コレクション/コレクション/「山本五十六」

Last-modified: 2017-08-31 (木) 11:21:42

コレクション/「山本五十六」

『Yamamoto Isoroku』コレクションは、連合艦隊司令長官『山本五十六』に関連するアイテムがピックアップされています。本コレクションは山本五十六の所有物をはじめ、日本帝国海軍士官の制服や勲章、山本五十六にまつわる軍事兵器等を含むアイテムが 40 種類用意されています。本コレクションはアップデート以降、いつでも取得することができます。
本コレクションはそれぞれ 8 つのアイテムから構成される 5 組のカテゴリから構成されています。各カテゴリのコレクションアイテムをすべて集める度に、艦艇の外装をカスタマイズできる新たなオプションが与えられます:
・コレクションアイテム『制服』 カテゴリ完成時: 日本駆逐艦用の新たな迷彩パターンが使用可能になります。
・コレクションアイテム『制服小物』 カテゴリ完成時: 日本巡洋艦用の新たな迷彩パターンが使用可能になります。
・コレクションアイテム『褒賞』 カテゴリ完成時: 日本戦艦用の新たな迷彩パターンが使用可能になります。
・コレクションアイテム『艦艇』 カテゴリ完成時: 日本航空母艦用の新たな迷彩パターンが使用可能になります。
・コレクションアイテム『その他』 カテゴリ完成時: 日本艦艇用に 2 つ目の記念旗が搭載可能になります。
上記の新たな迷彩パターンは迷彩タイプ 1 、 2 、 5 、 6 用の別バリエーションデザインになります。
また、これらのコレクション由来のボーナスは、ユニーク艦長『Yamamoto Isoroku』を所有していなくとも、有効になります。
これらコレクションアイテムは、最初の Yamamoto Isoroku コレクションアイテムを取得した後からコンテナに含まれるようになります。
このため、Yamamoto Isoroku コレクションアイテムを初めて取得する前から所有していたコンテナからは Yamamoto Isoroku コレクションアイテムは出現しません。
また、同じ種類のコレクションアイテムが重複してしまった場合、重複分 5 つを未取得のコレクションアイテム 1 つと交換することができます。
コレクションをすべて完成させた場合、余剰分のコレクションアイテムは 1 つにつき 15,000 クレジットと交換できます。

Yamamoto Isoroku コレクションアイテムが含まれるコンテナは Yamamoto Isoroku キャンペーンを初めて達成した後、またはプレミアムショップから取得することができます。

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制服

サブコレクション完成褒賞:迷彩カラースキーム 全ての日本駆逐艦の迷彩用のカスタム・カラースキーム

海軍兵学校 士官候補生 夏服 (1901 年)

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海軍兵学校 士官候補生 夏服 (1901 年)
侍の家系で貧しい教師の子供として生まれた高野五十六は、1901 年、17 歳のときに士官候補生として海軍兵学校に入学しました。その際の入学試験の成績は、全国から集まった受験者の中で第 2 位だったとされています。これは、野心的な若者が、将来的な見通しがない貧困から抜け出て国を離れるための唯一の道だったのでした。

広島湾に浮かぶ江田島にあった海軍兵学校の校風は、極めて厳しいものでした。厳格な規律は、提督となるべき人材のリーダーシップを培う上では最良だったと言えるでしょう。彼の身長は低かったものの、スポーツや剣道においては優れた実績を達成しました。意欲的に学習に取り組んだ彼は、1904 年 11 月、トップクラスの成績で兵学校を卒業しました。

海軍少尉候補生 (1905 年)

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海軍少尉候補生 (1905 年)
高野五十六は、江田島の海軍兵学校を、日露戦争の最中の 1904 年 11 月に卒業しましたが、士官に任ぜられる前にしばらく軍艦に乗り組む必要があり、東郷長官率いる第 1 艦隊所属の装甲巡洋艦「日進」への乗組を命じられました。

後に彼は、初の実戦についてこう回想しています。「唯一稼働状態だった 8 インチ砲塔に 1 発の敵弾が命中し、暴力が襲った。艦の前部を煙が覆い、私は自分が竜巻に巻き込まれたかのように感じ、数歩分も吹き飛ばされたのだ。首に掛けていた距離表はなくなり、左手の指のうちの 2 本は、皮膚だけで辛うじて繋がっている状態であった。」しかしながらこのとき、この未来の司令長官は幸運だったと言えるでしょう。何故なら、指を 3 本失っていた場合には、解任されていた可能性が高かったのですから。

海軍少佐 (1916 年)

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海軍少佐 (1916 年)
1916 年、将来有望な若い士官であった高野五十六少佐は、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続し、やがて全世界にその名を知られることになる山本五十六となりました。その背景としては、裕福で影響力が強かった山本家には嗣子がおらず、一方の五十六には数人の兄が居たため、高野家の跡取りとなる可能性が低かったという理由がありましたが、このような例は当時の日本ではよくあることでした。

海軍大学校を卒業した後、1916 年 12 月に第 2 艦隊参謀に就任。この艦隊の主要任務は、東南アジア近郊の海域を哨戒し、通商破壊を狙うドイツ巡洋艦と交戦することでした。

大日本帝国海軍航空隊 航空衣袴 (1925 年)

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大日本帝国海軍航空隊 航空衣袴 (1925 年)
1919 年から 1921 年にかけてのアメリカ滞在中に航空機の成功を見て強い印象を抱いた山本五十六は、海戦におけるその潜在能力を認識し、航空機関連の役職に就くことを望みました。そして 1924 年 9 月に霞ヶ浦海軍航空隊に配属され、まもなくその副長に補されました。イギリスの教育団の教育を得て 1922 年に創設されたこの霞ヶ浦海軍航空隊は、日本として初めての航空要員の操縦教育機関でした。

パイロット達は、外部からやってきた山本を当初は歓迎していませんでしたが、航空のあらゆる秘密を学び取ろうとする熱意と、どの部下にも平等に接する姿勢により、山本は信頼と敬意を得ました。一部の資料によると、山本は操縦技術をも習得し、何度か飛行したと言われています。このときの山本の同僚には、日本海軍の航空分野における伝説的な人物、大西瀧治郎が居ました。

海軍大佐 礼装 (1927 年)

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海軍大佐 礼装 (1927 年)
1925 年 12 月、山本五十六は在勤大使館付武官に任ぜられ、これが 2 回目のアメリカ駐在となりました。1 回目は、1919 年から 1921 年にかけてのことでした。

その際、山本は英語力を磨きつつハーバード大学で学ぶと共に、近代的な工業技術や海軍における革新を目の当たりにしました。そして彼が学んだことの中でも最も重要だった点は、航空機の存在が、海戦において決定的な役割を果たすことになるであろう、という認識に至ったことでした。

海軍中将 礼装 (1939 年)

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海軍中将 礼装 (1939 年)
日本で影響力を強めていた軍人政治家たちは、太平洋戦争の開戦に反対する勢力を要職から排除しようとしていました。1930 年代後半に海軍次官を務めていた山本中将は、アメリカとの開戦およびドイツ第三帝国との同盟に反対していたため、彼の下には繰り返し脅迫文が届いていましたが、山本はこれには動じませんでした。彼は友人宛の手紙の中で「彼らは私の体を傷つけることはできるかもしれないが、私の心を変えることはできない」と書いています。

1939 年 8 月 30 日、天皇陛下から信頼され、海軍士官達から尊敬を得ていた山本は、ついに連合艦隊司令長官に就任しました。この人事は、山本と同じくナチス・ドイツとの同盟に反対していた海軍大臣の米内光政が、山本が三国同盟賛成派勢力や右翼勢力によって暗殺される可能性を危惧し、海軍中央から遠ざけることで山本の命を救うことを狙って行ったものだった、と言われています。

海軍大将 (1941 年)

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海軍大将 (1941 年)
山本は連合艦隊司令長官に就任した後、アメリカとの開戦はもはや不可避であることを認識し、開戦に備え始めました。そして、先制攻撃を仕掛けるための空母機動部隊として、第 1 航空艦隊を編成しました。艦艇および機動部隊は様々な戦術を訓練し、連携向上を図りました。山本長官は彼の部下のうち最も有能な士官達を要職に就かせ、この結果として淵田美津雄が赤城飛行長に就任し、真珠湾攻撃において攻撃隊総指揮官として空中指揮を担当しました。

山本は綿密な戦略を練っていたものの、日本がアメリカに勝てる可能性はほぼ無いということを理解していました。そして当時の総理大臣に日米が開戦した場合の見込みを問われた際には、「それは是非やれと言われれば初め半年や 1 年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2 年 3 年となれば全く確信は持てぬ」と答えています。

海軍大将 夏服 (1943 年)

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海軍大将 夏服 (1943 年)
ガダルカナル島からの撤退命令が下されました。日本の陸海軍は、この戦いに敗れたのです。この際に山本長官は、島の各地の軍値拠点から陸軍兵士を救い出すべく全力を尽くしました。1943 年 2 月に実施された撤退作戦は、実に良く練られており、大成功に終わりましたが、これが山本長官の最後の成果となりました。この作戦では、三次に渡る "Tokyo Expresses" (東京急行) により、アメリカ軍部隊の鼻先から 1 万名以上の兵員を収容しましたが、アメリカ軍はこの際、日本軍部隊がガダルカナルから撤退したという事実に気付いておらず、気付いた時には既に手遅れでした。

誕生日の前日の 1943 年 4 月 3 日、山本長官は、アメリカ軍の手に落ちた要所に対する大規模空襲作戦「い号作戦」を直接指揮すべく、ラバウル基地へと降り立ちました。4 月 17 日、山本長官はスピーチにより現地のパイロット達の士気を高めましたが、これが生涯最後のスピーチとなりました。その翌日、山本長官の乗機はブーゲンビル島上空でアメリカ軍機による奇襲を受けて撃墜され、山本長官は戦死を遂げたのでした。

制服小物

サブコレクション完成褒賞:迷彩カラースキーム 全ての日本巡洋艦の迷彩用のカスタム・カラースキーム

大日本帝国海軍 士官用帽章

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大日本帝国海軍 士官用帽章
1870 年に制定された大日本帝国海軍の将校用の帽章は、錨と桜花を桜葉と桜蕾が囲むというデザインになっていました。このうち桜花は、階級章の主要要素としても用いられていました。帽章は、1883 年に最後の改訂が行われ、これに伴い全ての士官が同じデザインの帽章を用いる形となりました。

山本五十六は、1905 年に初めて士官に任命されてから、1943 年に戦死を遂げるまで、37 年以上もに渡ってこのような帽章を用い続けました。

大日本帝国海軍 士官用 正肩章

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大日本帝国海軍 士官用 正肩章
19 世紀中盤においては、正肩章 (エポーレット) は士官用制服および公式礼装のみの要素として用いられていました。明治維新後の日本では、多くの分野がヨーロッパの影響を受けており、正肩章も 1873 年に導入されました。その際には、イギリス海軍の士官用の正肩章のデザインを参考としていました。

デザインの特徴的な要素として、伝統的な錨に加え、桜花と桐の葉が選ばれました。大日本帝国海軍では、士官に昇進して以後は、大将も含め、礼装の着用義務がありました。正肩章は 1930 年代後半に廃止されました。

大日本帝国海軍 大将正装用 正帽

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大日本帝国海軍 大将正装用 正帽
20 世紀中盤までは、多くの国々において、二角帽子が礼装の伝統的な要素として用いられていました。日本海軍には 1873 年に導入され、1930 年代の終わりまで用いられていました。

大将正装用の正帽は、縁に金のシェブロンがあしらわれ、帽章の装飾も豪華なものでした。

海軍大将 夏服用 肩章

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海軍大将 夏服用 肩章
大日本帝国海軍士官用の肩章が 1900 年に導入されました。夏服および防暑服のみで用いられていたため、俗に「夏肩章」とも呼ばれます。

将官用の肩章は、幅広の金線に銀色の桜花をあしらったデザインになっており、桜花の数が階級に応じて異なっていました。海軍大将および海軍元帥の場合は、3 つの桜花があしらわれていました。山本五十六は 1940 年 11 月 15 日に大将に、1943 年 4 月の死後に海軍元帥にそれぞれ昇進しました。

大日本帝国海軍 士官用 長剣

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大日本帝国海軍 士官用 長剣
1871 年、大日本帝国海軍の士官用として西洋式の長剣が導入され、従来の日本刀は用いられなくなりました。これには 1873 年式、1883 年式、1896 年式および 1914 年式のものがあり、細部に差異がありました。これらの長剣の特徴として、柄のおよび鞘に桜花があしらわれていた点が挙げられます。

このサーベル様式の長剣は、大日本帝国海軍の将校にとって権威の象徴であり、不可欠のものでしたが、常勤時には短剣を佩用していました。1937 年、民族主義の高まりに伴って西洋式の軍刀が廃止され、伝統的な日本刀が再び用いられるようになりました。

日本海軍 7x50 mm 双眼鏡

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日本海軍 7x50 mm 双眼鏡
大日本帝国海軍の士官達は、19 世紀後半から双眼鏡を使用し始めました。海軍用の双眼鏡の特徴として、プリズム式であり、大型で、複数のズームレベルがあり、耐水性・耐候性を有していた点が挙げられます。倍率 7 倍で口径 50 mm の双眼鏡は、士官の個人用備品として広く用いられていました。

大日本帝国海軍用の光学機器の製造は 1910 年代に始まり、二次大戦が始まるまで成長を続けました。そして太平洋戦争においてその高い品質が証明され、世界的な評価を得るに至ったのでした。

南部式大型自動拳銃 甲改

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南部式大型自動拳銃 甲改
「日本のジョン・ブローニング」とも称された高名な南部麒次が 1902 年に設計した自動拳銃であり、1945 年まで様々な型が生産され続け、陸海軍の士官達の間で幅広く使用されました。その性能は、口径 8 mm、装弾数 8 発、有効射程 50 m。

南部式大型自動拳銃の初期型が甲であり、1906 年にはその改良型である甲改が設計され、1923 年まで製造されました。1909 年には甲改が大日本帝国海軍に正式採用され、海軍では陸式拳銃と呼ばれていました。この拳銃は正式採用されていたものの、士官達は私財でこれを購入する必要がありました。

大日本帝国海軍 士官用 軍刀 (1930 年)

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大日本帝国海軍 士官用 軍刀 (1930 年)
大日本帝国海軍は、創設初期から将校用の軍服の要素として西洋風のサーベル様式の軍刀を採用していましたが、これは 1937 年に伝統的な日本刀に置き換えられました。この際に制定された海軍刀は、大日本帝国陸軍の新軍刀とは異なった特徴を備えており、鎌倉期の太刀を範とし、柄には茶色の柄糸が巻かれ、鞘は木製で漆黒塗りとなっていました。

山本五十六は、刀匠が日本の伝統的な鍛冶技術によって鍛刀した刀を数本所有しおり、戦死した際にもそのうちの 1 本を佩用していました。

褒賞

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大勲位菊花大綬章

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大勲位菊花大綬章
大勲位菊花大綬章は日本における最初の勲章のひとつであり、1876 年に日本の最高位勲章として明治天皇によって制定されました。この勲章の正章および副章のデザインは、赤い日の丸から白い旭光が放射状に伸びるというデザインになっており、その旭光を囲むように黄色の菊花と緑色の菊葉が敗されています。

山本五十六には、1943 年 4 月の没後にこの勲章が授与されました。この最高位勲章は、制定から今に至るまで、山本の他には、皇族、内閣総理大臣など、50 名のみ似授与されています。

功一級 金鵄勲章

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功一級 金鵄勲章
1890 年に明治天皇によって制定された金鵄勲章は、武功のあった陸海軍の軍人および軍属に授与される勲章でした。「金鵄」という名前の由来は、神武天皇の東征の際に、神武の弓の弭にとまった黄金色のトビ (鵄) が光り輝き、長髄彦の軍を眩ませたことが、天皇軍の勝利に繋がったという日本神話の伝説に基いています。勲章のデザインは、旭光の上に金色の霊鵄を配し、下に大神宮の盾、矛、剣を配したものとなっており、功級によって若干の差異がありました。

山本五十六に対しては、1943 年 4 月の没後に功一級の本勲章が授与されました。本勲章は 1947 年に廃止されましたが、日本海軍の大将・元帥のうち功一級の本勲章を受章したのは 14 名のみであり、山本五十六と同様に没後に授与されたケースもありました。

勲一等 瑞宝章

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勲一等 瑞宝章
1888 年に明治天皇によって制定された瑞宝章は、国および地方公共団体の公務または公共的な業務に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた民間人や軍人に授与される勲章です。正章および副章のデザインは、中央部には青色七宝に浮くように鏡のモチーフが配され、それを連珠が丸く囲み、その外側に光線が放射状に伸びてたものとなっており、等級によって大きさや細部が異なっていました。

山本五十六には、海軍中将で海軍次官在任中の 1939 年 3 月に勲一等 瑞宝章が授与されています。

赤十字社銀色有功章

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赤十字社銀色有功章
1887 年に国際赤十字の一員として日本赤十字社が設立され、その翌年から赤十字社銀色有功章が導入されました。この十字型の勲章は、白いエナメルに銀メッキを施したものでした。その中央には、赤十字社の徽章と鳳凰があしらわれています。

日本赤十字社は、皇室の厚い援助を受けており、極めて高い人気を有していました。山本五十六大将もその活動に積極的に参加し、赤十字社銀色有功章および名誉会員章を受章しています。

日露戦争 従軍記章 (1904-05 年)

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日露戦争 従軍記章 (1904-05 年)
1904 年から 1905 年にかけての日露戦争の日本における正式名称は「明治三十七八年戦役」でした。この明治三十七八年従軍記章 (日露戦争 従軍記章) は、日本が世界の強国として台頭することに繋がったこの戦争に従軍した兵士達を表章するため、1906 年 3 月に制定されました。銅製で、表面は交差した軍旗・軍艦旗の上に菊花御紋章、下に桐葉紋章が配され、裏面は「明治三十七八年戦役」と記された盾を月桂樹と戦捷草が囲うデザインとなっています。リボンの青い縞模様は海戦での勝利を表し、リボンのバーには「従軍記章」と記されています。

日露戦争において、当時は高野姓だった五十六は装甲巡洋艦「日進」に乗り組んでいましたが、日本海海戦において重傷を負い、数週間入院しました。爆発により体内に入り込んだ破片の一部は、生涯に渡ってそのままだったと言われています。五十六の功績は東郷長官の知るところとなり、東郷長官は自ら五十六を少尉へと昇進させました。

戦捷記章 (一次大戦)

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戦捷記章 (一次大戦)
一次大戦後のパリ講和会議において、大戦中に連合国軍総司令官を務めていたフランスのフォッシュ元帥が、大戦に従軍した兵士達に授与する記章を各国で制定することを提言しました。そしてこの記章は青銅製で、リボンは虹色、表面には有翼の勝利の女神を描くことが定められました。日本においてはこの記章は 1920 年 9 月 17 日に制定されましたが、有翼の勝利の女神は日本の文化にはないものであったため、日本神話に登場する雷神かつ剣の神である武甍槌が選ばれました。

一次大戦中、高野五十六は当初は横須賀鎮守府副官を務めていましたが、海軍大学を卒業した後、第 2 艦隊参謀に任命されました。

大礼記念章 (大正)

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大礼記念章 (大正)
1912 年、父であった明治天皇の崩御を受け、嘉仁親王が大正天皇に即位しました。そしてその 3 年後の 1915 年 11 月に即位の礼が行われましが、これに先立ち、大正天皇即位の大礼記念の表彰としてこの記念章が制定されました。銀製であり、表面には橘と桜の枝、ならびに「萬歳」と書いた旛を交架した図が配されていました。

大正天皇の即位の礼の当時、海軍大学校の学生だった高野五十六にもこの記念章が授与され、海軍少佐へ昇進しました。

昭和大礼記念章

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昭和大礼記念章
1926 年、裕仁親王が昭和天皇に即位しました。「昭和」には「国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う」という意味が込められていましたが、皮肉にもこの昭和時代に、日本は史上最悪の戦争へと突入していったのでした。即位の礼は、1928 年 11 月に日本の古都、京都で行われました。その際には、前例に倣い、即位の大礼記念の表彰としてこの記念章が制定されました。銀製であり、表面の中央には菊花紋があしらわれた高御座が配され、それを囲むように桜橘文様、雲文様および「萬歳」の文字が刻印されていました。そしてこの雲文様は、幸運を願うシンボルでした。

1928 年 11 月、数年に渡り在勤大使館付武官として駐在していたアメリカから帰国して間もなかった山本五十六大佐は、軽巡洋艦「五十鈴」の艦長を務めていました。そしてこの才能豊かな海軍将校は、その力量と大義への献身を徐々に認められ、昭和天皇から高い評価を得るに至るのです。

艦艇

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装甲巡洋艦 日進

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装甲巡洋艦 日進
日進は、高名なガリバルディ級装甲巡洋艦の 1 隻としてイタリアで建造されました。本艦はアルゼンチンからの発注により起工されましたが、日露戦争開戦の少し前にロシアに売りに出されました。しかし、ロシア政府が購入しなかったため、日本海軍が迅速に交渉し、本艦を購入しました。その速力は最大 20 ノット、152 mm の装甲帯を備え、4 門の 203 mm 主砲と 14 門の 152 mm 砲を搭載していました。

まだ未完成だった本艦は、姉妹艦と共に急いで日本に移送され、日露戦争の開戦から間もなかった 1904 年 2 月に到着しました。そしてその 2 ヶ月後に実戦参加。1905 年 1 月、海軍兵学校を卒業した若い少尉候補生、高野五十六が本艦に配属されました。そして同年 5 月の日本海海戦が、後に連合艦隊司令長官となる彼にとっての初の大きな試練となりました。

防護巡洋艦 宗谷

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防護巡洋艦 宗谷
本艦は、元はロシア帝国の防護巡洋艦ヴァリャーグであり、1904 年 2 月に瓜生少将率いる日本艦隊と交戦した際、搭乗員によって自沈させられました。その後に日本軍が本艦を浮揚して宗谷と改称し、長期に渡る修復・改装工事の後、1907 年に日本海軍に就役しました。排水量は約 6,500 トン、更新された主機により、22.7 ノットの速力を発揮、兵装は、ロシア製の 152 mm 砲が 12 門に、イギリス製の 76 mm 砲が 10 門でした。

日本海軍においては、宗谷は専ら海軍士官を育成するための練習艦として使用されました。高野五十六は、中尉および大尉時代の 1908 年から 1910 年にかけて複数の艦艇に乗り組んで訓練を重ねており、装甲巡洋艦阿蘇 (元はロシア帝国のバヤーン) 乗組みを経て、1909 年 7 月からは宗谷に配属されました。この期間中には、大規模な艦隊演習に参加した他、2 回の長期遠洋航海により、北アメリカ、オーストラリア、東南アジアの各港を訪問しています。

軽巡洋艦 北上

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軽巡洋艦 北上
日本海軍は二次大戦の終盤、アメリカのオマハ級軽巡洋艦に対抗すべく、球磨型軽巡洋艦を開発、北上はその 4 番艦でした。就役時においては、排水量約 5,500 トン、速力は 35 ノットを上回っていました。兵装は、140 mm 砲 7 門、533 mm 連装魚雷発射管 4 基。

1921 年 8 月、アメリカから帰国して間もなかった山本五十六中佐は、就役したばかりだった軽巡洋艦北上の副長に任ぜられました。才能溢れる彼のその後の昇進は速く、長期に渡り同じ階級に留まることはありませんでした。事実として、北上の副長に任ぜられた彼は、その 4 ヶ月後には、海軍大学校の教官に着任しましたが、これは、彼がこの大学校を卒業してからわずか 2 年後のことだったのです。

航空母艦 赤城

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航空母艦 赤城
赤城は、巡洋戦艦として起工された後、ワシントン海軍軍縮条約の締結に伴い新造戦艦数が制限されたことを受け、航空母艦として完成しました。1927 年に就役し、1935 年の近代化改装前の段階では、排水量 27,000 トン、速力 31 ノット、装甲厚 152 mm、搭載機数 60 機とされていました。そして、当初は 200 mm 砲が 10 門搭載されていました。

山本は、軽巡洋艦五十鈴の艦長を短期間務めた後、1928 年 12 月に航空母艦赤城の艦長に任命されました。その時点においては、赤城は最大の空母として知られていました。山本は厳しい規律を課しましたが、それでも全搭乗員からの尊敬と親愛を得ることに成功しています。

航空母艦 加賀

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航空母艦 加賀
関東大震災の際、巡洋戦艦として起工されて航空母艦として完成するはずだった天城が大破し、廃艦となりました。そしてその代艦として、未完成だった戦艦加賀を空母へと改装することが決定され、1928 年に就役しました。本艦は、就役当初には 28.5 ノットの速力を発揮し、60 機の艦載機を搭載可能でした。また、砲塔および砲郭に合計 10 門の 200 mm 砲を搭載し、重巡洋艦並の砲力を誇っていました。

山本五十六少将は、1933 年 10 月に第 1 航空戦隊司令官に就任しましたが、当時この戦隊の中で最強の艦艇だったのが、この航空母艦加賀でした。艦載機運用の全てを徐々に掴んだこの新しい司令官は、精力的に訓練を繰り返し、できる限り高い練度を実現すべく尽力しました。

戦艦 長門

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戦艦 長門
長門は、一次大戦中に「高速戦艦」として開発されました。イギリスおよびアメリカの戦艦が今後 16 インチ (406 mm) 砲 を採用することを見越し、主砲として 410 mm 砲を 8 門搭載しており、主装甲帯は 300 mm を誇りました。1920 年に就役後、1930 年代中盤に大規模な近代化改装が施されました。

山本五十六中将は、二次大戦の勃発直前の 1939 年 8 月 30 日に、連合艦隊司令長官に就任し、当時の大日本帝国海軍における最強の戦艦だったこの長門を連合艦隊の旗艦としました。真珠湾攻撃の実行を命じる有名な暗号無電「ニイタカヤマノボレ1208」は、岩国湾に浮かぶ本艦から山本の命により打電されたことが知られています。本艦はその後、真珠湾攻撃の成功を受け、第 1 航空艦隊の退却を支援するため、他の 5 隻の戦艦と共に出撃しました。

戦艦 大和

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戦艦 大和
伝説の超戦艦大和は、今後登場するであろうあらゆる敵戦艦、特にアメリカの新鋭戦艦を凌駕し、かつ 10 年以内に建造可能な戦艦として 1930 年代中盤に開発されました。本艦の建造は最高機密であり、太平洋戦争の開戦から間もない 1941 年 12 月に、密かに就役しました。

1942 年 2 月、山本長官が連合艦隊の旗艦を、艤装工事の最終段階にあったこの大和に変更し、その後 1 年間に渡り、世界最大の戦艦であった本艦から連合艦隊を指揮しました。1942 年 5 月終盤、本艦はミッドウェー作戦において空母機動部隊を支援すべく、他の数隻の戦艦と共に出撃しましたが、本作戦で日本海軍は正規空母を 4 隻も失うという大敗を喫し、これにより太平洋戦線における日本軍の優勢は終わりを遂げたのでした。その後のガダルカナル島の戦いにおいても日本海軍は戦力を大幅に失い、大敗しましたが、その際にも山本長官はこの大和に座乗していたのでした。

戦艦 武蔵

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戦艦 武蔵
大和の姉妹艦であるこの武蔵は 1938 年に起工され、1942 年の夏に就役しました。本艦の排水量は 63,000 トンを超え、そのうちの約 2 / 3 が装甲防御に割かれており、そして世界最強の艦載砲として高名な 460 mm 砲を 9 門搭載していました。山本長官は、大和および武蔵の両艦を連合艦隊の旗艦として活用しましたが、大和型戦艦の建造計画が進められていた当時には、このあまりに高価な巨艦を建造することは、そのために要求されるリソースの大きさを考慮すると合理的ではないとして建造に反対していました。

1943 年 2 月、武蔵は日本海軍の一大拠点であったトラック諸島泊地に到着しました。そしてこの新鋭戦艦には、充実した旗艦設備が備えられていました。従って山本長官は、武蔵がトラック泊地に到着した直後にこの武蔵を連合艦隊の旗艦としました。しかしその数週間後、山本長官はラバウル基地から航空機でブーゲンビル島のブイン基地へと向かう途上で戦死を遂げることになります。そして 1943 年 5 月、山本長官の遺骨が、山本長官にとっての最後の旗艦となった武蔵に乗せられて日本へと戻ったのでした。

その他

サブコレクション完成褒賞:2 旗 全ての日本艦艇に 2 旗

江田島 海軍兵学校 生徒館

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江田島 海軍兵学校 生徒館
海軍兵学校は、大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関でした。本校が創設されたのは、明治維新の最中、大日本帝国海軍が創設されてから間もない 1876 年のことでした。1888 年、本校は広島湾に浮かぶ江田島へと移転されました。そしてこの生徒館が 1893 年に建造されました。

大日本帝国海軍の士官達は、ほぼ例外なく本校で学んでいます。この江田島で、3 年間に渡り厳格かつ禁欲的な雰囲気の中で学ぶことによって、将校となるべき人材の侍魂が培われたのです。後に連合艦隊司令長官となる高野五十六は、1901 年から 1904 年にかけて本校で学びました。

日本海海戦後の装甲巡洋艦「日進」の前部砲塔

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日本海海戦後の装甲巡洋艦「日進」の前部砲塔

1904 年から 1905 年にかけての日露戦争の勝敗を決する戦いとなった日本海海戦においては、装甲巡洋艦日進は東郷長官が指揮する第 1 戦隊の殿艦を務めており、その搭乗員の中には、高野五十六の姿がありました。本艦は、一斉回頭に伴い一時的に先頭を進むこともあり、複数回にわたりロシアの装甲巡洋艦群から集中砲撃を受けることになりました。その結果として、4 門中 3 門の主砲が大破し、約 100 名の搭乗員が死傷、この戦いにおいて最大の被害を受けた日本艦艇の 1 隻となりました。この際には高野五十六も、前部 203 mm 砲塔での爆発を受けて重傷を負っています。

三菱 一三式艦上攻撃機 (B1M)

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三菱 一三式艦上攻撃機 (B1M)
1924 年以降、山本五十六は海軍航空隊と密接に関わることになりました。山本が副長を務めていた霞ヶ浦海軍航空隊においては、パイロットの訓練や新型機のテストが行われており、この三菱製の一三式艦上攻撃機 (B1M) もこの飛行隊でテストされていました。本機は日本で最初の本格的艦上攻撃機として正式採用されて量産され、その性能は、最大速度 210 km/h、兵装は 7.7 mm 機銃 2 挺、そして 457 mm 魚雷 1 本または 240 kg 爆弾 2 発を搭載可能でした。

後に山本は中将時代に海軍航空本部長に就任し、日本海軍初の長距離陸上攻撃機となった九五式陸上攻撃機 (G2H) や九六式陸上攻撃機 (G3M) <Nell>、そして太平洋戦争において雷撃機としてその名を馳せた一式陸上攻撃機 (G4M) <Betty> など、様々な新型機の開発を積極的に監督し、推進し続けました。

伝統的な書道具

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伝統的な書道具

山本五十六は、余暇時間には部下と将棋を指すことを好んでいました。また、書道の大の愛好家としても知られており、一人静かに書道に取り組むことも多かったそうです。書道とは文字の美しさを追求する芸術であると共に瞑想の一形態でもあり、極限の集中力が要求されます。書道具としては、筆、墨、硯、文鎮、筆置きがありました。

山本五十六による書

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山本五十六による書
真珠湾攻撃の成功を受け、山本五十六の名は海軍内のみならず、全国に知れ渡りました。そして山本長官の信奉者はよく、山本長官に書の作例を送って欲しいと求めていました。

書は、それを書いた者の心と魂を表すと言われています。そして書の個々の文字には多くの意味合いが込められているため、正確な意味を読み解くことは極めて困難でした。

真珠湾の軍港の地図 (1941 年、日本)

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真珠湾の軍港の地図 (1941 年、日本)
連合艦隊司令長官に就任した山本は、アメリカとの開戦の可能性に備え、日本の海上戦略を見直し始めました。そしてそれが、戦艦隊による大規模な艦隊決戦こそが勝敗を分けると考える海軍内の勢力との摩擦を招きました。山本は、決定的な先制奇襲攻撃によりアメリカ艦隊を一気に葬り去ることのみが、アメリカに勝利する唯一の道だと考えていたのです。

1940 年の春、山本はアメリカ太平洋艦隊の主力基地である真珠湾に対して大規模な空襲を仕掛けるという作戦案を構想し、その作戦の詳細は、翌年の初頭に彼の部下達によって練られました。そして 1941 年 12 月、この有名な奇襲攻撃作戦が実行に移されました。その直前に正式に宣戦を布告することが予定されていたものの、しかしこれが予定より遅れたことから、結果として真珠湾攻撃は「宣戦布告なき奇襲」となってしまい、これは山本が望んでいた事態ではありませんでした。そして彼はその後同僚達に対し、このような事態になったことは残念であると公言したのでした。

三菱 一式陸上攻撃機 (G4M) <Betty> (323 号機)

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三菱 一式陸上攻撃機 (G4M) <Betty> (323 号機)
ラバウル基地に滞在中だった 1943 年 4 月、山本長官は前線航空基地を視察し、将兵の労をねぎらうことを決断しました。そして 4 月 13 日、視察先の基地宛に飛行計画の詳細を伝える暗号電文が打たれました。当時の日本海軍は、自軍の暗号電文に絶対の自信を持っていたのです。

4 月 18 日の早朝、第 705 海軍航空隊所属の一式陸上攻撃機 2 機が、零式艦上戦闘機 6 機の護衛を伴ってラバウル基地から飛び立ちました。一式陸上攻撃機の 323 号機には、山本長官が搭乗していました。そしてブーゲンビル島上空においてアメリカ陸軍の戦闘機 P-38 ライトニング 14 機による迎撃を受け、323 号機は僅か数分のうちに 被弾して操縦不能となり、ジャングルへと墜落したのでした。後の検屍によると、山本長官は空中で致命傷を受けていたと言われています。

ロッキード P-38G ライトニング "ミス・ヴァージニア" (No. 147)

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ロッキード P-38G ライトニング "ミス・ヴァージニア" (No. 147)
ブーゲンビル島およびショートランド方面を視察する山本長官の乗機の飛行計画を伝える暗号電文は、1943 年 4 月 14 日にアメリカ海軍の諜報部によって解読されました。そしてその報告を受けたアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトは海軍の司令部に対し、「山本を殺害せよ」と命じたのでした。

ソロモン諸島航空指揮官を務めていたミッチャー少将は、このヴェンジェンス作戦 (Operation Vengeance) に第 339 中隊を割り当てました。その理由は、この作戦に必要な航続距離を有する P-38G ライトニングを使用していたのがこの中隊のみであったためです。短時間で終わったブーゲンビル島上空での空戦において、1 機の P-38G を失ったものの、見事に作戦目標を達成。そして山本長官の乗機を撃墜したのは、レックス・T・バーバー中尉が操縦するこの No. 147 の機体だったと言われています。