コレクション/コレクション/ダイナモ作戦

Last-modified: 2017-08-31 (木) 11:19:09

コレクション/「ダンケルク」

前回開催された「ビスマルク追撃戦」では、コレクションアイテムとして様々なアイテムを集めることができました。今回のダイナモ作戦では、ダンケルクの戦いにちなんだアイテムがコレクションとして新たに登場します!本コレクションは 16 個のアイテムが登場し、軍用品・民間船・車の 3 つのカテゴリにわけられます。それぞれのアイテムには、当時の歴史的背景も添えられていますので、是非ご覧ください!
これらのアイテムは特別なイベントコンテナから取得することができます。取得したアイテムが重複した場合、未だ持っていないアイテムと交換することも可能です。イベントコンテナには 2 つの種類が登場し、コレクションアイテムや信号旗、運が良ければプレミアム艦艇 HMS Gallant も入手できます!
「ダイナモ作戦」のコレクションアイテムを集めたプレイヤーには記念旗と実績、そして特別なスキルを持つイギリス艦長「Jack Dunkirk」が与えられます:

  • なんでも屋: 全ての搭載中の消耗品の準備時間 -10% (通常値: -5%)
  • 熟練砲手: 139 mm 以下の砲の旋回時間 +3度/秒 、139 mm 超の砲の旋回時間 +1度/秒 (通常値: +2.5/+0.7)
  • 煙幕専門家: 煙幕の半径 +30% (通常値: +20%)
    Jack Dunkirk は Tier I イギリス巡洋艦 Black Swan 用に訓練されています。
    本艦長はスキルポイントを予め 10 ポイント保有しています。

ダンケルク撤退作戦は、二次大戦における最大規模の戦いのひとつであり、陸海空全ての戦力が参加していました。この戦いでは、1940 年の 5 月末から 6 月初頭にかけての僅か数日間に、北フランスから 33 万名を超えるイギリス軍およびフランス軍の兵士を撤退させました。撤退の際、連合軍部隊は全ての重装備と大半の武器を放棄せざるを得ず、ダンケルク付近において放棄された重装備は、イギリス海外派遣軍とフランス軍の合計で、大砲 2,472 門、車輌 65,000 両に達しました。そして、この撤退作戦に参加した艦船は、イギリス、フランス、オランダ、ベルギーの軍用艦艇および民間船を合せて 800 隻という大規模なものでした。

 

この撤退作戦には、駆逐艦約 50 隻の他、多数の掃海艇、トロール船、蒸気客船、ヨット、漁船、救難船その他の連合軍艦船が参加しました。そして、ドイツ空軍、ドイツ国防軍、ドイツ海軍による攻撃ならびに機雷原により、参加した艦船のうちの約 1 / 4 が失われました。また、北フランス上空の制空権を巡る空中戦では、本作戦中の 9 日間で、イギリス軍機が 145 機、ドイツ軍機が 156 機撃墜されました。ウィンストン・チャーチルは「撤退によって戦争に勝つことはできない」と述べましたが、この「ダンケルクの奇跡」があったからこそ、イギリス陸軍はその戦力を維持することができたのであり、その後の各戦場で枢軸軍を相手に戦い続けることができたのでした。また、撤退したフランス軍部隊は、自由フランス軍のベースとなりました。

 

そして撤退作戦から 4 年後、連合軍はフランスへと大々的に戻りました。兵員を大規模に輸送するというダンケルクで得られた経験が、1944 年のノルマンディ上陸作戦に活かされたのです。
1940 年の撤退作戦において重責を果たしたバートラム・ランセイ中将およびウィリアム・テナント大佐は、D デイにおいても重要な役割を担いました。

魚雷艇 S 26 (ドイツ軍)
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魚雷艇 S 26 (ドイツ軍)
1945 年まで生産され続けたドイツ海軍の S 26 - S 29 級魚雷艇のリードシップです。魚雷艇としては大型ながらシルエットが低かった点が特徴でした。長大な航続距離を備えており、大型艦船に対して夜襲を仕掛けることを狙っていました。"
3 基のディーゼル・エンジンにより合計 6,000 馬力という推力を誇り、39 ノットという最大速力を発揮しました。兵装としては、533 mm 魚雷発射管、20 mm ラインメタル C/30 機関砲、7.92 mm MG 34 機銃を搭載していました。

S 26 は 1940 年 5 月 21 日に就役し、ダンケルク付近での任務に就きました。
5 月 31 日の夜、フランス海軍の駆逐艦シロコおよびシクローヌに対する攻撃に参加し、この攻撃を成功させました。そして 1941 年 8 月 19 日、ドナウ川の河口においてソ連軍機の攻撃を受け、撃沈されました。

M 18 L/31 210 mm 臼砲 (ドイツ軍)
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M 18 L/31 210 mm 臼砲 (ドイツ軍)
この砲は、ドイツ国防軍の野砲としては最大の重榴弾砲でした。生産はクルップ社によって 1939 年に開始され、終戦まで続けられました。性能としては、113 kg の砲弾を、2 分毎に 1 発射撃することが可能であり、射程は 18.7 km、砲口初速は 565 m/s でした。全備重量は 16.7 トン。砲座上に設置された砲架は、手動で 360 度回転させることが可能であり、全周への射撃を実現していました。
M18 を装備する砲兵中隊 3 個によって砲兵大隊 1 個を構成しており、砲兵大隊は、より大きな編成単位である軍団や軍に組み込まれていました。

カレー付近に配置されていた第 14 師団の第 782 機械化砲兵連隊はダンケルクの西部への攻撃を、ニーウポールトに配置されていた第 26 師団の第 785 機械化砲兵連隊はダンケルク東部への攻撃を担当しており、ドイツ軍による重砲撃が、連合軍の撤退作戦に多大な困難をもたらしていました。

急降下爆撃機 Ju 87 B-2 (ドイツ軍)
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急降下爆撃機 Ju 87 B-2 (ドイツ軍)
高名な急降下爆撃機 Ju 87 の各型の中で、大戦初期において最も一般的だったのがこの型であり、エンジンが 1,200 馬力に強化され、最大 1 トンまでの爆弾を搭載可能でした。生産開始は 1939 年。本機の作戦半径は 600 km に過ぎず、最大速度も 326 km/h という低速でしたが、1940 年の戦いにおいては、近接航空支援に特化した本機は、極めて有効な「空飛ぶ砲兵」であることを証明してみせたのでした。

連合軍の撤退作戦中には、第 8 航空軍団の第 2 および第 77 急降下爆撃機中隊に所属する 87 機がイギリス海峡上空を飛行し、ダンケルクに対し 1 日あたり最大 12 回もの攻撃を敢行しました。これらの攻撃によって撃沈された連合軍の輸送戦および軍用艦艇は、イギリス駆逐艦 6 隻、フランス駆逐艦 3 隻を含め、合計で約 250 隻に上りました。連合軍戦闘機および港の対空砲による迎撃により撃墜された Ju 87 は、僅か 11 機に留まりました。

ボールトンポール デファイアント Mk I 戦闘機 (イギリス軍)
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ボールトンポール デファイアント Mk I 戦闘機 (イギリス軍)
パイロット用のコックピットの背後に、ブローニング 7.7 mm 機銃を 4 連装で搭載した旋回銃塔を備えた復座戦闘機であり、護衛機を伴わずに密集編隊で飛来する長距離爆撃機を迎撃するため、戦前の伝統に則って開発されました。本機は旋回戦闘を前提としておらず、ハリケーン戦闘機と連携して作戦にあたる必要がありました。本機とハリケーンは、外観とスペックの両面で類似性があり、本機の離陸重量は 3,900 kg、エンジン出力は 1,030 馬力、最大速度は 498 km/h でした。

デファイアント Mk I は、1939 年 12 月から部隊配備が開始され、翌年のダンケルクの戦いには、第 264 戦闘機師団から 18 機が参加しました。本機は爆撃機に対しては有効であったものの、Me 109E 戦闘機に対しては無力であり、本機の大半が撃墜されてしまいました。

モーリス・コマーシャル CDSW 砲兵トラクター (イギリス軍)
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モーリス・コマーシャル CDSW 砲兵トラクター (イギリス軍)
モーリス社の CDSW 汎用トラクターは、イギリス陸軍の第 1 世代の 1.5 トン・トラックです。1935 年に正式採用された本車は、6 輪中 4 輪が駆動輪であり、60 馬力の 3.5 リッター・エンジンを搭載していました。

1930 年代の終盤には、この CDSW はより近代的なモデルへと置き換えられました。この CDSW はイギリス海外派遣軍において、砲兵トラクターとして 18 ポンド野戦砲およびボフォース 40 mm 機関砲を輸送するために運用されていました。そして 1940 年の夏にフランスにおいてその大半が失われました。"

ボフォース 40 mm QF Mk III 機関砲 (イギリス軍)
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ボフォース 40 mm QF Mk III 機関砲 (イギリス軍)
スウェーデンのボフォース社が開発した機関砲であり、イギリスでは 1939 年中盤からライセンス生産が開始されました。そして大戦を通じて、イギリス陸軍における短距離対空兵器の主力として活躍しました。この QF Mk III 型は、重量 2.5 トンであり、射撃速度は毎分 80 - 90 発、有効射高は約 1,200 m でした。装填は、4 発をまとめたクリップで装填する方式を採用していました。

1940 年 5 月 28 日からのダンケルク付近における戦いにおいては、第 51 軽対空砲連隊が装備していた対空砲は、このボフォース機関砲のみでした。第 2 対空砲旅団の司令官は、受けた命令を誤って理解し、100 門以上の 94 mm 対空砲を放棄して兵士を撤退させました。1940 年にフランスにおいてイギリス陸軍は 101 門の QF MK III 機関砲を失いました。

モーターヨット アローニア (イギリス)
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モーターヨット アローニア (イギリス)

65 m の鉄製ヨットであるこのアローニアは、1929 年にイギリスのある富豪からの注文によってコペンハーゲンで建造されました。その豪華な内装は、大西洋横断客船であるノルマンディーに匹敵する素晴らしさでした。2 基のディーゼル・エンジンにより、30 ノットという速力を発揮しました。本船は大戦の序盤に動員され、ダンケルク撤退作戦に参加しました。その後も、その高い速力を活かし、スウェーデンから秘密裏に戦略的物資を輸送するために運用されました。その戦略物資とはボールベアリングであり、これは航空機のエンジンや戦車を製造する上での必須部品でした。本船は 1945 年に所有者へと返還され、本来の目的でしばらく運用されました。1950 年代後半には、ウィンストン・チャーチルが本船に乗船して地中海を航海しています。

トロール船ジョン・カトリング (イギリス)
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トロール船ジョン・カトリング (イギリス)

イングランドにおいて 1916 年から 1919 年にかけ、トロール船の設計を下敷きにした軍民両用の蒸気船が 500 隻以上も建造されました。そして戦時中には、哨戒、掃海および対潜任務に従事し、平時には武装解除されて民間の所有者に渡されました。二次大戦の序盤にトロール船が再度動員されましたが、その中にはこのジョン・カトリングも含まれていました。本船の諸元は排水量 276 トン、全長 38 m、幅 7.2 m、速力 10 ノットであり、これを活かして掃海艇として運用されました。1940 年 5 月 29 日、ダンケルクの埠頭先端部の付近においてイギリス海軍の駆逐艦グレネードが爆弾 2 発を被弾し、炎上しながら操縦不能に陥り、湾口へ向けて漂流を始め、湾口を塞いでしまう懸念が生じました。そこでジョン・カトリングがグレネードを曳光して外港へと移動させ、グレネードは最終的にそこで爆発し、沈没しました。ジョン・カトリングはその後終戦まで掃海艇として運用された後、所有者へと返還され、1957 年まで使用されました。

蒸気船メドウェイ・クイーン (イギリス)
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蒸気船メドウェイ・クイーン (イギリス)

この外輪式蒸気船は、テムズ川遊覧船として使用するために 1924 年に建造されました。諸元は、排水量 134 トン、全長 55 m、幅 7 m であり、最大速度は 13 ノットでした。本船は二次大戦の序盤に動員され、掃海用の装備、76 mm 高射砲 1 門、機銃 2 門が搭載されました。ダンケルク撤退作戦においては、本船はイギリス海峡を 7 回に渡って往復し、時には兵士を浜から直接乗船させました。本船がイングランドへと輸送した人数は 7,000 名に達し、加えて、本船の対空砲員が少なくとも 1 機のドイツ機を撃墜しています。本船に救助された人々は、本船を「ダンケルクのヒロイン」として称えました。戦後には再び本来の目的での運用が再開され、1966 年からはマリーナのナイトクラブになりました。1978 年から数回に渡り本船を保存する運動が試みられましたが、メドウェイ・クイーン保存協会が本船をレストアするための充分な資金をようやく集めることができたのは、2006 年のことでした。そして 2013 年にレストア作業が完了し、この「ダンケルクのヒロイン」は現在、ケント・カウンティのメドウェイ川に係留されています。

35 フィート・モータボート (イギリス)
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35 フィート・モータボート (イギリス)

このタイプのモーターボートは、イギリス海軍の重巡洋艦や戦艦の艦載用小型ボートとして、および、海軍基地での搭乗員用ボートとして使用されました。ダンケルク撤退作戦においては、テムズ川ならびにドーヴァー海峡に面したイングランド沿岸にあった船のうち、フランスに到達可能なあらゆる船が動員されました。これらのモーターボートは、全長 10.5 m で 20 ノットという速力を備えており、輸送船を横付けするための設備がない沿岸から輸送船まで兵士を輸送する任務において大活躍しました。

テムズ川のはしけ (イギリス)
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テムズ川のはしけ (イギリス)

全長 25 m、幅 6 m のこのような平底船は、18 世紀からテムズ川やイングランド沿岸において様々な荷物を輸送するために用いられてきました。はしけは極めて人気が高かったため、1860 年頃からこれらの船のためのセーリング・チャンピオンシップが毎年開催されるようになり、1 世紀以上にも渡って続いています。1940 年には、30 隻のはしけが動員されてダンケルク撤退作戦に参加し、そのうち 18 隻が生還を果たしました。

ワトソン級救難タグボート (イギリス)
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ワトソン級救難タグボート (イギリス)
1824 年以後、このような小型船が、イギリス沿岸部での救難の責任を負うイギリスの国家機関の求めに応じて建造されてきました。ワトソン級救難タグボートは、1926 年から 1933 年にかけて建造され、1972 年まで運用が続けられました。全長 14 m、幅 4 m の木製モーターボートであり、2 機のガソリンエンジンにより、7 ノットの速力を発揮しました。1940 年、これらの船はイングランド南部各所の救難基地からダンケルクへと送られ、一部の船には民間の船員が搭乗したままでした。そして撤退作戦においては、浜から大型輸送船 (※ 喫水が深いために浜に接近できない) まで兵士を輸送しました。

ルノー AGC-3 救急トラック (フランス軍)
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ルノー AGC-3 救急トラック (フランス軍)
1.5 トンのルノー AGC をベースとした大型の救急トラックであり、フランス陸軍省による発注に応じて設計され、1940 年から生産が開始されました。2.4 リッターで出力 44 馬力のエンジンを搭載しており、重傷者を最大 5 名まで輸送する能力を備えていました。

フランス陸軍においては大型の救急トラックが深刻に不足していたため、このモデルは 3,000 両もが生産されました。この AGC-3 の開発が完了したの開戦後であったにも関わらず、1940 年の本作戦において積極的に運用されました。

ベッドフォード OYD トラック (イギリス軍)
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ベッドフォード OYD トラック (イギリス軍)
二次大戦の序盤において、ベッドフォード・ブランドは、戦前の O シリーズをベースとした後輪駆動方式の軍用簡易トラックの製造を開始しました。容易に認識することが可能な OY シリーズの車両は、長いホイールベースを備え、積載量は 3 トンを誇り、3.5 リッターで 72 馬力のエンジンを搭載していました。

イギリス陸軍において最も一般的だったのは、汎用型の OYD トラックであり、貨物および兵員を輸送するために用いられました。そして大戦中にこのベッドフォード OY シリーズは、イギリス陸軍における最多車両のひとつとなりました。生産は 1945 年まで続けられ、合計 70,000 両以上が納品されました。

プジョー DK5J トラック (フランス軍)
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プジョー DK5J トラック (フランス軍)
プジョー DK5J 幌トラックは、1939 年の末にフランス陸軍省からの発注を受けて開発されました。本車はプジョー 402 をベースとしており、402 からキャビンの設計を踏襲していました。積載量は 1.2 トンであり、2 リッターで 45 馬力のエンジンを搭載していました。

このプジョー DK5J は、後方と前線において主に食料や弾薬などの小さな補給品を輸送するために用いられました。本車はメンテナンスが容易であり、優れた沈下抵抗力を備えていたため、フランス陸軍において好評でした。

レイランド・レトリヴァー (イギリス軍)
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レイランド・レトリヴァー (イギリス軍)
レイランド・レトリヴァーは、スタンダードな 3 トン級のキャブオーバー型 6 輪トラックです。本車は第 1 世代の軍用車両であり、イギリス政府からの発注に応じて 1933 年に開発が開始されました。このモデルは 6 輪中 4 輪が駆動輪であり、6 リッターで 73 馬力のエンジンを搭載しおり、保守的な構造と実利的な設計が大きな特徴でした。

第 1 世代のスタンダードな 6 輪トラックは、その大半が 1940 年の夏にフランスで失われ、このレイランド・レトリヴァーはもはや時代遅れとなりましたが、その改良型の生産が 1944 年まで続けられました。