概要
ここでは戦車に関するトリビアや、脚光を浴びていない計画、試作車両を紹介し、より戦車への理解を深める為のページです。
日本駆逐ツリー戦車群まとめ
ver6.9により、待望の日本駆逐ツリーが実装された。ここに乗っている車両は、実装前に予想された車両である。日駆のツリー車両以外にも、魅力的な車両がたくさんあるので是非見て行って欲しい。実装こそされなかったが、日本には砲戦車という区分があり、これが実質的な駆逐戦車にあたるが、実は戦時の日本には多くの試作砲戦車、対戦車自走砲が存在した。
ここではそれらをまとめて紹介していこう。
九五式軽戦車(ハ号)にオープントップの戦闘室を作り、試製四十七粍戦車砲を搭載した対戦車自走砲である。正面装甲は30mmとなかなかで、さらに小型低車高である。試作車についてはよくわかっていない。
五式軽戦車(ケホ)にオープントップの戦闘室を作り、九九式七糎半戦車砲を積んだ戦車である。試作はされていないとされる。
車体のおかげで快速が予想される。
九七式中戦車(チハ)にオープントップの戦闘室を設け、九〇式野砲を積んだ砲戦車である。俯角が15度とれる。
九七式中戦車(チハ)にオープントップの戦闘室を設け、九一式十糎榴弾砲を積んだ砲戦車である。
九七式中戦車(チハ)に密閉式の戦闘室を設け、三式七糎半戦車砲を積んだ砲戦車である。
四式中型装軌貨車にオープントップの戦闘室を設け、五式七糎半対戦車砲を搭載した対戦車自走砲である。主砲は限定旋回し、更に俯角10度を取ることが出来た。出力がたった165hpではあるが、車体は小型軽量で13.7tしかないため、40kmを発揮できた。
四式中戦車(チト)の車体を延長させた新型シャーシにオープントップの戦闘室を設け試製10cm対戦車砲を搭載した対戦車自走砲である。ナトの独特なデザインを拡大したような戦車であった。砲は限定旋回し、なんと左右45度ずつも回すことが可能であった。さらに俯角も10度とれる。
重さは30tにまで増えたが、エンジンも450hpにまで出力が向上なされ、良好な機動力が発揮される予定であった。
試作戦車の製造中に終戦を迎えた。
九五式軽戦車(ハ号)の砲塔と車台上部前半を取り除き、三八式十二糎榴弾砲を改造して搭載した車両である。夕弾こと成形炸薬弾の開発もされていて、140mm程度の貫通力が期待できたと言われている。
九七式中戦車(チハ)にオープントップの戦闘室を設け三八式十五糎榴弾砲を搭載した車両である。砲そのものは旧式化したものであったが、実は直接射撃で対戦車戦闘を目論んだ自走砲であり、夕弾によって150mm程度の貫通力を持っていた。方向射界は左右3度、仰俯角は-10度~+20度、後座長は590mmであった。 実際にフィリピンに投入されM4中戦車を撃破している。
九七式中戦車(チハ)にオープントップの戦闘室を設け九六式十五糎榴弾砲を搭載した戦車である。試作されたかについては諸説ある。
九五式重戦車(ロ号)に密閉戦闘室を設け、九二式十糎加農砲か、九六式十五糎榴弾砲を搭載出来るようにした対戦車自走砲である。九二式十加を装備したものが試作された。
五式中戦車(チリ)をベースに密閉型の固定戦闘室を設け、試製十糎戦車砲を搭載していた。日本戦車としては装甲が厚く、125mmの正面装甲を備えていた。さらに砲は俯角10度取れ、特筆すべきは自動装填装置を備えていた。日本戦車の集大成といえる存在である。
本車は形状の違う車両が様々存在し、おおまかに分けると、フェルディナントに似た形状のホリと、ヤークトティーガーに似たホリが存在した。さらにそれぞれ傾斜装甲を取り入れたものも存在し、ホリの傾斜装甲型は、木製のモックアップが写真として残っている。
終戦時には5両の試作車が完成を待っている状況であった。
詳細がよくわかっていないのだが、ジロ車とは別に九五式重戦車(ロ号)に砲を搭載した戦車があった。搭載した砲は写真から斯加式十二糎速射加と見られる。
日本海軍が対戦車戦闘を目的に、九七式戦車(チハ)にあの睦月型駆逐艦の主砲とほぼ同じ45口径12cm砲を搭載してしまった対戦車自走砲である。全周旋回の砲で、俯角10度を取れる。一部の人にはキングティーガーをもじってかキングチーハーと呼ばれている。思わずヴァッフェントレーガーかと突っ込んであげたくなる見た目である。
ちなみに搭載する砲から考えると弾種は榴弾のみで、しかも携行弾薬もかなり少ないため、弾薬輸送はリヤカーで行うとの証言がある。
唯一の戦果(?)は砲身をぶつけて壊した民家の塀。
短12センチ自走砲とも呼ばれる。
九七式中戦車の47ミリ砲型砲塔に、特設艦船に搭載する簡易急造高角砲を改造したものを搭載した。
原型の砲の榴弾、車内に残っていた演習弾の存在は分かっているが、成形炸薬弾(HEATのような)対戦車弾の存在は不明。
横須賀第十六特別陸戦隊に配備され、実戦経験はない。
米軍から供与されたM24軽戦車(Chaffee)の車体を改造して製作された。計画では、105mm榴弾砲M2A1をM24軽戦車の車体に搭載し、ディーゼルエンジンへの換装や新型変速機の採用によって、M24と同等の機動性を確保することを目指していた。
車体は1.38mと車高が低く、車体右側に主砲として60式106mm無反動砲を2門搭載する。2門の主砲には油圧で垂直に昇降する機能があり、待ち伏せ攻撃時に遮蔽物から主砲だけを覗かせて射撃できる(ただし実際は弾を4発しか載せられない!)。また64式対戦車誘導弾(MAT)を試験的に装備した車両も試作している。
60式装甲車に64式対戦車誘導弾(MAT)を試験的に装備した車両。
Eシリーズ
Eシリーズとは、第二次世界大戦中にドイツが計画、開発したプロジェクトの総称である。
【概要】
ドイツ兵器局は、1942年5月にH・E・クニープカンプ博士から提出されていた新型装甲車輌の開発計画を一年かけて検討し、1943年4月にこの計画を実行した。
この計画では、煩雑であったドイツ戦車の各部品の共通化による生産コスト低下、重量による戦車の規格化を目指した。これには、まだ装甲車輌の生産を行ってきていない自動車産業も参加させる目的も含まれる。その他、火力や装甲強化による車体の大型化や車体重量の増加を抑える為、エンジン及びトランスミッションを小型化し車体後部に配置(パワーパック化)する事に加え、ドライブシャフトを省略し戦闘室拡大を達成しようとするなど多くの新機軸が盛り込まれた。この計画に沿って開発された各戦車は、これまでのドイツ戦車設計とは一線を画すものであり、ドイツに多大な恩恵をもたらすものだったが、ほとんどが完成前に終戦を迎える。
各戦車はEntwicklungstypen(開発タイプ)計画の頭文字を取り、重量ごとにE-5~E‐100まで計画、開発された。開発された車両は以下の通りである。
なお、E-100以外は車体すら完成していない。
10t級 開発担当:KHD社
無砲塔密閉式の駆逐戦車。駆逐戦車以外に装甲兵員輸送車、武器運搬車の運用も考えられていた様である。外見はヘッツァー似。
武装はラインメタル・ボルジヒ社製の48口径7.5cm対戦車砲PaK39を前面に装備。
装甲は前面上部が60mm、前面下部が30mm、その他の部分は20mm。車体前面は避弾経始が考慮されていたが、側面や後面の角度は垂直に近く、避弾経始に優れていない。
乗員は3名。
サスペンションは、転輪装着アームの基部にコイルスプリングを内蔵し、片側4個の転輪がオーバーラップ式で取り付けられた。
特徴的な装備は機械式車高調整機能と流体式無段階変速機である。エンジン等の開発に手間取り、同時期に開発されていた38D駆逐戦車の方が実用性などに優れると判断され、1945年1月末に開発中止。
主な参考文献:Wikipedia 戦車研究室 2次戦ドイツのEシリーズ戦車
- E-25
画像はWikipediaより
詳しくはこちらのページを参照。
無砲塔密閉式の駆逐戦車。こちらも外見はヘッツァー似。
主砲は、70口径75mm対戦車砲。また、車体上部に2cm機関砲の小型砲塔を装備。
装甲厚は不明だが、全方位にわたって避弾径始を入れている。
乗員は4名。
変速・操向機は前進8段/後進8段の遊星歯車式変速機と流体式操向機が組み合わされた。
主な参考文献:Wikipedia 戦車研究室 2次戦ドイツのEシリーズ戦車
詳しくはこちらのページを参照。
パンターを代替し主力戦車となる予定であった。E75と車体を共通化したことが最大の特徴であり、武装や足回り、装甲厚などの違いはあるが、同製造ラインで生産することができ、生産コストの大幅な低下が可能であった。
主な参考文献:2次戦ドイツのEシリーズ戦車
画像は戦車研究室より
足回りがE-50と酷似しているのがわかる
Waffentragerシリーズまとめ
Waffentrager、日本語に訳せば武器運搬車である。
Waffentragerには非常に多くの計画案が存在する。何両かは既にPC版WoTに実装済みであるが、実はこの他には多く案や試作車が存在し、実際に生産されたがゲーム内に登場しない車輌もある。この項ではそれらをまとめて紹介していく。
1つは1942年型である。今ゲームに実装されているのは多くがこれにあたる。様々な車体を元に計画されていた。ドイツがまだ余裕の時期であったため、豪華な計画が多い。実はこれらは手間やお金がかかりすぎる事で、全く成熟しない計画であった。BlitzのWaffentragerは全てここに準ずる。
2つ目は1944年型である。1942年に通達されてから、上記の様に良好な計画案が生まれなかったために、戦況が切迫してる状況になって、もっと要項をまとめて統一した部品を元に安価な生産が可能なWaffentragerを製作しようとした。これらは1942年型のWaffentragerと比較してEinheitswaffentragerと呼ばれる。これは統制式武器運搬車の意味である。この型の共通点として、足回りや走行装置はPz.38tやHetzerから流用された。しかしシャーシは殆どが全く新しく開発されている。これらWaffentragerには、さらに8.8cm砲、10.5cm砲を搭載する軽型、12.8cm、15cmを搭載する予定であった中型の二種類が存在し、それぞれLeichte Einheitswaffemtrager、Mitler Einheitswaffentragerと呼ばれている。(ここから略称LWT、MWTを用いる)
この統制式武器運搬車は実際に多くの型が試作なされており、Ardelt社が生産した事でも有名である。
ここから1942年型、対する1944年型の2つに分けて紹介していこう。
1944年型
恐らく最も有名なWaffentragerである。
戦車開発のノウハウを持ち合わせて居なかったアルデルト社の計画案が、非常に手軽であったためヒトラーに大いに気に入られ、唯一生産がされたWaffentragerでもある。
詳細はRhm.-Borsig Waffentragerの歴史背景の項を参照されたし。
1942年型
ソ連のスターリン戦車とその派生まとめ
かの有名なスターリン重戦車、WoTをプレーしている者であればIS-1から8までは誰もが知っているだろう。しかしそれ以外にも多くのボツ案や、試作車、派生型が存在する。そしてこのWoTにもそういった派生車輌が数多く登場しているのである。これらをできる限り時系列でまとめて、重戦車計画の一連の流れを理解できるように記してみるのがこのコーナーである。「IS-5って何?」「PC版にObject 260とかいう重戦車来てるけどナニソレ」というようなソ連重戦車に関する疑問があれば項目を見てみると解決するかもしれない。
最初のIS戦車とその派生
「重装甲で高火力だけど軽くて機動性の高い戦車を作れ」
という要求からスタートしたISシリーズの開発について各車両を元に説明していきたいと思う。
ソ連は戦争序盤にもKVやT-34などの優秀な戦車を配備していたが、重戦車のKVは重装甲なのはともかくあまりにも鈍重であることが指摘されていた。さらにドイツ軍がV号戦車,VI号戦車などより優秀な戦車を投入するようになるとその装甲も頼りなくなりソ連でもこれらに匹敵する優秀な重戦車を開発することが求められた。その基本要求こそが今後のソ連重戦車の系譜の基本となっていった。
「重装甲で高火力だけど軽くて機動性の高い戦車を作れ」
この要求に従ってZh.Ya.コーチン技師を長とする第100チェリャビンスク・キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)は1943年半ばまでに、試作重戦車Object 237を完成させた。
このObject 237の試作車は以前SKB-2が開発して試作の段階まで行きながら、ソ連軍に採用されること無く終わったKV-13試作重戦車(Object 233)の鋳造車体をベースとして各部に改良を加えたものが用いられ、変速・操向機も新型のものを採用して足回りの性能向上が図られていた。
車体そのものは全体的にコンパクトにまとめ体積を減らし曲面装甲を多用することで単純な装甲厚以上の防御性能を確保することで装甲と機動性をある程度両立させることに成功。さらに砲に採用された85mm戦車砲D-5Tは55口径85mm高射砲M1939(52K)を基に、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)の第9ウラル重機械工場(UZTM)設計局のF.F.ペトロフ技師が設計したもので、弾薬は高射砲と共通のものを用いその弾道特性も全く同様のものであり、当時としては威力の高い砲であった。これがIS-1(イーエース・アジーン)である。1943年10月より量産が開始されたが、下記の理由によって1944年1月までに107両で打ち切られている。
上に述べた様にISの母なる存在である。
KV-1の様な重戦車が鈍足で状況対応力が低い事はソ連の悩みであった。この様なKVに対する批判を受け、SKB-2(KV戦車の設計開発チーム)が開発したのがKV-1S重戦車である。KV-1SはT-34に追従できる機動性と機械的信頼性を有していたが、KV重戦車の性能の要である装甲を削ったためにかえってその存在価値があいまいになってしまった。SKB-2もKV-1Sに満足していたわけではなく、KV-1Sの量産準備中だった1942年春にはすでに「中戦車の機動性と重戦車の装甲防御力を併せ持つ汎用戦車」の開発を開始していた。これによって開発されたのがKV-13試作戦車である。
KV-13は軽量化と十分な装甲防御力を両立させることを設計の主題としており、溶接部品を多用して可能なかぎり小さな車体と無駄のない車内空間の利用を追及していた。このため乗員は3名(操縦手・砲手・車長。装填手は車長が兼ねる)に切り詰められた。装甲厚は車体前面100~120mm、砲塔最厚部85mmで、武装はKV-1と同じ76.2mm砲ZiS-5であった。重量は31.7tとKV-1の3分の2程度にまで抑えられた。
KV-13の開発はわずか数ヶ月で行なわれ、1942年5月には試作車両の試験が始まった。ところが、足回りのトラブルが頻発し、速度性能こそT-34に匹敵することが確かめられたものの、実戦投入が可能なレベルにするには多くの改良が必要であることが判明した。さらに主任設計士ツェイツの病死などによって開発が鈍化し、軍もKV-13には興味を示さなくなった。
そのような中で、KV批判が重戦車不要論(すなわちSKB-2の存在意義の否定)にまで発展し始めたため、SKB-2の責任者であるコーチン技師は「赤軍最強の戦車を作り出し、その戦車に同志ヨシフ・スターリンの名を冠する」という宣言を行なった。(当人が直接言ったわけではなく、SKB-2に付属する工場の代表委員会による採択という形だった。)
こうして、KV-13の開発はそのまま新型戦車ISの開発へとシフトすることになった。
Object 244戦車は、Object 237の武装強化版として、第100工場によって試作された。より長砲身な85mm砲D-5T-85BMを搭載している。さらに戦闘室に多少の変更が加えられ、主な変更点は弾薬庫や外部視認装置の光学機器の取り付け部の変更、また無線機は砲塔下部に移され、新製の改良型換気装置も取り付けられた。大型輪転の搭載が見た目の大きな特徴となっている。
しかし、テストによって砲身の強度不足という問題が明らかになり、後に砲がD-30に取り替えられる事となった。
この写真ではD-30を搭載している。
ちなみに当時IS-3という名を貰ったが、勿論普通にIS-3と言えば、有名なObject 703の方を指すので、混同しないように注意しよう。
100 mm D-10Tを搭載したISの改良型。IS-4という名を持つが、よく知られているObject 701-6の方のIS-4とは全く違う戦車であり、こちらがIS-4と呼ばれる事の方が珍しいので、注意されたし。
S-34 100mm砲を装備したISの改良型で、D-25T 122mm砲を装備したObject 240と共に試験された。こちらの100mm砲の方が新型で装甲貫徹力も高かったが、新型故に早期の生産開始が困難であったため、結局Object 240がIS-2となりこちらは正式採用はなされなかった。IS-5との名を授かっているが、その大分後に試作されたObject 730もIS-5と呼ばれており、現在もIS-5と言えばObject 730を指す事が多い。ゲーム中のIS-5もObject 730なので、注意されたし。
IS-1には重大な問題が発生した。それはT-34も同じく85mm砲を搭載したT-34/85として量産されることが決定し中戦車と同程度の火力しか持たないことになってしまったのである。さらに敵のVI号戦車が用いた88mm砲に対して射程で劣り、勝利を得ることは難しいとされてしまった。というわけでさらに強力な122mm砲D-25Tを搭載し機動性はそのままに大口径砲の巨大な火力で圧倒するよう生まれ変わることとなった。これがIS-2(イーエース・ドヴァー)である。しかし元々85mm砲を搭載する予定の砲塔に無理やり122mm砲を搭載したためわずか28発の砲弾しか搭載できなくなってしまった。だがそれを補って余りある大火力は直撃すればドイツ軍の誇るVI号戦車を粉砕し対歩兵戦闘でも絶大な威力を発揮した。
このD-25Tだが、元々はA-19 122mmカノン砲という野砲を戦車砲にしたもので、その際にマズルブレーキを装着した。
上の画像のObject 240は、開発途中のT字型のマズルブレーキを着けているが、これは失敗作であり、この後にドイツの8.8cmをコピーしたデザイン(下画像)に変更され、最終的には有名な独特の形状となっている。
1944年4月には車体形状などを改良することにより、避弾経始の向上を図った改良型のIS-2重戦車が登場した。
この結果として、ほぼ垂直となっていた戦闘室前面の形状がなだらかなスロープを描くことになった。また照準機の搭載位置が悪いため、主砲の防盾の幅が左側に延長されて照準機の位置が改められ、ペリスコープも新型に換装されている。
これらの改修を行って生産されたIS-2重戦車は、ロシア語で「改良」を意味する「modifikatsiya」の頭文字”m”が加えられて「IS-2m」と改称されることになった。一部の車両では、従来のIS-2重戦車の車体に新型の砲塔を搭載して完成したが、これは車体より先に砲塔の方が生産体制が整ったことを意味している。
IS-2重戦車とIS-2m重戦車の正確な生産数は不明だが、1943年にIS-2重戦車が102両、1944年にはIS-2重戦車とIS-2m重戦車合わせて2,250両が完成し、1945年1~5月にかけてIS-2m重戦車が1,150両生産されている。
KV-1S重戦車をベースとしたSU-152が、その火力で敵の重防御拠点や重戦車を破壊可能な成功作となったことから、KV-1Sの後継車でも、そのシャーシを流用した自走砲の開発が求められた。新型自走砲の開発は、ベースとなる戦車のObject 237と併行して行われ、Object 241の名で試作車が完成した。これは1943年夏にGKO(国防委員会)に提示され、ISU-152として採用された。(写真は戦後改修型(戦後生産?)のISU-152Mで現在も戦勝イベントに使用されている車両)
ISU-152自走砲の152 mm榴弾砲ML-20の砲身の生産が遅れていたため、砲と砲弾の供給に余裕があり同型の砲架を用いる122 mm A-19を代わりに搭載したものである。また、戦車兵よりも自走砲兵の方が訓練期間が短くて済み、いずれにせよ早急な戦力化を求めて、1943年12月より量産が開始された。本車の前期型は、砲本体を除けばISU-152自走砲とはほとんど同じ車輌である。
新開発の60口径122mm加農砲BL-7を搭載した試作型。不採用。
長砲身の152mm試作砲BL-8を搭載した試作型。不採用。
152mm試作砲BL-10を搭載した型。不採用。
砲をD-25Sに換装した型である。生産数は大戦中にISU-122合わせて1735両。終戦に伴って一度生産は終了したが、1947年~1952年に約3130輌のISU-122Sが追加生産された。
海軍砲の130mm加農砲S-26を搭載した型。不採用。
当時標準的であった122mm砲弾を使用するために、130mm加農砲S-26を122mm口径にしたS-26-1を搭載した試作型。不採用。
名車IS-2の後継達
IS-2以降の後継車両には避弾経始が強く意識された楔形装甲が採用されている。
IS-3
大戦末期にこの先進的な車輌は完成した。お椀型砲塔、楔形装甲と徹底した避弾経始の取り入れはベルリンの戦勝パレードで初披露された際、西側諸国を震撼させた話は有名である。
なお、以下の車輌の詳細は下記のobjectシリーズ総まとめを参照されたし。
Kirovets-1
Object 703 (IS-3)
IS-3 auto
IS-4
1944年初め、SKB-2の主任技師Zh.Ya.コーチンはIS-2重戦車の量産が軌道に乗ったことを踏まえ、引き続く後継重戦車の開発を配下のSKB-2の技師たちに命じた。
当初「Object 701」と命名された新型重戦車プランは、複数のチームが別々の企画で進めることになった。
その内の1つがM.F.バルジ技師が進めた「Kirovets-1」であり、これは後にIS-3重戦車に発展することになる。
もう1つが、L.S.トロヤーノフ技師が中心になって進めた「Object 701-1~6」である。
Object 701は、砲塔や車体のデザインの基本部分においてIS-2重戦車のものを踏襲するものだったが、武装面や戦闘室での操作性の面で新たな試みや工夫を展開しようとしていた。
Object 701は1947年までの間に6種類のプランが検討され、その内の3種が試作された。
なお、以下の車輌の詳細は下記のobjectシリーズ総まとめを参照されたし。
Object 701-2
Object 701-5
Object 701-6(IS-4)
ST-II
第100戦車試作工場の重戦車
IS-6
IS-6には複数の計画案があった。
なお、以下の車輌の詳細は下記のobjectシリーズ総まとめを参照されたし。
Object 252(IS-6)
Object 253
IS-7
IS-7の開発には少なくとも7つの車輌が関係し、その内の3つはObject 260と呼ばれた。第100戦車試作工場で秘密裏に作られたため、この戦車の生い立ちは謎に包まれていた。最近になって資料が発見されたおかげで、現在我々はIS-7がまだObject 257だった頃、つまり初期の段階でどう発展していったのか知ることが出来る。
なお、以下の車輌の詳細は下記のobjectシリーズ総まとめを参照されたし。
Object 257
Object 258
Object 259
Object 260(1945年型、最終型(IS-7))
Object 261
Object 263
最後の重戦車T-10の競合車
T10(IS-8)とはライバル関係にあり、惜しくも破れてしまった戦車達。
なお、以下の車輌の詳細は下記のobjectシリーズ総まとめを参照されたし。
Object 777
Object 730(IS-5)
T-10の後継戦車
T-10の採用後も後継車輌として様々な戦車が検討されていた。しかし結果としてT-10が最後に採用された重戦車であることは周知の通りである。
時代的にWoT実装は厳しいと思われがちだが、これらの車輌より後に開発された戦車も数多くWoTに実装されているので可能性は捨て切れない。首を長くして待ちたいものである。
なお、以下の車輌の詳細は下記のobjectシリーズ総まとめを参照されたし。
Object 266
Object 277
Object 770
Object 279
ソ連のKV-1戦車とその派生まとめ
皆さんは、第2次世界大戦時のソ連の主力重戦車と聞いたら、何を思い浮かべますか?
はやり、スターリン戦車である『ISシリーズ』がふと思いつく人もいるんじゃないでしょうか?
しかし、そのISシリーズが展開される前、実は『KVシリーズ』が展開されていました。 しかし、ISシリーズとは違い
様々な派生系の車両が没となったり、没にならなくても、本ゲームに参戦出来なかったりと 様々。
とのことで今回は 皆さんにもっとKVシリーズの派生系車両を知ってもらうべく、解説していく。
派生型
火炎放射戦車。1941年型もしくは1942年型をベースに製作された。45mm砲と火炎放射器を砲塔に同軸装備、
45mm砲には欺瞞のために砲身を太く見せるカバーが被せられている。
最初のKV-8は1941年12月に1941年型をベースに作られ、翌1942年、次のKV-8Sと合わせて102両が生産された。
KV-1・1942年型の前部にPT-34地雷処理ローラーを装着したもの。1944年夏、フィンランド戦線のカレリア地区の突破作戦に使われた
試作派生型
試作火炎放射戦車。
車体前方機銃の代わりにATO-41火炎放射器が設置され、車内に燃料タンクが搭載されていた。1941年の春から夏頃にかけて改造が行われ(総数は不明)、このうち4両が第124戦車旅団に配備され、レニングラード周辺での戦闘で使用された。この車両の有用性が認められ、この後KV-8の量産に繋がった。
これとは別に、資料等によりKV-6とされる車両が何種か知られている。
- 主砲を76.2mm砲としたままで、主砲と同軸に火炎放射器を搭載した火炎放射戦車
- 後述のKV-7自走砲のうちの1種
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/KV-1#%E6%B4%BE%E7%94%9F%E5%9E%8B
Objectシリーズ総まとめ
Object(ロシア語表記Объект(オブイェークト))これは試作戦車を意味する。ソ連の試作戦車はОбъектの後に開発番号が割り振られるのが習慣で、Объектが付く名前の戦車は星の数ほどある。採用試験後、軍に採用されると新たに型式番号が与えられることになる。
ひとつの例として【Объект172】という試作戦車は正式採用されて【T72】という名前になった。
逆に珍妙なシルエットで有名な【Объект279】のように、Tから始まる型式番号(IS、KV、SUは例外)が与えられていない戦車は試作品として終わったということになる。
blitzに実装されているリンク作成済み。()内は正式名。資料がなく詳細不明とさせてもらっている所もあるがご了承願いたい。Objectシリーズの中にはBlitzにも実装されてない戦車も山ほどあるが魅力的なシリーズなので是非ご高覧いただきたい。
object3
シベリアや北極圏などで使用するために幅広履帯を装備したMT-LB。
object3,4
700馬力のガスタービンエンジンを装備したobject432。object3は1966年から1968年までテストされた。object4は950馬力のエンジンを横向きに搭載する案だったが制作はされなかった。
object6
1964年に量産が開始された汎用装甲輸送・牽引車MT-LBは転輪が、PT-76水陸両用軽戦車、およびファミリー車であるBTR-50装甲兵員輸送車と同じものを同じ数だけ使っているため(しかも上部支持輪が無いところも同じ)、以前はこれらをベースにした車両であると解説されることが多かった。
しかしMT-LB装甲輸送・牽引車は、PT-76水陸両用軽戦車とそのファミリー車両を開発したボルゴグラード・トラクター工場(VTZ)ではなく、ハリコフ・トラクター工場(KhTZ)が独自に開発した車両であり、転輪など足周りの一部にPT-76水陸両用軽戦車と同一のコンポーネントを使用したに過ぎない。
MT-LB装甲輸送・牽引車は当初、核戦争時代に対応する中型野砲用牽引車として開発されたものと見られる。
従ってNBC防護システムを備えると共に、7.62mm機関銃PKTを持つ小型銃塔(TKB-01)を搭載し、最小限の自衛火力を備えている。
車内には2名の乗員(車長と操縦手)の他、11名の操砲要員または砲弾などの貨物2tを搭載することができる。
機関室は車体左側の操縦手席後方に位置し、駆動はフロント・ドライブ式の起動輪で、ダブルガイド式のPT-76水陸両用軽戦車に比べてやや幅広の履帯に動力を伝達する。
要員・貨物室は車体右側および後部に位置し、このため車体後面に乗降と荷物積み下ろしのための観音開き式の大型ドアが配置されている。
このように、貨物と人員輸送という平凡な任務に似合った単純な構造を持っているが、それがかえって使い勝手の良さに繋がり、旧ソ連・ロシアはもとより供給された東欧諸国、中東諸国などでも装甲兵員輸送車として使用されたり、指揮官用車両や各種支援車両(対空部隊や工兵等)のベースとして用いられる等、今日に至るまで広く使用されている。
特に装甲兵員輸送車として使用した際には、車体後面に乗降用ドアがあることが同じ装軌式装甲兵員輸送車であるBTR-50シリーズや、装輪式装甲兵員輸送車のBTR-60シリーズと比べても大変に都合が良かった(BTR-50、BTR-60の両シリーズとも車体後部に機関室があるため、搭乗歩兵の出入りは車体側面ハッチや車体上面から行った)。
本車の生産は現在は行われていないが少なくとも1970年代いっぱいまでは量産が続けられ、1980年代まで大量に輸出が継続されたと思われる。
国際紛争の現場では、今日も必ず顔を出す旧ソ連製AFVの1つである。
派生型としては、寒冷積雪地および沼地踏破用の超幅広履帯を備えたMT-LBVがある他、低空・短距離用対空ミサイル・システム9K35「ストレラ(矢)10」の自走発射機(9A34、9A35)に使われている。
object12
別名装甲人員輸送車GT-Lとも呼ばれる。1954年4月2日のソ連大臣評議会及び1959年1月24日のソ連評議会で製作が決定された。この輸送車は兵員、負傷者、ライフルや銃及びその弾薬、重砲の運搬などを目的にした水陸両用車だった。開発を受け持ったのはアルトタイラー工場で、完成した試作車は1961年1月から3月まで実地テストなどを受けた。しかし結果は良いものとは言えず結局は不採用になってしまった。
object19
ソ連が1965年に試作したIFV。object19、object764、object911、object914、object1200はすべて、次たるIFV、「BMP-1」の立場をめぐって熾烈な競争をしたが、Object19は負け、不採用になった。この競走は今日でよく知られるBMP-1の元となるobject764を採用して幕を閉じた。
object21
1950年代にソ連北部地域向けの全地形型砲兵トラクターとして設計された。軍隊、武器、弾薬、および他の軍事貨物を遠隔地の困難な地形上で運ぶことができる。1962年に少数生産、1963年から本格生産が始まった。軍だけでなく民間にも幅広く普及し、今でも活躍している。
object26
2S3と並ぶソビエト連邦軍初の本格的な自走榴弾砲である。1960年代半ばに開発が始められ、1971年に配備が開始された。1974年のポーランドでの軍事パレードで初めて公式に公開され、西側諸国では確認された年から取って「M1974 SPG」の名称で呼ばれ、後に判明した軍の装備名[1]からSO-122の名称が与えられている。
機甲部隊に随伴して迅速に支援火力を与えることを主目的として開発され、水上浮航能力を初めとして高い機動性能を持つ車両となっている。反面、高度な射撃統制装置は持たず、主砲も牽引砲をほぼそのまま搭載したに等しいもので、最大射程、発射速度共に特に秀でた点はない。車体、砲塔共に幅が広い代わりに背の低いデザインは自走砲としては車内高が足りず、装填作業に支障がある上に砲が大きな仰角を取れないために長距離射程を確保できない、という問題点があったという。しかし、構造が単純で信頼性は高く、機甲部隊の支援火力を一挙に自走化する、という目的には充分なものであった。
1990年頃までに約1万両が生産され、ポーランドやブルガリアではライセンス生産が行われた他、本車をベースとした派生車両が開発されている。
ソビエト本国以外にも旧ワルシャワ条約機構諸国や中東諸国などに広く輸出されており、旧式化が進んでいるが未だに多数の国で現役である。
object32
IMR-2の無線制御修正版。
object33
T-72の車体に追加装甲(鉛)を施し、瓦礫等を除去するために開発された物。詳細はよくわからない。
object49
別名GAZ-49とも呼ばれる。object49は1958年秋にGAZ設計局によって開発された。歩兵を輸送する手段として(BTR-152Vの代わり)そして特殊車両用のベースシャーシとして開発された。全部で二つの試作車が製作され、1959年前半に実地試験に合格した。7.62mm AK-47アサルトライフル、RPG-7対戦車手榴弾発射装置、26mm信号ピストル、9つのF-1手榴弾を装備していた。実地試験にも合格したが、後に不採用になってしまった。
object0-50
object0-50は1939年から1941年までT-100重戦車の単砲塔版としてレニングラードの設計局で設計された。T-100の競作であるSMKの単砲塔版であるKV戦車の競争相手であった。砲はこのゲームのT-34の初期砲でもある76mm L-11が1つ、45mm 20-Kが1つ。重量は40トン、乗組員は4人で、イジョルスキェ工場で製造されたが、試作車は完成しなかった。
object101
1949年に試作された水陸両用戦車。おそらくPT-76の試作品と思われるが、その詳細は不明である。
object103
Объект 103はT-100重戦車を基に設計された沿岸防衛用重戦車の計画である。
T-100の副砲塔を撤去し、回転砲塔に1935年型130mm B-13海軍砲と7,62mmDT機関銃3丁を装備し、敵のトーチカや船舶を砲撃するように企図された。
重量は58トン、乗員は8名。装甲はT-100重戦車と同じ60mm。
エンジンも計画ではT-100と同じGAM-34BT 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン(850hp/1,850rpm)であり、舗装路では35.7km/hで走行する事ができた。
サスペンションも計画通りT-100を流用していたならば内蔵板バネ式のはずである。(ただし実現するならばSU-100Yと同じくトーションバー式に改良する可能性もあり、これがゲームでトーションバーサスペンションとなっている理由かもしれない)
ゲームとかなり性能が異なるのは、計画段階で中止されたので基本仕様は単に「T-100に回転砲塔付きの130mm砲を搭載する」程度で、装甲などは詰められて無かった可能性もある。当然ながら正式採用されていないので「T-」は付かない。
なお、Object 103と言う名称だが、Objectの工場番号が振られる前のプロジェクトであり、担当はレニングラードのキーロフ第185工場(SU-5を作った所)で、Object 100系のウラル貨車工場とは関係が無い。
object105
別名SU-100Pと呼ばれている戦車。大祖国戦争で得た経験を元に、1947年からズヴェルドロフスクのウラル重機械製作工場(第9工場/UZTM)で開発が始まり1949年から1957年の間に合計24両が生産された。
開発名称はObject-105。プロトタイプは1949年に完成し1952年に試験を受け、数点の欠陥を指摘されるが試験自体は合格。1953年には欠陥を修正し、名称がSU-100PMとなる。1952年から限定的な任務に投入されていたとされる。
object108
別名SU-152Gと呼ばれる車両。1948年12月31日に第9工場によって作られたSU-152Gは工場試験を受けるよう指示された。結果は良好なものだったが金属製ヒンジに欠陥があることが発覚した。工場試験の後、今度は州の試験を受けるよう指示され、SU-152GはSU-100PとSU-152Pと州の試験に参加することになった。結果はSU-152Gと共に州試験に参加したSU-100Pのシャーシに問題があることが発覚した。1955年6月まで基本的なシャーシの改良と発見された欠陥の除去は続き、その後SU-100PとSU-152Gはソビエト軍によって使用されるようになる。だがフルシチョフの政策によってSU-152Gは数輌の試作車が作られただけで終わってしまった。
object111
別名T-111、T-46-5と呼ばれる車両。
1936年頃からソ連において、中戦車、重戦車の開発が本格的に始まるに至り、レニングラードのキーロフ第185工場で1938年4月に本車の試作品が製造された。
世界初の電気溶接による複合装甲が砲塔に使用され、45mm主砲(もしくは37mm)による高い攻撃力、30tクラスで最高60mmという重装甲でありながら、最高時速が辛うじて30km台であるなど、当時としては優秀な性能を誇った。
この時点で労農赤軍の主力中戦車であったT-26(T-26は軽戦車だが、当時のソ連の中戦車はT-28のような多砲塔戦車であり、第二次世界大戦中末期の中戦車とはニュアンスが異なると思われる)に代わる主力戦車として期待され、搭乗員は3人で、主砲の砲弾は121発収容可能であった。しかしこのように優秀な性能を持っていた一方で構造が複雑で量産に適さないとして、本車自体は試作の域を出ることは出来ず、生産はされていない。
本車の設計思想はその後のソ連の中戦車開発において重視され、また設計に携わったコーシュキン技師(後にT-34を製作)ら開発スタッフは顕彰されている。
object112(BTR-112)
1949年に開発された新型の兵員輸送車。SU-100Pをベースに制作されているが、全長が640mm延長されている。また、砲塔のようなものには14.5mm機関銃も取り付けられている。しかし試作だけで終わってしまい、実戦は経験していない。
object115
T-28の改良版として、レニングラードの工場の設計局で設計された。1933年当時、多砲塔戦車T-28は中戦車として非常に強力であったが、次第に時代遅れになり始めた。1937年には、まだ時代遅れ感は少なかったものの、軍は装甲と砲の威力不足を感じていた。また、赤軍の装甲車総局は、複雑さと高いコストの問題を繰り返し主張していた。さらに、その双方からは、履帯の不完全さが指摘された。このような問題があり、工場には苦情が流れ始めたため、車体下部の改良を始め多くの変更が行われたが、問題は完全には解決されていなかった。そこで、工場のエンジニアは、T-28の近代化の提案をした。主に、マシンガン砲塔の放棄、横幅の短縮、装甲の強化、砲の改善、同じ多砲塔戦車のT-35のサスペンションの流用であった。1938年にこの案が提出されたが、翌年には次世代型戦車の計画が優先され、この計画は実現しなかった。
object116
別名SU-152Pと呼ばれる車両。上の写真はよくSU-100Pと間違えられるから気を付けよう。SU-100Pの主砲を152mmM-53に換装したもの。
object116
1937年、ボキス装甲車輌局の司令官が新たな偵察戦車の開発を開始しました。1937年秋の戦術的・技術的要件では、水陸両用であることは求められず、BTタイプの装輪・装軌両用方式であることが求められました。第185工場の製造局で開発が開始された本車は、空冷エンジンと装輪・装軌両用戦車であるPT-1およびT-29のトランスミッション・ユニットを使用することが計画されましたが、後に開発が中止され、試作には至りませんでした。(ゲーム内説明より)
object117
軍隊というものは一日中活動できてナンボであるが夜間などは月明かりの元、作業などをしなくてはならず、これは明らか不便であった。そのため開発されたのがこのサーチライトを搭載したobject117である。運用法として、夜間に進軍するソ連軍の前の地面を照射し先が見えやすくしたり、敵機の位置を照らして友軍に教えるなどがあった。前者はは比較的簡単だったが、敵の航空機からすればここにいるのを教えてるようなもので、非装甲車両や歩兵などが機関銃掃射を受けてしまうリスクがあった。そのため、運用方法は後者を重点的に行うことが決定した。車体はobject120を流用、object120車体後部にスペースを設け、そこに設置された回転台にサーチライトをドカンと置く形になった。また、サーチライト用に発電機も設置された。サーチライトの稼動範囲は-15°~90°で、有効射程はフィルター有りで800m、なしで3500mだった。乗員は3人で車体前部左側に操縦手がおり、操縦手ようにペリスコープを備えたobject117オリジナルのハッチも設置された。操縦手の背後にはサーチライトの整備手、車長がいた。彼らにも専用のハッチが増設された。採用されたか否かなどは不明だが、量産されたり、そういった節が見られないため不採用だったと思われる。
object119
37mm機関砲2A11を2門搭載した対空自走砲。シルカと同時期に開発され、当初はどちらも採用される予定だったが最終的にZSU-23-4のみ採用された。
object120(SU-152 taran)
ソ連で制作されたSU-152"タラン"の設計段階での名称(大戦中のSU-152ではない)。
IT-1やラケーテンパンツァーのミサイルを超える射程を有していた。1957年5月8日に3000mの距離から西側の主力戦車を撃破できる性能を有した対戦車自走砲として開発が開始されたが1960年5月30日に125㎜滑腔砲の採用メドが立ったため開発が中止された。クビンカ戦車博物館にて展示中。
object123(2K11 Krug)
1957年から開発が開始され、1964年5月のモスクワでの軍事パレードで存在が明らかになった。1965年には部隊配備が開始されている。
なお、2K11をもとに長射程の艦対空ミサイルを開発する計画があった。この長射程艦対空ミサイルはM-31と呼ばれ、原子力推進の1126型巡洋艦に搭載される計画であった。しかしながら、技術的に達成不可能な能力を要求されたために、1126型巡洋艦の計画は中止され、これに伴ってM-31の開発も中止された。
ソビエト/ロシアを始め大半の装備国より1990年代に段階的に退役したが、改良された型が2000年代でも一部の国で装備されている他、ロシアではミサイルを実弾標的に改装したものが9M316M Virazhの名称で訓練弾射撃システムとして現在でも用いられている。
object127
遠距離にいる戦車を破壊するためのミサイル戦車。射程は120㎞だった。不採用。
object135(T-34-85)
T-34の新型では砲塔を嵌め込む穴の径を1,425 mm から1,600 mm に広げ、より大きな砲塔を取り付けられるようにした。T-43の砲塔の設計をクラスノヤ・ソロモフ工場の V.ケリチェフ技師が急遽やり直して、T-34に合うようにした(Zaloga 1984:166)。こうして完成した新型のT-34-85は以前よりはるかに優れた砲を持ち、遂に無線付きの三人式の砲塔となった(無線機はそれまで車体の方にあった)。これにより車長は砲手や装填手の役割を兼務する事から解放され、戦車の指揮に集中できるようになった。また、もう一つ重要な点は、イギリスやポーランドで戦前に設計されたものをコピーしたヴィッカース 戦車用ペリスコープ MK.IV(戦車用の潜望鏡)が砲塔の屋根に取り付けられた事で、これにより車長は全方向の視野を得る事ができるようになった。
新型の戦車の生産が始まってからしばらくの間は生産の速度がいくらか低下した。T-34-85は依然としてパンター戦車には敵わなかったが、火力が増したことによりそれまでよりは戦いやすくなった。ソビエト側は最新型の武装を追い求めず、既存の設計を発展させるという決断をした。この事によって、ソビエトは性能の差が問題にならなくなる程の、大多数の戦車を製造する事が出来た。1944年5月、ドイツ国防軍は東部戦線で304輌のパンターを持っていただけであったのに対し、ソビエトは月産1,200輌というスピードでT-34-85の数を増やしていったのである。
object136(T-44)
別名〈T-44〉とも呼ばれる戦車。T-44(ロシア語:Т-44テー・ソーラク・チトィーリェ)は、第二次世界大戦末期に開発され、冷戦時代初期にかけてソ連軍で使用された中戦車である。設計は、A.モロゾフの指導の下、ウラル戦車工場設計局によって行われた。
T-34設計の主任技師であるA・モロゾフは1943年3月、T-34の発展型であるT-43の試作を完成した。T-43はT-34/43年型と78.5%の部品を共有しながら、砲搭装甲を前面90mm、側面75mmに強化し、T-34で不評だった2名用砲塔を新型の3名用砲塔に変更した。装甲の強化で増えた重量の分、最大速度は48km/hに低下したが、サスペンションを従来のコイルスプリングを使ったクリスティー式ではなく、KV戦車と同じトーションバー式に変更された事により、走行性能もT-34以上の性能になった。しかし、主砲はT-34の物をそのまま流用していたため、1943年に一旦正式採用されることで内定したが、すでに陳腐化していた武装の新型戦車を正式採用することに異論が出たり、T-34の生産に支障が出る恐れがあることから、正式採用は見送られ、再設計が行われることになった。その代わりに、T-43の砲塔をベースに改良し85mm戦車砲D-5Tを載せ、T-34に載せかえることで武装を強化した戦車こそ、T-34-85である。
モロゾフは車体を再設計し、車体は履帯の上にスポンソン(張り出し)を設けない完全な箱型とし、傾斜した前面装甲は90mmもの厚さになった。また、エンジンもT-34のV-2ディーゼルエンジンを改良したV-44を搭載した。エンジン出力も向上し、横置きにすることで車体もコンパクトにまとめられ、重量も31.8tに抑え込まれた。砲塔はT-43に似てはいるが前後に長く装甲も厚い新型となり、主砲は85mm戦車砲ZIS-S-53を搭載した。車重がT-34-85より軽量で、車高も低いこととから、機動力も良好で路上では最大50km/hを出すことができた。また車体前方機銃は固定式となり、前面装甲に空けられた穴から発砲され、これはT-54に受け継がれる。
こうして完成した戦車は1943年7月、T-44として正式採用され、ドイツ軍から奪い返したハリコフ機関車工場で生産が行われた。大戦終了までに965輌が生産されたと言う。
T-44は時代を先取りする優れた車体構造にもかかわらず、登場した時点ですぐに陳腐化するのが確実な85mm砲を装備していた。その為、登場と同時に武装強化型であるT-54の配備までの繋ぎに甘んじることを宿命づけられていた。しかし、以降のソ連軍の主力戦車の車体はT-44の発展型であり、戦車開発史上では非常に重要な位置を占める戦車である。また、ごく最近のロシア映画やヒストリカルイベントにも姿を現すことから、未だに稼動状態を保っている車両が残っているようである。
object137-1(T-54)
別名〈T-54〉、T-54-1とも呼ばれる。 T-54(ロシア語:Т-54テー・ピヂスャート・チトィーリェ)は、ソビエト連邦で開発された中戦車である。1946年にソビエト連邦軍に「中戦車T-54」(«средний танк Т-54»)という制式名称でして採用され、1947年に量産型が完成した。当初はT-44Vと呼ばれたが、すぐにT-54に改称された。
被弾を極力回避するための低い姿勢、避弾経始を突き詰めて生まれたドーム型砲塔、西側中戦車を大きく凌ぐ100ミリ砲といった西側の戦車技術水準をはるかに越えた設計と、圧倒的な生産量で東西冷戦初期の西側陣営を恐怖のどん底に陥れた画期的戦車である。ソ連軍のみならず東側主要国や第三世界諸国で供与・ライセンス生産が行われ、東西代理戦争の前線でも頻繁に姿を見かける兵器となった。
しかし、俯角をとりづらく複雑な地形での死角が広くなり、人間工学を無視した無理な小型化は乗員の動きを阻害して戦闘行動に支障が発生。100ミリ砲も口径こそ大きいものの、実力は当時の西側主力戦車の90ミリ砲と同等レベル、おまけに照準能力の立ち遅れで(電子機器関係はこの後もソ連戦車の弱点になって行く)と第二次大戦時の教訓からあえて重視されなかったため長距離砲戦能力はほとんどないという有様であった。~ルノーFTの成功後、戦車開発が遅れたフランスのように第二世代のT-62が遠距離戦で完膚なきまでに叩きのめされて信用を失うまでこの欠点は改良されなかった。
だが、最も驚異的なのはその生産数で、T-54/55シリーズの総生産数はなんと10万両以上である。これは、M4シャーマンシリーズの5万両弱、T-34シリーズの4万両弱といった記録をぶちぬいた、文句なく人類史上最多量産された戦車である。
1951(1953)年型は砲塔後部に残っていたショットトラップを引き起こす部分を無くし、完全なお椀型にしたものである。このお椀を逆さまに被せた様な砲塔形状は、これ以降の砲塔形状のベースになった(T-90や最新のT-14はちょっと違うが)。煙幕発生装置と照準器が新型の物に換装され、特に照準器は3.5~7倍までの望遠が可能になった。
なお、北朝鮮では未だ現役である。走る骨董品。
object138
SU-100の試作車。
object139
T-54の近代化改修型。
object140
Object 140はT-54の後継車両として開発された試作の中戦車である。
ニジニ・タギルにおいて1953年から1958年にかけて開発が続けられ、2両の試作車両が製造されたものの、Object 430が支持されていた為、本計画は中止になってしまった。
object141
object141の開発は1952年9月12日に開始された。1953年7月に実物大模型が完成したが、この戦車に搭載予定の100mm D-54戦車砲が完成せず1955年一月にやっとD-54のプロトタイプの試射が行われた。実際言ってしまうと本来の目的は新型砲であるD-54を戦車に実験的に搭載させることが目的でobject141の車体はT-54と変わらず変わっていることと言えば砲と砲を搭載する砲塔の僅かなサイズ変更だけだった。D-54は1000mで240mmの装甲を貫通することができた。このobject141は増加燃料タンクを追加する案が出たが、却下された。(試作はされた)object141はT-62に進化し、1970年まで生産された。
object142
object142は1958年秋に試作車両が一台試作された。搭載砲は100mm D-25TSを搭載し、装弾数は50発だったがこのobject142は砲弾の薬莢を排出する穴がなかった。(普通の戦車(例外あり)には砲塔側後面に薬莢を排出する穴がある。object142は車体後部に位置する580hp B-55エンジンによって最高速度50㎞を出すことが出来た。object142はエンジン部分などの電気系統はヒーターと燃料タンク以外はobject140の流用で、航続距離は500㎞だった。しかしT-55の改良型の生産に伴なりobject142の量産はキャンセルされ、試作に終わってしまった。
object148(T-14)
T-14(テー・チェティールナッツァチ、オブイェークト148、ロシア語: Т-14 Объект 148)とは、ロシアの戦車である。
ロシア連邦軍(以下ロシア軍)の次世代装甲戦闘車両シリーズ、「アルマータ」(Армата)共通戦闘プラットフォームを構成する車輛のひとつで、第4世代主力戦車に分類される(「第5世代主力戦車」とすることもある等諸説あり)。無人砲塔を採用し、乗員の生残性や市街戦を考慮した構造となっている。2015年モスクワ戦勝記念日パレードにおいて初めて公開された。2017-18年に量産を開始予定で、2020年までにロシア軍はT-14を2,300輌取得する計画である。近い将来遠隔操作が可能になるとされている。
なお、「アルマータ」とは前述のようにT-14をはじめとする装甲戦闘車両シリーズの総称なので、T-14自体を指す名称が「アルマータ」というわけではない点には注意が必要である。
object149(T-15)
T-15 アルマータ (ロシア語: T-15 Армата)は、ロシア連邦の重歩兵戦闘車である。企業側の呼称は「オブイェークト149(Т-14 Объект 149)」で、最初に公開されたのはアラビノ演習場における2015年モスクワ戦勝日パレードのリハーサル中であり、当初砲塔は覆い隠されていた。
T-15はロシア連邦軍の次世代装甲戦闘車輛シリーズ、「アルマータ(Армата)」共通戦闘プラットフォームを利用した派生車輛のひとつで、ロシア陸軍の基礎プラットフォームであるBMP-2とMT-LBを更新することが予定されている[3]。
object150(IT-1)
別名IT-1と呼ばれている戦車。IT-1(ロシア語:ИТ-1イーテー・アヂーン)は、ソビエト連邦軍の対戦車ミサイルを主武装とする駆逐戦車である。ロシア語では誘導式のミサイルでも「ロケット」と呼ぶため、「ロケット戦車」とも呼ばれる。
1960年代、誘導式のロケット兵器(ミサイル)の発達に従い、西側諸国では対戦車ミサイルを搭載した戦車駆逐車や、戦車の主砲からミサイルを発射できるガンランチャーシステムが開発されたが、ソビエト連邦でも同様のことが行われていた。
ガンランチャーシステムを用いた主砲を装備する砲塔を持つ車両が開発される一方、T-54/55などの戦車を用いた実験では、砲塔後部にラックを設けてロケット(ミサイル)ランチャーを外部装備する試験が行われていたが、より本格的なロケット搭載戦車であるIT-1は、専用に開発された3M7ドラコーン対戦車ロケットを主兵装とし、専用の砲塔に隠匿式に搭載した本格的な駆逐戦車である。
これともう一つ別にT-150重戦車もobject150と呼ぶ。
KV-1からの派生試作車両の内のひとつ、KV-1の改良型で装甲やエンジンの強化の他各部を手直ししたもので、文献によっては本車がKV-3と呼称されている場合もある。
特にこの時期はソ連内でのスターリン独裁体制の為の権力闘争などもあって開発に混乱が生じており、火力支援戦車としてのKV-2や、ISへとの直接の関連性があるKV-1Sとその派生KV-85はKV-1から独立した車両として分類されているが、T-150やKV-220はKV-1がベースとなっており、その混乱期に試行錯誤された車両として文献ではKV-1の試作派生車両として取り扱われている。
WoTではKV-1に85㎜砲を乗せたりT-150に(史実の)KV-220の砲塔を搭載したり、KV-220をイレギュラーなタイプの76mm砲仕様にしたりと、史実の計画と異なる所が多いため、本来計画された車両とは異なっている点で注意が必要である。
object152(T-16 BREM-T)
アルマータファミリーの内の一つの重装甲回収車両。2019年に4台が注文され、ロシア軍に配備されている模様である。
object155(T-55)
T-55は、ソビエト連邦で開発された中戦車である。戦後第一世代の主力戦車とも分類される。
史上最も生産台数が多い戦車といわれており、ほぼ同じ形状のT-54も含めると、その数は10万輌を超えるといわれている。1958年に登場し、1970年代後半まで生産された。冷戦時代に他国へ供与・輸出された数も多く、未だに多くの国で使用されている。T-54とひとまとめにされてT-54/55と表記されることも多い。ハリコフ設計局により作られたT-44をベースに、100mm砲を無理なく搭載できる新型砲塔を装備したものがT-54である。
試作に終わったT-43以来の大直径転輪+トーションバーサスペンションの足回りと、前作T-44同様の車体上部とシャシが一体の箱型車体を持つ。1946年に完成した試作車の砲塔はそろばんの弾がゆがんだような形状で、砲塔下部に被弾すると弱い砲塔リングや車体上部に命中弾を導く「ショットトラップ」となる点が問題だった。
先行生産型の1948年型では砲塔が大きくなり、後の量産型のようなお椀形に近づいたが、まだ後部にせり上がったショットトラップを残していた。1950年型よりよく知られる量産型の砲塔となり、以後T-55A、B、M(以上、NATOでの分類)と改良され、主力戦車の座についた。
object160
PT-76を基にしたミサイルシステム。3R9ミサイルを搭載し、最大射程は45㎞だった。10ktの核弾頭を搭載したタイプもあり、どちらともPT-76をシャシーにしている為水陸両用が可能だった。
ガスマスクをしている乗員が見える他、弾頭が少し膨らんでいるのも見える。
object165(T-62A)
50年代のソ連中戦車の主砲は100mm砲であったが、西側でロイヤルオードナンスL7が広まり始めると、それに対抗できる新型砲の開発が始まった。まず100mmD-54が開発されたが、問題点が多かったためさらに改設計されて115mmU-5TS滑腔砲として完成した。
一方、ウラル車両工場のOKB-520設計局で、L.N.カルツェフ技師が新型戦車案となるオブイェークト140(D-54TS砲搭載)を設計していた。これは複雑すぎるとして却下されたが、その砲塔を改良しT-55を延長した車体に乗せたオブイェークト165、主砲を115mm滑腔砲に換装したオブイェークト166を完成させた。
60年代初め、「アメリカの新型戦車(M60)はロイヤルオードナンスL7を搭載する」「イギリスは120mm砲搭載の新型戦車(後のチーフテン)を開発している」という情報が入ってくると、115mm砲搭載の戦車がすぐに求められることになった。しかし本命だったオブイェークト430に対核生存性などの改良が必要とされたため、すでに完成していたオブイェークト166を採用し、T-62と命名した。
このときオブイェークト165もごく少数がT-62Aとして配備された。ゲーム中に登場するのはこの車両である。
NATOコードネームではT-62の機銃が追加された後期型をT-62Aとしているが、実際は別の車両である
なお余談ではあるがロシア軍からは2013年に全車退役が決定された。そのためロシアでは本車を見ることはできない(スクラップ状態では保管されている可能性あり)。しかし北朝鮮の軍事パレードでは動く本車を見ることができる。(北朝鮮では天馬号/天馬虎(チョンマホ)と呼ばれている)
object166(T-62)
1950年代に入るとソ連は新型対戦車砲の滑腔砲、及びその砲で使用する新型砲弾APFSDS(APDS-FS)の開発を始めた。滑腔砲、APFSDSの双方の開発は順調に進み、T-55にこのシステムを搭載した改良型の開発計画が建てられた。
もともとはT-55の改良したものに搭載する予定だったが後に変更され車体から設計しなおし1957年には最初の試作車である、100mmライフル砲を備えた「Obj165」が完成。1961年にはU-5TS 115mm滑腔砲を搭載した試作車「Obj166」が完成した。この車両は正式名称T-62として量産に入ることが決定。そして「対独戦勝20周年祝典パレード」で始めて公開された。それがこの車両である。
T-62はT-54/55ほど世界に広く供与されることは無かったが初期は「カタログスペック上」コストパフォーマンスや性能面で高かったため世界に輸出された。1970年代末には生産終了し、T-72に主力戦車の座を譲っているが、一部の国では近代改修を施され今でも現役である。
なおあくまで基本はT-54/55の思想を受け継いでいたため遠距離戦がすこぶる弱く、当時光学機器が高度に発達し始めていたのも相まって実戦での評価はあまり良くなかった...
object167
ソ連軍機甲局は、期待通りに開発作業の進まないT-64戦車の行く末に大きな不安を感じていた。
ソ連軍の次期MBT(後のT-64戦車シリーズ)の開発チームには、第2次世界大戦以来の伝統ある中戦車設計局=A.A.モロゾフ技師率いるハリコフのV.A.マールィシェフ工場の第60設計局を選定していたのに対し、一種の保険としてL.N.カルツェフ技師率いるニジニ・タギルのウラル貨車工場(UVZ)の第520設計局に1961年頃、T-62中戦車のさらなる改造による新型MBTの試作を発注した。
第520設計局は早くも1957年に、次期MBT開発を巡る第60設計局の対抗馬として滑腔砲搭載試作MBTオブイェークト140の開発を手掛け、その後もT-55中戦車を改修した暫定的な滑腔砲搭載MBTであるT-62中戦車の開発を担当してきた実績があったのである。
第520設計局はT-62中戦車の基本車体を用いながら足周りとエンジン、動力伝達機構等の改変を行った新型MBTの設計を開始し、1963年までに少なくとも3種類の車両が試作された。
1961年に製作された最初の試作車であるオブイェークト167は、砲塔や基本車体はT-62中戦車と同一であったが足周りに大幅な変更が加えられていた。
オブイェークト167の足周りは従来のソ連軍中戦車に用いられてきた片側5個の大直径転輪に代えて、後にT-72戦車シリーズに採用される片側6個のアルミニウム製中直径転輪と、片側3個の上部支持輪を組み合わせたものが採用されていた。
履帯はT-55中戦車やT-62中戦車と同じドライピン連結式のものが用いられており、エンジンは大戦中のT-34中戦車以降名を上げたV型ディーゼル・エンジンの出力向上型である、V-26 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力700hp)を搭載していた。
全体として、既存の技術に裏付けられた堅実な設計であるといえた。
続いて1961年に製作されたのが、オブイェークト167の砲塔後部に9M14「マリュートカ」(赤ん坊)対戦車ミサイルの発射機を3基装備したオブイェークト167sPTURである。
さらに1963年には、オブイェークト167にガスタービン・エンジンを搭載したオブイェークト167T(別名:オブイェークト167sGTD)が試作された。
搭載されたエンジンはGTD-3T(GTD-800とする資料もある)ガスタービン・エンジンで、出力800hpを発揮した。
その他の諸元は、オブイェークト167と変わるところは無い。
しかしオブイェークト167シリーズはソ連軍機甲局を満足させるものではなく、T-72戦車シリーズに至るまでの習作の域に留まった。
object172(T-72)
本車の開発は1967年にスタートしたが、始まるに至った原因は、当時ソ連が配備を進めていたT-64がある。T-64はソ連が威信をかけて開発したMBTで、自動装填装置や大口径で強力な125mm砲、ディーゼルエンジンや複合装甲といった革新的な装備を持ってデビューし、その登場は西側に大きなショックを与えた。しかし、決していい所だらけの戦車とは言えず、初期型は装填装置による乗員の死亡事故を引き起こし、それを改良したT-64Aをもってしても整備性の悪さは付きまとい、最大の欠点として高いコストという問題を抱えていた。その為、T-64の配備は中々進まず、T-62やT-55といった旧式戦車の置き換えも十分に行えずにいた。
そこでソ連は、T-64より信頼性が高くコストも低い車両を作るべく、T-64をベースにObject172を制作した。このObject172は2種類が制作されており、一つは車体はT-64だが自動装填装置を6ETs15"カセートカ"に変更し、エンジンもV-45(780hp)に換装した車両(エンジン冷却装置はT-64のもの)。もう一つは、Object167の足回りを流用しているが冷却装置を別のものに変更した車両である(エンジンはV-45)。後者は愛称として"ウラル"という名を与えられ、1968年にクビンカ試験場で試験が開始され、1年後には砂漠地帯でも試験を実施した。試験結果には問題ないとされたが、エンジンのパワー不足が問題化したため、エンジンを新型のV-46に換装した。そして、このV-46エンジンを搭載した量産型としてObject172Mが製造され、1970年にザバイカルで寒冷地試験を実施し満足な結果を残した。
Object172Mは試験だけではなく、実際に運用する部隊からも歓迎され、1973年には遂に"T-72"として制式採用された。
object176(T-72A)
登場当初こそ強力な射撃装置を持っていたT-72だったが、西側も新たなFCSを備えたMBTを次々に登場させ、ソ連としてもこれを黙って見過ごすわけにはいかなかった。そこで、T-72に新型レンジファインダーを搭載したObject176を試作し、結果が良好だったためこれを"T-72A"として制式採用した。量産開始は1979年。外見上の違いとして、ステレオ式測距儀を装備していないため、砲塔上面左右の測距儀の出っ張りが無くなっている。主砲も2A26M2ではなく、2A46に変更しており、搭載弾薬数も44発までになった。砲手用夜間サイト(TPN-3-49)や操縦手用夜間装置(TVNB-4)の更新もされている。1982年からはスタビライザーも新型に換装している。
基本的に車体などは"ウラル1"と同様ではあるが、展開式エラ型補助装甲を廃し合成ゴム製のサイドスカートを当初から装備している。また、従来のソ連戦車同様に煙幕発生装置(エンジンの排気と燃料を混ぜて煙幕を発生させる)は残しつつ、後期生産型からは発煙弾発射機(902A)を装備し始めた。エンジンもB-46-6に換装している。
製造期間は1979年から1985年の6年間で、主にワルシャワ条約機構加盟国に駐在するソ連戦車師団に配備された。
T-72Aの派生型
T-72AK 指揮官向け。偵察機能を付与した他、指揮系通信機や通信アンテナの増設等を行った。電源装置装備。
T-72M 輸出向け。
T-72M1 輸出向け。
T-72M1M 輸出向け。T-72M1を更に近代化した。
T-72AV 爆発反応装甲を装備したT-72A。
object183(BMP-T)
BMP-Tは、第一次チェチェン紛争の戦訓から、戦車に随伴して敵歩兵による対戦車攻撃から戦車を援護するための車両として開発され、旧式化に伴って予備兵器とされたT-72の車体を流用して砲塔を換装し、幾つかの装備を追加したものである。
機関砲および機銃による制圧射撃のほか、自動擲弾発射機を用いた近接制圧によって敵歩兵を掃討し、堅固な建造物や掩蔽陣地に立て篭もる敵に対しては誘導ミサイルによる長距離からの正確な攻撃を可能としている。なお、車体内に歩兵を収容する能力はなく、「装甲兵員輸送車」もしくは「歩兵戦闘車」としての運用は不可能である。
ロシア連邦軍では機甲部隊にT-90と混成して装備する主力戦闘車両の一つとして、2005年から配備を開始した。
当初、ロシアも批准している「ヨーロッパ通常戦力条約」により、BMP-Tの予定数調達は不可能とされたが、ロシア国防省は「BMP-Tは戦車でも兵員輸送車でもなく、条約締結の時点で存在しなかった新カテゴリの兵器なので、同条約には規定されず、報告の義務も保有数の制限も無い」として予定通りの数を装備することを公言していた。しかし、ロシア連邦軍の機甲装備に対する方針の変化と予算面の問題から、2010年をもって調達は終了した。
その後、砲塔や車体の設計に改正を加えた同コンセプトの後継車両が開発されており、兵器操作の自動化をさらに進め、乗員が5名から3名に削減され、車体重量を47tから44tに軽量化された"BMPT-72 Terminator 2"の名称で発表されている。さらに、アルマータの車体を利用した"Terminator 3"を開発中である。
object184(T-72B)
1978年に125mm滑腔砲の砲腔内から発射するレーザー誘導式対戦車ミサイル・システムを持つT-80B戦車が出現した後、T-72戦車に同じミサイルの運用能力を与える計画が提起された。
最初の試作車は「オブイェークト182」と呼ばれたが、エンジンを出力向上型のV-84ディーゼル・エンジン(出力840hp)に換装した試作車は「オブイェークト184」と名称が変更された。
試験の結果が良好だったため、オブイェークト184は「T-72B」の名称でソ連軍に制式採用されることになり、1985年から部隊配備が開始された。
T-72B戦車は主砲が新型の51口径125mm滑腔砲2A46Mに換装され、主砲の砲腔内から対戦車ミサイルを発射できるようになった。
125mm滑腔砲より発射される対戦車ミサイルは9M119「レフレークス」(反射)または改良型の9M119M「レフレークスM」で、最大有効射程は9M119が4,000m、9M119Mが5,000m、成形炸薬による装甲穿孔力は700~750mmに達し、今日でもロシア兵器輸出公団は「M1エイブラムズ戦車を撃破できる」と豪語している。
対戦車ミサイルはレーザー測遠機兼誘導装置1K13-49により、目標まで半自動で誘導される。
またこのミサイルは車両だけでなく、対ヘリコプター用にも有効であるとされている。
このように良いこと尽くめのような対戦車ミサイル・システムだが、9M119対戦車ミサイルの輸出価格は1発45,000ドルと高額で、30発分の金額でT-72戦車の輸出型1両が購入できる計算になる。
ロシア製兵器としては高価なものだが、一応本国軍のT-72B戦車等は1両当たり4発の9M119対戦車ミサイルを搭載することにはなっている。
T-72B戦車は装甲防御力についても強化が図られており、車体前面には20mm厚の増加装甲板が追加され、砲塔前半部の複合装甲は厚みが顕著に増加している。
この装甲防御力の強化に伴って重量が増加したため、T-72B戦車は出力向上型のV-84-1ディーゼル・エンジン(出力840hp)を搭載するようになり機動力の維持を図っている。
またT-72B戦車は、予算不足のために対戦車ミサイル・システム関連機器を搭載しない本国軍向け廉価版タイプも並行生産されており、こちらは「T-72B1」と称する。
object187
ソビエトの謎多き中戦車。1980年代から1990年代に実験的に試作された戦車。このプロジェクトは当時は機密だったがために情報が少ない。object187はobject188/T-90と平行に開発されていた。改良されたT-72の砲塔を備え、車体は新しく設計された。車高が低く操縦手の座席は低くなり、光学装置等は砲塔天板に取り付けられていた。搭載砲は125mm 2A66滑空砲、同軸機銃に7.62mmPKT機銃を、砲塔天板に12.7mm NSVT重機関銃を装備していた。砲塔、車体に、爆発反応装甲を備え、様々な改良の末、object187は物理的最大装甲950mmに達していた。しかし、この戦車に載っている125mm 2A66滑空砲はT-90などに載っている2A46と弾の互換性がなく、2A46の弾を使えなかったので結局不採用となった。
object188(T-90)
1980年代半ばのソ連軍は高性能だが製造・運用コストの高いT-80戦車シリーズと、性能的にやや劣るがよりコストの安いT-72戦車シリーズの2系統のMBTをハイ・ロー・ミックスで運用していたが、当時のソ連政府は深刻な財政難に陥っており、このまま2系統のMBTを運用し続けるのは非効率であるということで、これをT-72戦車の改良型で一本化しようという構想が浮上した。
そしてソ連閣僚会議は1986年6月19日に、T-72戦車シリーズの開発元であるニジニ・タギルのウラル貨車工場(UVZ)の第520設計局に対して、T-72戦車の性能を大幅に向上させる改良型を開発するよう命じた。
そこで第520設計局は当時のT-72戦車最新型であるT-72B戦車(オブイェークト184)をベースに、2種類の改良型を並行して開発を進めることにした。
その1つはT-72戦車の基本設計を大幅に変更して、T-80戦車の最新型であるT-80U戦車と同等の性能に引き上げることを目指した「オブイェークト187」と呼ばれる大規模改良型で、もう1つはT-72戦車の基本設計には手を加えず、FCS(射撃統制システム)の新型化やERA(爆発反応装甲)の装着によって性能向上を図ろうという簡易改良型の「オブイェークト188」である。
オブイェークト187は従来のソ連製MBTに採用されてきた半球形の一体鋳造の砲塔に代えて、西側MBTのような角張った溶接製の「ウラジーミル」と呼ばれる新型砲塔を採用しており(設計主任のウラジーミル・ポトキン技師に因む)、従来のT-72戦車シリーズに比べて大幅に防御力が強化されていた。
さらに砲塔前面には、T-80U戦車に用いられている「コンタークト5」ERAよりも新しい「レリークト」ERAがびっしり装着されていた上、新開発の「シトーラ1」アクティブ防御システムも装備していた。
またオブイェークト187には、新開発のA-85-2 X型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力1,200hp)を搭載することが予定されており、機動力もT-80U戦車と同等に向上していた。
このようにオブイェークト187は従来のT-72戦車シリーズに比べて大幅に性能が向上していたが、それに比例して製造コストも高騰してしまった。
当時ゴルバチョフ政権下で軍事費が大幅に削減されつつあったことに加え、1991年末にはソ連そのものが崩壊してしまったため、結局オブイェークト187は試作のみに終わりロシア軍には採用されなかった。
一方、簡易改良型のオブイェークト188はT-72戦車の基本設計はそのままに、T-80U戦車の1A45 FCSの改良型である1A45T FCS、「コンタークト5」ERA、「シトーラ1」アクティブ防御システム等を導入したもので、総合性能ではオブイェークト187に及ばないものの、そこそこ高性能で製造コストも比較的安いのが特長であった。
最終的にオブイェークト188はこの製造コストの安さが評価され、ソ連末期の1991年3月に「T-90主力戦車」(Osnovnoy Tank T-90)としてソ連軍に制式採用される運びとなった。
その後同年12月にソ連が崩壊したことで本車の採用は一旦宙に浮いた形となったが、1992年10月5日にあらためてT-90戦車をロシア軍の制式装備として採用することが決定され、同年9月30日には最初の生産型が工場をロールアウトしている。
object195(T-95)
この戦車はソ連が試作していた中戦車で2010年5月にキャンセルされるまでその全貌は明らかにされなかった。この戦車の存在は1995年に最初に報告され2000年にロシアの公式サイトにてその存在を示唆する内容が発表され、2009年には採用されロシア軍に入ることになっていたが、繰り返し延期され結局はキャンセルされてしまった。
object199(BMP-T72 terminator2)
このBMP-T72 terminator2歩兵支援戦闘車は2013年9月、ロシアにて行われたRussian Arms Expo 2013の展示会で発表された。BMP-Tの後継として作られた戦闘車で、見た目にこれと言った差異はない。前任者と同じようにT-72の車体を基にしており擲弾発射装置や対戦車兵器などを使用して敵の抑制などを行うことが出来た。
object209
民間向けに再設計されたBTR-50。
object210
北方艦隊用に設計されたBTR-50。
object211(T-50-2)
1941年初頭、歩兵支援戦車として開発されたT-50が量産準備に入る一方、KV重戦車を開発したコーチン技師も加わりその改良型の設計が開始された。それがT-50バリアント2(T-50-2)である。T-50-2は装甲の傾斜が減少してよりKV-1重戦車に近い外見となり、装甲の増加や変速・操向装置の改良などが行われた。主砲は45mm 20Kのままだったが、同軸機銃が連装となっていた。
T-50-2は試作車が完成した段階で独ソ戦が勃発して開発は中断、制式採用されなかった。
object211
gtd-350タービンエンジンを搭載したbtr-50。
object211
1940年に始まったT-26の代替戦車のプロジェクト。2つの計画案が出され、一つは鋳造装甲に45mm戦車砲を備えたタイプ。もう一つはDT機関銃3丁を備えたタイプ。だが両車とも重量が重すぎるためT-26の後継はT-50となった。
object211,212,220
T-10に基づく地雷除去車両。テストは1959年から始まり1963年にT-10の生産が終了するまで続けられたが、結局採用されることはなかった。
object212
SMKをベースに密閉戦闘室を設け、152mm BR-2や203mm B-4を搭載した自走砲。直接支援射撃を考慮しており戦車並みの装甲を有していた。計画のみ。
object216(2S7)
1967年12月から射程距離が25km以上の自走砲として開発が開始され、1975年に部隊配備が始まった。
2S7ピオンの搭載する2A44カノン砲は、射程距離は通常弾(ZOF-40榴弾)使用の時最大で37.5 km、RAP弾(ロケット推進弾)(主にZOF-43榴弾)使用の時47.5~55.5 kmで、この距離は野砲の中では最大級である。この長大な射程距離を生かして敵を射程外から攻撃出来るうえ、敵が攻撃に気づく前に移動の準備をすることも出来る。砲口初速は最大960m/s、砲身寿命は約450発である。
車内には4発の砲弾しか搭載されていない。弾薬輸送にあたり専用に開発された給弾車はなく、随行するトラックなどが輸送する。
通常の榴弾の他にもクラスター弾、対コンクリート砲弾、化学砲弾も発射可能である。計画通り核砲弾も発射可能で原子砲の役割も果たすことが出来る。また、与圧式NBC防護装置を搭載しており、NBC汚染環境下でも行動は可能だが、砲撃準備は外で作業しなければならないため、汚染環境下での操砲は不可能である。
1,000門超が生産され、各国において現役で使用されている。
object217
フィンランドとの冬戦争で損害をだした歩兵隊の輸送(ソリに乗せて牽引)と火力支援用の軽戦車。移動中は背面カバーを開いて運転し、戦闘中はカバーを閉じて2名が寝そべって機関銃を撃つ。開発中に冬戦争が終わり、量産されず。
object218
車体前端に立てたアンテナから誘導電流を発振し、前方の地雷を爆破処理する装置。1940年2月にT-28を用いて試験が行われ、良好な結果を示したが大祖国戦争の開戦により開発中止。
object219 sp1
T-80の試作車であるが、その足回りはT-64系統のものを丸々流用していた。T-80としてソ連軍に採用されるのははobject219 sp2である。
object219(T-80)
精鋭部隊を中心に配備されたT-64は期待に反して欠陥が多かったため、これを改良発展した戦車としてT-80が開発された。そのため、普及型戦車であるT-72とは別に開発された車輌である。
T-80の開発は、T-64にガスタービンエンジンを搭載したSKB-2の開発から始まった。レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)のキーロフ工場で開発されたSKB-2は、改修を経てT-80として量産され1976年にソビエト連邦軍に採用された。
object220(KV-220)
別名KV-220とも呼ばれる。開戦前、ソ連は独軍戦車を実際より装甲火力ともに強化されていると誤認し、重戦車の強化を図った。
まず完成したのがT-150である。T-150はKV-1の装甲を75㎜から90㎜に強化し車長用キューポラを設けたもので、1940年12月に試作車が完成し翌41年1月15日~2月14日にかけて試験が行われたがエンジンの信頼性や車載機銃の使いにくさを指摘され不満足な結果のまま終わった。
しかし計画が中止されたわけではなく改良型のKV-3(オブイェークト222)も試作された。
そしてT-150と同時に開発が始まったのがこのKV-220(KV-4/オブイェークト220)である。KV-220は85㎜戦車砲F-30を搭載し車体装甲を全周100㎜に強化、砲塔上に対空機銃塔を搭載したものである。
KV-220は予定より数か月遅れの1941年1月中旬に走行試験を行った(この時工場試験はスキップされていた)がエンジンが故障し3月に計画が中止された。
計画が中止されたKV-220であるが試作車は新型のエンジンや転輪の試験に使われ、レニングラードのキーロフ工場で独ソ戦の開戦を迎えた。
キーロフ工場は人員などの疎開が行われたが計画が中止されたKV-220は疎開の対象外であり包囲下のレニングラードに取り残された。そこで試作車2輌にF-32を装備したKV-1の砲塔を搭載し試作車1号(KV-220-1)は1941年10月5日、2号車(KV-220-2)は16日に第124戦車旅団に配備され、ドイツ軍への反撃に使用された。1号車がどうなったかは不明だが2号車は12月に撃破されてしまった。通常炎上撃破された戦車は回収されないのだが緊急時ということで回収され(第124戦車旅団は最終的に17輌を回収した)、1942年冬に修理されたのちに1944年まで乗員訓練に使われた。
なお、本来搭載する予定だった85㎜砲塔は第22カレリア要塞地帯に「85㎜砲装備装甲火点(KV)『勝利』」と名付けられて設置された。
object223(KV-3)
別名KV-3とも呼ばれる戦車。1940年春に行われた、ナチスドイツによるフランス・低地諸国攻撃とそれらの迅速な占領は、その年の初頭にフィンランド相手に大打撃を受け、スターリンの粛清による戦闘能力低下を痛感していたソ連に大きなショックを与えた。
こうした状況下で、ドイツ軍が重装甲のルノーB1を保有するフランス軍相手に勝利できたのはそれ以上の重装甲、高火力を有する戦車を保有しているためであるという観測に基づき、当時量産が軌道に乗りつつあったKV-1重戦車の改良が開始された。計画車両の呼称はObject-222である。
この改良は最大90mmへの装甲増厚、司令塔をもつ新型砲塔、エンジン馬力の向上、武装の76mm ZiS-5への強化などを含み、1941年春に制式化されてKV-3となり、KV-1にかわって生産される予定であったが、ドイツの侵攻により置き換えは中止された。しかしKV-3で計画されていた改良のうち、装甲の強化と76mm ZiS-5の搭載はKV-1に反映された。このとき試作されたKV-3は実戦に投入されたようである。
ところが同時期、もう一つのKV-3が開発されつつあった。
当時赤軍中央砲兵局総監のI.クリーク元帥は断片的な情報をもとにドイツ戦車の武装と装甲をさらに過大評価し、ドイツ戦車の武装が100mm以上の口径を持つ主砲に換装され、装甲も当時開発中だった57mm Zis-2(57mm Zis-4の原型)や76mm F-32では貫通不可能なレベルに強化されていると主張した。(実際には4号戦車の後継として当時まだ開発中だったVK 30.01 (H)やVK 30.01 (P)ですら主砲は7.5cm KwK37 L/24または10.5cm KwK42 L/28を搭載予定という段階で、10.5cm KwK42 L/28を搭載した砲塔は結局試作すらされなかった。さらに装甲は最大でも垂直50mmで、上述した火砲でも十分貫通可能だった。)
そしてそのようなドイツ戦車に対抗するためには、より高威力な107mm ZiS-6の開発を最優先で進め、装甲も強化した新型戦車を開発するべきだと主張したのである。
彼のこのような主張に対し、さらなる新型火砲の優先開発はいたずらに開発・生産現場の混乱を招き、次第に雲行きが怪しくなっていたドイツとの戦争に備えることができなくなる、現状の火砲より強力なものが必要ならば既存の高射砲を改造する85mm砲で十分である、と軍人や産業界は反発し、1941年初頭に論争が繰り広げられたが、スターリンに取り入ったクリーク元帥の主張が通り、107mm F-39を搭載し、より強固な防御力をもつ戦車の開発が開始されるとともに、107mm ZiS-6の開発を最優先とし、前述の2火砲とその砲弾の開発を抑制するという重大な決定がなされた。
Object-220(あるいはKV-220)と呼ばれたこの戦車は、KV-2の大型砲塔を縦に縮め、キューポラを取り付けたような砲塔に、107mm ZiS-6を搭載することを予定していた。装甲は最大100mmで、62.7tに達した重量を支える850馬力のエンジンを搭載するために車体はKVから延長されていた。しかし41年春に試作車が完成した時点では107mm ZiS-6の開発が完了していなかったため、高射砲を改造した85mm F-30が搭載された。なお、武装に関しては当初より85mm F-30を搭載予定であり、途中107mm ZiS-6搭載が検討されたが最終的に元に戻ったとする説も存在する。
さらに砲塔をより傾斜したものに変更したObject-223と呼ばれる案も検討された。このObject-223をKV-3と呼ぶ場合もあり、ゲームに登場する改良型砲塔はこちらである。
このほか、独ソ戦前にはこれを上回る陸上戦艦のような超重戦車(KV-5など)もいくつか計画されていた。しかし、ドイツの侵攻により彼らの戦車が喧伝されていたようなものでないことも判明し、Object-220とObject-223の開発は中止された。85mm F-30を搭載したObject-220の試作車は、レニングラード攻防戦に投入されて失われたようである。
107mm ZiS-6やKV-3を含む超重戦車の開発作業を他のものより優先させるという決定は、生産がまだ十分軌道に乗っておらず、量産・運用により判明した不具合を改良していく必要があったKV-1やT-34の生産と改良、さらにそれらに搭載される予定の57mm Zis-2や76mm F-32、76mm F-34の開発、生産を遅延させた。
そしてその遅延は、ドイツによる侵攻時に重大な問題となって赤軍戦車隊にのしかかった。まず戦車の生産量自体が十分ではなく、加えて予備部品や弾薬の備蓄も不十分で、一説によれば開戦時、76.2mm砲用の弾薬は必要量の12%程度しか存在しなかったという。そのため砲弾をごく少数のみ搭載、あるいは搭載せずに出撃し、対戦車砲を踏みつぶして回っていた戦車も存在した。
しかし一方で、長砲身85mm砲を搭載し、車体・砲塔とも100mmの装甲厚、砲塔にはキューポラ付きという性能は、翌年秋に戦場に登場するティーガーIとほぼ同等であり、同時期のドイツ軍がVK3001(H)やVK3001(P)を開発していたのと比較すれば、Object-220やObject-223はそれなりに強力で先進的な戦車であったことは否定できない。戦争遂行のため既存の戦車の量産と必要最低限の改良に注力し、戦前に開発されていた計画戦車の大半を中止したことは、1年後の「ティーガーショック」をより酷いものにすることにもなった。
object224(KV-4)
別名KV-4とも呼ばれる。数あるKV-4の計画の中の一つである。ドイツ軍がフランスを占領した1940年5月の戦いののち、当時赤軍中央砲兵局総監のI.クリーク元帥は断片的な情報をもとにドイツ戦車の武装と装甲を過剰に評価し、現在生産中のKV-1やT-34を上回る強力な火力と装甲を有する戦車が必要であると主張した。彼の主張は反対派を押しのけてスターリンに採用され、107mm砲を搭載するKV-3の開発が開始されたが、その裏ではさらなる超重戦車の開発が計画されていた。それがKV-4とKV-5である。
多くの戦車関係者は、仮に実用化したとしても、この戦車の運用が極めて困難であることを認識していた。それ以前に開発されていた55t~60t級の多砲塔重戦車であるSMKとT-100ですら、1939年から1940年のフィンランドとの冬戦争において運用に大変な困難を生じていたのである。その2倍弱の重量を持つ怪物戦車を、KV-1すら移動が困難なソ連のインフラで運用するのは無理な相談だった。
このような形で設計案が提出されたKV-4とKV-5だったが、1941年6月に独ソ戦が始まり、それに伴って設計局や工場がウラルに疎開する中で、ドイツ軍の保有する戦車が喧伝されていたほど強力ではなかったこともあり、現有戦車の生産・改良が最優先で行われることとなったため、1941年8月までに、二つの超重戦車は試作すらされずに開発が中止された。
object225(KV-5)
別名KV-5とも呼ばれる戦車。ドイツ軍がフランスを占領した1940年5月の戦いののち、当時赤軍中央砲兵局総監のI.クリーク元帥は断片的な情報をもとにドイツ戦車の武装と装甲を過剰に評価し、現在生産中のKV-1やT-34を上回る強力な火力と装甲を有する戦車が必要であると主張した。彼の主張は反対派を押しのけてスターリンに採用され、107mm砲を搭載するKV-3の開発が開始されたが、その裏ではさらなる超重戦車の開発が計画されていた。それがKV-4とKV-5である。
KV-4とKV-5はいずれも107mm砲F-39(107mm ZiS-6の車載型)を装備する点では同一だったが、KV-4が最大装甲厚130mm程度を想定していたのに対し、KV-5はKV-4より大型の車体を持ち、最大装甲厚は180mmに達する予定だった。
この二つの戦車に対しては第2特別設計局から22もの設計案が提案されたが、ゲーム中に登場するKV-5に近いものはM.ツェイツ技師が設計したものである。
このプランでは巨大な砲塔に107mm砲F-39を搭載し、車体銃塔と車体前面、そして砲塔上部銃塔にそれぞれ機関銃を装備していた。砲塔はそれだけで人の背の高さほどもある非常に巨大なもので、その周囲と砲塔直下の車体に弾薬を収納していた。装甲は車体前面で170mm、砲塔前面で180mmに達し、側面ですら150mmが確保されていた。その巨大な砲と重厚な車体によって、重量は100tの大台に乗っていた。エンジンなどの詳細は不明であるが、この大重量を支えるため、おおよそ1200馬力が想定されており、転輪は片側8個だった。
多くの戦車関係者は、仮に実用化したとしても、この戦車の運用が極めて困難であることを認識していた。それ以前に開発されていた55t~60t級の多砲塔重戦車であるSMKとT-100ですら、1939年から1940年のフィンランドとの冬戦争において運用に大変な困難を生じていたのである。その2倍弱の重量を持つ怪物戦車を、KV-1すら移動が困難なソ連のインフラで運用するのは無理な相談だった。
このような形で設計案が提出されたKV-4とKV-5だったが、1941年6月に独ソ戦が始まり、それに伴って設計局や工場がウラルに疎開する中で、ドイツ軍の保有する戦車が喧伝されていたほど強力ではなかったこともあり、現有戦車の生産・改良が最優先で行われることとなったため、1941年8月までに、二つの超重戦車は試作すらされずに開発が中止された。
object225
1960年代後半、ソ連軍はT-64を導入した。しかしT-64は言ってしまえば不良品であったために、1972年5月25日、ソ連国防産業省とソ連のズヴェレフ国防産業大臣の間でT-64の後継に関する会議が行われた。新戦車object225、226のプロジェクトに加え、object450、object780、object219などの有望な戦車計画がT-64の後継として考えられた。object219はその中でも傑出していたため、T-64の後継はobject219になり、本計画含む他の計画は立ち消えした。そもそもこのobject225は大した利点も無く、重量の問題もあったのが含まれると思われる。
object227
76㎜砲2門ver
76mm砲一門、45mm砲二門ver
別名KV-7とも呼ばれる戦車。ケースメート式戦闘室に76mm砲一門、45mm砲二門か76mm砲二門を搭載した自走砲。
内部と後部。
object227が第百工場の保管場所に放棄されている写真。最後に撮られた写真である。
object228
別名KV-8とも呼ばれる。KV-1 1941年型か1942年型に45mm砲もしくは76㎜砲と火炎放射器を搭載したもの。
object229
別名KV-9とも呼ばれる。KV-1の76.2mm砲を122mm榴弾砲にしたもの。10輌のみ生産。
object230(KV-1K)
1942年型の砲塔側面にカチューシャロケットを二発装備したもの。試作のみ。一枚目の写真をみるとそのカチューシャロケットが装備してある箱のまた後ろにカチューシャロケットを装備できそうな箱があるがこれに装備できたかは不明である。
object232
別名KV-12とも呼ばれる戦車。毒ガス散布装置を搭載した試作車輌。
object233(KV-13)
別名KV-13と呼ばれる戦車。中戦車、重戦車の枠を越えた汎用戦車として、1942年に試作された。目指したのは中戦車なみの機動性と重戦車なみの防御力で、片側転輪5つの、小型の車体が新設計された。この車体形状、特に鋳造の車体前部のデザインは、後にKVの発展型であるISに活かされた。上記に詳しく書いてある。
object234
IS-1の車体を縮小し、KV-9の砲塔を載せたもの。試作のみ。
object236(SU-152)
別名KV-14、SU-152とも呼ばれる。SU-152(ロシア語:СУ-152 スー・ストー・ピヂスャード・ドヴァー)は、KV-1Sのシャーシに固定戦闘室を設け、152mm ML-20S榴弾砲を装備した自走砲である。1943年3月より量産が開始され、ドイツのティーガー・パンターといった新型重戦車をクルスク戦において撃破したことにより「野獣ハンター」を意味する「ズヴェロボーイ」(«Зверобой» ズヴィラボーイ)と呼ばれるようになった(ただし、「ズヴェロボーイ」には「弟切草」という意味もあり、その後のソ連自走砲が草花の愛称で呼ばれたことを考慮すれば、SU-152の愛称もこちらの意味であった可能性もある)。その後、後継車両の出揃う1950年代までソ連軍で運用された。
object237(IS)
1943年末から短期間生産されたソ連の重戦車である。「IS/JS」とは、当時のソ連の指導者ヨシフ・スターリン(Iossif Stalin/Joseph Stalin)の頭文字であり、失脚した「KV」(ロシア語でКВ(カーヴェー)国防人民委員クリメント・ヴォロシーロフに代わる、政治的な意味とソ連最強の戦車であることを強調し命名された。
object238
別名KV-1S-85、KV-85Gとも呼ばれる。85mmS-31を載せたKV-1S。KV-85と違い砲塔はKV-1Sそのままである。しかし1Sの砲塔はそのまま85mm砲を搭載するには小さく、試作のみに終わった。この戦車、現存していることが確認されている。
object239(KV-85)
ティーガーに対抗する為IS-1の砲塔をKV-1Sに搭載したもの。IS-1の配備とともに生産終了。前線での評判はかなり良かった。
object240(IS-2)
ソビエト連邦で開発され、1943年12月から生産が開始された第二次世界大戦後期に赤軍が使用した重戦車。 日本語文献においても英語やドイツ語の表記に従ってJS-2と書かれることも多い。「IS/JS」とは第二次世界大戦時のソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(Iossif Stalin/Joseph Stalin)のイニシャルであり、そのためスターリン重戦車などとも書かれることがある。
object241(ISU-152)
IS-2のシャーシを利用し、ケースメート(砲郭)式にML-20 152mm榴弾砲 を装備した自走砲である。生産の終了するSU-152自走砲の後継として、1943年12月より量産が開始された。戦闘室はSU-152と類似した構造で、砲を122mmに変更したISU-122自走砲とは、ほとんど同じ車輌である。
本車の生産は戦後の1955年まで継続し、後に近代改修型として1956年にISU-152Kに、1959年にその一部がISU-152Mとなった。また大戦中にポーランド人民軍にも供与され、1960年代にエジプトに輸出もされている。生産数は、大戦中にISU-122系と合わせて約4075輌、大戦後にISU-152が約2450輌であった。
object242(ISU-122)
IS-2のシャーシを利用し、当初A-19 122mmカノン砲、後にはD-25T 122 mm軍団砲(カノン砲)をケースメート(砲郭)式に搭載した自走砲である。ソ連の重自走砲の主砲を152mm砲に一本化することが決まり、残ったISU-122は主砲の入っていた穴をふさいで戦車回収車となった。
object243
別名ISU-122BM、ISU-122-1とも呼ばれる。122mm BL-7を装備していたが試作に終わっている。
object244
IS-1のプロトタイプの一つ。object237をさらに発展させたもので砲が85mm D5-Tに進化している。だが耐久性が不十分で車体に使われているクリスティサスペンションも車体の重さに耐えきれなかったので計画は破棄された。その後、object237は数度のアップグレードを受けて、IS-1になった。
object245
別名IS-4と呼ばれる戦車。(後のIS-4とは別物)様々な砲を搭載するISシリーズが作られた。これはその内の一つ。主砲に100mm D-10Tを搭載し、正面装甲は120mm+傾斜に達した。
object246
別名ISU-152-1とも呼ばれる車両。ISU-152の車体に152mm BL-8を搭載した試作車。
object247
別名ISU-152-2とも呼ばれる戦車。ISU-152の車体に152㎜ BL-10を装備した試作車。
object248
別名IS-5とも呼ばれる。(後のIS-5とは別物)1943年に開発されたIS-2の改良型重戦車。85mm戦車砲S-34-1Bか100mm戦車砲S-34か85mm ZIS-1 PMを装備していた。試作のみ。
object250
別名ISU-130とも呼ばれる。この重自走砲は、1944年にISU-122Sをベースとして 1944 年に開発され、その年の10月に試作車が1両製造された。艦載砲であるB-13砲をベースとしたS-26 54口径130mm砲(IS-7と同じ砲)がISU-122Sに搭載され、1945年まで走行試験と射撃試験が続けられましたが、しかしその貫通力は122mm砲に劣っており、また終戦が近づきつつあったため、配備は見送られた。
object251(ISU-122S)
122mm S-26-1を搭載したver
122mm D-25Sを搭載したver
別名ISU-122-3とも呼ばれる。これには2台のISU-122-3がある。ISU-122-3はISU-122の拡張。一両は122mm D-25Sを搭載し、もう一両は122mm S-26-1を搭載している。D-25SverはISU-122Sとして採用され、S-26-1verは不採用だった。
object252(IS-6)
別名IS-6と呼ばれる戦車。1944年の夏、チェリャビンスク・キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)のA・S・イェルモラーエフ技師が、第100戦車試作工場において、同設計局の前作であるIS-2をベースに開発を始め、二輌が作られたものである。
武装は48口径の新型122mm砲であるD-30Tで、IS-2のD-25Tより高初速で威力に優れていた。車体の装甲形状も見直され、全周に渡って傾斜装甲が取り入れられ、脚周りも片側六個ずつの大型転輪となり、KVやIS-2のような上部の小型転輪は使われていない。
駆動系はドイツのポルシェ博士がフェルディナント重駆逐戦車に用いていた物を参考に、B-12UディーゼルエンジンでDK-305A発電機を回し、発生した電力でモーターを駆動させるハイブリッド式であった。しかしこれは冷却能力不足が原因で試験中に大爆発を起こし、試作車が失われこの駆動方式での開発は中止となった。残った一輌は、IS-4用の機械式トランスミッションの試験に用いられた。
object252U
IS-4に対する優位を確保するために1944年11月末にObject 252の再設計が行われた。楔形装甲を採用しており、Object 252とは車体の形状が大きく異なっている。これを元にしたObject 257を経て、Object 260(IS-7)の開発が進められることとなる。
object253
この戦車はIS-6と混同されやすいが、少し別物。この戦車はIS-6の最初の試作型。1943年に試作され、トーションバー方式を採用している。試作のみ。
object257
IS-7計画の中の試作車の内の一つである。要求を満たせなかったために計画は破棄され、第百工場はobject257を土台に新しく作る羽目になった。
object260
1945型
オブイェークト(Object) 260重戦車の計画案のひとつ。1945年9月に設計案がまとまったものの、試作はされなかった。
最終型(IS-7)
別名IS-7と呼ばれる戦車。1944年から1948年にかけて開発された、ソ連の重戦車である。本車の重量68トンは、ソビエトの開発・製造した戦車の中では最も重いものである。搭載砲はISU-130と同じS-26 54口径130mm砲を装備しています。IS-7はドイツのティーガーIIに対抗するべく構想された重戦車である。1945年初頭、ニコライ・シャシムーリン技師の設計チームによりオブイェークト260として開発が開始された。
本車の開発にあたっての特徴としては、主砲や機関に海軍関連の技術が転用されていることで、これは独ソ戦の劈頭からドイツ軍に包囲されていたレニングラードが1944年1月に解囲されたため、レニングラードにあった海軍研究所の各種技術資料を利用することが可能となったためである。まず1945年に車体が設計され、これに基づいて木製の実物大模型を試作した。1946年夏に車体と砲塔が製作され、9月には試作1号車が完成した。
試作車は1948年夏までに4輌が生産され、工場でのテストでは優秀な成績を収めた。火力・防御力は優秀であり、またテスト段階での機動性も高かったが、70トン近い大重量は駆動系統に掛かる負荷が大きく、試験中にエンジン火災の事故を起こした。また足周りの構造が脆く、転輪内部の緩衝用ゴムの摩耗が激しく、転輪が1、2組破損するだけで行動不能となった。これらの欠点から重量を50トン程度に軽減するよう、設計の見直しが命じられた。更に、大きな車体と砲塔のわりには車内が狭く、主砲の装填作業が困難であり、多数が搭載された外装式機銃は戦闘中の予備弾装填が難しい、という問題が指摘された。これを受けて実用化のための改良と試験が続けられたが問題点の改善は達成できず、IS-7の実用化計画は放棄された。
IS-7は現在でも試作車のうち1両がモスクワ郊外のクビンカ軍事博物館に展示されている。
object261
別名object261-1とも。Object261は、IS-7の車体を利用して開発が行われた重自走砲である。
本車はIS-7の車体を前後逆にし、後方の半密閉式戦闘室に152mm BR-2を大幅に改良した152mm砲M-31を搭載していた。
本車に搭載予定だった152mm砲M-31は完成し、試験を通過したものの、ベースであるIS-7が機械的トラブルなどのため制式採用されず、本車の計画も中止された。
また、本ゲームにおいてこの車両に搭載されている砲、180 mm B-1-Pの元ネタはマクシム・ゴーリキー級巡洋艦等の主砲である「B-1-P Pattern 1932年型 18cm(57口径)速射砲」だと思われ、重量97.5 kgの砲弾を仰角45度で37,800mまで届かせることが出来た。この海軍の艦砲はその後、列車砲にも転用され「TM-1-180 180mm列車砲」として、レニングラード攻防戦にも参加した。
object262
別名object261-2とも。(計画初期はこの名称。後にobject262に改称)object261と同じレイアウトを踏襲しながら車体後方の戦闘区画に長砲身の152mm加農砲M-48を限定旋回式に搭載し、オブイェークト261-1と同形態の固定戦闘室を配した自走砲。
object261-3
object261,262と同じレイアウトを採用していたが、主砲は57口径180mm艦艇砲B-1-Pを車載化したMU-1に換装されて打撃力のさらなる強化が図られていた。
object261-3は装甲も強化されており、装甲厚は戦闘室前面で215mm、車体前面で150mmという自走砲としては異例のものであった。
object263
IS-7の車体をベースに130mm戦車砲S-70を搭載した重駆逐戦車。IS-7が大量生産されなかった為計画のみ。
object266
1957年に制作された戦車。実験的にハイドロメカニカルトランスミッションを搭載している。試作で終わり、生産には入らなかった。object266は現在クビンカ戦車博物館に保管されている。
object267
スタビライザーを備えたT-10のプロトタイプ。
object268
Object268は1952年の夏、ソ連のレニングラードにあるキロフ戦車工場にて、ジョセフ・コーチン技師の監督のもと開発が始まった。T-10Mをもとに設計され試作車両は1956に完成し性能試験は通過したものの量産には至らなかった。
object270
将来、PT-76でウォータージェットを使用するにあたっての実験車。
object271(2A3 コンデンサトール 2P)
2A3 コンデンサトール 2Pは、冷戦の初期に開発された車輛である。これはアメリカ合衆国が、新規な戦術ドクトリンに基づき、ペントミック師団と呼ばれる、核砲兵部隊を含む核兵器を重点的に運用する部隊を創設したことが原因であった。核砲弾を運用するM65 280mmカノン砲は1952年に開発され、1953年には西ドイツに配備展開された。この対応として、ソビエト連邦は、核砲弾を発射可能な406mm自走砲を開発する独自の計画を開始した。この計画によって開発された大口径自走砲の開発計画およびそれによって開発された車両は「オブイェークト271」(ロシア語: Объект 271)と呼称された。
グラビン設計局では1955年に砲本体とその運用システムを完成させた。その後すぐ、IS重戦車シリーズの走行装置を流用して設計されたオブイェークト271の車体が、レニングラードに所在するコトリン設計局にて完成された。砲と車体を結合したものには軍事工業呼称“2A3”が与えられ、1956年、レニングラードのキーロフ工場にて完成した。総生産数はわずか4輌である。
西側のオブザーバーは、1957年、赤の広場において行われた軍事パレードでこの新兵器を最初に目撃することとなった。当初オブザーバーたちは この兵器は抑止効果のためのモックアップとして作られたものであると考えた。
コンデンサトールは1956年から実用試験が開始されたが、その期間は例外的に短いものとなった。開始後ほどなくニキータ・フルシチョフの軍改革がおこなわれ、軍の改革は、陸上発射式の核兵器の運用には、スターリン時代に形成された超重砲兵および重戦車部隊に代わり、より効果的なロケット(ミサイル)システムを選ぶものであった。コンデンサトールは兵装の広汎な試験が行われた後、高度司令部砲兵隊の予備兵器に任命された。
全4輌のコンデンサトール自走砲は1960年代中ごろに退役した。1輌は2010年代においてもモスクワに所在する中央兵器軍事力博物館にて展示されている。
object272(IS-8,T-10)
ソ連が開発・生産した重戦車。重戦車としては世界最多の生産量を誇っている。と、いうのは真っ赤な嘘で近年の資料によると実際はIS-2やIS-3より少ない各型含め合計1539両だった。
オブイェークト730の名で開発がスタート。新技術を取り入れ結果的に失敗作となったIS-6とIS-7を踏まえ、あえて新技術を採用せず、IS-3の拡大発展型として進められた。採用時にはIS-8と名付けられ、1951年からの生産を予定していたが、肝心のエンジンが遅れ、結局翌年になって生産された。主にソ連地上軍での使用がメインで、衛星国などに付与や譲渡は行われなかった。本車は大火力と重装甲を生かした陣地突破用戦車として期待されたが、重戦車のカテゴリ陳腐化に伴い、存在意義が薄れていった。
なお、1960年に砲塔にロケットを載せた試作車が製作された模様。
object273(2B1oka420mm自走迫撃砲)
420mm砲を搭載した世界最大の自走迫撃砲。核砲弾も発射可能な砲身の長さは20mもあり、砲弾重量は750kg、最大射程は45kmに及んだ。試作のみ。
object277
1950年代後期にソ連で開発された試作重戦車である。この戦車は1955年にT-10重戦車*1の後継として開発が始まった。
主任設計技師はソ連重戦車を語る上で欠かせないコーチン技師(1908~1978)であった。
新型戦車のディーゼルエンジン型はObject 277、ガスタービンエンジン型はObject 278と命名された。ガスタービンエンジン型が提案されたのは、ガスタービンエンジンが小型かつ高出力なので「20年後には戦車のエンジンの主流になり得る」との考えからであった。
主砲は130mm M-65戦車砲。これは設計要件を基にして搭載されたものだった。他に無線機、夜間視察装置、立体視認距離計という豪華な装備だった。1957年に試作車2両が完成したが結局は不採用に終わり、試作車の内一両はクビンカ戦車博物館に保管されている。
object278
1,000馬力のガスタービンエンジンを搭載したObject 277の開発計画。計画で終わった。
object279
1950年代、ソ連軍の装備する重戦車としてはT-10が大量生産されていたが、ソ連軍内では更なる新型戦車の開発プランが進行していた。
T-10の改良型(オブイェークト266)
IS-7とT-10の長所を掛け合わせた重戦車(オブイェークト277)
130mm砲とハイドロマティック自動変速機を備えた高速重戦車(オブイェークト770)
核戦争下での活動を考慮した重戦車などである。
これらのうち「核戦争下での活動を考慮した重戦車」として開発されたものが本車輌である。
1957年(1955年説もあり)より開発が開始され、IS-4を設計したL.S.トロヤーノフ技師のチームにより設計された。1959年には試作車が完成し、各種の試験が行われた。試験結果はいずれも良好で、特に1,000馬力を発揮できるエンジンと、本車の最大の特徴でもある、並列2組、計4基の走行装置の組み合わせは、60トンに達する車重を持つ“重戦車”に対する従来の想像を覆す機動性を示した。
しかし、構造が複雑でコストが高すぎることと、スターリンに代わりソビエトの指導者となったフルシチョフが戦力整備に対する方針を転換したため、1960年には計画が中止され、結局本車は採用されなかった。車両自体の機動性は高いものの、水陸両用性能はなく(本車は舟形の車体外観を持つが、後述のようにこれは爆風対策であり、浮航性はない)特に高い渡河能力があるわけでもないため、大河に隔てられた地形での行動能力に疑問が持たれたことも、不採用の大きな理由である。
量産は行われなかったものの、製作された試作車1輌が2010年代でもクビンオブイェークト279の形状はユニークである。履帯は左右2本ずつ、計4本もある。まるで円盤のような流体曲面の車体をもち、核爆発時の爆風や衝撃波を受け流して車体が横転しないようにした設計となっている。砲塔は普通の鋳造製だが、車体は鋳造製の本体の上に、薄手の増加装甲を被せた作りとなっている。シャーシは縦に伸びた燃料タンクを兼ねる梁に乗せられていた。
エンジンはH型16気筒ディーゼル、トランスミッションはハイドロマチック自動変速、サスペンションは車高変更可能な油圧式と、従来のソ連製戦車に比べ大変高度な作りになっていた。四本の履帯により分散された接地圧は0.6kgf/cm²と軽戦車並であり、エンジン出力の大きさとあいまって悪路での機動性も高く、記録映像では泥沼化した道にはまり込んだT-10を牽引する姿が見られる。
武装は戦前の海軍向けのものから発展し、IS-7などに使われているものと同系列の130mm砲で、重い砲弾を扱うための装填補助装置や、縦横方向の砲安定装置、上下像合致式光学ステレオレンジファインダー照準器、圧搾空気を用いた砲身内部洗浄装置をもつ。クビンカ戦車博物館に現存している。
object282
T-10の車体を改造し、車体後部にTRS-152ミサイルを装備した戦車で三人の乗員が付いていた。この車両は1959年にクビンカで試験を開始し良好な結果を示した。基がT-10なだけに一見遅そうだが、搭載された1000hp V12エンジンがそれを防いだ。このエンジンのおかげで最高速度55kmを示すことができた。3人の乗組員は中央に配置され燃料タンクを保護するために車体前面は30mmの隔壁になっている。だが、このobject282Tに搭載されているFCS、Topol FCSは問題があるとされ生産には至らず、結局試作に終わってしまった。そしてこの戦車を改良したobject282Kも計画され、object282Tより車高が10cm低いが、車重が46.5tと重く二つのTRS-132ランチャーを外側に装備していた。ですが282Kも282Tと同じTopol FCSを流用していたので計画だけになった。
object287
「Typhoon」ランチャーver
ポップアップランチャーPG-15 V Spearxを73 mm 2A25グロメット二門搭載ver
ソ連によって試作されたロケット戦車。「Typhoon」ランチャーもしくはポップアップランチャーPG-15 V Spearxを73 mm 2A25グロメット二つ搭載したバージョンがある。エンジンは車体前面に置かれ、車長は砲塔右側に座り、砲手を兼ね、運転手は砲塔の左側に座った。最高時速は66㎞、時速20~30kmで走行しながらATGMを射撃できる。試作のみ。
object288
将来ミサイルを搭載するに辺り、ミサイル戦車の基礎を製作することが決定された。それで出来たのがこれである。これはいわゆる実験車みたいなもの。この実験車の上部に置かれた円形の物体は実際の砲塔替わりでこれの基礎を用い、ソ連のミサイル戦車はすべてが車高が低く出来ている。
object291(T-80U)
ソ連が1955年から開発に着手し、T-64への搭載を目論んだものの、果たすことはできなかったガスタービンエンジンの装備を目的として、1968年からレニングラード・キーロフスキー工場設計局(KB-LKZ)がオブイェークト219(Ob219)の開発に取り組んだ。Ob219はその後T-80として制式化が行なわれ、ソ連は念頭のガスタービンエンジン実用化に成功したものの、その耐用命数は僅か500時間と短く、さらには初期故障と燃費の悪さも問題であったため、1982年に改良型ガスタービンエンジンGTD-1000M(1,200馬力)を搭載したT-80Aが開発された。そして、この開発で得られたノウハウを元として、1983年から生産されたのがT-80Bである。
T-80は最新鋭戦車として申し分の無い攻撃力・機動力を有していたが、複雑な構造で、かつ燃費の悪いガスタービンエンジンを装備したことにより整備性・経済性が著しく劣った主力戦車となってしまった。また、1980年代になって新たに登場した西側諸国の主力戦車に対抗すべく、T-80Bの更なる改良が求められた。こうした要求から、KB-LKZでは1980年代半ばからT-80Aを基に改良型ガスタービンや爆発反応装甲を搭載した試作戦車オブイェークト219ASを製作。これがT-80Uとして制式採用され、1985年から生産に入った。
object292
T80に実験的に152mm砲を装備した戦車。1990年に戦車が試作され1991年にテストを受けた。結果は良好で砲の安全性の高さや機動力の高さを示したが、しかし当時はロシア崩壊に伴い、資金が絶望的に無く更なる改良は中止になってしまいました。
object299
152mm滑腔砲と無人砲塔を搭載した戦車。試作のみに終わったが開発の成果はT-14に引き継がれた。
obejct303(2S3アカーツィヤ 152mm自走榴弾砲)
2S3「アカーツィヤ」(Akatsiya:アカシヤ)152mm自走榴弾砲は、2S1「グヴォジーカ」122mm自走榴弾砲と同じく1971年にソ連軍で制式採用されたが、開発はずっと以前の1950年頃から着手されていた。
当時ウラル運輸車両工場(ウラルトランスマシュ)は、同一シャシーを用いた各種車両をシリーズ化しようと様々な試作車を製作しており、その中に152mm榴弾砲を搭載した試作自走砲SU-152Pなど2種類があった。
このファミリー車両シリーズで最も早く実用化されたのが、2K11「クルーグ」(NATOコードネーム:SA-4「ガネフ」)対空ミサイル・システム用の自走発射機2P24で1961年には実用化されたが、後は2S3自走榴弾砲にやや遅れて採用された2S5「ギアツィントS」152mm自走加農砲くらいで、なかなか陽の目を見なかった。
1950年代に試作された2種の152mm自走砲は一方が榴弾砲、もう一方が長砲身で長射程を狙った加農砲であったが、前者についてはようやく1960年代末に、25口径152mm榴弾砲D-20を改修した34口径152mm榴弾砲2A33を、360度旋回可能な完全密閉式砲塔に搭載するタイプとして形態がまとまった。
車内レイアウトは車体前部右側が機関室、前部左側が操縦室、車体後部が砲塔を搭載した戦闘室と、自走砲としては一般的であり乗員は4名である。
主砲の性能は重量43.5kgの高性能榴弾(OF-546)を使用して最大射程17.3km、ロケット補助榴弾を使用して最大射程24kmである。
152mm砲弾の搭載数は46発で装填補助装置が用意されており、最大発射速度は3発/分、継続で1時間に60発程度である。
なお徹甲弾や成形炸薬弾も用意されており、限定的ながら直接戦闘能力を有する。
1971年に制式採用された2S3 152mm自走榴弾砲は1個大隊当たり18両が配備され、牽引式の152mm榴弾砲D-1を装備していた自動車化狙撃師団の榴弾砲大隊に取って代わることになった。
また後に、戦車師団に配備されていた2S1 122mm自走榴弾砲とも交換されていった。
1975年には自動装填装置やパワーユニットの改良が図られ、以降はこの改良型「2S3M 152mm自走榴弾砲」に生産が移行した。
2S3Mと2S1両自走砲の実用化・配備により、ソ連地上軍は初めて本格的な自走榴弾砲を持つことになったが、装備化されてすぐに性能面(特に射程と発射速度)で西側自走砲に水を開けられてしまった。
このため後継車両の開発が模索され、2S3M 152mm自走榴弾砲については1989年に2S19「ムスタS」152mm自走榴弾砲が完成されたが、すでに軍は未曾有の財政難に陥っており装備改編は今日に至るもなかなか進んでいない。
2S3M自走榴弾砲はロシア軍で使用され続けている他、ポーランドやイラク、リビアに供与されて使用されている。
object307(2S5ギアツィントS 152mm自走加農砲)
2S5は「オブイェクト123」の名称で開発された共通装軌車両シャーシを使う自走砲として1950年代に2S3等と共に開発が開始されたもので、当初はオープントップ式の戦闘室に122mm榴弾砲を搭載した自走榴弾砲として計画された。
しかし、本車に先がけて完成した2S1と2S3はどちらも部隊配備後に性能面での不足が指摘されたことから、長射程・大口径のカノン砲を装備した長射程自走砲に計画が変更され、2S1と2S3を補完するものとして開発が進められた。
2S3の開発実績から、オブイェクト123車体に150mmクラスの長砲身砲を砲塔式に搭載するには車体が小型過ぎるために困難であるとされたため、搭載砲として開発された52口径152mmカノン砲は車体上に露出式に搭載されることとされ、射撃時の安定性を高めるために駐鋤を装備する、アメリカ合衆国のM107/M110に似た車両となった。しかし、前線部隊の要求には「可能なかぎり自走砲車単体で迅速に砲撃が行えるものであることが望ましい」という点が重要であるとされていたため、砲弾を極力自走砲車に積載し、また一定の発射速度を確保するためと、多数の砲員を必要としなくとも[1]砲撃が行えるよう、車内弾薬庫と自動装填装置を装備するものとして再度設計が行われた。
このため開発作業は当初の予定よりは大幅に遅れたが、1960年代の後半には完了し、1974年から量産に入った。部隊配備は1970年代後半より順次行われたが、長らく公式には公開されず、西側諸国が存在を確認したのは1981年のことである。その後も本車に関する情報は少なく、当初の識別名称である「M1981 SPG」に代わってソビエトにおける正式な形式番号である2S5及びギァツィント-Sの愛称が判明したのはずっと後のことであった。
尚、愛称の“ギァツィント-S”の「-s」とは Samokhodnuy.“自走式”の頭文字であり、搭載される152mm52口径長砲身カノン砲は並行して牽引型が開発され、こちらはやや口径の長い、2A36 54口径152mmカノン砲 ギアツィント-B(「-B」とは Buksiuruemuy.“牽引式”の頭文字)として完成し、量産・配備されている。
ソビエト軍における配備先は軍直轄の重砲兵旅団に限られており、ソビエト本国以外にはほとんど輸出されず、ソ連崩壊後も諸外国への輸出・放出は行われていないが、旧東ドイツにのみ少数が輸出され、その車輌をフィンランドが輸入して152 TELAK 91の名称で使用している。
object312(1k11 Stiletto)
1979年、政治的支援のおかげで、レーザー搭載車両の開発はソヴィエトで長く続けられた。このobject312は、敵の光学機器を使用不能にするために設計された視覚妨害装置(レーザーダズラー)のプロトタイプだった。1982年に試作車二両が製作されたことは判明しているが、それ以上のことはわかっていない。
object316(2S19ムスタS 152mm自走榴弾砲)
2S19「ムスタ(Msta:ロシア北西部を流れる河川名)S」152mm自走榴弾砲は、それまで旧ソ連陸軍が装備していた2S1「グヴォジーカ」122mm自走榴弾砲、2S3「アカーツィヤ」152mm自走榴弾砲、2S5「ギアツィントS」152mm自走加農砲の3車種を更新するために開発された新型の自走砲で、ソヴィエト連邦末期の1989年に旧ソ連陸軍に制式採用された。
本車の開発は2S3、2S5自走砲と同じく、エカテリンブルク(旧スヴェルドロフスク)のUTM(Uraltransmash:ウラル輸送機械工場)が担当した。
2S19自走榴弾砲の最大の特徴は整備や部品の調達を容易にするために、旧ソ連陸軍の主力戦車であるT-80戦車やT-72戦車とコンポーネントの共通化が図られていた点である。車体の基本的デザインと足周りは、T-80戦車のものを流用している。これはリブの無いディスク式のアルミ製転輪と、ダブルピンの湿式履帯にその特徴を見て取れる。またエンジンについては、T-80戦車に搭載されながらも信頼性の低さと燃費の悪さで不評だったガスタービン・エンジンを搭載せず、機関室を拡大してV-84A V型12気筒多燃料液冷スーパーチャージド・ディーゼル・エンジン(出力840hp)を搭載した。
このV-84Aディーゼル・エンジンは、大戦中のT-34中戦車に搭載されたV-2ディーゼル・エンジンの流れを汲むもので信頼性が高く、T-72戦車の改良型であるT-72B戦車やT-90戦車にも搭載されている。
2S19自走榴弾砲の砲塔は従来の自走砲より巨大な完全密閉式のもので、全周旋回が可能である。
主砲は新規開発の48口径152mm榴弾砲2A64が搭載されており、俯仰角は-3~+68度となっている。
152mm榴弾砲2A64は重量43.56kgの通常型榴弾OF-45を最大射程24.7kmで、重量42.86kgの噴射ブースター付き榴弾OF-61を同28.9kmで発射できる他、それまでに実用化された戦後型の152mm砲弾は全て使用できるようになっている。
さらにこの砲からは、レーザー誘導砲弾ZOF-39「クラスノポール」(重量50kg、最大射程20km)が発射可能である。
クラスノポールは前線観測班が照射するNd-YAGレーザーにホーミングして目標を撃破する誘導砲弾で、これによって対戦車射撃も可能となる。
砲塔後部には出力21.6hpのガスタービン補助エンジンが搭載されており、主エンジンを止めた状態でも射撃が継続できるようになっている。
砲塔内の弾薬庫には50発分の砲弾と発射装薬(プラスチック・カートリッジ入り)が準備され、弾薬の装填は自動装填装置により完全自動で行われるようになっており、発射速度は7~8発/分となっている。
また外部からの給弾による射撃も可能で、この場合は砲塔後部から装填コンベアを引き出し、操砲要員がここに砲弾と発射装薬を載せて半自動的に装填されるようになっている。外部給弾方式による発射速度は、6~7発/分となっている。
2S19自走榴弾砲は射撃時に車体を固定するための駐鋤は備えておらず、射撃時には第1、第2、第6転輪に取り付けられたショック・アブソーバーをロックすることで車体を固定するようになっている。また2S19自走榴弾砲は2S5自走加農砲と同様に自走式と牽引式のハイ・ロー・ミックス配備が考えられており、ほぼ同一仕様の牽引式152mm榴弾砲2A65「ムスタB」が同時開発されて量産化されている。
2S19自走榴弾砲の初公開は1993年にアブダビで開催された兵器展示会「IDEX'93」においてで、この時はレーザー誘導砲弾クラスノポールの発射デモンストレイションが行われ、15km先に置かれた標的38個に命中弾を浴びせて見せたという。
2S1、2S3、2S5の3自走砲を統合できる車両として登場した2S19自走榴弾砲だが、財政難のロシアではこれらを完全に更新することなど不可能な話で、生産数は2010年時点で800両程度と見られている。
object327
1987年に試作された対空&対戦車に使うことを目的とした戦車。乗員は4人で、重量は41t。航続距離は30㎞。その他詳細は不明。
object401
ソヴィエトで最も人気があったトラクターと言っても過言ではない。T-54をベースにし、前部にエンジン、後部に貨物ボックスを備えている。
重砲などの牽引に重宝した。
object416
Object 416 はソ連の対戦車自走砲である。限定的重量に可能な限りの火力と装甲を与える方針のもと、75番工場の建設局で、1949年秋より開発が始まり、設計案は、1950年3月までに提出された。主砲には当時の主力戦車T-54と同じ100mm対戦車砲D-10を採用。車体高を抑えるために採用された水平対向12気筒エンジンを含むパワーパックは車体前部に設置された。4名の乗員は全て砲塔内に収められ、特に操縦手は砲塔中心に位置し、特殊な機構により砲塔旋回と関係なく常に前方を向いていた。また砲塔内に搭乗員を収める事により車体及び砲塔の高さを低くする事に成功したものの、低い天井は装填手の作業を困難なものとしてしまった。この砲塔の問題により、試作車は1952年4月まで準備できなかった。1953年の夏には改良が行われ試作車も完成したが、砲塔などの斬新な機構がかえって作動や信頼性の低下をもたらし開発中止となってしまった。
object421
T-54に基づいた架橋戦車。詳細は不明である。
object430
T-54の後継車両として1953年から1957年にかけて開発され、数輌が試作された。後にソ連当局は優れた対核生存性を有する戦車を求めたため、1961年に本計画を中止してObject432を開発することが決定された。発展型のObject432は西側の105mmライフル砲に対抗する火力増強も求められ、115mm滑腔砲を装備、複合装甲も採用され、後にT-64戦車となった。
object430u
object430uは、1950年代中期に提案されたObject 430の火力・装甲強化案である。
"U"はUluchennij(改良)またはUsilenij(強化)の意味だとされている。
Object 430は、1950初期~中期におけるT-54よりも優れた後継戦車の開発計画の一環であり、ハリコフ設計局のモロゾフ技師によって設計・試作された。
1954年、ハリコフ工場ではObject 430Uとして独自の予備計画を開始した。
正面装甲はベースのObject 430の120mmから160mmへ強化し、主砲を重戦車級の122 mm D-25Tまたは130 mm 戦車砲への換装するべく、砲塔およびサスペンションも改造され、車重は35.5トンから42トンに増加する見込みだった。
出力重量比や総弾数といった面において、Object 430UはIS-3やIS-4、Object 730よりも優れており、中戦車であっても重戦車を上回る性能が達成できるとされた。
しかし、この段階でObject 430Uの開発は中止になった。なぜなら各種性能の強化によりObject 430Uは事実上の重戦車となっており、既にソ連重戦車の中核として内定していたT-10と役割が重複してしまう事が原因だった。
object430 version2
第73工場の製造局で1953年の初頭に開発されました。1953年3月8日から3月10日にかけ、運輸・重工業省が、より伝統的な設計の別案と本案との比較検討を行いましたが、最終的には本計画は中止されました。(ゲーム内解説より)
object431
1957年5月8日付のソ連閣僚理事会令「新しい戦車、自走式駆逐戦車、対戦車兵器、誘導ミサイル兵器の作成について」に基づき、対戦車ミサイルを備えた国内での自走ミサイル兵器の開発が開始された。第75ハリコフ工場、第183ニジニ・タギル工場、およびムティシチ・エンジニアリング工場がこの計画に関与した。また、同決議により、国内初となる対戦車ミサイル「バンブルビー」と「ファランクス」の作成も決定された。ソ連での対戦車ミサイルの作成は、鹵獲したドイツのATGM X-7「リトルレッドライディングフード」のテスト結果を踏まえ行われた。
ゴーリキー機械製造工場は対戦車ミサイルを搭載する車体の設計をし、第75ハリコフ工場はミサイルの設計を担当し、台座や、ミサイル関連の機材の設計はTsNII-58に委ねられた。このミサイルには「Topic No.1」という名前が付された。ミサイルの試作品のテストは1959年の最後の四半期に行われる予定だった。1958年6月にObject 431の予備設計が完了した。
当初Object 431はObject 430をベースにする計画だったが、object430は試作で終わってしまったために暫定的にT-54をベースにすることが決定した。object431の全高は1950 mmで、戦闘室の高さは1220 mmだった。車内には17発のミサイルを間隔を開けて垂直に配置することができ、また、別の12発のミサイルも搭載することができた。誘導ミサイル「ドルフィン」の口径は180mmで、長さは120 mmおよび重量40kg。この巨大な物体が29発も乗るのだから驚きである。ロケットの行進速度は230m/sで、車内で装填された状態から発射できる位置への移動時間は1.5~2秒で、貫通力は500mmだった。
戦闘室の最大直径はわずか1940mmで、戦闘室内には、左側に砲手。右側に車長という配置だった。スタビライザーは、作業の容易さを確保するために、砲手と車長の座席の下に配置された。object431は、ランチャーに加えて、7.62 mm SGM機関銃で武装していた。これは天板に配置された。最高速度は55km/hで、航続距離は450kmだった。重量過大、プロジェクトの遅れのため1959年7月4日のソ連閣僚理事会令により、object431の作業は中止された。
object432(T-64)
T-64は、T-55に続いてソビエト陸軍及びソビエトの同盟国の主力戦車となるべく開発された車両である。一般的にソビエト製兵器は大規模に供給するための高生産性と、前線での運用を容易にするために簡潔で堅実な構造で取り扱いが容易なことが求められるが、例外的に複合装甲、滑腔砲、自動装填装置などの新機軸を積極的に盛り込んでいるのが本車の大きな特徴である。
西側諸国に先駆けて近代戦車の技術的条件を備えた、非常に先進的な戦車であったが、それが開発と運用の難しさを招いたともいわれる。冷戦下のNATOに対する第一線正面装備として、旧東ドイツ駐留ソ連軍集団やハンガリー駐留の南部軍集団などに秘密裏に配備されていた。また、ソビエトの戦車としては例外的に、同盟国や友好国に輸出・供給されたこともなかった。
長らく「正体不明の新型戦車」とされていたT-64が西側報道関係者の場に姿を現したのは、実に1985年の「対独戦勝40周年パレード」の時であり、このため長い間本車は「T-72の先行生産型」もしくは「開発に失敗し、そのデータを基に開発された改良型がT-72である」と思われていた。実際には、T-64の不調とコスト高を補うために、T-62など旧来の技術とT-64のスタイルを併せた『普及型』がT-72である。
T-62とT-72がそれぞれ20,000両ずつ生産されたのと比べるとT-64の生産数は限定的で、各型合わせて12,500両程度が1964年から1987年にかけて量産された。ソ連崩壊後もロシア連邦軍とウクライナ軍とで多数が使用され、ウズベキスタン軍でも少数が運用されているとされる。ウクライナのV・O・マールィシェウ記念工場では大幅な近代化改修型としてT-64BM ブラートが開発されており、2005年に17輌が納入されている。オプロートともにウクライナの新しい主力戦車として配備される目算である。
object434(T-64A)
ソ連が1960年代に製造した第二世代戦車である。ハリコフ機械設計局にて設計され、1969年からT-55やT-62と合わせて製造されていた。自動装填装置にレーザー測距儀、世界初の複合装甲に加え大口径の125mm砲を搭載し、エンジンにはガスタービンエンジンを採用し、西側諸国の戦車を圧倒するはずだった。
まず、自動装填装置は可動範囲が広く、搭乗員が腕を巻き込まれ、最悪死亡した(これはT-64搭載の自動装填装置6ETs10での話であり、本車、T-64A搭載の自動装填装置6ETs15では改善されている。)。また、ガスタービンエンジンもうまくいかず、試作車止まりとなった。しょうがないのでディーゼルエンジンを搭載したが、このディーゼルエンジンも整備が面倒だった。
object435
object435は、object430の火力強化版。1960年にハリコフ工場の設計局で試作された。工場は、1960年12月に主砲を搭載していない無武装の状態で試作車を完成させ、oject435はレニングラード近くの砲兵隊に送られ、1961年6月22日までテストされたが、結果的に115mm D-68戦車砲がobject430に搭載されることになったため、この計画は中止された。
object436
object432にV-45エンジンを搭載したタイプ。試作のみ。
object439
T-64にV-46エンジンを載せたタイプ。試作のみ。
object440
煙幕発電機が装備されているT-54。その他詳細は不明。
object441,442
object440および441は、核攻撃に対する保護に焦点を合わせた計画。PAZシステムという各保護システムを搭載しており、500m離れた場所で爆発した場合に乗組員およびその他の壊れやすい機器の生存を保証した。が、計画のみに終わっている。
object447(T-64B)
1970年代前半にソ連が新型高性能MBTを開発したという認識を西側、NATO諸国に広げたことで、T-64戦車シリーズはそれなりの軍事的プレゼンスを発揮するようになったといえたが、整備の煩雑さと信頼性の低さのため運用部隊での評判はその後も芳しくないままだった。
また製造・整備の両面で高コストを免れなかったT-64戦車シリーズを補う意味で、ソ連軍機甲局がハリコフ機械製造設計局(KhKBM/1966年に第60設計局から改組)のライバルであるニジニ・タギルの第520設計局に、既存技術を基盤にした廉価版新型MBT「オブイェークト172」(後のT-72戦車)の開発を発注したことから、KhKBMは危機感に迫られてT-64戦車シリーズを一層強力なMBTに仕上げる努力を傾注することとなった。
T-64戦車に精鋭MBTに相応しい性能を付与するには火力面での能力強化が近道と考えられ、1960年代初頭からソ連戦車開発陣にとって懸案であった、戦車砲の砲腔内から発射する対戦車誘導ミサイル(成形炸薬弾頭)の実現が図られることとなった。
対戦車誘導ミサイルをMBTの武装にする試みは、ミサイル万能論者であったフルシチョフ首相の後押しを受けて1960年頃から取り組まれ、1962年にはT-64戦車の試作車であったオブイェークト430をベースにした試作ロケットMBTオブイェークト772、オブイェークト775が製作されている。
特にオブイェークト775は125mm口径の低圧砲から有線誘導式対戦車ミサイルを発射するもので、125mm滑腔砲用のミサイルのベースと成り得るものであった。
1975年、KhKBMはT-64A戦車に無線式半自動誘導対戦車ミサイル9M112「コーブラ」(コブラ)を搭載する試作MBT「オブイェークト447」の製作に着手し、併せてレーザー測遠・照準機1G42の導入も図った。
9M112「コーブラ」は照準装置で目標を捉えていれば無線電波で半自動的に誘導されるタイプの対戦車ミサイルで、誘導用アンテナ・ボックスが車長用キューポラの前面に取り付けられていた。
ミサイルは弾頭とロケットモーター部分に分かれており、装填過程で自動的に結合された。
有効射程は100~4,000mで最大射程までの飛翔時間は約10秒、装甲穿孔力は距離に関わらずRHA換算で600mmとなっていた。
対戦車用としてはもちろん、飛翔速度から考えれば限定的ではあるが対ヘリコプター用としても使用は可能であった。
この「コーブラ」対戦車誘導ミサイルの導入によって対戦車戦闘の有効交戦距離が4,000mまで伸びたことは、T-64戦車シリーズの火力増強にとって大きな進歩といえた。
当時のソ連の精密加工技術ならびに弾頭設計技術で作り出された125mmAPFSDSは有効射程が2,250m程度しかなかったので、これよりも大幅に射程の長い砲腔内発射式対戦車誘導ミサイルの実用化は画期的といえた。
1970年代半ば頃には、4,000mの距離で相手MBTを確実に撃破できるという能力を持つMBTは東西を問わず存在しなかったのである。
この「コーブラ」対戦車誘導ミサイルの導入に伴い、レーザー測遠機等からのデータもリンクした弾道計算機をも組み込んだ総合FCS 1A33もオブイェークト447に導入された。
これにより目標選定から各種弾薬の選定、射撃諸元のセットまで自動化されることになり、オブイェークト447は当時としては世界で最も進んだ内部機構を持つMBTとなった。
その他にも、個別車両用航法装置GPK-59も装備された。
こうした各種機器の充実の反面、限られた車内スペースにより主砲同軸の7.62mm機関銃PKTの弾薬搭載数を1,250発に減らさざるを得なかった。
併せてこの頃、レオパルト2戦車やチーフテン戦車等の120mm砲搭載MBTが西側で大きな比重を占めるようになりつつあったことから装甲厚の増加等による防御力増強措置が採られ、オブイェークト447の戦闘重量は39tに増加した。
オブイェークト447は1976年にソ連軍への制式採用が決定し、「T-64B主力戦車」(オブイェークト447A)として量産が開始されることになった。
以上のような経過で開発されたT-64B戦車は、盛り込まれた機能と性能面でいうなら出現した1976年当時、世界最強のMBTといっても良いものだった。
しかしながら時はすでにブレジネフ政権の末期に入りかかっており、軍事偏重で半世紀を経てきたソ連経済の疲弊も激しくなり、いわば背伸びして実現した高性能MBTの高いコストに軍も社会も耐え切れない状況になりつつあった。
またT-64戦車シリーズと並行してT-72戦車シリーズの量産が行われたこと、さらに1976年にはT-64戦車をベースに新たに開発されたガスタービン・エンジンを搭載したT-80戦車シリーズの量産が始まったことも、戦車量産面での混乱状況を示すものである。
どう考えても機能面でそれほど違いの無いMBTを3種類も開発し量産することは、経済的な悪影響をもたらすことが明白といえた。
object450
T-64Aのシャーシを流用した車体に125mm滑腔砲と無人砲塔を装備した戦車。計画のみ。
object476(T-64BM)
エンジンが700 馬力の5TDFから1000 馬力の6TD-1に強化されたT-64。試作で終わっているものと思われる。
object477
152mm滑腔砲と無人砲塔を搭載した試作戦車。1990年代半ばから開発が始まったが、制作中にソビエト連邦が崩壊し、戦車どころではなくなったので不採用となった。
object480
詳細不明
object481(OT-54)
T-54に火炎放射器を搭載したもの。試作のみ。
object482(TO-55)
T-55に火炎放射器を搭載したもの。試作のみ。
object483
T-54の車体にOM-250火炎放射器を搭載したもの。これは焼夷剤による制約の限界にまで放射能力を高める事を目指し、1発で100Lの焼夷剤を最大250~270mまで放射するという途方もない代物になった。試作のみ。
object454(T-80UDK)
T-80UDの指揮戦車型。ウクライナなどで使用された。
object485(PST-54)
T-54にフロートを設置したもの。最初のタイプは1951年に開発が始まった。
T-54用の最初のサンプルフロートは1952年に造られオカ河でテストされた後、1953~54年にかけて予備的な洋上試験が行われた。
そして1957年にPTS-54として配備された。
1機械化歩兵師団あたり187基の浮航装置が配備されるのが目標とされた。
1959年、浮航装置の量産がナヴァシノ(Навашино:ニジニ・ノヴゴロド州)の第342工場と第174工場、キーロフの第75戦車工場に割り当てられた。
object486(OPVT-54)
水中駆動用の機器を備えたプロトタイプT-54。セットは、取り外し可能なシュノーケルとパーマメントゴムシールで構成されている。1958年に大量生産が開始され、その後設計されたすべての戦車に対して同様の装置が製造された。
object488
詳細不明
object490
object490はハリコフで設計された152mm 2a73滑腔砲を搭載し、次期主力戦車となりうる戦車を開発するがためにスタートした計画である。
車体後部にある燃料タンクのせいで後方の俯角は無いに等しかった。
これを見ればわかるだろう。
乗員は二人と少ないがナビゲーションシステム、層状装甲、油圧空気圧式サスペンション等々の新機構だ搭載される予定だった。しかし、その新機構の搭載により価格が高騰、結局はお釈迦になってしまった。
Object490A Rebel
この戦車は、ソビエト連邦の将来のMBTプログラムの一環としてハリコフで設計された。砲塔屋根に外付けされた152mm砲で武装し、砲手と車長は車体中央部に位置する。通常の光学系の代わりに、TVカメラなどを使用するなど斬新ではあったが結局計画はポシャってしまった。
object490 molot
この戦車は実を言うとobject477であり、なぜobject番号477が付されたかは分からないがobject477はobject490 molotであってobject490計画進行中にmolotだけ何故か477として独立したと思われる。
object490
SFの域に達しているが列記とした戦車である。これは連結戦車ではなくちゃんと前後ろくっ付いている。
これを見ればわかると思うが前部は厚くキツく傾斜がかかっていて自動装填式なのがわかる。
だがやはりこの戦車たちは値段が高すぎるがゆえに計画はお流れになってしまった。
object500(ZSU-57-2)
戦車部隊に同伴して対空支援を行うための自走砲として1951年に開発が始められ、1955年より生産が開始されたのがZSU-57-2対空自走砲(オブイェークト500)である。
この略号の”ZSU”はロシア語で「高射自走砲」という意味であり、”57”は砲の口径を、”2”は装備砲数を表している。
本車が西側の目に初めて確認されたのは、1957年11月の革命40周年記念日のパレードの時であった。
本車は当時の主力MBTであるT-54中戦車のコンポーネントを使用し、牽引式の57mm対空機関砲S-60を車載式とした57mm対空機関砲S-68を、360度旋回可能なオープントップ式砲塔に連装で搭載したもので、戦車部隊と同等の機動力を発揮できる。
車体はT-54中戦車から発展したものであるが、全体的に装甲が削られた上車体長も短縮されている。
このため転輪も片側4個に減らされており、かなり印象は異なる。
砲塔は車体に比べて異様に大柄で、この中に車長、砲手2名、装填手2名の計5名が収容される。
砲塔の旋回、俯仰は油圧で行われる。
搭載された73口径57mm対空機関砲S-68の実用発射速度は1門当たり70発/分(2門で140発/分)で、+85度までの仰角を取ることが可能となっており、有効制圧高度は仰角+45度において2,835m、同+65度においては4,237mである。
砲弾は5発ずつ装填クリップにまとめられて、計316発が搭載されている。
今日においても実用の地上用機関砲としては最大口径で、砲口初速が1,000m/秒に達するこの57mm対空機関砲S-68は、APC(被帽徹甲弾)による装甲貫徹力が射距離1,000mで96mmもあり、榴弾の連射威力もあることから対地上目標射撃でも大きな効果を期待できた。
ただし車体や砲塔の装甲厚は13.5~15mm程度しかなく、地上目標射撃では充分な掩蔽が必要である。
1950年代のソ連陸軍はZSU-57-2対空自走砲と、14.5mmや23mm口径の各種対空機関砲を搭載した対空装甲車で戦車師団、自動車化狙撃師団の上空に濃密な対空火網を展開することを構想していた。
しかし、本車は砲塔がオープントップのためNBC防護システムが付けられないこと、また第2次世界大戦以来の目視照準のため、ジェット時代の航空機に対しては威力が限定されることなどから、レーダー照準装置を装備する後継のZSU-23-4「シルカ」対空自走砲に席を譲ることとなり、1960年には生産を打ち切られている。
それでも旧ワルシャワ条約機構諸国などに多数が供与された他、1960年代初頭に勃発したヴェトナム戦争で北ヴェトナム軍がホーチミン・ルート防空作戦や、最終段階でのサイゴン周辺の地上戦闘に投入したことや、最近でも湾岸戦争においてイラク軍が対空任務に使ったり、ユーゴスラヴィア紛争にも顔を出すなど数々の戦場に登場している。
そして中国では今日も、80式戦車の車体をベースにして本車をコピーした80式対空自走砲の生産を継続中で輸出もされている。
こうした状況の下、今日でもロシア陸軍に700両以上が在籍しているのを始め、十数カ国で約1,800両以上のZSU-57-2対空自走砲が使用されている。
object501(BRM-3K)
BRM-3K「ルィス」(Rys:山猫)装甲偵察車は、「オブイェークト501」の開発番号でクルガン機械工場とルブツォフ機械工場が1990年代初めにBMP-3歩兵戦闘車をベースに共同開発した汎用偵察車両である。
本車はこれまでロシア陸軍で運用されてきたBMP-1歩兵戦闘車ベースのBRM-1K装甲偵察車や、PRP-4砲兵観測車の役割を統合する車両として開発されたものである。
80.5口径30mm機関砲2A72と7.62mm機関銃PKTを同軸装備した2名用の全周旋回式砲塔には各種観測用機材(1PN71光量増幅式暗視サイト、1PN61赤外線暗視サイト、1D14レーザー測遠機等)も積み込み、また車体側にも1RL-133-1対砲レーダー(対車両探知距離7km、対人探知距離2km)や多重式無線・衛星通信システム、衛星ナビゲイション機材等を搭載し、乗員はこれらを操作する要員を含め6名である。
本車は今日若干数がロシア陸軍に装備された他は、輸出商談待ちで生産が準備されている模様である。
object507
BMP-1のシャーシを流用した戦車回収車と'思われる'。クレーンと溶接機を備えている。
object510(PST-U)
object485と並行してT-55およびZSU-57-2対空自走砲用の浮航装置(それぞれPST-55、PSTと呼ばれた)の開発も始まった。
1959年にこの二つを統一したモデルの第342工場と第174工場での生産が決定された。
この浮航装置はPST-U(Universal)として配備された。
PST-Uは、発泡樹脂で満たされた5つの浮揚函から成り、装置の全重量は10トン、余剰浮力は(T-54装着時重量の)40%。
装置を装着した戦車の最高速度は陸上で19km/h、洋上で12km/hだった。
水上浮航は波高5レベルまで可能だが射撃は波高1.5(ZSU-57-2の場合は波高2)までとされた。
戦車と一緒に25人の歩兵も搭乗可能(ZSU-57-2の場合は40人)だったがその場合の砲の使用は禁止された。
装置の取り付けは35分以内、一方、パージは瞬間的に行なえた。
また、PST-Uは、500リットルの燃料タンクを内蔵しており、戦車の予備燃料タンク(60~80km分)としても機能した。
object515
「Vityaz」シリーズの一部である全地形輸送車。車両全体の重量は10トンで、容量は4.5トン。2013年、武装したDT-3pbが発表された。
object520
S-68 57mm対空砲とDensa照準レーダーを備えたZSU-57-2の改良版。合計六台のプロトタイプが制作されたが、プロジェクトは1959年には閉鎖された。
object520
詳細不明
object521
File not found: "D14zhzyWkAAdBXJ.jpg" at page "戦車のいろいろ/objectシリーズ総まとめ"[添付]
6tの容量を備えたトラクター。
object530
レーダー誘導57mm OKA-1を装備したZSU-57-2の後継者。ガスタービンを備えたフルサイズのT-54車体を利用していた。だがZSU-23-4が支持されていたために計画は放棄された。
object536
詳細不明
object560
1950年代後半に制作された装甲車。その他詳細不明
object560
こちらはobject127と並行して開発されたミサイル発射装置。だがこの(object127含む)プロジェクトは1958年後半には放棄されてしまった。
object561、563、565
T-20コムソモーレツの後継。プロトタイプは1952年に制作され、テストに合格し、1954年から生産が開始された。
object562
詳細不明
object563
24のミサイルを搭載しており、遠隔操作のクレーンも搭載している。
object564
負傷者を戦場から避難させ、小火器や迫撃砲、弾薬、食料などを輸送することを目的とした輸送車両。1957年4月17日のソビエト連邦閣僚理事会令により、N.A.の指揮の下、Mytishchi機械製造工場の設計局に決定された。走行試験などを行ったが結局は不採用になってしまった。
こちらはT-72のシャーシを用いて制作された重装甲兵員輸送車。
object567(9S18)
これは戦車というより監視レーダーで、目標の高度・方位・目標からの距離などの情報を収集し、最大85kmの探知距離を持っている、100mの高度で低空飛行をする目標を35kmの範囲内で探知でき、それよりさらに低空飛行をする目標をも10-20kmの範囲内で探知できる。
object568
s91レーダーステーション用のシャーシ。
本車は、地上部隊を敵航空機の攻撃から守る中・低高度を目標とする自走防空システムとして1958年に開発が始まった。
車体は、ASU-85空挺戦車のコンポーネントを流用した装軌式の2P25(ロシア語版)(2П25)と呼ばれるもので、ここに3発の3M9地対空ミサイルを横一列に搭載したミサイルランチャーを搭載する。2P25は、同時代の対空戦車であるZSU-23-4 シルカでも使用される。
3M9地対空ミサイルは、一段式の固体ロケット・ラムジェット統合推進を搭載しており、機体後部に操縦翼、機体中ほどに大きめの安定翼を持ち、その隙間を埋めるように4基の空気取り入れ口が斜めに突き出している。弾頭は59kgの高性能火薬で、最大有効射程は24,000メートル、最大速度はM2.8に達する。最大有効高度は12,000メートルで、それ以上の高度は2K11 クルーク(SA-4 ガネフ)自走地対空ミサイルシステムなどが担当する。
また、航空機搭載ECMによるジャミング(電磁妨害)への対策として、ある程度のECM耐性を備えると共に、レーダー波が届かなくなった時のために画像誘導を可能にしている。
object569(GM-569)
GM-569は、Buk-M1-2 SAMシステムの一部であるTELAR 9A38を乗せるために使用するシャーシ。
objectt570
空挺部隊のためにソビエトが最初に特別に開発した空挺戦車。
object572(ASU-57)
ASU-57は、ソビエト連邦で開発された空挺対戦車自走砲。空挺戦車としての運用を念頭に、1947年に開発がスタートして、1950年代-1970年代にかけて使用された。これでも実は戦後戦車なのである。
ソビエト連邦軍は、第二次世界大戦前から空挺戦車に興味を持ち、その種の車両をいくつか試作した。中には戦車に飛行翼を付け、爆撃機に牽引してもらう奇抜な飛行戦車「アントノフ KT-40」のような車両も含まれていた。ただし、ソ連軍は独ソ戦を通じこの種の車両を量産、配備することはなかった。
終戦から2年たった1947年、軍は空挺部隊向けの対戦車自走砲の開発を決定した。計画案には76.2mm対戦車砲を搭載した型と57mm対戦車砲を搭載した型が提示され、それぞれアストロフ設計局、クラフチェフ設計局が担当した。 クラフチェフ案は水陸両用性能を持たせ、また、派生型の開発を見越した設計となっていたが、性能が軍の要求したものに届かず、対照的にアストロフ案は堅実な設計で、エンジンや足回りを既存の車両と共有化することで機械的信頼性を高めていた。
最終的にアストロフ案が採用され、この車台に76.2mm対戦車砲より威力のあるCh-51 73口径57mm対戦車砲を搭載することになり、1950年にASU-57として制式化された。
object573(ASU-85)
ASU-57は空挺戦車としては優れた性能を持ってはいたが、空挺部隊はもっと強力な車両が欲しかった。そこで開発されたのがこのASU-85である。ASU-57は開発された当初、輸送機の性能があまり良くは無かったため、極力軽量化が進められた。その為、装甲は機銃程度しか防げず、オープントップもNBC兵器が使用された状況下では戦闘員に被害が出てしまう。だがしかし、本車の開発が始まったころには高い不整地着陸性能を持つ新型輸送機"An-12"や大型輸送ヘリコプターの"Mi-6""Mi-14"が出現しており、無理にパラシュート降下をさせる必要性が無くなった。そのため、本車は完全密閉式の戦闘室を持ち、装甲も大幅に強化され、主砲も85mmにパワーアップした。車体はPT-76の物が流用されたが、水上航行機能は不要と判断され、オミットされた。しかし、僅か20年あまりで本車は生産が止められた。というのも、この頃に空挺戦車(歩兵装甲車)として新たにBMD-1が開発されたためである。
本車の車体はZSU-23-4の車体として活躍している。余談だが、現在でもベトナムが運用をしており、走行距離とパワーパックの強化、速度の向上を行うアップグレードパーツに関心を示した(2016年)。
object574(ASU-57P)
前身のASU-57に少しの改良と水上を8km程度で航行できる性能を付けたもの。
水上を航行中の写真。
object575
ZSU-23-4 SPAAGのシャーシ。ASU-85空挺戦車に由来し、それ自体はPT-76戦車に基づいている。
object577
ミサイル用の輸送車体。8個の9M38ミサイルを輸送または発射でき、4個は発射レールに、さらに4個はリロードクレーンとともに、下に収納されている。
object578
ZSU-23-4のシャーシに基づく2P25 TEL用のObject 578シャーシ。これは、長距離2k11 Krugを補完するように設計されたKub SAMコンプレックスの一部。テストは1959年に開始され、1967年に終了した。ランチャーに誘導レーダーを追加するというアイデアは、9k37の作成につながった。
object579
9S470バッテリーコマンド車両用シャーシ、Buk SAMシステムの一部。
object600(SU-122-54)
ソビエト連邦軍がSU-100の後継として開発した対戦車自走砲。1949年より「オブィエクト600(ロシア語: Объект 600)」の名称で開発され、西側諸国ではかつてIT-122と呼称されていた。第二次世界大戦時のT-34/85中戦車に対するSU-100と同様のコンセプトで、大戦後主力戦車となったT-54の車体をベースに固定式戦闘室を設け、より大口径な主砲を搭載したものである。
1954年より少数が生産されて配備されたが、配備部隊と運用状況については資料が少なく、現在でも不明点が多い。遅くとも1970年代前半には退役し、大半は戦車回収車に改造されて支援車両として運用された。それらのうち、戦闘工兵車に転用された車両は2000年代でも少数が使用されている。
車長用キューポラにはソビエトの自走砲では初めてステレオ・レンジファインダー式の測照儀を装備し、ソビエト軍車両としては異例の長距離高精度射撃能力を備えている。
object601
半自動トランスミッションを備えた無線制御T-54タンクターゲット。
object602(MTU-20)
T-54を改造した架橋戦車。
object604
T-55の車体に出力6120kgのジェットエンジンを2基搭載した地雷処理戦車。試作のみ。
object608(BREM-1)
T-72のシャーシを利用した戦車回収車。最大75tの戦車を牽引することができ、野外でも戦車やその他装甲車両を最低限修理することができた。
object609(BMP-3)
1987年に採用された歩兵戦闘車。主砲の100mm低圧砲に、30mm機関砲と7.62mm機関銃を同軸で装備しており、さらに2丁の7.62mm機関銃を持つ。また、主砲からは対戦車ミサイルも発射できる。
object609
ソビエト国防省が発行する将来のBMPの要件への対応として設計された車輪付きIFVのプロジェクト。Object19と同様に、過酷な地形で展開可能な補助トラックがありました。目標を達成できず、プロジェクトは1962年に閉鎖された。
object610
この自走砲はT-54の車体を利用し、SU-122に基づいて制作された自走砲だったがsu-122-54の生産終了後、更なる作業は中止された。
object614,625
3基の9M14 Malyutka ATGMランチャーを砲塔後部に装備したT-54/T-55。ランチャーが非常に軟弱で止まらないと撃てず動いてる途中に撃つと壊れてしまうためボツ。
object616(IMR-1)
T-55をベースにドーザーブレード、伸縮式ショベルアームを装備した戦闘工兵車。T-55同様NBC防護能力を持つ。チェルノブイリ原子力発電事故では本車が唯一原子炉近くで稼働できる車輌で、障害除去等を行ったのち付近に放棄された。
object618
T-64のプロトタイプコマンドバリアント。
object619/A/B/V(PST-63)
1963年にPST-54の改良型としてPST-63が採用された。アルミ製なのは変わらないがさらに軽量化が図られた。
更に1966年にT-55A用にPST-63M(Object 619A)が開発され、1969年に配備された。
PST-63MはT-62、T-64用の物も存在し、それぞれ(生産現場では?)Object 619B、Object 619Vと呼ばれた。
1964年から75年の間に162セットが生産された。
object634(TOS-1)
T-72のシャーシに220mmロケットと熱圧兵器を備えた物。主に要塞や軽装甲車両を破壊する用途に使われる。
object637(IMR-2)
T-72をベースにドーザーブレード、伸縮式ショベルアームを装備した戦闘工兵車。チェチェン紛争やアフガニスタン紛争等に参加し、現在も運用されている。NBC防護能力を持っていたためチェルノブイリ原発事故の救助活動にも投入された。
object640(チョールヌィ・オリョール)
1990年代に開発され、ロシア連邦軍を始めとして多方面に売り込みが図られていたが、開発元の国営公社オムスク戦車工場の経営状況の悪化により開発中止となった。
object650
BMP-1の生産が始まるまで生産されたトラクター。
object668
1961年に生産が開始され、これもBMP-1が生産されるまでの1966年まで生産が続いた。ポーランドでは80年代後半まで生産されていたという。
object673
1970年代後半に試作された視覚妨害装置(レーダーダズラー)を備えたBMP-1。だが設置したためにただでさえ少ない乗員が二人になってしまった。
object675(BMP-2)
BMP-1によく似ているが、砲塔が大型化しているのが特徴で、主武装に初期は30mm機関砲2A42と半自動有線誘導式の9M111 ファゴット(NATOコードネーム:AT-4 スピゴット)対戦車ミサイル、後期には30mm機関砲と半自動有線誘導式の9M113 コンクールス(NATOコードネーム:AT-5 スパンドレル)が採用されている。機関砲は、軸安定装置と二系統の給弾装置を備える。弾薬には徹甲弾・曳光榴弾・通常榴弾の3種類があり、車両だけではなくヘリコプターなどの航空機も攻撃でき、発射速度は200-300発、500発/分を選択できる。その他、防御のために煙幕発射装置を取りつけることもできる。
乗員は3名で、7名の兵員を輸送することができる。6名の兵士は後部の兵員室に搭乗する構造で、3人がけの座席2列に背中合わせに座る。残る1名は砲塔の左前、操縦士の後ろの座席に搭乗する。ここは本来は分隊長の席だったが、後部兵員室と隔離されており、兵士たちを指揮するのに不便なことから、分隊長は後部兵員室に座り、前席には機関銃手などが座るケースが多くなった。この点に関しては後部兵員室に下車戦闘班8名全員が搭乗できるBMP-1よりも劣っている。一方、乗員3名はそれぞれ、操縦手と砲塔に乗る砲手および車長で、砲塔に砲手だけが乗るBMP-1とは構造が異なっている。車長が砲手と共に砲塔に乗ることで全周視界を得られるようになり、また戦闘時に砲手と意思疎通しやすくなったのは大きな進歩である。
近代化型の砲塔には、2連装9M113対戦車ミサイルのランチャーが両側面に搭載され、計4発の9M113対戦車ミサイルを装備している(この砲塔はBTR-90にも使われている)。
エンジンなどを含め車体はBMP-1と似通っているため、航続距離などの変化はほとんどなく、重量増加のため一時期水上航行機能は取り外されたが程なく復活し、BMP-1と同じく水陸両用で走ることができるようになった。
object685
1975年に開発された水陸両用戦車。100mm砲を備え、水上を10㎞で航行できた。
object691(BREM-L)
BMP-3のシャーシを流用した戦車回収車。
object693(KURGANEC-25)B-10
下に同じ。
object695(KURGANEC-25)B-11
クルガネツはBMPシリーズを製造するクルガン機械工場によって開発され、2015年にアラビノ射撃場における戦勝記念パレード訓練で初公開された。同時期に開発されたアルマータやブーメランク、タイフーンと同様に、コンポーネントを共通化することで開発・製造・整備にかかるコストを低減しており、特にアルマータとは多くの部品を共有している。ロシアの北極重視の方針に従い、アルマータやブーメランクなどとともに氷点下60℃でも活動が可能とされ、既存のBMPシリーズなどの装軌式装甲車を置き換える計画である。
object701(IS-4)
第二次世界大戦末期にL.S.トロヤーノフ技師の設計チームにより開発された「オブイェークト701-2」と「オブイェークト701-5」から発展した「オブイェークト701-6」は、1947年にIS-4として制式採用された。これはIS-2重戦車を大型化・重装甲化し、V型12気筒にスーパーチャージャーを付けて出力強化したエンジンを搭載したもので、その冷却機構はドイツ軍のパンターを参考にしたもので、グリルの形状が類似している。
それまでの多くのソ連重戦車に課せられた「重量46t以下」という制限は撤廃されており、車内容積はそれまでのソ連戦車と比べて非常に余裕があり、居住性や操作性が改善されている。大型の砲弾を装填する際の難点であった主砲弾薬庫の位置も全て砲塔後部に収納され、装甲厚も増している。
だが、重武装・重装甲の代償として重量があるため扱いやすい戦車にはなり得ず、IS-3の2.84倍というコストの高さと、続くT-10(IS-8)の採用もあって比較的少数生産に終わった。1949年までに250輌が量産されたが、コスト高と大重量による扱いの難しさのため、比較的短期の運用の後、退役した。
object 701-2
最初の試作車であり、56口径100mm戦車砲S-34 I若しくはS-34 IIを装備し、100mm砲弾30発を搭載できた。
マズルブレーキを付けてない上の画像はS-34 Iでマズルブレーキをつけてる下の画像がS-34 IIであり、区別は容易である。
装甲厚は車体前面で160mmもあり、圧延防弾鋼板の溶接構造による傾斜装甲であるためIS-2重戦車に比べてはるかに高い防御力を期待できた。
またエンジンには従来のV型ディーゼル・エンジンを750hpまでパワーアップしたV-12 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジンを採用し、面白いことに機関室と冷却機構のデザインをドイツ軍のパンター戦車と同様なものとしたため、機関室上面グリルがパンター戦車とそっくりなものとなった。
またこうした機構を採用したために車体が延長され、転輪数もIS-2重戦車の片側6個から7個に増やされた。
戦闘重量は55.9 tと、IS-2重戦車より約10tも重くなった。
object 701-5
主砲をIS-2重戦車と同じ43口径122mm戦車砲D-25Tとしたもの。
砲口径が100mmから122mmに改められた理由としては、1944年後期の戦闘を通じてソ連軍戦車隊内で122mm戦車砲の質量効果に対する絶大な信頼があったことが挙げられる。
また副武装として対空用の他に主砲防盾の同軸機関銃も、威力の高い12.7mm重機関銃DShKとされた。
これは、歩兵などの防御陣地に大口径機関銃弾が大変有効だった独ソ戦での戦訓によって採られた措置である。
また装甲厚を砲塔周りを中心にさらに増加させたため(砲塔前面で250mmに達した)、戦闘重量は58.5tまで増加した。
それでも、出力750hpのV-12ディーゼル・エンジンのおかげで路上最大速度43km/hの機動性能を発揮できた。
余談であるが戦車道に参加できる最強格の戦車はObject 701-5であろう。
object 701-6(IS-4)
&ref(): File not found: "IS-4.jpg" at page "uploader";
結局、Object 701-5をベースに一層リファインしたObject 701-6が「IS-4重戦車」としてソ連軍に制式採用されることになったが、IS-4重戦車の戦闘重量はIS-2重戦車より14tも重い60tに達した。
これは、KV重戦車以降の新型重戦車開発にあたってスターリンや運用者側が提示してきた重量上限46t(それを超えると兵站路を破壊するなど運用上の問題が多いと指摘されていた)を大きく超えるものであった。
しかしこの制限値を超えることを承知であえてObject 701の開発が続けられたのは、このプランに戦車工業人民委員のV.A.マールィシェフと、その配下にあったソ連共産党チェリャビンスク州委員会第一書記のN.S.パトリチェフの後押しがあったからである。
それでも重い戦車を導入することに対して運用者側の反発があったようで、IS-4重戦車のソ連軍への制式採用は1947年までずれ込んだ。
こうして運用者側の反発を押し切る形でソ連軍に導入されたIS-4重戦車は、重量上限などの制限をあえて超えることによって得られた設計上の余裕を活かして、戦闘室内配置に充分な考慮が払われたものとなった。
例えば砲塔はIS-2重戦車のものをさらに大型化したようなデザインとなり、搭載弾頭は全て後部バスルに配置されていた。
各弾頭は水平方向に向いた収納ケースに収められ、止め金を外すと底部のバネの力で押し出されてくるよう工夫された。
また発射装薬が収められた薬莢も、砲塔リング径よりも広げられた車体袖部(履帯の上に掛かった部分)の取り出し易い位置や、広い戦闘室床部の中央(砲塔がどちらを向いても砲尾部の真下にあたり操作上邪魔にならない)に配置された。
恐らくソ連軍戦車でこのように操作性の改善を追求したのは初めてのことで、これはトロヤーノフがドイツ軍戦車の構造を充分研究した結果だと思われる。
IS-4重戦車は1947年から量産が開始されたが、重い戦車に対する運用者側の不満は払拭できなかったようで、1949年までに250両が完成した時点で生産は中止されてしまった。
生産中止のもう1つの理由はIS-4重戦車の生産コストがあまりに高過ぎたことで、IS-3重戦車が1両当たり35万ルーブリであったのに対しIS-4重戦車は1両当たり99万4千ルーブリであったという。
朝鮮戦争が勃発した1950年の時点においてソ連軍MBTの中で最強の存在であったIS-4重戦車は、殆どが極東方面に移される事となるが、結局ソ連は参戦しなかったため実戦経験は無い。
IS-4重戦車は極東軍管区に1950年代後半まで残され、IS-3M重戦車のように近代化改修が施されて1960年代いっぱいまで部隊に留まった後、スクラップや標的にされてしまったようである。
ZiS-5の開発・量産を行っていた92番工場の技術者、A.GaninとA.S.Chasovnikovにより開発されたもので、当時の重戦車の後継として計画されていた。
ST-Iは主力重戦車であるIS-2や、配備が始まったばかりの新鋭IS-3共通の欠点である
・低車高と傾斜装甲を追及した為内部容積が狭く搭載弾薬が過少
・劣悪な居住性、それに伴う迅速な装填作業の難しさ
・中遠距離射撃や行進間射撃の命中精度の悪さ
を改善すべく大戦末期の1945年1月~5月に開発が始められた。
車体は試作IS-4の物が使用された。
砲塔は大きく後方に延長したことにより弾薬搭載量が増加した。これは弾薬の大半が車体底部にあり、砲塔後部の即応弾薬が少なくこれを打ち切ると発射速度が著しく低下する、ソ連戦車共通の弱点を解消するものである。また装填手を二名に増やし、発射速度の改善を図った。
遠距離射撃の改善については可変倍率が可能な新型照準器を装備することで改善が図られた。同時にスタビライザー(砲安定装置)「STP-1ゴリゾーント(地平線)」装備も計画されていたが後のIS-4に装備されず、10年後のT-10、T-54両改良型で量産されたことを考えると、まだ実用性は疑わしいものだったと考えられる。
その他電動砲塔旋回装置や空気圧を防水に利用した川底渡渉装置、新型換気装置等が計画されていた。
意欲的な機構を多く盛り込んだ車両であったが、それ故に予想される開発期間が長すぎるとの軍部の判断で、開発は中止された。しかし開発によって培われた技術は後の戦車に生かされることになる。
ST-II
ST-IIは発射速度の早い大口径砲を搭載した重装甲型の車輌として設計された。この車輌の設計はST-Iの開発を引き継いだものであるが、砲精度と発射速度の改善を狙って、砲塔には2門の砲を搭載する予定であった。
object703(IS-3)
1944年8月12日、T-34-85中戦車によって撃破されたドイツ軍の新型重戦車ティーガーIIを調査したソ連軍は、ティーガーI重戦車登場以来のショックを受けることになった。
取り急ぎこのティーガーII重戦車に対処するための対策が練られ、現行のIS-2重戦車と共通のコンポーネントを多用するが、SKB-2が企画中の新型重戦車プランの中では最も早期に完成が期待できるものと見なされ、政府から直ちに開発作業を進めるよう裁可された。
SKB-2のN.L.ドゥホフ技師とA.S.イェルモラエフ技師は、バルジ技師のデザインを採り入れた試作重戦車「Object 703」を1944年10月31日に完成させている。
避弾経始の向上を図って車体側面、後面共に適度な傾斜角が与えられており、特に車体側面は、成形炸薬弾などから身を守るために外壁と内壁の間に空間を設けた空間装甲を採用していた。
重装甲と122mm砲を持っているにもかかわらず、重さはわずか45tとパンター並みの重量しかないという、まさに化け物というべき戦車である。しかし、これは内部容積を犠牲にした結果であり、分離式薬莢の影響も重なって、主砲の発射速度などに悪い影響を与えてしまう結果となった。
ドイツ軍戦車の増加装甲にも空間装甲の思想が盛り込まれていたものもあったが、ここまで大胆に用いた車両は他に例を見なかった。
砲塔は極端に背の低い鋳造製のものが用いられ、その円錐形をした独特の形状は以後のソ連の戦車開発において多くの影響を残している。
このObject 703重戦車は早速工場の試験場に送られ、性能調査が実施されている。
性能調査の結果、良好であると判断されたObject 703重戦車はその後ソ連軍に制式採用され、名称も「IS-3」と改められた。
1945年初めからIS-3重戦車の生産開始までに改良点を明確にするため、クビンカ兵器試験場において国家試験が実施された。
この試験はおよそ1945年4月頃まで継続され、車体前面装甲形状の変更を中心に幾つかの改修が必要であると結論付けた。
IS-3重戦車の車体前面は、試作車では圧延鋼板2枚を上下部分で組み合わせて溶接したものであったが、クビンカでの試験を経て、さらに避弾経始を改善するため前面上部の装甲板を2枚組みにし、車体前端部が三角錐の頂点になるようなデザインに変更されることになった。
そして早くも1945年5月には部隊への引き渡しが始まった。
(初期生産品は溶接の不良で振動で装甲が剥離してドライバーがСалют!・・・するトラブルが発生したのは内緒だぞ。)
しかし、5月9日のドイツ降伏までに完成したIS-3重戦車はわずかに29両に過ぎなかった。
大戦にこそ参加はできなかったが、ベルリンにおける戦勝パレードで初披露された時、その先鋭的なシルエットと巨大な砲に他の連合軍首脳は度肝を抜かれ、これに対抗するためアメリカはM103ファイティングモンスター、イギリスはコンカラーといった重戦車を開発することとなる。(が、時代の変化で重戦車というカテゴリーの有効性が失われていき、まともな戦闘すら行われずに全て退役していった。)
Kirovets-1
1944年初め、チェリャビンスク・キーロフ工場第2特別設計局(SKB-2)の主任技師Zh.Ya.コーチンは、IS-2重戦車の量産が軌道に乗ったことを踏まえ、引き続く後継重戦車の開発を配下のSKB-2の技師たちに命じた。
当初「Object 701」と命名された新型重戦車プランは、複数のチームが別々の企画で進めることになった。
その内の1つが、M.F.バルジ技師のチームが進めた「Kirovets-1」である。
Kirovets-1の基本構想は1944年夏にはまとまり、SKB-2で集団的検討に付された。
バルジ技師が本車の設計にあたって何よりも念頭に置いたのは、限られた重量や装甲厚の限界の中で、最大効率で防御力を発揮し得る砲塔と車体のデザインであった。
バルジ技師はまず、被弾確率があらゆる角度で最も高い砲塔のデザインについて、角度の深い円錐形にすることにした。
また、砲塔上面に突き出た形の車長用キューポラについては廃止することとし、代わりに旋回式の視察ペリスコープ・マウントを採用した。
また、車体前面と共に斜め方向からの被弾確率が高い車体側面上部については、下側に切れ込む形の傾斜装甲を採り入れ全高を2.45mまで抑えた。
装甲厚は砲塔下部全周囲が220mm、砲塔上部と車体前面が110mmで、車体側面でも90mmもあったが、全体的にコンパクトにまとめられたデザインのおかげで戦闘重量はIS-2重戦車と同じ46tに収まった。
IS-3 auto
1956年から1957年にかけて、BTV軍学校の学生がIS-3およびT-10用の新型装填システムの設計案を開発した。IS-3版は自動装填機構を備えた2列式の弾薬庫を採用する案であり、砲塔は再設計されていた。また、搭乗員は装填手を省き、3名に削減される予定であった。本計画は製図段階に留まった。
object 704
KV-1SベースのSU-152、ISベースのISU-152とソ連重自走砲を開発してきたキーロフ工場第2特別設計局は、1945年にIS-3をベースとした、ISU-152のさらなる改良に着手した。これがObject 704(ISU-152 1945年型)である。
Object704はIS-3の車体をベースに152mm ML-20を搭載したもので、IS-3の車体を上に延長したような段差のない車体前面装甲と、傾斜しつつ車内スペースを確保するため複雑な形状をした側面装甲を有していた。152mm ML-20は球状防循を持ち、マズルブレーキは装着されていなかった。
1945年中に完成した本車の傾斜した前面装甲120mmは強力な防御力を提供し、ソ連重自走砲の1つの完成形であったが、ISU-152と比較して優れている点がこの防御力のみであったこと、またマズルブレーキがないため発砲の衝撃が車体に激しく伝わり乗員の戦闘効率が低下するといった点が問題視され、制式採用されたものの量産はされなかった。
なおその後、1956年にT-10をベースに152mm砲を搭載する重自走砲であるObject 268が試作されたが、制式採用には至っていない。
object705
Object 705(オブイェークト スィムソートゥ ピャーチ)は、Object 260と同時期に設計された後部砲塔の65トン級重戦車の計画案である。
主砲には122mm BL-13が予定されたが、より拡大発展させたObject 705Aともども設計段階を出る事はなかった。
object709
1951年に試作されたトランスミッションを改善したT-10B。1959年にはクビンカのテストで2500㎞を走りぬき3年後の1962年にT-10M改造の一部になった。
object710(S-64)
第二次大戦終結後、農業省は新たなトラクターの設計を命じた。引き受けたのはチェリャビンスクの工場だったがプロトタイプか図面のまま終わってしまった。だがシャシーは引き継がれた。
object711(T-140)
1958年から1965年まで生産されたブリャンスク自動車工場(BAZ)の民間トラクター。最初の製品の1つ。
object712(AT-S)
AT-Sは1940年代後期に開発された車両で、16トンの牽引力と3トンの積載能力を持っていた[1]。これは、同時期に開発された重砲兵トラクター"AT-T" (25トンの牽引力と5トンの積載能力) および、軽砲兵トラクター"AT-L"(6トンの牽引力と2トンの積載能力)の中間に位置するもので、AT-Sは口径100mm・152mmの榴弾砲や、KS-19 100mm高射砲の牽引に用いられた。
AT-Sはカーゴトラックのような車体上部に装軌式の走行装置を持っており、キャブ部分はAT-TやAT-Lとは異なり角ばった形状で前後に長く、片側2箇所の昇降ドアを持ち、乗員7名が搭乗可能なものとなっている[1]。
AT-Sは1950年代後半まで生産され、多くのソ連友好国に輸出された。1959年以降は後継車種として開発されたATS-59の生産に切り替えられた。
object726
新たな構成スキームを採用し、高い走破性を誇る重戦車の開発プロジェクトの初期案であり、1947年から1948年にかけてL.S.トロヤノフによって開発されました。
本案では、エンジンが低い位置に配置され、燃料タンクを兼ねた縦桁に4本の履帯が取り付けられており、これによって火災発生のリスクを大幅に低減していました。こういったソリューションによって高い走破性と生存性を実現し、履帯が破損した状態でも走行可能となるはずでした。
サスペンションの上部に車体を配置したことにより、戦闘室を大型化することができたため、豊富な弾薬搭載量と、高い射撃速度を発揮する自動装填メカニズムの採用が実現されていました。
1948年に動作可能な試作車輌が1両製造されています。
(ゲーム内説明より)
object730(IS-5)
Object730は、IS-8(またはT-10)の元になった重戦車である。
IS-5は2種類存在し、1つはIS-2の改良型(Object248)、もう1つがこのObject730だった。
1948年、IS-4の性能を向上させる為の近代化が計画された。
チェリャビンスク工場は、多くの内部コンポーネントを交換し、車両全体の重量を軽くする事を提案した。
その内容はIS-4の重量を60トンから50トンに削減し、近代化されたエンジンに換装する事とした。
Object730の初期型は、コーチン技師が率いるチームによってチャリャビンスク工場で1949年春に設計された。
それは元のIS-4とは全く異なり、IS-3とIS-7の開発時の教訓を活かし、砲塔を改造した。
トランスミッション、サスペンションなど全体的なモジュールが更新された。
この設計案をモスクワへ提出した結果、いくつかの改良を要求されつつ、1949年5月に承認された。
さらに1949年8月までに試作車両を製作する事が求められ、とりあえずIS-4の試作車両を流用する事になり、更新された各種モジュールの試験にはIS-7の試作車両が用いられた。
Object730の1輌目の車体は1949年7月30日に完成し、2輌目の車体は8月9日に完成した。
しかし、各種モジュールの開発が遅れた為、実際に試作車両として完成したのは9月になってからだった。
1949年9月の試験ではトランスミッションの問題が指摘され、同年末までに改良を行った。
1950年3月に改良された3輌の試作車両が製作され、4月の試験では良好な結果を出した。
1950年夏頃に試作車両は10輌へ増産され、様々な軍事試験が行われた。
優秀な結果を修めたObject730だったが、国交省などから新しい要求が出され、そのままでは採用はされなかった。
その後、エンジンの生産に手間取った不手際を隠したり、スターリンの死後の名称問題など、紆余曲折を経てIS-8(改名してT-10)として量産される事になった。
object734(IS-8,T-10M)
object272はレーニングラード工場製でターボ付きのV-12-6Bエンジンと渡河装置を備えている。object734はチェリャビンスク工場製でV-12-6エンジンを搭載し、渡河装置を装備していない。要はobject272もobject734も同一(少しの差異はあれど)の車両であり、生産工場の違いでobject番号が変わっただけなのである。1957年から生産が開始され、object272は1966年、object734は1962年まで生産された。全体の7/3をobject734が占めていた。
object739
T-10やPT-76やT-62等に搭載された消防システム。
object740(PT-76)
PT-76はソ連が開発した水陸両用戦車であり、後継機が資金難や開発中止にされたことから後継機のめどが立たず、今でも運用されている。量産は1951年から。火力が第二次世界大戦レベルであるが、先述した通り後継機がいないため、ずっと76mm砲のままである。
装甲が薄く雑魚キャラに見られがちだが、その軽い車体がインフラの整っていない土地の悪路や泥濘地帯での高機動性を生み出しており、軽戦車に求められる偵察、対装甲車戦闘以上の役割を果たしてきた。
なお、軽戦車自体の後継車両は開発されていないが、別枠で空挺戦車というジャンルが未だにロシア連邦では生きており、実質的な後継車両として2S25スプルート-SDとBMD-4があげられる。この二つのうち、BMD-4は100mm滑腔砲と30mm機関砲、対戦車ミサイルを装備した強力な歩兵戦闘車としての役割が強いが、スプルートに関しては125mm対戦車滑腔砲2A75と言う、かの有名なT72やT80、T90に搭載されている2A46戦車砲を基にしたものを搭載しており、使用砲弾も共有されている。またBMDシリーズからの派生ながら、乗員は車両要員のみであり対戦車・装甲車両に重点を置いているとわかる。
object750(BTR-50P)
BTR-50は、1952年に開発され1954年にソ連地上軍に制式採用された。BTR-50は、PT-76と同様に滑らかな形状の車体をしており、水上走行時には車体左右の浮き袋を膨らませて浮力を得て車体後部両側のハイドロジェット推進で推進力を得る。
object752
1952年、50tの重量制限の基戦車開発が行われた。重量制限が無かったT-10は車内スペースを広く取り、重装甲にすることができたがこちらはそうはいかない。object752は制限を下回ったまま乗員の保護等を念頭に置き設計された。だが競争相手のobject777に負け、object752は放棄された。
object757
T-10の車体を改良したものにロケット砲を搭載したもの。
object760
1961年に試作された軍用ホバークラフト。PT-76の性能を凌駕していた。
object761(BRDM-VPK)
object760の成功を受け、計画した戦車。だがBMP-1の方に計画が流れてしまった為にボツ。
object765(BMP-1)
1950年代の終わり、BTR-50装甲兵員輸送車に強力な武装を施すアイデアが出され、これを基に(BTR-50を流用したわけではない)チェリャビンスク・トラクター工場で開発が進められた。66年に試作車オブイェークト765がBMP-1として正式採用され、生産が始まった。低く抑えた車体の上面中央に73mm低圧滑腔砲と対戦車ミサイルを備える砲塔を載せ、後部の密閉式キャビンに兵員8名を収容する。88年までにインド、中国などの生産分も含めて25800輌以上が生産された。それまでの兵士を戦場へ輸送して、降車するまでの間敵の砲火から防御するだけの装甲兵員輸送車と違い、敵戦車を直接攻撃できるだけの武装を持ち、歩兵を乗車させた状態で戦闘を行える
本車の登場は、従来の装甲輸送車輌に比べ非常に画期的とされ、いわゆる「BMPショック」を西側諸国にもたらした。
object767(PRP-3)
「ヴァル(堡塁の意)」の愛称で呼ばれる砲兵/偵察部隊用観測車両で、ソビエト(ロシア)軍での分類名称は「機動戦場観測システム搭載車」。BRM-1Kと同じ大型砲塔に各種光学精密観測機器と方位指示機を搭載し、弾道探知レーダーを砲塔後部に搭載している。武装は、7.62mm機関銃PKTのみを装備し、73mm低圧砲2A28は撤去している。
object770
1957年に試作された重戦車。ハイドロマティック自動変速機、130mm砲を備え最高速度55㎞を記録した。
object772
対戦者誘導ロケット「ロータス」と73mm滑腔砲のベルト弾倉式自動装填版との連装になっている。そして球体鋳込み複合装甲をもっている。
object774(BMP-1KSh)
自動車化狙撃兵(機械化歩兵)師団の移動司令部用として使用される野戦指揮所車両。武装は、7.62mm機関銃PKTを1挺装備するのみだが、通信設備を大幅に強化しており、各種有線野戦電話や、軍用/民間用有線電信回線との接続装置も搭載している。また、伸縮式アンテナマストを装備し、車体後部には発電機を搭載している。操縦士の他、指揮官や参謀6-7名を搭乗させることが可能。
object775
T-64ベースに開発された車体に125mmライフリング付ロケット砲D-126を搭載した戦車。視界の悪さとミサイルの誘導性能の低さが指摘され試作のみ。
object777
T-10のライバルであり、あらゆる点でT-10を凌駕していたが、重戦車の有用性が疑問視され、高価格だったことも災いしてT-10にやぶれてしまった。
object780
Object775を基に、125mmライフリング付ロケット砲D-126に15発のルビー対戦車誘導ミサイルと22発のボル無誘導ミサイルを搭載した戦車。
object785
1970年代後半に試作された戦車。T-80Bの改良型で、7つの転輪が付いていた。この戦車は新世代の125mm 2A82滑空砲を搭載しており、50発の弾薬を搭載することができた。
object787
チェチェン独立紛争時に独立を防ごうとしたロシア側が開発したIFV。T-72AVの車体と砲塔の大部分を流用し、125mm砲の代わりに、砲塔側面に12.7mm機関銃や30mmロケットを装備している。
object788
object788はチェリャビンスクで設計された戦車。object934とobject685の競合相手だったが、図面上で条件が満たせない事を指摘されボツ。
object801、802、805、809
R-2及びR-5ロケットの発射をサポートする車両。
このうちobject809はリローダーであり、他は燃料補給に徹する。
object803
ISU-152の車体に基づくミサイル発射装置。
object804
ISU-152の車体に基づくミサイル発射装置。
object810(2P19)
IS-2の車体を利用したロケットシステム。
object815
RT-15中距離弾道ミサイルの発射装置。IS-2の代わりにT-10のシャーシを利用していた。だが試作におわった。
object816,817
object810の改良型。object817には独自のリロードクレーンが付いていた。
object829
15Zh42大陸間弾道ミサイルの運搬車のプロトタイプ。T-64、2両がせっせと運んでいる。その後履帯式トレーラーなどが検討されるも量産型ではMAZ-547に落ち着いた。この運搬車はなんと映像が残されている。
https://www.youtube.com/watch?v=vKjBH8TR2qc
object851(ZIL-153)
BTR-152の後継として試作された歩兵戦闘車。1960年にテストに合格したが、安価なBTR-60が大量生産に入りそちらの方が優先されたためボツ。
object904
PT-76に基づいた試作ホバークラフト。
object905(BTR-50PN)
1958年に試作された指揮統制車。
object906
1961年から1962年に、ボルゴグラードトラクター工場にて試作された水陸両用戦車である。
車体はアルミニウム合金でできており、300馬力のエンジンは、地上で最大75km/h,水上で12~15km/hで走行する性能があった。
主砲には85mm D-58砲を用い、従来のAPCBC,HEに加え、装甲貫徹力300mmを誇るHEATFSの発射もできた。
1963年にクビンカのBT研究所でテストには合格したが、採用されることはなかった。
object906
125mm砲を備えたSPGと思われる。モックアップだけ作られた。
object907
1953年7月13日、新世代の中戦車の開発開始が決定され、第100研究所により開発が行なわれた。計画案は 1954年3月に提出され、1955年の初めには新車両の車体の防弾性試験が実施された。しかしながらその後、計画は中止された。
object907(PT-76M)
エンジンの出力を強化、車体先端の形状を鋭角的な船型とし、側面がより膨らんだ形状とした改良型。試作のみ。
object910
object160の改良型。車体はコンパクトになったが代わりに水陸両用性能が失われた。軍のテストなどを受け合格したが軍の方針変更で車輪付きミサイル、ランチャー等を利用することになり、不採用になってしまった。
object911
1963年にIV Gavalovの指揮の下、VGTZ設計局によってヴォルゴグラードで開発された。同年には試作車が完成し、翌年に実施されたテストでは肯定的な評価を受けた。だがBMP-1が優先されてしまい結局不採用になった。この戦車にはいくつか面白い機構がありまず一つ目が車高制御装置。
74式の様に上下左右縦横斜めには出来ないが一応上下に稼働する。
そしてもう一つが水陸両用機構。
これはこの手の戦車にとっては普通だが特筆すべきは車輪が出るところである。この車輪はIL-14のものを流用し、主に高速道路を走行するときに使うことが考えられていた。
object914
BMP-1の競争相手。競争に負けた後、ロシア空挺軍に採用されロシア空挺軍用のobject914bも作られた。
object915(BMD-1)
BMD-1の試作車、もしくはBMD-1。BMD-1(БМД-1;Объект 915)は、ソビエト連邦の歩兵戦闘車(IFV)。BMDとはロシア語で空挺戦闘車(Боевая машина десанта)を意味し、空中投下が可能なように設計された装甲車両である。従来、ソ連空挺軍(現 ロシア空挺軍)にはASU-57などの自走砲が配備されていた。しかし、こうした空挺車両は既存の装甲車両を流用した車体に過ぎず、また兵員の輸送が考慮されていなかった。
また、1962年のキューバ危機ではアメリカ軍がカリブ海に迅速に戦力を展開できたのに対し、ソビエト連邦軍は緊急展開に時間を要したため、ソ連は外交的に優位な立場に立つことができず、キューバからのミサイル基地撤去という結末を迎えた。
こうした事態から空挺軍の装備を抜本的に見直す必要が生じ、1965年にヴォルゴグラード・トラクター工場で空挺部隊専用の装甲車両の設計が始まり、1968年に試作車両が完成。翌1969年にはBMD-1として制式化され、量産と配備が開始された。
object916(BMD-2)
1979年12月のアフガニスタン侵攻作戦と、その後のムジャヒディン(回教徒ゲリラ)との戦闘に投入された経験から、BMD-1空挺戦闘車の主砲である30口径73mm低圧滑腔砲2A28「グロム」(Grom:雷鳴)は、対ゲリラ制圧戦闘ではその短い有効射程と低い命中精度、擲弾の低い威力が問題とされた。
そこでBMP-2歩兵戦闘車の登場に倣って、これと同じ80.5口径30mm機関砲2A42を搭載する空挺戦闘車の開発が1983年よりヴォルゴグラード・トラクター工場で始められ、1985年から量産に入った。
30mm機関砲を装備する新型砲塔をBMD-1空挺戦闘車とほぼ同じ車体に搭載した本車は、「BMD-2」(オブイェークト916)と称された。
BMD-2空挺戦闘車の砲塔はBMP-2歩兵戦闘車とは違って1名用のものであるが、武装の2軸安定化装置が装備され、走行間にも30mm機関砲や同軸の7.62mm機関銃PKTをもって目標に有効弾を集中できる。
主砲の30mm機関砲2A42は550発/分の発射能力を有しているが、BMD-2空挺戦闘車に搭載している弾薬数はスペースの関係から300発となっている。
30mm機関砲弾は弾種毎に2つの装弾トレイに区別して充填され、発射弾種の切り替えは機関砲装填口へのトレイの継ぎ替えで行われる。
通常、徹甲弾180発と高性能榴弾120発の組み合わせで砲弾は搭載されている。
また砲塔上面には9M111/9M113半自動誘導対戦車ミサイルの発射機を取り付けることができ、3発のミサイルを車内に搭載する。
BMD-1空挺戦闘車では車体前端両側に7.62mm機関銃PKTが固定装備されていたが、BMD-2空挺戦闘車では左側の機関銃が廃止され右側1挺のみとなっている。
固有の乗員は操縦手、車長兼砲手の2名で、その他に5名の空挺隊員を搭乗させることができる。
車体最後部は機関室となっており、5D20 V型6気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力240hp)を縦置きに搭載している。
BMD-2空挺戦闘車は、BMD-1空挺戦闘車に比べて戦闘重量が約700kg増加したため路上最大速度がBMD-1空挺戦闘車の70km/hから60km/hに低下しているが、逆に路上航続距離はBMD-1空挺戦闘車の320kmから500kmに大きく延伸している。
BMD-2空挺戦闘車はロケット・ブースター式着地緩衝システム付きパラシュート降下装置PRSM925を用いて、Il-76またはAn-22大型輸送機より高度500~1,500mからパラシュート投下できる。
乗員は別途パラシュート降下し、着地点で本車に乗り込むようになっている。
BMD-2空挺戦闘車は現在は生産が停止されているが、BMD-1空挺戦闘車等と共に空挺部隊での配備と運用は現在も続いている。
object924
BMDベースの車体に122mm 榴弾砲を搭載した駆逐戦車。反動に弱いことが指摘されボツ。
object925(BTR-D)
BTR-D(ロシア語:БТР-Д)は、ソビエト連邦で開発された装甲兵員輸送車(Бронетранспортёр;略称:БТР)。BMD-1から砲塔を取り外し、車体を延長して乗員数を増加させた型である。BMDと同様に、空中投下が可能なように設計されている。1974年採用。2013年以降、後継のBTR-MDに順次置き換わっていく予定。
BTR-Dは、BMD-1の車体を元に設計されているが、全長が483mm延長されている。操縦席は車体前方の中央に位置し、その両側には機関銃手各1人が位置し、PKT7.62mm機関銃を操作する。弾薬搭載数は、機関銃弾×2,000発である。
兵員室には完全武装の空挺兵1個分隊(10人)を搭乗させて輸送できる。兵員の乗降は、天井の2ヶ所のハッチと後部の大ハッチを通して行われる。車体には2ヶ所の銃眼が存在する。
他車両との通信用に、R-123M無線機が設置されている。煙幕展開用に、熱煙幕発生器と発煙弾発射機902V×4基が設置されている。消火装置とNBC防護システムも設備されている。
object926(BMD-1 KSh)
BTR-Dをシャーシに使った大隊級の指揮・幕僚車。R-123無線機×2台を搭載。
object932(BREM-D)
BTR-Dをシャーシに使った修理兼回収車。クレーン、牽引機、鋤、溶接機を搭載していた。
object934
PT-76の後継として開発された100mm滑腔砲2A48を搭載した水陸両用軽戦車。
object937
空挺部隊向けのBMP-2に対応する計画。object934のシャーシを流用していたがモックアップだけに留まり、最終的にプロジェクトはBMD-3に進化した。
object940
空挺部隊用に1976年に開発された戦車。水陸両用で水上で10㎞を出すことができたが不採用に終わった。
object950(BMD-3)
BMD-3は、1980年代中盤、A.シャバリン主任設計師により開発され、1990年にソビエト連邦軍の装備として採用された。BMD-3では、空挺兵を内部に収容したまま空中投下が可能なように設計されている。
object952(2S25 SPRUT-SD 125mm SPG)
2S25は、1990年代初めに開発が開始され、設計と開発作業はエカテリンブルクの第9砲兵工場で行われた。当初はIl-76 キャンディッド輸送機から搭乗員を乗せたまま投下することを目的とした空挺軍向けの装備であったが、水上浮航能力を標準で備えていることもあり、PT-76に替わる軽戦車として、また、2S1および2S9自走砲に替わる上陸作戦時の対戦車・火力支援用に海軍歩兵(ソ連・ロシアの海軍陸戦隊)部隊での運用も検討されていた。
ロシア連邦軍では2015年までに58両を導入する予定であったが、2010年4月9日、ロシア国防省国防次官であるウラジーミル・ポポフキン上級大将は、2S25についてオブイェークト195(T-95)・BMD-4などと共に調達計画を断念する、と発表した。
これは後に修正され、2012年1月25日、海軍歩兵向けに2S9自走砲の更新として、2S25を今年までに10両配備する方針が発表された。
object955(BTR-MD)
BMD-3のシャーシに基づいた歩兵戦闘車。砲塔はないが、13人の兵士を輸送できる。
object958
BMD-3の車体に基づくNBC偵察車。線量計などが搭載されていた。
object960(BMD-4)
BMD-4空挺戦闘車はBMD-3空挺戦闘車の火力を強化するために、BMP-3歩兵戦闘車と同じ武装を装備するトゥーラの制御システム開発設計局(KBP)製の「バフチャー(Bakhcha:スイカ)U」砲塔を搭載したタイプであり、「BMD-3M」とも呼ばれる。
本車の開発は、一連のBMD空挺戦闘車シリーズの開発を担当したヴォルゴグラード・トラクター工場(VTZ)設計局が手掛けており、1990年代後期に設計が完了したものと見られている。
BMD-4空挺戦闘車は旧式化したBMD-1/BMD-2空挺戦闘車を置き換える目的で開発されたもので、2004年の終わりから部隊配備が開始されているが、ロシア政府の財政難等で2010年に一旦調達が中止された。
しかし2012年末に調達が再開されることになり、2020年までに最低1,000両が生産される予定になっている。
なお2005年にVTZが経営破綻したため、クルガン機械工場(KMZ)設計局の手で2008年に改良型のBMD-4M空挺戦闘車が開発されており、現在はこちらのタイプに生産が移行している。
object975
T-100兵装を用いた軽戦車の計画案であり、1960年代中盤に、第100研究所とGSKB-47 (国立特殊設計局)によって共同開発されていました。
本案には素晴らしい装甲が施されており、正面に被弾した場合であれば、距離を問わず 90mm砲弾に耐え得るレベルでした。
(ゲーム内解説より)
object1015
1958年にクタイシの自動車メーカーで試作された装甲車。BTR-60の競合相手だったが負け不採用。
object1020
object1015が不採用だったのにもかかわらずプロジェクトは放棄されずいくつかのアイデアの開発が続けられた。作業を簡素化及び高速化するためにobject1015のアイデア等を利用することが提案された。基礎はobject1015なものの大部分は作り直した。全体的なレイアウト、一部の機能などを保持しつつ計画は進んだ。軍の要請によりobject1020は輸送機に搭載できる能力も求められた。開発作業は1963年の数か月間続いたが同年末にはプロジェクトは中止されてしまった。
object1040
object1020の開発は中止になったが戦闘車両の開発は終わっていない。object1040は対空ミサイルシステムまたはその他軍事機器の基礎となることが提案された。object1015やobject1020は試験場へ到達することは出来なかったがobject1040は試験場へ赴きその能力を発揮する事ができた。だが不採用。
object1200
1964年に試作された装甲車。73mm砲、同軸に7.62mm機関銃、9K111を搭載する予定だった。BMP-1の競合相手だったが雪上だと大きく行動が制限されてしまい不採用に。
主な引用
引用:https://wikiwiki.jp/warthunder/
引用:https://wikiwiki.jp/wotanks/
引用:https://twitter.com/project1144
引用:http://combat1.sakura.ne.jp/
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/
引用:https://ru.wikipedia.org/wiki/
T110重戦車計画に関する新説
アメリカのT110重戦車群の史実に関して一部資料では従来の参考元と異なる見解が与えられている。
1954年のデトロイトの新型重戦車会議では、(鉄道トンネルの世界基準である)ベルントンネルの通過できるサイズに収める事、2年以内に試作車両が製造できる事が必要条件とされた。
会議ではTS-2、TS-5、TS-6、およびTS-31などが提示され、その中で開発継続が決定されたのがTS-31であった。
TS-31は車高の低い戦車ではあったが、狭いベルントンネルに収まるサイズでは無かった。
クライスラー社から提案されTS-31より僅かに小型化した改修案。
こちらの案では車長はエンジンの上に座るような搭乗員配置となっており、車長が高温に悩まされた可能性がある。
しかもこれでもベルントンネルの通過にはサイズが大きすぎた上に、製造担当のデトロイト・アーセナルから操縦手席の確保が困難であるとして却下された。
TS-31への回帰したようなデザインの改修案。
ただし、この案では射撃時の主砲の反動で車長が圧殺される可能性があり、それを避けるためには車長に窮屈な座り方を強制する事になったので却下された。この案でも、副砲塔の天辺がベルントンネルの天井に当たってしまい、横幅も広すぎる。
製造担当のデトロイト・アーセナルが提案した改修案。この案では、トランスミッションが後部に配置されている。
しかし、操縦手を囲むように車体正面が大型燃料タンクで埋め尽くされており、もちろん却下された。また、高さ、幅ともに基準を満たしていない。
本ゲームにおけるE3(とE4)と同じデザインの案。こちらも、トランスミッションが後部に配置されている。
この改修案ではエンジンのメンテナンス性の向上を図ろうとしたが、車長席に干渉しないようにすると剛性に欠ける事が判明し、車長席下から車体後部をまたぐ形でエンジンを配置した。
車高はぎりぎり目標を達成したものの、横幅がベルントンネルの基準をクリアできず、この案は却下された。
本ゲームにおけるE5と同じデザインの案。
無砲塔に固執する必要性が無い事にようやく気付いたクライスラー社の提案であり、装填手を1人降ろして搭乗員を4人とし、大幅に戦闘室内を圧縮する予定だったようだ。
M103とターレットリングのサイズを合わせて互換性を持たせたが、やはり横幅がベルントンネルが通過できるようなサイズに収めきれず、計画は中止となった。
参考:World of Tanks Wiki - T110E5
M4シャーマン ~バリエーションと派生型~
M4シャーマンは昔から汎用性と機動性と装甲とを兼ね備えた戦車と言われてきた。特筆すべきはその汎用性で、その多さたるや未だバリエーションと派生型を完全にまとめた日本語文献やサイトがないほどである。ここでは全てと断言はしないができるだけそのバリエーションや派生型をまとめて行く。(基本的には軍用のもののみを取り上げる)
その前に、M4中戦車、もといアメリカ陸軍の命名規則について知っておく必要がある。皆さまよくご存知の「M4A3E8」を例に出す。まず「M」だが、実はこれは正式な意味はわからない。これは後述する。その次の「A」だが、これは「Advanced(進化)」を意味する。そして最後の「E」、これは「Experiment(実験)」を意味する。つまりM4A3E8はM4の3番目の進化型の8番目の実験車になるのだ。こう言った命名規則は米国陸軍命名システムMIL-STD-1464Aで定められている。そして件の「M」だが、この米国陸軍命名システムMIL-STD-1464Aにこの「M」についての言及がないのだ。通説では「Model(モデル)」の「M」とされているため、ここもそれに準ずることにする。この命名規則に則り、M4シリーズを紹介していく(実際はこの「M4A3E8」は試作名称であるので、「M4A3(76)W HVSS」とするのが正しい。)ちなみに、バリエーションと派生型の違いであるが、ここではバリエーションは上記の命名規則に則った名前がついているもの(例外あり)、派生型は上記の命名規則に則った名前がついていないものとする。
モチベーションが足りません...タスケテ
予備知識
M4シャーマン系統を知る上での予備知識をここにまとめる。
アメリカ陸軍の命名法は上で述べたとおりであるが、ではイギリス軍はどうだったのだろうか。イギリスはレンドリース法によりアメリカから輸出されたシャーマンのうち、17,184両を受け取っている。これは各国に輸出、供与されたシャーマンの中で78%もの割合を占め、アメリカが生産したシャーマンの中では34%を占めている。イギリスはM4、M4A1、M4A2、M4A4などをアメリカから受け取っていたが、イギリスはアメリカでの名称をそのまま用いるのでなく、独自にウィリアム・シャーマンから取った「Sherman」という名称を用い、M4を「Sherman I」、M4A1を「Sherman II」などと命名して使用した。また、75mm砲ではなく76mm砲を搭載したシャーマンは末尾に「A」を、105mm砲を搭載した支援用シャーマンである場合は末尾に「B」を、17ポンド砲を搭載した場合は末尾に「C」のアルファベットを付し、またHVSSサスペンションである場合は末尾に「Y」のアルファベットを付した。イギリス軍での名称は全角の丸括弧内に表記されている。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
1945年8月9日付の「Army Service Forces Catalog ORD 5-3-1」からのシャーマンシリーズの価格表。
車両名 | 価格 |
---|---|
M4(75)VVSS | 49,173ドル |
M4(105)VVSS | 46,309ドル |
M4(105)HVSS(T66履帯) | 49,621ドル |
M4(105)HVSS(T80履帯) | 53,391ドル |
M4A1(75)VVSS | 47,725ドル |
M4A1(76)VVSS | 51,509ドル |
M4A1(76)W HVSS(T66履帯) | 54,062ドル |
M4A1(76)W HVSS(T80履帯) | 45,814ドル |
M4A2(76)W VVSS | 45,863ドル |
M4A2(76)W HVSS(T66履帯) | 48,029ドル |
M4A2(76)W HVSS(T80履帯) | 50,928ドル |
M10 | 40,906ドル |
M4A3(75)dry VVSS | 44,556ドル |
M4A3(75)dry HVSS(T66履帯) | 47,003ドル |
M4A3(75)dry HVSS(T80履帯) | 49,997ドル |
M4A3(105)VVSS | 45,776ドル |
M4A3(105)HVSS(T66履帯) | 49,088ドル |
M4A3(105)HVSS(T80履帯) | 52,836ドル |
M4A3(75)W VVSS | 44,556ドル |
M4A3(75)W HVSS(T66履帯) | 47,003ドル |
M4A3(75)W HVSS(T80履帯) | 49,997ドル |
M4A3(76)W VVSS | 47,754ドル |
M4A3(76)W HVSS(T66履帯) | 51,066ドル |
M4A3(76)W HVSS(T80履帯) | 54,836ドル |
M4A3E2 | 56,812ドル |
M10A1 | 43,677ドル |
M36 | 51,290ドル |
M7B1 | 40,524ドル |
M4A4 | 46,467ドル |
M4A6 | 64,455ドル |
M32シリーズ | 56,217ドル |
この価格表に載っているM4A3(75)Dryの3両、「M4A3(75)dry VVSS」に関しては前期型だと判断できるが、「M4A3(75)dry HVSS」に関してはM4A3(75) HVSSに乾式弾薬庫装備の車両があったとの記述をいくら探しても見つけられず、少し謎である。
出典・参考元・画像引用元
・Subjects Sherman's 1945 prices
ここではシャーマンの生産に携わった各会社ごとに、シャーマン生産の詳細を紹介していく。
- American Locomotive(ALCO)社
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 アメリカン・ロコモティブ社 M4(75) 1943年2月~11月 2,150両 アメリカン・ロコモティブ社 M4A2(75) 1942年9月~1943年3月 150両 アメリカン・ロコモティブ社 M36 1943年10月~12月 413両 M10A1からの改造 アメリカン・ロコモティブ社 M36B2 1945年5月~戦後 672台 M10からの改造
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
・Wikipedia
・型式別生産量
- Baldwin Locomotive Works(BLM)社
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス社 M4(75) 1943年1月~12月 1,233両 ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス社 M4A2(75) 1943年10月 12両
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
・型式別生産量
- Chrysler/Chrysler Defense Arsenal (CDA)社
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4 Composite 1943年8月~12月 1,676両 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4(105) 1944年2月~8月 800両 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4(105)HVSS 1944年9月~1945年5月 841両 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4A3(105) 1944年3月~9月 500両 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4A3(105) HVSS 1944年10月~1945年6月 2,539両 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4A3(76)W 1944年3月~8月 1,400両 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4A3(76)W HVSS(M4A3E8) 1944年9月~1945年4月 2,617両 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4A4 1942年6月~1943年8月 7,499両 クライスラー/デトロイト戦車工廠 M4A6 1943年10月~1944年1月 75両 当初の計画では775両生産する予定であった。
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
・型式別生産量
- Federal Machine & Welder(FMW)社
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 フェデラルマシーン・アンド・ウェルダー社 M4A2(75) 1942年12月~1943年10月 540両
・型式別生産量
- Fisher Body/Fisher Tank Arsenal (FTA)社
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M4A2(75) 1942年4月~1944年4月 4,614両 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M4A2(75) 1943年11月~1944年5月 1,000両 後期型 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M4A2(76)W 1944年5月~9月 1,594両 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M4A2(76)W HVSS(M4A2E8) 1944年9月~1944年5月 1,300台 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M4A3(75)W 1944年2月~1945年3月 2,410両 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M4A3(75)W HVSS 1944年末~1945年中頃? 651両 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M4A3(76)W 1944年9月~12月 525両 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M4A3E2 1944年5月~7月 254両 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M10 1942年9月~1943年12月 4,993両 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M10A1 1943年9月~11月 375両 フィッシャー・ボディ/グランド・ブランク戦車工廠 M35 Prime Mover 1944年1月~6月 209両 M10A1からの改造
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
・Wikipedia
・型式別生産量
・戦車研究室
- Ford Motor Company(FMC)
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 フォード・モーター M4A3(75) 1942年6月~1943年8月 1,690両 前期型 フォード・モーター M10A1 1943年9月~1942年10月 1,038両
・日本語版wikipedia
・Wikipedia
・型式別生産量
- Lima Locomotive Works(LLW)
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 ライマ・ロコモティブ・ワークス社 M4A1(75) 1942年2月~1943年8月 1,655両
・型式別生産量
- Montreal Locomotive Works(MLW)社
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 モントリオール・ロコモティブ・ワークス 25pdr SP SextonI 1943年(詳しい月は不明) 125両 モントリオール・ロコモティブ・ワークス 25pdr SP SextonII 1943年~45年(詳しい月は不明) 2,025両 モントリオール・ロコモティブ・ワークス グリズリー巡航戦車 1943年8月~1942年(詳しい月は不明) 188両 モントリオール・ロコモティブ・ワークス Ram Mk.I 1941年11月~1942年2月 50両 モントリオール・ロコモティブ・ワークス Ram Mk.II 1942年2月~1943年7月 1,899両 Ram OP/Command含む
・戦車研究室
・Wikipedia
・Wikipedia
・Wikipedia
・Tank-Encyclopedia
- Pacific Car & Foundry(PCF)社
- 出典・参考元・画像引用元
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 パシフィック・カー・ファウンドリー社 M4A1 1942年5月~1943年11月 926両
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
- Pressed Steel Car(PST)社
- ・型式別生産量
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 プレスド・スチール・カー社 M4A1 1942年3月~1943年11月 3,700両 プレスド・スチール・カー社 M7B1 1944年3月~1945年2月 826両
・Wikipedia
- Pullman Standard(PS)社
製造メーカー 製造シャーマン 製造期間 製造台数 備考 プルマン・スタンダード社 M4 1943年5月~8月 689両 プルマン・スタンダード社 M4A2 1942年4月~1943年8月 2,737両
出典・参考元・画像引用元
・型式別生産量}}
ハイバッスル砲塔 | ローバッスル砲塔 |
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砲塔後部の張り出しが後退しているタイプがローバッスル砲塔、持ち上げられているタイプがハイバッスル砲塔である。操縦手用のハッチが馬蹄型で突き出ていた際はほとんどこのローバッスル砲塔であったが、操縦手用の大型ハッチ導入に伴い、砲塔後ろの出っ張りが上がっているハイバッスル砲塔に取り替えられた。そもそもこの張り出しは何かといえば、無線機の収納スペースである。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
VVSS(Vertical Volute Spring Suspension) 垂直渦巻スプリング・サスペンション | HVSS(Horizontal Volute Spring Suspension) 水平渦巻スプリング・サスペンション |
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M4シャーマンシリーズ全体を通して履いているサスペンションである。上写真のようなものがVVSSにあたる。ただ、VVSSサスペンション自体も生産時期などで見た目が細かく分かれるため、より一般的な写真のものを覚えるのが良いだろう。 | 主に後期型などに導入されたサスペンション。従来のVVSSで垂直に配置されていた渦巻スプリングを水平に配置することでストローク量の増大を図った。VVSSに比べて緩衝能力が向上している。1944年9月以降の生産車はこのサスペンションを履いていることがほとんどである。 |
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
時折、末尾に「W」の文字がある車両があるが、「W」は「Wet」の略で、湿式弾薬庫が導入されていることを示すアルファベットである。湿式弾薬庫というのは不凍液(グリセリン溶液)で満たして引火を防ぐ方法を用いた弾薬庫で、湿式弾薬庫以前は乾式弾薬庫が主だったが、乾式弾薬庫では弾薬庫に被弾した際に火災や爆発が発生する確率が高く、かなり危険性が高かった。しかし、湿式弾薬庫を導入したことで、炎上率は10~15%低下し、また火災が発生しても不凍液が火災の進行を遅らせるため、乗員の脱出が行いやすくなるなど乾式弾薬庫と比べて利点が多くあり、のちのシャーマンシリーズの標準となっている。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
M34砲架 | M34A1砲架 |
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シャーマンの75mm砲搭載型には2つの砲架が存在する。M34砲架とM34A1砲架である。M34砲架は初期型のシャーマンに多く見られる砲架であり、1942年後半ごろまで生産されていたとされる。しかしM34砲架には砲手用の直接望遠照準器がなく、砲塔上部にある潜望鏡を使って照準を行なっていた。しかし、やはりそれでは不便であるとして砲架の砲身横に直接望遠照準器を装備した改良型のM34A1砲架が開発された。M34A1砲架は1942年10月に正式化された。しかし、すでに大量に配備されているM34砲架をすぐにM34A1砲架に置き換えるのは難しかったため、「クイックフィックス(その場しのぎなどの意味を持つ)」キットが作成され、M34砲架に砲手用の直接望遠照準器を装備できるようにした。M34A1砲架は1943年3月に最初に生産ラインに入り、4月までに完全にM34砲架と入れ替わった。
「クイックフィックス」キットによって直接望遠照準器を装備したM34砲架
105mm榴弾砲用M52砲架 |
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105mm榴弾砲を搭載した試作車であるM4A4E1は反動機構系に問題を抱えていた。これらの問題はM4A4E1のT70砲架に原因があるとして、解決のためにM52砲架が開発された。このM52砲架は第二次試作車であるM4E5に搭載され、以前のT70砲架と比べ優れていたため、M52砲架を搭載したM4(105)、M4A3(105)はすぐさま生産に移され、4,600両以上が生産された。
T23砲塔76mm砲用M62砲架 |
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M62砲架はT23砲塔の76mm砲用に設計された砲架で、回転体がないという点で前述の2つの防盾と異なっている。防盾は厚さ3.5インチ(8.9cm)であった。1944年後半、防盾に幌を取り付けるために防盾に幌装備用の調整が施された。上記の写真の防盾に取り付けられている防盾幌は1945年初頭に生産された。
1944年後半以後 | 1944年後半以前 |
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幌取り付け用の突起が取り付けられているのがわかる。 | それ以前の時期の防盾には突起などは取り付けられていない。 |
出典・参考・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4(Sherman I)
航空機用であったコンチネンタルR-975空冷式ラジアルエンジンを車載用に改良したエンジンを搭載したM4シリーズの初期型。車体は溶接されている。ハッチは馬蹄型をしており前に突き出ていた。主武装は75mm M3戦車砲で、副武装に12.7mm機関銃(砲塔真上、装着しているものと装着していないものがある)と7.62mm機関銃(主砲同軸、車体)が搭載された。ブレスド・スチール・カー社、ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス、アメリカン・ロコモティブ社、ブルマン・スタンダード社でコンポジット型のぞく5,072両が生産された。1944年6月のノルマンディー上陸作戦から秋頃まではA1と共にアメリカ軍の主力であったが、同年末頃から次第にA3に更新されていった。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・日本語版Wikipedia
・戦車研究室
バリエーション
- アメリカ
76mm砲を搭載したM4。65発の76mm砲弾を収容でき、湿式弾薬庫を搭載していた。車体に搭載されている砲弾を素早く砲塔に持ってこれるように砲塔バスケットは撤去された。1943年12月から1944年2月の間のどこかでM4(76)Wはクライスラーによって制作され、1945年の夏には生産が開始される予定だったが、ヨーロッパでの終戦に伴い、生産計画も中止された。
出典・参考元・画像引用元
・Military History Encyclopedia on the Web
派生型
- アメリカ
M4は生産工場や時期により仕様が異なる数枚の圧延鋼板と鋳造部品を溶接接合していた。もちろんこれでは強度が通常の溶接装甲と劣るため前線改修用の前面増加装甲キットが開発されたり、生産途中から後部は溶接型のまま車体前面のみをM4A1と同様の一体鋳造型に変更したコンポジット型が製造された。この内、後者が本車である。M4の車体前面は出っ張ったハッチなどで溶接が複雑化していたため、M4A1の車体前面を持ってくることにより車体前面の大量の溶接の工程を簡単にした。1943年5月から翌年8月までにデトロイト工廠で1,676台が生産された。ちなみに、「Sherman Hybrid」とは英国での名称である。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
M4E6 M4A1の項目に記述
M4E5 M4A4の項目に記述
支援用として開発された105mm榴弾砲搭載型M4。車体正面の傾斜が元のM4の56°から47°になり、元のM4にあった操縦手ハッチの出っ張りがなくなっている。これは生産の簡略化などの目的もあり、中期から後期生産型のM4や76mm砲搭載のM4、また本車のような105mm榴弾砲搭載型にもこの改良が施されている。800台がクライスラーによって生産された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4 Compositeに105mm榴弾砲を搭載した支援用戦車。M4 CompositeをベースとしたM4(105)は極々初期型である。
出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE
足回りがVVSSに換装されたM4(105)。それ以外は特に変更点はない。841台がクライスラーによって生産された。
出典・参考元・画像引用元
SHERMAN MINUTIA WEBSITE
T90 HMCのコンセプト。コンセプトであり実車の写真ではない。
T36 155mm榴弾砲を搭載したM4。アメリカ陸軍は、実戦で遭遇するであろう様々な野戦要塞に対抗して幾つかの155mm榴弾砲の開発を進めていた。この榴弾砲群は本車に搭載されるT36迫撃砲の元となるT9迫撃砲を除き全て前装式であった。また、これらは全て従来の戦車砲と同じような設計だったために、砲塔などの設置にも適していた。こう言った背景があり、1945年1月2日に委員会はM4シャーマンをベースとした自走迫撃砲の開発を承認、「T90 mortar motor carriage」と名称を付し、少し遅れてプレスド・スチール社がT90 HMCの砲塔とモックアップを作成する契約を結んだ。
T90 HMCに搭載された155mm T36迫撃砲
T9迫撃砲を搭載したT90の試作砲塔のテストでは、砲架が砲塔内のスペースを使い過ぎていることが指摘された。T9迫撃砲は同心式駐退機(駐退機と砲身を同化させた駐退機)を搭載するという改良を加えられ、この時点で、T9迫撃砲はT36迫撃砲と改称された。俯角は-10°、仰角は+70°が望ましいとされ、砲塔もこれに合うように設計された。不運にも、T90 HMCはモックアップが完成した時点で第二次世界大戦は終戦を迎え、アメリカ陸軍は装甲化された自走砲、重自走砲などへの興味をとたんに失ってしまい、1945年8月23日に計画は終了されてしまった。
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・Off The Mark: US Revamp
M4にcoincidence range finder(ステレオ式測距儀)を搭載した試験車両。砲塔両側面に飛び出たレンズが測距儀を思わせる。また、測距儀搭載時に何か不都合があったのか防盾下部が切り取られているのが写真からわかる。このM4はアバディーン試験場で撮られたと思われる写真から見て取れるところしか詳細がわからず、その他一切が不明である。
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・フタガワカサラ様のTwitter
戦車から火炎放射しても届かないところだったりがあるので、そういったところを焼くために最大400フィート(約122m)のホースを用意したもの。ホースは携帯火炎放射器(POA-CWS-H1)と接続し、戦車内の火炎放射器専用の燃料タンクを使って火炎放射を行った。詳しい戦歴などは不明だが、沖縄で使われた可能性があると言う。
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えすだぶ様のTwitter
M4 CompositにPOA-CWS-H1を搭載した火炎放射戦車。この写真では砲塔前面がみえないが、恐らく主砲を取り外し、POA-CWS-H1火炎放射器を偽の75mmの砲身のなかに隠して搭載していると思われる。POA-CWS-H1のPOAはPacific Ocean Areas(太平洋戦区)、CWSは化学兵器の意、Hはハワイと言う意味である。POA-CWS-H1は燃料をより遠くまで飛翔させるため圧縮二酸化炭素ガスを使用し燃料容量は290ガロンで油性燃料で40ヤード(約36m)、増站燃料で60~80ヤード(約55m~73m)まで燃料を飛翔させることができた。POA-CWS-H1が装備されたM4 Compositは第713戦車大隊に装備され、日本軍相手に使用された。火炎放射戦車は塹壕に立て篭もる日本軍相手に有効で、また、こう言った火炎放射は' '燃やす' 'のではなく周辺の酸素を吸い取り窒息させることがほとんどであった。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・Amazon 異形戦車ものしり大百科(筆者が持っているのは改訂版)
T26E3(M26の先行量産型)の砲塔をM4(105)VVSS 30103950号車車体に搭載したもの。1944年夏にクライスラーによって製作された。M4に90mm砲を搭載するという試みは以前からあったが、T26E3の砲塔を搭載したのは装甲の改善を意図したものでもあった。しかし、T26E3自体次期主力戦車の座が待っているというのにM4に砲塔を搭載してはT26E3の生産ラインの妨害になり、M4に搭載するならT26E3の車体に載せた方が幾分もマシであることはたしかだった。また、参考元には言及がないが、M4にT26E3砲塔を搭載するとかなり重心が高くなることは一目瞭然で、実戦での使用にも問題がありそうだった。短い試験の後、このT26E3砲塔搭載のM4(105)は不採用となった。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・Yandex Zen
M32は適当な画像が見つからなかったため、ほとんど変わらない試作車のT5の画像
T5(M32の試作車)の量産型。TRV(Tank Recovery Vehicle)とは機甲部隊に追随し、故障もしくは損傷した戦車の救出、応急修理を行うための装備である。M3中戦車のTRV型である、「M31 TRV」の後継として開発された。M4中戦車の砲塔を撤去し、半オープントップの新設計の円形の砲塔(固定砲塔)を載せて、Aフレーム型と呼ばれる全長18フィート(5.5m)のクレーンを搭載している。牽引用ウィンチは最大60,000ポンド(27.22トン)の牽引力を発揮することができ、クレーンを展開した状態で最大30,000ポンド(13.61トン)の物体を吊り上げる事がでた。また、20,000ポンド(9,072kg)までのものを吊り上げたまま移動することも可能であった。なお、クレーンで10,000ポンド(4,536kg)以上のものを吊り下げる場合には、左右3つのサスペンションボギーのうち最前部と最後部を固定する必要があり、そのための固定機構を装備している。また、車体前面に煙幕弾投射用にM2 60mm迫撃砲もしくはM1 81mm迫撃砲(携行弾数30発)も搭載していた。M32 TRVは1944年1月よりデトロイト戦車工廠(Detroit Tank Arsenal)及びプレスドスチール社において163両が生産された。
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・日本語版Wikipedia
サンプル採取用車両
先導車と思しき車両
トリニティ実験での爆心地付近の土壌サンプル採取用に改造された2台のM4。サンプル採取用車両とボンベを4本搭載した先導車と思しき車両がある。放射線遮蔽のため、車体は真っ白に塗られ、鉛の内張が設けられた。最初の試験では両車をエンリコ・フェルミとハーバート・L・アンダーソンが運転したが、フェルミの乗った車両は1.6km足らずのところで故障してしまったという。その後の両車の運命は不明だ。映像にこの車両がカラーで記録されている。
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・蛇目伍長様のTwitter
- イギリス
イギリス軍にレンドリースされたM4に17ポンド対戦車砲を載せたもの。17ポンド砲を搭載するに際して、車体機銃口が塞がれ、防盾に改良が加えられ、無線機収容用のスペースが砲塔後部に増設された。詳細な生産数は不明である。ちなみにアメリカでの「M4」は無印だが、イギリスでは「Sherman I」と名前がつけられていた。アメリカでは無印なのになぜイギリスでは「1」がつくのかと言うと、数え方の違いである。
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・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
イギリス軍にレンドリースされたM4 Hybrid(M4 Composite)に17ポンド対戦車砲を搭載した型。シャーマン・ファイアフライは実戦投入初期(ノルマンディー上陸作戦時)はVC型(M4A4型)が主流だったが、レンドリース元のアメリカでシャーマンV(M4A4)が生産終了していたこともあり、終戦までにはIC(IC Hybrid含む)型が多数を占める状態となっていた。
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・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
M4A1(Sherman II)
生産開始と実戦投入自体は一番早い型。M4と同じコンチネンタルR-975空冷式ラジアルエンジンを搭載しているが、車体は一体鋳造になり、避弾経始が向上されている。主砲は75mm M3戦車砲と副武装に12.7mm機関銃(砲塔真上)、7.62mm機関銃(主砲同軸、車体)が搭載されるなど、武装はM4と同じである。1942年3月から1943年11月にかけてライマ・ロコモティブ・ワークス、プレスド・スチール・カー社、パシフィック・カー&ファウンドリー社で6,181台(後期型含めば6,281台)が生産された。米軍向けとしては水冷ガソリンエンジン装備のM4A3が次の主生産型となったため、M4A1はイギリス連邦軍や自由ポーランド軍、自由フランス軍に供与されたが、1945年春には後期型砲塔を搭載したものが西ヨーロッパの米軍に再び供給されている。エンジンが共通であるため、M4と同じ部隊に混成配備されることもあった。当初、鋳造装甲の強度に疑問を持つ部隊に使用を拒否されたこともあったが、前期型の溶接車体よりA1の方が被弾に強いと認識された。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・日本語版Wikipedia
・戦車研究室
バリエーション
- アメリカ
M4A1の後期生産型。湿式弾薬庫や操縦手用の大型ハッチの導入などが主な変更点である。プレスド・スチール・カー社で100両が生産された。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A1の75mm砲塔を76.2mm砲搭載のT23砲塔へ換装、上記のM4A1(75)Wと同じく湿式弾薬庫に操縦手用の大型ハッチも導入された。1944年1月から翌5月までにプレスド・スチール・カー社によって3426輌(2171両とも)が生産された。戦後は各国にも供与され、特に中華民国国軍のM4A1(76)Wは搭載砲を75mm M3に載せ替えるという改造を受けている。HVSS換装型についてはM4A1E8の項を参照のこと。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・Reddit
M4A1(76)WのサスペンションをHVSSに変更、もしくはVVSSサスペンション型から改修した後期型。HVSS換装型は1944年9月の生産車から導入されている。プレスド・スチール・カー社によって1,255台が生産された。戦後、フランスを経由してイスラエルに渡り、のちのM51として誕生している。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・日本語版Wikipedia
イギリスに輸送されたM4A1の第一号車。「MICHAEL(マイケル)」とは、米マイケル購資使節団長マイケル・デュワーに因んで名付けられた。リマ機関車工場で生産されたM4A1の極初期型で、車体正面にはボールタレットの7.62mm機関銃とは別に、車体に穴を開けそこに7.62mm機関銃を2門搭載している。サスペンションも初期のVVSSである。マイケルは1942年4月にイギリスに到着した。アメリカにいた際に搭載していた75mm M2戦車砲はイギリスに到着した後に75mm M3戦車砲に換装されている。マイケルは試験車両として大戦を生き残り、現在はボービントン戦車博物館に展示されている。ちなみに、マイケルのシリアルナンバーはアメリカではT-25190であるが、イギリスに到着した際はT-74195に変わっている。これは、イギリスがシャーマン用に用意したシリアルナンバーT-74194~T-74593の内の二つ目のT-74195を与えられたからである。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
コンチネンタルR-975エンジンの代わりにフォードGAA V8エンジンを搭載したM4A1。試作車が1両のみらしく、M4A3などのフォードGAA V8エンジン搭載シャーマンのテストベッドとして使用されたと推測されるが、詳細は不明である。
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・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman
アメリカ陸軍武器科のNo.18515の命令に従って、製作されたシャーマン。アメリカ陸軍武器科は砂漠で運用中にシャーマンを考えて、1942年7月6日にシャーマンの戦闘室の冷却実験を行った。これはその際に使用されたM4A1。内部に断熱材を裏打ちし、クーラーやサーマルシールド、冷却装置を増設したが、効果はさほど出ず、また、運用はすでに砂漠から移行しつつあったため、戦闘室の冷却は優先的な問題とはならず、作業は継続されることなく終わった。
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・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman
上記のM4A1E1はアメリカ陸軍武器科のNo.18515の命令で制作された物である。そして、このM4A1E2もこのアメリカ陸軍武器科No.18515の命令で制作された。このM4A1はランドマーク(一定の地域(例えば砂漠など)を移動中に、またそこに戻ってくるための目印)などがない場所での運用を考え、shrill Research Corporationによって作成されたM6磁気コンパスの表示に基づいて、運転ルートと現在位置を記録する装置が搭載されていた。しかし、これが最大で20°のズレを起こすなどの不具合を抱えており、あまり信用できる物ではなかった。参考元には採用されたか否か書かれていないが、知名度や先述の不具合などから考えて不採用だったのだろう。また、M4A1E2は暗視装置のテストにも使用された。車体正面とフェンダーに4台の赤外線ライトを取り付けるなどの改造が行われ、1943年後半にテストされたが、試験結果は満足と言えるものではないことが判明し、不採用となっている。
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・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman
M4A1に自動油圧変速機model 95を搭載した試作車。アメリカ陸軍武器科によって1943年10月に開発が委託されたが、不採用に終わっている。
出典・参考元・画像引用元
・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman
1949年、アメリカは相互防衛援助計画(MDAP)を開始した。そして、このM4A1E6はそのMDAP用に作成されたM4A1。元となったのアメリカのBMY社の改良プランで75mm砲搭載の小型砲塔に76mm方を搭載するというものであった。改良された車体は識別のために「E4」と末尾に付され、「M4A1E4」や「M4A3E4」と呼ばれた。前述の通り76mm砲を搭載しているが、T23砲塔ではなく通常の75mm砲用砲塔である。他に、操縦手用の大型ハッチの導入など変更点は細部にある。配備先はパキスタンやインドなどで、第二次印パ戦争などに投入された。第二次印パ戦争ではパキスタンとインドは敵対していたため、同じ型の同じ戦車でドンパチやり合ってた可能性もある。ちなみに一部ではM4A1E6とされていたためこのような表現をした。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
あらゆる面を改良したR975C4エンジンを搭載したM4A1。冷却システム、整備性、オイル潤滑システムなどが主な改良点で、この改良を加えた車両を15両(17両とも)生産する予定だったが、直前で不具合が発覚し、不具合の修正に時間がかかったため1943年12月2日にこの注文はキャンセルされた。そのため、その後のM4A1にはR975C4エンジンのみが搭載されている。
出典・参考元・画像引用元
・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman
派生型
- アメリカ
M4A1の砲塔真上に多連装ロケットを配置したもの。20の発射管があり、7.2インチ(180cm)T37榴弾ロケットとT21化学ロケットを発射することができる。75mm砲とロケットランチャーは連動しており、75mm砲を動かすことによりロケットランチャーを動かすことができた。またロケットランチャー内のロケットは1発づつもしくは斉射が可能で、必要に応じてロケットランチャーを投棄することも可能だった。T40は元々ノルマンディー上陸作戦での使用を目的としていたが、テストの遅延で作戦には間に合わず、その後1944年12月にアルデンヌ戦線に30台のT40が配備された。しかしバルジの戦いの勃発により一時的に安全な後方に戻された。バルジの戦いの後、T40はイタリア北部に移されたが、ここでも戦闘を経験することなく終戦を迎えた。陸軍はシャーマンをT40に改造するための改造キットを約1,000個注文したが、実際に製造されたキットは2つだけで、最終的に生産の遅延からこの注文もキャンセルされた。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
T40ウィズバンの改良型で、M4A1をベースに、砲塔上にロケットを装備した。ランチャーの装甲は正面25mm、上下面が12.7mmだった。ランチャー自体の長さは1.2mで、装弾数は10発だった。また、不要になった際は、車内からの油圧で投棄が可能だった。ランチャーは砲塔と共に回転し、仰俯角は独自に-5°~+45°取ることが可能だった。実験用だったのか、実戦に投入されることはなかった。
出典・参考元・画像引用元
・Tank Encyclopedia
・えすだぶ様のTogetter
・Weapons and Warfare
・当時のT73のフィルム
T40 Whizbangの多連装ロケットをカリオペのM8ロケットに換装したもの。1944年12月にイタリア戦線で撮影された写真(上)があるため、実戦投入されていることは分かっているが、イマイチ資料がない。現地改造の線が濃いだろう。ちなみに、「T40 Calliope」という名称は筆者が「T40 Whizbang」との名称被りを防ぐため、勝手に作った造語である。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
シャーマンに7.2inch(183mm)ロケットを搭載する最初の試みの一つ。シャーマンの車体前部に20門の7.2inchロケットを持つ箱型のランチャーを装備した。この箱型ランチャーは変速機部からのびる俯仰角を調整できる一対のアームに支えられている。このシャーマンは「カウキャッチャー(牛捕獲機)」という渾名がつけられたという。砲塔上部へ設置することも考えられたが、重心に不安があるために考え出された配置だった。しかし、この配置でロケットを発射した場合、排煙が操縦手や砲手の視界を奪う可能性があり、最悪車内に侵入してくるのであまり合理的とは言えず、不採用となった。
出典・参考元・画像引用元
・War Thunder Forum
3枚目は第6海兵連隊によって沖縄戦で使用されるM4 M19flotation
M4A1にM19浮揚装置「リッシェ・デバイス」を装着した型。M19浮揚装置は、6つの大きな鋼製フロートで構成されており、それぞれを縦に繋げて一つのフロートとしている。フロートがシャーマンの視界を邪魔することがないため、フロートをつけていても戦闘が可能で、また被弾にも強かった。しかし、上層部にはあまり歓迎されなかった。というのも、この6つのフロートは合計で15tあるほか、M19を搭載したシャーマン1台に対してDD戦車2台を出荷することができたからである。また、このM19浮揚装置は取り付けに20000人/時(1時間で取り付けを完了させるのに、20000人必要ということ)かかった。一応実戦にも投入され、1945年4月1日の沖縄戦開始時には、第1海兵師団第1海兵戦車大隊C中隊の第1・2小隊、第6海兵師団第6戦車大隊A中隊第2小隊、第711戦車大隊B中隊のシャーマンがM19を装備していたが、目立った結果は残せずに終わった。
出典・参考元・画像引用元
・Reddit
・Chicago Boyz
M4A1 CDLとは、M4A1を基(他に、M4A4型、M3 ree型、マチルダII型、チャーチル型がある)にしてアメリカで試作された歩兵支援戦車。元々はイギリス発祥で、最初の試作車もマチルダIIを基にして制作された。強力なカーボンアークランプを新設計された砲塔に搭載しており、夜間に敵の位置を示すなどの用途に使用される予定だった。このプロジェクトは極秘とされたため、「Canal Defense Light」(直訳すれば運河防衛灯)と言う欺瞞名称を使用することでこの計画の漏洩を防いだ。1942年にアメリカ軍にこのプロジェクトの情報が渡ると、アメリカは早速興味を示し、アイゼンハワー将軍とクラークがイギリスでのデモンストレーションの見学をした。アメリカ軍はこれを気に入り、すでに当時旧式化していたM3 reeにこれを搭載することを思いついた。また、生産にあたっても一箇所で部品を作り、生産することは危険であるため、三箇所の工場で部品を製造し組み立て生産することになった。CDL戦車を生産するにあたり、専用の戦車大隊が6つ編成され、M3 CDLはそこに配備された。そんな中、大戦中にM3 CDLの後釜として採用されたのはM4だった。M4にはM3 reeなどとはまた違う新型の砲塔が搭載された。これはtype Eと呼ばれ、前面にアークランプを通すための二つのシャッター付きスリットを備え、電力はエンジンとは別に発電機を備えており、M4本体のエンジンを切ることによって自動的にアークランプ用の発電機に電力が切り替わる仕組みとなっていた(そのため、走行中に点灯させることは不可能であったと思われる)。また、Type E砲塔中央にある球形の張り出しは7.62mm機関銃用のボールマウントで、これはアークランプで仕切られた砲塔中央の区画に座る車長が操作したと思われる。砲塔天板には車長用のハッチも備わっていた。しかし、M4を基にしたCDLは試作の域を出ず、アメリカ軍で使用されたのはM3 CDLのみだった。しかし、そのM3 CDLも実戦を経験することなく終わってしまっている。
M3 CDLがサーチライトを発光させている一場面。この通り非常に強力な光を放つことができた。
出典・参考元・画像引用元
・Tank Encyclopedia
こちらもM4A1を基にして試作されたCDLと思われる。 不採用となったM4 CDLの改良として試作され、主に砲塔が改造されている。まず、M4 CDLでは円形であった砲塔をT23砲塔を大型化したような形に改め、二つあったスリットも一つになり、余ったスペースにM24にも搭載された75mm M6砲を搭載している。これは自衛用であろう。別にアークランプがあるにもかかわらず、75mm砲用に75mm砲弾を83発積むことが可能だった。しかし、本車も採用されることはなかった。
出典・参考元・画像引用元
・Weapon News
T105 Rocket Launcher M4A3の項に記述
76mm T1(76mm M7戦車砲の軽量化版)砲を搭載したM4A1。1941年9月になってアメリカ陸軍武器科はM4シャーマンの火力を強化したいと考えた。75mm M3砲の代替として76mm M7砲(M10やM6に搭載された戦車砲)が提案されたが、M4に搭載するには重すぎるため、その軽量化版として76mm T1砲の開発が始まった。76mm T1砲はM4に搭載されていた75mm M3砲の砲架に合うよう制作されていたので、M4の砲架に難なく取り付けることができた。1942年前半に2基の76mm T1砲が完成し、うち1基は固定され試射が行われ、うち一基はM4A1に搭載され、アバディーン試験場で試験が行われた。双方のテストの結果76mm T1砲はシャーマンに搭載し使用するのに問題はなく、満足のいくものであると結論付けられた。その後、76mm T1砲は76mm M1砲として制式化され、再度M4A1に載せられることになる。
出典・参考元・画像引用元
・War Thunder Forum
76mm T1砲を制式化した76mm M1砲を搭載したM4A1。76mm M1砲を搭載したM4A1は引き続きアバディーン性能試験場で試験が行われた。砲塔内が76mm砲の砲閉鎖機構などで少し窮屈なため、76mm M1が搭載された際に砲塔を前面に2インチ(約5cm)ほど延長させ、砲塔後部と砲閉鎖機構との間に少しゆとりを持たせ、砲塔後部の張り出しの中に入っている無線機との干渉を防いだ。76mm砲弾は83発が収容可能だった。12両のM4A1(76M1)がプレスド・スチール社で制作され、装甲部隊に配備されたのち実戦試験に供された。部隊からの最終レポートは1943年4月5日に提出され、砲塔内の窮屈さが指摘され、また、そもそも装甲部隊は対戦車能力が高い戦車にそれほど興味を持っていなかったため、結局本採用とはならず、生産された12両のうち、3両は試験車両として残され、残りの9両は通常のM4A1に再改修された。しかし、M4に76mm砲を搭載する試みはここでストップしたわけではなく、計画はM4E6へと続く。
出典・参考元・画像引用元
・Military History Encyclopedia on the Web
・War Thunder Forum
この車両はM4 Compositeを基にしているが、解説のしやすさと見やすさを優先し、M4A1の項に書く。
M4A1(76M1)の不採用を決定した会議で、T20シリーズの砲塔を搭載した改良型のM4を制作するよう命令が出された。M4 Compositeの車体にT23砲塔、76mm M1砲を改良した76mm M1A1を搭載し、76mm砲弾も71発収容可能だった。それに加え、湿式弾薬庫も導入され、また、車体に搭載されている弾薬を素早く砲塔にもってこれるよう砲塔バスケットは廃止された。2台のM4E6がデトロイト・アーセナルで制作され、その内1台が1943年7月にアバディーン性能試験場にて試験を行った。試験後、M4E6はフォートノックスに移動され、そこで発砲試験を行った。1943年8月17日、アメリカ陸軍武器科はM4E6の即座生産を推奨した。陸軍は1000台のM4E6を注文し、既存の75mm M3砲を搭載したM4は生産を終了するよう要求した。しかし、装甲部隊の反発は強く、当時、装甲部隊は対戦車能力を重視しない方向であったため76mm砲の貫通力の増加は無意味であったのだ。また、75mm砲の榴弾の方が76mm砲より爆薬量が多かったことも装甲部隊の反発を強くした。装甲部隊の反発にも関わらず、1943年夏、76mm砲搭載M4の生産準備が開始された。M4A1、M4A2、M4A3は76mm搭載型に徐々に置き換えられて行き、同盟国にも輸出されていった。
出典・参考元・画像引用元
・Military History Encyclopedia on the Web
T16ハーフトラックのサスペンションをM4A1に装着したもの。アバディーン試験場で試験が行われたが、車体の重量が大きくサスペンションが常に過負荷な状態にあったため、不採用とされた。
出典・参考元・画像引用元
・War Thunder Forum
M4A1ベースのTRV。各種装備品はM32 TRVと一緒である。シャーマンを基にしたTRVは大多数の生産車がこのM32B1である。1943年12月よりプレスドスチール社、フェデラル・マシーン&ウェルダー社、ボールドウィン機関車製造所の3社により1,055両が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
M32B1 TRVに洛東江沿いの激しい戦闘のために自衛用かM20 75mm無反動砲を搭載したもの。釜山橋頭堡の大邱デポで行われた改造であった。M20 75mm無反動砲は比較的軽量で反動もほぼなく、機関銃架にも搭載できる構造になっていたため、こういった改造が可能であった。
出典・参考元・画像引用元
・えすだぶ様のTwitter
・壹贖
M32B1をベースとした重砲牽引車。M6重砲牽引車の配備の遅れを受け穴埋めのため1945年までにクレーンを撤去するなどの改造を24台のM32B1がチェスター補給デポで受けたが、M10A1をベースとしたM35重砲牽引車で事足りるとされ実戦では使用されなかった。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M32B1のHVSS装備型。1945年5月よりボールドウィン機関車製造所により37両が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
- カナダ
カナダ生産型のM4A1。当初、ラム巡航戦車(M4A5)を主に生産していたカナダ軍であったが、アメリカでのちのベストセラーであるM4シャーマンの生産が始まると、ラム巡航戦車は主砲や防御力が劣っているために、存在意義が薄れてしまった。そのため、当時ラム巡航戦車を生産していたモントリオール・ロコモティブ社は1943年8月からM4A1の独自生産型としてグリズリー戦車の生産を開始した。改良点は履帯をCanadian Dry Pin, CDPと呼ばれる全鋼製、シングルピン式の履帯に換装したことや、起動輪が新設されたものに変更された程度である。履帯の改良は元のM4A1と比べ履帯自体の重量が半分ほどに軽減された。また、機動性も多少良くなり、構造自体もシンプルであるがために、コストが安くすむという利点もあった。しかし、アメリカでM4が大量生産されるとそもそも別にカナダでグリズリーを生産する意味がなくなってきたため、生産はわずか188両で終了し、現存車がわずかに残るのみとなった。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
グリズリー巡航戦車に17ポンド砲を載せた型。こちらも機銃口が塞がれ(展示される際に除去された可能性もある)、砲塔に小改修が加えられた以外は通常のグリズリー巡航戦車である。主に訓練用に使用され、実戦投入や実戦経験はしていない。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
カナダ軍がグリズリー戦車を基に開発した自走式対空戦車。「スキンク」はトカゲの意。武装は、当初はイスパノ・スイザ社製の70口径20mm機関砲HS404を全周砲塔に装備し(画像1枚目)、車体にも7.62mm機関銃が装備されている。が、後に第21軍集団(カナダ陸軍とイギリス陸軍の混成部隊)が、20mm機関砲はイギリス製の72.5口径20mmポールステン機関砲に装備を統一することを決定したため、スキンク対空戦車も武装が20mmポールステン機関砲(画像2枚目)に変更されている。最初の試作車(1枚目の画像)は溶接砲塔であったが、複雑な形状の砲塔を圧延防弾鋼板を溶接して製作するのが技術的に難しく手間が掛かるため、鋳造(2枚目の画像)に変更された。最終的に、鋳造砲塔、20mmポールステン機関砲4門となったスキンク対空戦車は三両製作され、そのうち一両がヨーロッパに向けて、1945年2~3月にかけて実戦訓練も兼ねてがカナダ第1軍に配備され、ドイツ軍との戦闘に投入された。しかし、すでにドイツ空軍は壊滅状態で敵機が飛んでくることはほとんど無く、本来の任務である対空戦闘で使用されることは少なかったが、スキンク対空戦車が装備する4連装20mm機関砲は地上目標に対してかなり有効であったという。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・戦車研究室
グリズリー巡航戦車を基にしたセクストン自走砲。I型はラム巡航戦車を基にしていたが、II型からはグリズリー巡航戦車を基にしている。イギリス軍が配備していた25ポンド砲に機動力を持たせるため、イギリス軍向けとしてカナダで生産された。カナダのロコモティブ・ワークスで生産され、最終的に1943年から1945年にかけ、計2,150両のセクストン(I型は125台、II型は2,025台)が生産された。これらはカナダ軍とイギリス軍に配備された。その後、フランス侵攻やノルマンディー上陸作戦などに使用され、イギリス軍では1956年まで残っていた車両もあったそうだ。
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・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
SextonII自走砲をベースとした砲兵隊の指揮用車両。25ポンド砲を撤去し、指揮用のスペースを確保するとともに、No.19無線機も増設した。1943年後半から使用された。
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・PANZERSERRA BUNKER
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
- ニュージーランド
M4A1(Sherman II)の砲塔を撤去し、その上に粗朶(直径数cm程度の細い木の枝を集めて束状にした資材のこと。工兵資材の一つとして、粗朶束を塹壕に投げ込んで塹壕を一時的に埋め、兵士や車両が通過するために用いた。)運搬用の支柱を組んだ粗朶運搬車。粗朶を最大3つ搭載でき、ニュージーランド陸軍によってイタリアのセニオ川横断の際に使用された。また、M4A4(Sherman V)をベースとして車両も存在した。
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・PRASTIC WARRIORS
M4A1(Sherman II)の砲塔を撤去し、粗朶運搬車にしたもの。ホルダー元々砲塔があった場所に装備され、最大2つの粗朶を搭載でき、360°回転が可能だった。おそらく、ニュージーランド陸軍第28突撃隊によって改造され、セニオ川横断の際に使用されたと思われる。
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・Sherman Encyclopedia
M4A2(Sherman III)
練習機増産によりこれまで使用していたコンチネンタルR975エンジンが供給できず、代わりとしてゼネラルモーターズ社が生産していたGM 6046直列6気筒2ストローク液冷ディーゼルエンジン2基を連結して搭載したM4。これは片側のエンジンが故障してももう片方のエンジンで走行が可能で、また速度も高かった。しかし、ガソリンエンジンが主流のアメリカ陸軍では採用されず、生産量のほとんどが上陸用舟艇と燃料を共用できるアメリカ海兵隊(後にA3に更新)、およびレンドリース用としてイギリス軍と自由フランス軍で使用され、後には全てソ連向けに供与されるようになった。主砲は75mm M3戦車砲を搭載し、12.7mm機関銃(砲塔真上)と7.62mm機関銃(同軸、車体)が搭載されている。1942年4月から1943年11月にかけてブルマン・スタンダード社、グランド・ブランク戦車工廠、フェデラル・マシーン&ウェルダー社、アメリカン・ロコモーティブ社で合計8,052両が生産された。
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・日本語版Wikipedia
バリエーション
- アメリカ
M4A2の後期型。車体正面の傾斜が緩くなり、突き出した馬蹄型ハッチがなくなった代わりに操縦手用の大型ハッチが搭載されている。M4A1の後期型とは違いM4A2の後期型は乾式弾薬庫のままである。この型はフィッシャーボディによって約1,000台が生産された。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A2の75mm砲塔を76.2mm砲搭載のT23砲塔へ換装、湿式弾薬庫に大型ハッチも導入された。M4A2(76)Wはフィッシャーボディによって1,594台が生産され、その大部分がソ連に供与された。戦後カナダ軍も装備しており、朝鮮戦争でも使われたりした。HVSS換装型はM4A2E8の項を参照のこと。
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・日本語版Wikipedia
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A2(76)Wの足回りをHVSSサスペンションに換装した型。1945年9月に入ってから生産開始された後期生産車。イギリスに5輌渡された以外はソ連に460輌ほどがレンドリースされたが、全て太平洋ルートでシベリアに揚陸されたため、対独戦には間にあっていない。フィッシャーボディによって1,321台が生産された。
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・日本語版Wikipedia
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4用に開発されていたトーションバーサスペンションを備えたM4とM4A2。アメリカは当時様々なタイプのサスペンションを試験しており、M4E4は、それらのサスペンションとの比較用に製作された。M4シリーズ用の独立式トーションバーサスペンションの開発は1943年4月と5月の合間に兵器技術委員会によって承認された。このトーションバーサスペンションはゼネラルモーターズ社が設計を考案し、全部で2台の車両が製作された。これがM4E4とM4A2E4である。M4E4は1943年7月22日、M4A2E4は1943年8月15日に完成した。ゼネラルモーターズは陸軍に引き渡す前に自社の所有地で走行試験を行い、両車合わせて3500マイル(約5633km)を走行した。試験の間、ブッシング(一種の防振装置)が故障したり、履帯が破損したりした。修理用の追加の履帯がフォード社とGMC社から送られた。その後、M4A2E4はゼネラルモーターズ試験場に行き、200マイル(約322km)の走行試験ののち、フォートノックスに送られた。M4E4はデトロイト戦車工廠で試験を受け、そこでばねの容量不十分と、より改良されたばねが必要であると指摘された。M4E4は改善のため、フィッシャー・ボディ部門に送られたのちにアバディーン試験場に送られた。1944年7月27日にM4A2E4が到着して最初に行われたことは車両の検査だった。その後、M4E8とM4A4との牽引抵抗(単位重量あたりの運動摩擦による動きに対する抵抗)比較テストが行われた。結果は次の通りである。
M4E4:25mphで75lb /トン 3mphで45lb /トン
M4E8:25mphで104lb /トン 2mphで65lb /トン
M4A4:12mphで100lb /トン 4mphで62lb /トン
その後、M4E4はT20E3中戦車(T20にトーションバーサスペンションを搭載した試作車)との比較試験が行われた。M4E4は比較された他の戦車と比べて性能が劣っていた。この中で一番よかったのはやはりT20E3であった。 その後、M4A4は試験から除かれ、代わりにM4A1(VVSSサスペンション搭載)とT20E3(トーションバーサスペンションを搭載したT20)が加えられて試験は続行された。1回目の試験はメリーランド州ペリーメンのオフロードコースで行われ、特にトーションバーサスペンション装備車が良い結果を残した。2回目の試験ではベルギーブロックコース(石畳のような石で舗装された道)を走行し、ここではM4A1が1番の安定性を示した。その次に、巡航速度8km/hでのウォッシュボード(主に自動車が砂利などの未舗装の道路を走行した際にできる波状の凹凸をさした用語。最初は小さいが自動車が通るたびに大きくなっていく。基本的にグリップ力の大幅な低下を招くため、好ましくない)コースの走破試験を行った。ウォッシュボードではM4A1とM4E8は基本的に水平であったが、上下の動きが大きかった。トーションバーサスペンションを備えたM4E4とT20E3は車体の後部が大きく揺れることがわかった。そのため、主砲の安定性で言えばM4A1とM4E8の方が優っていた。トーションバーサスペンション搭載車の車体の揺れは32km/hに到達するまでにはなくなった。この一連の試験の結果を踏まえた上で、試験官は報告書をこう結んでいる。
a. トーションバー渦巻を備えた独立したサスペンションは満足のいく乗り心地を生み出すための実用的な手段である。
b.M4E4中戦車は垂直渦巻または水平渦巻サスペンションを備えている従来のM4中戦車よりも優れた乗り心地を備えている。
c.このようなサスペンションは大重量にも耐えうるショックアブソーバーと、同じく大重量に耐えうるバンプラバー(サスペンション部品の一つ)が必要である。
d.M4E4中戦車は兵器としてのM4中戦車の価値を向上させることがなく、かなりのメンテナンスの問題を伴う。
次のことを推奨する。
a.トーションバー渦巻とバンプラバーを備えた独立したサスペンションはトラックなどの装輪車両への適用には原則として満足のいくものとみなされる。
b.M4E4中戦車の標準化も生産も考慮するべきではない。
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・World of Tanks Official Forum
派生型
- アメリカ
極初期型M4A2を基にして試作された駆逐戦車。M4A2に新設計の砲塔を搭載し、そこに76mm T12戦車砲を搭載した。砲塔は丸型をしており、重量軽減のために装甲を薄くし、オープントップとされた。また、車体機関銃、同軸機関銃も取り外されている。T35はフィッシャーボディによって1942年4月に完成し、1942年5月にメリーランド州のアバディーン車両試験場で射撃試験に供されたが、戦車駆逐部隊は車体高を低く側面を傾斜させるよう要求したため改良型のT35E1対戦車自走砲が作られた。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・戦車研究室
・ARMED CONFLICTS
T35の改良型。戦車駆逐部隊の要求に沿って、車体設計を大幅に変更し、正面は傾斜した一枚板に、側面にも傾斜が設けられた。車体を大幅に設計変更したおかげで全高は低くなったが、砲塔はT35の流用である(後に五角形の砲塔に変更される)。1942年にフィッシャーボディによって試作され、後にM10 GMCとして制式化される。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・戦車研究室
・ARMED CONFLICTS
T35E1の量産型。76mm T12戦車砲を正式化した76mm M7戦車砲を搭載し、上部に12.7mm機関銃も搭載している(搭載していない型もある)。イタリア戦線やノルマンディー上陸作戦などにも投入されたが、目立った戦果を上げることもなく、イギリスにレンドリースされたM10もより強力な17ポンド対戦車砲があるので有効な兵器とは思われず、イギリスに渡ったM10はのちに火力強化のため17ポンド砲を搭載されている。詳しくは「M10C SPM」を参照のこと。M10は1942年9月から1943年12月の間にフィッシャー・ボディ戦車部門で4,993両が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・戦車研究室
元々高射砲であった90mm M1を対戦車砲に改造した90mm T7を搭載したM10。元々アメリカ陸軍は1942年4月頃からM10に90mm砲を搭載しようと考えていた。これらの考えは1942年10月頃から具体化してきた。M10に90mm砲を搭載する試みは1942年末に行われた。この際搭載された90mm砲は90mm T7砲で、上述の通り高射砲であった90mm M1砲を対戦車砲に改造したものである。90mm砲自体を搭載するのはうまくいき、これと言った問題はなかったが、砲塔と砲身のバランスが取れていないのが問題だった。1942年11月30日、90mm T7砲を搭載したM10はアバディーン試験場で発砲試験などを行った。発砲試験は概ね成功だったが、やはりバランスは問題だった。しかしアバディーンはバランスの問題だけ改善できれば素晴らしい駆逐戦車になり得るという事実を考慮し、肯定的な評価を行った。それでもM10に90mm砲を搭載するのは無理があり、砲手区画の窮屈さ、砲塔旋回が手動のみで動力旋回がスペースの関係で不可など問題は様々あった。そのため、90mm砲用の新型砲塔の開発が1943年3月にフォード社の手によって行われた。同年12月には新型砲塔を搭載した試作車が完成し、T71の試作名称が与えられた。これがのちのM36として誕生する。
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・WAR SPOT
M36B2 M4A3の項に記述
T40の主砲を撤去し、ロケットの砲身を短縮したバージョンである。他に、車体側面に乗員用のドアが新設されている。M4A2を基にして一台が製作されたが、試作のみに終わっている。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
T34 caliopeのロケット砲身を短縮したバージョン。短縮するとともに下部に12本づつにまとめられている砲身群が14本づつに増えた。M4A2を基にして一台が製作されたが、試作のみに終わっている。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
M4A2に球形の対空砲塔を搭載した対空戦車。40mmボフォース機関砲を中央に、12.7mm機関銃を砲塔側面に装備しており、砲塔内には2人の乗組員がいた。右側の乗員はボフォース機関砲を発砲し、右側の機関銃の装填と発砲を行った。左側の乗員はボフォース機関砲の装填と左側の機関銃の装填と発砲を行った。1942年7月30日にこの計画は「T52」と、球形砲塔は「T62」と名付けられた。ファイアストン社でT62砲塔の開発が進められ、1942年10月にT62砲塔を完成させた。最初の試作車は1943年3月にアバディーン試験場に到着した。テストは1943年を通して行われたがT52はテストで良い結果を残すことはできなかった。まず、砲塔は非常に窮屈で、砲塔内の2人の乗員は働きすぎだった。砲塔側面に装備されている12.7mm機関銃は砲塔旋回機構に近すぎ、薬莢が砲塔旋回機構に入り込んで旋回機構の動きを阻害する可能性があった。また、低空を高速で飛ぶ攻撃機や戦闘機に追いつけるほど砲塔旋回も早くなく、それにとどめを刺すように40mmボフォースの装弾数が64発と対空砲としては実用に耐えるレベルではないものが露呈した。こんな様ではもちろん採用されることはなく、T52プロジェクトは1942年11月に正式にキャンセルされた。
出典・参考元・画像引用元
・Military History Encyclopedia on the Web
アメリカ軍海兵隊によって改修されたM4A2地雷除去用戦車。一台のみが製作された。ベースとなったM4A2はドーザー装備型で、ドーザーの基部はM4A2の第二サスペンションに装備されていた。製作は司令官であるロバート・ネイマンによって命令された。ネイマンは、少し前に陸軍が試験したフレイルに影響を受けていた。そして、独自にこれの海兵隊バージョンを作成しようと考えた。当時海兵隊が活発に活動していた太平洋の日本の島々では、日本の設置した地雷原が大量にあり、こういった地雷破壊装置は有用だと思われたのだ。そして、早速制作が行われることになった。ベースのM4A2は以前にサイパンの第4戦車大隊に属していた「ジョーカー」というM4A2だった。ジョーカーはブルドーザーを装備されていたが、それを取り外して地雷破壊装置を装備した。ローターには短い長さのチェーンや鎖が取り付けられていた。装置の操作は車体の機関銃手が担当した。完成した後早速テストが行われた。このテストではこの車両専用に実際の地雷を敷設し、地雷原を作ってテストが行われた。結果は上出来で、ジョーカーは無傷で地雷原を通ることができた。そしてこの結果を踏まえ、このジョーカーを硫黄島での作戦に実戦投入することが計画された。そしてこれは実際に行われた。ジョーカーはリック・ハディックス軍曹指揮の下、第4戦車大隊の第2小隊に配属された。ジョーカーは日本軍の飛行場近くまで進軍した。その飛行場の近くに何枚かの旗が立っており、ハディックス軍曹はこれは地雷原を表す旗であると考え、ジョーカーに前進を命じた。しかしそれは実際には近くに潜伏していた重迫撃砲の着弾地点の目印であり、ジョーカーは攻撃を受け、装置と戦車自体に重大なダメージが入った。幸い乗員は皆無事だったため、ハディックスとともに乗員たちは脱出した。ジョーカーの人生は、これにて幕を閉じた。
出典・参考元・画像引用元
・Tank-Encyclopedia
M4A2の車体機銃部の機関銃を取り外しE4-5火炎放射器を搭載した火炎放射戦車。アメリカ陸軍は1940年までに太平洋戦争とヨーロッパ戦線での火炎放射器の有用性を確信し、1940年の夏に車載用の火炎放射器の開発を命じた。火炎放射器は試験目的でM2中戦車に搭載され、その後M3軽戦車やM5軽戦車にも搭載された。この中でも比較的成功したとされるのが、M4シリーズに火炎放射器を搭載した型である。改造自体は車内に火炎放射器用の燃料タンクを置くのみだったが、この改造は数時間かかったと言う。機関銃手兼火炎放射器手は必要に応じてボールマウントに装備されている7.62mm機関銃を取り外し、E4-5火炎放射器に載せ替えを行う。このE4-5火炎放射器は毎秒1ガロン(米ガロンと定義すると約3.7L)の燃料を油性燃料で25~30ヤード(約22m~約27m)、増站燃料で50~60ヤード(約45m~約54m)まで飛ばすことができた。基本的に送られてきた火炎放射器を現地で取り付ける現地改造であるため詳細な生産数は不明である。グアム、ペリリュー、ルソン、および他の島で使用された。
E4-5火炎放射器の燃料の位置を図示したもの。燃料はチューブでE4-5火炎放射器に送られた。
出典・参考元・画像引用元
・Olive-Drab
M4A2に火炎放射器を搭載したもの。WWII期に考えられた戦車に搭載できる火炎放射器は大きく分けて「補助機械化火炎放射器」と「主武装機械式火炎放射器」がある。補助機械化火炎放射器は主砲とは別に機関銃部などに火炎放射器を装備したもの、主武装機械式火炎放射器は主武装を火炎放射器としたものである。M4A2 Sherman Crocodileは補助機械化火炎放射器に分けられるんだろう。太平洋での対日本軍との戦闘でアメリカ陸軍は火炎放射戦車の有用性を確信した。そんな時に舞い込んだ情報がイギリスのチャーチル・クロコダイルである。当時はまだクロコダイルも試験中であったが、アメリカ陸軍はこれに影響され、M4にもクロコダイルのような火炎放射能力を付与することを考えた。そして開発されたのがこのシャーマン・クロコダイルである。火炎放射装置は前から見て車体前部左側に置かれており、M4に牽引されている「リンク」と呼ばれるタンク車に燃料が入っていた。「リンク」は重量6.5t、厚さ12mmの装甲で保護され、400ガロン(約1514L)の炎の元となる燃料と5本の圧縮ボトルの窒素(N₂)ガスを運ぶことができた。窒素ガスは車体右側面に設けられたパイプを伝って火炎放射器に送られる。このパイプは砲弾や銃器の破片から守るため全体が薄い金属メッキで覆われている。クロコダイルは6両が注文されたが、完成したのは4両だけで、その内一両はM4A2をベースにしたクロコダイル、残りの三両はM4A4がベースとなっていた。この4台のシャーマンは第739戦車大隊(以前M3 CDLなどの戦車が配備されていた大隊)に配属され、1945年2月にドイツ近郊のユーリッヒという場所にある13世紀ごろの古い城塞に立て篭もったドイツ軍相手に使用された。この戦闘では歩兵が先頭に立ち乗り込んでいくのは危険であると判断され、このクロコダイルが先頭に立ったが、4両のうち2両が向かう途中で故障で動かなくなってしまったため、残りの2両がその城砦へと向かった。クロコダイルは、城砦の扉に対して20発の75mm砲弾をお見舞いし、扉が破壊されると城砦の中庭に炎を吐いた。クロコダイルのおかげで城塞に残っていたドイツ軍は掃討され、また城塞は二日間にわたって燃えたという。その後、クロコダイルは1945年3月にライン川を渡り、第2装甲師団を支援する手筈だったがジークフリートラインが突破されてからはクロコダイルの必要性は薄れ、その後結局使用されることはなく終戦を迎えた。
出典・参考元・画像引用元
・Tank Encyclopedia
M4A2にファイアフライ砲塔を搭載した車両。このM4A2はALCO社の第1ロットの第一番目に生産されたまさしくALCO社での一番最初のM4A2(USA 3065484号車)で、第二次世界大戦中は75mm砲が装備されていたようだが、第二次世界大戦終了直後にファイアフライ砲塔が搭載されたと言われている。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・The American Automobile Industry in World War Two
M32B2は、M4A2を基にして製作されたTRV。1943年6月よりリマ機関車製造所により26両が生産された。写真は1944年夏にグアム島で撮影された物である。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
- イギリス
イギリスにレンドリースされたM10に17ポンド対戦車砲を搭載した駆逐戦車。レンドリースされた際、M10に搭載されていた砲は76mm M7戦車砲だったが、当時イギリスで使用されていた17ポンド砲と威力や貫通力で見劣りするために、火力の強化を図って搭載された。非常に簡単な作業で済む換装だったためにイギリスにレンドリースされたM10はほぼ17ポンド砲が搭載されている。換装作業は1944年春から主にロンドンのウーリッジ工廠で行われ、1944年6月のノルマンディー上陸作戦までに98両、同年11月にはイタリア戦線にも152両のM10Cが送られ、1945年4月までに合計1,017両のM10対戦車自走砲がM10Cに改造された。M10と違い、ノルマンディー上陸作戦後の1944年7月8日、イギリス陸軍第62対戦車連隊のM10C中隊がM10C二両でパンター戦車とIV号戦車を合計13両撃破すると言う戦果を上げている。ちなみに、M10Cの「C」は17ポンド砲搭載を示すアルファベットである。この他、M10Cの愛称である「アキリーズ」も戦車研究室によればカナダ陸軍が使用したものであると言う説が有力になっており、大戦時のイギリス軍では「M10C SPM」(SPMはSelf-Propelled Mount:自走砲架の略)と呼ばれていたようである、とあるため、ここもそれに準じた。
1943~44年代になるとイギリスは上陸作戦を行う回数が増えつつあった。そんな中、ビーチなどで戦車が通る道を切り開いたり、水没したり浅瀬で擱座した装甲車両の回収や、浜に乗り上げた上陸用舟艇を海に押し戻す作業を行うための車両が必要なことに気づいた。これは「Beach Armoured Recovery Vehicles(ビーチ装甲回収車)」と呼ばれ、主にそれぞれ4つの語句の頭文字をとった「BARV」と言う名で呼ばれた。当初、このコンセプトは上部を改装したキャタピラー D8トラクター(Caterpillar D8 BARV)で行われていた。しかし、キャタピラー D8トラクターは水中では非常に鈍足で、また装甲も不十分であった。そのため、より近代化したBARVを開発する必要があった。それが「Sherman BARV」である。シャーマン BARVは王立電気機械工兵隊(REME)と戦争省の機械工学(ME)局が協力して開発した。ベースとなったシャーマンはM4A2で、溶接車体は水が侵入する危険が低く、また、装備しているディーゼルエンジンが海に入った際の急激な温度低下にも強いことがM4A2選定の理由だった。M4A2は車体上部構造が船首のような形に改設計され、また、車体後部には大きな通気口が設けられた。これは排気の煙とガスを外部に逃すためのものである。通気口の前には拡張可能なシュノーケルがあり、機関室はここから入ってくる空気によって冷やされ、乗員もここから酸素を補給した。操縦手用ハッチの出っ張りにはクラッペが追加され、車体正面には緩衝用の木板が二枚貼り付けられた。車体上部左右には キャットウォーク があり、車体上部を移動する際はそこを歩いた。その後ろに折りたたみ式の梯子がとりつけられていた。牽引用ウィンチは車体後内部にあったが、ウィンチ用の穴を防水するのが面倒なので実戦ではウィンチは基本的に陸上で使用されたそうだ。1943年11月に試作車が完成した。試作車はM4A2ではなくM4A4をベースとしていた。試作車はテストで深さ3mの水中を移動するパフォーマンスを披露し、その後50両が発注され、その後発注数は66両に引き上げられた。
2台のシャーマン BARVと一台のキャタピラーD8 BARVがチャーチルMk.IVを引っ張っている際の写真。
シャーマン BARVが初陣を飾ったのはノルマンディー上陸作戦で52台のシャーマン BARVが投入された。ここでの活躍はイマイチ不明だが、少なくとも一台のシャーマンBARVが二台のオートバイを岸に運ぶために使用された。その後は1945年3月のライン川横断に使用されたとも言われるが、詳細は不明である。その後シャーマン BARVは終戦まで使用されることはなかったが、一部のシャーマン BARVは1950年代まで使用されていた。しかし、戦後戦車は非常に重量のあるものが多く、牽引するにはシャーマン BARVでは力不足であったため、センチュリオン BARVへの交換作業が1956~57年に始まった。完全に入れ替わったのは1963年で、その後は3両のシャーマン BARVが現存するのみとなった。
出典・参考元・画像引用元
・Tank Encyclopedia
イギリス戦争省の機械工学(ME)局が開発したシャーマンベースの架橋戦車。資料が少なく不明な点が多いが、おそらくM4A2(Sherman III)をベースとして制作されたと思われる。M4A2の砲塔を撤去し、その上に折りたたみ式の橋梁を備えている。上の写真はイタリアで試験中に撮影された一枚。チャーチルMk.VIIが通ろうとしている。M4A2のサスペンションにかなりの負担がかかっているのがわかる。このSherman Octopusは写真が確認できるだけで2枚のみで、実戦で使用された際の写真が少なく実戦運用された可能性が低いため、試作のみで終わったと思われる。
出典・参考元・画像引用元
・indafotó
- カナダ
カナダ軍に渡ったM4A2E8の砲塔を撤去し、Wasp IIC火炎放射器を搭載した型。Wasp IIC火炎放射器の性能はいまいちわからない。火炎放射器用の燃料タンクは車体下部に二分割されて置かれ、それをチューブで火炎放射器へと送った。カナダはラム・カンガルーを改造したラム・バジャー火炎放射戦車を開発して実戦に投入していた前例があり、このシャーマンバジャーは近代化の目的で試作された。1945年から開発が開始され、1948年から1949年にかけて3両のシャーマン・バジャー試作されたが、性能試験ではそれが満足いくものではないことがわかり、不採用となった。
出典・参考元・画像引用元
・The Tank Museum様のTwitter
・MILSURPS
・MAPLE LEAF UP
- ソビエト
ソ連に輸出されたM4A2E8をソ連自身がトラクターに改造したもの。M4A2E8は1945年4月にソ連軍の訓練部隊に配備され始め、M4A2E8だけでなくVVSSサスペンションのM4A2(76)Wも配備され始めた。ソ連は戦後に供与されたものも含めば3938台のM4A2E8とM4A2(76)Wの供与を受けた。そのうち、第9警備隊機械化隊に配備されたM4A2E8の一部は戦後にトラクターに改造されている。
出典・参考元・画像引用元
・Tank Archives
- 中国
日中戦争が終結し、第二次世界大戦も終わると、中国では国民党と共産党の内戦が再燃した。そんななか、アメリカから非武装化されたM10が中華民国国民党軍に提供された。元々トラクターとして提供されたものだったが、国民党軍では武装を再搭載し、戦力として使用しようと考えた。1949年、中国国内に残っていた旧日本軍の91式105mm榴弾砲が上海にてM10に搭載された。また、7.62mm機関銃も側面に搭載された。105mm榴弾砲搭載の際、砲塔には傾斜のかかった屋根が増設され、ハッチをつけて完全密閉式とした。その後、15両が追加で改造され、最終的に53両ほどが製作されたと考えられているが、正確な台数はわかっていない。その後は1958年の金門砲戦で使用されたと言われている。
出典・参考元・画像引用元
・War Thunder Forum
M4A3(Sherman IV)
フォード GAA液冷V型8気筒エンジンエンジンを備えたM4。以前の航空機用エンジンなどとは整備性や低速時のトルクで勝り、非常に好評だったため、優先的に供給された。基本的に前線で使用されたのは後期型で、前期型は本土での訓練用などに使用された。前期型は突出した馬蹄型ハッチ、乾式弾薬庫(一部は湿式弾薬庫を備えていた)に車体正面は47°の傾斜を備えていた。武装は75mm M3砲と、12.7mm機関銃(砲塔上、装備しているものと装備していないものがある)、7.62mm機関銃2門(車体、主砲同軸)が装備された。前期型は1942年6月から1943年8月までにフォード・モーター・カンパニーで1,690台生産され、後期型は1944年2月から1945年3月までにグランド・ブランク戦車工廠で2,420台が生産された。配備されたM4A3は76mm型や105mm型含みバルジの戦い、硫黄島の戦いなどに投入された。画像は前期型である。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・日本語版Wikipedia
バリエーション
- アメリカ
M4A3の後期型。前線に配備されたのは後期型で、前期型は本土で訓練などに使用されたというのは上で述べた。本車は、車体正面が56°の傾斜になり、操縦手用の大型ハッチが導入されている。また、「W」の文字から分かる通り、湿式弾薬庫も備えている。1944年2月から1945年3月までにフィッシャーボディ、デトロイト戦車工廠、グランド・ブランク戦車工廠で3,071台が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A3(75)WのVVSSサスペンションをHVSSサスペンションに換装した型。1944年9月からの生産車から導入されている。フィッシャーボディによって651台が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A3に76mm砲搭載のT23砲塔を搭載した型。車体正面に56°の傾斜を持ち、湿式弾薬庫と操縦手用の大型ハッチを搭載している。1944年3月から1945年4月にかけてクライスラー(1,400台)とフィッシャーボディ(525台)で1,925両が生産された。HVSSサスペンション搭載型については「M4A3E8」の項を参照のこと。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A3(76)WにHVSS履帯を履かせた型。「イージーエイト」とも呼ばれる。M4A3(76)Wがベースとなっているため、操縦手用の大型ハッチ、湿式弾薬庫も搭載されている。アメリカ軍で使用されたM4で言えば最終型で1944年8月から1945年9月にかけてデトロイト戦車工廠で2617両(2539両とも)が生産された。M4A3E8は朝鮮戦争に投入され、T-34-85などと激闘を繰り広げたり、NATO諸国や親米国に供与されたりしている。1954年に陸上自衛隊にも供与されている。なお、「イージーエイト」の由来としてはアメリカ軍式フォネティックコードの「E」の読みが「Easy」で、それをM4A3E8の最後の「E8」の部分と掛け合わせてできたと言われている。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・日本語版Wikipedia
HVSSサスペンションを搭載する以前の写真
HVSSサスペンションの搭載試験車。HVSSサスペンションはM4の機動力改善を意図して製作されたサスペンションで、1943年4月には試作のHVSSサスペンションがM4A3とM4A4に搭載されていた。このHVSSサスペンションは現在見られるようなものではなく、各種転輪、履帯がVVSSのものだった。試験では安定性の改善が見られたが、転輪や履帯を新設した方がより性能増加を見込めるとして、それら新設の駆動系を装着したシャーマン戦車の開発が兵器委員会によって推奨された。これによりHVSSサスペンション用の転輪、履帯の開発が始まり、履帯幅は584mmに拡大、転輪は一つのサスペンションにつき4個と増えた。そのほか起動輪、誘導輪、上部支持輪も新設のものが搭載された。この改良された新型HVSSサスペンションはM4A3に搭載され、「M4E8」と命名された。試験では機動性の向上が見られ、兵器委員会は1943年11月18日に増加試作として10個のHVSSサスペンションの開発を命じ、これらはM4A3に取り付けられ、1944年4月と5月に工場から出荷後、デトロイト戦車試験場で試験が行われた。1944年3月、兵器委員会は500台のM4A3(76)WにHVSSサスペンションを装着するよう命じ、月末に製造された全てのシャーマンにこのHVSSサスペンションを装着するよう命じた。
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・Calameo.download
船舶用に開発されたV16-184エンジンを半分にしたV8-184エンジンを搭載したM4A3。V8-184エンジンは水冷で、1800rpmで600HPを発揮した。1943年9月、アメリカ陸軍武器科はV8-184エンジンをM4に搭載することを決定した。1944年2月に2基のV8-184エンジンが納入され、その内、1基がM4A3に搭載された。V8-184エンジン搭載に際し、車体は11インチ(279mm)延長された。M4A2E1は1944年5月10日から翌年3月21日までアバディーン性能試験場で試験が行われた。この試験の最中、1944年7月20日に、M4A2E1は正式に「M4A2E1」と命名された。この新型エンジンは試験では好調で、重量に対するパワーの比率が高く、試験中に大した問題もなく2914マイル(約4689km)を走り抜いた。このV8-184エンジンは元々はM4ではなく重戦車や自走砲での使用を目的としていたが、これは叶うことはなく、V8-184エンジンの生涯はM4にしばし搭載されていただけで終わってしまった。ちなみに、なぜM4A3車体なのにM4A2E1と命名されたのかは謎である。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
Spicer Model 95自動油圧変速機を搭載したM4A3。試作車が2台制作され、1945年の春に試験が行われた。結果は不明だが、M4A3はより新型のGeneral Motors 3030B変速機を搭載し再度試験を行なった。しかし、このGeneral Motors 3030B変速機は故障が相次ぎ、使い物にならなかった為、また新たな新型変速機を搭載することになったが、叶わず終わった。
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・Calameo.download
M4A3E2のテストベッド。1943年12月17日に陸軍省はM4A3に82,600ポンド(3.7t)分の重りをかせ、ゼネラル・モーターズ社の試験場で試験しろと命令を下した。これは突撃戦車として計画が進んでいるM4A3E2の走行性能を見るためのものであった。ゼネラル・モーターズ社の試験場で行われた500マイル(約804km)の走行試験の結果、特に足回りに異常は見られず、問題なしとされた。写真は、走行試験が行われる前の1944年1月18日に撮影されたM4A3E2 Testbed。砲身の周りに何か固定部品のようなものがつけられているのが見える。ちなみに、「M4A3E2 Testbed」とは筆者が勝手に作った造語であり、実際には本車には正式な名前は付されていない。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・Tank-encyclopedia
装甲を強化したM4A3(75)W。歩兵の突撃を支援できる戦車を常々欲しいていたアメリカ陸軍は、重車体をベースに支援突撃戦車を開発しようと考えた。しかし、アメリカ陸軍には望みに叶う重車体がなかった為、広く使用されていたM4A3を使用することに決定した。1944年はじめ、グランドブランク工廠でM4A3E2の開発がスタートした。車体前面と左右側面に1.5インチ(38.1mm)の増加装甲が施され、砲塔にはT23砲塔の装甲を6インチ(152.4mm)に増したものが採用された。砲塔防盾はT110と呼ばれるもので、装甲圧は7インチ(177.8mm)に達した。武装は75mm M3砲、12.7mm機関銃(砲塔上部)、7.62mm機関銃(車体、同軸)で、湿式弾薬庫も搭載されている。エンジンはM4A3と同じものが搭載されていた為、機動性は落ちたが、履帯の両端にエンドコネクターが取り付けられていたので、ある程度の機動性は確保された。ジャンボは1944年5月から生産が開始されたが、すぐにM26重戦車の生産開始が決定された為、5月に40両、6月に110両、7月に104両の合計254両が生産されただけであった。M4A3E2は1944年秋に実戦投入された。現場の将兵たちにはそのカチカチの装甲が人気で、主に戦車砲が潜んでいそうな箇所を先導するなどの任務を行なった。
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・戦車研究室
M4A3E2に76mm M1砲を搭載した現地改造車。1945年2月に、撃破された友軍の76mm砲搭載型シャーマンや補給から取った76mm M1砲をM4A3E2に搭載するという現地改造が行われ、100両に改造が施された。元々が76mm砲用のT23砲塔である為、砲塔に取り付けること自体は容易であったが、問題は75mm砲用の弾薬庫ラックだった。76mm砲弾は75mm砲弾と比べ長い為、75mm砲用の弾薬庫に入りきらないのである。最終的に76mm砲用の弾薬庫ラックに換装しようという話になったのだが、76mm砲用弾薬庫ラックへの換装はかなり時間がかかったという。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・Tank-encyclopedia
General Motors T900自動油圧変速機を搭載したM4A3。参考元には1945年の春に試験が行われたとあるが、採用されたか否かは書かれていない。推測するに実験の用途のみで使用されたかまたは不採用だったのであろう。
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・Calameo.download
M4A1E6と同様にMDAP(相互防衛援助計画)用に作成されたM4A3。M4A3(75)WもしくはM4A3(105)をベースとし、T23砲塔ではなく、75mm用砲塔(105mm用砲塔搭載車は75mm用砲塔に換装されている)に76mm M1砲を搭載し、他に操縦手用の大型ハッチなどが搭載されている。なお、弾薬庫は湿式ではなく乾式に戻っている。また、砲塔内容積確保のため無線機は車体右前部に移動され、マズルブレーキは切り落とされた。M4A3E4は米ロックアイランド工廠及びBMY社で改装され、西側諸国(ユーゴスラビア、デンマークなど)に供与、その後ユーゴスラビア軍に供与されていたM4A3E4が映画「戦略大作戦(英題Kelly Heroes) 」に登場していたりする。
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SHERMAN MINUTIA WEBSITE
米国第3軍にて増加装甲を施されたM4A3E8。増加装甲は破壊された味方戦車からひっぺがして貼られていた。ドイツ戦車のものは終戦間際ということもあって品質が低下しており、アメリカ戦車の装甲が好まれたという。当時は装甲の強化に土嚢なども使用されていたが、パットンが土嚢の使用に反対したために、装甲を貼り付けると言う手段が選ばれた。M4A3E8は第3軍含む三個の装甲師団で36両が改造された。しかし、HVSSサスペンションのM4A3E8ではなくVVSSサスペンションのM4A3(76)Wに施されたものもあるらしく(写真2枚目)、これら改造された36両が全てHVSSサスペンション搭載車かは不明である。
出典・参考元・画像引用元
・Mike's Research
派生型
- アメリカ
M4A3に105mm榴弾砲を搭載した支援車両。56°の傾斜を備えた正面装甲に操縦手用の大型ハッチ、乾式弾薬庫を搭載している。この車両は1944年3月から9月にかけてクライスラー(デトロイト工廠)で500両が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A3(105)の足回りをHVSSに換装した車両。仕様もM4A3(105)と同様である。この車両は1944年10月から1945年6月にかけてクライスラー(デトロイト工廠)で2,539両が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A3(105)HVSSにT121連装機関銃ターレットを装備したもの。12.7mm機関銃が2門装備されている。試験のため量産はされていない。
出典・参考元・画像引用元
・The Sherman Tank Site
M4A3(75)W HVSSにHCR2という混合物(成分は石英粒とアスファルトと木屑)をアルミの箱に詰めたものを車体側面と砲塔に環状に装着したもの。ドイツ兵の持つパンツァーファウストなどの成形炸薬弾対策に考案された装甲で1944年にテストされた。テストではパンツァーファウスト100やパンツァーシュレックに側面を撃たせ、車体側面は貫通されたものの、砲塔側面はなんとか耐えた。しかし、成形炸薬弾以外の徹甲弾などに対してはあまり効力を発揮できず、またこの装甲もとい箱は約8tの重量があったため実用性がないと判断され、不採用となった。
出典・参考元・画像引用元
・えすだぶ様のTwitter
1945年2月、パットン率いる第3軍は、大規模な戦車再軍備計画の一環として、M4A3(75)を現地改修し、76mm戦車砲を搭載した。しかし、この実戦改造にはいくつかの問題があった。まず、75mm M3戦車砲の重量は405kgであるのに対し、76mmは517kgで、重量が同じでないため砲塔のバランスをとる必要があった。第二に、両砲の砲架が全く同じではない。75mm戦車砲にはM34A1砲架が使われ、76mm戦車砲にはM62砲架が使われた。後者はT23砲塔に合わせたものである。この改造は、「M4A3(75)W w/ 76 mm M1」と呼称され、75mm戦車砲用のM34A1砲架に76mmM1戦車砲の砲尾を搭載できるよう改造し、さらに砲塔後部にカウンターウェイトの役割を担う追加の鉄板を溶接した。実現可能ではあったが、T23砲塔を使用した76mm戦車砲搭載車と比較すると、砲塔は窮屈なものとなった。また、この改造が行われた頃には、すでにM4A3(76)Wの新ロットが大量に前線に到着していたため、この実戦改造は余計なものとなってしまったのである。この実戦改造車がどうなったかは不明だが、おそらく元のM4A3(75)Wに戻され、76mm砲はデポに戻されたと思われる。
出典・参考元・画像引用元
・THE ARMORED PATROL
M10のM4A3ベース型。通常の無印M10はM4A2をベースとしているが、M10A1はM4A3をベースにして改造された車両である。主に本国で訓練用に使用され、フォードで1,035両、フィッシャー・ボディで375両の計1,410両が1943年11月末までに改造された。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
・日本語版Wikipedia
M10A1をベースとした重砲牽引車。砲塔や内部の弾薬庫などを撤去するなどの改造が行われ、1944年1月から1944年6月までの合わせて209両が改装された。主に240mm M1榴弾砲や8インチ(約20cm) M1カノン砲の牽引に使用された。
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・Tank-Encyclopedia
M10A1をベースに試作された駆逐戦車。装甲の一部が削減され、主砲を76mm M7砲ではなく76mm M1砲とし、それを新規設計の砲塔に搭載した。採用されることはなかったが、砲塔はのちのM36に搭載されたもののベースとなっている。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
M36の試作車。90mm砲を搭載し即用弾薬庫とカウンターウェイトを兼ねる鋳造製の後方張り出し部を付けた新型砲塔をM10A1に載せたもの。背景にはM10でパンターやティーガーに対抗するのは無理があるとのアメリカ軍の思いがあった。T71は1943年3月に完成した。無印M10にこの砲塔を搭載したT71E1(別項として執筆したかったが、写真、資料共に全くないためここでの言及のみとする)も存在したが、こちらは不採用となり(後M36B2として再誕)、M10A1にこの新型砲塔を搭載したT71が採用され「M36 GMC」となる。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
M10でパンターやティーガーを正面から撃破するにはいささか力不足であることを知ったアメリカ軍が開発した武装強化型M10。ベースに本国で訓練用に使用されていたM10A1を使用し、T72に搭載された新型砲塔を少し改良し搭載した。主砲は元々高射砲であった90mm M1を対戦車砲に改良した90mm T7を制式化した90mm M3が搭載され、砲塔上部には12.7mm機関銃も装備された。また、前期型ではマズルブレーキを搭載していないが、後期型ではマズルブレーキが搭載されている。生産はジェネラル・モーターズとフィッシャー・ボディが担当し、M10A1からの改造や新規生産含め1944年4月から戦後までに1,413両が生産された。M36の配備は1944年8月から始まりバルジの戦いなどに参加、M36を装備する中隊の戦果を合計すると1,500両のドイツ戦車を撃破するという戦果を上げている。M36は戦後も使用され、朝鮮戦争や、また各国に輸出されたものもあった。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
・日本語版Wikipedia
・戦車研究室
M10A1からの改造だけではドイツ戦車を容易に撃破できる新星M36の需要を満たしきれないため、M4A3(75)W車体にM36の砲塔を搭載した型。1944年10月から12月にかけてフィッシャー・ボディによって187両が生産された。実戦に出ると、乗員たちからはM36より装甲があることや、車体前面に機関銃が搭載されていることで気に入られた。戦後、イランなどの外国に渡り運用されていたりする。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
本車は無印M10をベースとしているが解説の見やすやや読みやすさを優先し、M4A3の項に書く。
T71E1の量産型。ドイツ戦車を用意に撃破できるM36の需要の増大はめざましいものがあり、それはM36B1でも追いつかないほどで、元々M36のベースとして使用されていたM10A1の生産も追いつかなくなってしまった。そのため、T71E1を基に1945年5月になって無印M10にM36砲塔を搭載し生産する試みが始まり、1945年5月から戦後にかけて724両が生産された。しかし大戦末期の登場であったために実戦には間に合わずこのM36B2も戦後インドや韓国に輸出されており、韓国に輸出されたM36B2には車体前部に機関銃を追加するという改造が行われた車両もあった。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
M7 プリースト自走砲の足回りをM4A3に換装した型。無印M7はM3中戦車がベースとなっている。アメリカ陸軍は砲兵の自走化を目的としてM3 75mm自走砲などを製作した。しかし、自走砲は完全な装軌式が望ましいとされ、兵器局はM3中戦車に105mm榴弾砲を搭載したT32の開発をスタートした。1942年始めに試作車が完成、アバディーン試験場で試験を受けたが、エンジン配置の関係による砲の仰角不足と対空兵器の不備が指摘された。これを受けてT32は車体右前部に12.7mm機関銃を増設され、1942年4月にM7として制式化された。M7B1は1943年3月からの生産車で、プレスド・スチール・カー社で826台が生産された。M7B1含むM7自走砲は戦後も生産が続けられ、朝鮮戦争にも投入された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
朝鮮戦争中に改造されたM7B1。朝鮮戦争中の1952年、M7B1の制限された仰角が問題になったため、アメリカ軍は丘陵地帯に合うように少しでも105mm榴弾砲の飛距離を伸ばそうと考えた。それの解決策が105mm榴弾砲を一段上に搭載するという方法である。これに伴い機関銃座も少しばかり嵩上げされた。127両がフェデラル・マシーン&ウェルダー社で生産された。また、朝鮮戦争後、ドイツ連邦軍(西ドイツ軍)にも供与されている。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・Wikipedia
M4A3の主砲をPOA-CWS-H1火炎放射器に換装した型。POA-CWS-H1火炎放射器の性能はM4の項の「M4 Composite Flamethrower」を参照のこと。詳細な生産数は不明であるが、少数が海兵隊に装備され、硫黄島などで使用されたとされる。戦後もHVSS換装型が使用されている。ちなみに、「Zippo」の由来はアメリカに本社を置くオイルライター製造会社「Zippo Manufacturing Company」である。
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・Reddit
M4A3(105)HVSSにPOA-CWS-H5火炎放射器を搭載した型。基本スペックはM4 Compositeなどに搭載されたPOA-CWS-H1と同様である。この特異な配置は主砲を火炎放射器に換装することに反発した太平洋戦線の戦車兵のために考案された方法で、火炎放射器は左上にある砲身の方で主砲は中央のものであった。また、この配置のせいか66発の搭載弾薬は20発に減少した。基本的にはM4A3(105)HVSSに搭載された(M4A1などにも搭載が確認されている)。火炎放射器は塹壕などに立て篭もる日本兵相手に有効だったため、1944年後半に計画された1945年の日本侵攻のためPOA-CWS-H5火炎放射器は生産数の増大が図られ、M4A3(105)などに装備されたが、1945年8月の第二次世界大戦終戦によって使用されることはなくなった。が、一部のM4A3 Flamethrowerはのちの朝鮮戦争に参戦した。生産数は不明だが、終戦の時点で70両のM4A1型含むM4A3 Flamethrowerが日本への侵攻に向けて準備されていたという。
M4A1型。
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・Olive-Drab
戦後型のM4A3 Flamethrower。改造点は防盾がM4A3E2似の角形防盾になったこと以外は特にない。また、この防盾は新規設計のものなのか従来のものなのかは不明である。第二次世界大戦の終結により投入されるはずだった太平洋戦線にも投入されずで終わったM4A3 Flamethrowerだったが、アメリカ海兵隊はM4A3 Flamethrowerを少数持ち続けていた。1950年に朝鮮戦争が開戦すると海兵隊は即座に第一戦車大隊内に9つの火炎放射戦車小隊を結成した。1950年9月15日には韓国の仁川(インチョン)上陸作戦に投入された。
出典・参考元・画像引用元
・Olive-Drab
M4A3E2に火炎放射器を搭載した型。日本軍に対し火炎放射器は有効であったが、当時装甲化された火炎放射器はM4に火炎放射器を搭載したものとM3に火炎放射器を搭載したM3「サタン」などしかなく、アメリカ陸軍上層部は火炎放射器を搭載した新型の戦車の製作を命じた。車体はM4A3E2を使用、足回りはHVSSに換装された。砲塔は鋳造で円形の新規設計のものを使用し、中央にM24チャーフィーなどにも搭載された75mm M6砲を搭載し、火炎放射器は右側に配置されている。また、主砲と火炎放射器は連動していたが、互いに独立して仰俯角を取ることも可能で、主砲、火炎放射器ともに俯角-15°、仰角+45°だった。搭載された火炎放射器はPOA-CWS-H5の発展型のE20-20で、1945年に設計された150ヤード(137m)の射程を持つ新型の火炎放射器である。他にも、砲塔上部にある車長用キューポラにE21火炎放射器も装備される予定だった。これは歩兵による近接攻撃を防ぐためである。T33はおそらく1947初めから中頃の間に完成し、1947年9月に試作第1号車が、45年1月に第2号車、第3号車がアバディーン試験場に送られた。試作車では車長用キューポラに装備される予定のE21火炎放射器はE12R4火炎放射器に置き換えられていた。アバディーンでの試験を受けたが、結局日本の終戦などの要因が重なってT33は実戦に投入されることはなかった。当初、20台のT33の試作が計画され、1946年1月にはさらなる300基の生産を行うという目標があったが、上述の通り日本の終戦が決定され、20台の試作も3台に引き下げられた。
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・Tanks-Encyclopedia
試作1号車と試作2号車
T33 Flamethrower Tankを改造して火炎放射器を装備した型。1953年に2台のT33がT68へと改造された。カナダが制作したラム・バジャーやシャーマン・バジャーなどの火炎放射戦車を計画のベースとし、T33の砲塔を撤去、元あったターレットリングの穴は埋められ、中央にぽつんとキューポラが装着されている。このキューポラには12.7mm機関銃用のマウントが取り付けられていた。火炎放射器は車体機銃口に装備され、220ガロン(832L)の容量を備えている。アバディーン試験場で試験も行われたが、T33同様実戦投入されることはなかった。
出典・参考元・画像引用元
・Tanks-Encyclopedia
本車はM4A1をベースとしているが、解説のしやすさと見やすさを優先し、M4A3の項に書く
アメリカは戦車にロケットを搭載したT34 Caliopeなどを開発していたが、その裏で、戦車の主武装を無誘導のロケットに換装すると言う別のロケット戦車の開発が進められていた。これは、障害物の除去や破壊などを目的としており、ベースとなる戦車はできるだけ重装甲が望ましいとされた。1943年にT76の開発プロジェクトがスタートした。T76はM4A1車体をベースとしており、主に砲塔防盾部が改装され、主砲と同軸機関銃を撤去、そこに183mmロケットランチャーを搭載した。俯角は-0°、仰角は30°だった。1943年のどこかでT76は制作され、試験が行われたが、結果は満足のいくものではなく、改良型が制作される。
出典・参考元・画像引用元
・TOP WAR
T76の改良型。M4A3 HVSS車体をベースとし、砲塔に砲身長を延長したロケットランチャーを搭載している。また、砲塔の上にはT73で使用されたロケットランチャーと同じものが搭載されている。他にも瓦礫や障害物の除去のため、ドーザーも装着されている。T76E1も試験が行われたが、結果がT76とほぼ変わらず、この計画のこれ以上の発展は無意味と考えられた。しかし、無誘導ロケット戦車に対してアメリカ陸軍は興味を失わず、改良型のT105 Rocket Launcherが開発されることになる。
出典・参考元・画像引用元
・TOP WAR
本車はM4A1をベースとしているが、解説のしやすさと見やすさを優先し、M4A3の項に書く
障害物や要塞、トーチカなどを破壊するために7.2インチ(183mm)ロケットランチャーを装備したM4A1。T76・T76E1の改良型で、M4A1からの改造点は、75mm砲を183mmロケットランチャーに換装、車体の7.62mm機関銃は廃止された。砲塔全体に設計変更などは特になく、防盾部に少しの改造が加えられただけだった。ロケットランチャーは四角形をしており、ロケット本体はフェアリング(空気抵抗を軽減するために被せる部品)なしで、全長890mm、重量28kgで固体燃料でロケットを180kmまで加速させることができ、300m未満にある目標に対して攻撃が可能だった。しかし、このT105は自衛のための武装が全くなく、また戦場で300mが最高射程では使い物にならないことは明らかで、しかも狭い車内で装填手が183mmの大口径ロケットを装填するのも一苦労であったため結果的にこのT105は試作のみで終わり、生産には移行されなかった。しかし、米軍はロケット戦車に対して興味を失わず、新型ロケット戦車が開発されることが決定した。これがT31 Demolition tankである。
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・TOP WAR
1942年から1944年にかけてアメリカの軍事産業は様々な無誘導のロケット戦車を開発してきた。これは瓦礫や障害物の除去を目的としていたが、そのほとんどが様々な要因により試験の範囲を出ることがなかった。1944年末、T105に次ぐロケット戦車の開発がスタートした。この計画は当初「T2」と呼ばれていたが、後に「T31」と改称される。T31は、M4A3 HVSS車体に、左右に2基の183mm T94無誘導ロケットと中央に105mmのダミー砲身、そして砲塔上部に12.7mm機関銃一門、砲塔正面下に7.62mm機関銃二門を装備した新型砲塔を搭載、また、地雷対策で車体底部装甲は38mmに増強されていた。無誘導ロケットは5発リボルバー弾倉付でT105などの単発ロケットと比較して障害物の除去が楽になった。その他にも機銃手ハッチまたは車長用キューポラにE12R3火炎放射器が装備可能だった。試作車は1945年8月に完成し、工場から直接アバディーン試験場へ送られた。試験の結果、5発リボルバー弾倉の回転駆動に問題があることがわかり、試験中に左の弾倉が動かなくなることもあった。他にも、T31の完成時は終戦の数週間前で、アメリカ陸軍が不要なプロジェクトの資金を削減してもいた。弾倉の故障により、テストは終了し、アメリカ陸軍にも興味を失われ、1946年1月14日、T31プロジェクトもとい、一連のロケット戦車開発計画は正式に中止された。唯一のT31は戦後もしばらく保管されていたが、無用とされ処分された。
出典・参考元・画像引用元
・TOP WAR
拡張したM4A3車体に155mm A1加農砲を搭載した自走砲。1943年12月、翌年に実施されるヨーロッパ侵攻作戦に支援用の中口径自走砲を投入することが決定された。しかし、当時アメリカ陸軍に配備されていたM12 155mm自走砲は砲が第一次世界大戦時のもので、また車体もM3のものを流用していたため、時代遅れと判断されてしまう。そのため、当時アメリカ陸軍の主力戦車であったM4シャーマンを使用して新型の自走砲を開発することになった。試作車は「T83」という開発番号が付され、1944年3月18日に工場からアバディーン試験場へ送られた。T83はアバディーン試験場で200発の射撃試験を行い、車体後部に設けられた駐鋤を下ろしてない状態でも安定した射撃を行えることが確認された。同年10月には試作第2号車、第3号車も制作され本格的な運用試験が開始された。試験の結果は上々で翌45年1月にはプレスド・スチール社に対し304両が発注された。生産は45年2月からスタートし、最終的に418両が生産された。M40はM4A3のHVSSサスペンション換装車をベースとしているが、車体幅は155mm A1加農砲を搭載するために57cmほど拡大され、エンジンも車体中央区画に移されている。車体上部設計も大幅に改装され、後部には箱型の戦闘室が設けられた。M40は1945年2月にヨーロッパ戦線で初陣を飾った後、朝鮮戦争に参戦、後にNATO同盟国にも供与され1960年代前半まで使用された。
出典・参考元・画像引用元
・戦車研究室
M40自走砲の155mm A1加農砲を203mm M1榴弾砲に換装したもの。T40(T83)のアバディーン試験場での試験を契機により大口径の203mm榴弾砲に換装することが提案され、200発の射撃試験を終えたM40(T83)試作第一号車に早速203mm M1榴弾砲が搭載された。この試作車は「T89」という開発番号が付され、アバディーン試験場で75発の射撃試験をおこなった。試験の結果は良好で、プレスド・スチール社がM40(T83)試作第4号車、第5号車として制作するはずだったM40(T83)をT89に変更せよと命令が下った。T89の試作第2号車、第3号車はジェネラル・モータース社の車両試験場で初期試験を実施した後にフォート・ブラッグ試験場において本格的な運用試験を行った。試験結果が満足すべきものだったため、1945年6月から生産が開始されたが、第二次世界大戦終戦に伴い生産は中止され、最終的に48両が完成するにとどまった。M43も1945年2月にヨーロッパ戦線に試作車3両のうち一両が投入され、そこで初陣を飾ったが、早いうちに155mm A1A1に換装されてM40となった。M43も後に朝鮮戦争に投入されている。
出典・参考元・画像引用元
・戦車研究室
M40に250mm T5E2迫撃砲を搭載した迫撃砲型。T94は1945年2月に開発が開始され、1946年に試作車が完成したが、すでに投入予定のヨーロッパでの戦闘や第二次世界大戦自体終戦しており、また搭載予定の250mm T5E2迫撃砲不足などの要因が重なり、1946年の初めに不採用となった。
出典・参考元・画像引用元
・TOP WAR
M40の砲架と主砲を撤去した弾薬運搬車型。155mm口径の砲弾を100発収容可能であった。より多数の自走砲用車体を生産することを優先するため1944年2月に計画中止となり、少数が生産されたのみに終わった。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・WARSPOT
17ポンド砲を搭載したM4A3。アメリカ陸軍兵器局はファイアフライに搭載された17ポンド砲とM36などに搭載された90mm M3砲を比較してみたいと考えていた。1943年から44年の冬の間にアメリカ軍はファイアフライの砲塔を入手する機会があり、入手したファイアフライ砲塔はM4A3(75)Wに搭載された。これが本車の誕生の経緯である。性能比較はM26、17ポンド砲搭載M4A3(本車)、76mm砲搭載M4が参加し、アバディーン性能試験場で行われた。試験結果などはここで紹介すると少し長くなるため、出典・参考元・画像引用元を参照されたし。
詳細は不明であるが、少なくとも8台のM4A3(75)W HVSSが17ポンド砲を搭載するという改造を受けている。
この画像は米国ファイアフライプログラム登録番号リストの一文面である。
以下解読(「ーー」は解読不能箇所)
2. Teleprint has been dispatched to your office with information that
4 ーー modified tanks, M4A3, ーー . 30125207, 30125082, 30125175, and 30125295, departed southampton 2 May, 1945, on ーー 293.
直訳
2. テレプリントがあなたのオフィスに発送されました。
4 ーー 改造を行った戦車、M4A3、 ーー 。30125207、30125082、30125175 及び 30125295 は1945年5月2日にーーー 293からサウサンプトンへ出荷されました。
この文面から、少なくとも4両がファイアフライへの改造のため、サウサンプトンに送られたことがわかる。文面で言及されている30125207、30125082、30125175、30125295号車はM4A3(75)W HVSSのシリアル番号30125036~30125573のなかにあり、改造されたことは確かである。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
M4A3(76)W HVSS(M4A3E8)にT99ロケットランチャーを装備した型。この戦車についてわかっていることは少なく、上の写真は当時の米国の戦車開発の状況についてクライスラーが1946年に出版した「TanksAre MightyFineThings」から抜粋されたものである。T99ロケットランチャー自体はM26にも実験的に搭載されたもので、ロケットはカリオペなどにも搭載されたT34E1ロケットである。搭載に当たって12.7mm機関銃は撤去されている。また、M26 T99では主砲とロケットランチャーは連動していたが、本車も連動式かは不明である。ランチャーは4個に分離されており、各11発づつロケットを搭載することができた。合計で44発である。上述の通り、写真から見て取れることしかわからず、詳細は不明である。
出典・参考元・画像引用元
・War Thunder Forum
ノルマンディー上陸作戦用にM4A3E8をベースとして開発された架橋戦車。Sherman SPABの橋梁は油圧シリンダーによって駆動し、他様々な機構を搭載していたと思われるが、詳細は不明である。ノルマンディー上陸作戦用には結局英国のChurchill ARKが投入されることになり、Sherman SPABは試作車3両のみが試作されるのみに終わった。
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・画像
M4A3をベースにしたTRV。1944年5月よりリマ機関車製造所及びプレスドスチール社により318両が生産された。後に60両がM74B1に改造されている。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
M32B3のHVSS装備型。1945年5月よりボールドウィン機関車製造所及びインターナショナル・ハーベスター社により80両が生産された。こちらも戦後に数両がM74 TRVの試作車であるT74に改造され、制式採用後M74B1として就役している。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
M4A3E8ベースのTRV。アメリカ陸軍の主力戦車がM26に統一されたため、M4シリーズベースのM32 TRVの後継としてM26ベースの「T12 TRV」が開発されたが、諸々の理由で不採用となったため、M32 TRVの後継はM4A3E8をベースとしたTRVとすることが決定した。M32と比べ、回収用機材の能力が強化されている。まず、M32では一つのウィンチで牽引と吊り上げを行っていたがM74では牽引用と吊り上げ用に二つのウィンチが設置され、またクレーンの吊り上げ力も静止状態で55,000ポンド(24.95トン)、移動状態で25,000ポンド(11.34トン)、主ウインチの牽引能力も90,000ポンド(42.83トン)とM32に比べ大きく上昇した。他に前照灯などの細部装備品も更新され、赤外線前照灯と暗視装置を装備している。また、M32で装備されていた煙幕弾発射用の迫撃砲は撤去されたようである。M74は1954年から1955年にかけて約1,000両が生産され、1954年2月から配備が始まった。一部は西側諸国にも供与された。その後はM47をベースとしたM88 TRVに1960年代半ばから置き換えられ、退役して行ったが、民間では1980年ごろまで使用されたものもあったと言う。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
M32B3 TRVとM32A1B3から改造されたM74。1958年までにM32B3が60両、M32A1B3が少数、M74に改造され、就役している。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
- 日本
1949年に東京兵器補給廠で改修されたM4A3E4。赤羽周辺は、太平洋戦争終結まで旧日本陸軍の造兵廠(兵器工場)が多数あり、終戦で連合国軍に占領されると、それらはアメリカ軍キャンプに転用され、いくつかは造兵廠の機械設備を流用して連合国軍である進駐アメリカ軍の兵器整備工場として用いられていた。この工場が「東京オードナンスデポ」である。朝鮮戦争勃発に伴い急遽東京都北区赤羽にある東京オードナンスデポでM4A3が改修された。これが「シャーマン赤羽スペシャル」の誕生である。しかし、朝鮮戦争もアメリカが本腰を入れて軍備の増援をすると赤羽スペシャルの存在意義は薄れ、実戦投入されることは一度もなかった。赤羽スペシャルは米国内で改修が施され、ユーゴスラビアなどに供与されたM4A3E4などとは仕様が異なる部分が多いが、残された写真が少ないため、謎の多いシャーマンである。
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・乗り物ニュース
1969年から防衛庁技術研究本部と川崎重工業が、M4シャーマンを改造して制作した車載ガスタービン試験車両。
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・WoT妄想日本戦車ツリー Wiki
- フィンランド-イスラエル
M4A4(Sherman V)
クライスラーA-57マルチバンクエンジンを搭載したM4。コンチネンタルR-975ラジアルエンジンが練習機増産により供給不足となり、M4以外にもM3中戦車などもR-975ラジアルエンジンを使用していたため、急性的なエンジン不足に陥った。クライスラーA-57マルチバンクエンジンはエンジン不足に陥ったM3中戦車のA4型「M3A4」に向けて生産されたもので、バス用に生産されていた直列6気筒ガソリンエンジン5基を扇形に束ねて連結した複列30気筒液冷ガソリンエンジンである。マルチバンクエンジンはエンジン不足に陥っていたM4にも供給され、これがM4A4になる(搭載にあたって少し車体が延長されている)。しかし、マルクバンクエンジンは整備性に問題がありアメリカ本国では訓練用にしか使用されず、訓練用以外のM4A4の多くは外国にレンドリースされた。イギリスでは、整備性に問題はあったものの、同時期のイギリス戦車と比べれば故障が少なく運用実績は良かったそうで、また、イギリス以外にも中国やフランスなどにレンドリースされた。主砲は75mm M3砲で、副武装に12.7mm機関銃(砲塔真上、装備しているものとしていないものがある)と、7.62mm機関銃2門(車体、砲塔同軸)が装備されている。また、M4A4は後期型や76mm砲搭載型などが存在せず、弾薬庫も乾式である。クライスラーで1942年7月から1943年11月までに7,499台が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
バリエーション
- アメリカ
M4A4にライトG200サイクロン空冷星型エンジンのディーゼルバージョンを搭載した実験車。元々ライトサイクロンはガソリンエンジンだったが、キャタピラー(会社)が改造し、ディーゼルや原油も使用できるようにした。改造されたエンジンはCaterpillar D200Aと呼ばれ、ディーゼルエンジンへの改造のみならず、ピストン、シリンダーヘッド、クランクケース、燃料噴射装置、潤滑油をキャタピラー製のものに換装、また、ドライブシャフトの回転速度を上げ下げするトランスファーケースも装備された。このD200Aエンジンは2000rpm(回転数)で450馬力を発揮できた。1942年、アメリカ陸軍兵器部は28基のD200Aエンジンの生産を認可、そのうち20基がM4に搭載されることになった。1942年11月、D200Aエンジンを搭載したM4は「M4E1」と命名された。M4E1はベースにマルチバンクエンジンを搭載するために車体が少し延長されたM4A4を使用していた。1台目のM4E1は1942年12月にキャタピラー社の持つ「Caterpillar Proving Grounds(キャタピラー試験場)」で試験が行われた。2台目は1943年1月にフォート・ノックスに行き、3台目はゼネラルモーターズ社の試験場へと送られ、4台目は1943年5月にフォート・ノックスへ送られた。試験ではクラッチの不調や、ピストンが運動中にシリンダーを傷つける、変速機の信頼性が低いなど様々な問題が露呈し、改善する必要性に迫られた。しかし、72及び80オクタン価燃料を使用したテストではこれらの燃料でもエンジンが問題なく稼働することもわかった。前述した問題点はあったものの、テストではD200Aエンジンが実用に耐えうるエンジンということがわかり、めでたくCatarpillar D200AエンジンはOrdnance Engine Model RD1820(Catarpillar)として制式化された。このエンジンはのちのM4A6に搭載された。M4E1は2台が更なる試験のためにフォート・ノックスに残り、一台がアバディーン試験場に残ったが残りの車両は廃棄され、残った車両ものちに廃棄処分となっている。
出典・参考元・画像引用元
・Wydawnictwo Militaria 308 M4 Sherman
・Military History Encyclopedia on the Web
105mm榴弾砲搭載M4の第一次試作車。105mm榴弾砲搭載M4は機甲部隊の使用する機甲歩兵を援護する支援戦車として開発が開始された。105mm榴弾砲を搭載するため、砲架と防盾は新規設計のものが採用された。M4A4E1では「combination mount T70」と呼ばれる砲架が使用されており、防盾もT70に合うように制作されていた。この砲塔は1942年11月までに準備が整い、二台のM4A4に搭載された。M4A4E1のテストは1942年12月7日にアバディーン試験場で開始され、その後フォート・ノックスでも行われた。これらのテストは105mm榴弾砲の発砲機構、反動、砲塔バランスなどの問題点を浮き彫りにし、105mm榴弾砲の改善の必要性を訴えた。
出典・参考元・画像引用元
・Military History Encyclopedia on the Web
本車はM4をベースとしているが、解説のしやすさや見やすさを優先し、M4A4の項に書く
105mm榴弾砲搭載M4の第二次試作車。以前のM4A4E1の問題点を改善した車両。M4A4E1で起こった問題は防盾にあると踏んだ装甲委員会は1943年2月にM4A4E1の防盾の再設計を命じた。これにより「Combination Mount M52」という新設計の防盾が開発され、3人の搭乗員用の砲塔バスケットも新設された。M4E5は1943年の前半に2台試作され、1943年8月にアバディーン試験場、その後フォート・ノックスに移された。M4E5に搭載された105mm T8砲はM4A4E1に搭載された105mm砲よりも軽量で、また新型防盾のおかげで仰角、俯角共に上昇した。75mm砲搭載M4にあるジャイロスタビライザーも105mm砲搭載M4には不要であると判断され使用されなかった。その後、装甲委員会はM4E5の正式化を承認、1944年2月から生産が開始されている。
出典・参考元・画像引用元
・Military History Encyclopedia on the Web
Chrysler A-65 V-12エンジンを搭載したM4A4。搭載経緯などは不明であるが、M4A4に搭載されているA-57マルチバンクエンジンの出力強化などの目的があったと思われる。A-65 V-12エンジンはクライスラーが開発したV型12気筒水冷ガソリンエンジンで、総馬力650馬力、正味馬力575馬力が期待されていた。1943年1月にクライスラーはA-65 V-12エンジンをM4に搭載する許可を求め、3月にはテスト用にM4A4が送られた。また搭載に当たって車体は241mm程、下方に伸びるように延長された。A-65 V-12エンジンは搭載された当初は549馬力だったが後に圧縮比を上げる改造を受け580馬力にアップしている。M4E3は1943年5月末までにA-65 V-12エンジンの性能を見るため通常のM4A4との比較試験を受け、ここで良いパフォーマンスを見せた。また、陸軍が推奨するフォードエンジンを使用したM4A3とのドラッグレースでは勝利を勝ち取り、従来のエンジンよりも優れていることを証明した。これまでの試験含む400マイル(644km)の走行のあと、状態の確認を行うためにエンジンが取り外されたが、前述した距離を走行した後でもエンジンに異常はなく、良好な状態を保っていたという。しかし、アメリカ陸軍はそれ以上のエンジンの開発を進めず、この計画は1943年11月22日に中止になってしまった。はっきりとした理由は不明である。
出典・参考元・画像引用元
The Sherman Tank site
派生型
- アメリカ
M4A4に90mm M1高射砲を搭載したもの。1942年の夏、M10に90mm砲を搭載する計画と並行して、M4に90mm砲を搭載するという提案が出された。対空も対戦車もできるというコンセプトで、基本的にはM4のレイアウトを維持しつつ、エンジンを後部に、操縦手を前部に、戦闘室を中央に配置するというものだった。1942年7月に兵器委員会によって承認され、正式に「90mm Gun Motor Carriage T53」と名付けられた。試作車両はクライスラーによって試作され、M4A4をベースとしていた。クライスラーの試作した車両はエンジンがM4、M4A1で使用されたコンチネンタルR-975に換装されており、またコンセプト通りでなく、エンジンを中央に、戦闘室を後部に配置していた。エンジンを中央に移したので、変速機、ファイナルドライブも少し上向きに傾け、辻褄を合わせた。搭載された90mm M1高射砲は未使用時には側面の起倒式の装甲板を起こし、部分的に戦闘室に装甲保護を加えた。T53は1942年8月にアバディーン試験場で試験を行った。しかし、結果は惨憺たるもので対空の面では90mm砲を最大仰角にすると砲が安定せず対空がままならないということや、主砲が重心と離れすぎていたために車体の安定性に悪影響を及ぼしたり、斜面にいる際は仰角を調整したり、主砲を旋回させることすら困難になった。2回目の試験では装甲の不足、車高の高さにより自車が発見されるリスクが高いこと、機動性の低さ、搭載可能弾薬数の少なさなどが露呈した。これらの欠陥にもかかわらず、T53の開発は継続された。のちの改良型は「90mm gun motor carriage T53E1」と名付けられた。
試作1両目
試作2両目
T53の改良型。T53のレイアウトを一新し、元の構想通り、エンジンが後部に移り、操縦手は前部に、戦闘室は中央になった。試作1両目は砲の稼働範囲部が開いた箱型の戦闘室を採用しており、M4A4の中央部を大きくえぐり、そこに新設の戦闘室を設けている。また、戦闘室の左右の1/2インチ(1.27cm)厚の装甲板にはバールやシャベルが取り付けられていた。この装甲板はヒンジがつけられていて起倒式(試作1両目の画像2枚目参照)で、戦闘時に開くことができた。箱型戦闘室は0.5インチ(1.27cm)の装甲で構成されていてボルト留めであったが、このボルトが非常に外れやすくて軟弱であった。このボルトの軟弱さと言うのが指摘され、戦闘室を少しいじった試作2両目が制作されることになった。試作2両目は車体の構成は試作1両目と全く同じだったが、戦闘室が天板のない鋳造の1/4円型の装甲板二枚のみとなった。T53は対空も目的としていたことから、視界の改善も意図していたと思われる。T53E1はキャンプデイビス(Camp Davis)でのテストに向かったが、やはり装甲保護の不十分さ、搭載可能弾薬数の少なさ、車高の高さによる発見のリスクが問題となり、プロジェクトは1944年5月25日にキャンセルされた。
出典・参考元・画像引用元
・WT live
機動性の改善を意図して計画された大直径式転輪を履いたM4A4。M4A4の生産元であるクライスラーはマルチバンクエンジンを搭載するにあたり、車体を延長する必要があった際についでならもっと性能を良くしようと考え、大直径転輪を装備することを思いついた。ちなみに、このM4A4は大直径転輪であるがためか、クリスティー式サスペンションを搭載しているとも言われているが実際にはクリスティーサスペンションはスプリング(いわゆるサスペンションのばね)を車体内部に、本車は外部に装備しているため別物である。また、クリスティーとアメリカ陸軍との関わりは公式には1939年3月の兵器部との会談で、それ以後アメリカ陸軍の戦車などに関わることはなかったため、これがクリスティー式サスペンションであるとは考えにくく、そもそも1942年2月に兵器局によって製作されたこのM4の図面はクリスティー式サスペンションの配置とは逸脱していた。大直径転輪はT4中戦車で使用されたものの改良版で、T4中戦車では4つだった転輪もM4A4では片側5つに増加している。履帯は470mm幅(VVSSサスペンションのM4A4は421mm幅)のものになり、転輪はそれぞれ個別のアームに取り付けられ、対応するスプリングシリンダーは傾斜していた。しかし、計画が進む中でどうもスプリングシリンダーがM4A4の重量に耐えられないのではないか、と言う話が上がり、解決策としてより重いコイルスプリングを採用し、これらを車体下部の側面外部に沿って垂直に装着するという改良方法が採られた。
1942年2月当初の図面。シリンダーが前方に傾斜して配置されている。外側に配置するということは転輪なども外側に押し出されるということで、おそらく輸送時には何かしら問題があったのではと考えられる。
参考元より、VVSSサスペンションを備えたM4A4と改良後の大直径転輪を備えたM4A4との比較(縮尺通りではない)。コイルスプリングが垂直に配置されているのがわかる。
重量の問題は一応ではあるが解決し、この大直径転輪を備えたM4A4はある程度実用性がありそうなのがクライスラーによって証明されたにもかかわらず、計画は図面から進むことはなかった。理由の一つとしてVVSSサスペンションは大直径転輪よりシンプルで信頼性が高く、アメリカ陸軍は大直径転輪への置き換えのメリットをおそらく見出せていなかったことが考えられる。また、上で挙げたように輸送時にも足回りの幅のせいで障害があると思われ、それもこの大直径転輪を装備したM4A4が紙面から抜け出せなかった原因と考えられる。
出典・参考元・画像引用元
・Tank Encyclopedia
M4A4 USA3031035号車にT22トラクター(M6トラクターの試作名称)のサスペンションを履かせたもの。1943年ごろは、M4の機動性や走破性を上げるための改造が頻繁に行われている時期であった。そんな中、1943年の春にアリス・チャルマーズ(Allis-Chalmers)社は自社で開発中のT22のサスペンションをM4A4に試験的に履かせることを決定した。T22の走行装置は22インチ(559mm)幅の履帯と水平スパイラルスプリング(渦巻きばね)を備えたサスペンションで、M4A4に装備されて1944年前半にアバディーン試験場で試験が行われたが、T22のサスペンションは戦車に使用するのには不適切とされ、不採用となった。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・WARSPOT
M4A4をベースとしたCDL(Canal Defense Light)。詳細はM4A1の項の「M4A1 CDL」を参照されたし。
M4A4に火炎放射器を搭載したもの。詳細はM4A2の項の「M4A2 Sherman crocodile」を参照されたし。
M4A4をベースにしたTRV。他のシャーマンベースのTRVと違い、円形の砲塔を装備せず、一つの大きなクレーンのみを装備している。M4A4はアメリカでは訓練用にしか使用されず、イギリスなどでもすでに別途で戦車回収車があったため(Sherman ARV)、M32B4は試作車であるT5E4が1両制作されたにとどまった。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
- イギリス
ホルストマン式サスペンションを履いたM4A4。機動力の向上を目的とし、1943年に英国で試作車が完成、試験では優れた安定性と機動性を持っていることが証明されたが、同時期に出現したHVSSサスペンションに堅牢性で劣るとされ、不採用になった。
出典・参考元・画像引用元
・Horstman Group
M4A4に17ポンド砲を搭載した型。17ポンド砲は1943年2月に登場して以来、ティーガーやパンター相手にその強力さを見せつけた。この17ポンド砲はティーガーやパンターに対抗できる唯一の砲としてノルマンディー上陸作戦での使用も考えられていた。しかし、上陸に対戦車砲を使用するのは不都合なため、車載化が必要であった。そんな中、1943年6月にシャーマンに17ポンド砲を搭載するという案が北アフリカ戦線で経験を積んできたウィザリッチ少佐(ウィザーリッジ、ウィスリッチとも)によって提出された。しかし、これはチャレンジャー巡航戦車(当時開発されていたクロムウェルをベースとした17ポンド砲搭載の巡航戦車)を支持していたイギリス軍需省(供給省)によって拒否されてしまった。それでもウィザリッチ少佐はめげず、王立機甲軍総監レイモンド・ブリッジス将軍にこの案を直訴、その後様々なテストを行なってこの案が有用であるとの結論を出すに至った。反面、イギリス軍需省の支持していたチャレンジャーは開発が遅れ、使用予定ノルマンディー上陸作戦には間に合わなさそうなことがわかった。17ポンド砲を搭載するにあたり行われた改造は、シャーマンに対しては砲塔後部のバッスルを切り抜き、奥行きを持たせた上で当時のイギリス軍標準無線機であったNo.19無線機を搭載させ、17ポンド砲の長い砲尾を収めたり、装填手のハッチが新設されたことで、17ポンド砲に対しては車載時に駐退機砲身を中心として右上と左下という斜め対称の位置に変更したり、砲身を20cmほど延長させたり、水平鎖栓としたことである。また、大きな17ポンド砲砲弾を搭載するために、車体の機関銃手席を潰して、そこに砲弾ラックを新設した。車体、バスケット下にも砲弾が搭載できるようになっている。翌年1月6日には17ポンド砲搭載M4の試作車が完成、そこから一週間の間にさらに5台の試作車が完成した。ファイアフライは生産というよりは既存のM4からの改造で制作しており、ウーリッジ工場で一生懸命に改修作業が始まった。ファイアフライは1945年5月末までに2,139両が完成し、イギリス、カナダ、ポーランドの各機甲部隊やヨーロッパ戦域に展開している第21軍集団全体、イタリア戦線などで使用された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・Tank Encyclopedia
イギリス軍がアメリカから供与されたM4A4の砲塔左右にRP-3 60ポンドロケットを搭載したもの。発案はコールドストリームズガーズの第一大隊所属の少尉であったロバート・ボスコーエン(Robert "Bob" Thomas Boscawen 1923年3月17日- 2013年12月28日)と、彼の友人であるダーモット・マスカー大尉(Dermot Musker 生年月日、詳細ともに不明)で、おそらくカナダ軍がスタッグハウンド装甲車の砲塔左右にRP-3ロケットを搭載したことに影響を受けたと思われる。RP-3ロケットはオランダはネイメーヘン近郊のイギリス空軍基地にあるタイフーン戦闘爆撃機からかっさらい、1945年3月16日にM4A4の砲塔左右に取り付けられた。RP-3ロケットの発射器はタイフーンのものをそのまま持ってきており砲塔天板に溶接されている。翌日にはテスト発射が行われた。結果は不明であるが、その後、コールドストリームズガーズの第1大隊を構成する第2戦隊全体から第1大隊全体のシャーマン戦車にこのRP-3ロケットが装備されることが決定されているため、おそらく実用に耐えるものだったのであろう。シャーマンチューリップは飽和攻撃などでの使用を意図されており、1945年3月23日までには第2戦隊の全シャーマン戦車の砲塔両側面にRP-3ロケットの搭載が行われた。シャーマン・チューリップは600ヤード(約548m)離れたところから特殊部隊「ブランデンブルク」が潜む森に向かって2つのロケットを発射、「ブランデンブルク」を含む30~40人が諦め、出てきたところを捕虜にすることに成功するなど戦果を残した。RP-3 ロケットは建物などにも有効で、また、敵への威圧にも非常に効果的であった。その後のRP-3 ロケットを搭載したシャーマン・チューリップの行方は不明であるが、おそらく、そのまま終戦を迎え、破棄されたと思われる。
ファイアフライをベースとしたシャーマン・チューリップも存在している
出典・参考元・画像引用元
・Tank Encyclopedia
イギリス陸軍王立砲兵隊の制作したM4ベースの司令塔戦車。内部スペースを確保するために75mm M3戦車砲を取り外し(代わりに木製の偽の砲身が取り付けられている)、内部に既存の無線機とは別にイギリスのNo.18無線機とNo.19無線機を増設し、合計3つの無線機を搭載している。他に、外部にもNo.38無線機2つを搭載している。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
・The Miniatures page
M4A4(Sherman V)をベースとし、イギリスが製作した架橋戦車。M4A4(Sherman V)の砲塔を撤去し、そこに折りたたみ式の橋梁を搭載したのは見た目から分かるがそれ以外の詳細が不明。1944年4月4日に撮影されたとされる正面、側面、後面からの写真がある為、1944年前半頃に試作されたのは推測できるが実戦での使用時と思われる写真がない為試作のみで終わったと思われる。
出典・参考元・画像引用元
・ThinkDefence
REME(王立電気機械工兵)がM4A4の砲塔を撤去しARV(装甲回収車)とした型。元々砲塔があった部分にはキューポラが増設され、Aフレーム型ブーム(クレーン)を装備している。このAフレーム型ブームは通常時は側面にストラップで固定されており、必要になったら車体前面の変速機部に取り付ける。その他、様々な回収機器が搭載されていたと推測できるが、主に何が搭載されていたかなどは不明である。車体の7.62mm機関銃は撤去されているが、代わりに車体上部にブレン軽機関銃を二連装にして装備した型もある。Sherman ARV Mk.Iは1945年半ばまでに221台が生産され、そのうち188台がM4A4ベース、32台がM4A2ベースだった。ARV Mk.Iはノルマンディー上陸作戦からVEデーまで使用され、1st Lothians and Border Yeomanryの中の戦隊ごとに20台のARVが配備されていた。
Aフレーム型を展開した状態のSherman ARV Mk.I。上部のブレン軽機関銃も見える。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
Sherman ARV Mk.Iの車体上部に固定の戦闘室を設置した型。装備されている砲身はダミーである。この箱型戦闘室には二つの特徴的な形をしたキューポラが追加され、その前にはクレーン用のリールが見える。Sherman Mk.Iでは前部に一つしか装備できなかったクレーンもMk.IIでは3つ装備できるようになっていて、一つは車体前部に設置できる3.5tウィンチ、戦闘室に設置できる60tウィンチ、後部に設置できる9.5tウィンチである。これもおそらくREME(王立電気機械工兵)によって改造されたと思われるが、量産までは行かずに終戦を迎えている。
出典・参考元・画像引用元
・ARMED CONFLICTS.COM
- インド
インドがソ連から輸入したPT-76のD-56T 76.2mm戦車砲をM4A4に搭載したもの。だが、製作年などが不明なため、展示の際無理やり搭載して、格好を整えた可能性も考えられる。
出典・参考元・画像引用元
・For the Record
・War Thunder Forum
M4A5(ラム巡航戦車)
M3中戦車をベースにしたカナダ産の巡航戦車。当時カナダはイギリス連邦軍の一員として軍備の増強を迫られていた。しかし、イギリスはカナダに回せるほどの戦車がなく、アメリカも同じような状況で、カナダは自国で戦車を調達する必要があった。そのため、カナダはケベック州のMLW社を通じて親会社のアメリカ・ニューヨーク州スケネクタディのALCO社に支援を要請した。当時ALCO社はM3中戦車を生産していたので、ライセンス生産が真っ先に考えられたが運用などに問題があるため、M3中戦車をベースとして新たな戦車を開発することとなった。それが、「M4A5(ラム巡航戦車)」である。エンジンや駆動系はM3中戦車のものを使用、主砲は当初6ポンド砲を予定していたがイギリス側が渋ったため、Ram Mk.Iは2ポンド砲を搭載している。他に、7.62mm機関銃も搭載している。1941年6月にはラム巡航戦車の走行試験車が完成し、アバディーン試験場で試験を行っている。製作自体はカナダで行っていたものの、上部車体と砲塔の生産はアメリカ・ペンシルヴェニア州エディストーンのGSC社(General Steel Castings:総合鋼鋳物製作所)で行われ、カナダに送られていた。これは、この大きさの砲塔や車体を鋳造で製作するのはカナダ国内のメーカーでは不可能であったからである。2ポンド砲を搭載したM4A5(ラム巡航戦車)は「Ram Mk.I」と命名され、1941年11月から1942年2月までに50両が生産された。M4A5(ラム巡航戦車)はMk.II型(6ポンド砲を搭載したRam)と合わせて1949両が生産されたが、M4シャーマンと比べ装甲や武装が劣っていたためにその必要性は薄れ、大半がイギリスに送られて訓練に使用された。画像は2ポンド砲搭載の前期型。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版WIkipedia
・WIkipedia
・戦車研究室
バリエーション
前期型
後期型
ジャイロスタビライザーを搭載した6ポンド砲を搭載したラム巡航戦車。カナダとしてはこれが完成形であった。Ram Mk.IIは前期型と後期型があり、前期型はRam Mk.Iと同じように機銃塔、車体側面にドアがあったが、後期型では、機銃塔を廃止しボールタレットに置換した他、車体側面のドアも生産工程を複雑にする上に弱点となるという理由で廃止された。1942年2月から1943年7月までに1899両が生産された。
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・戦車研究室
・日本語版WIkipedia
派生型
Ram Mk.IIをベースとして制作された弾着観測/指揮戦車。砲塔の旋回範囲が左右45°になった他、動力やバスケットを撤去、また主砲もダミーに置き換えられた。観測装置に加え、車体と砲塔にNo.19無線機を一つづつ搭載し、また、Wireless Set No. 58(カナダがライセンス生産したNo.18無線機)も一つ搭載し、乗員も6名に増えた。1943年に84両が生産?改造?された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版WIkipedia
・WIkipedia
イギリス軍向けにカナダが製造した自走砲。歴史についてはM4A1の項の「25pdr SP SextonII」を参照のこと。セクストン自走砲はほとんどがグリズリー巡行戦車の車体を用いて生産されたが、初期生産車の125両だけはラム巡航戦車の車体を用いて生産されていた。
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・日本語版Wikipedia
Ram Kangaroo(下の共通の改造を参照されたし)をベースとした弾薬運搬車。砲塔を撤去し、そこにハッチ付きのプレートを搭載した。セクストン自走砲用の25ポンド砲弾の運搬を主目的とし、セクストン自走砲を装備する部隊に配備された。
出典・参考元・画像引用元
・日本語版Wikipedia
・WIkipedia
写真はないが、1944年に40インチのサーチライトがいくつかのRam Kangarooに搭載されたようだ。これらは主に夜間に使用されている飛行場に照明を提供したという。
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・FRAMES OF WAR
Ram Mk.IIをベースとした火炎放射戦車。カナダが制作したWasp IIC火炎放射器を搭載したユニバーサル・キャリアは歩兵の援護という役目に対して大成功を収めたが、対戦車火器や、小銃に対しても装甲の保護が足りず、その結果1945年に第5カナダ機甲旅団によってRam Kangarooをベースとした火炎放射戦車が制作された。火炎放射器はWasp IICを使用し、車体前部のボールタレットに変わって装備することになった。この際、砲塔は撤去され、火炎放射器用の燃料タンクに置き換えられた。砲塔のあった場所には装甲板がはられ、後に車長用の対歩兵用7.62mm機関銃を搭載したハッチも装備された。これが実戦で使用されたかどうかは不明である。
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・FRAMES OF WAR
17ポンド砲牽引用に改造されたRam Mk.II。17ポンド砲の弾薬と17ポンド砲の操作員の運搬も同時に行っており、弾薬を搭載するスペースを確保するために砲塔は撤去されている。また、後部に牽引用フック、前部にピントル・フックも増設されている。実際に使用されたかは不明である。
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・日本語版WIkipedia
・FRAMES OF WAR
QF 3.7inch高射砲を搭載したRam Mk.II。QF3.7inch高射砲をラム巡航戦車に搭載して自走高射砲とし、必要であれば対戦車戦闘も可能にすると言うコンセプトで開発され、1943年に試作車が完成した。試作車は、上部が大きく開いたオープントップで、防盾は正面のみに取り付けられている。砲は正面と上方のみ向けられたが車体側面の装甲板を倒すことにより主砲を側面に向けさせることも可能だった。1943年5月に試験が行われたが、重心が高く発砲時に非常に不安定になるほか、反動が強く、発砲の際に砲架にひび割れの兆候が出たため試験は中止、量産もされずに終わった。
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・FRAMES OF WAR
Ram Mk.IIをベースとしたBARV(ビーチ装甲回収車)。試作までされたが、Ramの左右非対称の車体を防水することは困難で、またBARVはシャーマンベースのもので事足りるとして量産はされなかった。
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・FRAMES OF WAR
Ram ARV Mk.I
Ram ARV Mk.II
Ram Mk.IIをベースとしたARV(装甲回収車)。Mk.IとMk.IIの2両が試作された。各種装備品はSherman ARV Mk.I、IIと同様である。配備された部隊では好評であったと言う。
出典・参考元・画像引用元
・WIkipedia
・FRAMES OF WAR
M4A6
RD-1820星形空冷9気筒ディーゼルエンジンを搭載したシャーマン。1943年後半に兵器委員会はRD-1820エンジンの1000基の増産を命令し、この内775基がM4A6に搭載される計画だった。このエンジンはM4A6に搭載される前にM4E1という実験車に搭載されており、M4A6はこのエンジンを搭載した完成系であった。車体はコンポジットシャーマンのように前部が鋳造、中部から後部にかけて溶接で、またRD-1820エンジンを搭載するためにエンジンデッキに細部の改良が加えられた。生産会社はクライスラーで、デトロイト戦車工廠から1943年10月28日に最初のM4A6が出荷された。M4A6は従来のシャーマンシリーズと比べて高レベルな性能と燃費を実現することができたが、1944年2月、急遽M4A6は「限定標準(アメリカ陸軍内で用いられる用語で、特定の要求は満たしているものの、全体で見た時に不備が見られるもの)」とされ、生産は75台目のところで中止された。これは、アメリカ陸軍の使用エンジンがガソリンエンジンに転換されたことに起因している。生産された75台のM4A6は第777戦車大隊に配備され、訓練車両として使用された。
出典・参考元・画像引用元
・Tank Encyclopedia
シャーマンに共通する改造
DDは第二次世界大戦中に開発された浮航装置。DDとは「Duplex Drive(複合駆動)」の略。戦車用の水陸両用装置は元々はイギリス軍が考案したのが始まりで、DD自体はハンガリー出身のニコラス・ストラウスラーが考案した。DDは、防水生地を用いた折りたたみ式のスクリーン型の防水装置で、シャーマン用のものはそれに加えて車体下部の隙間を埋め、プロペラ駆動装置、車体を一周するストラウスラー式防水スクリーンとそれの膨張装置を追加した。また、シャーマンはバレンタイン DDなどと違い砲塔を前に向けたまま防水スクリーンを装着することが可能で、これにより防水スクリーンを下げてから瞬時に発砲が可能だった。推進力は後部に装着された1対のプロペラで、このプロペラの動力はスプロケット(軸の回転をローラーチェーンに伝達したり、ローラーチェーンの回転を軸に伝達するための歯車のこと)を介して履帯から伝えられた。航行速度は7kmで、プロペラの操縦を担当するのは操縦士と車長である。スクリーンは15分で膨張でき、海岸に到着後15分でシボませることができた。また、シボませた浮航装置は戦闘中は消耗品とみなされ、破棄することが想定された。シャーマン DDはM4、M4A1、M4A3、M4A4などで使用され、主にノルマンディー上陸作戦やユタ・ビーチ、ジュノー・ビーチなどで使用された。
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・日本語版Wikiepedia
- E9キット
-
M4の車体とサスペンションの間に4 1/2 inches(11.43cm)間隔を開け、拡張エンドコネクターを履帯の両端に装備したもの。M4の機動性や走破性の改善を意図して制作された。エンドコネクターの生産は1944年の夏に開始され、630台用の10万個のコネクターが10月初旬までに生産された。更に翌年45年4月までには130万のコネクターが生産され、アメリカ陸軍に渡されたほか、その内60万個のエンドコネクターはイギリス軍にレンドリースされた。生産されたE9は「E9改造キット」として前線に送られた。E9が装備されたM4は16 9/16インチ(約42cm)まで履帯幅が増加した。M4以外にも、M36、M36B2、M32B1 TRV、M7B1などに装着されている。しかし、1944年8月にはVVSSサスペンションの機動性や走破性の向上を目的としたHVSSサスペンション装備車が増えつつあったため、HVSSサスペンションと互換性がないE9キットは徐々に需要が減少し、またE9キットはM4に装着するのに非常に手間が入り時間もかかるため、1945年5月には生産が終了した。また、すでにE9に改造済みのM4A1(M4A1E9)を生産し配備する予定でもあったが、終戦を迎えてしまったため、すでに生産済みだったM4A1E9はMDAPにより諸外国に輸出された。オランダに渡った50両のM4A1E9の内、1両がオランダ国立軍事博物館に展示されている。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
・Surviving Allied WW2 Tanks
- M4 Composite 37inch Track
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M4 Compositeに37inch(約93.98cm)幅の履帯を履かせた型。車体とサスペンションの間に間隔を置き、履帯に拡張エンドコネクターを装備した。1944年後半にデトロイト戦車工廠の試験場とアバディーン性能試験場の両方の泥濘地のコースで走行試験が行われた。結果は良好で、 HVSSサスペンションに装備されているHVSS T80履帯より接地圧も下がっていた。1945年2月に1000キットの生産が認可されたが、この履帯を履いてるM4シリーズの写真がほとんど無いため、戦争の終わりが近づいてきたのでこの1000キットの生産は削減か終了、中止された可能性が高いと思われる。
また、37inch以外に32.5インチ(82.55cm)幅の履帯を備えたM4A3もあることがわかっている。こちらも試験のみで終わった可能性が高い。
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・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
- Platypus Grousers
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直訳で「カモノハシグラウザー」。グラウザーとは雪上や土上を走行する際に、接地圧などを下げより走行しやすくするためのもの。このプラティパスグラウザーはどちらかといえば牽引力の向上を目的として開発された。プラティパスは牽引力の向上だけでなく不整地や泥濘地での走破性も改善してくれたが、反面市街地や道路など整備が行き届いている場所では邪魔で、重量も嵩み、また障害物にぶつかるとすぐ壊れてしまった。プラティパスグラウザーは耐用年数を約400マイル(約644km)と指定され、少数が配備、M4に装着され運用された。
出典・参考元・画像引用元
・WARSPOT
- Suggested Design to Increase Floatation
-
終戦直前の1945年1月11日に提出されたシャーマンの接地圧を極限まで下げるための案。これはシャーマンの既存の履帯及び転輪の隣にもう一つ履帯と転輪を装備するという策であった。結局これはシャーマンではなくT95駆逐戦車にて実現されることとなる。
出典・参考元・画像引用元
・SHERMAN MINUTIA WEBSITE
ドーザーブレードを戦車に装着するという試みは1940年から41年にかけて北アフリカのイギリス陸軍によって行われた。ドーザーブレードは戦車の進路上にある障害物や地雷を排除するのに有効とされ、実際活躍していた。アメリカ軍はそれに影響され、ドーザーブレードをアメリカ軍にも用いようと考えた。ブレードの製作は技術者委員会機械設備部門を監督したカールF.エクルンド少佐と、エンジニアのウィリアム・J・マーウィが行った。彼らは、キャタピラー・トラクター・カンパニーと、ドーザーブレードの生産会社であるレトゥーノー社とラ・プランテ・チョート・カンパニーの合計3社と協力し、さまざまなブレードを戦車に取り付ける実験を行った。これらのデータから戦車に装備でき地雷除去に最適なブレードの開発を行なった。エクルンドはこれらの作業を自主制作という形で、米国には費用などを求めず作成することを各社に求めた。彼らは様々なバリエーションを制作し、戦車に搭載しての実験を繰り返した。1943年6月、フロリダはフォートピアスのビーチ障害物コースでドーザーの実験を行い、レトゥーノー社の開発したドーザーと、ラ・プランテ・チョート・カンパニーの開発したドーザーが実験に成功した。その後、両方のドーザーがアメリカ陸軍によって承認され、M4シャーマン用に正式に「ブルドーザー、戦車取り付け用M4A1、M4A2、M4A3戦車」として購入された。レトゥーノー社のドーザーはケーブルで操作でき、ラ・プランテ・チョート・カンパニーのドーザーは油圧によって操作された。これらブルドーザーの大量生産が始まったのは1943年12月で、イタリアの部隊に最初に配備された。これらドーザーはVVSSサスペンション用のM1ドーザーと、HVSSサスペンション用のM1A1ドーザーが製作され、M1A1ドーザーはM1と比べて14インチ(36cm)幅が広くなっていた。
M1ドーザー
M1A1ドーザー
その後ドーザーはイタリアで初めて使用され、その効果を発揮した。そのため、ノルマンディー上陸作戦からVEデーまでの間、ヨーロッパ戦域(ETO)での需要が急激に上がり、アイゼンハワー将軍もこれらドーざーなどの供給を増やすことに個人的関心を示した。が、現場での供給に生産は追いつかなかった。ノルマンディー上陸作戦の場合、1944年5月9日より前に合計393基のドーザーが米軍用に、さらに100基がイギリス軍用に、24基がフランス軍用に要求された。しかし、実際にアメリカ軍が受け取ったのは1944年4月に24基、5月に81基で、予定より大幅に少なかった。しかしそれでも、ドーザーは重要視され、ビーチの障害物を除去し、車両がビーチから移動するのに不可欠であった。
出典・参考元・画像引用元
・PANZERSERRA BUNKER
- アメリカ
T1E1
M32戦車回収車用に製作された対地雷処理ローラー。それぞれ直径1mの6枚のディスクを備えた3つのローラーが車体の変速機部に固定されて置かれ、それらはワイヤーで支えられていた。T1E1を搭載した場合のM32戦車回収車の最高速度は16km/hにまで低下した。また、地雷を除去する際の速度は5km/hであった。T1E1はガーウッド・インダストリーズ社によって75基が生産され、1944年4月から6月にかけて50基がヨーロッパ戦線に送られたが、実戦での使用にはあまり適しておらず、その後全てが前線から引き上げられた。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T1E2
T1E2はT1E1の改良型で、T1E1では3つであったローラーが2つに減少した。その代わりディスクの直径が1.8mに拡大し、重量を680kg以内に抑えるためにそれぞれに穴が開けられていており、枚数も7枚に増えた。少数が生産された。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T1E3
T1E3はT1E2の改良型で、それぞれ直径244cmの10枚のディスクを備えた対地雷処理ローラーである。ディスクは一枚当たり2.086tの重量を超えないように穴が開けられ、5枚づつにまとめられて2つ配置され、両方が独立して動けるようになっていた。どうも本車はローラーを自由可動式とするのではなく起動輪から動力を得ているらしく、ローラーチェーンが巻かれている。また、このT1E3を装備したシャーマンには後部にプレートが装備されているが、これはT1E3のディスクが重量過大の為、泥濘地などでハマってしまった際に押して助けてもらえるようにする為である。1944年3月から12月にかけて200基のT1E3が製造され、5月に2基がイタリアに、2基がイギリス将校の見学のためイギリスに送られた。また27基のT1E3が7月中旬に第一軍に配備され、7月29日にはフランスのレセ近郊に2基のT1E3が配備された。他にもフランスのメッスとナンシーの間に配備され、しばらくの間使用された。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T1E4
クライスラーによって1944年に開発された直径1.2mのディスクを16枚横並びに配置した対地雷処理ローラー。ローラーが戦車の全面を覆うように配置されている。鋸歯状のディスクであるが、この写真では全てが鋸歯状であるものの、中には6枚のみだったり8枚のみだったりさまざまなバージョンがあるようだ。
6枚バージョン
8枚バージョン
T1E3よりさまざまな面で優れていたが、終戦により少数の生産にとどまった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T1E5
T1E3の後継として開発されたディスクが5枚づつ2つにわけられて配置された対地雷処理ローラー。全てのディスクが地面へのグリップを高めるために鋸歯状になっていた。直径はT1E3に比べて小さくなっている。試作のみ。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T1E6
T1E3のディスクを鋸歯状にしたもの。それ以外に変更はない。試作のみ。
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・Strijdbewijs
T3
画像ではチェーンが巻かれていないが、実戦では巻いて使用する。
T3はイギリスのクラブ(後述)に影響を受け、アメリカによって開発されたM4用の地雷処理用ローター。ローターは車体右側に新設されたエンジンで駆動し、M4A4を使用してアメリカで試験が行われた。試験の後プレスド・スチール・カー車によって41基が生産され、そのうちの30基がM4に装備され1943年5月に北アフリカに送られたが爆発の衝撃に弱く、地雷の爆発の衝撃で故障してしまうことがしばしばあった。その後すぐにT3は前線から戻された。
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・Strijdbewijs
T3E1
画像ではチェーンが巻かれていないが、実戦では巻いて使用する。
T3E1はT3の改良型で、右側にあった専用エンジンを取っ払い、M4に装備されている独自のエンジンを使用してローターを駆動させた。これにより重量もT3より減少し、2540kgとなった。またローターの回転数もT3では75rpmであったが、T3E1では178rpmと上昇した。しかし、ローター機器やローターを駆動させた際の砂塵や埃によって乗組員の視界が奪われるため、T3E1は試作のみに終わった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T3E2
側面に専用のエンジンを配置し、ドラム状のスチール製穴あき大直径ローターに置き換えたもの。第二次世界大戦終戦により試作のみに終わった。
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・Strijdbewijs
T5・T5E1・T5E2・T5E3
画像はT5E2
地雷除去用ブレード。ブレードはV字型で、それを使い地雷を道端に追いやり、道路の舗装を行う。またブレードは除去した地雷がブレードを乗り越えて戦車の走行経路に落ちないようにするために丈夫に湾曲したエッジがあった。その後に幾らかの改良が行われたT5E1と同コンセプトで開発された別のモデルであるT6を合体させT5E2が完成し、その後に僅かな調整が行われて量産型のT5E3が完成した。LaPlant-Choate社によって1945年3月から5月にかけて100基のT5E3が生産され、太平洋戦線にそのうちの一部が輸出された。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T8
地雷処理用ハンマー。シャーマンの起動輪が動くたびにハンマーが地面に打ち付けられ、地中に埋まっている地雷を爆破させて除去するというものである。M4A4に装備されて試験が行われたが、爆発の衝撃に弱いこと、悪路や荒れた場所での使用に問題があることがわかった。試験中にハンマーが故障したため、前述の理由も加えて不採用となった。
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・Strijdbewijs
T8E1
A.R. Williams中佐によって考案された地雷処理器具。シャーマンの起動輪を動力として、動くごとに前部に装着された3本のシリンダーから発射体が射出される。しかし、このT8E1も爆破の衝撃に弱いことが指摘され、不採用となった。
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・Strijdbewijs
T9
平坦な地面での使用を意図した対地雷処理用ローラー。2.5cmの釘で覆われたローラーが変速機部からのびたブームと接続されている。また、ブームは長さの調節が可能であった。しかし、ローラー自体の重量がかなり重いために操縦が困難であり、不採用に終わった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T9E1
T9はT9E1の改良型。ローラーの壁を薄くするなどの改良を加え、重量を削減させた。また、ブームは236インチ(5.9m)~314インチ(7.9m)の長さに調整が可能であった。しかし、T9E1も操縦性が劣悪であったために、それ以上の開発は中止された。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T10
M4A2に装備された対地雷処理用ローラー。M4A2に装着されていたVVSSサスペンションを撤去し、車体側面の張り出しの前部を削ってスペースを作り、そこに96インチ(約2m)の車輪を装備した。後部も車体下部を少し削り、スペースを作って72インチ(約1.8m)の車輪を装着した。また、車体下部には地雷の爆発に耐えるため、25mmの装甲がプラスされた。地上高は55インチ(約1.3m)で、車体幅は153インチ、(約3.5m)だった。元々、小型エンジンを前輪に組み込むコンセプトであったが(M4A2のGM 6046エンジンなしでも動けるようにするため)試作車でそれが行われたかどうかは不明である。T10はフィッシャーボディによって製作され、1944年6月にアバディーン性能試験場で試験が行われた。不整地で3km、整地では10kmの速度が出ることなどがわかったが、大重量が災いし、T10は採用には至らなかった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T11
M4A4に地雷除去用に装備されたスピゴット(前装式)迫撃砲。地雷が埋まっているとされるポイントに迫撃砲を発射し、その衝撃や爆風で地雷を爆破させようと考えた。他に障害物に対しての使用も考えられていたようだ。1943年4月にクライスラーによって改造され、昇降可能なスピゴット迫撃砲が前面装甲部に全部で6門が装備された(5門は正面へ向けられており、一門は空を見ている)。防水装置が施されているのも見える。試験の結果などは不明であるが、おそらく不採用であったのだろう。ちなみにこのT11、現存しており、戦後すぐはアバディーン試験場にあったが、その後海兵空地任務局に移管され、その後バージニア州クワンティコに移された後にパットン戦車博物館に移され、最終的にフォートべニング駐屯地に置かれている。
1983年夏・クワンティコ
2009年2月・パットン戦車博物館?
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T12
スピゴット迫撃砲で地雷を除去するのはいいが、6門では流石に不十分と考えたアメリカ陸軍。そのため、M4 Compositeをベースに変速機部に5門のスピゴット迫撃砲と、砲塔を撤去しそこに1.5ポンドの弾頭を備えたヘッジホッグ対潜迫撃砲おそらく24門を装備した。しかし、試験結果は芳しくなく、そのまま不採用となった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T15
シャーマン用に開発された対地雷用履帯。鋼鉄製で通常のものより頑丈なものになった。これを地雷原に押し込み、地雷を起動させて爆発させる仕組みだった。また、爆発に耐えられるよう車体底板の装甲を増し、また、履帯とサスペンションにもカバーが取り付けられた。転輪の上には転輪の爆発の衝撃を吸収するためにゴムでできた緩衝装置が取り付けられていた。試作車はM4 Compositeをベースとしてクライスラー社で製作された。また、地雷除去専用の車両であったため、砲塔を撤去し、25mmの装甲板が穴を覆った。また、その上には楕円形のハッチと車長用のキューポラも増設された。このT15の重量は約32tで、通常のM4シャーマンより2t重かった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
T15E1
T15E1はT15の改良型で、車体の方に変更はほぼなかったが、履帯には突起がつけられた。こちらもクライスラーで製作され、また砲塔が撤去されてハッチが二つあるのはT15と同様であるが、T15E1は車長用のハッチ内に12.7mm機関銃が装備された。試作車はおそらくM4A2をベースに製作され、T15とともにアバディーン試験場で試験が行われたが不採用となった。T15E2、T15E3の製作も考えられたが、結局キャンセルされた。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
- イギリス
Sherman Lulu
地雷を検知する木製バーレルを備えたM4A2。電気コイルを内蔵した3つの木製バーレルがアームを介して前部に2つ、後部に1つ装着されていて、これで地雷を検知する。地雷が検知された際はライトが点灯し、車内に音声信号が発せられた。地雷の除去は本車は行えず、地雷除去チームがおこなった。また、輸送時などは画像2枚目にあるようにバーレルを上方に収納できた。しかし、このLuluは非常に壊れやすく、また収納時の動作が非常に遅かったために、Luluが試験段階を越えることはなかった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
Sherman AMRCR(Anti-Mine Reconnaissance Castor Roller)
AMRCRのローラー
イギリスの開発した地雷処理用ローラー。アメリカもやったように、イギリスもローラーを使用した地雷処理を考えていた。AMRCRは各ローラーが18枚の鋼板で製作されていて、内14枚が幅49.5cm、厚さ25.5mm、内4枚が幅66cm、厚さ12.7mmだった。AMRCRのフレームはシャーマンのサスペンション部分に取り付けられており、また各ローラーの取り付け部には個別にサスペンションが取り付けられていたため、悪路の走破性能も悪くなかったであろう。また、このAMRCRは車内から取り外しを行うことができ、戦闘時などでも取り外しのために乗員が車外に出る必要がなかった。しかし、AMRCRを装備した場合、操作が非常に困難になるためにこれ以上AMRCRが発展することはなかった。(イギリス陸軍第79機甲師団に配備されたこともあったようだが、詳細は不明である。)
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
Sherman CIRD(Canadian Indestructible Roller Device)
イギリスの開発した地雷処理用ローラー。フレームは車体に取り付けられており、ローラーを2つ備えている。ローラーは鋼鉄でできており、サスペンション付きの車軸を介してローラーに接続されている。ローラーは全高が39.4cmと45.7cmのものがあり、画像は45.7cmのものである。また、このCIRDは地雷が爆発した際、まずローラーが上に跳ね、その後に前進し、その後フレームも上にはね、その後また通常の姿勢に戻る。ローラーに爆発のほとんどの衝撃を吸収させるのではなく、ローラー、フレームの先についているサスペンション、フレーム全体を使い、上記の流れで爆発の衝撃を吸収する仕組みになっていた。CIRDはおそらく12個程度が製作され、1944年に第79機甲師団の3個連隊に配備された。が、これらCIRDが実戦で使用されたかは不明で、その後の1944年末には全てのCIRDが前線から引き上げられてしまった。CIRDは1945年2月と12月にもテストを受けたが、その後の運命は不明である。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
Sherman scorpion
対地雷ローターを装備したシャーマン。車体前部にアームを介してチェーンを巻いたローターを装備した。これが周り、地雷に当たるかもしくは衝撃を与えて爆発させた。動力は車体後部上に取り付けられた専用エンジンで、4台から5台のM4A4に装備された。うち一両がシャーマン クラブとの比較試験のために使用されたが、不採用となった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
Sherman Marquis
対地雷ローターを装備したシャーマン。スコーピオンの改良として、車体後部上に取り付けられていた専用エンジンを砲塔に移し、装甲板で覆った。しかし、不採用となった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
・鳥飼行研究室
Sherman Pram Scorpion
対地雷ローター。以前のスコーピオンとは打って変わってローターの動力をM4のエンジンから抽出し、また、ローターを接続しているアームの下にローラーも追加装備した。実験用のため採用はされていない。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
Sherman Crab I
対地雷ローター。イギリス軍に最初に採用されたシャーマン用の地雷処理用ローターで、動力は車体右側を走るドライブシャフトを使用してM4のエンジンから抽出しており、ローターには43本のチェーンが巻かれていた。ローターは油圧で上下させることが可能で、また毎分142回の回転数を誇った。シャーマンにクラブを搭載させた際は重量が2t増えた。シャーマンクラブは北西ヨーロッパではヨーマンリー連隊のロージアンとボーダーホース部隊、同じくヨーマンリー連隊のウェストミンスター竜騎兵隊、また第22機甲旅団、イタリアでは、第51王立戦車連隊によって使用された。D-Dayなどにも投入されて、その真価を発揮したクラブであったが、ローターを稼働させている際は砂塵が砲身内に入るのを考慮して砲塔を後ろに向けていたため、例え車長や砲手が敵戦車を発見してもすぐに戦闘に移行するのが難しいという欠点もあった。配備されたクラブたちは、その後終戦まで使用された。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
・Wikipedia
Sherman lobster
正面の視界の改善を意図して制作された地雷処理器具。アームが延長され、視界改善のため処理器具もスッカスカである。結局試作のみに終わった。
出典・参考元・画像引用元
・Strijdbewijs
砲塔上部に多連装ロケット「T34 Caliope」を搭載したM4。主にM4とM4A3をベースとして制作されている。ロケットは砲塔側面に設けられた支柱に支えられ、ロケット自体は60の発射管を持っている。砲塔の動きと連動しており主砲を上下することによって仰角、俯角の調整も可能である。これらの発射管はプラスチック製で、全体の重量は835kgだった。このロケットは命中精度自体は酷いものだったが、弾幕兵器、飽和攻撃としては非常に有効だった。また、非常時などにはロケットを投棄することも可能だった。詳細な生産数や生産会社は不明だが、1944年から1945年にかけて少数が製造されたようである。また、ヨーロッパ戦線に投入された当初、ロケットの支柱が砲身に取り付けられている間は主砲を発射できないという理由で乗員たちからは好かれていなかったが、現地改造で主砲に取り付けられていた支柱を防盾に移動させたことで主砲の発射を可能にした車両もあった。ノルマンディー上陸作戦での使用も考えられたが、カリオペは重心が高く不安定なため結局取りやめにされた。その後、ドイツ方面に展開する第743戦車大隊に配属されたが、ここでも1発もロケットを発射することなく終戦を迎えた。ちなみに、「Caliope」の語源はパイプが多数並べられているのがミュージカル用楽器「カリオペ」(別名:蒸気オルガン)に似ていることからつけられた。派生型に、T34E1 Caliope、T34E2 Caliopeなどがあり、T34E1 Caliopeは通常のT34の下にある各12門のロケットを各14門にしたもので、T34E2はT40 Whizbangである。
いくつかのサイトでT34E1と紹介されていた写真...なのだが、ロケットランチャーがT72 Rocket launcherのように短縮されている。T72 Rocket launcherがT34E1なのかどうかはわからないが、砲身が長いものでT34E1と思われる写真はなかったため、T72とT34E1は同一のものか、もしくは別でT34E1は存在しているがまだ写真が見つかっていない可能性が高いと思われる。
出典・参考元・画像引用元
・Tank-Encyclopedia
ヘッジ・ロウ・カッターはアメリカ軍によって開発されたノルマンディー侵攻の障害となる生垣などを切断するための装置。これらが装備された戦車はアメリカでは「ライノ・タンク」と呼ばれ、イギリスでは「プロング」と呼ばれた。ノルマンディーの田園地帯を侵攻するためには、その生垣を切除しながら侵攻する必要があった。そのため、戦車が滞りなく侵攻できるように生垣を切除できる装置が第2機甲師団の第102騎兵偵察隊のカーチス・G・キュリン軍曹によって考案された。これが「ヘッジ・ロウ・カッター」である。
実際の例
アメリカでは500基が製作され、コブラ作戦に備えて米国第2機甲師団のシャーマンやスチュアート、M10などに装備された。イギリスでは英国王立電気機械工兵隊(REME)によって「プロング」と命名され、イギリスでの生産を開始、M4A4装備用にマークIプロングが600基、シャーマン全般とM10などに装備するためにマークIIプロングが1000基、クロムウェル装備用にマークIIIプロングが500基生産された。また、少数のチャーチルにも装備されていた。これらはコブラ作戦、ブルーコート作戦で効果的に使用されたとされるが、最近ではこのヘッジ・ロウ・カッター及びプロングを「(作戦中は)基本的に生垣ではなく道路を進んだため、士気高揚として使用する場合を除いて、戦術的価値は全くなかった」とする記述も見られる。
出典・参考元・画像引用元
・Wikipedia
これは、主にアメリカ海兵隊(USMC)所属のM4A2とM4A3に施された改造である。第二次世界大戦中頃から日本軍は徐々に連合軍に押されていき、日本軍が占領していた南太平洋の島々にもついにその手が忍びつつあった。海兵隊が上陸に使用する戦車は主にM4A2やM4A3だった。これら戦車は日本軍にとって重大な脅威であり、日本軍側は対戦車対策に様々な兵器を開発した。
日本軍が主に使用した対戦車火器は
・刺突爆雷
などで、他にも手榴弾なども使用していた(リンク先はWikipedia)。これらは戦車を一撃で破壊できる威力こそないものの、足回りやサスペンションを破壊することなら容易であった。
九三式戦車地雷を踏んで足回りを破壊されたアメリカ海兵隊第4戦車大体所属のM4A2シャーマン‘Jenny Lee’。爆発の衝撃によって操縦手の左足が衝撃によって押しつぶされ、パニックになってしまった機関銃手がハッチを開けて外に出ようとしたところを左足が潰れてまともに動けない操縦手がなんとか機関銃手のズボンのベルトをつかんで車内に戻した。その後、車長が車体底部にある脱出用ハッチから全員を脱出させようとしたが、車体底部の下の地面に魚雷の不発弾頭があるのを確認した。これもおそらく日本軍が用意したもので、魚雷の不発弾頭の近くに地雷を置き、地雷の爆発の衝撃で魚雷も誘爆させ、敵戦車を破壊しようと企んだものと思われる。しかし、日本軍にとっては運悪く、乗員にとっては運良く魚雷が誘爆することはなく、その後、魚雷を刺激しないよう気を付けて彼らは全員が戦車から脱出することに成功し、座礁したM4A2シャーマンは敵に使用されることを防ぐために海兵隊によって爆破処理された。
1943年11月のタラワの戦いでは多くの海兵隊所属のM4シャーマンが日本軍の対戦車火器によって座礁に追い込まれた。しかし、海兵隊もやられてばっかりではなく、1944年2月に開始予定のクェゼリンの戦いでは海兵隊はタラワでの戦いに学んで日本軍の対戦車火器対策に熱心になった。ここからは、実際にシャーマンに装備された対日本軍対策を紹介していく。
木板
第22海兵隊所属のM4A2‘El Toro’。側面に木製の板が装備されているのがわかる。二つの弾痕は47mm砲弾のものである。
これは九九式破甲爆雷または九三式戦車地雷、刺突爆雷や47mm砲弾等の対策に木製の板を取り付けたもの。木板の厚さは車両によってまちまちで、木板は車体側面の形に合うように綺麗に削られていた。しかし、側面だけだと日本兵が足回りに攻撃をするため、後に足回りにも木板を装着した物も登場している。
海兵隊第4戦車大隊所属のM4A3‘Davy Jones’。サスペンションなどに木板が装備されているのがわかる。
コンクリート
海兵隊第4戦車大隊所属のM4A2‘Joker’。木板と車体の隙間にコンクリートが注がれている。
コンクリートは上述の木板と合わせて使用されることが多かった。側面に木板を装着しただけだとまだ47mm砲弾に貫通されてしまう可能性があるため、木板とシャーマンの車体の隙間にコンクリートを注ぎ、より耐弾性を高めた。
金網
海兵隊第4戦車大隊所属のM4A3R3‘Comet’。砲塔ハッチにあるケージ状の金網が見える。
九九式破甲爆雷対策にケージ状の金網を設けたもの。日本兵は装甲の中でも特に薄い天板にあるハッチに登って九九式破甲爆雷などを設置し、爆破させることで戦車を戦闘不能、行動不能などにさせることがあった。そのため、穴が開いていて凹凸のあるケージ状の金網を取り付けることで、破甲爆雷を設置できないようにした。
土嚢
沖縄戦での海兵隊所属ではなく米陸軍第711戦車大隊所属のM4A2‘Crusader’。車体前面からエンジンデッキまでが土嚢で覆われている。
手榴弾対策で、エンジンデッキなどに手榴弾が落とされてもその威力を軽減し、エンジンなどに直接被害が行かないようにしたもの。土嚢はワイヤーなどで固定されている。これは対日本軍対策のみならず、ヨーロッパ戦線などでも使用された。
釘
海兵隊第5戦車大隊所属のM4A3‘Tokyo Express’。潜望鏡やハッチが上向きの釘で覆われているのがわかる。
戦車に登ってくる日本兵対策に上向きの釘をハッチなどに溶接したもの。日本兵は戦車に登り弱点であるハッチなどに九九式破甲爆雷などを設置してくるため、その対策で取られ、非常に効果的ではあったが、その反面手榴弾や爆発物がひっかりやすくなるデメリットもあった。また、釘はハッチだけでなくハッチの周りにも溶接されていたため、乗員も出るときにできるだけ手に釘が刺さらないよう気を付けて出る必要があった。
トタン・金属板
海兵隊第2戦車大隊所属の‘Boots’。金属板がリベット留めされているのがわかる。当初こそリベット留めされていたが、工程に時間がかかるため、後に溶接に置き換えられた。
これも木板とセットで使用されることが多かった。木板を貼った上にさらに金属メッキやトタンを貼り付けることで耐弾性を向上させ、また場合によっては波型金属(トタン)も使用された。
海兵隊第6戦車大隊所属のM4A3には金属板を地面から30cmのところまで下ろしたものもあり、確かに爆発物がサスペンションに入るのを