戦車のいろいろ/M4シャーマン ~バリエーションと派生型~1

Last-modified: 2022-05-20 (金) 21:09:30

M4シャーマンは昔から汎用性と機動性と装甲とを兼ね備えた戦車と言われてきた。特筆すべきはその汎用性で、その多さたるや未だバリエーションと派生型を完全にまとめた日本語文献やサイトがないほどである。ここでは全てと断言はしないができるだけそのバリエーションや派生型をまとめて行く。(基本的には軍用のもののみを取り上げる)

その前に、M4中戦車、もといアメリカ陸軍の命名規則について知っておく必要がある。皆さまよくご存知の「M4A3E8」を例に出す。まず「M」だが、実はこれは正式な意味はわからない。これは後述する。その次の「A」だが、これは「Advanced(進化)」を意味する。そして最後の「E」、これは「Experiment(実験)」を意味する。つまりM4A3E8はM4の3番目の進化型の8番目の実験車になるのだ。こう言った命名規則は米国陸軍命名システムMIL-STD-1464Aで定められている。そして件の「M」だが、この米国陸軍命名システムMIL-STD-1464Aにこの「M」についての言及がないのだ。通説では「Model(モデル)」の「M」とされているため、ここもそれに準ずることにする。この命名規則に則り、M4シリーズを紹介していく(実際はこの「M4A3E8」は試作名称であるので、「M4A3(76)W HVSS」とするのが正しい。)ちなみに、バリエーションと派生型の違いであるが、ここではバリエーションは上記の命名規則に則った名前がついているもの(例外あり)、派生型は上記の命名規則に則った名前がついていないものとする。
モチベーションが足りません...タスケテ

予備知識

M4シャーマン系統を知る上での予備知識をここにまとめる。

イギリス陸軍のシャーマンの命名方法

アメリカ陸軍の命名法は上で述べたとおりであるが、ではイギリス軍はどうだったのだろうか。イギリスはレンドリース法によりアメリカから輸出されたシャーマンのうち、17,184両を受け取っている。これは各国に輸出、供与されたシャーマンの中で78%もの割合を占め、アメリカが生産したシャーマンの中では34%を占めている。イギリスはM4、M4A1、M4A2、M4A4などをアメリカから受け取っていたが、イギリスはアメリカでの名称をそのまま用いるのでなく、独自にウィリアム・シャーマンから取った「Sherman」という名称を用い、M4を「Sherman I」、M4A1を「Sherman II」などと命名して使用した。また、75mm砲ではなく76mm砲を搭載したシャーマンは末尾に「A」を、105mm砲を搭載した支援用シャーマンである場合は末尾に「B」を、17ポンド砲を搭載した場合は末尾に「C」のアルファベットを付し、またHVSSサスペンションである場合は末尾に「Y」のアルファベットを付した。イギリス軍での名称は全角の丸括弧内に表記されている。

出典・参考元・画像引用元
Wikipedia

1945年時点でのシャーマンの価格

1945年8月9日付の「Army Service Forces Catalog ORD 5-3-1」からのシャーマンシリーズの価格表。

車両名価格
M4(75)VVSS49,173ドル
M4(105)VVSS46,309ドル
M4(105)HVSS(T66履帯)49,621ドル
M4(105)HVSS(T80履帯)53,391ドル
M4A1(75)VVSS47,725ドル
M4A1(76)VVSS51,509ドル
M4A1(76)W HVSS(T66履帯)54,062ドル
M4A1(76)W HVSS(T80履帯)45,814ドル
M4A2(76)W VVSS45,863ドル
M4A2(76)W HVSS(T66履帯)48,029ドル
M4A2(76)W HVSS(T80履帯)50,928ドル
M1040,906ドル
M4A3(75)dry VVSS44,556ドル
M4A3(75)dry HVSS(T66履帯)47,003ドル
M4A3(75)dry HVSS(T80履帯)49,997ドル
M4A3(105)VVSS45,776ドル
M4A3(105)HVSS(T66履帯)49,088ドル
M4A3(105)HVSS(T80履帯)52,836ドル
M4A3(75)W VVSS44,556ドル
M4A3(75)W HVSS(T66履帯)47,003ドル
M4A3(75)W HVSS(T80履帯)49,997ドル
M4A3(76)W VVSS47,754ドル
M4A3(76)W HVSS(T66履帯)51,066ドル
M4A3(76)W HVSS(T80履帯)54,836ドル
M4A3E256,812ドル
M10A143,677ドル
M3651,290ドル
M7B140,524ドル
M4A446,467ドル
M4A664,455ドル
M32シリーズ56,217ドル

この価格表に載っているM4A3(75)Dryの3両、「M4A3(75)dry VVSS」に関しては前期型だと判断できるが、「M4A3(75)dry HVSS」に関してはM4A3(75) HVSSに乾式弾薬庫装備の車両があったとの記述をいくら探しても見つけられず、少し謎である。

出典・参考元・画像引用元
Subjects Sherman's 1945 prices

シャーマン生産の詳細

ここではシャーマンの生産に携わった各会社ごとに、シャーマン生産の詳細を紹介していく。

American Locomotive(ALCO)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
アメリカン・ロコモティブ社M4(75)1943年2月~11月2,150両
アメリカン・ロコモティブ社M4A2(75)1942年9月~1943年3月150両
アメリカン・ロコモティブ社M361943年10月~12月413両M10A1からの改造
アメリカン・ロコモティブ社M36B21945年5月~戦後672台M10からの改造
出典・参考元・画像引用元
日本語版Wikipedia
Wikipedia
Wikipedia
型式別生産量
Baldwin Locomotive Works(BLM)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス社M4(75)1943年1月~12月1,233両
ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス社M4A2(75)1943年10月12両
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日本語版Wikipedia
Wikipedia
型式別生産量
Chrysler/Chrysler Defense Arsenal (CDA)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4 Composite1943年8月~12月1,676両
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4(105)1944年2月~8月800両
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4(105)HVSS1944年9月~1945年5月841両
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4A3(105)1944年3月~9月500両
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4A3(105) HVSS1944年10月~1945年6月2,539両
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4A3(76)W1944年3月~8月1,400両
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4A3(76)W HVSS(M4A3E8)1944年9月~1945年4月2,617両
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4A41942年6月~1943年8月7,499両
クライスラー/デトロイト戦車工廠M4A61943年10月~1944年1月75両当初の計画では775両生産する予定であった。
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日本語版Wikipedia
Wikipedia
型式別生産量
Federal Machine & Welder(FMW)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
フェデラルマシーン・アンド・ウェルダー社M4A2(75)1942年12月~1943年10月540両
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型式別生産量
Fisher Body/Fisher Tank Arsenal (FTA)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M4A2(75)1942年4月~1944年4月4,614両
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M4A2(75)1943年11月~1944年5月1,000両後期型
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M4A2(76)W1944年5月~9月1,594両
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M4A2(76)W HVSS(M4A2E8)1944年9月~1944年5月1,300台
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M4A3(75)W1944年2月~1945年3月2,410両
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M4A3(75)W HVSS1944年末~1945年中頃?651両
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M4A3(76)W1944年9月~12月525両
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M4A3E21944年5月~7月254両
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M101942年9月~1943年12月4,993両
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M10A11943年9月~11月375両
フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠M35 Prime Mover1944年1月~6月209両M10A1からの改造
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日本語版Wikipedia
Wikipedia
Wikipedia
型式別生産量
戦車研究室
Ford Motor Company(FMC)
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
フォード・モーターM4A3(75)1942年6月~1943年8月1,690両前期型
フォード・モーターM10A11943年9月~1942年10月1,038両
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日本語版wikipedia
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型式別生産量
Lima Locomotive Works(LLW)
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
ライマ・ロコモティブ・ワークス社M4A1(75)1942年2月~1943年8月1,655両
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型式別生産量
Montreal Locomotive Works(MLW)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
モントリオール・ロコモティブ・ワークス25pdr SP SextonI1943年(詳しい月は不明)125両
モントリオール・ロコモティブ・ワークス25pdr SP SextonII1943年~45年(詳しい月は不明)2,025両
モントリオール・ロコモティブ・ワークスグリズリー巡航戦車1943年8月~1942年(詳しい月は不明)188両
モントリオール・ロコモティブ・ワークスRam Mk.I1941年11月~1942年2月50両
モントリオール・ロコモティブ・ワークスRam Mk.II1942年2月~1943年7月1,899両Ram OP/Command含む
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戦車研究室
Wikipedia
Wikipedia
Wikipedia
Tank-Encyclopedia
Pacific Car & Foundry(PCF)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
パシフィック・カー・ファウンドリー社M4A11942年5月~1943年11月926両
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SHERMAN MINUTIA WEBSITE
Pressed Steel Car(PST)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
プレスド・スチール・カー社M4A11942年3月~1943年11月3,700両
プレスド・スチール・カー社M7B11944年3月~1945年2月826両
型式別生産量
Wikipedia
Pullman Standard(PS)社
製造メーカー製造シャーマン製造期間製造台数備考
プルマン・スタンダード社M41943年5月~8月689両
プルマン・スタンダード社M4A21942年4月~1943年8月2,737両

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型式別生産量}}

砲塔の形~ローバッスルとハイバッスル~
ハイバッスル砲塔ローバッスル砲塔
high_bustle_2.JPG low_bustle_2.JPG

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砲塔後部の張り出しが後退しているタイプがローバッスル砲塔、持ち上げられているタイプがハイバッスル砲塔である。操縦手用のハッチが馬蹄型で突き出ていた際はほとんどこのローバッスル砲塔であったが、操縦手用の大型ハッチ導入に伴い、砲塔後ろの出っ張りが上がっているハイバッスル砲塔に取り替えられた。そもそもこの張り出しは何かといえば、無線機の収納スペースである。

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サスペンション~VVSSとHVSS~
VVSS(Vertical Volute Spring Suspension)
垂直渦巻スプリング・サスペンション
HVSS(Horizontal Volute Spring Suspension)
水平渦巻スプリング・サスペンション
sherman_bogie1.JPG sherman_bogie_hvss1.JPG
M4シャーマンシリーズ全体を通して履いているサスペンションである。上写真のようなものがVVSSにあたる。ただ、VVSSサスペンション自体も生産時期などで見た目が細かく分かれるため、より一般的な写真のものを覚えるのが良いだろう。主に後期型などに導入されたサスペンション。従来のVVSSで垂直に配置されていた渦巻スプリングを水平に配置することでストローク量の増大を図った。VVSSに比べて緩衝能力が向上している。1944年9月以降の生産車はこのサスペンションを履いていることがほとんどである。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE
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末尾の「W」

時折、末尾に「W」の文字がある車両があるが、「W」はWaterの略で、湿式弾薬庫が導入されていることを示すアルファベットである。湿式弾薬庫というのは不凍液(グリセリン溶液)で満たして引火を防ぐ方法を用いた弾薬庫で、湿式弾薬庫以前は乾式弾薬庫が主だったが、乾式弾薬庫では弾薬庫に被弾した際に火災や爆発が発生する確率が高く、かなり危険性が高かった。しかし、湿式弾薬庫を導入したことで、炎上率は10~15%低下し、また火災が発生しても不凍液が火災の進行を遅らせるため、乗員の脱出が行いやすくなるなど乾式弾薬庫と比べて利点が多くあり、のちのシャーマンシリーズの標準となっている。

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日本語版Wikipedia

砲架
M34砲架M34A1砲架
M34_mount2.JPG sherman-firefly-thimister-clermont.jpg

シャーマンの75mm砲搭載型には2つの砲架が存在する。M34砲架とM34A1砲架である。M34砲架は初期型のシャーマンに多く見られる砲架であり、1942年後半ごろまで生産されていたとされる。しかしM34砲架には砲手用の直接望遠照準器がなく、砲塔上部にある潜望鏡を使って照準を行なっていた。しかし、やはりそれでは不便であるとして砲架の砲身横に直接望遠照準器を装備した改良型のM34A1砲架が開発された。M34A1砲架は1942年10月に正式化された。しかし、すでに大量に配備されているM34砲架をすぐにM34A1砲架に置き換えるのは難しかったため、「クイックフィックス(その場しのぎなどの意味を持つ)」キットが作成され、M34砲架に砲手用の直接望遠照準器を装備できるようにした。M34A1砲架は1943年3月に最初に生産ラインに入り、4月までに完全にM34砲架と入れ替わった。
M34_mount_mod.JPG
「クイックフィックス」キットによって直接望遠照準器を装備したM34砲架


105mm榴弾砲用M52砲架
105mm_mount1.JPG

105mm榴弾砲を搭載した試作車であるM4A4E1は反動機構系に問題を抱えていた。これらの問題はM4A4E1のT70砲架に原因があるとして、解決のためにM52砲架が開発された。このM52砲架は第二次試作車であるM4E5に搭載され、以前のT70砲架と比べ優れていたため、M52砲架を搭載したM4(105)、M4A3(105)はすぐさま生産に移され、4,600両以上が生産された。


T23砲塔76mm砲用M62砲架
76mm_mount4.JPG

M62砲架はT23砲塔の76mm砲用に設計された砲架で、回転体がないという点で前述の2つの防盾と異なっている。防盾は厚さ3.5インチ(8.9cm)であった。1944年後半、防盾に幌を取り付けるために防盾に幌装備用の調整が施された。上記の写真の防盾に取り付けられている防盾幌は1945年初頭に生産された。

1944年後半以後1944年後半以前
25d0bbabec739.jpg 76mm_mount1.JPG
幌取り付け用の突起が取り付けられているのがわかる。それ以前の時期の防盾には突起などは取り付けられていない。

出典・参考・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4(Sherman I)

M4_75.JPG

航空機用であったコンチネンタルR-975空冷式ラジアルエンジンを車載用に改良したエンジンを搭載したM4シリーズの初期型。車体は溶接されている。ハッチは馬蹄型をしており前に突き出ていた。主武装は75mm M3戦車砲で、副武装に12.7mm機関銃(砲塔真上、装着しているものと装着していないものがある)と7.62mm機関銃(主砲同軸、車体)が搭載された。ブレスド・スチール・カー社、ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス、アメリカン・ロコモティブ社、ブルマン・スタンダード社でコンポジット型のぞく5,072両が生産された。1944年6月のノルマンディー上陸作戦から秋頃まではA1と共にアメリカ軍の主力であったが、同年末頃から次第にA3に更新されていった。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE
日本語版Wikipedia
戦車研究室

バリエーション

アメリカ
M4(76)W

76mm砲を搭載したM4。65発の76mm砲弾を収容でき、湿式弾薬庫を搭載していた。車体に搭載されている砲弾を素早く砲塔に持ってこれるように砲塔バスケットは撤去された。1943年12月から1944年2月の間のどこかでM4(76)Wはクライスラーによって制作され、1945年の夏には生産が開始される予定だったが、ヨーロッパでの終戦に伴い、生産計画も中止された。

出典・参考元・画像引用元
Military History Encyclopedia on the Web

派生型

アメリカ
M4 Composite (Sherman Hybrid)

M4Composite.JPG
M4は生産工場や時期により仕様が異なる数枚の圧延鋼板と鋳造部品を溶接接合していた。もちろんこれでは強度が通常の溶接装甲と劣るため前線改修用の前面増加装甲キットが開発されたり、生産途中から後部は溶接型のまま車体前面のみをM4A1と同様の一体鋳造型に変更したコンポジット型が製造された。この内、後者が本車である。M4の車体前面は出っ張ったハッチなどで溶接が複雑化していたため、M4A1の車体前面を持ってくることにより車体前面の大量の溶接の工程を簡単にした。1943年5月から翌年8月までにデトロイト工廠で1,676台が生産された。ちなみに、「Sherman Hybrid」とは英国での名称である。

出典・参考元・画像引用元
日本語版Wikipedia

M4E6 M4A1の項目に記述

M4E5 M4A4の項目に記述

M4(105) (Sherman IB)

M4_105.JPG
支援用として開発された105mm榴弾砲搭載型M4。車体正面の傾斜が元のM4の56°から47°になり、元のM4にあった操縦手ハッチの出っ張りがなくなっている。これは生産の簡略化などの目的もあり、中期から後期生産型のM4や76mm砲搭載のM4、また本車のような105mm榴弾砲搭載型にもこの改良が施されている。800台がクライスラーによって生産された。

出典・参考元・画像引用元
日本語版Wikipedia
SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4 Composite(105)

m4compositeftwayne-107w-4.jpg
M4 Compositeに105mm榴弾砲を搭載した支援用戦車。M4 CompositeをベースとしたM4(105)は極々初期型である。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4(105)HVSS (Sherman IBY)

M4_105_HVSS.JPG
足回りがVVSSに換装されたM4(105)。それ以外は特に変更点はない。841台がクライスラーによって生産された。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE

T90 HMC

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T90 HMCのコンセプト。コンセプトであり実車の写真ではない。
T36 155mm榴弾砲を搭載したM4。アメリカ陸軍は、実戦で遭遇するであろう様々な野戦要塞に対抗して幾つかの155mm榴弾砲の開発を進めていた。この榴弾砲群は本車に搭載されるT36迫撃砲の元となるT9迫撃砲を除き全て前装式であった。また、これらは全て従来の戦車砲と同じような設計だったために、砲塔などの設置にも適していた。こう言った背景があり、1945年1月2日に委員会はM4シャーマンをベースとした自走迫撃砲の開発を承認、「T90 mortar motor carriage」と名称を付し、少し遅れてプレスド・スチール社がT90 HMCの砲塔とモックアップを作成する契約を結んだ。

T90%2BMMC%2B%25282%2529.png
T90 HMCに搭載された155mm T36迫撃砲

T9迫撃砲を搭載したT90の試作砲塔のテストでは、砲架が砲塔内のスペースを使い過ぎていることが指摘された。T9迫撃砲は同心式駐退機(駐退機と砲身を同化させた駐退機)を搭載するという改良を加えられ、この時点で、T9迫撃砲はT36迫撃砲と改称された。俯角は-10°、仰角は+70°が望ましいとされ、砲塔もこれに合うように設計された。不運にも、T90 HMCはモックアップが完成した時点で第二次世界大戦は終戦を迎え、アメリカ陸軍は装甲化された自走砲、重自走砲などへの興味をとたんに失ってしまい、1945年8月23日に計画は終了されてしまった。

出典・参考元・画像引用元
Off The Mark: US Revamp

M4 coincidence range finder

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M4にcoincidence range finder(ステレオ式測距儀)を搭載した試験車両。砲塔両側面に飛び出たレンズが測距儀を思わせる。また、測距儀搭載時に何か不都合があったのか防盾下部が切り取られているのが写真からわかる。このM4はアバディーン試験場で撮られたと思われる写真から見て取れるところしか詳細がわからず、その他一切が不明である。

出典・参考元・画像引用元
フタガワカサラ様のTwitter

M4 Flamethrower ホース装備型

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戦車から火炎放射しても届かないところだったりがあるので、そういったところを焼くために最大400フィート(約122m)のホースを用意したもの。ホースは携帯火炎放射器(POA-CWS-H1)と接続し、戦車内の火炎放射器専用の燃料タンクを使って火炎放射を行った。詳しい戦歴などは不明だが、沖縄で使われた可能性があると言う。

出典・参考元・画像引用元
えすだぶ様のTwitter

M4 Composit Flamethrower

id_m4_shermanflame_03_700.jpg
M4 CompositにPOA-CWS-H1を搭載した火炎放射戦車。この写真では砲塔前面がみえないが、恐らく主砲を取り外し、POA-CWS-H1火炎放射器を偽の75mmの砲身のなかに隠して搭載していると思われる。POA-CWS-H1のPOAはPacific Ocean Areas(太平洋戦区)、CWSは化学兵器の意、Hはハワイと言う意味である。POA-CWS-H1は燃料をより遠くまで飛翔させるため圧縮二酸化炭素ガスを使用し燃料容量は290ガロンで油性燃料で40ヤード(約36m)、増站燃料で60~80ヤード(約55m~73m)まで燃料を飛翔させることができた。POA-CWS-H1が装備されたM4 Compositは第713戦車大隊に装備され、日本軍相手に使用された。火炎放射戦車は塹壕に立て篭もる日本軍相手に有効で、また、こう言った火炎放射は' '燃やす' 'のではなく周辺の酸素を吸い取り窒息させることがほとんどであった。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE
Amazon 異形戦車ものしり大百科(筆者が持っているのは改訂版)

M4(105)with T26E3 turret

m4_105mm41.jpg
T26E3(M26の先行量産型)の砲塔をM4(105)VVSS 30103950号車車体に搭載したもの。1944年夏にクライスラーによって製作された。M4に90mm砲を搭載するという試みは以前からあったが、T26E3の砲塔を搭載したのは装甲の改善を意図したものでもあった。しかし、T26E3自体次期主力戦車の座が待っているというのにM4に砲塔を搭載してはT26E3の生産ラインの妨害になり、M4に搭載するならT26E3の車体に載せた方が幾分もマシであることはたしかだった。また、参考元には言及がないが、M4にT26E3砲塔を搭載するとかなり重心が高くなることは一目瞭然で、実戦での使用にも問題がありそうだった。短い試験の後、このT26E3砲塔搭載のM4(105)は不採用となった。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE
Yandex Zen

M32 TRV(Tank Recovery Vehicle)

7c1d1f11c8e5a4a1518ddbc670c22f60.jpg
M32は適当な画像が見つからなかったため、ほとんど変わらない試作車のT5の画像
T5(M32の試作車)の量産型。TRV(Tank Recovery Vehicle)とは機甲部隊に追随し、故障もしくは損傷した戦車の救出、応急修理を行うための装備である。M3中戦車のTRV型である、「M31 TRV」の後継として開発された。M4中戦車の砲塔を撤去し、半オープントップの新設計の円形の砲塔(固定砲塔)を載せて、Aフレーム型と呼ばれる全長18フィート(5.5m)のクレーンを搭載している。牽引用ウィンチは最大60,000ポンド(27.22トン)の牽引力を発揮することができ、クレーンを展開した状態で最大30,000ポンド(13.61トン)の物体を吊り上げる事がでた。また、20,000ポンド(9,072kg)までのものを吊り上げたまま移動することも可能であった。なお、クレーンで10,000ポンド(4,536kg)以上のものを吊り下げる場合には、左右3つのサスペンションボギーのうち最前部と最後部を固定する必要があり、そのための固定機構を装備している。また、車体前面に煙幕弾投射用にM2 60mm迫撃砲もしくはM1 81mm迫撃砲(携行弾数30発)も搭載していた。M32 TRVは1944年1月よりデトロイト戦車工廠(Detroit Tank Arsenal)及びプレスドスチール社において163両が生産された。

出典・参考元・画像引用元
日本語版Wikipedia

トリニティ実験場土壌サンプル採取用M4

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サンプル採取用車両
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先導車と思しき車両
トリニティ実験での爆心地付近の土壌サンプル採取用に改造された2台のM4。サンプル採取用車両とボンベを4本搭載した先導車と思しき車両がある。放射線遮蔽のため、車体は真っ白に塗られ、鉛の内張が設けられた。最初の試験では両車をエンリコ・フェルミとハーバート・L・アンダーソンが運転したが、フェルミの乗った車両は1.6km足らずのところで故障してしまったという。その後の両車の運命は不明だ。映像にこの車両がカラーで記録されている。

出典・参考元・画像引用元
蛇目伍長様のTwitter

イギリス
Sherman IC Firefly

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イギリス軍にレンドリースされたM4に17ポンド対戦車砲を載せたもの。17ポンド砲を搭載するに際して、車体機銃口が塞がれ、防盾に改良が加えられ、無線機収容用のスペースが砲塔後部に増設された。詳細な生産数は不明である。ちなみにアメリカでの「M4」は無印だが、イギリスでは「Sherman I」と名前がつけられていた。アメリカでは無印なのになぜイギリスでは「1」がつくのかと言うと、数え方の違いである。

出典・参考元・画像引用元
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Sherman IC Hybrid Firefly

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イギリス軍にレンドリースされたM4 Hybrid(M4 Composite)に17ポンド対戦車砲を搭載した型。シャーマン・ファイアフライは実戦投入初期(ノルマンディー上陸作戦時)はVC型(M4A4型)が主流だったが、レンドリース元のアメリカでシャーマンV(M4A4)が生産終了していたこともあり、終戦までにはIC(IC Hybrid含む)型が多数を占める状態となっていた。

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M4A1(Sherman II)

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生産開始と実戦投入自体は一番早い型。M4と同じコンチネンタルR-975空冷式ラジアルエンジンを搭載しているが、車体は一体鋳造になり、避弾経始が向上されている。主砲は75mm M3戦車砲と副武装に12.7mm機関銃(砲塔真上)、7.62mm機関銃(主砲同軸、車体)が搭載されるなど、武装はM4と同じである。1942年3月から1943年11月にかけてライマ・ロコモティブ・ワークス、プレスド・スチール・カー社、パシフィック・カー&ファウンドリー社で6,181台(後期型含めば6,281台)が生産された。米軍向けとしては水冷ガソリンエンジン装備のM4A3が次の主生産型となったため、M4A1はイギリス連邦軍や自由ポーランド軍、自由フランス軍に供与されたが、1945年春には後期型砲塔を搭載したものが西ヨーロッパの米軍に再び供給されている。エンジンが共通であるため、M4と同じ部隊に混成配備されることもあった。当初、鋳造装甲の強度に疑問を持つ部隊に使用を拒否されたこともあったが、前期型の溶接車体よりA1の方が被弾に強いと認識された。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE
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戦車研究室

バリエーション

アメリカ
M4A1(75)W

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M4A1の後期生産型。湿式弾薬庫や操縦手用の大型ハッチの導入などが主な変更点である。プレスド・スチール・カー社で100両が生産された。

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M4A1(76)W(Sherman IIA)

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M4A1の75mm砲塔を76.2mm砲搭載のT23砲塔へ換装、上記のM4A1(75)Wと同じく湿式弾薬庫に操縦手用の大型ハッチも導入された。1944年1月から翌5月までにプレスド・スチール・カー社によって3426輌(2171両とも)が生産された。戦後は各国にも供与され、特に中華民国国軍のM4A1(76)Wは搭載砲を75mm M3に載せ替えるという改造を受けている。HVSS換装型についてはM4A1E8の項を参照のこと。

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Reddit

M4A1(76)W HVSS(M4A1E8)(Sherman IIAY)

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M4A1(76)WのサスペンションをHVSSに変更、もしくはVVSSサスペンション型から改修した後期型。HVSS換装型は1944年9月の生産車から導入されている。プレスド・スチール・カー社によって1,255台が生産された。戦後、フランスを経由してイスラエルに渡り、のちのM51として誕生している。

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M4A1 MICHAEL

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イギリスに輸送されたM4A1の第一号車。「MICHAEL(マイケル)」とは、米マイケル購資使節団長マイケル・デュワーに因んで名付けられた。リマ機関車工場で生産されたM4A1の極初期型で、車体正面にはボールタレットの7.62mm機関銃とは別に、車体に穴を開けそこに7.62mm機関銃を2門搭載している。サスペンションも初期のVVSSである。マイケルは1942年4月にイギリスに到着した。アメリカにいた際に搭載していた75mm M2戦車砲はイギリスに到着した後に75mm M3戦車砲に換装されている。マイケルは試験車両として大戦を生き残り、現在はボービントン戦車博物館に展示されている。ちなみに、マイケルのシリアルナンバーはアメリカではT-25190であるが、イギリスに到着した際はT-74195に変わっている。これは、イギリスがシャーマン用に用意したシリアルナンバーT-74194~T-74593の内の二つ目のT-74195を与えられたからである。

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M4E7

コンチネンタルR-975エンジンの代わりにフォードGAA V8エンジンを搭載したM4A1。試作車が1両のみらしく、M4A3などのフォードGAA V8エンジン搭載シャーマンのテストベッドとして使用されたと推測されるが、詳細は不明である。

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・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman

M4A1E1

アメリカ陸軍武器科のNo.18515の命令に従って、製作されたシャーマン。アメリカ陸軍武器科は砂漠で運用中にシャーマンを考えて、1942年7月6日にシャーマンの戦闘室の冷却実験を行った。これはその際に使用されたM4A1。内部に断熱材を裏打ちし、クーラーやサーマルシールド、冷却装置を増設したが、効果はさほど出ず、また、運用はすでに砂漠から移行しつつあったため、戦闘室の冷却は優先的な問題とはならず、作業は継続されることなく終わった。

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・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman

M4A1E2

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上記のM4A1E1はアメリカ陸軍武器科のNo.18515の命令で制作された物である。そして、このM4A1E2もこのアメリカ陸軍武器科No.18515の命令で制作された。このM4A1はランドマーク(一定の地域(例えば砂漠など)を移動中に、またそこに戻ってくるための目印)などがない場所での運用を考え、shrill Research Corporationによって作成されたM6磁気コンパスの表示に基づいて、運転ルートと現在位置を記録する装置が搭載されていた。しかし、これが最大で20°のズレを起こすなどの不具合を抱えており、あまり信用できる物ではなかった。参考元には採用されたか否か書かれていないが、知名度や先述の不具合などから考えて不採用だったのだろう。また、M4A1E2は暗視装置のテストにも使用された。車体正面とフェンダーに4台の赤外線ライトを取り付けるなどの改造が行われ、1943年後半にテストされたが、試験結果は満足と言えるものではないことが判明し、不採用となっている。

出典・参考元・画像引用元
・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman

M4A1E3

M4A1に自動油圧変速機model 95を搭載した試作車。アメリカ陸軍武器科によって1943年10月に開発が委託されたが、不採用に終わっている。

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・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman

M4A1E4(M4A1E6)

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1949年、アメリカは相互防衛援助計画(MDAP)を開始した。そして、このM4A1E6はそのMDAP用に作成されたM4A1。元となったのアメリカのBMY社の改良プランで75mm砲搭載の小型砲塔に76mm方を搭載するというものであった。改良された車体は識別のために「E4」と末尾に付され、「M4A1E4」や「M4A3E4」と呼ばれた。前述の通り76mm砲を搭載しているが、T23砲塔ではなく通常の75mm砲用砲塔である。他に、操縦手用の大型ハッチの導入など変更点は細部にある。配備先はパキスタンやインドなどで、第二次印パ戦争などに投入された。第二次印パ戦争ではパキスタンとインドは敵対していたため、同じ型の同じ戦車でドンパチやり合ってた可能性もある。ちなみに一部ではM4A1E6とされていたためこのような表現をした。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A1E5

あらゆる面を改良したR975C4エンジンを搭載したM4A1。冷却システム、整備性、オイル潤滑システムなどが主な改良点で、この改良を加えた車両を15両(17両とも)生産する予定だったが、直前で不具合が発覚し、不具合の修正に時間がかかったため1943年12月2日にこの注文はキャンセルされた。そのため、その後のM4A1にはR975C4エンジンのみが搭載されている。

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・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman

派生型

アメリカ
T40 Whizbang(T34E2 Caliope)

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M4A1の砲塔真上に多連装ロケットを配置したもの。20の発射管があり、7.2インチ(180cm)T37榴弾ロケットとT21化学ロケットを発射することができる。75mm砲とロケットランチャーは連動しており、75mm砲を動かすことによりロケットランチャーを動かすことができた。またロケットランチャー内のロケットは1発づつもしくは斉射が可能で、必要に応じてロケットランチャーを投棄することも可能だった。T40は元々ノルマンディー上陸作戦での使用を目的としていたが、テストの遅延で作戦には間に合わず、その後1944年12月にアルデンヌ戦線に30台のT40が配備された。しかしバルジの戦いの勃発により一時的に安全な後方に戻された。バルジの戦いの後、T40はイタリア北部に移されたが、ここでも戦闘を経験することなく終戦を迎えた。陸軍はシャーマンをT40に改造するための改造キットを約1,000個注文したが、実際に製造されたキットは2つだけで、最終的に生産の遅延からこの注文もキャンセルされた。

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日本語版Wikipedia
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T73 Rocket Launcher

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T40ウィズバンの改良型で、M4A1をベースに、砲塔上にロケットを装備した。ランチャーの装甲は正面25mm、上下面が12.7mmだった。ランチャー自体の長さは1.2mで、装弾数は10発だった。また、不要になった際は、車内からの油圧で投棄が可能だった。ランチャーは砲塔と共に回転し、仰俯角は独自に-5°~+45°取ることが可能だった。実験用だったのか、実戦に投入されることはなかった。

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Tank Encyclopedia
えすだぶ様のTogetter
Weapons and Warfare
当時のT73のフィルム

T40 Calliope

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T40 Whizbangの多連装ロケットをカリオペのM8ロケットに換装したもの。1944年12月にイタリア戦線で撮影された写真(上)があるため、実戦投入されていることは分かっているが、イマイチ資料がない。現地改造の線が濃いだろう。ちなみに、「T40 Calliope」という名称は筆者が「T40 Whizbang」との名称被りを防ぐため、勝手に作った造語である。

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Sherman Cowcatcher

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シャーマンに7.2inch(183mm)ロケットを搭載する最初の試みの一つ。シャーマンの車体前部に20門の7.2inchロケットを持つ箱型のランチャーを装備した。この箱型ランチャーは変速機部からのびる俯仰角を調整できる一対のアームに支えられている。このシャーマンは「カウキャッチャー(牛捕獲機)」という渾名がつけられたという。砲塔上部へ設置することも考えられたが、重心に不安があるために考え出された配置だった。しかし、この配置でロケットを発射した場合、排煙が操縦手や砲手の視界を奪う可能性があり、最悪車内に侵入してくるのであまり合理的とは言えず、不採用となった。

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War Thunder Forum

M4 M19flotation

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3枚目は第6海兵連隊によって沖縄戦で使用されるM4 M19flotation
M4A1にM19浮揚装置「リッシェ・デバイス」を装着した型。M19浮揚装置は、6つの大きな鋼製フロートで構成されており、それぞれを縦に繋げて一つのフロートとしている。フロートがシャーマンの視界を邪魔することがないため、フロートをつけていても戦闘が可能で、また被弾にも強かった。しかし、上層部にはあまり歓迎されなかった。というのも、この6つのフロートは合計で15tあるほか、M19を搭載したシャーマン1台に対してDD戦車2台を出荷することができたからである。また、このM19浮揚装置は取り付けに20000人/時(1時間で取り付けを完了させるのに、20000人必要ということ)かかった。一応実戦にも投入され、1945年4月1日の沖縄戦開始時には、第1海兵師団第1海兵戦車大隊C中隊の第1・2小隊、第6海兵師団第6戦車大隊A中隊第2小隊、第711戦車大隊B中隊のシャーマンがM19を装備していたが、目立った結果は残せずに終わった。

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Chicago Boyz

M4A1 CDL(Canal Defense Light)

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M4A1 CDLとは、M4A1を基(他に、M4A4型、M3 ree型、マチルダII型、チャーチル型がある)にしてアメリカで試作された歩兵支援戦車。元々はイギリス発祥で、最初の試作車もマチルダIIを基にして制作された。強力なカーボンアークランプを新設計された砲塔に搭載しており、夜間に敵の位置を示すなどの用途に使用される予定だった。このプロジェクトは極秘とされたため、「Canal Defense Light」(直訳すれば運河防衛灯)と言う欺瞞名称を使用することでこの計画の漏洩を防いだ。1942年にアメリカ軍にこのプロジェクトの情報が渡ると、アメリカは早速興味を示し、アイゼンハワー将軍とクラークがイギリスでのデモンストレーションの見学をした。アメリカ軍はこれを気に入り、すでに当時旧式化していたM3 reeにこれを搭載することを思いついた。また、生産にあたっても一箇所で部品を作り、生産することは危険であるため、三箇所の工場で部品を製造し組み立て生産することになった。CDL戦車を生産するにあたり、専用の戦車大隊が6つ編成され、M3 CDLはそこに配備された。そんな中、大戦中にM3 CDLの後釜として採用されたのはM4だった。M4にはM3 reeなどとはまた違う新型の砲塔が搭載された。これはtype Eと呼ばれ、前面にアークランプを通すための二つのシャッター付きスリットを備え、電力はエンジンとは別に発電機を備えており、M4本体のエンジンを切ることによって自動的にアークランプ用の発電機に電力が切り替わる仕組みとなっていた(そのため、走行中に点灯させることは不可能であったと思われる)。また、Type E砲塔中央にある球形の張り出しは7.62mm機関銃用のボールマウントで、これはアークランプで仕切られた砲塔中央の区画に座る車長が操作したと思われる。砲塔天板には車長用のハッチも備わっていた。しかし、M4を基にしたCDLは試作の域を出ず、アメリカ軍で使用されたのはM3 CDLのみだった。しかし、そのM3 CDLも実戦を経験することなく終わってしまっている。

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M3 CDLがサーチライトを発光させている一場面。この通り非常に強力な光を放つことができた。

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Tank Encyclopedia

T52 CDL

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こちらもM4A1を基にして試作されたCDLと思われる。 不採用となったM4 CDLの改良として試作され、主に砲塔が改造されている。まず、M4 CDLでは円形であった砲塔をT23砲塔を大型化したような形に改め、二つあったスリットも一つになり、余ったスペースにM24にも搭載された75mm M6砲を搭載している。これは自衛用であろう。別にアークランプがあるにもかかわらず、75mm砲用に75mm砲弾を83発積むことが可能だった。しかし、本車も採用されることはなかった。

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Weapon News

T105 Rocket Launcher M4A3の項に記述

M4A1(76T1)

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76mm T1(76mm M7戦車砲の軽量化版)砲を搭載したM4A1。1941年9月になってアメリカ陸軍武器科はM4シャーマンの火力を強化したいと考えた。75mm M3砲の代替として76mm M7砲(M10やM6に搭載された戦車砲)が提案されたが、M4に搭載するには重すぎるため、その軽量化版として76mm T1砲の開発が始まった。76mm T1砲はM4に搭載されていた75mm M3砲の砲架に合うよう制作されていたので、M4の砲架に難なく取り付けることができた。1942年前半に2基の76mm T1砲が完成し、うち1基は固定され試射が行われ、うち一基はM4A1に搭載され、アバディーン試験場で試験が行われた。双方のテストの結果76mm T1砲はシャーマンに搭載し使用するのに問題はなく、満足のいくものであると結論付けられた。その後、76mm T1砲は76mm M1砲として制式化され、再度M4A1に載せられることになる。

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War Thunder Forum

M4A1(76M1)

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76mm T1砲を制式化した76mm M1砲を搭載したM4A1。76mm M1砲を搭載したM4A1は引き続きアバディーン性能試験場で試験が行われた。砲塔内が76mm砲の砲閉鎖機構などで少し窮屈なため、76mm M1が搭載された際に砲塔を前面に2インチ(約5cm)ほど延長させ、砲塔後部と砲閉鎖機構との間に少しゆとりを持たせ、砲塔後部の張り出しの中に入っている無線機との干渉を防いだ。76mm砲弾は83発が収容可能だった。12両のM4A1(76M1)がプレスド・スチール社で制作され、装甲部隊に配備されたのち実戦試験に供された。部隊からの最終レポートは1943年4月5日に提出され、砲塔内の窮屈さが指摘され、また、そもそも装甲部隊は対戦車能力が高い戦車にそれほど興味を持っていなかったため、結局本採用とはならず、生産された12両のうち、3両は試験車両として残され、残りの9両は通常のM4A1に再改修された。しかし、M4に76mm砲を搭載する試みはここでストップしたわけではなく、計画はM4E6へと続く。

出典・参考元・画像引用元
Military History Encyclopedia on the Web
War Thunder Forum

M4E6

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この車両はM4 Compositeを基にしているが、解説のしやすさと見やすさを優先し、M4A1の項に書く。
M4A1(76M1)の不採用を決定した会議で、T20シリーズの砲塔を搭載した改良型のM4を制作するよう命令が出された。M4 Compositeの車体にT23砲塔、76mm M1砲を改良した76mm M1A1を搭載し、76mm砲弾も71発収容可能だった。それに加え、湿式弾薬庫も導入され、また、車体に搭載されている弾薬を素早く砲塔にもってこれるよう砲塔バスケットは廃止された。2台のM4E6がデトロイト・アーセナルで制作され、その内1台が1943年7月にアバディーン性能試験場にて試験を行った。試験後、M4E6はフォートノックスに移動され、そこで発砲試験を行った。1943年8月17日、アメリカ陸軍武器科はM4E6の即座生産を推奨した。陸軍は1000台のM4E6を注文し、既存の75mm M3砲を搭載したM4は生産を終了するよう要求した。しかし、装甲部隊の反発は強く、当時、装甲部隊は対戦車能力を重視しない方向であったため76mm砲の貫通力の増加は無意味であったのだ。また、75mm砲の榴弾の方が76mm砲より爆薬量が多かったことも装甲部隊の反発を強くした。装甲部隊の反発にも関わらず、1943年夏、76mm砲搭載M4の生産準備が開始された。M4A1、M4A2、M4A3は76mm搭載型に徐々に置き換えられて行き、同盟国にも輸出されていった。

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Military History Encyclopedia on the Web

M4A1 CENTIPEDE

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T16ハーフトラックのサスペンションをM4A1に装着したもの。アバディーン試験場で試験が行われたが、車体の重量が大きくサスペンションが常に過負荷な状態にあったため、不採用とされた。

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War Thunder Forum

M32B1 TRV(Tank Recovery Vehicle)

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M4A1ベースのTRV。各種装備品はM32 TRVと一緒である。シャーマンを基にしたTRVは大多数の生産車がこのM32B1である。1943年12月よりプレスドスチール社、フェデラル・マシーン&ウェルダー社、ボールドウィン機関車製造所の3社により1,055両が生産された。

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日本語版Wikipedia
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M32B1 TRV M20 75mm recoilless rifle

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M32B1 TRVに洛東江沿いの激しい戦闘のために自衛用かM20 75mm無反動砲を搭載したもの。釜山橋頭堡の大邱デポで行われた改造であった。M20 75mm無反動砲は比較的軽量で反動もほぼなく、機関銃架にも搭載できる構造になっていたため、こういった改造が可能であった。

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えすだぶ様のTwitter
壹贖

M34 PrimeMover

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M32B1をベースとした重砲牽引車。M6重砲牽引車の配備の遅れを受け穴埋めのため1945年までにクレーンを撤去するなどの改造を24台のM32B1がチェスター補給デポで受けたが、M10A1をベースとしたM35重砲牽引車で事足りるとされ実戦では使用されなかった。

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日本語版Wikipedia
SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M32A1B1 TRV(Tank Recovery Vehicle)

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M32B1のHVSS装備型。1945年5月よりボールドウィン機関車製造所により37両が生産された。

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カナダ
Grizzly I cruiser tank

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カナダ生産型のM4A1。当初、ラム巡航戦車(M4A5)を主に生産していたカナダ軍であったが、アメリカでのちのベストセラーであるM4シャーマンの生産が始まると、ラム巡航戦車は主砲や防御力が劣っているために、存在意義が薄れてしまった。そのため、当時ラム巡航戦車を生産していたモントリオール・ロコモティブ社は1943年8月からM4A1の独自生産型としてグリズリー戦車の生産を開始した。改良点は履帯をCanadian Dry Pin, CDPと呼ばれる全鋼製、シングルピン式の履帯に換装したことや、起動輪が新設されたものに変更された程度である。履帯の改良は元のM4A1と比べ履帯自体の重量が半分ほどに軽減された。また、機動性も多少良くなり、構造自体もシンプルであるがために、コストが安くすむという利点もあった。しかし、アメリカでM4が大量生産されるとそもそも別にカナダでグリズリーを生産する意味がなくなってきたため、生産はわずか188両で終了し、現存車がわずかに残るのみとなった。

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日本語版Wikipedia

Sherman Grizzly Firefly

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グリズリー巡航戦車に17ポンド砲を載せた型。こちらも機銃口が塞がれ(展示される際に除去された可能性もある)、砲塔に小改修が加えられた以外は通常のグリズリー巡航戦車である。主に訓練用に使用され、実戦投入や実戦経験はしていない。

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日本語版Wikipedia

Skink Tank A.A. 20mm Quad

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カナダ軍がグリズリー戦車を基に開発した自走式対空戦車。「スキンク」はトカゲの意。武装は、当初はイスパノ・スイザ社製の70口径20mm機関砲HS404を全周砲塔に装備し(画像1枚目)、車体にも7.62mm機関銃が装備されている。が、後に第21軍集団(カナダ陸軍とイギリス陸軍の混成部隊)が、20mm機関砲はイギリス製の72.5口径20mmポールステン機関砲に装備を統一することを決定したため、スキンク対空戦車も武装が20mmポールステン機関砲(画像2枚目)に変更されている。最初の試作車(1枚目の画像)は溶接砲塔であったが、複雑な形状の砲塔を圧延防弾鋼板を溶接して製作するのが技術的に難しく手間が掛かるため、鋳造(2枚目の画像)に変更された。最終的に、鋳造砲塔、20mmポールステン機関砲4門となったスキンク対空戦車は三両製作され、そのうち一両がヨーロッパに向けて、1945年2~3月にかけて実戦訓練も兼ねてがカナダ第1軍に配備され、ドイツ軍との戦闘に投入された。しかし、すでにドイツ空軍は壊滅状態で敵機が飛んでくることはほとんど無く、本来の任務である対空戦闘で使用されることは少なかったが、スキンク対空戦車が装備する4連装20mm機関砲は地上目標に対してかなり有効であったという。

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日本語版Wikipedia
戦車研究室

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グリズリー巡航戦車を基にしたセクストン自走砲。I型はラム巡航戦車を基にしていたが、II型からはグリズリー巡航戦車を基にしている。イギリス軍が配備していた25ポンド砲に機動力を持たせるため、イギリス軍向けとしてカナダで生産された。カナダのロコモティブ・ワークスで生産され、最終的に1943年から1945年にかけ、計2,150両のセクストン(I型は125台、II型は2,025台)が生産された。これらはカナダ軍とイギリス軍に配備された。その後、フランス侵攻やノルマンディー上陸作戦などに使用され、イギリス軍では1956年まで残っていた車両もあったそうだ。

出典・参考元・画像引用元
日本語版Wikipedia
Wikipedia

Sexton GPO

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SextonII自走砲をベースとした砲兵隊の指揮用車両。25ポンド砲を撤去し、指揮用のスペースを確保するとともに、No.19無線機も増設した。1943年後半から使用された。

出典・参考元・画像引用元
PANZERSERRA BUNKER
日本語版Wikipedia
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ニュージーランド
ShermanII Fascine carrier

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M4A1(Sherman II)の砲塔を撤去し、その上に粗朶(直径数cm程度の細い木の枝を集めて束状にした資材のこと。工兵資材の一つとして、粗朶束を塹壕に投げ込んで塹壕を一時的に埋め、兵士や車両が通過するために用いた。)運搬用の支柱を組んだ粗朶運搬車。粗朶を最大3つ搭載でき、ニュージーランド陸軍によってイタリアのセニオ川横断の際に使用された。また、M4A4(Sherman V)をベースとして車両も存在した。

出典・参考元・画像引用元
PRASTIC WARRIORS

Sherman II Fascine carrier

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M4A1(Sherman II)の砲塔を撤去し、粗朶運搬車にしたもの。ホルダー元々砲塔があった場所に装備され、最大2つの粗朶を搭載でき、360°回転が可能だった。おそらく、ニュージーランド陸軍第28突撃隊によって改造され、セニオ川横断の際に使用されたと思われる。

出典・参考元・画像引用元
Sherman Encyclopedia

M4A2(Sherman III)

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練習機増産によりこれまで使用していたコンチネンタルR975エンジンが供給できず、代わりとしてゼネラルモーターズ社が生産していたGM 6046直列6気筒2ストローク液冷ディーゼルエンジン2基を連結して搭載したM4。これは片側のエンジンが故障してももう片方のエンジンで走行が可能で、また速度も高かった。しかし、ガソリンエンジンが主流のアメリカ陸軍では採用されず、生産量のほとんどが上陸用舟艇と燃料を共用できるアメリカ海兵隊(後にA3に更新)、およびレンドリース用としてイギリス軍と自由フランス軍で使用され、後には全てソ連向けに供与されるようになった。主砲は75mm M3戦車砲を搭載し、12.7mm機関銃(砲塔真上)と7.62mm機関銃(同軸、車体)が搭載されている。1942年4月から1943年11月にかけてブルマン・スタンダード社、グランド・ブランク戦車工廠、フェデラル・マシーン&ウェルダー社、アメリカン・ロコモーティブ社で合計8,052両が生産された。

出典・参考元・画像引用元
日本語版Wikipedia

バリエーション

アメリカ
M4A2(75)後期型

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M4A2の後期型。車体正面の傾斜が緩くなり、突き出した馬蹄型ハッチがなくなった代わりに操縦手用の大型ハッチが搭載されている。M4A1の後期型とは違いM4A2の後期型は乾式弾薬庫のままである。この型はフィッシャーボディによって約1,000台が生産された。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A2(76)W(Sherman IIIA)

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M4A2の75mm砲塔を76.2mm砲搭載のT23砲塔へ換装、湿式弾薬庫に大型ハッチも導入された。M4A2(76)Wはフィッシャーボディによって1,594台が生産され、その大部分がソ連に供与された。戦後カナダ軍も装備しており、朝鮮戦争でも使われたりした。HVSS換装型はM4A2E8の項を参照のこと。

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日本語版Wikipedia
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M4A2(76)W HVSS(M4A2E8)(Sherman IIIAY)

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M4A2(76)Wの足回りをHVSSサスペンションに換装した型。1945年9月に入ってから生産開始された後期生産車。イギリスに5輌渡された以外はソ連に460輌ほどがレンドリースされたが、全て太平洋ルートでシベリアに揚陸されたため、対独戦には間にあっていない。フィッシャーボディによって1,321台が生産された。

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日本語版Wikipedia
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M4E4・M4A2E4

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M4用に開発されていたトーションバーサスペンションを備えたM4とM4A2。アメリカは当時様々なタイプのサスペンションを試験しており、M4E4は、それらのサスペンションとの比較用に製作された。M4シリーズ用の独立式トーションバーサスペンションの開発は1943年4月と5月の合間に兵器技術委員会によって承認された。このトーションバーサスペンションはゼネラルモーターズ社が設計を考案し、全部で2台の車両が製作された。これがM4E4とM4A2E4である。M4E4は1943年7月22日、M4A2E4は1943年8月15日に完成した。ゼネラルモーターズは陸軍に引き渡す前に自社の所有地で走行試験を行い、両車合わせて3500マイル(約5633km)を走行した。試験の間、ブッシング(一種の防振装置)が故障したり、履帯が破損したりした。修理用の追加の履帯がフォード社とGMC社から送られた。その後、M4A2E4はゼネラルモーターズ試験場に行き、200マイル(約322km)の走行試験ののち、フォートノックスに送られた。M4E4はデトロイト戦車工廠で試験を受け、そこでばねの容量不十分と、より改良されたばねが必要であると指摘された。M4E4は改善のため、フィッシャー・ボディ部門に送られたのちにアバディーン試験場に送られた。1944年7月27日にM4A2E4が到着して最初に行われたことは車両の検査だった。その後、M4E8とM4A4との牽引抵抗(単位重量あたりの運動摩擦による動きに対する抵抗)比較テストが行われた。結果は次の通りである。
M4E4:25mphで75lb /トン 3mphで45lb /トン
M4E8:25mphで104lb /トン 2mphで65lb /トン
M4A4:12mphで100lb /トン 4mphで62lb /トン
その後、M4E4はT20E3中戦車(T20にトーションバーサスペンションを搭載した試作車)との比較試験が行われた。M4E4は比較された他の戦車と比べて性能が劣っていた。この中で一番よかったのはやはりT20E3であった。 その後、M4A4は試験から除かれ、代わりにM4A1(VVSSサスペンション搭載)とT20E3(トーションバーサスペンションを搭載したT20)が加えられて試験は続行された。1回目の試験はメリーランド州ペリーメンのオフロードコースで行われ、特にトーションバーサスペンション装備車が良い結果を残した。2回目の試験ではベルギーブロックコース(石畳のような石で舗装された道)を走行し、ここではM4A1が1番の安定性を示した。その次に、巡航速度8km/hでのウォッシュボード(主に自動車が砂利などの未舗装の道路を走行した際にできる波状の凹凸をさした用語。最初は小さいが自動車が通るたびに大きくなっていく。基本的にグリップ力の大幅な低下を招くため、好ましくない)コースの走破試験を行った。ウォッシュボードではM4A1とM4E8は基本的に水平であったが、上下の動きが大きかった。トーションバーサスペンションを備えたM4E4とT20E3は車体の後部が大きく揺れることがわかった。そのため、主砲の安定性で言えばM4A1とM4E8の方が優っていた。トーションバーサスペンション搭載車の車体の揺れは32km/hに到達するまでにはなくなった。この一連の試験の結果を踏まえた上で、試験官は報告書をこう結んでいる。

a. トーションバー渦巻を備えた独立したサスペンションは満足のいく乗り心地を生み出すための実用的な手段である。

b.M4E4中戦車は垂直渦巻または水平渦巻サスペンションを備えている従来のM4中戦車よりも優れた乗り心地を備えている。

c.このようなサスペンションは大重量にも耐えうるショックアブソーバーと、同じく大重量に耐えうるバンプラバー(サスペンション部品の一つ)が必要である。

d.M4E4中戦車は兵器としてのM4中戦車の価値を向上させることがなく、かなりのメンテナンスの問題を伴う。

次のことを推奨する。

a.トーションバー渦巻とバンプラバーを備えた独立したサスペンションはトラックなどの装輪車両への適用には原則として満足のいくものとみなされる。

b.M4E4中戦車の標準化も生産も考慮するべきではない。

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World of Tanks Official Forum

派生型

アメリカ
T35 GMC

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極初期型M4A2を基にして試作された駆逐戦車。M4A2に新設計の砲塔を搭載し、そこに76mm T12戦車砲を搭載した。砲塔は丸型をしており、重量軽減のために装甲を薄くし、オープントップとされた。また、車体機関銃、同軸機関銃も取り外されている。T35はフィッシャーボディによって1942年4月に完成し、1942年5月にメリーランド州のアバディーン車両試験場で射撃試験に供されたが、戦車駆逐部隊は車体高を低く側面を傾斜させるよう要求したため改良型のT35E1対戦車自走砲が作られた。

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日本語版Wikipedia
戦車研究室
ARMED CONFLICTS

T35E1 GMC

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T35の改良型。戦車駆逐部隊の要求に沿って、車体設計を大幅に変更し、正面は傾斜した一枚板に、側面にも傾斜が設けられた。車体を大幅に設計変更したおかげで全高は低くなったが、砲塔はT35の流用である(後に五角形の砲塔に変更される)。1942年にフィッシャーボディによって試作され、後にM10 GMCとして制式化される。

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戦車研究室
ARMED CONFLICTS

M10 GMC

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T35E1の量産型。76mm T12戦車砲を正式化した76mm M7戦車砲を搭載し、上部に12.7mm機関銃も搭載している(搭載していない型もある)。イタリア戦線やノルマンディー上陸作戦などにも投入されたが、目立った戦果を上げることもなく、イギリスにレンドリースされたM10もより強力な17ポンド対戦車砲があるので有効な兵器とは思われず、イギリスに渡ったM10はのちに火力強化のため17ポンド砲を搭載されている。詳しくは「M10C SPM」を参照のこと。M10は1942年9月から1943年12月の間にフィッシャー・ボディ戦車部門で4,993両が生産された。

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戦車研究室

M10 GMC 90mm T7

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元々高射砲であった90mm M1を対戦車砲に改造した90mm T7を搭載したM10。元々アメリカ陸軍は1942年4月頃からM10に90mm砲を搭載しようと考えていた。これらの考えは1942年10月頃から具体化してきた。M10に90mm砲を搭載する試みは1942年末に行われた。この際搭載された90mm砲は90mm T7砲で、上述の通り高射砲であった90mm M1砲を対戦車砲に改造したものである。90mm砲自体を搭載するのはうまくいき、これと言った問題はなかったが、砲塔と砲身のバランスが取れていないのが問題だった。1942年11月30日、90mm T7砲を搭載したM10はアバディーン試験場で発砲試験などを行った。発砲試験は概ね成功だったが、やはりバランスは問題だった。しかしアバディーンはバランスの問題だけ改善できれば素晴らしい駆逐戦車になり得るという事実を考慮し、肯定的な評価を行った。それでもM10に90mm砲を搭載するのは無理があり、砲手区画の窮屈さ、砲塔旋回が手動のみで動力旋回がスペースの関係で不可など問題は様々あった。そのため、90mm砲用の新型砲塔の開発が1943年3月にフォード社の手によって行われた。同年12月には新型砲塔を搭載した試作車が完成し、T71の試作名称が与えられた。これがのちのM36として誕生する。

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WAR SPOT

M36B2 M4A3の項に記述

T40 Whizbang

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M4A2の砲塔真上に多連装ロケットを装備したもの。歴史についてはM4A1の項の「T40 Whizbang」を参照のこと。

T40 short version

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T40の主砲を撤去し、ロケットの砲身を短縮したバージョンである。他に、車体側面に乗員用のドアが新設されている。M4A2を基にして一台が製作されたが、試作のみに終わっている。

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Wikipedia

T72 Rocket launcher

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T34 caliopeのロケット砲身を短縮したバージョン。短縮するとともに下部に12本づつにまとめられている砲身群が14本づつに増えた。M4A2を基にして一台が製作されたが、試作のみに終わっている。

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Wikipedia

T52 MGMC

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M4A2に球形の対空砲塔を搭載した対空戦車。40mmボフォース機関砲を中央に、12.7mm機関銃を砲塔側面に装備しており、砲塔内には2人の乗組員がいた。右側の乗員はボフォース機関砲を発砲し、右側の機関銃の装填と発砲を行った。左側の乗員はボフォース機関砲の装填と左側の機関銃の装填と発砲を行った。1942年7月30日にこの計画は「T52」と、球形砲塔は「T62」と名付けられた。ファイアストン社でT62砲塔の開発が進められ、1942年10月にT62砲塔を完成させた。最初の試作車は1943年3月にアバディーン試験場に到着した。テストは1943年を通して行われたがT52はテストで良い結果を残すことはできなかった。まず、砲塔は非常に窮屈で、砲塔内の2人の乗員は働きすぎだった。砲塔側面に装備されている12.7mm機関銃は砲塔旋回機構に近すぎ、薬莢が砲塔旋回機構に入り込んで旋回機構の動きを阻害する可能性があった。また、低空を高速で飛ぶ攻撃機や戦闘機に追いつけるほど砲塔旋回も早くなく、それにとどめを刺すように40mmボフォースの装弾数が64発と対空砲としては実用に耐えるレベルではないものが露呈した。こんな様ではもちろん採用されることはなく、T52プロジェクトは1942年11月に正式にキャンセルされた。

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Military History Encyclopedia on the Web

USMC Improvised M4A2 Flail Tank

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アメリカ軍海兵隊によって改修されたM4A2地雷除去用戦車。一台のみが製作された。ベースとなったM4A2はドーザー装備型で、ドーザーの基部はM4A2の第二サスペンションに装備されていた。製作は司令官であるロバート・ネイマンによって命令された。ネイマンは、少し前に陸軍が試験したフレイルに影響を受けていた。そして、独自にこれの海兵隊バージョンを作成しようと考えた。当時海兵隊が活発に活動していた太平洋の日本の島々では、日本の設置した地雷原が大量にあり、こういった地雷破壊装置は有用だと思われたのだ。そして、早速制作が行われることになった。ベースのM4A2は以前にサイパンの第4戦車大隊に属していた「ジョーカー」というM4A2だった。ジョーカーはブルドーザーを装備されていたが、それを取り外して地雷破壊装置を装備した。ローターには短い長さのチェーンや鎖が取り付けられていた。装置の操作は車体の機関銃手が担当した。完成した後早速テストが行われた。このテストではこの車両専用に実際の地雷を敷設し、地雷原を作ってテストが行われた。結果は上出来で、ジョーカーは無傷で地雷原を通ることができた。そしてこの結果を踏まえ、このジョーカーを硫黄島での作戦に実戦投入することが計画された。そしてこれは実際に行われた。ジョーカーはリック・ハディックス軍曹指揮の下、第4戦車大隊の第2小隊に配属された。ジョーカーは日本軍の飛行場近くまで進軍した。その飛行場の近くに何枚かの旗が立っており、ハディックス軍曹はこれは地雷原を表す旗であると考え、ジョーカーに前進を命じた。しかしそれは実際には近くに潜伏していた重迫撃砲の着弾地点の目印であり、ジョーカーは攻撃を受け、装置と戦車自体に重大なダメージが入った。幸い乗員は皆無事だったため、ハディックスとともに乗員たちは脱出した。ジョーカーの人生は、これにて幕を閉じた。

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Tank-Encyclopedia

M4A2 Flamethrower

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M4A2の車体機銃部の機関銃を取り外しE4-5火炎放射器を搭載した火炎放射戦車。アメリカ陸軍は1940年までに太平洋戦争とヨーロッパ戦線での火炎放射器の有用性を確信し、1940年の夏に車載用の火炎放射器の開発を命じた。火炎放射器は試験目的でM2中戦車に搭載され、その後M3軽戦車やM5軽戦車にも搭載された。この中でも比較的成功したとされるのが、M4シリーズに火炎放射器を搭載した型である。改造自体は車内に火炎放射器用の燃料タンクを置くのみだったが、この改造は数時間かかったと言う。機関銃手兼火炎放射器手は必要に応じてボールマウントに装備されている7.62mm機関銃を取り外し、E4-5火炎放射器に載せ替えを行う。このE4-5火炎放射器は毎秒1ガロン(米ガロンと定義すると約3.7L)の燃料を油性燃料で25~30ヤード(約22m~約27m)、増站燃料で50~60ヤード(約45m~約54m)まで飛ばすことができた。基本的に送られてきた火炎放射器を現地で取り付ける現地改造であるため詳細な生産数は不明である。グアム、ペリリュー、ルソン、および他の島で使用された。
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E4-5火炎放射器の燃料の位置を図示したもの。燃料はチューブでE4-5火炎放射器に送られた。

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Olive-Drab

M4A2 Sherman Crocodile

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M4A2に火炎放射器を搭載したもの。WWII期に考えられた戦車に搭載できる火炎放射器は大きく分けて「補助機械化火炎放射器」と「主武装機械式火炎放射器」がある。補助機械化火炎放射器は主砲とは別に機関銃部などに火炎放射器を装備したもの、主武装機械式火炎放射器は主武装を火炎放射器としたものである。M4A2 Sherman Crocodileは補助機械化火炎放射器に分けられるんだろう。太平洋での対日本軍との戦闘でアメリカ陸軍は火炎放射戦車の有用性を確信した。そんな時に舞い込んだ情報がイギリスのチャーチル・クロコダイルである。当時はまだクロコダイルも試験中であったが、アメリカ陸軍はこれに影響され、M4にもクロコダイルのような火炎放射能力を付与することを考えた。そして開発されたのがこのシャーマン・クロコダイルである。火炎放射装置は前から見て車体前部左側に置かれており、M4に牽引されている「リンク」と呼ばれるタンク車に燃料が入っていた。「リンク」は重量6.5t、厚さ12mmの装甲で保護され、400ガロン(約1514L)の炎の元となる燃料と5本の圧縮ボトルの窒素(N₂)ガスを運ぶことができた。窒素ガスは車体右側面に設けられたパイプを伝って火炎放射器に送られる。このパイプは砲弾や銃器の破片から守るため全体が薄い金属メッキで覆われている。クロコダイルは6両が注文されたが、完成したのは4両だけで、その内一両はM4A2をベースにしたクロコダイル、残りの三両はM4A4がベースとなっていた。この4台のシャーマンは第739戦車大隊(以前M3 CDLなどの戦車が配備されていた大隊)に配属され、1945年2月にドイツ近郊のユーリッヒという場所にある13世紀ごろの古い城塞に立て篭もったドイツ軍相手に使用された。この戦闘では歩兵が先頭に立ち乗り込んでいくのは危険であると判断され、このクロコダイルが先頭に立ったが、4両のうち2両が向かう途中で故障で動かなくなってしまったため、残りの2両がその城砦へと向かった。クロコダイルは、城砦の扉に対して20発の75mm砲弾をお見舞いし、扉が破壊されると城砦の中庭に炎を吐いた。クロコダイルのおかげで城塞に残っていたドイツ軍は掃討され、また城塞は二日間にわたって燃えたという。その後、クロコダイルは1945年3月にライン川を渡り、第2装甲師団を支援する手筈だったがジークフリートラインが突破されてからはクロコダイルの必要性は薄れ、その後結局使用されることはなく終戦を迎えた。

出典・参考元・画像引用元
Tank Encyclopedia

Sherman IIIC Firefly

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M4A2にファイアフライ砲塔を搭載した車両。このM4A2はALCO社の第1ロットの第一番目に生産されたまさしくALCO社での一番最初のM4A2(USA 3065484号車)で、第二次世界大戦中は75mm砲が装備されていたようだが、第二次世界大戦終了直後にファイアフライ砲塔が搭載されたと言われている。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE
The American Automobile Industry in World War Two

M32B2 TRV(Tank Recovery Vehicle)

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M32B2は、M4A2を基にして製作されたTRV。1943年6月よりリマ機関車製造所により26両が生産された。写真は1944年夏にグアム島で撮影された物である。

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日本語版Wikipedia
SHERMAN MINUTIA WEBSITE

イギリス
M10C SPM

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イギリスにレンドリースされたM10に17ポンド対戦車砲を搭載した駆逐戦車。レンドリースされた際、M10に搭載されていた砲は76mm M7戦車砲だったが、当時イギリスで使用されていた17ポンド砲と威力や貫通力で見劣りするために、火力の強化を図って搭載された。非常に簡単な作業で済む換装だったためにイギリスにレンドリースされたM10はほぼ17ポンド砲が搭載されている。換装作業は1944年春から主にロンドンのウーリッジ工廠で行われ、1944年6月のノルマンディー上陸作戦までに98両、同年11月にはイタリア戦線にも152両のM10Cが送られ、1945年4月までに合計1,017両のM10対戦車自走砲がM10Cに改造された。M10と違い、ノルマンディー上陸作戦後の1944年7月8日、イギリス陸軍第62対戦車連隊のM10C中隊がM10C二両でパンター戦車とIV号戦車を合計13両撃破すると言う戦果を上げている。ちなみに、M10Cの「C」は17ポンド砲搭載を示すアルファベットである。この他、M10Cの愛称である「アキリーズ」も戦車研究室によればカナダ陸軍が使用したものであると言う説が有力になっており、大戦時のイギリス軍では「M10C SPM」(SPMはSelf-Propelled Mount:自走砲架の略)と呼ばれていたようである、とあるため、ここもそれに準じた。

出典・参考元・画像引用元
Wikipedia
戦車研究室

Sherman BARV(Beach Armoured Recovery Vehicle)

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1943~44年代になるとイギリスは上陸作戦を行う回数が増えつつあった。そんな中、ビーチなどで戦車が通る道を切り開いたり、水没したり浅瀬で擱座した装甲車両の回収や、浜に乗り上げた上陸用舟艇を海に押し戻す作業を行うための車両が必要なことに気づいた。これは「Beach Armoured Recovery Vehicles(ビーチ装甲回収車)」と呼ばれ、主にそれぞれ4つの語句の頭文字をとった「BARV」と言う名で呼ばれた。当初、このコンセプトは上部を改装したキャタピラー D8トラクター(Caterpillar D8 BARV)で行われていた。しかし、キャタピラー D8トラクターは水中では非常に鈍足で、また装甲も不十分であった。そのため、より近代化したBARVを開発する必要があった。それが「Sherman BARV」である。シャーマン BARVは王立電気機械工兵隊(REME)と戦争省の機械工学(ME)局が協力して開発した。ベースとなったシャーマンはM4A2で、溶接車体は水が侵入する危険が低く、また、装備しているディーゼルエンジンが海に入った際の急激な温度低下にも強いことがM4A2選定の理由だった。M4A2は車体上部構造が船首のような形に改設計され、また、車体後部には大きな通気口が設けられた。これは排気の煙とガスを外部に逃すためのものである。通気口の前には拡張可能なシュノーケルがあり、機関室はここから入ってくる空気によって冷やされ、乗員もここから酸素を補給した。操縦手用ハッチの出っ張りにはクラッペが追加され、車体正面には緩衝用の木板が二枚貼り付けられた。車体上部左右には キャットウォーク があり、車体上部を移動する際はそこを歩いた。その後ろに折りたたみ式の梯子がとりつけられていた。牽引用ウィンチは車体後内部にあったが、ウィンチ用の穴を防水するのが面倒なので実戦ではウィンチは基本的に陸上で使用されたそうだ。1943年11月に試作車が完成した。試作車はM4A2ではなくM4A4をベースとしていた。試作車はテストで深さ3mの水中を移動するパフォーマンスを披露し、その後50両が発注され、その後発注数は66両に引き上げられた。
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2台のシャーマン BARVと一台のキャタピラーD8 BARVがチャーチルMk.IVを引っ張っている際の写真。
シャーマン BARVが初陣を飾ったのはノルマンディー上陸作戦で52台のシャーマン BARVが投入された。ここでの活躍はイマイチ不明だが、少なくとも一台のシャーマンBARVが二台のオートバイを岸に運ぶために使用された。その後は1945年3月のライン川横断に使用されたとも言われるが、詳細は不明である。その後シャーマン BARVは終戦まで使用されることはなかったが、一部のシャーマン BARVは1950年代まで使用されていた。しかし、戦後戦車は非常に重量のあるものが多く、牽引するにはシャーマン BARVでは力不足であったため、センチュリオン BARVへの交換作業が1956~57年に始まった。完全に入れ替わったのは1963年で、その後は3両のシャーマン BARVが現存するのみとなった。

出典・参考元・画像引用元
Tank Encyclopedia

Sherman Octopus

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イギリス戦争省の機械工学(ME)局が開発したシャーマンベースの架橋戦車。資料が少なく不明な点が多いが、おそらくM4A2(Sherman III)をベースとして制作されたと思われる。M4A2の砲塔を撤去し、その上に折りたたみ式の橋梁を備えている。上の写真はイタリアで試験中に撮影された一枚。チャーチルMk.VIIが通ろうとしている。M4A2のサスペンションにかなりの負担がかかっているのがわかる。このSherman Octopusは写真が確認できるだけで2枚のみで、実戦で使用された際の写真が少なく実戦運用された可能性が低いため、試作のみで終わったと思われる。

出典・参考元・画像引用元
indafotó

カナダ
M4A2 Sherman Badger

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カナダ軍に渡ったM4A2E8の砲塔を撤去し、Wasp IIC火炎放射器を搭載した型。Wasp IIC火炎放射器の性能はいまいちわからない。火炎放射器用の燃料タンクは車体下部に二分割されて置かれ、それをチューブで火炎放射器へと送った。カナダはラム・カンガルーを改造したラム・バジャー火炎放射戦車を開発して実戦に投入していた前例があり、このシャーマンバジャーは近代化の目的で試作された。1945年から開発が開始され、1948年から1949年にかけて3両のシャーマン・バジャー試作されたが、性能試験ではそれが満足いくものではないことがわかり、不採用となった。

出典・参考元・画像引用元
The Tank Museum様のTwitter
MILSURPS
MAPLE LEAF UP

ソビエト
M4A2E8 tractor

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ソ連に輸出されたM4A2E8をソ連自身がトラクターに改造したもの。M4A2E8は1945年4月にソ連軍の訓練部隊に配備され始め、M4A2E8だけでなくVVSSサスペンションのM4A2(76)Wも配備され始めた。ソ連は戦後に供与されたものも含めば3938台のM4A2E8とM4A2(76)Wの供与を受けた。そのうち、第9警備隊機械化隊に配備されたM4A2E8の一部は戦後にトラクターに改造されている。

出典・参考元・画像引用元
Tank Archives

中国
M10 GMC with Type 91 gun

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日中戦争が終結し、第二次世界大戦も終わると、中国では国民党と共産党の内戦が再燃した。そんななか、アメリカから非武装化されたM10が中華民国国民党軍に提供された。元々トラクターとして提供されたものだったが、国民党軍では武装を再搭載し、戦力として使用しようと考えた。1949年、中国国内に残っていた旧日本軍の91式105mm榴弾砲が上海にてM10に搭載された。また、7.62mm機関銃も側面に搭載された。105mm榴弾砲搭載の際、砲塔には傾斜のかかった屋根が増設され、ハッチをつけて完全密閉式とした。その後、15両が追加で改造され、最終的に53両ほどが製作されたと考えられているが、正確な台数はわかっていない。その後は1958年の金門砲戦で使用されたと言われている。

出典・参考元・画像引用元
War Thunder Forum

M4A3(Sherman IV)

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フォード GAA液冷V型8気筒エンジンエンジンを備えたM4。以前の航空機用エンジンなどとは整備性や低速時のトルクで勝り、非常に好評だったため、優先的に供給された。基本的に前線で使用されたのは後期型で、前期型は本土での訓練用などに使用された。前期型は突出した馬蹄型ハッチ、乾式弾薬庫(一部は湿式弾薬庫を備えていた)に車体正面は47°の傾斜を備えていた。武装は75mm M3砲と、12.7mm機関銃(砲塔上、装備しているものと装備していないものがある)、7.62mm機関銃2門(車体、主砲同軸)が装備された。前期型は1942年6月から1943年8月までにフォード・モーター・カンパニーで1,690台生産され、後期型は1944年2月から1945年3月までにグランド・ブランク戦車工廠で2,420台が生産された。配備されたM4A3は76mm型や105mm型含みバルジの戦い、硫黄島の戦いなどに投入された。画像は前期型である。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE
日本語版Wikipedia

バリエーション

アメリカ
M4A3(75)W

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M4A3の後期型。前線に配備されたのは後期型で、前期型は本土で訓練などに使用されたというのは上で述べた。本車は、車体正面が56°の傾斜になり、操縦手用の大型ハッチが導入されている。また、「W」の文字から分かる通り、湿式弾薬庫も備えている。1944年2月から1945年3月までにフィッシャーボディ、デトロイト戦車工廠、グランド・ブランク戦車工廠で3,071台が生産された。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A3(75)W HVSS

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M4A3(75)WのVVSSサスペンションをHVSSサスペンションに換装した型。1944年9月からの生産車から導入されている。フィッシャーボディによって651台が生産された。

出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A3(76)W

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M4A3に76mm砲搭載のT23砲塔を搭載した型。車体正面に56°の傾斜を持ち、湿式弾薬庫と操縦手用の大型ハッチを搭載している。1944年3月から1945年4月にかけてクライスラー(1,400台)とフィッシャーボディ(525台)で1,925両が生産された。HVSSサスペンション搭載型については「M4A3E8」の項を参照のこと。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A3(76)W HVSS(M4A3E8)

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M4A3(76)WにHVSS履帯を履かせた型。「イージーエイト」とも呼ばれる。M4A3(76)Wがベースとなっているため、操縦手用の大型ハッチ、湿式弾薬庫も搭載されている。アメリカ軍で使用されたM4で言えば最終型で1944年8月から1945年9月にかけてデトロイト戦車工廠で2617両(2539両とも)が生産された。M4A3E8は朝鮮戦争に投入され、T-34-85などと激闘を繰り広げたり、NATO諸国や親米国に供与されたりしている。1954年に陸上自衛隊にも供与されている。なお、「イージーエイト」の由来としてはアメリカ軍式フォネティックコードの「E」の読みが「Easy」で、それをM4A3E8の最後の「E8」の部分と掛け合わせてできたと言われている。

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M4E8

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HVSSサスペンションを搭載する以前の写真
HVSSサスペンションの搭載試験車。HVSSサスペンションはM4の機動力改善を意図して製作されたサスペンションで、1943年4月には試作のHVSSサスペンションがM4A3とM4A4に搭載されていた。このHVSSサスペンションは現在見られるようなものではなく、各種転輪、履帯がVVSSのものだった。試験では安定性の改善が見られたが、転輪や履帯を新設した方がより性能増加を見込めるとして、それら新設の駆動系を装着したシャーマン戦車の開発が兵器委員会によって推奨された。これによりHVSSサスペンション用の転輪、履帯の開発が始まり、履帯幅は584mmに拡大、転輪は一つのサスペンションにつき4個と増えた。そのほか起動輪、誘導輪、上部支持輪も新設のものが搭載された。この改良された新型HVSSサスペンションはM4A3に搭載され、「M4E8」と命名された。試験では機動性の向上が見られ、兵器委員会は1943年11月18日に増加試作として10個のHVSSサスペンションの開発を命じ、これらはM4A3に取り付けられ、1944年4月と5月に工場から出荷後、デトロイト戦車試験場で試験が行われた。1944年3月、兵器委員会は500台のM4A3(76)WにHVSSサスペンションを装着するよう命じ、月末に製造された全てのシャーマンにこのHVSSサスペンションを装着するよう命じた。

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M4A2E1

船舶用に開発されたV16-184エンジンを半分にしたV8-184エンジンを搭載したM4A3。V8-184エンジンは水冷で、1800rpmで600HPを発揮した。1943年9月、アメリカ陸軍武器科はV8-184エンジンをM4に搭載することを決定した。1944年2月に2基のV8-184エンジンが納入され、その内、1基がM4A3に搭載された。V8-184エンジン搭載に際し、車体は11インチ(279mm)延長された。M4A2E1は1944年5月10日から翌年3月21日までアバディーン性能試験場で試験が行われた。この試験の最中、1944年7月20日に、M4A2E1は正式に「M4A2E1」と命名された。この新型エンジンは試験では好調で、重量に対するパワーの比率が高く、試験中に大した問題もなく2914マイル(約4689km)を走り抜いた。このV8-184エンジンは元々はM4ではなく重戦車や自走砲での使用を目的としていたが、これは叶うことはなく、V8-184エンジンの生涯はM4にしばし搭載されていただけで終わってしまった。ちなみに、なぜM4A3車体なのにM4A2E1と命名されたのかは謎である。

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M4A3E1

Spicer Model 95自動油圧変速機を搭載したM4A3。試作車が2台制作され、1945年の春に試験が行われた。結果は不明だが、M4A3はより新型のGeneral Motors 3030B変速機を搭載し再度試験を行なった。しかし、このGeneral Motors 3030B変速機は故障が相次ぎ、使い物にならなかった為、また新たな新型変速機を搭載することになったが、叶わず終わった。

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M4A3E2 Testbed

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M4A3E2のテストベッド。1943年12月17日に陸軍省はM4A3に82,600ポンド(3.7t)分の重りをかせ、ゼネラル・モーターズ社の試験場で試験しろと命令を下した。これは突撃戦車として計画が進んでいるM4A3E2の走行性能を見るためのものであった。ゼネラル・モーターズ社の試験場で行われた500マイル(約804km)の走行試験の結果、特に足回りに異常は見られず、問題なしとされた。写真は、走行試験が行われる前の1944年1月18日に撮影されたM4A3E2 Testbed。砲身の周りに何か固定部品のようなものがつけられているのが見える。ちなみに、「M4A3E2 Testbed」とは筆者が勝手に作った造語であり、実際には本車には正式な名前は付されていない。

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Tank-encyclopedia

M4A3E2 Jumbo

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装甲を強化したM4A3(75)W。歩兵の突撃を支援できる戦車を常々欲しいていたアメリカ陸軍は、重車体をベースに支援突撃戦車を開発しようと考えた。しかし、アメリカ陸軍には望みに叶う重車体がなかった為、広く使用されていたM4A3を使用することに決定した。1944年はじめ、グランドブランク工廠でM4A3E2の開発がスタートした。車体前面と左右側面に1.5インチ(38.1mm)の増加装甲が施され、砲塔にはT23砲塔の装甲を6インチ(152.4mm)に増したものが採用された。砲塔防盾はT110と呼ばれるもので、装甲圧は7インチ(177.8mm)に達した。武装は75mm M3砲、12.7mm機関銃(砲塔上部)、7.62mm機関銃(車体、同軸)で、湿式弾薬庫も搭載されている。エンジンはM4A3と同じものが搭載されていた為、機動性は落ちたが、履帯の両端にエンドコネクターが取り付けられていたので、ある程度の機動性は確保された。ジャンボは1944年5月から生産が開始されたが、すぐにM26重戦車の生産開始が決定された為、5月に40両、6月に110両、7月に104両の合計254両が生産されただけであった。M4A3E2は1944年秋に実戦投入された。現場の将兵たちにはそのカチカチの装甲が人気で、主に戦車砲が潜んでいそうな箇所を先導するなどの任務を行なった。

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戦車研究室

M4A3E2(76)W

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M4A3E2に76mm M1砲を搭載した現地改造車。1945年2月に、撃破された友軍の76mm砲搭載型シャーマンや補給から取った76mm M1砲をM4A3E2に搭載するという現地改造が行われ、100両に改造が施された。元々が76mm砲用のT23砲塔である為、砲塔に取り付けること自体は容易であったが、問題は75mm砲用の弾薬庫ラックだった。76mm砲弾は75mm砲弾と比べ長い為、75mm砲用の弾薬庫に入りきらないのである。最終的に76mm砲用の弾薬庫ラックに換装しようという話になったのだが、76mm砲用弾薬庫ラックへの換装はかなり時間がかかったという。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE
Tank-encyclopedia

M4A3E3

General Motors T900自動油圧変速機を搭載したM4A3。参考元には1945年の春に試験が行われたとあるが、採用されたか否かは書かれていない。推測するに実験の用途のみで使用されたかまたは不採用だったのであろう。

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Calameo.download

M4A3E4

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M4A1E6と同様にMDAP(相互防衛援助計画)用に作成されたM4A3。M4A3(75)WもしくはM4A3(105)をベースとし、T23砲塔ではなく、75mm用砲塔(105mm用砲塔搭載車は75mm用砲塔に換装されている)に76mm M1砲を搭載し、他に操縦手用の大型ハッチなどが搭載されている。なお、弾薬庫は湿式ではなく乾式に戻っている。また、砲塔内容積確保のため無線機は車体右前部に移動され、マズルブレーキは切り落とされた。M4A3E4は米ロックアイランド工廠及びBMY社で改装され、西側諸国(ユーゴスラビア、デンマークなど)に供与、その後ユーゴスラビア軍に供与されていたM4A3E4が映画「戦略大作戦(英題Kelly Heroes) 」に登場していたりする。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A3E8 増加装甲装着型

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米国第3軍にて増加装甲を施されたM4A3E8。増加装甲は破壊された味方戦車からひっぺがして貼られていた。ドイツ戦車のものは終戦間際ということもあって品質が低下しており、アメリカ戦車の装甲が好まれたという。当時は装甲の強化に土嚢なども使用されていたが、パットンが土嚢の使用に反対したために、装甲を貼り付けると言う手段が選ばれた。M4A3E8は第3軍含む三個の装甲師団で36両が改造された。しかし、HVSSサスペンションのM4A3E8ではなくVVSSサスペンションのM4A3(76)Wに施されたものもあるらしく(写真2枚目)、これら改造された36両が全てHVSSサスペンション搭載車かは不明である。

出典・参考元・画像引用元
Mike's Research

派生型

アメリカ
M4A3(105)(Sherman IVB)

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M4A3に105mm榴弾砲を搭載した支援車両。56°の傾斜を備えた正面装甲に操縦手用の大型ハッチ、乾式弾薬庫を搭載している。この車両は1944年3月から9月にかけてクライスラー(デトロイト工廠)で500両が生産された。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A3(105)HVSS(Sherman IVBY)

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M4A3(105)の足回りをHVSSに換装した車両。仕様もM4A3(105)と同様である。この車両は1944年10月から1945年6月にかけてクライスラー(デトロイト工廠)で2,539両が生産された。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A3(105)HVSS with T121 twin machine gun turret

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M4A3(105)HVSSにT121連装機関銃ターレットを装備したもの。12.7mm機関銃が2門装備されている。試験のため量産はされていない。

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The Sherman Tank Site

M4A3(75)W HVSS HCR2装甲装着型

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M4A3(75)W HVSSにHCR2という混合物(成分は石英粒とアスファルトと木屑)をアルミの箱に詰めたものを車体側面と砲塔に環状に装着したもの。ドイツ兵の持つパンツァーファウストなどの成形炸薬弾対策に考案された装甲で1944年にテストされた。テストではパンツァーファウスト100やパンツァーシュレックに側面を撃たせ、車体側面は貫通されたものの、砲塔側面はなんとか耐えた。しかし、成形炸薬弾以外の徹甲弾などに対してはあまり効力を発揮できず、またこの装甲もとい箱は約8tの重量があったため実用性がないと判断され、不採用となった。

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えすだぶ様のTwitter

M4A3(75)W HVSS with 76mm T1

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1945年2月、パットン率いる第3軍は、大規模な戦車再軍備計画の一環として、M4A3(75)を現地改修し、76mm戦車砲を搭載した。しかし、この実戦改造にはいくつかの問題があった。まず、75mm M3戦車砲の重量は405kgであるのに対し、76mmは517kgで、重量が同じでないため砲塔のバランスをとる必要があった。第二に、両砲の砲架が全く同じではない。75mm戦車砲にはM34A1砲架が使われ、76mm戦車砲にはM62砲架が使われた。後者はT23砲塔に合わせたものである。この改造は、「M4A3(75)W w/ 76 mm M1」と呼称され、75mm戦車砲用のM34A1砲架に76mmM1戦車砲の砲尾を搭載できるよう改造し、さらに砲塔後部にカウンターウェイトの役割を担う追加の鉄板を溶接した。実現可能ではあったが、T23砲塔を使用した76mm戦車砲搭載車と比較すると、砲塔は窮屈なものとなった。また、この改造が行われた頃には、すでにM4A3(76)Wの新ロットが大量に前線に到着していたため、この実戦改造は余計なものとなってしまったのである。この実戦改造車がどうなったかは不明だが、おそらく元のM4A3(75)Wに戻され、76mm砲はデポに戻されたと思われる。

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THE ARMORED PATROL

M10A1

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M10のM4A3ベース型。通常の無印M10はM4A2をベースとしているが、M10A1はM4A3をベースにして改造された車両である。主に本国で訓練用に使用され、フォードで1,035両、フィッシャー・ボディで375両の計1,410両が1943年11月末までに改造された。

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Wikipedia
日本語版Wikipedia

M35 Prime Mover

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M10A1をベースとした重砲牽引車。砲塔や内部の弾薬庫などを撤去するなどの改造が行われ、1944年1月から1944年6月までの合わせて209両が改装された。主に240mm M1榴弾砲や8インチ(約20cm) M1カノン砲の牽引に使用された。

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Tank-Encyclopedia

T72 Tank Destroyer

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M10A1をベースに試作された駆逐戦車。装甲の一部が削減され、主砲を76mm M7砲ではなく76mm M1砲とし、それを新規設計の砲塔に搭載した。採用されることはなかったが、砲塔はのちのM36に搭載されたもののベースとなっている。

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T71 Tank Destroyer

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M36の試作車。90mm砲を搭載し即用弾薬庫とカウンターウェイトを兼ねる鋳造製の後方張り出し部を付けた新型砲塔をM10A1に載せたもの。背景にはM10でパンターやティーガーに対抗するのは無理があるとのアメリカ軍の思いがあった。T71は1943年3月に完成した。無印M10にこの砲塔を搭載したT71E1(別項として執筆したかったが、写真、資料共に全くないためここでの言及のみとする)も存在したが、こちらは不採用となり(後M36B2として再誕)、M10A1にこの新型砲塔を搭載したT71が採用され「M36 GMC」となる。

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M36 GMC

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M10でパンターやティーガーを正面から撃破するにはいささか力不足であることを知ったアメリカ軍が開発した武装強化型M10。ベースに本国で訓練用に使用されていたM10A1を使用し、T72に搭載された新型砲塔を少し改良し搭載した。主砲は元々高射砲であった90mm M1を対戦車砲に改良した90mm T7を制式化した90mm M3が搭載され、砲塔上部には12.7mm機関銃も装備された。また、前期型ではマズルブレーキを搭載していないが、後期型ではマズルブレーキが搭載されている。生産はジェネラル・モーターズとフィッシャー・ボディが担当し、M10A1からの改造や新規生産含め1944年4月から戦後までに1,413両が生産された。M36の配備は1944年8月から始まりバルジの戦いなどに参加、M36を装備する中隊の戦果を合計すると1,500両のドイツ戦車を撃破するという戦果を上げている。M36は戦後も使用され、朝鮮戦争や、また各国に輸出されたものもあった。

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戦車研究室

M36B1 GMC

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M10A1からの改造だけではドイツ戦車を容易に撃破できる新星M36の需要を満たしきれないため、M4A3(75)W車体にM36の砲塔を搭載した型。1944年10月から12月にかけてフィッシャー・ボディによって187両が生産された。実戦に出ると、乗員たちからはM36より装甲があることや、車体前面に機関銃が搭載されていることで気に入られた。戦後、イランなどの外国に渡り運用されていたりする。

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M36B2 GMC

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本車は無印M10をベースとしているが解説の見やすやや読みやすさを優先し、M4A3の項に書く。
T71E1の量産型。ドイツ戦車を用意に撃破できるM36の需要の増大はめざましいものがあり、それはM36B1でも追いつかないほどで、元々M36のベースとして使用されていたM10A1の生産も追いつかなくなってしまった。そのため、T71E1を基に1945年5月になって無印M10にM36砲塔を搭載し生産する試みが始まり、1945年5月から戦後にかけて724両が生産された。しかし大戦末期の登場であったために実戦には間に合わずこのM36B2も戦後インドや韓国に輸出されており、韓国に輸出されたM36B2には車体前部に機関銃を追加するという改造が行われた車両もあった。

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M7B1 SPH

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M7 プリースト自走砲の足回りをM4A3に換装した型。無印M7はM3中戦車がベースとなっている。アメリカ陸軍は砲兵の自走化を目的としてM3 75mm自走砲などを製作した。しかし、自走砲は完全な装軌式が望ましいとされ、兵器局はM3中戦車に105mm榴弾砲を搭載したT32の開発をスタートした。1942年始めに試作車が完成、アバディーン試験場で試験を受けたが、エンジン配置の関係による砲の仰角不足と対空兵器の不備が指摘された。これを受けてT32は車体右前部に12.7mm機関銃を増設され、1942年4月にM7として制式化された。M7B1は1943年3月からの生産車で、プレスド・スチール・カー社で826台が生産された。M7B1含むM7自走砲は戦後も生産が続けられ、朝鮮戦争にも投入された。

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M7B2 SPH

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朝鮮戦争中に改造されたM7B1。朝鮮戦争中の1952年、M7B1の制限された仰角が問題になったため、アメリカ軍は丘陵地帯に合うように少しでも105mm榴弾砲の飛距離を伸ばそうと考えた。それの解決策が105mm榴弾砲を一段上に搭載するという方法である。これに伴い機関銃座も少しばかり嵩上げされた。127両がフェデラル・マシーン&ウェルダー社で生産された。また、朝鮮戦争後、ドイツ連邦軍(西ドイツ軍)にも供与されている。

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M4A3R3 'Zippo'

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M4A3の主砲をPOA-CWS-H1火炎放射器に換装した型。POA-CWS-H1火炎放射器の性能はM4の項の「M4 Composite Flamethrower」を参照のこと。詳細な生産数は不明であるが、少数が海兵隊に装備され、硫黄島などで使用されたとされる。戦後もHVSS換装型が使用されている。ちなみに、「Zippo」の由来はアメリカに本社を置くオイルライター製造会社「Zippo Manufacturing Company」である。

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Reddit

M4A3 Flamethrower

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M4A3(105)HVSSにPOA-CWS-H5火炎放射器を搭載した型。基本スペックはM4 Compositeなどに搭載されたPOA-CWS-H1と同様である。この特異な配置は主砲を火炎放射器に換装することに反発した太平洋戦線の戦車兵のために考案された方法で、火炎放射器は左上にある砲身の方で主砲は中央のものであった。また、この配置のせいか66発の搭載弾薬は20発に減少した。基本的にはM4A3(105)HVSSに搭載された(M4A1などにも搭載が確認されている)。火炎放射器は塹壕などに立て篭もる日本兵相手に有効だったため、1944年後半に計画された1945年の日本侵攻のためPOA-CWS-H5火炎放射器は生産数の増大が図られ、M4A3(105)などに装備されたが、1945年8月の第二次世界大戦終戦によって使用されることはなくなった。が、一部のM4A3 Flamethrowerはのちの朝鮮戦争に参戦した。生産数は不明だが、終戦の時点で70両のM4A1型含むM4A3 Flamethrowerが日本への侵攻に向けて準備されていたという。
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M4A1型。

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Olive-Drab

M4A3 Flamethrower Post-war type

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戦後型のM4A3 Flamethrower。改造点は防盾がM4A3E2似の角形防盾になったこと以外は特にない。また、この防盾は新規設計のものなのか従来のものなのかは不明である。第二次世界大戦の終結により投入されるはずだった太平洋戦線にも投入されずで終わったM4A3 Flamethrowerだったが、アメリカ海兵隊はM4A3 Flamethrowerを少数持ち続けていた。1950年に朝鮮戦争が開戦すると海兵隊は即座に第一戦車大隊内に9つの火炎放射戦車小隊を結成した。1950年9月15日には韓国の仁川(インチョン)上陸作戦に投入された。

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Olive-Drab

T33 Flamethrower Tank

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M4A3E2に火炎放射器を搭載した型。日本軍に対し火炎放射器は有効であったが、当時装甲化された火炎放射器はM4に火炎放射器を搭載したものとM3に火炎放射器を搭載したM3「サタン」などしかなく、アメリカ陸軍上層部は火炎放射器を搭載した新型の戦車の製作を命じた。車体はM4A3E2を使用、足回りはHVSSに換装された。砲塔は鋳造で円形の新規設計のものを使用し、中央にM24チャーフィーなどにも搭載された75mm M6砲を搭載し、火炎放射器は右側に配置されている。また、主砲と火炎放射器は連動していたが、互いに独立して仰俯角を取ることも可能で、主砲、火炎放射器ともに俯角-15°、仰角+45°だった。搭載された火炎放射器はPOA-CWS-H5の発展型のE20-20で、1945年に設計された150ヤード(137m)の射程を持つ新型の火炎放射器である。他にも、砲塔上部にある車長用キューポラにE21火炎放射器も装備される予定だった。これは歩兵による近接攻撃を防ぐためである。T33はおそらく1947初めから中頃の間に完成し、1947年9月に試作第1号車が、45年1月に第2号車、第3号車がアバディーン試験場に送られた。試作車では車長用キューポラに装備される予定のE21火炎放射器はE12R4火炎放射器に置き換えられていた。アバディーンでの試験を受けたが、結局日本の終戦などの要因が重なってT33は実戦に投入されることはなかった。当初、20台のT33の試作が計画され、1946年1月にはさらなる300基の生産を行うという目標があったが、上述の通り日本の終戦が決定され、20台の試作も3台に引き下げられた。

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Tanks-Encyclopedia

T68 Flamethrower Tank

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試作1号車と試作2号車
T33 Flamethrower Tankを改造して火炎放射器を装備した型。1953年に2台のT33がT68へと改造された。カナダが制作したラム・バジャーやシャーマン・バジャーなどの火炎放射戦車を計画のベースとし、T33の砲塔を撤去、元あったターレットリングの穴は埋められ、中央にぽつんとキューポラが装着されている。このキューポラには12.7mm機関銃用のマウントが取り付けられていた。火炎放射器は車体機銃口に装備され、220ガロン(832L)の容量を備えている。アバディーン試験場で試験も行われたが、T33同様実戦投入されることはなかった。

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Tanks-Encyclopedia

T76 Rocket Launcher

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本車はM4A1をベースとしているが、解説のしやすさと見やすさを優先し、M4A3の項に書く
アメリカは戦車にロケットを搭載したT34 Caliopeなどを開発していたが、その裏で、戦車の主武装を無誘導のロケットに換装すると言う別のロケット戦車の開発が進められていた。これは、障害物の除去や破壊などを目的としており、ベースとなる戦車はできるだけ重装甲が望ましいとされた。1943年にT76の開発プロジェクトがスタートした。T76はM4A1車体をベースとしており、主に砲塔防盾部が改装され、主砲と同軸機関銃を撤去、そこに183mmロケットランチャーを搭載した。俯角は-0°、仰角は30°だった。1943年のどこかでT76は制作され、試験が行われたが、結果は満足のいくものではなく、改良型が制作される。

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TOP WAR

T76E1 Rocket Launcher

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T76の改良型。M4A3 HVSS車体をベースとし、砲塔に砲身長を延長したロケットランチャーを搭載している。また、砲塔の上にはT73で使用されたロケットランチャーと同じものが搭載されている。他にも瓦礫や障害物の除去のため、ドーザーも装着されている。T76E1も試験が行われたが、結果がT76とほぼ変わらず、この計画のこれ以上の発展は無意味と考えられた。しかし、無誘導ロケット戦車に対してアメリカ陸軍は興味を失わず、改良型のT105 Rocket Launcherが開発されることになる。

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TOP WAR

T105 Rocket Launcher

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本車はM4A1をベースとしているが、解説のしやすさと見やすさを優先し、M4A3の項に書く
障害物や要塞、トーチカなどを破壊するために7.2インチ(183mm)ロケットランチャーを装備したM4A1。T76・T76E1の改良型で、M4A1からの改造点は、75mm砲を183mmロケットランチャーに換装、車体の7.62mm機関銃は廃止された。砲塔全体に設計変更などは特になく、防盾部に少しの改造が加えられただけだった。ロケットランチャーは四角形をしており、ロケット本体はフェアリング(空気抵抗を軽減するために被せる部品)なしで、全長890mm、重量28kgで固体燃料でロケットを180kmまで加速させることができ、300m未満にある目標に対して攻撃が可能だった。しかし、このT105は自衛のための武装が全くなく、また戦場で300mが最高射程では使い物にならないことは明らかで、しかも狭い車内で装填手が183mmの大口径ロケットを装填するのも一苦労であったため結果的にこのT105は試作のみで終わり、生産には移行されなかった。しかし、米軍はロケット戦車に対して興味を失わず、新型ロケット戦車が開発されることが決定した。これがT31 Demolition tankである。

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TOP WAR

T31 Demolition tank

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1942年から1944年にかけてアメリカの軍事産業は様々な無誘導のロケット戦車を開発してきた。これは瓦礫や障害物の除去を目的としていたが、そのほとんどが様々な要因により試験の範囲を出ることがなかった。1944年末、T105に次ぐロケット戦車の開発がスタートした。この計画は当初「T2」と呼ばれていたが、後に「T31」と改称される。T31は、M4A3 HVSS車体に、左右に2基の183mm T94無誘導ロケットと中央に105mmのダミー砲身、そして砲塔上部に12.7mm機関銃一門、砲塔正面下に7.62mm機関銃二門を装備した新型砲塔を搭載、また、地雷対策で車体底部装甲は38mmに増強されていた。無誘導ロケットは5発リボルバー弾倉付でT105などの単発ロケットと比較して障害物の除去が楽になった。その他にも機銃手ハッチまたは車長用キューポラにE12R3火炎放射器が装備可能だった。試作車は1945年8月に完成し、工場から直接アバディーン試験場へ送られた。試験の結果、5発リボルバー弾倉の回転駆動に問題があることがわかり、試験中に左の弾倉が動かなくなることもあった。他にも、T31の完成時は終戦の数週間前で、アメリカ陸軍が不要なプロジェクトの資金を削減してもいた。弾倉の故障により、テストは終了し、アメリカ陸軍にも興味を失われ、1946年1月14日、T31プロジェクトもとい、一連のロケット戦車開発計画は正式に中止された。唯一のT31は戦後もしばらく保管されていたが、無用とされ処分された。

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TOP WAR

M40 155mm GMC

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拡張したM4A3車体に155mm A1加農砲を搭載した自走砲。1943年12月、翌年に実施されるヨーロッパ侵攻作戦に支援用の中口径自走砲を投入することが決定された。しかし、当時アメリカ陸軍に配備されていたM12 155mm自走砲は砲が第一次世界大戦時のもので、また車体もM3のものを流用していたため、時代遅れと判断されてしまう。そのため、当時アメリカ陸軍の主力戦車であったM4シャーマンを使用して新型の自走砲を開発することになった。試作車は「T83」という開発番号が付され、1944年3月18日に工場からアバディーン試験場へ送られた。T83はアバディーン試験場で200発の射撃試験を行い、車体後部に設けられた駐鋤を下ろしてない状態でも安定した射撃を行えることが確認された。同年10月には試作第2号車、第3号車も制作され本格的な運用試験が開始された。試験の結果は上々で翌45年1月にはプレスド・スチール社に対し304両が発注された。生産は45年2月からスタートし、最終的に418両が生産された。M40はM4A3のHVSSサスペンション換装車をベースとしているが、車体幅は155mm A1加農砲を搭載するために57cmほど拡大され、エンジンも車体中央区画に移されている。車体上部設計も大幅に改装され、後部には箱型の戦闘室が設けられた。M40は1945年2月にヨーロッパ戦線で初陣を飾った後、朝鮮戦争に参戦、後にNATO同盟国にも供与され1960年代前半まで使用された。

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戦車研究室

M43 203mm HMC

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M40自走砲の155mm A1加農砲を203mm M1榴弾砲に換装したもの。T40(T83)のアバディーン試験場での試験を契機により大口径の203mm榴弾砲に換装することが提案され、200発の射撃試験を終えたM40(T83)試作第一号車に早速203mm M1榴弾砲が搭載された。この試作車は「T89」という開発番号が付され、アバディーン試験場で75発の射撃試験をおこなった。試験の結果は良好で、プレスド・スチール社がM40(T83)試作第4号車、第5号車として制作するはずだったM40(T83)をT89に変更せよと命令が下った。T89の試作第2号車、第3号車はジェネラル・モータース社の車両試験場で初期試験を実施した後にフォート・ブラッグ試験場において本格的な運用試験を行った。試験結果が満足すべきものだったため、1945年6月から生産が開始されたが、第二次世界大戦終戦に伴い生産は中止され、最終的に48両が完成するにとどまった。M43も1945年2月にヨーロッパ戦線に試作車3両のうち一両が投入され、そこで初陣を飾ったが、早いうちに155mm A1A1に換装されてM40となった。M43も後に朝鮮戦争に投入されている。

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戦車研究室

T94 250mm MMC

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M40に250mm T5E2迫撃砲を搭載した迫撃砲型。T94は1945年2月に開発が開始され、1946年に試作車が完成したが、すでに投入予定のヨーロッパでの戦闘や第二次世界大戦自体終戦しており、また搭載予定の250mm T5E2迫撃砲不足などの要因が重なり、1946年の初めに不採用となった。

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TOP WAR

T30 cargo carrier

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M40の砲架と主砲を撤去した弾薬運搬車型。155mm口径の砲弾を100発収容可能であった。より多数の自走砲用車体を生産することを優先するため1944年2月に計画中止となり、少数が生産されたのみに終わった。

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日本語版Wikipedia
WARSPOT

M4A3 17pdr

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17ポンド砲を搭載したM4A3。アメリカ陸軍兵器局はファイアフライに搭載された17ポンド砲とM36などに搭載された90mm M3砲を比較してみたいと考えていた。1943年から44年の冬の間にアメリカ軍はファイアフライの砲塔を入手する機会があり、入手したファイアフライ砲塔はM4A3(75)Wに搭載された。これが本車の誕生の経緯である。性能比較はM26、17ポンド砲搭載M4A3(本車)、76mm砲搭載M4が参加し、アバディーン性能試験場で行われた。試験結果などはここで紹介すると少し長くなるため、出典・参考元・画像引用元を参照されたし。

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日版
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英版
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M4A3(75)W HVSS 17pdr

詳細は不明であるが、少なくとも8台のM4A3(75)W HVSSが17ポンド砲を搭載するという改造を受けている。
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この画像は米国ファイアフライプログラム登録番号リストの一文面である。
以下解読(「ーー」は解読不能箇所)
2. Teleprint has been dispatched to your office with information that
4 ーー modified tanks, M4A3, ーー . 30125207, 30125082, 30125175, and 30125295, departed southampton 2 May, 1945, on ーー 293.

直訳
2. テレプリントがあなたのオフィスに発送されました。
4 ーー 改造を行った戦車、M4A3、 ーー 。30125207、30125082、30125175 及び 30125295 は1945年5月2日にーーー 293からサウサンプトンへ出荷されました。
この文面から、少なくとも4両がファイアフライへの改造のため、サウサンプトンに送られたことがわかる。文面で言及されている30125207、30125082、30125175、30125295号車はM4A3(75)W HVSSのシリアル番号30125036~30125573のなかにあり、改造されたことは確かである。

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SHERMAN MINUTIA WEBSITE

M4A3E8 T99 Rocket launcher装備型

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M4A3(76)W HVSS(M4A3E8)にT99ロケットランチャーを装備した型。この戦車についてわかっていることは少なく、上の写真は当時の米国の戦車開発の状況についてクライスラーが1946年に出版した「TanksAre MightyFineThings」から抜粋されたものである。T99ロケットランチャー自体はM26にも実験的に搭載されたもので、ロケットはカリオペなどにも搭載されたT34E1ロケットである。搭載に当たって12.7mm機関銃は撤去されている。また、M26 T99では主砲とロケットランチャーは連動していたが、本車も連動式かは不明である。ランチャーは4個に分離されており、各11発づつロケットを搭載することができた。合計で44発である。上述の通り、写真から見て取れることしかわからず、詳細は不明である。

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War Thunder Forum

Sherman SPAB(Self Propelled Assault Bridge)

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ノルマンディー上陸作戦用にM4A3E8をベースとして開発された架橋戦車。Sherman SPABの橋梁は油圧シリンダーによって駆動し、他様々な機構を搭載していたと思われるが、詳細は不明である。ノルマンディー上陸作戦用には結局英国のChurchill ARKが投入されることになり、Sherman SPABは試作車3両のみが試作されるのみに終わった。

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M32B3 TRV(Tank Recovery Vehicle)

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M4A3をベースにしたTRV。1944年5月よりリマ機関車製造所及びプレスドスチール社により318両が生産された。後に60両がM74B1に改造されている。

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日本語版Wikipedia

M32A1B3 TRV(Tank Recovery Vehicle)

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M32B3のHVSS装備型。1945年5月よりボールドウィン機関車製造所及びインターナショナル・ハーベスター社により80両が生産された。こちらも戦後に数両がM74 TRVの試作車であるT74に改造され、制式採用後M74B1として就役している。

出典・参考元・画像引用元
日本語版Wikipedia

M74 TRV(Tank Recovery Vehicle)

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M4A3E8ベースのTRV。アメリカ陸軍の主力戦車がM26に統一されたため、M4シリーズベースのM32 TRVの後継としてM26ベースの「T12 TRV」が開発されたが、諸々の理由で不採用となったため、M32 TRVの後継はM4A3E8をベースとしたTRVとすることが決定した。M32と比べ、回収用機材の能力が強化されている。まず、M32では一つのウィンチで牽引と吊り上げを行っていたがM74では牽引用と吊り上げ用に二つのウィンチが設置され、またクレーンの吊り上げ力も静止状態で55,000ポンド(24.95トン)、移動状態で25,000ポンド(11.34トン)、主ウインチの牽引能力も90,000ポンド(42.83トン)とM32に比べ大きく上昇した。他に前照灯などの細部装備品も更新され、赤外線前照灯と暗視装置を装備している。また、M32で装備されていた煙幕弾発射用の迫撃砲は撤去されたようである。M74は1954年から1955年にかけて約1,000両が生産され、1954年2月から配備が始まった。一部は西側諸国にも供与された。その後はM47をベースとしたM88 TRVに1960年代半ばから置き換えられ、退役して行ったが、民間では1980年ごろまで使用されたものもあったと言う。

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日本語版Wikipedia

M74B1 TRV(Tank Recovery Vehicle)

M32B3 TRVとM32A1B3から改造されたM74。1958年までにM32B3が60両、M32A1B3が少数、M74に改造され、就役している。

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日本語版Wikipedia

日本
シャーマン赤羽スペシャル

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1949年に東京兵器補給廠で改修されたM4A3E4。赤羽周辺は、太平洋戦争終結まで旧日本陸軍の造兵廠(兵器工場)が多数あり、終戦で連合国軍に占領されると、それらはアメリカ軍キャンプに転用され、いくつかは造兵廠の機械設備を流用して連合国軍である進駐アメリカ軍の兵器整備工場として用いられていた。この工場が「東京オードナンスデポ」である。朝鮮戦争勃発に伴い急遽東京都北区赤羽にある東京オードナンスデポでM4A3が改修された。これが「シャーマン赤羽スペシャル」の誕生である。しかし、朝鮮戦争もアメリカが本腰を入れて軍備の増援をすると赤羽スペシャルの存在意義は薄れ、実戦投入されることは一度もなかった。赤羽スペシャルは米国内で改修が施され、ユーゴスラビアなどに供与されたM4A3E4などとは仕様が異なる部分が多いが、残された写真が少ないため、謎の多いシャーマンである。

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乗り物ニュース

T53ガスタービン搭載試験車

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1969年から防衛庁技術研究本部と川崎重工業が、M4シャーマンを改造して制作した車載ガスタービン試験車両。

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WoT妄想日本戦車ツリー Wiki

フィンランド-イスラエル
M4A3E8 with 122 K 60

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122 K 60はフィンランドのタンペラ社によって1960年に開発された野砲である。1966年、一基の122 K 60が試験のためイスラエルに輸入された。イスラエルではこの122 K 60をM4A3E8シャーシに搭載した。122 K 60はイスラエルのソルタム試験場で試験を行い、フィンランド国防軍の役員も視察していた。その後、砲架の位置が移動され、装甲板を増設し、試験が続けられた。
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この試験は、ソルタムM68 155mm榴弾砲などの元になった。