本棚/ピノコニー/ルイスの芸術評論

Last-modified: 2024-02-23 (金) 11:14:27

ルイスが書いた一連の定期刊行物。画家シャルロットの作品のために特別に書き下ろした芸術評論である。

『輝く銀河の夜』:夢と自由の始まり

01.『輝く銀河の夜』:夢と自由の始まり

筆者:ルイス・ライス

本評論シリーズの冒頭の章として筆者が選んだ作品は、『輝く銀河の夜』だ。

これは著名な画家シャルロットの初期の代表作であり、本エッセイシリーズのタイトルの由来にもなっている。

この画家の他の初期作品と同様、本作にも後年の夢に迷い込むような独特の作風はまだ見られないことから、今日に至るまで相応しい評価と称賛を得るには至っていない。これについて、私は謹んで遺憾の意を表明する。

まずは絵画そのものを見てみよう。広く輝く星空の下で、人類の文明と秩序を象徴する黒い灯台はこんなにも小さい――まるで木の葉の船が果てしない海に迷い込んだようだ。嵐や大波が押し寄せただけで、その存在の痕跡は跡形もなく消え去ってしまうだろう。

この絵を構成しているのは、極めて誇張された、渦のように永遠に流れる線だ。これらの線は万物を飲み込む荒波のように、回転し、激しく動き、隆起することですべてを構成し、すべてを説明している。

技法だけで言えば、この時点での画家の筆使いはまだ未熟であり、色彩も少々稚拙である。後期の夢や幻のような作品に比べると、その画風は明らかに「保守的で写実的」すぎるものだ。しかし、この絵の中には、すでに画家の「人」と「世界」に対する深慮が垣間見える。

「我々が星空を見上げる時、我々は何を見ているのか?」

深遠で広大な宇宙を見上げるたびに、我々は自身の矮小さを必ず自覚することになる。人間――さらに言えば、すべての知的生命体の文明の結晶――は、神秘的で計り知れない偉大なる自然の前では、ただの弱々しいロウソクの火のように、一瞬で消え去る存在なのだ。

しかし、この絵では不朽の星空も、無限の宇宙も、人類文明を象徴する灯台も、灯台の光が照らす夜の色も、世の中の万象も、虚数の法則が気の向くままに塗りたくった歪んだ線に過ぎない。

我々の起源は天地と同じであり、それは塵芥となんら変わらないものだ。世の中の万象は、結局のところ無意味なのである。

では、この冷たく空虚な根本原理の下で、画家は我々にどんな答えを与えたのだろうか?

神秘的なスミレ色のグラデーションをあしらった濃紺の夜空で、星々が柔らかい乳白色の光を放っている。それらと灯台は互いの光を調和させることで、我々に時間の流れの中で躍動する喜びと、果てしない夜に燃え上がる温もりを感じさせてくれる。

これらの色彩のおかげで、その先の雑然とした不安な線は、もはや自然に忠実だからといって冷淡に見えることはない。それらは依然として流れながら循環を続け、決して止まることはないが、人間の魂の温度に染まって柔らかい光を放ち、静寂に満ちた夜空に一筋の生気をもたらしている。

たとえ現実がただの幻想であっても、宇宙が人間のために創られたものではないとしても、我々は絵の中で、夢の中で――自分だけの空を追い求めるのだ。

『海岸線』:変化と新生

03.『海岸線』:変化と新生

筆者:ルイス・ライス

今回はこの画家の出世作である『海岸線』について簡単に評論しよう。

これは作者を表舞台へと導いた重要な使者だ。この絵で画家の筆致はさらに成熟し、その独特で幻想的な作風も基本的な形を成すようになった。本作の解釈について、すでに多くの評論家や学者によって珠玉の名文が残されていることは万人の知るところ。故にここで詳しく述べることはしない。そのため今回も従来の思考法、すなわち「作品から出発して作者自身を分析する」という形式を踏襲しようと思う。

筆者をよく知る古い友人たちにとって、筆者の分析方法はすでに慣れ親しんだものだろう。この画家の人気に影響を受け、最近は私自身もこのエッセイシリーズによって注目を浴びるようになった。そのため本稿の冒頭では、まず筆者自身の思考ロジックを示したうえで、それを新しい読者たちに共有することにする。

学界では一般的に「作品と作者を同一視してはならない」とされている。こうした考え方は、無数の歴史と文化の検証を経て、すでに不滅の真理と化しているだろう。しかし筆者は、作品というものは結局、創作者の潜在意識の欠片が繋ぎ合わさったものに過ぎないと考えている――それは夢や幻のように、往々にして作品の細部に現れ、創作者自身も意識したことのない、心の奥底にある欲望を映し出している。

作者に対する理解を深め、その成長環境や人生経験を知れば知るほど、この逆推論の過程は正確になっていく。それを念頭に置き、前回と前々回の題材について振り返ってみよう。『輝く銀河の夜』からは、この画家の芸術と美への愛、自由への強い渇望、そして人類に対する反省と配慮が見て取れる。

2枚目の『ロビンの死』では、画家は形骸化した、荘厳だがぞんざいな葬儀を描くことで、退屈な現実生活への倦怠と不満を訴えた。

以上を認識したうえで、再度この名作『海岸線』に目を向けてみよう。絵全体の背景は砂浜、海、空の3つの部分から構成され、それぞれの境界は黄金比に従って左上から右下へ斜めに呼応している。左下から右上、つまり砂浜と空の間には、黒い蛇の抜け殻、空を飛ぶ白い鳥、黄金の雲、赤い太陽といった4つの鮮明なイメージが弧を描いて連なっている。

筆者の解釈では、砂浜、海、空はそれぞれ現実の物質世界、人々の精神世界、芸術と美そのものを表している。そして蛇の抜け殻、鳥、雲、太陽は画家の個人的な理想を形にしたものだ。苦しい現実生活を古い蛇の抜け殻のように脱ぎ捨て、新たな生を得た画家は、大地の束縛から逃れた鳥のように、自由と精神性を象徴する輝く雲に向かって飛んでいく。天頂に高く懸かる太陽は、真なる善美の具象と化身であり、画家が永遠に追い求める目標とその方角なのである。

画家は色や線の使い方にも工夫を凝らしている。砂浜の筆致は凛として色は仄暗く、海は延々と続く起伏に濃色を重ねたもの。いっぽうで空の線は軽やかかつ、色も透明感がある。4つのイメージにおける色使いは黒、白、黄、赤で、それぞれ錬金術における黒化、白化、黄化、赤化の4つの過程に対応しており、三次元的に画家自身の変化と新生を象徴している。

すでに広く知られているように、『海岸線』はこの画家の人生における大きな転換点だった。この様々な色を重ねて描かれた点は、画家がすべてを賭けてピノコニーを訪れたことと解釈されるかもしれない。あるいは、たった1作品で頭角を現すダークホースとなることを暗示していたと解釈されるかもしれない。しかし筆者に言わせれば、それ以前から――この点は――とっくに絵の中に存在していたのである。

『この世の楽園』:夢境から俯瞰する現実

04.『この世の楽園』:夢境から俯瞰する現実

筆者:ルイス・ライス

今回見ていくのは、この画家の代表作『この世の楽園』だ。この絵の登場は、この画家の作風が完全に成熟したことを意味している。また、これによって彼女は純粋還元主義派の中で、他の追随を許さない代表的な人物になった。

しかし、この作品の評論を始める前に、諸氏に朗報を伝えたい――なんと、前回の筆者のコメントを呼んだ画家本人から連絡があり、これまでの一連の分析に対する評価と同意を示してくれたのだ!

筆者が本稿に着手するまでに、我々は何度か手紙のやりとりをしている。画家本人の言葉は素朴だが、その行間には穏やかな優雅さ、そして包容力ある気品が感じられた。いくつかの理念について簡単に話した後、筆者はますます彼女に夢中になってしまい、今回の文章を書き上げたら必ずピノコニーを訪れ、この偉大な画家の驚くべき姿を一目見ようと決意したのだった。

さて、そんな筆者の話はさておき、この不世出の傑作に目を戻そう。この作品を見るたび、私は無意識のうちに画家の精神世界に引き込まれてしまう。しかし、その過程は間違いなく素晴らしいものだ。

この絵が目に飛び込んできた時、人々は絵画の中に霧のようにぼんやりとした光輪を見ることしかできない。そして、その光輪は激しい変化を始め、ルビーと真珠で彩られた唇、黄金に彫られた目、そこから流れる色とりどりの水晶の涙へと変わる。その涙は目頭から落ち、列をなして進む。線を作り、渦を巻き――その目と口と共に――虚空に歪んだ奇妙な人型を形作る。

しかし、そのぼんやりした眩い光輪の中で、これらの凝縮されたイメージは再び轟然と砕け散る。そして我々は黄金が輝きを失い、宝石が血を流し、真珠が悲鳴を上げ、水晶が砕け散るのを見る…これらの華奢な創造物は今や、恐怖の影が満ち目覚めのない残酷な悪夢の中にいるかのごとく、引き裂かれんばかりの苦痛を湛えている。

ここで、画家は我々に荒唐無稽だが真実の悪夢を見せてくれた。彼女は空虚な概念と切実な欲望に――軽薄で鮮やかな色彩によって――目に見える形を与え、無情にもそれらを打ち砕く。

その精神性を意味する朧げな光輪が、贅の極みにある俗物の形をとるとは誰が想像できただろうか?その俗物のどろどろした貪欲な口によって、本来の静謐は噛み砕かれ、宝石の輝きはかえって獰猛になった。かつては澄んでいたはずの瞳も、凡俗に染まって堕落した黄金となってしまった。零れた涙さえも逃れることはできず、乾いて固まり眩い水晶となる。

この疫病のように毒々しい風景は一体どこから来たのだろう?繁栄を極めたピノコニー、永遠の享楽に耽るピノコニー…あなたは人々に夢想と歓喜の歌をもたらすが、その影の中で密かに諸悪を育んでいる。酒池肉林、金、興奮、酒、好色は人々の肉体を満たすが、その魂を引き抜いてしまう。さて、これまで一体どれほどの人間が、その奇怪な夢の中で溺れ、快楽で膨れ上がった死体になったのだろうか?

この目に見えない精神的災難に対して、画家は鋭く全体を捉え、深く再考した――そして彼女は、それらをひとつひとつ打ち砕いていった。遠近法を捨て、論理を捨て、境界を消した画家は、明るく軽薄な色のブロックでそれを精錬して再現した後、この放蕩三昧の悪夢を思い切り叩き起こしたのである。

これは一種の破壊と再構築の激しい対立だ。画家は静謐の中に狂気を秘め、その中で自らの巡礼の旅――純粋なる魂の帰郷の旅――を完成させたのである。

我々がこれらの狂気の表象を通して、画家の繊細にして狂奔、冷厳にして熱烈な魂を覗き見る時、我々も魂も突然の雷鳴を聞いたかのように震えるだろう。

このような驚くべき天才を作り上げた人生経験とは、一体どのようなものなのだろうか?筆者はずっと気になっていた。そして今、私は自らこの偉大な画家の住まいを訪ね、その答えを確かめ――私自身の巡礼の旅に出ようとしている。