特大発動艇+戦車第11連隊

Last-modified: 2021-11-25 (木) 11:17:37
No.230
特大発動艇+戦車第11連隊上陸用舟艇
装備ステータス
火力雷装
爆装対空
対潜索敵
命中回避
射程
装備可能艦種
駆逐艦軽巡洋艦重巡洋艦戦艦
軽空母正規空母水上機母艦航空戦艦
備考
開発不可、改修不可
入手方法装備搭載可能艦
終戦時、北千島最北端、占守島に布陣していた精鋭、戦車第11連隊。
「士魂」部隊とも云われた同精鋭部隊を特大発動艇で輸送、海上機動及び上陸戦闘運用が可能です。

ゲームにおいて

入手方法について

対地特効補正について

乗算補正aキャップ後
補正
補足
ソフト
スキン
砲台小鬼離島棲姫港湾夏姫集積地
追加
1積み×2.52×3.24×3.24×3.06×1.7上陸用舟艇カテゴリの装備を本装備のみ積んだ場合の倍率。
他の上陸用舟艇を同時に搭載した場合の計算式はこちらを参照。
加算補正b
全陸上型共通
補足
1積み+25M4A1 DDと同時に搭載した場合、特殊倍率により乗算される。
計算式の詳細はこちら

集積地追加のみキャップ後補正、他は火力値にかかる補正。
補正のかかる正確な位置・計算式については対地攻撃を参照。


  • 搭載可能な艦は限られるが、非常に優秀な補正を持つ陸上特効装備
    • 対ソフトスキン時の補正は全装備中トップ*1対離島棲姫・砲台小鬼時の補正もM4A1 DDに次いで強力。
    • 集積地追加補正が弱いことが欠点。
      • 本装備は集積地追加の個別倍率が1.0倍のため、他の上陸用舟艇と同時に搭載すると集積地へのキャップ後補正は増えず、場合によっては減少するので注意。
  • 特に優秀な陸上特効装備4種(本装備、大発動艇(八九式中戦車&陸戦隊)M4A1 DD特二式内火艇)の性能比較については、こちらの折り畳みも参照。
  • 対地3点セットの一角としての運用は、集積地追加補正が弱い点から比較的向かない。
    • 本装備の集積地追加補正は、上陸用舟艇カテゴリでは最下位で、無改修の大発動艇と同値。改修が出来ないため大発動艇よりも弱くなる。
    • あくまでも上陸用舟艇の中では比較的向かないというだけで、WG42等の対地装備や二式迫撃砲よりは上。とはいえ、本装備を対地セットに組み込む前に下記の運用も検討したい。
  • 単独でも優秀な補正を活かした、夜戦連撃運用の適性が高い。本装備はどのタイプにおいても優秀な倍率を持つため、特に敵耐性が混在した艦隊に対しても有効。
    • 火力70の駆逐艦の場合、本装備を乗せた夜戦連撃火力は対ソフトスキン:約241、対集積地:約410、対砲台小鬼:約411、対離島棲姫:約302。
      • 駆逐艦の火力でも離島棲姫に対して旧夜戦キャップ(300)の連撃を狙える。
    • 火力約110で対ソフトスキン時の連撃が夜戦キャップ(360)に到達可能。また、火力約90で対ソフトスキン時の連撃が旧夜戦キャップ(300)に到達可能。

性能比較表(装備最大値/大発系装備早見表/テーブルより転送)

装備名種別遠征ボーナス輸送資源量(TP)*2改修入手方法備考追加
基本値*3特大発補正*4最大改修*5S勝利A勝利追加
大発動艇上陸5%-0.5%8.05.6初期装備、任務、イベント編集
特大発動艇上陸5%2%*60.5%改修、任務、ランキング編集
大発動艇(八九式中戦車&陸戦隊)上陸2%-0.2%改修、イベント、ランキング編集
特大発動艇+戦車第11連隊上陸0%--イベント編集
M4A1 DD上陸0%---イベント、ランキング編集
装甲艇(AB艇)上陸2%--任務、ランキング編集
武装大発上陸3%--改修、ランキング編集
大発動艇(II号戦車/北アフリカ仕様)上陸2%---イベント限定任務編集
特二式内火艇内火1%-0.1%2.01.4改修、任務、ランキング編集
装備名種別対地特効補正備考追加
ソフト
スキン
集積地
追加
砲台
小鬼
離島
棲姫
港湾
夏姫
追加
大発動艇上陸編集
特大発動艇上陸編集
大発動艇(八九式中戦車&陸戦隊)上陸編集
特大発動艇+戦車第11連隊上陸編集
M4A1 DD上陸編集
装甲艇(AB艇)上陸?編集
武装大発上陸?編集
大発動艇(II号戦車/北アフリカ仕様)上陸??編集
特二式内火艇内火編集

種別欄:上陸(上陸用舟艇), 内火(特型内火艇)

  • 遠征ボーナスでは、艦隊が装備している素補正を持つ全ての上陸用舟艇・特二式内火艇★平均を用いて計算する。
    • 特大発補正の詳細、改修効果を含めた遠征ボーナスの詳しい計算はこちらを参照。
  • 対地特効補正の記号表記は、効果の大きい物から以下の順とした
    • ☆ > ◎ > ◯ > △
  • 実際の補正倍率については以下を参照のこと
    • 同種別の装備を1つのみ積んだ場合の数値表
    • 同種別の装備を複数積んだ場合の数値表

大発系装備可能艦一覧

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艦種装備可否追加
上陸用舟艇特型内火艇追加
戦艦(低速)長門改二編集
陸奥改二×編集
軽空母(護衛空母)Gambier Bay Mk.II×編集
航空巡洋艦最上改二××編集
最上改二特編集
軽巡洋艦龍田改二編集
球磨改二××編集
球磨改二丁編集
多摩改二編集
由良改二編集
鬼怒改二編集
阿武隈改二編集
夕張改二/××編集
夕張改二特*7編集
能代改二×編集
矢矧改二××編集
矢矧改二乙×編集
Gotland andra×編集
駆逐艦睦月改二×編集
如月改二×編集
皐月改二編集
文月改二編集
三日月改×編集
Верный編集
初霜改二×編集
有明改×編集
白露改二×編集
村雨改二×編集
海風改二編集
山風改二×編集
山風改二丁編集
江風改二×編集
朝潮改二××編集
朝潮改二丁編集
大潮改二編集
満潮改二編集
荒潮改二編集
霰改二編集
霞改二/編集
黒潮改二×編集
親潮改二×編集
雪風改二×編集
巻雲改二×編集
風雲改二×編集
沖波改二×編集
朝霜改二×編集
潜水艦
潜水空母
全ての潜水艦/潜水空母×編集
水上機母艦神威改編集
千歳//編集
千代田//編集
瑞穂/編集
日進×編集
日進改/編集
秋津洲××編集
秋津洲改編集
Commandant Teste××編集
Commandant Teste改編集
補給艦神威××編集
神威改母編集
速吸××編集
速吸改編集
宗谷(特務艦/灯台補給船/南極観測船)×編集
揚陸艦神州丸/編集
あきつ丸/編集

※艦種・並び順は艦娘名一覧準拠。
上陸用舟艇:大発動艇/特大発動艇/大発動艇(八九式中戦車&陸戦隊)/特大発動艇+戦車第11連隊/M4A1 DD/装甲艇(AB艇)/武装大発/大発動艇(II号戦車/北アフリカ仕様)
特型内火艇:特二式内火艇

小ネタ

  • 戦車第十一連隊は日本陸軍が昭和15年に戦車第五連隊、戦車第九連隊要員から編成された11番目の戦車連隊である。編成地は満州。上級部隊はフィリピンでの戦いで有名な戦車第二師団だったが、昭和19年に戦車第二師団指揮下を離れ占守島を含めた千島列島の第91師団に転属する。
    • 通称は「士魂部隊」。同隊所属の戦車には「士」の字をあしらったマークがついている。命名の由来は漢数字の「十一」を縦書きで書くと「士」と読める事からである。その名は後述する同連隊の武勲もあり陸上自衛隊第11戦車隊では結成時の戦車第11連隊時代より「士魂部隊」としてその精神が受け継がれている。
      • なお第11戦車隊は戦車第11連隊の頃より北海道に駐留する部隊であり、初代と同じく日本の北方を護る部隊である。それは公式ホームページで確認できる。
    • またアルファ・システムが企画・開発したプレイステーション用シミュレーションゲーム「高機動幻想ガンパレード・マーチ」に登場する人型兵器「士魂号」の名前の由来も同戦車連隊である。開発スタッフの一人に、祖父が同隊の生存者だった人がいた事が由来。
  • 元々の上級組織であった戦車第二師団がフィリピンで、編成母体となった戦車第九連隊がサイパンで壊滅したのに対し、戦車第11連隊は比較的平穏な占守島にあり、終戦まで訓練を主として戦闘に参加することはなかった。
    • 占守島は千島列島北東端に位置する388㎢の小島で名前の由来はアイヌ語で「シュム・ウシ(南西にある)」「シー・モシリ(本島)」「シュム・シュ(油・鍋)」など複数存在する。北東のソ連領カムチャツカ半島のロパトカ岬との間には約13㎞程の千島海峡(ロシア名:第1クリル海峡)があり、当時樺太と共に日本のソ連側との最前線であった。また北方方面を担当する第五艦隊の拠点となった幌筵島(ぱらむしるとう)は占守島の南西の幅が最小で2㎞程しかない幌筵海峡(ロシア名:第2クリル海峡)を挟んで並んでおり、周辺を防衛する第91師団も主力と司令部を幌筵島に置き、占守島には戦車第十一連隊の他歩兵第73旅団の2個大隊などが駐留していた。
    • 有名なキスカ島撤収作戦も第一水雷戦隊は幌筵島を拠点に行動しており、帰還したキスカ島守備隊員たちの一部は引き続き占守島の防衛に就いている。最もそれらの部隊は本土決戦を間近に控えての部隊転入で、昭和20年6月には本土に移動しており占守島の戦いには関わる事はなかった。

突然のソ連軍の侵攻、占守島の戦いの勃発

  • 8月15日、玉音放送により、日本国民はポツダム宣言を受諾したことを知る*8
    • 占守島は玉音放送に続いて上級司令部(第五方面軍)より「18日16時をもって停戦」「自衛戦闘は妨げず」との指令を受け降伏に向けて準備をしており、戦車は武装を外し、航空隊に至っては一式戦闘機三型甲が四機のみだった。占守国後が所属していた海軍の千島方面根拠地隊は6月に解隊されて北海道本島の防衛に転用されており、残っていたのは二つの警備隊と九七式艦上攻撃機を四機しか持たない航空兵力のみであった。
  • 17日早朝、占守島攻略部隊を載せた上陸船団が泊地を出港、6時30分には海軍機3機が占守島を空爆する。日中にも空襲が行われるなど、玉音放送後も占守島への定期的な空爆が継続されている状況だった。
    日本側はカムチャッカ半島沿岸を舟艇多数が移動しているのは発見していたのだが、終戦後にソ連軍が侵攻する可能性はないと考え、一応夜半に各沿岸拠点に警戒を命じただけで深く考えていなかった。
  • 8月18日午前2時~3時半ごろより、突如としてソ連軍が占守島の竹田浜より上陸侵攻を開始した。ソ連軍は上陸用舟艇で上陸し、日本軍の独立歩兵第282大隊や砲兵隊により激しい攻撃を受けつつも橋頭保を築く事無く沿岸陣地を無視して進軍、午前4時頃には四嶺山に接近していた。
  • 当初日本側は上陸した部隊をソ連軍と断定できずに「国籍不明軍」としていたが、やがてソ連軍であることが判明すると、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令、堤不夾貴師団長は砲兵による上陸地点への射撃を命ずるとともに、戦車第十一連隊長池田末男大佐に師団工兵隊の一部とともに国端方面に進出して敵を撃滅するように命じた。
    • この時戦車第十一連隊は停戦に向けて戦車の武装を外したり海没処分に向けての準備をしたりしていたが、第四中隊が偵察に出ると共に出撃準備を開始する。「戦車隊の神様」の異名をもちながら開戦以来満州にある陸軍戦車学校で教官や校長代理をしていた池田は活躍の場を与えられず、停戦処置を終えたら自決しようとすら考えていたという。そうした彼の心中を察していた部下の中には思わず「連隊長殿おめでとうございます。やりましょう」と言った者もいた。

      連隊長池田末男大佐の人物像

      • 池田末男大佐は陸軍幼年学校から士官学校を経た騎兵科(後に戦車が登場したことで転科)のエリートではあるが、主に教育畑を転々とした軍人で人格者であった。
      • 学徒出陣の部下に対しては、「在学中の者まで動員せねばならぬほど戦火を拡大した軍の上層部は間違っている。貴様達はご両親が苦労して大学に入れて、その得た知識を国のために活かすのが使命で、その知識を命に代えてしまうのは残念である。」と語り、それを聞いた部下は尊敬の念で一杯になったそうな。
        この考えに沿ってか、池田は最期の出撃の際、ある学徒出陣の兵を戦列から外して連絡係に回している。この者は戦後、池田の遺族のもとを訪ねたという。
        • 四平戦車学校での教え子の一人だった司馬遼太郎は、池田から大いに薫陶を受けたと述べており、「いまでも私は朝、ひげを剃りながら自分が池田大佐ならどうするだろう」と自問し、「わからない。何十年たっても答えが出ない」と述べている。
      • また池田大佐はお付きの料理人に対しては何の注文もなく、ただ酒があれば良い、と贅沢とは全く無縁の人であった。また占守島ではどんなに寒くても絶対に自分の下着を部下に洗わせず全て自分で洗濯していた。当番兵が申し訳なさそうにしていると、「お前は俺に仕えているのか? 国に仕えてるんだろう?」と言ったと言われている。
      • 教官時代が長かった事もあり池田の教え子は司馬を含めて数多いが、その誰もが名教官として慕っている。そんな彼の講評は端的明快で知られており、ある時の戦車訓練の講評で、学生の指揮を「本日の指揮ぶりは柄のとれた肥柄杓だ」と、学生たちの面前でいい放つと、さっさとその場を去ってしまった。何だ何だと騒ぎ出した学生達に池田をよく知る補助教官がこう付け加えた。「手のつけようもなしという事だよ」と。
        • 当時水洗便所は一般的ではなく、どこも汲み取り式便所が殆ど。そして貯まった排泄物を汲み取る道具として柄の長い柄杓が肥柄杓と言われ使われていた。
      • また校長代理の時、校内至るところに貼られている「火気厳禁」の張り紙を見て「軍隊では一度禁じたものとは別に更に厳しく戒める事があってはいけない。火気禁で十分」と提言。張り紙を全て「火気禁」に改めている。

戦車第十一連隊出動

  • 出撃命令を受けた戦車第十一連隊の各隊は準備が出来た車両から随時集結地点の天神山に移動、池田自身も戦車に乗り込み天神山に向かう。池田がついた時点では第三中隊しかいなかったが、偵察にでた第四中隊長の「四嶺山の村上大隊(独立歩兵第282大隊)が敵中に孤立している」との報告を受けて全部隊の集結を待たずに集まった車両のみで突入することを決断する。
    この時池田は部下にたちに、「諸子はいま赤穂浪士の如く恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊のように玉砕もって日本民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんものは一歩前に出よ、白虎隊たらんものは手を挙げよ」と問いかけ、部下たちは挙手をもって答えたという。
  • 出撃に際し、池田連隊長は「コレヨリ敵中ニ突入セントス。祖国ノ弥栄ヲ祈ル」という訣別電報を送っている。
  • 池田連隊長は軍服の上着を脱ぎ鉢巻にワイシャツ姿となり、日章旗を片手に戦車から身を乗り出して突撃を指示する。九五式軽戦車にまたがる妖精がワイシャツに鉢巻姿のはこれが由来と思われる。左翼から第4中隊、第3中隊、第1中隊、連隊本部、第6中隊、第2中隊計37輌*9を横一線に展開させ、車外に随伴員や少数の工兵*10を乗車させ敵部隊の中心部に突入を開始する。この時の光景はまさに戦車隊の神様の名に恥じない、運用教範の実演のような見事な隊形だったと言われている。

連隊長の死

  • ちょうどこの時、戦場を北千島特有の濃霧が覆ったため両軍とも敵を見失い、戦場は至近距離での乱戦となる。その後遅れて到着した他の戦車中隊も合流したため、対戦車兵器を持ち合わせていなかったソ連軍は大損害を受けこらえきれずに四嶺山より後退、包囲されていた村上大隊を解放する。
    部隊は後退するソ連軍を追撃するが、ソ連軍は揚陸した対戦車砲4門や対戦車ライフル約100丁で猛反撃を開始。濃霧の中で至近距離から撃たれる形となった日本軍戦車隊は次々と撃破・擱座*11してしまい、池田連隊長の乗る戦車も被弾、連隊長は戦死する。
  • それでも連隊は攻撃をやめず敵陣地へ前進した。擱座した戦車からは乗員は降車し、車載機銃や騎兵銃、拳銃や軍刀を装備して歩兵として参戦、健在な戦車もキャタピラでソ連兵を踏みつけたり機銃で掃討したり戦車砲で吹き飛ばしたりと積極的に前進し、四嶺山南東の日本軍高射砲兵隊の支援砲撃と独歩第283大隊が駆け付け戦車第11連隊の残存戦車を先頭に参戦したことにより形勢は再度逆転し、ソ連軍は多数の遺棄死体を残して上陸地点の竹田浜に後退、独歩第283大隊は国端崎へ前進し、ソ連軍が占領していた要所を奪還する。
    18日午後にはソ連軍を逆に日本軍が包囲する事に成功。この時戦車第11連隊は国端崎の拠点を確保していつでもソ連軍を殲滅できる有利な状況にあった。ここで第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、18日16時をもって積極戦闘を停止した。

    ちなみに戦車11連隊の突撃時の写真がソ連側より残されている。閲覧注意

    ちなみに戦車11連隊の突撃時の写真がソ連側より残されている。閲覧注意

  • この初日の戦闘で、戦車第十一連隊は戦車多数が行動不能になり擱座、炎上撃破*12し、連隊総員約770名のうち、連隊池田連隊長の他、丹生勝丈少佐(指揮班長)、緒方静雄大尉(連隊副官)、船水達夫大尉(第一中隊長)、宮家儀大尉(第二中隊長)、藤井和夫大尉(第三中隊長)、小宮要中尉(第六中隊長)以下、96名の隊員が戦死した。特に濃霧での乱戦となった事もあり中隊長以下指揮官クラスでも戦死者が多く発生した。部隊は当初より戦闘に加わった指揮官で唯一の生存者となった第四中隊長の伊藤力男大尉が引き継ぐことになる。

その後の戦い

  • その後日本軍は軍使を派遣し、18~19日に停戦交渉を行い、ソ連側が武装解除を要求したため日本側の軍使はこれに同意した。しかし報告を受けた堤師団長は、停戦はともかく、武装解除は同意できないと言い、再度参謀長を派遣し、交渉が続けられた。20日、再びソ連軍が幌筵海峡に進入を試みた為戦闘が再開された。21日夕刻に日本側はソ連側の要求に同意、降伏の調印を行った。
    武装解除はソ連の監視のもと23日に行われ、その後しばらくは占守島で労働をしていたが、10月になり突如としてシベリアへ連行・抑留されることになる。彼らが日本に戻れたのはそれからおよそ10年後の話である。
  • この占守島の戦いでは日本軍は弾薬や食料など各物資が十分にあり、霧によりソ連軍の航空支援も不活発だったため、日本側の損害は小さくソ連側の被害は甚大、という結果になっている。
  • また、占守島には民間人が2000人ほどいたが、戦車第11連隊含めた守備隊の奮戦により戦火に巻き込まれることはなかった。
  • 戦いの後、生き残った者達の手により遺体収容が行われた。ある者は擱座した愛車の傍で白兵戦の末、ある者は戦車内で砲身にすがって、またある者は操縦桿を握りしめたまま力尽きていたという。そして、車体の番号が消えるほど焼け焦げた戦車内で、顔を判別できない程に全身を焼かれながらも壁にもたれかかり立ったまま絶命した遺体が発見されたが、それこそが池田連隊長の最期の姿であった。
    • 最期まで戦い抜いた者たちの姿は、収容者をして「死して尚国を護ろうとする鬼気人を襲い、凄絶の二字で表現する他にない」と言わしめたという。

余談

  • 第五方面軍司令官として札幌から彼らを指揮した樋口季一郎中将は満州ハルピン特務機関長時代の1938年、オトポール事件に関わった軍人として有名。
    • ナチスドイツの迫害を受けてシベリアを経由して上海からアメリカへ亡命しようとしたユダヤ人が満州国内を通過しようとしたが、同盟国ドイツとの関係悪化を懸念した満州国外交部がこれを足止め、国境沿いのオトポール駅から進めなくなってしまう。
      それを知った樋口は部下と共に食料の提供や医者の派遣を行うと共に当時関東軍参謀長だった東條英機に掛け合い外交部と交渉、彼らの上海移動を認めさせる。
    • その事が知れると、多くのユダヤ人亡命者が殺到、彼らから「ヒグチルート」と命名されたこのルートは最終的に約5000人ほどのユダヤ人が通過しアメリカに亡命することになる。当然ドイツからは抗議が来たが東條は「当然な人道的配慮」と突っぱねた。
      尚この人数は、同盟国ドイツへの配慮から記録が殆ど残っておらず、2万人だったという証言もある。
    • 戦後、占守島での敗北で遺恨を持つソ連は責任者である樋口を戦犯にかけようとしたが、それを知った世界ユダヤ人協会がアメリカに働きかけ、戦犯リストに彼の名を入れるのを阻止している。
  • また艦これでも有名なキスカ島撤収作戦でも彼は関わっている。
    • 敵の包囲下での撤収作戦ではスピードが成功の成否を決めるのだが、陸軍歩兵の持つ小銃が意外にそれを阻害する可能性があった。
    • 大発や舟艇などで島を離れ乗艦する際、揚陸用の設備のない巡洋艦や駆逐艦に乗るには縄ばしご等で登るのだが、小銃を担ぎながら登るのは時間がかかるし、狭い艦内で邪魔になる。
    • 指揮を執る木村昌福少将は小銃の廃棄を陸軍側に要請した。しかし海軍と異なり陸軍では小銃は命よりも大切なものであり、菊の御紋が彫られた小銃を捨てるなど考えられない事だった。
      実際南方では撃沈された輸送船から海に飛び込んだ兵士が小銃を捨てずに泳ぎ、救助の短艇によじ登れず、「小銃を捨てろ」という短艇乗員の言葉も無視し力尽きて沈んでいったという事例もあった。それだけ陸軍にとって小銃を捨てるというのは重大なことだったのだ。
    • 当然陸軍側からは猛反発が起きた。だがこの時、北部軍(第五方面軍の前身)司令官だった樋口は中央に確認を採らず独断で木村提督の要請を承諾する。それどころか小銃ばかりか全火器の放棄も承認し、本当に身一つでの脱出を命じている。これにより将兵の艦艇への乗艦がスムーズに行われ成功の要因となった。

九五式軽戦車と九七式中戦車改

  • 特大発に乗っている戦車の元ネタは恐らく九五式軽戦車(左側)と九七式中戦車改(右側)と思われる
    • 九五式軽戦車(ハ号)は八九式軽戦車*13の後継として開発された、機動性を重視されたいわゆる機動戦車。開発段階ではヴィッカース6トン戦車を参考にして開発している。1935年に制式採用され、翌年より生産が始まった。
      • 機動力の面では、エンジンは八九式のエンジンを小型化した130馬力の三菱A六一二〇VDeを搭載したが、車体が八九式の半分ほどと軽かった為、速度は日本側の試験では40km/h、イギリス側の試験では48km/hを発揮した。さらに操縦が九七式や八九式と比べ簡単かつ非常に故障しにくかった為、操縦者からの評価は九七式軽装甲車と同じくらい良かった。特に信頼性に関しては上々で、マレーからスマトラまで2000km以上の走行に耐えた車輛も存在する。
        火力は開発段階で対戦車戦を考慮したため、前期型では狙撃砲の流れを組む九四式戦車砲を、後期型では九四式速射砲の流れを組む九八式戦車砲を搭載した。実戦でもノモンハン事変ではソ連のBT-7を撃破するなど十分だったが、さすがに太平洋戦争で相対したM3スチュアートには分が悪かった。*14
        道路や港湾といったインフラ事情による重量制限が厳しいため装甲は相当薄く、最大12mm(防盾は30mm)とライフル弾しか防げない。というか当たり所によっては鋼芯弾を使用したライフルですら貫通されかねないモノだった。さすがに実際にはライフル弾や機銃で撃破までされた事例はほぼ無いが、貫通報告はそこそこあった。

九五式軽戦車の活躍

九五式軽戦車の活躍

  • 初の実戦参加はノモンハン事変である。戦車第4連隊が本車を集中的に装備し、BT-5やBT-7、T-26などを日本側の損害以上に撃破している。さらにハルハ川周辺では戦車第3連隊がピアノ線により行動不能、集中砲火を受けている隙に第4連隊は本車を主力にソ連の砲兵陣地に突入し、壊滅させている。このように、九五式軽戦車は開発直後ならば活躍できたのである。
  • しかし太平洋戦争に入ると一転して九五式軽戦車は初期から苦戦している。フィリピンの戦いでは一個小隊がM3軽戦車5輌の小隊と遭遇、即座に撃破した先頭車が隊長車だったこともあって撃退はしたものの、他の車輌には命中弾を与えても貫通できないという事態が発生した。さらに、ビルマのラングーンでは戦車第2連隊所属の4輌がM3スチュアートにより1500m先から一方的に撃破されている。
    防御主体に移ったその後の戦いでは、装甲が薄いとはいえ歩兵にとっては十分な脅威であり、貴重な機甲戦力として使われることになる。戦車戦自体は数え切れるほどしかなく、末期のフィリピンでも投入されている。腐っても戦車である本車は、これらの戦いで拠点防衛や反撃の一番槍として敵の野営地を襲撃するなど活躍、出血を強いている。
    中国大陸においては、中国軍が対戦車火力をさほど持っていなかった為、様々な作戦に投入されて陣地を吹き飛ばしたり、バリケードを突破したりと歩兵の火力支援に当たっている。
  • 九七式中戦車改(チハ改)は九七式中戦車の対戦車火力向上型。一式47mm戦車砲は、最大450mで貫通力82mmを発揮でき、1942年当時の日本軍が持つ戦車砲としては最も貫通力の高いものだった。
    • 九七式中戦車は日本が開発した八九式中戦車の後継である。選定の際、小型かつ安価なチニ車との競作となったが、用兵側の声を聞いた結果、高価ながらより高性能なチハ車が採用されることとなった。*15
    • 火力に関しては、一式四十七粍戦車砲はおよそ800m~1000mの距離からフィリピン駐屯の米英軍主力戦車であるM3スチュアートの正面装甲を貫通し、二世代ほど違うM4シャーマンに対しては正面装甲は100m以内、側面なら400mの距離から貫通した。また徹甲榴弾なので乗員への殺傷力も十分だった。米軍の試験結果では450mで82mm、960mで63mmの貫通力を発揮した。
      装甲は37mm砲に耐えるよう設計したもので、日本の十一年式三十七粍速射砲の至近距離からの砲撃には耐えたが、ドイツ製のラインメタル37mm対戦車砲*16やアメリカ製のM3 37mm対戦車砲には貫通された。しかし、M3 37mm対戦車砲やM3スチュアートが搭載するM6 37mm戦車砲に対しては近距離からでないと弾くことがあるなど、一応防御力はあった。
      機動性に関しては車重が軽いとはいえ、ディーゼルエンジンが重いワリには出力不足で、最大170馬力/2000回転だが、定格では150馬力、耐久性を考慮した運転制限*17を掛ける場合、140馬力ほどだった。特に冷却不良や騒音、排煙が酷かった。最も、異常排煙は整備方法の変更、冷却不良も後期型車体では排気窓の位置を変更して改善こそしたが解決はしなかった。さらに燃料噴射ポンプのトラブルは多かった。さらにエンジンを生産したメーカーごとに細部の構造が違う為、それぞれメーカーごとに部品を用意する必要があったりと整備には大変苦労した。なお、馬力不足を補う目的で前進4速の主変速機にレンジ切り替え用2速の副変速機*18があり、これで馬力不足を補っていた。ただ、それもあってギアチェンジのタイミングはかなりシビアで、操縦が難しかった。また九五式軽戦車同様シーソー式サスペンションを採用している。これは車内外部に取り付ける構造の為、車内容積を装置に取らない利点があり、従来のサスペンションと比較して地形追従能力が高く走破性は良かった。転輪はゴムタイヤを焼き嵌めしており、衝撃や騒音を抑える役割を持っていた。しかし、防弾用の覆いがあるとはいえ懸架ばねはむき出しで、ゴムタイヤは発熱しやすく、長距離行軍時は定期的に小休止を取らないとタイヤが溶けて中のワイヤーが剥き出しになったり脱輪した。ビルマで戦った戦車第14連隊では、ゴムタイヤを冷やす目的で小休止をとる中、真横を九五式軽戦車が軽々と追い越す場面があった。*19 実際、短時間ならともかく行軍時では最大馬力を発揮することは無く、操縦手は専らエンジン温度計と油温計を見ながら慎重な運転をしてした。
      なお、現場で問題になったのは主に足回りや変速機、機関系統の信頼性で、機動性に関しては元々自動車化歩兵に追従できる目的であって、快速戦車や騎兵戦車ではなかったので、速度や馬力を問題視することは少なかった。
      信頼性に難を抱えていながら、マレーやビルマ、フィリピンで九七式中戦車が1000~2000キロも行動できたのは、搭乗員や整備員の技術と努力なのであった。

九七式中戦車改の活躍

九七式中戦車改の活躍

  • 九七式中戦車改の初実戦は1942年の臨時松岡中隊*20による第二次バターン半島攻略戦である。資料によっては、フィリピン攻略戦では九七式中戦車改とM3軽戦車が対峙することはなかったとしているが、臨時松岡中隊第二小隊長であった宇野寛少尉(車輌番号635号車)によれば、4月7日にバンダン河北岸に敵戦車3輌が自動貨車を伴い現れたとの報告を受け、臨時松岡中隊全力と戦車第7連隊第3中隊と共に出撃、これを友軍爆撃機*21と共同撃破、その後もバターン半島で各地戦闘に参加し米比軍の守備隊を撃破、防衛線を突破する活躍を見せた。この時、宇野少尉は降伏を申し出た敵の指揮官を戦車に乗せて本部へ連れて行った。*22 ただしM3軽戦車との交戦に関しては『ミリタリークラシックスvol66』では同じく宇野少尉への取材を載せているが、宇野中尉は敵戦車との交戦については否定している。というのも、このM3軽戦車は戦車第7連隊第3中隊と交戦中に日本陸軍の航空機の攻撃により撃破され、残存戦車も臨時松岡中隊が到着する前に撤退していた、とのこと。
    しかし、中盤以降になると防戦一方になり、さらにチハの二倍の重量を持つM4シャーマンまで現れるようになると一転して苦戦するようになる。太平洋戦争では戦車戦は少なかったが、チハ改ではM4シャーマンに対しては正面装甲の貫通は難しく、反面シャーマンの持つ75mm砲は全距離からチハの装甲を貫く、というものであった。しかし、日本軍戦車兵の努力により、側面や後面から攻撃することでM4シャーマンもそこそこの数がチハ改に被撃破/擱座させられているのも事実である。上記の戦車戦以外では、腐っても戦車なので機甲戦力として敵陣地の攻撃や歩兵支援、防衛戦闘に使われ、敵に損害を強いている。
  • なお、連合軍兵士向けに1945年7月の戦時中に作成された"The Most Effective Jap Tank"では鹵獲した九七式中戦車改の調査報告が乗っており、題名の通り「最も効果的な日本戦車」と評価している。最も、これは日本戦車の中ではの話ではあるが。ちなみに同レポート内部では砲塔と主砲部分以外では従来の九七式中戦車と変化は特に見られないと述べつつ、47mm砲の砲弾の品質が良くなったこととM4A3を撃破できること、照準器が優れているということが書かれている。

車載機銃あれこれ

車載機銃あれこれ

  • ちなみにこれら戦車に搭載された九七式7.7mm車載重機関銃は元々チェコのZB26にちょっと車載用に改良を加えただけであり、本家に無断で生産していたのでいわゆるデッドコピーである。
    • 97式車載重機関銃は重機関銃用の97式実包を使用しており、同じく7.7mmだが歩兵が持つ99式短小銃/軽機関銃用の99式実包より装薬が多く威力が高かった。銃の上部に20発弾倉を装填する方式で、装弾数も少なめであるが日本軍の場合機銃は自衛用と認識しており、制圧射撃時・持続射撃も3点~5点射が基本だったので運用側からさほど問題となっていない。運用する側の評価は上々で、それまで使われていた九一式6.5mm車載軽機関銃(装弾数は45発)を九七式7.7mm車載重機関銃に変えないと戦車として威力を発揮できないとまで言われた。弾倉故に交換は速かったが、狭い車内で扱うには不便だという声もあった。この九七式はさまざまな戦車・装甲車に搭載され対人戦では効果を発揮した。
      • ちなみに日本戦車には基本的に同軸機銃ではなく砲塔側面・後面にかんざし式で機銃が装備された。これを砲塔銃と呼ぶ。これは日本が戦車を開発する際ビッカースC型中戦車の影響を受けたとも、当初肩当式故に同軸にすると重量増大により却って邪魔になるからかんざし式にしたなど様々な説がある。なお、初の日本戦車開発に携わった原乙未生中将によると、「陣内戦における戦車の孤立戦闘において独立性」を考えた結果この方式になったという。実戦では車体機銃と同じく砲塔銃を前方に向けて火力を集中させる。なので基本的に日本戦車の砲塔装甲は全周囲同じ厚さなのである。実戦で砲塔銃を使うことは多かったが、この方式には欠点があり、それは迅速な射撃が不可能なことであった。また、砲塔を後ろに回す必要がある手前、砲塔旋回させて機銃を撃とうとしたら敵兵を見失ったということもあった。なので、戦車兵によっては砲塔銃を使わず、機銃掃射は車体機銃に任せてそのまま主砲を撃つ人も居た。一部ではこのかんざし式と20発という装弾数が原因でバズーカといった無反動砲の餌食になったと批判する研究者も居る。では97式車載重機関銃より装弾数が多く、同軸機銃を有す他国の戦車ではどうなのか?というとやはり無反動砲の餌食になっている。そもそもこれら無反動砲で撃破される原因はソ連やアメリカ、イギリス、ドイツでも共通するが、敵歩兵の接近を許してしまったことである。主に戦車隊の単独行動や孤立、随伴歩兵の不足しているところを狙われた。つまり、無反動砲の餌食になったことはかんざし式配置と九七式車載重機関銃にすべての責任があるというのはあまりにも事実より乖離した意見である。

この装備についてのコメント


*1 極端な低火力の場合、加算補正で勝る他装備の方が強くなる場合もある。
*2 例外2つを除く過去イベントにおけるTP値。今後実装が変化する可能性あり
*3 合計20%まで
*4 合計6%まで
*5 改修値★maxの値。合計2%まで
*6 2個目まで。3個目以降は減少。
*7 第5スロットには装備不可
*8 因みに日本では慣例上この日を終戦としているが、国際法上連合国との戦争状態が終結したのは戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印式典の9月2日である。
*9 戦車第11連隊の戦車総数は64輌
*10 急な出動だった為、随伴歩兵は居なかった為戦車直協に不慣れな工兵しかいなかった。
*11 これら脱出・放棄された戦車は戦闘後に回収し修理を行った
*12 資料によってまちまちだが、戦車第11連隊の元隊員の戦後証言では19輌、別の資料では21輌、wikiによると27輌だったとも。
*13 のちに区分変更で八九式中戦車に改称
*14 BT-7の生産開始が九五式とほぼ同じ1935年なのに対し、M3軽戦車は1941年に生産が始まっている。要するに、まるまる一世代は違うのだ
*15 日中戦争の勃発で予算に余裕ができたのが一因だったとも
*16 中国軍が少数ながら装備していた
*17 クルセイダーみたいに機械的なリミッターは無いので、操縦手がアクセルの踏み加減で調整する。
*18 トルクが欲しい時はローギア、速度を出したい時はハイギアに切り替える
*19 『ミリタリークラシックスvol66』P25~26
*20 千葉戦車学校及び戦車第二連隊から戦車兵を選抜して臨時編成
*21 九九式襲撃機。なお、臨時松岡中隊長/第7戦車連隊長代理の松岡少佐は九九式軍偵の後部座席に乗り込み空中指揮を取りつつ爆撃を行った。
*22 ファインモールドの九七式中戦車(新砲塔チハ)の実写解説に載っているもの。ちなみにこの解説は鈴木社長が直接宇野寛少尉から取材したもの。