あくまで『比較的』という程度であって、最大速度も格闘性能も敵機と大差ない本機は苦戦を強いられる場面も少なくなかったとも。
*26 Push To Talkの略。マイクのスイッチを押すと送信になり、離すと受信になる機構
*27 送信機はエンジン駆動の発電機、受信機は乾電池より電力を供給
*28 及び三式空一号無線電話機
*29 要は乾電池を廃止して送信機も受信機もエンジンから駆動の発電機から電力を供給されるようになった
*30 あくまで現代の話。半導体は登場当初はむしろ真空管よりデリケートだった。それが覆されるのは鉄道車両用の電機子チョッパ制御が営団6000系の量産化で安定した1970年以降の話である。
*31 この辺の事情はアメリカでも「日本よりはマシ」と言う程度でしかなく、「真空管砲弾」であるVT信管も6割は不発だったらしい。
*32 帝国陸軍の双発雷・爆撃機。開発・製造は三菱、キ番号はキ67。
*33 三菱の空冷星型複列14気筒1500馬力発動機。海軍では九六式陸攻九九式艦爆など多く採用されたエンジンの発展型であり、アツタの代用で取り付けた彗星三三型に採用している。また、零戦五二型の本体にこのエンジンを搭載した零戦五四型の量産も予定されていた。
*34 100オクタンガソリンもあったが、それらは彩雲や百式司偵を有する偵察部隊に優先的に支給された。
*35 一度使ったものをフィルターで濾したもの。
*36 陸軍名ハ1ないしハ24、中島の星型空冷9気筒600馬力発動機。複葉全盛期の主力発動機のひとつ。
*37 連合軍側にもペットネームが存在しない。それどころか制式機だったかさえ怪しい。