シリウスシンボリ(原作)/牧場

Last-modified: 2023-06-20 (火) 15:36:20

文字数制限に当たったので移しました。
何千行、何百ページと関係者の取材した資料や発言を当たっても未だに私には2代目のことがよく分かりません。
分からないのでとりあえず当時の証言や取材による資料を可能な限り集めています。

元のシリウスのページは シリウスシンボリ(原作) です。

シンボリ牧場二代目、和田共弘氏について

ミル貝では結構な悪口を書かれていて、良い点についてはほとんど触れられていないため比較的冷静さを保ちつつ中立的に書いてみようと思います。
(私はシリウスにもマティリアルにもアイルトンの扱いに対しても色々と思う所がありますし、私自身も2代目に対して言いたいことは大量にあるという状態なので抱いてる気持ちは察してください)

目的

功績は高いがワンマンでトラブルメーカー
よくそう言われますが本当なのでしょうか?
中身があまり語られない功績とは一体なんなのでしょうか?
当時の優駿の連載記事などを引用しつつ検証してみたいと思います。

シリウス転厩騒動について

この騒動をザックリ一言で表すと「騎手の騎乗に不満を持ったオーナーの乗り替わり要請とそれに伴うトラブル」です。

ミル貝にはこう書かれています

馬主の和田共弘は加藤の騎乗方法に不満を覚え、岡部幸雄への乗り替わりを主張し、調教師の二本柳俊夫と対立。この対立がのちに大きな騒動と発展する事になる。
年が明けると、騎手の乗り代わりの要求を発端として、和田と二本柳の対立が激化した。二本柳はあくまでも弟子の加藤を庇い「不満があるならよその厩舎へ行ってくれ」と主張して話し合いは失敗に終わった。この二本柳の態度に対して憤慨した和田は畠山重則厩舎へシリウスシンボリを転厩させてしまう。
しかし、この和田の行動は二本柳厩舎のスタッフばかりでなく、厩務員組合全体の反発を呼び、遂には調教師会が仲介に乗り出す事態にまで発展した。結局、シリウスシンボリは僅か1週間で二本柳厩舎に戻される事になった。

ミル貝なので当たり前ですが事実の羅列のみで当時の実情などが見えてきませんので、上で引用した芹澤邦雄氏のコラムから対比して引用してみましょう


ミル貝

馬主の和田共弘は加藤の騎乗方法に不満を覚え、岡部幸雄への乗り替わりを主張し、調教師の二本柳俊夫と対立。この対立がのちに大きな騒動と発展する事になる。

コラム

加藤・シリウスシンボリのコンビは新馬戦を勝ったあと、2戦目の芙蓉特別で他馬の進路を妨害して1位失格。3戦目のいちょう特別では出遅れて脚を余しての鼻差2着だった。4戦目の府中3歳Sは勝ったものの、和田オーナーは「加藤はシリウスで4回騎乗して一度ならず二度までも騎乗ミスを犯している。降ろすのが当然だ。競馬というのは強い馬には最高のジョッキーを乗せるのが本来の姿だ。それがファンの信頼にもつながる。いま日本で最高のジョッキーは岡部だ。だから私は岡部を乗せたい」と主張した。
すでに岡部・ルドルフのコンビはこの時点で5冠を達成しており、和田さんの岡部騎手への評価は揺るぎないほどに高かったし、毎年フランスのシャンティに愛馬を預託し、国際的な競馬感覚を持つ和田さんにしてみれば、当たり前の考え方だった。正論と言ってもいい。


ミル貝

年が明けると、騎手の乗り代わりの要求を発端として、和田と二本柳の対立が激化した。二本柳はあくまでも弟子の加藤を庇い「不満があるならよその厩舎へ行ってくれ」と主張して話し合いは失敗に終わった。この二本柳の態度に対して憤慨した和田は畠山重則厩舎へシリウスシンボリを転厩させてしまう。

コラム

当時の日本の厩舎ではまだフリーのジョッキーが少なく、徒弟制度の中で、師匠(調教師)とデシ(騎手)が強い絆で結ばれていた。中でもシリウスの二本柳俊夫厩舎はそうした色合いが他厩舎よりも濃いところだった。
「うちの主戦ジョッキーがヘボというならともかく、加藤が岡部に比べて一枚も二枚も見劣ることは断じてないのだから加藤を乗せる。だいいちデビュー前からゲート難のあったシリウスを一所懸命に矯正して一人前の競走馬にした加藤の苦労はどうなるんだ」と二本柳調教師は反論し、一歩も引かぬ構えだった。
「騎手を選ぶ権利は調教師だけではなくオーナーにもある」という欧米流の和田さんと、日本流の徒弟制度の中で大きな実績を上げてきた二本柳調教師が真っ向から対立したのだ。これはもうどこまで行っても平行線。妥協点を見つけるのが難しかった。ついに最悪の事態まで進み、シリウスシンボリは同じ美浦の畠山厩舎に転厩してしまった。


ミル貝

しかし、この和田の行動は二本柳厩舎のスタッフばかりでなく、厩務員組合全体の反発を呼び、遂には調教師会が仲介に乗り出す事態にまで発展した。結局、シリウスシンボリは僅か1週間で二本柳厩舎に戻される事になった。

コラム

完全に決裂したかにみえた両者だったが、その後、周囲の熱心な仲介によってシリウスは再び二本柳厩舎に戻ってきた。


また、1993年発行の「悲劇のサラブレッド」(フリーライターの瀬戸慎一郎氏の著作)という本の中でシリウスシンボリの転厩騒動について触れている箇所での加藤騎手へのインタビューでは以下のように記述されています。
※この本のシリウスの箇所は伝聞形式(~らしい、~と聞いた)や、筆者が想像で推理したと明言している箇所、他の当時の関係者が語るオーナーの発言と矛盾する、捏造かもしれない言動なども多いためその点は踏まえてご覧ください。

「当時、先生と和田さんのあいだには確かにいろいろあったよね。そのころのボクは二本柳厩舎の所属だっただけに、先生から任されている限り、勝つことだけを考えて乗っていた。それだけに、これ以上は負けられないってプレッシャーが大きかった…」
「当時のボクは、二本柳厩舎の所属ジョッキー。だから先生の言うことは絶対だった。シリウスに関しても、先生の意向に従うだけ。そんな立場だった。」
「ウチの先生は乗り方に注文をつける人じゃない。レースに関してはすべてをボクに任せてくれた。シリウスで失格になったときも、出遅れで負けたときも、責めはしなかった。かつて、ホウヨウボーイでカツラノハイセイコと牽制し合って、プリティキャストに逃げ切られたときだってそうだった。
先生が怒る時は、ぶざまな乗り方をしたときだった。単なる出遅れはしょうがない。それよりも、出遅れを取り戻そうとして、無理矢理ついていこうとしたときにカミナリが落ちた。つまり、結果ではなく対処のまずさを許さなかったんだ。すべてはボクを成長させるためだったんだと思う。
そんな先生だからこそ、ボクをかばい続けてくれた。"和宏は乗れるジョッキーだ"って。だからこそ、いざ大レースってことになると、それこそ相当なプレッシャーになった。先生に対して恩返しをしなくちゃならない、和田さんにもぶざまなところは見せられない。そして、ダービーっていう最高のレース自体のプレッシャー。ホントに背水の陣だった。勝ちたい、負けられない……、そんな気持ちがボクの中で交錯したんだ」
「でもね、ボクは土壇場で開き直ることができたんだ。何よりもシリウスを信じていたからアイツが自分の能力を出し切れば、ダービーだって勝てるんだ、ってね」
「シリウスを信じて乗る——、それだけの話」*1

 
優駿での加藤騎手インタビューでは転厩騒動に関して以下のように書かれています。

2歳秋にシリウスシンボリと出会った加藤和宏は、9月の中山におけるマイルの新馬戦を快勝した。だが、続く2戦目の芙蓉特別で4コーナー手前で外斜行して1着失格、さらに10月府中のいちょう特別でハナ差の2着と脚勢を余して負けた。続く府中2歳ステークスでは、馬なりで楽勝し、面目を保ったかにみえた。
その後、シリウスシンボリは右前脚の球節炎で戦列を離れ、シンボリ牧場で調整に励んだ。
年が明けて、クラシックロード間近となった3月に、問題が表面化したのである。
オーナーブリーダーである和田共弘氏は、
「加藤和宏が決して憎いわけではないが、プロのジョッキーとしての自覚と反省を促す意味で降ろす方が彼のためであると判断した」
と意向を表わした。二本柳俊夫調教師は、「自分が管理している馬である以上、所属ジョッキーを乗せる。加藤が岡部に比べて1枚も2枚もおちるということはない。それにデビュー前からゲート難のあったシリウスを懸命に仕込んだ加藤の苦労はどうなるんだ」と、弟子を守った。
プロフェッショナルのスピリットに基づく和田オーナーの合理主義と、弟子を守ろうとする二本柳調教師の日本主義とが、正面から衝突した。
騎手として加藤和宏は、沈黙を守るしかなかった。
3月20日、シリウスシンボリは畠山厩舎へ転厩したが、3月28日、再度二本柳俊夫厩舎へ戻った。
ようやく若葉賞への出走体制は整った。が、若葉賞は岡部幸雄の騎乗となり、シリウスシンボリは楽勝した。
「シリウスは、2歳時には騎手の指示にすぐ反応できない幼さがありました。ゲート練習では、いつも僕の膝は蒼アザだらけになって、文字通り傷だらけの練習でした。」
「あの時の、二本柳先生の僕を思ってくれた気持ちを考えると……僕は……。」
若葉賞の勝利後、シリウスシンボリは再び脚部不安を再発し、皐月賞、NHK杯を回避して鋭意調整に努め、5月26日のダービーに加藤和宏の騎乗によって史上稀なるローテーションで挑戦することになった。*2

 
ちなみに1985年ダービー前の優駿では芙蓉特別の騎乗ミスに関して、

滅多にない1着失格で勝ちを逃がしたことがあるし*3

と書いてあるので、当時はこの失格がかなり珍しい事例だった事が分かります。

また「馬の王、騎手の詩」という本では転厩騒動の際の畠山師について書かれています。

和田共弘が怒り出した。岡部を乗せないなら、厩舎を変える。馬を畠山厩舎に移す。問題はこじれた。そして若葉賞には岡部幸雄が乗って勝つという事態にまで発展した。
詳細は紙幅が足りないから省略するけれど、話はこじれた。転厩を和田に頼まれた畠山調教師がそれを受けられないと、和田に伝えに行った日に、たまたま私はその現場に居合わせた。シリウスがもとのサヤに収まったところで、ダービーが近づく顛末となった。*4

畠山厩舎に転厩した、と伝わっているのでこの文章がどういうことか今一つ分からないのですが状況の参考として置いておきます。

厩務員組合は…?

一方、「問題はこじれた」「揉め事があった」「周囲の熱心な仲介によって」という記述は当時の優駿や直接取材を行った人からも複数出てくるので当時の関係者間で揉め事があった事自体に対しては信頼度があるとのですが、
「厩務員組合が怒った」というソースのおそらく大元になっているサラブレッド怪物伝説(発行年が記載されていないが、マックイーン引退の記述がある為おそらく1993年11月以降発行)という本なのですが
この本の記述には想像を元にしたと思われる箇所、何を元に記述したのか分からない箇所があります。
以下にそれぞれ引用します。

和田オーナーは、どうしてもダービーが欲しかったに違いない。そして、同一馬主による2年連続ダービー制覇(厳密にはルドルフの馬主は和田農林という会社になっている)という栄誉に浴したかったに違いない。*5

この「○○に違いない」の2点、当時のインタビュー記事のどこを探しても本人がこれらに近い言動をしている箇所が見つかりません。そもそもマスコミの前にあまり出ない人なのでインタビュー自体が希少というのもありますが…
悲劇のサラブレッドでも明らかにオーナー像を想像で書いている(そして近しい関係者の語るオーナー像と全く違っている)箇所がありましたが、もしこちらも想像のみで書いたのだとすれば、それは情報発信者の持つべき責務から考えれば読者に対して余りに不誠実な態度だと言わざるを得ません。
そして「ルドルフの馬主は和田農林という会社」の一文、 林業が本業? の項目でも触れましたがおそらくシンボリ牧場の本業が林業だという噂の大元はこれではないかと思います。
当時の優駿ではシンボリルドルフの馬主に関しては「馬主:シンボリ牧場」と記載されておりますので、この点からもJRAの公式発表を取り入れず、独自解釈を採択しているのではないかという疑惑が芽生えます。

また、この本の文中には加藤騎手について述べる二本柳師の言として以下のような記載があります。

加藤は天皇賞や有馬記念も勝った有能ジョッキーで、うちの主戦。ミスではなく、むしろ気性難のシリウスをよく乗りこなしている*6

と、ここで「気性難のシリウス」と書いてありますが、上記コラムで記載されていた二本柳師が言っていた言では以下のようになります。

ゲート難のあったシリウスを一所懸命に矯正して

…ゲート難は確かに気性難の一種と言えるかもしれませんが、発言をきちんと正確に伝言できず、ゲート難よりさらに広い範囲を指し示す気性難と書いてしまうのはさすがにどうかな…と思わなくもないです。

また、この本の中ではシリウス自体に対してはこう述べられています。

シリウスシンボリは、このあと海外へと旅立ち、フランスのG3で2着するなどの好走を見せたが、結局は勝てずじまい。帰国後も最高が2着止まりと、ダービーを最後に勝ちに見放されたままで現役生活を終えた、人間の確執を背負って走ったシリウスシンボリ。ダービーで精も根も尽き果ててしまったのだろうか。

あまり個人的な感情を混ぜたくないのですがシリウスのファンとしてここだけは言わせてください。
ここからは個人的な感情です
ロワイヤルオーク賞(1985/10/27、フランスG1)で3着をここに記載せず、わざわざ別レースのフォワ賞(1986/9/14、フランスG3(当時はG3))を取り上げて「フランスのG3で2着」と書くことは明らかにシリウスに対する侮辱、ひいては情報を選別して記載することによって自分の主張を押し通したい、という印象を受けます。
私に言わせれば自分の考えを押し通すためだけに馬に誤解を与えるような事を書いている時点で、その人は馬に対する敬意もホースマンに対する敬意も持っていませんよ。
ここまでが個人的な感情です
あと、この点に関してツッコミを入れるとすれば、この記述を書いた人は当時言われていた日本競馬と海外競馬とのレベルの差をあまり分かっていない程度の知識なのではないか、という点も挙げられます。

ミスをしたら乗り換わりという事例はこれ以前にもあったのか?

正直これに関しては昔の事でもあり記録に残っていないことが多いので数を挙げることが難しいと思われますが、重賞馬として話が残っている中だとトウショウボーイの例があります。
木村幸治氏がトウショウボーイの調教師である保田隆芳師に取材をした記事として以下のようなものがあります。

二冠馬を目指したトウショウボーイは27頭立ての馬群の中から、いちばん早くゴールするかに見えた。デビュー17年目のベテラン加賀武美のクライムカイザーが追ってきて、逆転した。初めての敗北。1馬身2分の1差の2着だった。
つづく7月11日の札幌記念で池上のトウショウボーイは、グレートセイカン(郷原洋行騎乗)の2着(3着は加賀のクライムカイザー)に敗れた。
馬主の藤田正明から、若い乗り役より違う持ち味のベテラン騎手をとの要請があった。池上は自分の甥である。同じ関東を主戦場にするベテランに替えたら毎朝顔を合わせる。(自分にも若かったころ経験がある、辛いものだ)と保田は考えた。関西の腕ききが良い。福永洋一に頼んだ。*7

当時のシリウスは重賞を勝っていません(府中3歳Sは1996年までOP扱いだったので)ので、すでに重賞馬であり多大な期待がかかっていたトウショウボーイと単純に比較することはできませんが以上の記述から

  • 1976/07/11~1976/10/03の間で馬主から乗り役を変更するような要請は前例があった(ただし方向性の提示はあるが直接の指名は特になし)
  • 「保田師自身が若い頃に同じような経験があった」ということから若い頃を30歳ぐらいまでと仮定すると1936年~1949年に似た事例があったと推測できる

となりますね。
ただまぁ調べてて思いましたがデータ不足でなんとも言えませんね…
少なくとも過去にも馬主側からの乗り換り要請の事例はあったということぐらいしか現時点では分かりません。

転厩騒動の総括

正直この件に関しては、書く人によって大まかな流れは同じですが細部の言葉遣いなど大きく違い、読んだ媒体によっては印象が大きく変わってしまうというのが個人的な意見です。
読んだ本によっては人の情の欠片もないクソオーナーに見えますし、別の本を読めば日本の旧態依然とした制度をなんとかしなければと動くオーナーに見えます。
この騒動に関してはマジで伝聞をそのまま受け取るのではなく4~5冊読んでみるのがいいと思います(騒動の概要はほぼ一緒ですが)

現代の価値観から見ると騎手の乗り替わりとかフリー騎手の存在とか馬主の要望が通るとか、調教師がアレだから転厩しろ!なんて声がファンから出たりするのも割と当たり前なんですけどね…ていうかこの騒動がきっかけで馬主からの鞍上変更要請が段々と当然になっていくのでそりゃ当時は揉めて当然なんですがね…
でも当時の徒弟制も情が通っててそれはそれで…って感じで…少なくとも当時は今と色々違ったってことは分かりますね

ルドルフ3歳時の菊花賞とJCの選択は…?

最近見かけた噂で「ルドルフが菊を選ばずにJCに行くことを強硬に主張したのは和田氏で、世論の反対にあって渋々菊に出走することを決めた」というものがあります。
私も一回見かけた時には画像と共に訂正をしたのですが、色々な所で目にされるようなのでこの噂について当時の資料などを元に書いてみようと思います。

と思ったのですが有名な東スポnoteさんのルドルフ回「秋 三冠かJCか」に思いっきり当時の新聞記事が載ってあるわけですが…

※現時点で現存し誰もが閲覧できますが、参考として引用させていただきます。

東スポnoteさんの該当の新聞記事
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この新聞記事の左下、「和田オーナーもJC狙い?」の項にはこう書いてあります。

野平祐師は「勝利とは強いものに勝ってこそ意味がある。現有のメンバーで三冠をとっても……」と慎重ながら、終始一貫。"JC寄り"の姿勢を崩していない。
一方、"セントライトが終わったら決めるよ"と明言していた和田オーナーは「今日のところは想像にまかせるさ」とソソクサと競馬場を後にした。
「JCと海外遠征は別物。牝馬や騸馬に勝っても仕方がない」レース前まで菊に傾いていた同氏
の志向にぐらつきが生じたか?今回の圧勝で流れは菊6、JC4から再びイーブン、あるいは逆転まで……と情勢は変わった、とみたが……。

と、セントライト記念前までは菊寄りはオーナー側であり勝利後は心境に変化が現われたかも?と記者さんが推測しておられること、JC寄りは調教師の野平師であり、それはセントライト前もセントライト後も変わっていない、という事がこの記事から読み取れます。

なぜ当時の新聞ではこう書かれてるのに真逆の噂が広まっているんでしょうか?
この内容を主張する記事が現時点では1つであるということから根拠として弱いと思われているのでしょうか?

では岡部騎手の「ルドルフの背」ではこの事についてはどのように書かれているでしょうか?

6月のルドルフは、G2レースの高松宮杯に出場する予定だった。ボクの耳には10月のパリ・ロンシャン競馬場で開かれる凱旋門賞に出す、という噂もつたわって来た。
しかし、事情があってルドルフはこれを回避。9月30日の第38回セントライト記念(芝2200m、G3)に出て、オンワードカメルン以下9頭を破った。
これからあと、ルドルフは「ジャパンカップか、菊花賞か」の競馬世論に巻きこまれることになる。
ジャパンカップは、中央競馬会が日本競馬の国際親善のために設けた、芝2400mの外国馬招待レースだ。第1回大会以来3回連続で外国馬が勝ち日本は苦杯をなめ続けてきた。ルドルフにジャパンカップ出場を望むファンは、ルドルフなら外国招待馬を必ずや負かすだろうと読んだからだ。その一方で、セントライト、シンザン、ミスターシービー以来、日本競馬史上4度目の"三冠"が菊花賞(芝、3000m、G1)にかかっていた。
どっちにも出したい。そしてどちらもスリリングな戦いになるだろう。そのレースが見たい。それがファン心理のはずだった。
問題は2つのレースの日程である。
菊花賞が11月11日の京都。ジャパンカップは11月25日の東京。間には2週間しかない。輸送や調教の時間を考えれば、この日程ではこれまでのコモンセンスを引き合いに出さなくても"二兎を追う"ことは不可能と思われた。だから「JCか、菊か」の話題が競馬ジャーナリズムをにぎわせた。
この時、ボクには予感があった。2つともルドルフは行くだろう。なぜなら、和田共弘氏がこれまでの常識でははかれない考え方をする人だからだ。
ボクの予感は当たった。菊花賞はボクも絶対とりたいと思っていたので大歓迎だった。ルドルフは、10月30日夜、牧場を出て一路、滋賀県栗東町のトレーニングセンターに向かった。*8

この文章からは調教師とオーナーのどちらがJCを希望したかは分かりませんが、幾つかの事が読みとれます。
・岡部騎手は菊を取りたいと思っていた
・ジャパンカップに出場を望むファンの声があった
・競馬ジャーナリズムで「JCか菊か」の話題が盛んにあった


最後の「JCか菊か」の例は上で示した東スポさんの記事がまさに当時そのような話題が行われたのだという事を今に伝えて下さっていますし、それを読んだファン間でもその話題が盛んに行われたというのも想像に難くないと思われます。

では優駿ではどのように伝えられているでしょうか。
ルドルフ_セントライト記念.jpg

果たして、目指すところは無敗の三冠馬なのか、打倒外国馬なのか。*9

と書かれてますから、優駿のセントライト記念の記事ではどちらを選ぶか現時点では分かっていない、と読みとれます。
では東スポさんの記事を補強するような材料はないのでしょうか?
実は当時、野平師は優駿誌上でコーナーを持っておられ、まさに同号にてレース後のコメントが載っており今後の展望について述べておられます。
ルドルフ_セントライト後.jpg

身びいきなしに冷静にみて、3歳馬同士には負けないという春シーズンの確信はさらに強いものになりました。ひと夏越して、他の3歳馬が急激に力をつけ、ルドルフの前に大きく立ちふさがったというのなら話は別ですが、今回のレースぶりをみるかぎり、夏の上がり馬もいないようですし、神戸新聞杯をみても西にも強力なチャレンジャーはいないようです。はっきりと勝負づけがすんでいる相手に三冠を達成しても、どれほどの意義があるものでしょうか。ルドルフにはもっと強い馬としのぎを削るレースさせてやりたいですね。それが競馬の原点でしょうし、関係者の務めだとも思います*10

と、野平師はJCに強い意欲を示していることが伺えます。
そして同ページ内に載っているファンに行ったアンケートによると優駿アンケートでは100人中、JC派52人、菊花賞派39人
サンケイスポーツさんが行ったアンケートでは1000人中、JC派557人、菊花賞派443人。
このように、菊花賞よりもJCを望むファンの数がやや優勢であったことが伺えます。

また一方で、ページ下部ではオーナーのコメントとして

まず三冠です。菊花賞に全力投球させます」と決断した。これではJC派の気持ちはいったいどうしてくれるんだ——といいたくなるが、和田さんは「二者択一なんてことはしない。菊花賞を使ったあとにジャパンCにも出走します。そうすればどちらのファンも満足させられますからね」ときた。*11

と、オーナーは菊を望んでいたが、JCを望むファンのために両方に出走を決めたという事が読みとれます。
また、他の信頼できる書籍(マスコミ嫌いの共弘氏とコンタクトでき、きちんとした取材が行えているであろうもの)を探してみましたが、写真家の今井さんの写真集には特に記載なし、共弘氏に取材できる数少ない記者であられる木村氏の本にも記載なし、と一体どこからこのような噂が出てきたのかも不明です。
木村氏に至っては自分の書籍の中で「それ(野平師と共弘氏の間に生まれたギクシャク)を助長したのは、スポーツ・ジャーナリズムという名の、活字の悪戯だった。そう断定してもいいのではと私は考えている。*12」とまで言い切ってしまっているので、当時全く真逆の報道をした媒体があった可能性はあるかもしれません。

ですが当時そのような誤報があったと仮定しても、優駿を含む複数の資料に(野平師に至っては自分のコーナーで)「調教師がJC派、馬主が菊派」と載っていますので、実際は噂とは真逆の内容であったと考えるのが良いと思われます。

この件についてのはちょっと個人的な感想を言いたいのですが、大元と真逆の噂が自然発生したってのは結構考えにくいので誰か意図的に捻じ曲げてる人がいると考えた方が可能性が高そうなのですが、そうだとしたら余りにもモラルが無さすぎてかなりヤバイ気がしますね…(imgの住人が言える立場ではないですが)

実際にヤバイレスを見たことなかったんですけど教えてもらったら思った以上にヤバかった
らしい.jpg
よく知らない事なのに出典なしの情報を信じてそれを元に人物像を想像して批判はかなり危ないですよ…そもそも唯我独尊って主張してるのって信頼性がかなり怪しそうな書籍ですし…

三元育成について

マティリアル…とかで取り沙汰される三元育成ですが別にこれそのものは悪いものではないですし優れたシステムだと思います。どういった物だったかを岡部騎手の著作の記述から引用してみましょう。
元はフェデリコ・テシオの二元育成で、それに二代目が発想を得て自己流にアレンジしたものとされています

シンボリ牧場では、まず北海道沙流郡門別町にあるシンボリスタリオンで、種つけ、出産、当歳(0歳)秋までの育成につとめる。
これが第一ポイントだ。
次に岩手県九戸郡種市にある「岩手シンボリ牧場」に移し、1歳秋までおよそ1年間サラブレッドを育てる。これが第二ポイント。さらに今書いた千葉県大栄町のシンボリ牧場に移し、最後の仕上げに入る。
このシステムが実にうまく回転している。三番目のシンボリ牧場では、調教を含め馬をレースに出られるまでにつくりあげる作業のほかに、日本の馬社会では例のない愛馬精神を発揮する。
レースが終わるとすぐに調教師の厩舎に預けていたサラブレッドを馬運車に乗せ、牧場に連れ戻すのだ。そこは、美浦トレセンの中の狭い馬房や何百何千の馬たちが一緒に歩かされる砂道と違い、空気も水も草もうまい別天地である。
放牧され、自由に草をはめる草地もあれば、一周の長さが400、450、600、1750メートルの4通りがある調教馬場もある。400は自由散策用、450は屋根傾斜の砂馬場、600は歩きにくい砂利道コース、1750は実戦練習のできるダートコース。*13


また、和田共弘氏自身は幼駒の育成に関してはこう述べています。

三元育成の段階ごとに、シンボリでは1年の馬は1年の馬らしく、運動させ、エサのやり方があります。1歳の馬には1歳の馬のやり方がね。1年の馬に、1年半の成長をさせるのは間違いです。基礎工事は、手ぬかりのないようしっかりしなくてはいけません。
だが、馬の1歳秋までは、人間にたとえるなら小学、中学生ですよ。調教はこの間にやるべきでない。1歳秋から2歳春にかけた、高校、大学生にあたる時期にやるべきなんです。
だから、私は日高の畠山にも、岩手の松島にも、何をやれとも言ってません。*14


千葉シンボリの設備については触れる文章は多々ありますが日高と岩手について触れる文章はかなり少ない印象があります(あくまで個人的な意見です)。貴重にも密着取材の中で日高と岩手について触れていると思われる箇所があるため引用します。
日高(出生~0歳秋)

畠山が、日高分場全体の仕事について語る
「べつだん何もしていません。千葉にいたころ当たり前のようにやってたことを、くり返してるだけなんです。屋根つき傾斜馬場は、昭和53年に1100万円かけてできました。この施設の効果ですか?設備の問題じゃないと思うんです。牧場経営は、やはりオーケストラの芸術と同じじゃないでしょうか。和田共弘という指揮者がいて、施設という楽器があり、私たち従業員という演奏者がいます。私たちは指揮者の指示を信じ、それを盛り上げる意味で、たがいにケンカせず、指揮者にこたえるのみ。施設も使いこなし、人間も使いこなせる人あっての、牧場経営だと思うんです。当歳馬育成を秋までやっているといっても、母と子を一緒にごく普通に放牧するだけ。人間はなにもしません。子馬は、生まれるとすぐ母馬の糞を食べ、それによって草やカイバを食べることを覚えます。たとえば3月生まれの子なら、アメリカから輸入した牧草で育てます。桜の季節の5月10日ごろ、若芽がはえるまで、母乳とアメリカ牧草だけ。どこの牧場でもやってることをくり返す。それが私たちの仕事です。
畠山はかくべつに馬づくりのノウハウを秘密にしている気配はない。子馬に1日3度与える食料のうち、燕麦以外のメニューについて聞いたときだけ"企業秘密です"と手を合わせた。
5月中旬以降、子馬が食むことになる牧草は、ケンタッキーブルーグラス、チモシー、レッドクローバー、オーチャード、ホワイトクローバー(自然繁殖)などだ。シンボリルドルフも、こうした牧草を食んだ。そして10月下旬、千葉から"移送"のためにやってくるシンボリ牧場の専用馬運車に乗る日まで、子馬は母馬と、半年間の"母子家庭"生活を送るのである。
畠山の話を聞くかぎり、私の持つしろうと目には、シンボリ牧場の三元育成システムの"ホップ"部分は、一見とりたてて言うほどの特徴はないように見える。
のちに私自身は知ることができたが、畠山が"企業秘密"として発言をひかえたメニューにしても、それだけをとってシンボリ牧場の一大特徴とは言いにくいように思えた。*15


岩手(0歳秋~1歳秋)
岩手に牧場をつくった理由として、共弘氏は2点あげています
1点目

和田は回想する。
「良質のミネラルや石灰質を大量に含んだ土壌を、辛抱づよくさがして歩きました。小岩井のほうも、岩手山のほうもダメ。奥羽山脈あたりの土質はよくない。そこで北上山系なら悪くない、という結論におちつきました」
昭和35年夏だった。和田は北上山系に位置する標高700メートルの種山の丘陵地約20ヘクタールを借りることにした。そしてアメリカから輸入した牧草の種子をまき、『岩手シンボリ牧場』をつくった。*16


2点目

「私が馬に求めるもの。それはたとえて言えばこうです。
馬体の美しさとかバランスとか、外見にあらわれる要素が1割。血統とか配合の要素が1.5割から2割。それに精神力が2割。さらに順応性とか、機転とか、鋭敏性とか、さまざまに入り組んだ複雑な要素が3割かな。
つまりね、私はメンタルな要素をかなりに重要視する人間なんです。馬のそうした内面性を鍛えるにはどうしたらよいか。それを考えた結果、生まれたのが三元育成ってわけです。
ですから、若いころ持っていた、馬はできるだけ快適な条件下におこうという発想は、いまでは逆になりました。
乳離れした直後にもって行く岩手(種市)など、そのいい例ですよ。あそこは、三陸沖で寒流と暖流がぶつかって濃霧が発生するところ。その影響で、夏は気温が下がり涼し過ぎるくらい。英国やアイルランドの放牧地帯と似ています。しかし一長一短あって、馬にとってはたして理想的なとこかわからない。けれど、馬のあらゆる内面性は、若い時期に、そうした場所で育ててこそ鍛えられるんです。」*17


実際の育成内容

松島(岩手シンボリ牧場長)は語る。
「馬が好きなだけで、ボクは馬づくりのことなんか何もわかりません。ボクも含め、賄い婦のオバさんも入れて5人で、シンボリ牧場の方式どおりの世話をやってるだけです。意識しているノウハウと言えば、ただ一つ。社長が口癖にしている"馬は情熱で走る"の言葉だけです」
午前5時半(真夏なら4時以前もある)、松島らは目を覚ます。まず朝の飼いつけだ。1頭あたり燕麦1升、フスマ3合、ルーサン(輸入品、別名アルファルファ)を1升与えたあと、4人の職員で、ブラッシングをかける。現在27頭の1歳馬がいるので、1人あたり6、7頭を受けもつ。1頭あたり十数分。そのあと各馬の肛門に体温計をさし入れ検温。38度前後なら、平常とみて、午前8時には放牧する。38.6度を越えた馬は要注意だが、めったにそんな事態はない。
終夜放牧はやらない。午後3時半には牧舎に入れてブラッシングをほどこし、検温のあと夕飼いを与える。朝飼いのときより、燕麦を5合分だけ多目に食べさせる。さらに夜8時に、夕飼いと同じ分量の夜飼い。それぞれの食事どきに、畠山が"企業秘"といった付加栄養物を少量ずつ混ぜ合わせる。
広さ16ヘクタールの牧草地は、5ブロックに分け、1ブロックごと4、5年に1回、牧草の種子をまく。オーチャードが4割、チモシーを1.5~2割、ケンタッキーブルーグラスを1割、あとはレッドクローバー、ラバメクローバー、ルーサンの種子を混ぜ合わせたものだ。
和田共弘の言葉にもあったとおり、ここ種市は馬にとって、必ずしも快適な自然環境にない。
初夏になると、この山陸地方独特の冷たい編東風"山背"が吹く。フェーン現象に似た乾燥した風だが、海岸に近い一帯では霧や小雨をともない、冷害の一因となる。
和田共弘は、むしろその濃霧を期待してこの地を選んだのであった。そしてそれは予期した通りだった。松島はこの地に赴任して以来、およそ3シーズン、初夏の太陽を2か月間ずつ、おがんだことがなかった。
50年の夏は、猛暑に襲われ、アブの大量発生に悩まされたが、一転して51年夏は(宮沢賢治も嘆いたあの)"冷たい夏"に見舞われた。農家ではどこも平年作を半分以下にしたまわる凶作に泣いた。しかし牧場では、のちのダービー馬サクラショウリが、朝な夕な、その濃霧のなかで草を食んでいた。
日高での当歳秋までの育成が「たえず母子そろって放牧するだけ」(畠山・談)なのに対して、種市では1歳の4月から軽く追い運動を始める。
(社長からは)細かい指図は、何もありません。でもここでは決して馬を強くすることはない、とは言われています。馬の個体ごとに持っている能力を落とさないことが目的です」
と松島のいう通り、激しい追い運動は管骨りゅうを出すもとになるので注意を要する。
初めの2週間は、場内にある1周500メートルの砂馬場を常足で歩かせる。前にも後にも人がつく。集団で馬を馬場に慣らすのが目的である。
5月に入るとダクで約30分。後から馬に乗った職員が追う。ときには松島月江もその役を果たす。500の馬場をおよそ11周以上回らせる。
6月に入ると、同じメニューに約4周ぐらいのキャンター(軽いかけ足)を混ぜる。それ以降、10月下旬に千葉へ向かうまで、6月と同じメニューをつづける。特別の強化メニューをもりこむことはない。*18


また、千葉シンボリ牧場でシンボリの馬たちがどう過ごしていたか、代表馬であるシンボリルドルフが例になっているため、シンボリ牧場の中でも特別扱いされている可能性はありますが、参考までに岡部騎手の著作から引用します。

そんなわけで、ボクにはルドルフとの仕事はまだまだこれからだという気持ちが強かった。ボクの気持ちはさておき、レースが終わると同時にルドルフは美浦トレセンから、千葉の牧場に帰った。
「幸せな馬だ」と、ルドルフについてボクは思う。なにが幸せか。前にも書いたが、彼をはじめとするシンボリ牧場の馬たちは競馬場やトレセンという"会社"に出勤しても帰るウチがあるのだ。他の馬たちは、競馬場とトレセンを往復するばかり。これでは会社に出勤したままである。見ていても悲しい。
ルドルフはこの幸せな環境の中で、どのように幸せな顔をして暮らしているか――。ボクに言わせれば彼は"二重性格"。いい意味で二つの顔をもって、日本の競馬社会に生きている。
レースの10日前、牧場から野平厩舎に移され、レースを終えるまでのルドルフは実に堂々と落ち着いている。馬房の中にいても、そこへ取材記者が押しかけても、多少の苦痛はルドルフ自身が耐える。わがままを外にあらわさない。
牧場に帰る。すると制服からふだん着に替えたようにリラックスし、ルドルフの態度は一変する。甘えているのだろうけれど、よく噛む。和田氏の手にも噛みつこうとするし、牧場の従業員の腕などは、もう傷だらけだ。それに、行儀が悪い。"人並み"に女好きにもなるし、仲間の好き嫌いも激しい。自分の好きな馬はそばに近寄らせるが、嫌いな馬は絶対にそばに寄せつけない。気が荒いのだ。
60年のダービー優勝馬シリウスシンボリとも合わなかった。61年のダービー出走馬シンボリレーブは、いつもルドルフのそばでは脅えていた。なぜかシンボリカールとはよかった。
1750mのダートコースで追うとき、ルドルフはいつも2、3頭の仲間を彼の補佐役に使った。強すぎるので、ルドルフと終いまで並走できる馬がいないのだ。ルドルフが走っていくコースにあらかじめ3頭の馬をとびとびに待たせておき、助走させ、1ハロンずつ併せ馬をやる。ダービーに出走したシンボリレーブほどの馬が、1ハロンも行かないうちに落ちていく。シンボリ牧場にはルドルフに潰された馬がウヨウヨいるという話を、誇張交じりに聞かされたことがある。
それほどに、彼は中央競馬会の施設とは無縁なところで、ノビノビと鍛えられ、いざ本番となると、背広を着、ネクタイを締めて"10日間だけ"野平厩舎に入るのだ。こんなルドルフを幸せと言わずにいられるだろうか。*19

実家でのルドルフ_1.jpg実家でのルドルフ_2.jpg*20
ルドルフの砂浴び.jpg*21
↑ 参考画像:シンボリ牧場でのルドルフの当時の写真

89年頃の美浦の砂浴び場.jpg*22
↑ 参考画像:89年頃のトレセンの砂浴び場

ただし、上記の岡部騎手の語る「シンボリ牧場でのルドルフ」の話は本人も仰っているように「誇張交じりに聞かされたことがある」というものです。
前述した競馬かわらVAN(リレーコラム) 第10回 私の中のシンボリルドルフでも同じように、「岡部さんも牧場のスタッフから聞いた話と前置きして話してくれた」とあることから、牧場スタッフからの直接の証言でないことにご注意ください。

シンボリ牧場外からの牧場での調教の評価

シリウスがダービーを勝った後の優駿誌上での評価は こちら

岡部騎手

2歳馬は実戦という名のキャリアがない。だから騎手が実戦で仕事のしかたを教えるのだけれど、いくらなんでも牧場や調教師(厩舎)の調教がゼロに等しいのでは、ボクたち実戦部隊は仕事の教えようがない。
逆に、良く教えこまれている例もある。シンボリルドルフを育てたシンボリ牧場など、やはりさすがという気がする。ルドルフに限らずシンボリで育った馬はよくしこまれている。(シンボリレーブみたいに、騎手を振り落とす例外もあるけれど)自分の背に鞍をのせ、さらにその上に人を乗せるという基本動作が、牧場にいる十数人の乗り役によってしっかりと教えこまれている。また、並足、トロット、速足、キャンター、ギャロップなど、幾種類もの走り方をマスターしている。*23

1秒で6馬身から7馬身の差がつくレースの中では、わずかなタイムロスもかなり響いてくる。また、余分にスタミナをロスすれば、肝心のゴール前で力を出し切れないということになるのだ。だから、余計なところで何度も足を替える馬はダメ。まして、カーブの途中で脚を替えるような不自然な走り方をするようでは話にならない。
ルドルフは絶対にがまんする。これはルドルフの強さを支えるひとつの大きなポイントだ。ボクはルドルフの脚力もさることながら、苦しさに耐え抜くその精神力の強さに舌を巻く。同時に、この馬にそんなテクニックと根性を教えこんだシンボリ牧場のスタッフと野平調教師に深く敬意を感じるのである。*24

和田氏は、サラブレッドづくりに必要な<配合—生産—育成—調教>の一貫した流れをすべて自分の手によってできる、日本では数少ないオーナーブリーダーだ。その馬づくりの姿勢は、妥協を許さない完璧主義。こと馬づくりに関しては、従業員に対してとてつもなく厳しいことで知られている。*25

1歳の晩秋、松島氏は千葉シンボリ牧場からやって来た迎えの馬運車に"ルナ"を乗せ、自らも助手席に座って、千葉までつき添った。ここが、和田共弘氏をリーダーとする、三元育成の最終地点だ。ルナはここで十分な育成・調教を受けるんだ。ほどなく"シンボリルドルフ"と、名がついた。13世紀ドイツに生きた皇帝、ルドルフ1世にちなんだ名である。
千葉シンボリ牧場で、ルドルフの運動、馬房の掃除、食事、ブラッシング、健康診断、調教、砂浴びそのほか、たくさんの従業員がルドルフの世話をした。熱を出した夜は寝ずの看病をし、排便が軟いといえば大騒ぎし、不機嫌さがあらわれると病気を疑う。そんなふうに、彼等は至れりつくせりで、心からの世話をした。それはもう大切にルドルフを育ててきた。
そこに一貫して流れているのは、(牧場内にあっては)何よりも馬を第一に扱うべしという総帥和田共弘氏の考えだ。
和田氏はその信念で、シンボリ牧場のすべてのシステムを徹底的に統括した、とボクはみる。牧場にはそんな和田氏の視線が常に注がれている。その視線は、時によっては働く人たちには厳しく、恐ろしく感じられるかもしれない。また、温かく感じられるかもしれない。
シンボリ牧場の人達の働きぶりは実に熱心だ。仕事の手を抜かない。そして、彼等がしていることはピッタリと和田氏の考えや、やり方の線上にある。心はひとつだ。だから和田氏の考え方、やりたいと思っていることはすみずみまでいきわたり、確実に実行に移されている。もちろん、和田氏はそうしてくれる人を、その厳しい目で選び、育てたわけだ。*26

だから、ルドルフが遠征する時もボクは和田オーナーに言った。早めにアメリカの飼料に慣れさせたほうがいいということを。シンボリ牧場には外国を見て来たボク等の意見を、納得すればすぐとり入れる柔軟な姿勢がある。

私はこの岡部騎手の言う「納得すればすぐとり入れる柔軟な姿勢がある」がすごく不思議なんですよね。世評だと「ワンマンで人の言うことになんて耳を貸さない」って言われてるはずなんですが…
「ボク等」というのはなんでしょうね…シンボリ牧場では10年間勤務した人にはどんな人に対しても海外視察の旅行をプレゼントしていた、(幹部候補などには)入社時にすぐさま海外視察の旅行をプレゼントしていた、あたりの事例から察すると牧場内の海外視察組のことかな?という推測ができなくもない気がしますが…

野平調教師

1983年4月に発刊された著書内での評価です。

2、3の牧場を知っている人たちが、シンボリ牧場を訪ねると、そろって感嘆の声をあげる。青磁色の屋根を持った主要種牡馬たちの、御殿のような特殊馬房はもちろん、近代的で豪華な厩舎、骨折馬用の赤外線照射器などが目を奪うのだ。
ここの総面積は30ヘクタール、1周1700メートルの調教馬場と、1周600メートルの育成馬用の追い運動場がある。どちらも砂コースだが、ここの砂は九十九里浜の海中から掘り上げた良質のもので、馬の脚を痛めないと関係者たちが自慢する。東京、中山からこれだけ近いところで、完璧なコースを持つ強味ははかり知れない。若駒の育成にはもってこいだし、故障後の競走馬たちにも願ってもない再起の場である。降雨時でも調教が出来るように屋根付きトレーニング場も新設された。
豪華な故障馬用の厩舎も圧巻だ。馬房の前にレールが走り、赤外線照射機が自在に動き回って、骨折馬などの患部の治療に当たる。至れり尽くせりの感じである。また、この牧場には英仏に習って女性の獣医や牧場従業員が置いてある。臆病なサラブレッドの世話は、当たりが柔らかい女性の方が適しているという考えと、男だけの仕事場に彩りをそえることで能率を上げようという一石二鳥の計算。そして週に1回は生産関係者の全員を集めて"和田セミナー"を開き、仕事への自覚をうながしている。いかにも欧米に通じた知識人、和田さんらしい経営ぶりだ。
とにかく和田さんは自家生産馬のスピードシンボリで欧米に挑戦、それに騎乗することで見聞をひろめさせてくれたわたしの恩人である。日本のサラブレッド生産に高い理想を持ち、欧米に追い着き追い越せをモットーに、その実現にまっしぐらの努力を重ねている。スピードシンボリばかりでなく、その産駒のスイートルナがパーソロンと交配して産んだスイートコンコルド(シンボリフレンドの全妹)は、フランスの調教師に預けて調教してもらい、2戦を経験させてから帰国するという洋行帰り。いろいろと日本のサラブレッドの強化に手を尽くしている。わたしの厩舎で預かってから、幸い3勝することができた。繁殖に入ってからフランスでの体験が、よい結果をもたらすのではないかと楽しみな馬である。
いつの日か、もう1度、和田さんの馬で海外遠征を実現してみたい、わたしはいつも強く願っている。*27

成宮調教師

ビゼンニシキの調教師の成宮師がシンボリ牧場の調教や施設について優駿誌上で語っています。
編集用メモ:優駿1984年7月号42~43P

優駿での特集

1989年5月号で「サラブレッドの調教」という特集があり、トレセンではどのような日程を組んでいるのか、どのような調教方法があるのか、疲労の回復時間は、坂路とプールの効果とは(坂路は1987年12月ごろ完成で、特集時は1年間のデータが蓄積された頃でした)…などの特集がされています。
その中で「育成牧場」に関して触れている項目があり、その中で代表例としてシンボリ牧場が取り上げられております。個別の調教法などは書いておりませんが、当時の育成牧場とトレセンの関わりとはどのようなものであったか、当時描いていた理想論とは…という参考になるためここに記載しておきます。

第二のトレセン 育成牧場の役割が増した。
前半で"何も馬場だけが調教じゃない"という話は書いたけれど、実はもう一つこれとよく似た言葉で"何もトレセンだけが調教じゃない"というのも現実にごく当たり前のことのようになってきた。
美浦トレセンを例に取ると、周辺には50前後の育成牧場があるといわれている。これらの牧場が今や第2のトレセンとしての役割を果たそうとしている。
というのもトレセンの厩舎の馬房数には限りがある。調教師は通常10~20の馬房をJRAから貸与されるだけだ。だから調教師としては成績を上げるために、なるべく遊んでいる馬房を少なくしたい。もし故障馬が出たら、その馬を放牧に出して代わりの馬を入れる。それも同じ入れるなら、1から仕上げなくてはならない馬よりも、ある程度仕上がった馬の方がいいのは当然だろう。
そこで育成牧場で馬房の空き待ちをしている馬に、ある程度のトレーニングをしてしまおうという訳だ。ただほとんどの牧場の馬場では15ー15に近い調教が精一杯だから、よほど計画的にやらないとトレセンに入厩してからすぐにレースを使うという訳にはいかない。それでも太めの体を絞ったり、息遣いを整えたりするのには効果がある。
これをもっと進めると、牧場がトレセンの外厩的な役割を持つようにもなる。
その代表はやっぱりシンボリ牧場になるだろう。美浦トレセンから1時間足らずの地の利に加えて、1周1600mの調教馬場まであるのだから、追い切りから何から思う存分の調教ができる。シンボリルドルフも普段はここで鍛えられていたし、事実、シンボリ牧場の所有馬は牧場で仕上げられてから、直前にトレセンに送り込まれている。
現在、トレセンには入厩制限が設けられていて、牧場から来る馬はレースの10日前に入厩して検査を受けなくてはならなくなっている。でも逆の見方をすれば、直前の追い切りだけをトレセンでやって、それ以外の調教は牧場ですませられるということでもある。
これをフルに利用すれば、トレセンに出走態勢の整った馬だけを揃えることも可能になる。そうなれば限られた馬房を効率より回転できて、とにかく無駄がない。レースが終われば、再び牧場にもどってトレーニング。その間に、空いた馬房には別の馬が入ってレースを使っている。
ここまでくると理想論で終わってしまうとしても、現にこれに近い形で育成牧場を活用している厩舎もある。中3週とか4週しかレース間隔が開いていないのに、その間に一度牧場に出ているという馬もいる。
このように外厩的な役割を果たしている育成牧場は、またトレセン入厩前の2歳馬の調教でも大きなウェートを占めるようになった。
最近は2歳馬のトレセン入厩が遅れる傾向にある。以前なら年明け早々から入厩していた2歳馬も、厩舎が限られた馬房を有効に回転させるためには、春半ばや夏前になってからということも少なくないようだ。遅くなった分、それまでトレセンで行っていた調教を、牧場が代わってやることになる。
とにかく入厩前の2歳馬の調教は手がかかる。いくら人間が品種改良して作り上げたサラブレッドといえども、何もしないでおいそれと人を背中に乗せて走ってくれる訳じゃない。鞍を乗せることや、ハミをくわえることを根気よくひとつひとつ教えて、馴らしていかなくてはならない。
しかもこの時期は人間でいうと小学生に当たる。人間の運動能力は一般に13歳までに決定するといわれている。それは馬でも似たようなもので、この時期の調教がある程度の将来を決めてしまうし、ここで変なクセがついたら"三つ子の魂百まで"さながらについて回るのだから、迂闊なことは絶対にできない。
育成牧場が第2のトレセンになりつつある背景には、どうも調教の合理性を求めるというよりも厩舎経営の合理性が優先しているのかもしれない。元を正せば、やっぱり馬房の絶対数の不足なのだろうか。*28

と、当時(89年)から育成牧場を外厩的に使っていることや、2歳馬の入厩が遅れているために育成牧場の重要性が増している事、馬房がとにかく足りない、という事情があったことが分かります。
2022年現在は割とこれに近い状況になりつつあるので当時描いてた理想にはかなり近いと言えるのではないでしょうか。

優駿の特集記事「シャダイとシンボリ 最先端の馬づくり研究<上>」より

シンボリ牧場では全ての問題点をほぼ完全にカヴァーするシステムを築いており、それはどれかが欠けてもかなりの悪影響を残すようなサイバネティクスのシステムである。
屋根つき馬場への疑問は、その現場をひと目みて解消した。高度差が7メートルもあって驚くべき急坂である。この坂では屋根がなければ一雨で砂が流れてしまう。屋根つき馬場だから日照り不足となり、赤外線照射が必要となる。人工肥料で冬も青々とした牧草は飼料でカヴァーされており、放牧はむしろ精神的リラクセイションのために利用されている。全てがこのようなフィードバックによる矯正作用を持っており、1つの方法による欠点を別のシステムがカヴァーし、そのシステムによる欠点を、また別のことがカヴァーしている。これを実行するにはそれぞれのシステムの持つ効果を完全に把握していなければならず、一頭一頭の馬の個体差まで正確にとらえていかなければならない。つまり、刀工が均一で最も弾力と硬度の優れた名刀をつくる時にたたいて固め、熱して戻しを繰り返していくようなもので、それはもう名人芸というべきものだと思う。*29

吉田照哉さん

社台グループの善哉さんのご長男の方です。
優駿89年9月号の特集の「海の向こうから見た日本の競馬パートII 初めてヨーロッパ遠征した柴田政人騎手、的場均騎手に聞く」に記載されていたものです。聞き手は木村幸治氏です。
89年のものなので40代の頃ですね…

吉田:サラブレッドはもともと人間の欲望を反映した生きものですから、ヤミクモに鉄砲を打ちつづけるのではなく、辛抱強く網を張りつづけた人の中に、いい馬が誕生することになる。その意味で日本のホースマン社会にも、ヤミクモ派からいい配合を夢みて辛抱強く待つ人が増えてきたとは言えますね。
記者:そうして日本で生まれた馬が、欧米のG1レースをトップでゴールできる日は果たしてやってくるのでしょうか。
吉田:凱旋門賞やエプソムダービはまったく不可能だと思いますね。G3やもしかしてG2レースなら可能かもしれない。
でもG3で勝つにしても、日本でG1レースを勝っていくとトップハンデをつけられる。牡馬のG1馬なら8キロくらいのハンデをつけられるから、なかなか日本馬では勝てないことになるんです。
だから向こうで勝てるという見込みのある馬は、こっちでG1を使わず勝たせないでおいて、欧米でG3から使っていく方法がある。
記者:日本でG1なら相当な賞金がつくのだから、勇気ある冒険というか挑戦ということになる。
吉田:その通りです。でもそうでもしなくては……向こうでG1を勝てるような馬はメチャクチャ強い。世界で(血統的にみても)ベストの馬がベストの調教を受けるのですから大変です。
記者:ベストの調教とは?
吉田:日本なら400万の馬でも何でも調教にあてる時間はさほど変わらない。しかし向こうならG1の馬が、賞金を2、30万しか稼げない馬の何百頭分に相当するから、オープン馬をつくるためなら毎日何時間でもどんな努力でもします。厩務員が夢中になって毎日5時間でも休まず熱心にやりますよ。
日本で言えばシンボリルドルフにかけられた情熱と一緒です。あの馬の素質が見え始めてからあとのシンボリ牧場は、普通の調教じゃなかったですからね。和田さんが馬主でなかったら、ああはいかなかった。和田さんは千載一遇のチャンスと見て、ルドルフを見るスタッフにすべてを投入した。ヨーロッパの一流馬も、決して並みの調教努力では生まれてきてないんです。
記者:すると、今まで眼力と愛情と努力があれば日本にもルドルフ級の馬が出ていたことになる。
吉田:ルドルフ級の馬に当たったホースマンは何人かいたはずです。ただ気がつかなかったので、他の馬並みにしか扱わなかった。あるいは扱いたくてもそんな環境づくりや、調教にかける時間、資力がなかった人もいたかもしれない。
むかしは調教師であれば能力のあるなしにかかわらず「先生、先生」と呼んで、馬主と心を通わすことが少ない時代でした。でも今は特にここ2、3年は変わってきた。調教師も騎手も馬主も、よく海外を視察し競馬の勉強をし、先進国の競馬に少しでも近づこうとする勢いが日本競馬にも感じられるようになりました。
調教師とボクらがプロとプロとして、建設的な意見を話し合えるし、勉強してない調教師は、馬主からも騎手からも置いていかれる時代がきています。
記者:施設面での環境改善、良血馬の輸入もさることながら、馬を育成・調教する人間の頭の改善、努力をいとわない態度などが向上してると見てらっしゃる。
吉田:日本人は根性が好きな民族で、馬を鍛えるうえでも日本人的根性の鍛え方をする。ミスターシービーをつくった松山康久さんなんかその典型だったと思うんです。一方ルドルフをつくった和田さんや野平調教師は欧州競馬を古くから学んできただけに、欧州型論理で一頭の傑物をつくり出したと思うんです。
その点ではこれからの日本競馬は欧州ばかりかアメリカ競馬の良さにも学んだ馬づくりが主流になる。アガ・カーンみたいなお金持ちの馬を例外にすれば、日本人のつくった馬でも欧米の馬にG3・G2のレースで対等に闘えるんだということを実践できる方向へ進んでいくと断言したい。
サッカーボーイのとき、日本のG1レースをやめて外へ持って行ってやろうと考えた時期がありました。目の前の実利優先ではなく競馬に足を突っ込んだ人間の夢のひとつの帰結点として、ボクは親父の目の黒いうちに何らかの馬で海外制覇をなしとげたいと決意しているんです。*30

吉田照哉さんは、ルドルフ陣営は根性論ではなく欧州型論理でルドルフを鍛えたと仰り、スタッフにすべてを投入したとも仰ってます。そしてヨーロッパの一流馬も素質だけではなく周りの並ではない調教努力によって生まれたものであると仰ってますね。

ワンマンって何?

正直これ書きたくなかったんですよね…書いちゃうと美化しかねないんで…
でもまぁフェアじゃないので当時の2代目に接していた人たちの声が載った資料を集めてみました。

ワンマンという言葉をWeblio辞書で検索すると

ワン‐マン【one-man】
1 他の人の意見や批判に耳を貸さず、自分の思いどおりに支配する人。独裁的な人。「ワンマン社長」
2 外来語の上に付いて複合語をつくり、ひとりの、ひとりだけの、などの意を表す。「ワンマンショー」「ワンマンチーム」
[補説] 1は英語ではtyrantなどという。

とあります。
和田共弘氏に対してはおそらく1の意味が使われてると思います。
つまり「他人の意見や批判に耳を貸さず、自分の思いどおりに支配する人。独裁的な人」
で、岡部騎手が「シンボリ牧場には外国を見て来たボク等の意見を、納得すればすぐとり入れる柔軟な姿勢がある。」と言っているので、意見や批判に耳を貸さないというのは否定されてしまいます。
一方で、大橋巨泉さんが「相当な一匹狼の頑固者。言い出したらききません」と言っているので、納得しなければテコでも動かない人間だというのもなんとなく推測できます。
3代目の孝弘氏は「間違った理屈、説得力のない論理に対しては厳格にそこを突いてきます。決して妥協はしません。」と言っています。
つまり「納得すれば」のあたりが大きい気はします。見聞した体験や理屈や実践などで共弘氏を納得させられれば意見を取り入れ、そうでなければ自分の考えを貫き通したと見るのがいいと思います。
例えばルドルフが2歳時にソエに痛がっていることに伊藤厩務員が気付き、その意見を取り入れ出走予定だったレースの出走をとりやめたことがあるなどの藤沢師の話を聞く限りでは、きちんと理屈として説明できるかどうかが大事なのではないかという気もします。

では何故2代目は基本的には自分の考えを貫くのか?これに関して実際に取材をした木村氏の著作から引用してみます。

名馬を作るのに、これは絶対という法則はない。しかし、何十年に1回か、生まれてくる名馬はけっして偶然の産物ではない。作り手は、1秒たりとも静止してはくれない動く生きた素材としての名馬を使って、そこに絵を描くようなものだと思う。その作業は、絵の傑作を完成させる仕事より難しいという気がします。
そんな難事業をやるわけですから、育つ過程で、さまざまな意見の持ち主に多様に指導されると、分裂状態になるはずです。それこそ、1人の患者に、飲みどきも効き目も違う雑多な薬をやるようなものです。馬は従順な動物ですから、人間がくれるものは信じて飲む。
しかしその結果、馬の精神面や体内ではとんでもないパニックが起こることになる。薬同士が喧嘩するわけです。それじゃあ、いかん。幸いにも、私のシンボリ牧場では誕生からレースにいたるまで、私1人を指導者とするシステムが貫かれています。ルドルフたちは少なくとも迷うことはなかったはずです。でも、指導者は1人といっても、私の考えを、現場で実践してくれるのは、40人を超すスタッフです。
1頭の馬の才能を上手に引き出し、その馬の性格に相応しい牧夫を選び、彼に世話をまかせ、ケガをさせず、精神的パニックにも陥らせず、平静な気分でレースに挑ませるためには、実にたくさんの人間たちの手や心がかけられているわけです。
しかし、私を含め全スタッフが全力を振り絞っても、なかなかルドルフみたいな馬を2つ以上作ることはできない。馬づくりのむずかしさは不条理なものだと思います。
ルドルフに限って言うなら、私たちの牧場に対する神さまからのプレゼントという気が、やはりするんです。

そこまで語ると、和田は熱い日本茶を啜り、シンボリルドルフとシリウスシンボリだけを繋養してある彼の住居と背中合わせにある厩舎へ、姿を消したのだった。*31

理屈は分かるんですよね…理屈は…

また、ややワンマンの話からはズレますが上記の木村氏との話中では「神さまからのプレゼント」という言葉でルドルフを表現しています。巷のイメージでは傲慢に自らが作った最高作品と言ってるイメージがある人なので意外ですね。この箇所だけなら木村氏の著作で言ってるだけで済むのですが実は他にも言っている本があります。
ルドルフの現役時ファンならおそらく誰もが持っているであろう今井寿恵さんが出されたルドルフの写真集からです。

サラブレッドを芸術品と言うならば、自分の手がけた最高に値するすばらしい芸術品だ。決して偶然に生まれたわけではないが、絶対に生まれるべき保証の無いこの世界で、私の能力を超えたルドルフの誕生は、神からの授かりものと思う。*32

と、自分が「手がけた」馬であり、自分の能力を超えたルドルフは「神からの授かりものと思う。」と書かれております。「手がけた」が伝言ゲームもしくは偏向報道で「作った」に変わっていき、「ルドルフは神さまからの贈り物」というのは文脈に合わないのでカットされた、と考えると今に伝わってる物になるのかなと考えることもできます。
また、こちらは共弘氏の発言ではないですが同写真集に野平師からのコメントがありますので引用します。

(野平):預かったとき、すぐに来年のこと、日本ダービーに持っていける馬だと思った。われわれの世界では、そう思ってもいろんなアクシデントがあっていけないものだが、考えるとおりにきた馬でしょう。まれに見るスケールの大きさ、天性の素質のすばらしさに敬意を払いたいぐらい。まあ、こんなことってないでしょう、私が生きてる間は。日本競馬史上、すべてを含めて、一番強い馬になったのだから。ルドルフは人知を越えた馬、この馬を授かったこと自体が奇跡なんです。
シンボリ牧場の和田オーナーをはじめとする面々のその育成ぶり、調教ぶり、愛情の注ぎぶりなどはもちろんいうまでもないが、この馬は岡部君という名騎手を得て、競走馬としての価値を得た。彼の存在なくして、ルドルフの名を高らしめることは、ならなかったと思う。言葉ではいいつくせないほど、すべての欲望を満たしてくれる"芸術"になったのだよ、ルドルフは!*33

こちらが野平師が写真集に寄せたコメントの全文なのですが、最後の方に青色を付けた「すべての欲望を満たしてくれる"芸術"になった」というあたり、ひょっとしたらこの文章と合体したものが共弘氏の発言として世間に伝わっていき、オーナー像が形作られる一因となっている可能性はないとはいえないと思われます。
また、この文章だけを読むと勘違いしやすいのですが、野平師は傲慢な意味でこの一節を言っているのではなく、牧場スタッフや岡部騎手など、様々な人の尽力にもキチンと触れています。
これは野平師の人柄やスタンスを知らないと少し分かりにくいのですが、「日本競馬が一般に受け入れられるためには賭博だけではないという面を見せなければいけない、そのためには関係者は常に恰好をつけるべきである」というようなことを度々仰っておられた野平師の美学によるものが大きいと思われます。
このような人柄や美学などの意図を汲まずに表面上を切り取って2者の発言を合体させると、「傲慢なオーナーが「ルドルフはわしが作った」と言っていた」ということになるのかなぁ…という推測ができます。

彼(共弘氏)の話の中から、1例を拾って要約してみよう。
「馬と疲労」との関連に注意しただけでも、その現われ方は無限大にある。
「疲れ気味の馬」「疲れ気味に見えるけど、実はほかにその原因を見つけだせる馬」「疲れは克服したけれど、体がまだナマった状態の馬」「疲労もナマリもとれたけれど、鍛錬を再開するには要注意の馬」「疲労の気配は見あたらなくても、四肢や筋骨あるいは精神状態のどこかに要注意の馬」……。
少なくとも、牧場内での日常生活で自身のことよりも馬を優先して考えられる人ならば、自信を持って馬が今保っている状態を見極めることができるはずだ。
"サラブレッドは生きた芸術品"と言われる。疲労ばかりか、馬の体の中で、日一日と精妙な変化は起きている。スタミナ、弾力性、気力、敏捷性、注意力、スピード力、瞬発力、性欲……ほかいろいろ。
1つの肉体に現われる、それら複合要素のめくるめく変化減少から、何を読みとり、どんな処置を採るかは、すべてホースマンの馬を愛する心や頭脳や行動力の質の問題に関わってくると言うべきだろう。*34

馬の疲労に関しても85年前後で自分の中できちんと詳しく分類しているんですよね…

部下の不注意や失敗に対して、怒る時の和田の厳しさは牧場内でも定評があったが、和田自身も部下たちの彼に対する評価には気づいていて、苦笑しながら語ったものだ。
「シンボリという、一つ囲いの中でみんなが力を合わせている。それは家族みたいなもんです。愛情がある。人というのは愛情がなければ使えませんが、愛情あらばこそ何言ったってわかってもらえる……。その信念で苦言を呈しているんです」*35

で、部下からの自分の評判は気付いていた上でもやっていたということになります。
怒り方や当時の従業員からの声については 当時のシンボリ牧場従業員の人の声 なども参考になります。

ヨーロッパ視察から帰った直後、桐澤は牧場の中で相談されている話題を耳にした。ホースメイト(馬を複数の会員で共同所有するためのシステム)に出す2歳馬をどれにするか、がそのテーマだった。
和田は社員の前で言った。
「これ出そうよ、シンボリルドルフ」
皆が、呆気にとられている。桐澤は、和田と3つ違いという歳の近さから、つい本音を口に出した。
「あんないい馬を出すんですか?」
「いいじゃないか先生。皆で喜べれば、こんないいことはない。私は、競馬を1人で勝って、1人で喜ぶのにもう飽きているんだ」*36

ルドルフのエピソードとしても有名な奴ですね。これに関してはもう説明も不要だと思います。

和田が"この男"と睨んだ男(桐沢氏)は、馬を診るだけでは満足しなかった。東京・東府中に建っている自宅をそのままにして、妻と牧場内に移り住んだ。お祭り好きで陽性の江戸っ子気質を、牧場内でも振り撒いたのだ。
起床時間がまちまちだった牧夫たちの生活習慣を、1年がかりで"全員集合型"の統率性のあるものに改めた。元旦の朝には「新年初乗り会」を、場内の桜が薄桃色の花弁をつける頃には「花見」を、桐澤が音頭を取ってはじめ、恒例行事にした。酒類はたしなまない和田共弘も、その日ばかりは社長の威厳をしまい、牧夫たちの中に笑顔で溶け込むようになった。
桐澤の加入は、それまでやや陽気さや明るさの乏しかった牧夫たちの日常に、何かをもたらしたことは確かだった。和田夫人容子はそんな状態を横目に見ながら、夫の相馬眼ならぬ人選びの目が狂っていなかったことを確認しましたと笑ったものだ。
和田はまた、牧夫として女性をよく使う人だった。英国の厩舎社会にも同じ例が見られるが、和田は「女性の方が神経が細かい」からだと言った。それに女性たちは、日常生活の現場で"破綻者"になることが、男より少ない。
和田はさらにこう言った。
「男ばっかりの職場というのは、実に殺伐としています。女なしというのは世界の構成を半分だけ欠いていることになる。男どもを刺激し、しゃきっとさせる意味でも、女を置く必要がある。オンナというのは、お茶汲み婆さんが1人いるだけでも、男社会の雰囲気を変えるものなんです」
サラブレッドを育成し、調教するための”人材集団”としての従業員たちを、まず馬よりも先に調教しなくてはならないという意識が、和田の心の奥底から見えた。*37

2代目の言い方はものすごい乱暴ですが…男女雇用機会均等法が施行されたのが86年なので、85年以前の時点で体力的には不利と見られがちな女性でも牧夫としてよく採用していたというのは結構すごいことでは?とは思えます。
また、女性の雇用に関してはこれ以外にも、
野平師の著作の中で

また、この牧場には英仏に習って女性の獣医や牧場従業員が置いてある。臆病なサラブレッドの世話は、当たりが柔らかい女性の方が適しているという考えと、男だけの仕事場に彩りをそえることで能率を上げようという一石二鳥の計算。そして週に1回は生産関係者の全員を集めて"和田セミナー"を開き、仕事への自覚をうながしている。いかにも欧米に通じた知識人、和田さんらしい経営ぶりだ。*38

と書かれておられたり、優駿連載の密着取材の中で(個人情報が過ぎるところは伏せてます)

46年の春、千葉シンボリ牧場に、ひとりの女子職員岩崎月江が入社している。昭和23年ネズミ年の生まれ。県立高校を終えて、犬や猫などの小動物が好きなので日大獣医学科へ入った。卒業する年には開業医になれる資格を持っていたが、内気すぎて医者には向かないと判断。"牧夫"になりたくてシンボリ牧場をたずねた。ある朝、手にした朝日新聞に"女子職員も働く牧場"の記事を見たのが、千葉へ足を向ける動機であった。*39

という文章が書かれています。
この記述から、

  • 女性が牧場で働くというのは一般新聞で記事になる程度には珍しい物であった
  • この方が入社したのは1971年(昭和46年)である

ということが分かります。
男女雇用機会均等法施行が86年なので…15年前の時点で記事に取り上げられるレベルというのは……まぁ…相当な常識破りですね。女性が働くのはけしからんって人からはそりゃ嫌われてもしょうがないって面はありますね。

そして牧場内での行事を導入した事によって「牧場内に明るさや陽気さがもたらされた」とありますしそれ自体は良いことなのではないでしょうか。桐沢氏が86年には亡くなってしまうことを考えなければですが…亡くなったあと牧場内の雰囲気がどうなってしまったか等を考えると非常に怖いものはありますが…

まぁ一つだけ確実に言えるのは女性の雇用にしろ馬の調教方法にしろクラブに馬を出す基準にしろ、当時の価値観の破壊者に近いことをしていたのは間違いないんですよね…

マティリアルと三元育成ついて

冷静に書けないと思うので保留しますがいつか書けたら書きたいですね。




※以下はあんまり関係ない話
同じ牧場好き同士で話している時に「マティリアルのミル貝のどこに間違いがあるかマジで分からない」と言われたので
書籍が元となっている記述でヤバそうと気付いてる物だけとりあえず書いておきます

ミル貝1点目

2歳秋になり育成調教のため千葉県のシンボリ牧場本場へ送られると、特別な馬のみが入るふたつの馬房に、同年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬シリウスシンボリとともに収められた

2歳秋(現在の馬齢の数え方だと1歳秋)、つまり1985年秋の事ですね。
で、シリウスが遠征に出発したのは1985年7月13日の午後9時半、つまりこの記述が正しいとする場合、

  • シリウスは瞬間移動技術を使えて毎晩日本に帰っていた。(これ面白いので個人的にはこれを推します)
  • 7月は秋
  • 優駿やJRAなどの数々の記録を改竄できる何らかの巨大な力を持っている

のどれかを満たす事が必要になってきます。
※ちなみに今井さんが牧場の協力のもと出版されたルドルフの写真集には「シリウスが海外に出発後、ルドルフとシリウスが入っていた特別馬房のシリウスの後にはシンボリレーブが入った」と書いてあります。

ミル貝2点目

なお、和田はもともと、同期生産のマルゼンスキー産駒・ボビンスキーと一緒に、最初からフランスでのデビューを考えていたともいい、その後ボビンスキーのみ実際にフランスへ送られている

この記述は間違ってるわけではなく、1984年生まれでフランスに送られたのは確かにボビンスキーなんですが
1985年生まれで岡部騎手の自著の中で「シンボリ牧場からフランスに留学してた馬」として触れているのに存在自体が忘れられているイースタンシンボリ君や
それよりも前に、1978年生まれで日本では野平師の管理馬となったルドルフの全姉のスイートコンコルドさん、ルドルフの近親馬かつ持込馬でありフランスに遠征していたセントシンボリ君などがフランス留学していたって語ってるのも割と無視されがちなんですよね…
さらに言うなら芹沢氏は

毎年フランスのシャンティに愛馬を預託し、国際的な競馬感覚を持つ和田さん*40

と仰ってるぐらいには毎年恒例の事だったわけでして…
留学生はミル貝に載ってる子以外にも大勢いるんです…
ここら辺を載せて無いからマティリアルとボビンスキーだけが特別なんだ!って勘違いする人を生んでる気はします(マティリアルが特別なのはその通りなんですが)

と、この2点はそれぞれ別の書籍からの引用だそうなのですが

  • 実際の記録・信頼できる取材記述と矛盾する事が書かれていたり
  • シンボリ牧場の他の馬をあんまり知らないのかな?って記述があったり
  • 編集してる方がその点に気付かないぐらいの知識量で本の記述を鵜呑みにして書いてる

というのが危険だな~と私は思ってます…一応は書籍からの引用なので否定しようとすると大変面倒くさいことになりますしね…
もちろん、実は引用している書籍の方が正しくてJRA記録やシンボリ牧場の記録や大僧正や野平師の記憶が間違っている可能性だってありますが。
なので、ミル貝の記述や引用元はちゃんと調べないと危ない時があるよ、と私が思ってるのはこの辺りも含めてだったりします。

また、野平師の著書からは近い時期のサラブレッドの骨折事故がどれほどの件数発生していたかということが分かる文章があり、以下のように述べておられます。(文中のショッキングな単語だけ優しめな表現に変えています、ご了承ください)

昭和60年(1985年)のデータだが、約6000頭はいるという中央競馬の競走馬の中で、レース中に骨折事故のため、予後不良となった馬が約100頭いたというのは悲しいことだ。また、調教中の骨折馬は966頭で、そのうちの71頭が予後不良となった。
日本の馬にはそれほど骨折が多い。それはカルシウム不足も要因の一つだと述べた。「日本の競走馬が世界に誇れるのは骨折だけ」という悲劇から脱却するためにも、カルシウム不足を補うための飼料成分を研究したり、若駒時代の運動にも変化を持たせたいものである。*41


あとはまぁ2010年ぐらいのクッション値年別グラフから当時のコースがクソ硬激ヤバ状態だったって推測ができるとか、大僧正はそもそもダービーやクラシックに全力投球する日本競馬界そのものを疑問視してる事を明言してるためマティルアル以外にもクラシックに出ない勇気について書いてるとか、そもそもマティリアルの事故後のコメントで名指しで批判していた対象は馬主でも牧場でも調教師でもなく●●(これの名前を出すと●●の批判材料に使われそうなので記載を避けますが当時の優駿のレース後コメントとして載っております)だとか、大僧正はマティリアルの不調については負けた精神的ショックが長引いてることが原因ではないかとサンスポのコラムで推測してたとか、

ボクはスイートネイティブ(昭和57年、重賞3勝)あたりから、"シンボリ"の馬に乗る機会が増えているが、ひと言でいえば"ゆとり"というものを大事にする牧場である。
ボクは一昨年(昭和63年)、2度大ケガして長く病床についた時、もう馬に乗れなくなるのではないかという危機感に襲われたが、結局はまだ先は長い、焦ることはないと自分にいい聞かせることによって危機感を振り払い、今、こうして騎手生活を続けることができた。そんな体験から本当に時間というものはたっぷりあるのだと思っている。
競走馬についても同じように考える。いわれているほど競走生命は短くない。ただし、ゆとりを持って馬を育てて行けば、の話である。シンボリルドルフはその代表例だろう。早くから素質の良さを発揮していたのに、2歳の重賞に目もくれなかった。そうしたゆとりが、あれだけの活躍に結びついたのだと思う。
最近ではジュネーブシンボリ。彼は昨年暮れの条件特別を圧勝後、それまでの評価からすれば、ふつうなら金杯あたりを目指すところである。しかし、厳寒期は無理したくない(脚部が強くないタイプ)という理由で休養に入ったと聞いている。
今回のスイートミトゥーナも2戦目の新潟2歳Sで敗れる(5着)とすぐ、牧場に戻してひと息入れている。もちろん、厩舎側とのチ密なコミュニケーションがあるからこそできることだろう。*42

というように同時期のシンボリ牧場はゆとりを大事にしている牧場であると書いてるとか色々と現在の世間で言われてる事と違う点が多々あるんですが、その辺の整合性を検証しようとするとおそらく膨大な時間が掛かるため、
誰かマティリアルの熱心なファンの方が検証してくれないかな~とは思っています。

外厩・短期放牧

上で書いた三元育成の、千葉シンボリ牧場での調教と放牧こそが現代の外厩と短期放牧の元になったと言われてる理由が岡部騎手の記述から分かると思います。

また、3代目孝弘氏の談として

スイートラペールあたりから、父はレース前以外、馬を牧場にもって帰ってつくる方法をとり出したように思います。(筆者注・したがって今日有名な和田共弘の馬主調教は、昭和38年ごろスタートしたことになる)*43

とあるので、レース前以外に自分が調教をつけるという手法を始めたのは1963年頃と言えます。スピードシンボリのデビュー前ですねぇ…

また、中山馬主協会のWebサイトの連載ではこう書かれています。

『ルドルフのために良いことは何でもやりましたね。砂利を敷き詰めた調教コースを考案したり、当時はまだなかった坂路コースを造ったり、はたから見るとなんだか不思議なことばかりでしたね。でも坂路なんかは栗東から見学にきていましたね』

シンボリルドルフが三冠馬に輝いたのは1984年のことです。
馬を鍛えて“東高西低”の現状を打破しようと、関西の栗東トレセンに坂路コースが誕生したのはその翌年、シンボリ牧場の坂路コースが参考になっていたのかもしれません。
ルドルフの時代(前編)

ただし、この外厩の試みは日本で初めてのものであっただけに、自分の管理馬を取り上げられ調教を自由につけられない調教師や厩務員からすれば、そしてオーナーと親交が深くなければ衝突する原因になった可能性がないとは言えないでしょう。

現代では外厩が当然の存在となりファンからも使って当然と思われがちですが、最初に実践した人たちに対する抵抗は大きかったことは予想できます。
あとこの頃って東高西低だったんですね…今は西高東低ですが

和田共弘氏の言動について

歯に衣を着せぬ人であるという事は周りの数々の証言から事実なんでしょうが、本当に傲慢な人なんでしょうか
余りマスコミの前に出る人ではなかったと言いますので残されている資料の大部分は関係者の証言、当時の優駿の連載取材が元です。

パーソロンの手術と看護

この話を読むと2代目の美化に繋がるかも…と思って今まで触れて無かったんですが、私の想像していたよりもヤバイレベルであやふやな情報を元に2代目を批判する人が多いようなので載せておきます。
パーソロンが亡くなったというニュースがあった後の優駿の記事です。

パーソロンの一生のなかで、意外と知られていないのは病気体験だ。昭和49年の晩秋、15歳のとき、パーソロンの目の基底細胞の一部に、悪性腫瘍が発見された。このまま放置しておけば、馬は失明するばかりか、命さえ危くなると、順天堂大学医学部の専門医が診断した。
和田共弘は、このとき思い切った処置に出た。百万円を越す費用をはらい、東京世田谷の中央競馬会競走馬総合研究所で切除手術をした。高額の出費もさることながら、勇気のいる決断だったといわねばなるまい。切除しても再発しないという保証はない。全身麻酔によって500キロの体重のある体を約2時間、ベッドに横たえる。血管が圧迫され血流が止められることによって手術後、異様なシビレ状態に陥る。
和田はこの手術に立ち合い、手術後も徹夜の看病をした。方ときも休まず両手でパーソロンに全身マッサージをほどこした。マッサージは3日間つづけられた。寝食を忘れたそのさまは、まさしく馬の守護神に祈りを捧げている敬虔な信徒のようだったと、畠山和明は語る。
癌細胞は、以来、再びパーソロンの生命をおびやかすことはなかった。パーソロンは翌50年の春も、以前と変わらないたくましさで、交合に励んだ。
そのパーソロンが、最後の仕事を終えたのは7月14日だった。ことし、かれは50頭の牝馬に精子を提供(うちシンボリ関係3頭)し、48の馬に来春への夢を実らせた。この老齢にして、じつに9割6分の"命中率"である。
牧場では午前と午後1時間ずつの曳き運動をつづけさせた。「人が定年退職したあとよく襲われる"気ぬけ"を防ぐため」(畠山和明談)牧夫はいたわるように丁寧に、馬を扱った。
夏が終わる8月末ごろ、削痩(やせること)が始まった。食欲が減退し、それまで好んでいたチモシーを口にしなくなり、軟いクローバーを食べるようになった。自然と便が軟らかく変った。年とってからの下痢は危ないなと、獣医でもある畠山は思った。
9月初旬に入って、足もとがフラつき始めた。馬の老齢を思い、春までつづけていた乗り運動をやめ、曳き運動だけにしていた牧場側だったが、一切の運動をやめさせた。放牧だけにした。その直後から、夜、馬房で体を横たえなくなった。
横になれば、ふたたび立てなくなることを動物独特の本能で知ったに違いなかった。
畠山は千葉にいる和田に電話を入れた。牧場の"救世主"ともいえた老馬に死期がそこまで近づいていることが2人の男の間で確認された。
10月4日、和田が北海道に着いた日は馬はまだ立っていた。萎えた四肢で、必死の努力をして大地と胴体とが接近しないようつとめているのがわかった。
馬は和田の顔を見て、安堵したのに違いない。翌5日、ついに馬房の藁の上に横転した。和田と畠山のほか、北海道シンボリ牧場の全従業員十余人が、パーソロンを囲んだ。
左頬を上に、パーソロンは首を藁に寝かせ、大きな目で、居並んだ人間たちを見た。澄んでいた。きれいな目だった。死を怖がっている気配は少しもなかった、首のそばに跪いた和田が、両手でいつくしむように、何度も何度もパーソロンの頬をなでた。
午後8時ごろ、パーソロンが泣き始めた。大きな瞳にあふれた涙が、その下縁から、頬をつたった。
黄色の西洋タオルで、畠山がそれを拭いた。何度拭いても、涙はあふれた。馬をとり囲んだ男たちのいくつかの頬にも、熱いものが伝わった。
午後9時。馬の首を皆でかかえあげて、ブリキ製バケツに入れた水を飲ませた。パーソロンは小さくノドを鳴らして、2口、3口とうまそうに飲んだ。それが末期の水になった。
10月5日、午後10時5分、永眠。
閉じた目や、まだ温もりの残っている頬に手をあてたまま、和田がゆっくりとつぶやいた。
「神さまみたいな死に顔だな。なんて素晴らしい死に際だっただろう。やはりこれが馬の格というものかもしれんな」
日本競馬界に超A級種牡馬の偉業をのこした馬は、その子シンボリルドルフの英姿や破天荒の名勝負を一度も見ないまま、26年の"生涯"を閉じた。
大往生だった。
パーソロン像.jpg*44

風景からするとおそらく千葉シンボリにあると思われるパーソロン像。北海道シンボリ牧場にもパーソロン像があります。ちなみに島根の某神社にもパーソロン像があるようです。

昭和49年の貨幣価値で100万円を払って成功保証の無い(しかし放置しておけば確実に亡くなる)手術を行い3日間も寝食を忘れて看護を行うなど並の人間には到底できないと思われますし、こういう良い面でも振り切れた話を知っているからこそ、うかつな情報を元に批判することが難しい人物(だからこそ批判をする際には可能な限り正確な情報を元にすべき)だというのは当時の様々な事柄を読んだ人ならご存知だと思うのですがね…

また、パーソロンのこの手術に関しては野平師の著作でも軽く触れられています。上の記述では「手術は東京世田谷で行われた」、下の記述では「京都の専門医に手術を依頼」とあり細部に違いが見受けられることにご注意ください(手術依頼が巡り巡って最終的にかなり離れた所に…とかは人間の手術でも割とあるある話なのでどっちも正しい記述の可能性もありますが)

種牡馬として功なり名遂げたパーソロンだが、千葉から北海道に移り、24歳のいまも元気に産駒を送り出しているのは脅威というほかない。しかし、その蔭にこの馬に注ぐ和田さんの深くこまやかな愛情があってこそとわたしは思う。シンボリ牧場時代、その馬房を見学したファンは「御殿のよう」と目をみはった。それほど至れり尽くせりの設備がほどこされており、数年前、パーソロンが悪性の眼病を患ったときには、京都の専門医に手術を依頼、自分も付き添って行く気の使いようだった。
(中略、2代目のクソつまんね…なパーソロン駄洒落について)
こうしたこまやかな愛情が基本にあるから、和田さんのサラブレッド管理は完璧といっていい。パーソロンだけでなく、一頭一頭の現役馬についても同じである。シンボリ牧場に放牧された馬は、それぞれに合わせて休養、トレーニングが施され、調教師顔負けの完全な姿で厩舎に帰ってくる。57年安田記念、七夕賞の重賞を連覇したわたしのところのスイートネイティブが、その好例である。*45

また、野平師によるとパーソロンの話になった際の2代目は

和田さんはこの馬の話になると「授かりものでした」といういい方をする。*46

と言うそうです。

野平祐二氏

ルドルフ後は噂が入り乱れて実態が分かりにくいので、ルドルフが現われる前の評価にしぼってみようと思います。
文中で出てくる「一高(旧制)」について、当時の学校区分について詳しくないんですが旧制高校ってことは帝国大学の予科…で、一高ってことは東大の予科?って感じでいいんですかね…?

馬と対話ができる和田共弘氏

わたしは日本のサラブレッドが世界に雄飛するためには、調教師だけでなく、生産者、馬主といった競馬界全体のチームワークがぜひとも必要と思っている。その理想的な生産者であり、馬主でもある和田共弘氏をぜひ紹介したい。和田さんは千葉県香取郡大栄町にあるシンボリ牧場の持ち主。この牧場は島根の素封家で馬好きだった父君が、御料牧場の一部払い下げのとき購入したものである。和田さんは一高(旧制)の理科に入ったが学徒動員のため出陣、肋膜炎にかかり千葉の牧場で静養しているうちに、生産の仕事をやるようになった。一高に進んだだけあって非常に進歩的な人で、戦後、まっ先に渡米し、めざましい米国サラブレッド界の躍進を知ると、直ちに自分の牧場の繁殖牝馬として、米国産で英国に渡っていた良血のスヰートを譲り受けた。つづいて英仏にも足を運び、英国でフィーナーを購入、あっという間にシンボリ牧場伝統の繁殖基礎牝馬を、そっくり入れ替えてしまった。スヰートからは天皇賞メジロアサマが生まれ、フィーナーの仔スイートインがスピードシンボリを産んだ。これだけをみても和田さんの偉さがわかろうというものである。
また、二元育成システムを日本に導入した功績も高く評価されよう。これはリボー、ネアルコら世紀の名馬を育てたフェデリコ・テシオ氏のシステムを見習ったもので、本拠の千葉のほかに、岩手、北海道にも牧場を構え、各育成馬を性格や体質の面から最適とみられる牧場へ送って、よい競走馬に仕上げるのが狙い。この方法は確かに効果をあげ、あのスピードシンボリでも、体調をくずすとすぐ千葉や岩手に送って休養させ、同時に鍛錬もすることで体質改善をはかり、立ち直らせることができた。これがなかったらスピードシンボリが、7歳の暮れまで一線級として活躍し、最後の有馬記念に勝って引退できたかどうか。
仕事ぶりが実にていねいである。彫刻家や陶芸家が精魂傾けて名品を生み出すように、和田さんも1頭、1頭の生産馬に心血を注ぎ込む。種牡馬の購入から交配まで、すべて自分で研究し、自分が納得しないと物事を進めない。だから和田さんの生産馬にはすべて心が通っており、安心して預かれると同時に、果たして和田さんと同じように、馬との対話ができるか心配になってしまう*47

大橋巨泉さん

テレビタレントとして知られ、競馬に対しても明るかった大橋巨泉さんは和田共弘氏の友人であったそうです。
その方が、ルドルフの新馬戦前の時点で15年来の付き合いがある立場として和田共弘氏の性格に対しては

相当な一匹狼の頑固者。言い出したらききません*48

と語っておられます。

また、野平師の著作に寄せた解説のなかでも和田共弘氏の言葉について書かれているため、前後を含めて引用します。

ボクはいつも我国の競馬の後進性について論じている男だから、この国のホースマンで尊敬している人は極く限られてしまう。野平祐二さんは、そんな数少ない競馬人の1人である。しかしボクは祐ちゃんに冠する形容詞としては、尊敬よりも「敬愛」という言葉の方を使いたい。この人の業績がどんなに尊いものであっても、あの愛すべき人間性を考えると、どうしてもその言葉を選んでしまうのである。
初めて会ったのは16、7年前であろうか。当時の祐ちゃんは30代後半の円熟した名騎手であった。競馬をはじめたばかりのボクにとって、まさに生き字引のような存在で、随分いろんなことを吸収させてもらったものである。芸術とまでいわれた騎手としての卓越した技術、フェアプレイの権化のようなスポーツマンシップだけでなく、競馬観自体がボクを惹きつけた。保守派の多い当時の(残念ながら現在も)競馬人の中にあって、その国際感覚はズバ抜けていた。これにはシンボリの和田共弘氏の影響があずかって力がある。名馬スピードシンボリと共に、アメリカ、ヨーロッパを転戦しているうちに、祐ちゃんが身につけたものは計り知れないと思う。つづいて本文にも出てくるホースマン・クラブのヨーロッパ進出がある。あの時懸念を述べるボクに、和田さんが言った言葉が忘れられない。
「それはね、大橋さん。ボクだって不安はある。しかし日本の競馬界に野平祐二ほどの男が居ますか?あれだけの男をこのままにしておくわけには行かない。なんとかしなくちゃいけないんですよ」
ここまで見込んだ和田さんも偉いが、受けて立った祐ちゃんにはさらに頭が下がる。今郷原騎手が1200勝だの、増沢騎手がそれにつづくだなどといわれている。たしかに野平祐二の日本記録1339勝はいつか破られるだろう。しかし彼の記録には常にプラス・アルファがついていることを忘れてはならない。彼が1400、否1500まで伸びたかもしれない──しかもそれには賞金がついているのだ──勝星を捨てて、晩年の3年間不自由なフランスに渡った行動をボクは何よりも評価したいのである。
誰だって自分は可愛い。しかも生涯記録がかかっている大事な時期に、それを捨てて行ける男は多くは居ない筈である。こんなすばらしい大局観と信念をもった男を親しい友人に、そして愛馬の調教師としてもっているボクは非常に幸せな男だと思う。*49

吉田善哉さん

編集用メモ:1985年4月号

優駿誌上に記載された鈴木淑子さんのインタビュー

鈴木淑子さんはBSスーパーKEIBAにたまに出演されてるのでご存知の方も多いと思われます、その方が行った和田共弘氏へのインタビューです。
文中に出てくる「有馬記念の前後の状態を見て」という言葉から、JC後~有馬前の期間に行われたものと思われます。
また、文体が口語体であるため、録音した対談を文字起こしした記事だと思われます。

鈴木:ジャパンカップのシンボリルドルフは強かったですね。本当におめでとうございます。ご感想は?
和田:うれしいというより、よかったという感じだね。
鈴木:今年のシンボリルドルフを振り返るといかがですか。
和田:うん、まあまあだね。今年も1つ負けているけど、競馬には綾というのがあるんですよ。力あっても負けることはもちろんある。
鈴木:はあー。でもオーナーご自身としては、大丈夫と思っていましたか、天皇賞。
和田:うん、まあ、いい状態になっていると思った。
鈴木:春の天皇賞勝って、それから宝塚記念回避、そして海外遠征じゃないかとかいろいろありましたね。だから、オーナーもシンボリルドルフに関しては、葛藤もおありだったでしょう。
和田:やはりね、あれだけの馬になると、そう無責任なことはやれんし。
鈴木:天皇賞で負けたときには、やはりショックはありましたか。
和田:いや、ショックなんてないね。フランスから電話をかけて、ラジオを聞いとったが、ああ、負けたかっていう感じ。
鈴木:ドキドキなさいましたでしょ。
和田:あんまりドキドキしない。スピードシンボリのときは、競馬終わると腰が痛くなった。力を入れてたんだろうね。
鈴木:シンボリルドルフの場合は、それだけ信頼しきっている。
和田:それとは違う。なんていうのかな、感受性が衰えたのかな。
鈴木:余裕がおありだっていうことではないんですか(笑)。
和田:うんまあ、そればっかりじゃないと思うが。
鈴木:でもあのジャパンカップは感動的でした。
和田:ああいう気持ちでないといけない。天皇賞の場合やっぱり、岡部君も意識しただろう。意識したから、向正面である程度位置を取らなきゃいかんと思うときに、馬のほうが行き過ぎになったりした。
鈴木:あれだけ人気になると、プレッシャーが……。
和田:そこらあたりの意識がね。でも岡部君はいい度胸ですよ。岡部君が競馬というのはやってみなけりゃわからないっていってたけれど、それは大事なことだと思うんだな。余談だけど、あなたのやっているのは何だっけ。
鈴木:チャレンジ・ザ・競馬。
和田:ああ、あの番組の井崎脩五郎だっけ、ああいった見方も大事じゃないかと思う。ただ血統はどうだ、時計はどうだ、体重はどうだとか、ろくでもないデータで結論を出すなんていうのは競馬じゃないんで、直観的な感覚やちょっとヒントを得たところで、こうだという、そういった気持ちで予想し、競馬を見るということも大切。
鈴木:井崎さんご自身の信条で、これを応援したいという馬があると、それを勝たせるためのデータを見付ける。
和田:なんかね、あの気持ちは、競馬に一番いいんだと思うのね。
鈴木:なんかとっても楽しいですよね。
和田:そう、競馬は楽しくなきゃいかん。馬主も馬持って楽しくなきゃいかん。苦しんじゃいけない。
鈴木:腰痛くなさったり、心配なさっちゃいけない(笑)。とにかくジャパンカップは、日本で唯一の国際レースですし、それに1番人気に推されて勝ったということは、最高の喜びじゃないですか。
和田:私はそうじゃないのよ。
鈴木:あらまあ、そうじゃないんですか。もっと強いところと戦いたいんですね。
和田:いやそうでもないけれど、ダシガラばっかりなような気がしてね。まあ格としてね、ルドルフは一線級だよね。ロッキータイガーも公営のやっぱり一線級の馬でしょ。外国から来たのは、その国の一線級じゃないんだよね。G3ぐらいしか勝っていないし。そうしてみるとやはり、ロッキータイガーとシンボリルドルフが入って不思議はない。
鈴木:オーナーとしては、シンボリルドルフを外国の一線級の馬と戦わせてみたいという気が強いですか。
和田:いやいや強くないの、ほんとはね。かりに外国でこんな成績あげていれば、もう当然種馬にすべきだし、有馬記念も使うべきじゃない。ただ日本の場合はやはり。後進国といっちゃおかしいけど、サラブレッドも日本では育たないからね。ヒンドスタンとかプリメロとか、いろんな名馬がきても、その子供、孫ぐらいまでは、なんとかやれるわけだ、種馬として。でもその後が消えちゃうもんね。
鈴木:何がいけないんですか。
和田:育成場の広さにしても土質にしても劣っているし、それから種馬にしても優秀なのは日本にいない。調教場にしても日本のが劣っている。農耕民族っていうのは、やっぱり騎馬民族と、馬に対する考え方が違う。外国じゃほんとに馬と友達のように話したりするけど、日本の場合は怒ったりする。農耕民族の一つのあらわれとしては、かりに農作業をしているとき、ここに雀がいるでしょ。すると、何も害を与えるわけでもないのに、つかまえるとか殺すとかしたくなる。これは長い間の先祖代々の農耕民族が、米や穀物をつくって、鳥などは敵だと思ってきたから。
鈴木:そういう血が流れている。
和田:そう。向こうは、そういったものを育てて狩りして生きなきゃいかんから、保護したくなる。馬扱ってもね、いつも友達のように話しながらやったりして怒ったりしない。だから、馬がかむ、蹴るなんていうこともない。日本では馬は、蹴ったりかんだりするものになっているけれど、それに向こうではお尻のほうから行くからね。
鈴木:私は、お尻のほうから回るなとか歩くなとか、いわれました。
和田:日本ではそういう。ところが欧米では、馬は向こうに繋いでて、入り口にはお尻を向けている。
鈴木:ああ、馬のほうも全然安心しているわけですね。
和田:それくらいね、友達のようになっている。あらゆる面が外国より劣っている。かりにノーザンダンサーを日本に持ってきても、2代、3代目には消滅しちゃう。ところが、アメリカとか英国とかフランスにおれば、サラブレッドの史上にいつまでも残るわけね。イタリアでテシオという人がいてね、ネアルコとかリボーとか、そういう歴史に残る馬をいろいろつくった。なぜ残っているかというと、イタリアだけに置かずに、英国に持って行って勝ち、そしてアメリカの種馬になり、英国の種馬になって、世紀の名馬になっているわけ。行かなければ、イタリアに埋もれていたんだよね。そういうことからいくと、ひょっとして、シンボリルドルフも、天性秀でたものがあるとすれば、サラブレッドの歴史に残る場所に持って行って、テストしてやらなければいけない、という義務があるような気がするの。百年後にも残るサラブレッドとして、その場所を与えてやらにゃいかんかなと。
鈴木:有馬記念に勝つとか、そういうことが、全部ちっちゃなことっていう感じになりますね。
和田:結局そう。日本におれば、数十年たてば、消える運命にある。これがアメリカとかフランスとか、一流先進国に行けば、サラブレッドの史上に、価値のある馬なら残れる。日本では価値があっても残れない。
鈴木:日本の史上にはもちろん残るけれど。
和田:残るというのは、過去の事実として残るんであって、血としてずっとつながるということは、日本ではない。我々、馬をつくっていても、日本の場合は、そこに一つ悩みがあるわけ。
鈴木:そうですか。
和田:それを思うと、持って行ってやらないといけないような気もする。
鈴木:そうですね。
和田:わかってくれる。
鈴木:今後それだけの馬が出るっていう保証がないですからね。
和田:まあ、そう。
鈴木:実現したら、なんてすてきでしょうね。
和田:すてきだと思う?
鈴木:ええ。日本の競馬ファンも、そうして欲しいと思っちゃうんじゃないですか。
和田:まあ、はたして、それだけの素質があるのかはわからんけど。やってみなきゃわからん。あるとすれば、向こうに残してやりたい。
鈴木:でも外国の方がいらして、ルドルフを見て、なんとおっしゃっているんですか。来年はやはりよこすべきだとか。
和田:うん、まあ、アメリカのG1勝てるだろうというけどね、馬は生き物だから、今はよくても、続くもんじゃない。だから、この有馬記念の前後の馬の状態を見て、来年をある程度予測して、よさそうなら持って行く。
鈴木:やっぱり行かせたいというお気持ちですか。
和田:いや、やってみたいというのではなしに……。
鈴木:義務?
和田:そういう感じのほうが強い。淑子ちゃんのように若くないしさ。意欲ないのよ。意外と意識しなくなった。でも勝負というのはね、勝つことを意識しようとするといけないよね。
鈴木:競馬だけじゃなくて、ふつうのときでもそうですね。さりげなく全力尽くそうと思ったときのほうが、よくできる。
和田:さっき新聞記者が追っかけてきて、座右の銘あるかっていうから、立っとって座右があるかってからかったんだけど、平常心即非常心という言葉がある。これもそういったことに当てはまるんじゃないかな。
鈴木:ヘイジョウシン、ソク、ヒジョウシン。私もそれを肝に銘じます。
和田:それから高校の恩師で山田先生というのがね、とかく若い人は100点が好きだが、私は80点が最高だ、というのね。言葉の意味はわかるけど、実感としてわからなかった。でも最近、段々段々わかってきた。80点がいいところだ。やっぱり100点というのは無理があるね。
鈴木:私は100点出そうと思いますね。
和田:思うでしょう。
鈴木:はい。
和田:だから淑子ちゃんは若いの。馬もやっぱりそう。100で走ろうとすると失敗する。歳取るとそういうことが、わかるようになる。淑子ちゃんはまだいいよ。私も昔は最高100点をと考えた。でもそれじゃ失敗する。
鈴木:もしその頃だったら、来年は即断なさったかもしれない。
和田:そうね。今はあえて最高というのはいわなくなった。馬作りにしても、80点ということでやっている。
鈴木:シンボリルドルフのトレーニングを拝見していますと、随分たくさんするんですね。時間も距離も。もし私自身がシンボリルドルフだったら、とても耐えられない。
和田:平素やっているから大丈夫。フランスがそれをやって効果をあげている。
鈴木:ですから、日本の馬の中では1番いい環境で鍛えられた馬ということですよね。
和田:これだけほんとに特別待遇でね、かゆいところに手が届くようなやり方というのは、ノーザンダンサーだってやっていないね。世界一幸せな馬よ。祐ちゃんがよくいうけどね。こんな馬はいない。
鈴木:そうですね。そう思います。だからさっきのお話で、日本がいろいろなところで条件が、外国に劣るということでしたが、ここに関しては、もうほとんど外国と同じぐらいじゃないんですか。
和田:まあここはね、ちょっといいかもしらんけどね。
鈴木:だから、シンボリルドルフの場合は、ここで外国の馬と同じように訓練されてきているから、きっと檜舞台で頑張ってくれちゃうんじゃないかなと思っちゃいます。
和田:うん、まあ。
鈴木:あらゆる面でシンボリルドルフは恵まれていましたね。すばらしい星の下に生まれたんですね。
和田:それはあるだろうね、2歳のとき使う前から特別待遇だった。そして天性のものがあった。そういうのが合致して、偶然の一致だけどね、まあ今日まで来たわけですよ。ある程度走ることわかってから、大事に使うことはあるんだけれど。
鈴木:シンボリルドルフは、後ろから見ると全然おしりの形が他の馬と違う。筋肉がすごい。同じように、どの馬も練習をしているけれど、そういうふうにいい具合に筋肉がならないというのは、やはり天性のものですか。
和田:それはシンボリルドルフを中心にしたメニューだからです。あとの馬はおつき合いなんだよね。
鈴木:はあ—。
鈴木:シンボリルドルフのメニューで常にやってきている。だから、つき合う馬は、過ぎたり少なかったりする。
和田:そうですか。今年の6月に見たシンボリルドルフの印象と、今日見たのと、全然印象変わったんですね。6月に見たほうが、もっと緊迫したイメージがありました。今日は、和やかでした。そういった変化みたいなものありますか。
鈴木:どうかねぇ、年齢的にやっぱり、成長したから。
和田:精神面での変化というのは、年齢を増すと出てくるんですか。
鈴木:年齢もあるけど、経験だね。
和田:おおらかになったり……。
和田:そう、大分違います。3歳と4歳では体つきも違う。やっぱり高校野球とプロ野球の違いがある。
鈴木:そんなに違いますか。
和田:3歳のダービーなんていうのは、甲子園のヒーローだからね。
鈴木:どういうところで精神面の進歩というのを感じられるものですか。
和田:今いろんなことに対して、動揺しない。もちろんレースでも違う。3歳ぐらいだと、じっとしていないで、落ち着きないものね。体つきもやはり人間にしても、17、8の高校生の体と、24、5になった、できあがった体とは違うでしょ。シンボリルドルフだって、体つきが完成されてきた。それとね、ひとつ不思議なのは、歳取ってくると、目が大きくなるね。
鈴木:目が?
和田:うん。2歳馬は目が萎んだような格好しているけれど、完成されてくると段々目が大きくなって、いい顔になってくる。淑子ちゃんのように。
鈴木:いいえー(笑)。
和田:ほんとよ、ほんと。
鈴木:どんな馬でも目が大きくなりますか。
和田:いや、やっぱり走る馬だね。スピードシンボリもそうだった。シンボリルドルフだってよくなったよ。
鈴木:すごい切れ長なんですよね、シンボリルドルフは。
和田:そうかい。
鈴木:本当に女殺し。流し目……(笑)。きりりと鋭くて切れ長の目ですよね。
和田:やっぱり目というのは大事。常に観察をしているとね、目を見ただけでお腹が痛いとか、風邪をひいたとか熱っぽいとかがわかる。
鈴木:目で?
和田:うん、目でね。それから、馬の具合のいいときというのは、四つ脚は少し長く立つんだ。具合の悪いときは、萎んで立つ。厩で立って餌食うときにね。
鈴木:はあ。
和田:それから四つ脚で平均に力をかけて立っているときは、すばらしいときね。調子の悪いときには、片方に力入れ、片方は力抜いたりする。
鈴木:ああそうですか。
和田:そんなもんだよ。物いわんからね、やっぱり観察していると、いろんなことを感じてくるんだね。
鈴木:シリウスシンボリはいかがですか。
和田:うん元気らしいね。ビアンコーヌ厩舎に結構強い馬いるけど、やっぱりシリウスシンボリは抜けているよ。
鈴木:そうですか。うあー。
和田:だから今年持って帰ろうかと思ったんだけど、ビアンコーヌに、G1勝てそうなら置いておくし、無理だと思うなら持って帰るっていったの。そしたら、大丈夫だと思いますというから。まあ、結果はやってみなければわからんけど。
鈴木:最初のキングジョージ6世のときは、私もちょうど特番で、やっていたんですが、途中画面から消えちゃったときは、もうなんか哀しくなっちゃいました。
和田:ショックだった?
鈴木:ショックでした。今度3着というのは慣れてきて、実力を発揮してきたんですね。
和田:そうね。ロンシャン2度目だしね。3歳で高校生だから、苦労してなくて、ピンチにまだ弱い。だから、淑子ちゃんをがっかりさせたんだ(笑)。
鈴木:調教師の方もG1頑張れるっていうし、来年も楽しみですね。
和田:うん、まあ。
鈴木:楽しみじゃないですか?どうして、うんうんっておっしゃるだけなんですか(笑)。
和田:ハハハハ。
鈴木:だって楽しみじゃないんですか(笑)。
和田:純情に乗れないんだよ、もう。ビアンコーヌがいい加減なこといってんじゃないかと思ったりして(笑)。人間悪くなっているから、あんたみたいに、バァーっと喜べない。
鈴木:はぁー。でもすばらしいですね。何十年もやってらして、普通の人では経験できないような、すばらしい思い出たくさん持っていらっしゃるし、これからもシリウスシンボリ、シンボリルドルフ、それからフランスに行く馬とか、どんどん増えるかもしれないし、ほんとにすてきだと思います。
和田:淑子ちゃんが思う程じゃないよ、正直いって。面倒な気もするし。それはやっぱり年齢の差だ。
鈴木:大変なことだから。
和田:大変っていうことはないけど、それだけ、魅力が少ないのよ、意外と。あんたが、その若さを俺に押しつけようたって、それは無理(笑)。
鈴木:押しつけてます。さっきから、大分押しつけの意見を……(笑)。
和田:それはやむを得ないと思うな。
鈴木:私は全然競馬を知らなかったわけですが、ミスターシービーが三冠を取り、次の年にシンボリルドルフが取り、そして今年のジャパンカップ。いろいろなすばらしいシーンをみられるときに競馬と巡り合えて幸せです。
和田:ほんとほんと。恵まれているよ。昔は、競輪、競艇なども、みんな同じように売れていたんだよね。でもそれがここへ来て、みなダウンしてきた。中央競馬だけが非常に順調に来ているのは、オーロラビジョンができたためでもなければ、なんでもないの。これはミスターシービー、シンボリルドルフ、ミホシンザン、これが続いたということは、ほんとに日本の競馬にとっては幸運だった。歌舞伎にしても相撲にしても、役者がよくなくちゃ、なんぼ設備よくしたってやっぱり衰微しちゃう。過去にアメリカ競馬でも、昭和25、6年頃かな、サイテーションという三冠馬が出た。そしてアメリカの競馬が復活してきたのね。ヨーロッパでもハイペリオン、ネアルコという世紀の名馬が出たために、盛況になってきた。役者はやはり大根役者じゃいけない。そういう意味で淑子ちゃんは幸せだ。
鈴木:幸せですよねー。そしてやっぱり、私の夢、いいえファンの願いをオーナーに押しつけたいですね。
和田:そうかい。
鈴木:はい……。*50

中山馬主協会最高顧問・和泉信一さん

「要するに馬主保護をやりすぎちゃったわけ。出走手当からなにから至れり尽くせりで馬を持っていれば、そこそこ損をしない程度になっちゃった。
これは小紫さんなんかの功績なんですよ。だから会員のためにはなっているわけ。ためにはなっているけど、新陳代謝がなくなっちゃった。
馬主もファンも減るばっかりで増えていかない。競馬の先々を考えると、ちょっと心細いよね。新陳代謝がないと、いずれ競馬は駄目になりますよね」

――小紫芳夫さんは日本馬主協会連合会の会長を8年間にわたって務められ、馬主と競馬会は競馬の発展を支える両輪という持論をお持ちで、実際に賞金や出走手当の減額に猛烈な反対をなさった方ですね。馬主の経済的側面ではずいぶんと貢献されたと思うんですが。
「それはそうなんだ。でもね、日本の競馬ってのは、馬主はもちろんそうなんだけれども、馬券を買ってくれるファンの存在というのが大きいでしょ。ここを忘れちゃうと大変なことになる。
8着まで賞金が出るとか、出走手当も支給されるとかほとんどのファンは知らないですよね。競馬会と馬主会が内々で決めてしまっている。いまのご時勢にこれはちょっとまずいと思いますね。」

「そういえば、同じようなことが前にもあったんですよ。
シンボリ牧場の和田(共弘)さんがね、競走原理が働かないような世界は駄目だと。
だから出走奨励金とかは全部なくして、賞金に上乗せして、勝った馬が全部持っていく。オール・オア・ナッシング、負けた馬にはくれるなって。現状のままでは誰が観ても面白い真剣勝負にならない、って話をしたら中山の会員から猛烈な反論が出ちゃった。それで結局引責辞任みたいになっちゃって」

――ちょっと乱暴な気もしますが、ファンの立場からすれば分かりやすいですね。納得感があります。
「和田さんの言っていることはね、正論なんでね。競馬の10年先、30年先を考えれば、まったくそうなんだ。
それをね、目先の損得だけで役員を首にしちゃうなんてのは行き過ぎだ、もう1回もとに戻してくれと、そのとき会長だった小川さんが和田さんを擁護したわけ。
それでじゃあ時期をみて戻すようにしようと言っているうちに、和田さんが先に亡くなっちゃったの。それですぐ小川さんも亡くなっちゃって。和田さんの名誉回復というか、功績の再評価をすべきですよ」
競馬の未来(前編)


※誤解されてる方がいたので注釈として付け加えておきますが、文中で触れられている「出走奨励金」というものは馬産業界の方に支払われるものではなく馬主さんに渡されるものです。
ちなみに生産者の方に渡る補助金としては生産者賞・繁殖牝馬所有者賞というものがあります

出走奨励金が馬主さんに支払われるものだということはJRAの配布している番組表PDFのP27~P29に書かれています

ちなみに「出走奨励金などの各種手当が豊富な結果として中央競馬では除外問題が多発してる」と主張する調教師さんもおり
実際に未勝利馬多すぎということでスーパー未勝利戦が廃止されるなどの番組改変が起こったりと現在進行形の問題だったりします…これからどうなって行くんでしょうね?

――その和田さんが“競争原理の導入”を唱えられて、馬主会が大モメになり、和田さんは役員を引責辞任されて“名誉回復”がなされないままお亡くなりになってしまった・・・。
『さきほどもお話したように、役員の立場としては馬主全体の利益を考えなくちゃいけない。出走手当だとか、馬主が経済的に豊かで、馬が生きていけると。
でも、あくまでも競争原理っていうんですかね、基本理念としてはやっぱり競走原理を打ち出していく、と。そういう形がないと、競馬の進展にはちょっとね、まずいのかなと。
東西で4000馬房と決まっていて、独占企業でしょ要するに。そうした環境だと何も知らされていない外から見たら身内同士で勝負やっているような感じを受けちゃいますよね。
社台グループなんかはシンジゲートみたいなもので、これはこれで新しいビジネスなんでしょうが、馬主の新陳代謝が進まない中で一極集中みたいになると、年寄りの老婆心と笑ってもらってもいいんだけれど、例えば社台の馬が、同じレースに3頭出ているとすると、人気のない馬が先に来た場合に、おかしいんじゃないか、と言い始める人が必ずいる。
こういうことが少しでも出てくるとまずい。昔あったんですよ、中山で。焼き討ち事件って』

――焼き討ちですか?
『そう。このレース八百長じゃないかってファンが騒いで、観覧席のところにある新聞に火をつけたの。最終レースだったもんだから、新聞がそこらに散らかっている。どんどん火がついていって大事件になったんですよ。
だから今一番怖いのは、そういう不信感が不信感を呼ぶみたいな負の連鎖を断ち切らないとね』
競馬の未来(後編)

文中にある「同グループの馬が同じレースに3頭出ているとすると、人気のない馬が先に来た場合に、おかしいんじゃないか、と言い始める人が必ずいる。」…
稀に居ますよね…まぁこの現代で焼き討ちはさすがに起こらないでしょうし中央競馬で八百長って騒ぐ人は白い目で見られてるので大丈夫だと私は思いますけど…

岡部幸雄氏の著作から

シンボリ牧場での育成に関する和田共弘氏への評は シンボリ牧場外からの牧場での調教の評価 にあります。

和田氏は、ルドルフに騎乗する前のボクに何も言わない。ルドルフの調教のため、シンボリ牧場に出向いた折には、ルドルフの近況などについて話してくれるが、騎乗のし方については一切、口を出さない。
もっとも騎手はレース前日の午後からレースが終わるまで、カン詰め状態になって、外部の人と接触できない。だから、レース前に話しをするなら、パドックの中へ来て、騎手が馬にまたがる時に声をかけるわけだ。和田氏は競馬場に来ていてもパドックに出てくるようなことはない。だからレース前に注文をつけるようなことは一度もなかったのである。
なぜ言わないのか。言いたいことは、すべてわかっているはずだと信じているからだろう。言いかえれば、わかっている騎手だから騎乗を頼むのだという見方が和田氏にはある。そして、もの言わぬ"視線"の怖さがそこにある。
ボクはボクなりに、和田氏の望むところになんとか答えようとつとめる。和田氏の視線は、ボクを開眼させてくれたルドルフと同じように、ボクを大きく啓発してくれたと思う。
前述した通り、野平氏の態度も同様だ。調教師だから、パドックへは姿を見せる。ボクがルドルフの背にまたがるのに手を貸してくれたりもする。でも、騎乗についての注文はほとんどない。言われたのは3回だけだ。1度は新馬戦の前、1000mのレースだったが「1600のつもりでいきましょう」と初戦に臨むルドルフを気遣った時。2度目は59年の有馬記念の前。前走ジャパンカップでカツラギの3着と敗戦していたのでひと言「(カツラギの)マッチレースをとってやりましょう」と言われた。そして3度目は60年の有馬記念。「日本で最後のレースになると思うから、観客によく見せてあげましょう」
それだけだ。あとは何もない。和田氏と似ているとボクは思った。わかっていることは言わない。そして熱く厳しい視線を向ける。この呼吸は両氏に共通するものだとボクは感じていた。*51


ルドルフの菊とJCの選択が話題になっていた時について

この時、ボクには予感があった。2つともルドルフは行くだろう。なぜなら、和田共弘氏がこれまでの常識でははかれない考え方をする人だからだ。*52


ルドルフの2回目のJC前の野平師と和田共弘氏の発言について

野平氏は取材に答えて言った。
「カイバも食べているし、頭のてっぺんからしっぽの先まで状態は万全です。英国勢の2頭がよさそうだけれど、主役はあくまでもルドルフですよ」

レース前日、牧場で和田氏は語ったという。
「勝ちたい、勝とう、あいつには負けたくないと殺気立ってはいい結果は生まれない。大一番に当たっては平常心がいかに大切かです。日本茶を立て、外国のお客様にふるまうというのが、私の心境」

2人のこの言葉は、マスコミへの応答だが、ボクに対するメッセージでもあった。ボクにはそう感じられたんだ。2人の言葉に、ボクはプレッシャーを感じなかった。むしろ、嬉しく受けとめた。「やるだけやるさ、ルドルフが負けるはずがない」。両氏同様ボクだってルドルフを信じ切っていた。*53

藤沢和雄氏の著作から

野平調教師の元で調教助手をつとめシンボリルドルフの調教にも携わり、共弘氏からの遺言で後を託された藤沢調教師の自著「競走馬私論」にて、和田共弘氏について触れている項がありますので引用します。
また、和田共弘氏のエピソードとして出てくる洗い場の話は当時の厩舎環境を理解していないと意味が分かりにくいため
「藤沢師が調教助手になりたての頃の美浦トレセンについて述べた文章」を先に引用します。

馬が痩せていて元気がない原因として、充分に飼葉を食べていない、過重なトレーニングをしている、馬が相当なストレスを感じている、などの理由が考えられる。しかしそれらを突き詰めていくと、世話をする人々が馬をどう考えているかに行き着く。馬にとって何が快適か、馬が何を要求しているか、何をしてもらえば馬はうれしいのか。そうしたことに充分な注意を払わないまま、一方的に人間の要求を押し付けていれば、馬は痩せてしまう。その馬にとって快適でない部分が厩舎(調教も含めて)にあり、それが痩せるという現象で体に出ているのである。
私には、フィジカルな問題以前に、馬の精神面でのケアが、まったく考えられていないように思えた。
わかりやすい例を挙げれば、厩舎村のいたるところで、馬を大声で叱ったり、ハミのついた引き手を手荒に引く、といった光景が日常的に見られた。馬房から引き出そうとしても出ない、指示とは違う方向に行こうとする、馬具の装着を嫌がって暴れる、そういったとき、少なからぬ厩務員が、怒ったような声で馬を威嚇し、人間の命令に従わせようとしていた。
馬は敏感で臆病な動物である。身に危険を感じると、逃げる、蹴る、噛む、この3つのうちのいずれかの行動を採る。草食動物である彼らは、敵に対しては、蹴るか噛むかの攻撃方法しか持っていない。多くの場合は走って逃げるわけだ。そのときの手段として速い足を持っている。
しかし臆病なだけではない。馬は繊細で利口である。自分に接してくる人間が、どんな精神状態であるかをすぐに察知する。怒っている人間が近寄ってくれば、警戒して耳を絞って後ろに寝かせ、攻撃しようとする。しかし、自分に危害を加える恐れがないと感じれば、馬は人間に対して攻撃的になることはない。耳も自然に立ったままである。
馬が人間のいうことを聞かないのは、馬がバカだからではなく、世話をする人間に馬を愛する気持ちと、馬を上手に扱う技術がないからである。
自分たちの未熟を棚に上げて、馬を乱暴に扱う姿は、私にとって悲しいばかりだった。

「ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース」と私に教えてくれたション・マギーが、ペンタイアという馬を連れてジャパンカップにやってきたことがあった。平成9年のことである。
ペンタイアは気性の激しい馬で、後ろ足で立ち上がることがよくあった。2本足で立ち上がって、そのまま10メートル以上も歩いてしまう。マギーが馬房から引き出して騎乗し、調教場へ向かおうとしたときにも、これをやった。マギーはペンタイアの馬上でバランスを取りながら、笑って言った。
「トーク トゥ ゴッド(神様と話しているんだな)」
普通、乗っていた馬が立ちあがってしまったら、こんなジョークは言えない。マギーは叱ることもなくペンタイアを宥め、何事もなかったかのように歩を進めさせた。
レースが近づき、調教がハードになってくると、馬はだんだん神経質になってくる。ましてペンタイアのようにイギリスから輸送されてきて、違った環境に置かれたとなれば、過敏になって、エキサイトしてくる。それで当たり前なのである。
そんなとき、世話をする人間が怒ったり、怒鳴ったりしたら、どうなるだろう。身近すぎる場所に敵の存在を感じて、ストレスを募らせることになる。
レースで走らない馬というのは、そもそも肉体的に能力が足りないというケースもあるが、走る意思が欠如しているケースが圧倒的に多い。競走馬を扱う者は、まずそのことに気付かなくてはならないだろう。
「痩せ馬、鞭を恐れず」という。速く走る能力のない馬に鞭を使っても無駄なのだが、同じように精神に問題がある馬は、たとえ鞭を使っても、言うことを聞かない。
イギリスの馬は、自分が人間に愛されていることを知っていたと思う。けれども当時の中山のほとんどの馬はそうではなかった。少なからぬ馬が人間を敵視しているような素振りを見せ、人間のほうも、馬とはそういうものだと思い込んでいるようだった。

洗い場に放ったらかしにされている馬も多く見かけた。
調教のため馬場に出ていく前、洗い場にポツンと放置されているのである。担当厩務員は何をしているのかと言えば、遊んでいるのではない。馬房で寝藁を上げている。
馬が馬房に入っていると、寝藁を上げるのは面倒な作業である。「おい、ここの藁をどかすからちょっとこっちに寄っていろ、こっちは終わったから、あとはこのへんでじっとしてろ」という具合に、馬房内で馬を移動させながらの作業になる。素直な馬ならいいが、なかなか言うことを聞いてくれない馬だったらひと苦労である。だから、調教に出るとき、馬房から出した馬を洗い場に繋いでおき、空になった馬房でサッと寝藁を上げる。
合理的と言えば、合理的なやり方である。しかし、それはあくまでも人間にとっての話だ。馬のことはまったく考えられていない。
馬はそれまで狭い馬房に閉じ込められていたのである。広いところを駆け回りたくてウズウズしている。そもそも馬というのは、広いほうへ、広いほうへと行きたがる動物で、馬房につながれている時も外に出たいと思っている。もともと草原で暮らしていた生き物なのだから、人に管理された場所から解放されたいと願うのは、当たり前だろう。
(中略、自分の馬房で工夫した改装など)
馬はそれほど広いところに行きたがる動物である。たとえわずかな時間であれ、洗い場に繋いでおくのは危ない。どうしようもない理由がある場合ならともかく、自分の手間を惜しんで馬を洗い場に放置してはいけない。
洗い場で鞍を付ける人も多かった。これも百害あって一利なしである。外に繋いでおく時間が長くなればなるほど危険度は高まる。馬を馬房に置いたまま寝藁を上げ、鞍を付け、それから外に出すのが外に出すのが正しい順番である。それは面倒な作業になるかもしれないが、馬は利口な生き物で、教えれば、ちゃんと言うことを聞くようになる。少なくとも、ニューマーケットでは当たり前にやっていることだ。
私が初めて足を踏み入れた頃の中山では、一事が万事、そんな具合だった。厩舎も、馬も、人も、すべてがニューマーケットとは違っていた。これが同じサラブレッドなのか、これが同じホースマンなのか、私の胸のなかで絶望感ばかりが拡がっていった。*54


和田共弘氏について

平成6年春、病床にあった和田共弘オーナーに呼ばれて千葉県香取郡大栄町のシンボリ牧場を訪ねたことがあった。調教師になって7年目、なんとか厩舎経営も軌道に乗った時期である。
正直言って、私には和田家の敷居が高い気がした。尊敬し、憧れている人だったから、2人きりで会って言葉を交わすのが怖い。そういう窮屈な場面は避けたいと思っていたのだが、そうもいかなかった。
私が部屋に入って挨拶をすると、和田さんは1頭の1歳馬の写真を取り出して私に見せた。
「アイルランドの1歳馬セールで気に入って買ったんだ。向こうで使うつもりで、置いてあるんだが、どうだ。いい馬だろう」
1歳馬を見て、それがいい馬かどうか、一応の感想というものは持てる。しかし、それはほとんど当たらないものだ。まして1枚の写真だけで、その馬の将来を予測することは不可能に近い。そして写真で判断する限り、それほど素晴らしい馬とは思えなかった。
しかし、そんなことを口にする必要はないから、2人でルドルフのことなどの昔話をした。最後に和田オーナーは「これから頼むな」と静かに言った。
「こちらこそよろしくお願いします」
型通りの返事をすると、オーナーは独り言のように呟いた。
「馬ってのは走らないものだ。俺はよくわかっている」
シンボリ牧場に限らず、馬主は、馬にお金をかけ、期待もかけている。当然、そういう馬を預かっている調教師には、かなりのプレッシャーがかかってくる。何とかして期待に応えなければならない、結果を出さなければならないのである。
どれだけの成績を上げようと、そのプレッシャーは重くこそなれ、軽くなることはない。和田オーナーは、調教師のそうした心情をよくわかっている、と言うのだった。

和田共弘オーナーの訃報が私に届いたのは、それから2週間後のことだった。私は調教師を開業して以来、毎年2頭ずつ預からせていただいていたが、馬についてゆっくり教えてもらう機会がなかった。体調のこともあり、厩舎には一度も足を運んでいただけなかった。亡くなられてみれば、それが残念でたまらない。
野平厩舎で調教助手をしていた時代、私は自分が調教師になったら、シンボリ牧場の馬をやってみたいと思っていた。美浦トレセンには検疫厩舎といって、牧場から来た馬が必ずそこで1泊する馬房がある。シンボリ牧場の馬は、馬運車から降ろして検疫厩舎に入るとき、誰が引いていても、それだとわかる体つきだった。それくらい素晴らしい恰好でトレセン入りしてきた。私はいつも、シンボリ牧場の馬を自分で手掛けたいと思いながら見ていた。
和田共弘というホースマンにも強く惹かれるものがあった。美浦にこんなエピソードが伝わっている。あるとき、和田共弘オーナーが美浦トレセンに馬を見にきた。入厩先の厩舎を訪ねると、洗い場に馬が繋がれていた。厩務員は馬房で寝藁作業をしていた。寒空に、洗われた馬が放置されているのを見たオーナーは「この馬、連れて帰る」と一言だけ言って、本当に牧場へ連れて帰ってしまった——。
厩務員が馬を洗い場に繋いでいたのはほんの数分で、そこにたまたま虫の居所が悪かった和田オーナーが来てしまったのかもしれない。しかし、この話を聞いたとき、私は和田共弘の馬を、いつかやりたいと思った。
一生懸命にやれば、それをこの人はわかってくれるのではないか。わかってくれる人の馬を一生懸命にやってみたい。そして自分の至らないところ、間違っているところを叱られてみたかった。これが悪い、あれが悪いと、こちらが嫌になるくらい指摘されたら、どれだけ勉強になったことだろう。私にとって和田共弘というホースマンは、それくらい偉大な存在だった。*55

畠山重則師

シリウスの転厩騒動の際に関わり、後にはアイルトンシンボリを管理されてた方です。

昭和54年春、試験に合格し、飯塚好次ばかりか田中和夫、勝又正の家族にも報告に行った。そのとき弟和明が勤務するシンボリ牧場のオーナー和田共弘から声をかけられている。
「合格おめでとう。ウチの馬やるからな」
人と人との出会い運がもたらした縁である。*56

「馬って本当に何年見ても当歳で走るか走らないか、1歳、2歳でさえ分からないものです。それはあの和田共弘オーナーだってそうですよ。ルドルフがいた時、和田さんがルドルフより同齢馬で高く評価していた馬がいて、クヌートシンボリという馬だったんですが、私に預けてくださった。これが結局、骨折で走らなかったんです」
畠山は言う。和田共弘という人ほど馬づくりのロマンに全生涯を賭け、歴史のあるヨーロッパ競馬の深さと優雅さを愛し、そこで自分がつくった馬を走らせようと全霊を傾けた男はほかに知らないと。その男に何頭も「この年の、いちばんの馬だぞ」と言われて馬を託された自分は幸せだった。*57

武田文吾師

シンザンの調教師である武田文吾師です。
和田氏の人柄などが直接わかる内容ではないのですが、写真集に収められてる写真と合わせると何となく察せるものがないでもない気がしますし文章を知って初めてあの写真がどういうものか分かると思いますので、
ルドルフの菊前に訪れ和田氏に語った内容が現代だと散逸してるとも見受けられますので、ここで引用させて頂きます。

"無傷のまま三冠達成か"というマスコミの盛り上げが高まるなか、それに煽られた1人なのか菊花賞の2日前"ヌ14"の厨舎番号が壁に取りつけられた出張馬房に1人の老爺が現われた。足もとがおぼつかない、なかば不自由な体をやっとステッキで支えていた。
愛称タケブン。武田文吾。
度のきつそうな眼鏡をかけ、萌黄色のジャケットを着て、白い海員帽に似たハンチングを被った調教師は、和田共弘を訪ねて来た。
ルドルフが10月31日にこの出張馬房に入って以来、武田文吾は調教師席から、ルドルフが走る姿を見つづけていたといった。"名伯楽"とほまれ高いこの老調教師は、あることに気づいたようだった。だから、娘婿の運転する車の世話になり、トレセンの西のはずれにある出張馬房まで、和田とルドルフに会いに来たのだった。
和田と武田文吾が出会ったその光景は日本競馬史のなかの1つの歴史的な事件だったように思われる。幸運にもその場にいて、2人の会話を聞くことができた。私はふたりの会話の数少ない傍聴者だった(近くで、前から後ろからシャッターを押している今井寿恵カメラマンがいた。)
昭和39年の三冠馬シンザンに、あと2つのG1レースを勝たせ"五冠馬"にした武田文吾。当時、競馬界きっての反骨の理論家で、多くの騎手も馬も育てた実力者で、書も詩もする明晰な文人でもあったタケブンはすでに77歳。彼は62歳の和田共弘を目にすると、「おお、和田君、いたか」といって少しずつ地上を移動した。のろかったけれど、武田にしてみれば急ぎ足の、心のはやった接近だった。
やがてタケブンは、ひさびさの対面になる和田に握手を求め、それがかなうと和田の手を離さず、岩がくずれるように、それまでいかめしく見えた頬を崩した。タケブンは泣いていた。相手の手をしっかり握ったまま、泣いた。
タケブン_01.jpg*58
「ありがとう、和田君」
と武田はいった。ハナ水をすすりながらいった。
(ワシ) の生きているうちに(シンザンを)超える馬が出ないのか、と思うと寂しかった。正直いうが、ワシが死ぬまでそんな馬が出ないと思っていた。だけど和田君、礼をいうよ。ルドルフは完全にシンザンを超えたよ。ワシはもう何も思いのこすことはない。よくやってくれた、ありがとう」
タケブン_02.jpg*59
ふたりは手を取り合ったまま、およそ1時間近く、厩舎の前やルドルフの前をゆっくり散策しながら語り合った。19年前、58歳のとき、自分の信念で五冠馬をつくった男は、やはり信念でルドルフをつくった男に挨拶をしにやって来たのである。ルドルフはこのとき、まだ二冠しか手にしていない。しかし名人は、栗東のトレセンで菊花賞前の調教で走っているルドルフを見て、ルドルフがシンザンの記録を塗り替えるだろうことを察知したのである。
人は、自分の器量の大きさによって自分の行動が選べる動物のようだ。人生のほとんどの時間を馬に費やして"五冠馬"をつくり、福永洋一や栗田勝や山本正司そのほか幾多の名騎手を世に送った調教師は、自分の名前が残ることにこだわるより、競馬界の馬づくりや人の営みが停滞しないで改革されるほうを好んだ。シンボリルドルフをつくり出した和田を訪ねた武田の握手は、まぎれもなく器量の大きさで知られた名伯楽の、偽りのない祝福の意志の吐露であった。*60


ちなみに上記の記述、岡部騎手の「ルドルフの背」の中でも同じ情景について語られた箇所があるため引用します。

ひとたび牧場を出ると、ルドルフは別の"性格"に変わる。前年のミスターシービーに続いて、また関東の馬が"三冠"をねらいに栗東まで来たと知り、野平調教師の"出張馬房"を訪ねてきた人がいた。昭和39年にシンザンを育て、日本競馬史上初の"五冠"を達成させた男、関西競馬界のドンと異名のある武田文吾調教師である。
ボクはその席にいなかったが、武田氏は野平厩舎を訪ね、ルドルフをつぶさに見た。そしてたまたま厩舎を訪れた和田共弘氏と会うや、和田氏の手をとり「ようやく(シンザンに並ぶ馬が)現われた。20年間は実に長かった」と語ったという。
その光景を見ていた記者と写真家が、ボクにもらした。
「三冠馬なら、昨年ミスターシービーが出た。ルドルフはまだ二冠なのに、タケブンはルドルフが五冠をとったように言う。何かが彼には見えるのだろうか……」
ボクはなにも答えなかった。けれど心の中ではつぶやいていた。
「そうさ。見えるのさ。武田文吾さんほどの人なら、ルドルフがどこまで闘えるのか。そしてシンザンとルドルフ、どっちが上かが見えるのさ」*61


……まぁ…大僧正はこういう所が岡部君。って元になってる感じですからね…

和田共弘夫人・和田容子さん

こちらの連載にて奥様から見られた人となりを垣間見ることができます

3代目、和田孝弘氏から見た父親像

1985年以前のインタビューです。
細かい地名・人名などは伏せている箇所があります、ご了承ください。

ボクのいちばん古い記憶のなかにあらわれてくる親父のイメージは、やはり牧場や競馬場ですね。
広い馬場に立って、サラブレッドを自分で調教している姿です。父はよくボクを中山へ連れてってくれた。自宅が市川ですから近いんですよね。
記憶に残っているのは祐ちゃん(野平祐二調教師)が乗って中山記念に勝った、フィリー(昭和34年)や、スイートワン(35年、春の目黒記念優勝)です。40年の中山記念をとった牝馬スイートラペールも記憶に鮮やかです。ぜんぶ父が丹精こめて育てあげ、調教した馬でしたからね。
楽しい日々でした。
ボクは市川市内の小学校に通ってましたが、父と早朝起床して厩舎に行く。生まれたときから馬糞のにおいのなかで育ってますから、厩舎社会が放つ独特の匂いに郷愁さえ感じたかのようでした。
のちの父と違って、そのころ和田共弘はまだ無名の、人とすれ違ってもさほど声をかけられない存在でした。目立たなかった。それがボクにはとってもよかった。子供ながら父と一体になって、馬を見に行ってるんだと実感が持てました。
それに父が、ボクを他の女姉妹と違って格別な待遇をしてくれたのも嬉しかった。姉も妹2人も、馬場や中山には連れてってもらえるんです。しかしボクみたいに、早朝の追い切りや調教、夕方の馬屋(厩)のなかに連れていかれることはなかったですから。
小学生の目で見て、父と祐ちゃんとの関係は、とても良くみえました。スイートラペールあたりから、父はレース前以外、馬を牧場にもって帰ってつくる方法をとり出したように思います。(著者注・したがって今日有名な和田共弘の馬主調教は、昭和38年ごろスタートしたことになる)
中学生になると、ボク一人だけ市川を離れ父の実家の島根県にやられました。祖父孝一郎、祖母芳野が住む家から、中学に3年間、通ったわけです。のちのちに先祖の遺産や心を継がせなくてはならないので、その大事さを幼いボクに植えつけようとのねらいがあったのでしょう。正直いって親元を離れての3年間は辛かったですね。
競馬社会から遠く離れても、一度身についた馬好きはなくなるものではありません。重要なレースになると、祖父は上京しましたので祖母と一緒にラジオを聞きました。
いまでも脳裏に焼き付いて離れないレースがあります。
中学2年の時ですから、昭和41年です。スピードシンボリが3歳です。11月13日の第27回菊花賞に挑戦しました。このときはラジオでなく白黒テレビで見ました。大レースなら田舎でもNHKが放映するんです。
今と違って、当時は重賞をひとつ勝つぐらいで狂喜したころです。まさかと思いました。満足しました。祐ちゃんの乗ったスピードシンボリが、京都3000メートルの馬場で、森安弘明騎手のナスノコトブキと死闘を演じたんです。ゴールしたとき同着かと思いました。勝ったとは見えなかった。結果的には長い長い写真判定のすえ負けたんでしたが、ボクは勝っても負けても満足でした。ボクのすぐ隣で、もの静かな性格の祖父とは一度も競馬場へ行かなかった祖母の芳野が、ニコリと笑ってたのを憶えています。
ボクのスピードシンボリ体験は、まだつづきます。
昭和43年春、中学を卒業したボクは3年ぶりに両親のもとに帰り、吉祥寺にある成蹊高校に入学しました。前年の11月、ワシントンDCで5着(野平祐二騎乗)に入ったスピードシンボリは5歳になってました。そして翌44年、父と祐ちゃんは6歳のスピードシンボリを連れて、ふたたび英仏へ海外遠征に行きました。7月26日の『キングジョージ&クイーンエリザベス・ステークス』が5着。8月31日の『ドーヴィル大賞典』が10着。10月5日の『凱旋門賞』が10着でした。
それより、忘れられないのは12月21日の『第15回有馬記念』でした。6歳のスピードシンボリは遠征の疲れもみせず、このレースに4回目の挑戦をし、勝ったんです。ボクは親父と中山へ行ってましたから、口取り写真に並びました。この年ローマで結婚して、スピードシンボリの英仏遠征を応援してくださった大橋巨泉さんも、一緒に並びました。
でも、その優勝よりはるかに感激的で忘れられないレースが、ちょうど1年後にありました。
45年12月20日。ボクが高校3年のとき中山で開かれた『第16回有馬記念』です。古馬7歳のスピードシンボリが、前年につづいてアカネテンリュウを退けて2連覇しました。馬にとってそれが引退レースでした。
このとき印象的だったのは、口取り写真をとったときです。優勝馬をはさんで左右に大きく引かれる手綱の馬体の近いほうに、親父は他の人が寄るのを拒んだのです。スピードシンボリの向かって左側に、祖父孝一郎とボク、そして右側に父共弘がそれぞれ手綱をもって立ちました。そのまま記念写真のなかにおさまったんです。
口取り写真.jpg
その場では、親父の真意はわかりませんでした。あとでわかったこと。親父はボクのために意識的にそうしたんですね。
口取り写真に、孝一郎、共弘、孝弘と親子3代が並ぶ——その写真があれば、自分(共弘)が死んだあと、これを見た息子が難しい牧場経営に直面しても、勇気をふるい起こして乗り切れるんじゃないか——そう親父は思ったらしいんです。*62

 
次の証言は、別の項で触れる父子の仲違いと和解の経緯の中でも重複して書いていることですが抜粋しております。

父には怖さがあります。しかし理不尽なことや暴力的な威圧で人に迫る怖さじゃない。人の気持ちは非常に大切にする、こまやかな感性の内気な人ですから。
でも、間違った理屈、説得力のない論理に対しては厳格にそこを突いてきます。決して妥協はしません。そこが怖い。
そして、だれにもゆずらないその強さが、集団を引っぱるときの何よりの武器になっている人です。……残念ながら、ボクにはそれが足りなかったと思う。*63


当時のシンボリ牧場従業員の人の声

昭和48年(1973年)~昭和60年(1985年)の声です

昭和48年8月1日に、畠山和明はシンボリ牧場に入社した。そのとき、オーナー和田共弘は和明におだやかな口調でこう語っている。
「うちはすべてが馬本位でね。日高牧場の土地は農家にたのんで借りてやってるものだが、馬あっての生活、馬を第一に優先するって点では、徹底させているつもりだ」
和田は、シンボリ牧場入りした直後の和明をすぐさま本拠地(千葉シンボリ牧場)には呼ばなかった。いきなり40日間の英・仏ヨーロッパ旅行を勧めた。同行者は、同時現役の花形騎手だが、晩年期に差しかかっていた野平祐二と、牧夫の渡辺実である。
「馴致(若駒の乗りならし運転)の勉強をしておいで」
と和田は言った。仕事は帰国してから始めてくれればよい、というのだ。
和明はいきなり、頭をガツンと一発、殴られた気がした。「馬を第一に」の気持ちなら、自分だってそれなりに持っているつもりだった。しかし、和田共弘の馬づくりの"思想"ともいうべきものは、もしかしたら相当にしたたかな筋金入りではないか——。
「この人は……」
と思った。
「……馬づくりを趣味や副業でやってるのではない。この人なら、きっと間違いない」*64

「そりゃあ、大変です……」
と従業員のひとりは言う。
「……オーナーは厳格な、妥協を許さない、怖い人で、どんなことより牧場内では馬のことを優先させる人です。馬づくりにかけては日本一と、ぼくらは信じて疑いません。でもね、そんな牧場でも、一時は苦しくて(給料の)遅配があったこともある。馬づくりはラクじゃない」
だのになぜ、牧場世界から離れないのですか?と、他の従業員に聞いてみる。
「不思議というか、へんてこりんというか」と、その男は笑う。「自分には、馬と接するしかノウがない。よその社会ではつとまらないって感じがするんです。オーナーは、そりゃあ頑固で、怒り出すと火がついたように激情をぶちまける。こっちがぐうの音も出ないほどやっつけられる。でも……、日ごろは人の心が分かる人ですからねえ。よそへ行くより、やっぱりシンボリに骨をうずめようって気になってね」
千葉ばかりか、北海道日高、岩手種市にある分場に働く多くの従業員たちとも立ち話をしたが、そこで浮き上がってきたのは大別して2つのものだった。
馬づくりに関しては妥協を許さない、自説を貫き通す峻厳な性格の経営者に覚える畏怖の念が1つ。それと、その和田が従業員たちに示す細やかな心配りに対する感謝の気持ちである。*65

岩手種市の育成牧場で、牧夫たちの賄い係として働く未亡人、鍛冶根ツヤ(54歳)は朴訥な岩手なまりでこう語る。
「シンボリに働けて幸せです。ホントに。人の和が完全にいきとどいた会社だなあって思います。ルドルフが勝ったと言っては、岩手の山の中の私みたいな炊事婆さんのところまで、丁寧に臨時ボーナスが送ってくるんですよ。夢みたいな体験をしてますよ。そんな心づかいのせいでしょうね。ここで働く人たちは、社長の目はとどかないのに驚くほど真面目で熱心です。裏と表がみじんもありません。馬をそれはそれは目に入れても痛くないほどかわいがります」
岩手は、和田共弘のいる本拠地千葉から直線距離でおよそ530キロへだたっている。彼らの日常には、日夜和田の厳しい視線のもとで働く千葉の従業員たちが体験するほどの緊張感はないかもしれない。しかしだからこそ、鍛冶根の言葉は聞き流せない気がする。和田が日ごろから口酸っぱく言っている"サラブレッドは情熱で走るんだ"との信念が、牧場の末端で地味な作業についている人たちの意識にも浸みわたっているらしいことが、わかる。
ここまで10回におよぶ連載を書きつづってきて、筆者はシンボリ牧場のことを誉めすぎたのでは……と、反省する。できるだけ見たまま、聞いたままを記述しようとつとめたにもかかわらずだ。
しかし、そんなはずはないと思い直す。以上のように紹介してきた環境があったからこそ、ルドルフとシリウス、2年連続ダービー制覇の偉業は達成されたのである。*66

ならば、牧場関係者たちには、牧場の未来に対して(いつ、馬が走らなくなるかという不安以外に)屈託はないのだろうか。その疑問を、私は幾人かの男たちに聞いてみた。
意外な返答が戻ってきた。
今日の牧場経営には何ら不満を感じない従業員たちが、じつは未来に関して一様に大きな不安を抱いていたのである。その不安は経営者和田共弘の虚無的ともいえる人生観と、密接なつながりがあることが、少しずつ見えてきた。
(中略)
シンボリは日高・種市・千葉の3拠点にある牧場の中に、家族を含めて100人の世帯をかかえている。
「牧場経営はオレの代で終わりだ……」と公言してはばからない和田は、いまサラブレッドに思いをかける理由を「100人のために火を消すわけにいかん」からだという。
とはいえ、現在63歳の年齢である。未来にかけるシンボリ牧場のビジョンは何だろうか。和田はこたえる。
「少しずつ規模を縮小して、近い将来は牧場をつぶしてシンボリ霊園にするつもりです。その準備はすでに進んでいます。ホラあそこ(と、1750メートルの馬場を指して)に植えた数百本の銀杏並木がそうです」
牧場の従業員たちのほとんどは、この文句を耳にしている。かれらは例外なく、経営者和田共弘のこのビジョンを素直に聞いていない。というより聞きたくない風情だ。天皇賞レースの前、桐沢正好がある試み*67をしたのはこうした牧場内の雰囲気を察してのことだった。
しかし、牧場の絶対者である和田に対してだれも「社長、霊園なんてやめて下さい」と言う者はいない。
"日本競馬は、20世紀でおしまいさ"と物騒なことを言う和田は、自力で拡大してきた牧場経営をひとりの意思で、閉じてしまおうという腹づもりらしい。*68


3代目、和田孝弘氏の出奔と和解の経緯

私もこの経緯を読むまでは「2代目がワガママで、理不尽に怒る人だから出て行ったんでしょ」とか「牧場経験ないリーマンなのに継いで大丈夫?」とか
そういう無根拠な噂話を信じてしまってたんですよね…でも当時の連載を読んだら全然そうではない事が分かったので以下に出奔や和解に際しての関係者たちへの取材記事を載せます。

4月23日夜、わが家の電話がジリンと鳴った。受話器をあげてみると、相手は東京府中に住むシンボリ牧場場長、桐沢正好だった。
「ちょっと、ある試みをしてみたんだよ」
桐沢は電話の向こうで、咳こみながら、小さな声でそう言った。
前回にも少し書いたが、桐沢は大正15年2月14日、東京阿佐ヶ谷の生まれ。麻生獣医大学を出て、中央競馬会診療所長を歴任。42年から57年夏まで自営の『競走馬診療所』をひらき、日本競馬界にこの人ありと謳われた獣医である。引退するつもりだった57年夏、和田に誘われてシンボリ牧場入りしている。在社歴は浅いが、世話好きで明朗な性格と、医者としての腕が高く評価されて、牧場内では"先生、先生"と慕われてきた。
桐沢が電話の向こうで咳きこんでいるのには理由があった。
昨年春、体調をくずし異様に痩せ、検査の結果、肺癌だとわかったのだった。その夏、手術して左肺を切除した。以来、170センチ、60キロの体躯を、かれは慣れない片肺によって支えながら生きてきたのである。
桐沢のいう試みとは次のとおりだった。
電話の日から6日後の4月29日、京都淀競馬場では天皇賞レース(G1、芝3200)がひらかれる。牧場からは五冠達成をめざし、シンボリルドルフが出場する。このレースに、桐沢はある男を誘ったというのだ。男とは、牧場の経営者和田共弘の一人息子——いま親もとを離れサラリーマンとして生活している——和田孝弘だった。孝弘は桐沢のすすめに応じたらしい。
結果から先にいえば、桐沢の試みは実現されることなく終わった。
しかし、桐沢のこの行動には、ある種の深みを感ずることができそうだ。かれは、かつて牧場を継ぐ意思をもってシンボリで働いていた"3代目"和田孝弘を、自身がピエロ役になっても、とのつもりで親元に呼びもどそうとしたのである。
「孝弘くん。オレはね、オレの元気なうちにあんたを、牧場に帰したいんだ」
桐沢は和田孝弘に、何度もそう言った。
桐沢のその試みは、和田共弘——孝弘父子が今日、どのような状況で離れて暮らすようになったのか——その真実を詳しく知っている当の父と子から見れば、唐突なふるまいだったかもしれない。
しかし、桐沢は息子孝弘が一日も早く牧場にもどることを願っている多くの従業員たちの心を代弁したつもりだった。かれ自身も、もちろん和田孝弘が父のもとへもどることを望んでいた。そうなることだけが、シンボリ牧場の未来にピリオドを打たないことだと信じた。
いうまでもなく、桐沢は父と子がなぜ離れて暮らすようになったかについて、ひととおりの予備知識は持っていたのである。
実際の父と子の問題は、周囲が"観測"するほどには単純ではないに違いない。
だが牧場で働くたくさんの従業員が「孝弘さんが離れていることが(未来に対する)唯一の不安材料」と口をそろえる"3代目候補生"和田孝弘についてみるために、いま一度和田ファミリーの数十年を振り返ってみたい。(以下略)*69


優駿の細かな記事より

独立して項目を作るほどの分量がないものを追加していきます

80年代の名馬特集の冒頭より

シンボリルドルフを生産した和田共弘氏は"それでも、1頭の名馬が生まれるには何千何万という馬たちの犠牲がある"と名もなく散る馬たちを哀悼します。名馬ばかりでなく、われわれを楽しませてくれた何千何万という80年代の馬たちにも、この特集を贈りましょう。*70


優駿に記事を書いておられた武市好古氏がキングジョージ取材に行った際の印象
(私はこの方について詳しくないのですが音楽評論家でもあらせられるようなのでオーケストラという比喩になっているのでしょうか?)

和田共弘氏にお目にかかったが、大レースを前にしての高ぶりや神経質なところはまるで見られず、いつものおだやかな態度でマイペース、平常心でことにあたっているという様子がうかがえた。指揮者が浮足立っていてはオーケストラの音も乱れてしまう。和田氏を見ているとシリウスへの期待がますます高まってくる。それにしても和田氏の礼儀正しさにはいつもながら頭の下がる思いがする。ぼくのような若輩にもちゃんと帽子をとって挨拶されるのだ。*71


優駿連載の密着取材にて、従業員同士が結婚した時の共弘氏の様子についての記述

東京・目白の椿山荘であげた結婚式で、仲人をつとめ、目を泣き腫らしながら門出を祝ってくれた和田共弘を見て、月江は思った。
(かならず、2人して、しっかりと牧場を守ります……)


優駿の特集記事「シャダイとシンボリ 最先端の馬づくり研究<上>」に、社台の吉田善哉氏とシンボリの和田共弘氏の性格について書かれている物があるため引用します。

吉田さん、和田さんともに気の強さ、がまん強さ、頑固さ、サラブレッド生産への熱意、競馬に対する高い理想、その理想のために全ての努力を惜しまず、ありとあらゆる可能性をさぐるというような、性格、信念、生き方にも類似性がみられるが、それは偉大な芸術家や職人の全てに共通するものでもあるのであえて詳しく論じる必要もないだろう。*72


ややズレますが、上記の特集内で現代とは全く違うことを言われている箇所があるので引用します。

吉田さんと和田さんは同じ千葉の生産者として古くから親しく、和田さんがパーソロンを輸入した時に吉田さんが3株のシンジケートを買っているように、馬づくりの面でもそれなりの交流はあった。しかし、私のみるところ、両者が互いを最大のライバルと認め、本当の同志であると信じ合えるようになったのはここ2、3年のことだろうと思う。*73

私がシンボリと和田共弘さんについて本当に知りたいと思ったのは、シンボリルドルフが皐月賞に勝った時である。この日パドックで私は吉田善哉さんとともに馬をみていた。吉田さんも私もシンボリルドルフの状態の悪さにがっかりしていた。和田さん自身もこの日のシンボリルドルフにはかなり失望していたそうである。だが、そのシンボリルドルフが驚くような強さで勝った。私はそのレースで和田共弘という人に畏れを抱くようになった。むろん吉田善哉さんは馬づくりの名人として、私よりもずっと深いものをみていただろう。だが、それでもあのレースでのシンボリルドルフの強さはショッキングなものではなかったかと思う。むしろ吉田さんにとってはもっと大きなショックがあったのではないだろうか?
シンボリルドルフは単なる強い馬ではなく、過去の日本のサラブレッドの常識を破った馬だ。少なくとも日本でこういう馬がつくれるのなら、決して日本のサラブレッド水準が欧米より劣ったものとはいえないと思う。そして、そんな馬が偶然に出たのではなく、現在のシンボリ牧場からなら出て当然といえるのである。私は全く久方ぶりにシンボリ牧場を訪れ、調教システムをみせていただいて強い感銘を受けた。
「現在のシンボリ牧場で行われていることをみれば誰もがびっくりするだろう。しかし誰にも真似はできないと思う」
吉田善哉さんはいう。
むろん吉田さん自身にも真似できないということでもある。たぶん似たようなことならそれなりにできるはずだ。しかし、似たようなことでは全く効果のでる方法ではない。
(中略、シンボリ牧場の施設やシステムについての詳しい解説)
私はこのシンボリ牧場のシステムをみて、なぜヨーロッパの調教師が偉大なのかわかるような気がした。現在アメリカ生まれの良血馬のほとんどがヨーロッパで調教されており、ヨーロッパ式調教の素晴らしさをよく知っているアメリカ人がどうして同じことをアメリカで行わないのかという疑問を抱いていたのだが、要するにそれは能力としてできないのである。
むろんヨーロッパでアメリカ的生産をしないのも同じ理由だろう。現在の社台ファームの生産システムもまた、なぜアメリカで優れた馬が生産されるかを教えてくれるものである。
「本当にうらやましいという他はありません。私もできることならあのような牧場で生産してみたいと常々思っているのです」
社台ファームについて、和田共弘さんはいう。
*74

当時シンボリ牧場やルドルフ関係者に密着取材を行っていた木村幸治氏

燃える夢
優駿の1984年11月号~1985年9月号まで、11回にわたりシンボリ牧場やそれを取り巻く関係者に対して密着取材をした連載
凱旋―シンボリルドルフをつくった男
1985年10月発行、上記の優駿連載を元に書籍化したもの(ちなみに連載時の発刊予定タイトルは「伯楽」でした)
神に逆らった馬―七冠馬ルドルフ誕生の秘密
1999年4月発行、「『凱旋』を原本に、大幅な加筆をし、第10章のほとんどを書き改め、改題した上で文庫版として世に問うことになった」という本です。

基本的にはこの3つを大体同じ1つの物として扱って(大幅加筆や大幅カットなどもあるので基本的には「燃える夢」「神に逆らった馬」を調べてます)、あとは調教師さんへの取材本、名馬を纏めた本などで稀に話に出たりするのでそのあたりを拾っていきたいですね。
ただメチャクチャ情報量多いので追々ね…

ルドルフに対する和田共弘氏の言葉

ルドルフはデビュー以来、負けないまま進撃してきた。とりわけ3歳になってから、4戦目以降の4戦4勝について、馬主の和田共弘は自信ありげにいった。
「強い馬です、ルドルフは」
慎重で鳴る、あまり誇大広告の喋りを記者の前でしない男が、言葉を惜しまなかった。
「私はルドルフの誕生を、神のいたずらと思うんです。37年間かけて馬をやってきた私への、神からのプレゼントだと感じる。弥生賞にしても、皐月賞にしても、万全の調教で挑んだのではない。でも走って勝った。ダービー前は順調の仕上げでしたよ。それでも8分程度の出来で送り出しました。あとはルドルフ自身が体をつくって勝ってしまう。(馬主からみれば)ラクな馬ですよ」
和田は日本の競馬界で、トップレベルの生産と育成・調教をやれる、オーナーズブリーダーの評価を得ている。名馬スピードシンボリほかいくつもの馬を輩出しながら、しかし自分の実績を過剰に誇らない。口にしない。
多くの日本の馬主が、自分の馬を調教師や育成牧場に任せっきりにする。オーナーズブリーダーさえ、人任せにする。他に仕事や遊び場所があるからだ。和田は北海道で生産し育成した馬を、自分の住む千葉県大栄町にある馬場で、みずから調教する。彼は馬づくり以外に副業を持たない。
競馬界の決まりで、馬はレース2週間前には所属厩舎に入厩していなくてはならない。だからそれには従うけれど、ルドルフもレース15日前までは自分のノウハウで、追い切りも引き運動も世話も治療も彼の指揮でやる。和田とはそんな男だった。
「ルドルフには、2人の調教師がついている」
そんな声がかわされるほど、馬には人間の目がいき届いていた。
ルドルフの背に乗り調教をし、7戦目までの勝利につき添ってきた野平祐二も、和田と似たことをいった。
「能力もありますがね、大変な運がある。それにね、私たちが驚くほどルドルフは自分で体をつくってくるんです。騎手の岡部幸雄君が、あとはいつもの通り乗ってくれりゃいいんです」
馬自身が、近まり来るレースを知っているとしか思えないほど、ルドルフは本番になるとしっかり食べ、意志的に走り、気力も体調もみなぎらせてくるのだ。和田も野平も、だから、馬自身が自分をつくっているのだと信じている。自分たちの努力によるものではない、というのだ。*75

入厩時期については、藤沢師が自著で「ルドルフはいつもキッチリ10日前に入厩してきた」と言ってます。15日前は「中央競馬で出走したことない馬」が対象ですね

連載記事を書いたノンフィクションライター、木村幸治さんが連載で書かれた和田オーナーの人物像と、巷での和田オーナーへの噂について

和田共弘と会った昨年秋、筆者はかれについて冠せられたいくつかのキャッチフレーズとも対面していた。その中に次のようなものもあった。
『燃えつきた男』
『孤独を愛する男』
だれの作品なのか知らない。しかし和田がこうしたコピーを提供される男である以上、連載を終えるまでにこの理由らしいものに触れたい、と思っていた。*76

1985年発行の雑誌に載っていた「昨年秋」ですから1984年秋ごろはこう呼ばれていたようですね、いま競馬ファンのなかで噂されてる人物像からは及びもつかないですね…

また、木村氏が取材した中で当時のシンボリ牧場について詳しい人の多くが口を揃えて言う評価として以下のようなものを書かれています。

和田もかなり強い個性の持ち主だといわれる。シンボリ牧場について詳しい多くの人はおよそ次のように口を揃える。
「外見上は"動"の男というより"静"にみえる。しかし、その内側では火のように熱い激情が、たぎっているようだ。自分に厳しいし、完全主義者。部下に対しても完全を求めるし、安易なところで決して妥協はしない。本音ばかりでものを言う」*77


和田共弘もシンボリ牧場も、たとえ今ある状態が形を変えることが余儀なくされても、その類まれな馬づくりの夢と行為は、絶やさないで欲しいと願いたい。
旧態依然のものがのこる競馬社会のなかで、独創的な"異端"であり続け、歯に衣を着せない和田の発言は、いっぽうで敵を作りやすい。しかし彼の言葉は本音であり、信念につらぬかれている。和田ほど実績を積みあげてきた存在が、一言居士としていられることが、日本競馬界のキャパシティ(受容力)の大きさを保証しているのである。*78

なぜ彼らはよりすぐれた存在になれたのか。浅学であることを怖れず言わしていただこう。馬づくりの不条理さの前でだれよりも腰を低くして謙虚になれる和田共弘のその敬虔な態度にあると思う。
巷間では、歯に衣を着せず本音をいう和田のことをさして、批判したり、毛嫌いする人が多いという。現に私もいくたびも、和田痛撃の言葉を耳にした。しかし、そうした彼らはこと<馬づくり>という神秘な世界がホースマンに提起する"闇"に対して、有能な解答者ではありはしなかった。むしろ「日本競馬はこれでよし」という旧套墨守の態度をとるケースが多かった。みずから島国日本競馬のなかの代表馬を育て、先進国の馬を負かしてみようとするロマンや、愛すべき稚気を持つ人はいなかった。*79

ちなみに木村幸治さんって多分Amazonで置いてる本だとこういうラインナップの本を書いてる方と同一人物だと思うんですけど、評価の高い本が多いので推し馬について書かれてる本があったらオススメですよ(ダイマ)

なぜ近しい関係者・実際に取材していた人から世評と全然違う人物像が見えてくるのか

私はこれがずっと疑問で今も分からないので、以下は資料を比較したうえでの私の推測になりますが

  • 前提知識がある人間によるキチンとした取材がなされていなかった事
  • 当事者たちへの取材がなく、伝聞で書かれた可能性がある事
  • (仮説)信頼できない語り手が最低2名存在する?

が原因ではないかな?と考えています。
2点目に関しては無根拠でこれを言うと誹謗になってしまうため、私がいくつかの文章を読み違和感を感じた箇所を比較して引用します。

転厩騒動の項目で信用度が低い可能性があると注釈した「悲劇のサラブレッド」(著:瀬戸慎一郎)という本、芹沢邦雄氏の1985年日本ダービーに寄せたコラム、ご夫人である容子さんの証言、岡部騎手の著書、優駿で被る点を比較しています。
参考までに、それぞれの著者・発言者のプロフィールについても書いておきます

  • 瀬戸慎一郎氏…週刊誌記者を勤めて、フリーライターとして活躍。"競馬最強の法則""週刊実話""フライデー""週刊現代"などに寄稿。ちなみにルドルフとシリウスの現役時は「競馬マスコミをしていない」と自著で書いているため馬主席には入れないし、リアルタイムでの取材は出来ないはずです。*80
  • 芹沢邦雄氏…元サンケイスポーツ編集局局次長。週刊ギャロップの初代編集長、レース本部長などを歴任。2002年JRA賞馬事文化賞を受賞した「週刊100名馬」の編集人も務めた。*811984~1985年の調べた優駿の中でもところどころの記事でお名前を拝見できます。
  • 和田容子さん…2代目和田共弘氏の奥様。
  • 岡部幸雄氏…ルドルフが大好きなルドルフの主戦騎手の方です。
  • 優駿…日本中央競馬会内「優駿」編集部が発行している雑誌。現在だと中央競馬ピーアール・センターが発行している雑誌です。中央競馬会の刊行誌であるため、馬主・調教師・騎手に対立が生じた際に可能な限り中立的な立場を取っている可能性があります。

もちろん上記のどれを信じる・信じないかは個人の自由ですし、「当時の書籍は全て信用できない、人の噂話や出所不明の裏話こそ真実を伝えている」と考えるのも個人の自由だと思います。
人間は自分の信じたい物を信じる、という言葉もありますし、今まで自分が信じていた事柄を否定するモノに対する不快感は大きい、という事も分かりますから。
それらを考慮した上でも、このページではあくまで「一次資料に最も近いと思われるものに重きを置く(ただし矛盾が見られる物を除く)」というスタンスで当時資料を引用したり、複数の資料から他の資料の信用度を推測するようにしております。

シリウスの騎乗ミス時の記述について

悲劇のサラブレッド

「何をやっとるんだ!!」
2度にわたるミステイクに、和田共弘は怒りを隠そうとはしなかった。あからさまに加藤和宏をののしったのだ。
当時のシンボリ牧場はといえば、現在の不振が信じられないくらいに隆盛を極めていた。その象徴ともいえるのが、かのシンボリルドルフであり、傍若無人ともいえる"サラブレッド芸術家"和田共弘の存在だった。当時の彼の辞書には、"完璧"という言葉のみの存在しか許されていない。
それだけに、和田共弘にとって、シリウスの敗北は屈辱以外の何ものでもなかった。また、無敗の三冠を目指すルドルフにとっても、"ケチがついた"といえなくもない。勝負事にはツキというものが存在する。和田には、加藤和宏という一ジョッキーによって、その"ツキ"を吸い取られる、という気がしていたのではないだろうか。
「あんな下手クソには任せておけない。岡部幸雄を乗せろ!!」
和田はあたりにはばかることなくそう公言した。岡部幸雄——シンボリルドルフを操るベテランであり、日本一のジョッキーの名を欲しいままにしている名手でもある。彼に寄せる和田の信頼は絶大であった。
「まともにスタートもできないジョッキーなど、シリウスにはふさわしくない。あいつでは勝てるレースも勝てなくなる」
彼はそんな内容のことを、シリウスシンボリを管理する二本柳調教師に伝えた。*82

※引用中に記載されている「現在の不振」当時…刊行日は1993年5月20日となっており、原稿を書いたのはそれより以前であると仮定した場合、不振であったとする成績(netkeibaより引用)は以下の通りになります。
不振.jpg
う~~~ん10位台で不振って言われるって相当な辛口評価ですね…
なお、代表馬にルドルフやシリウスの名前がないのはどうもnetkeibaの自動算出がおかしいらしく記載されていないだけのようです、リーディング成績自体は同一、もしくは1~2のズレであることを85年優駿2月号(TOP50位まで記載)で確認しました。
リーディングの算出方法を知らない人じゃない限りこんな間違いは普通は犯さないと思うのですが…

芹沢邦雄氏のコラム

加藤・シリウスシンボリのコンビは新馬戦を勝ったあと、2戦目の芙蓉特別で他馬の進路を妨害して1位失格。3戦目のいちょう特別では出遅れて脚を余しての鼻差2着だった。4戦目の府中3歳Sは勝ったものの、和田オーナーは「加藤はシリウスで4回騎乗して一度ならず二度までも騎乗ミスを犯している。降ろすのが当然だ。競馬というのは強い馬には最高のジョッキーを乗せるのが本来の姿だ。それがファンの信頼にもつながる。いま日本で最高のジョッキーは岡部だ。だから私は岡部を乗せたい」と主張した。*83

 
優駿での加藤騎手インタビューページでの和田共弘氏の乗り替わり要請の言葉

「加藤和宏が決して憎いわけではないが、プロのジョッキーとしての自覚と反省を促す意味で降ろす方が彼のためであると判断した」
と意向を表わした。*84

同じ転厩騒動の顛末を扱った本で、既に発言の大きな違いが発生していることがわかります。もし複数の資料を照らし合わせずに、過激に書かれた1冊の記述のみを信じてしまった場合、読んだ人にとってはそれが真実となってしまう可能性は否定できません。
 
また、さきほどの悲劇のサラブレッドの文中で

勝負事にはツキというものが存在する。和田には、加藤和宏という一ジョッキーによって、その"ツキ"を吸い取られる、という気がしていたのではないだろうか。

という記述が存在しますが、密着取材をしていた木村氏の優駿誌上の連載では、和田共弘氏に対して

もともと和田は縁起をかつぐ性格ではない。むしろそんな行動を嫌うほうだ。*85

と書いておられ、唯一この縁起を担ぐ行動をしたのはスピードシンボリのラストランとなる有馬記念であった、と記されています。

1984年ジャパンカップの模様
悲劇のサラブレッド

ジャパン・カップでカツラギエースの大逃走劇とミスターシービーの惨敗のなか、ルドルフは僅差の3着となり初の黒星を喫した。
このときも、和田共弘は"あんなのは競馬じゃない"と声高に言っている(ルドルフはカツラギに負けるような馬ではないという意味で)。*86

 
中山馬主協会のサイトに載っている、和田容子さんのお話「ルドルフの時代(後編)」より

前走の天皇賞で折り合いを欠いて5着に敗れたカツラギエースがスイスイと気分良く逃げ、そのまま押し切ってしまったのです。2着もイギリスのベッドタイムが好位から流れ込みます。いわゆる行った行ったのレースでした。
ルドルフはアメリカのマジェスティーズプリンスとの追い比べを制したもののアタマ差の3着に終ります。
『勝負は分からんな』
共弘さんはポツリと一言もらしたそうです。
勝負には負けてしまったが、競馬は負けていない。そんな思いがあったのでしょう。

また、ジャパンカップではありませんが1985年の天皇賞(秋)で、
ルドルフが敗北したときの和田共弘氏の発言として、岡部騎手が著書の中で聞いたという内容について記述しています。

シャンティからの外電で和田氏はこう、語ったそうだ。
「こういうこともあるんだよ。負けるのがイヤなら使わなきゃいいんだもの。ちょっとカイ食いが落ちたと(日本のスタッフは)言っていたけど。今度は気楽にいけるさ」*87

同じく天皇賞(秋)の敗北に関して、優駿誌上の野平師のコーナー(記事を書いているのは芹沢邦雄氏)では和田氏はこう語ったと書かれています。

天皇賞敗戦のショックが1週間くらい尾を引いた(と番記者にはみえた)野平さんとは対照的に、したたかな岡部騎手は、ひと晩でキズをいやしてしまった。その晩、競馬場には姿をみせなかった和田オーナーから、逆になぐさめられたのだ。
「どんなに強い馬だって負けることもあるさ。結果がわかっていたら、最初から勝負する必要がないじゃないか。勝つと決まっていれば、レースせずに賞金をもらえばいい。ジャパンCで頑張ろうや」*88

 

マスコミの取材について

岡部幸雄氏の著作、ルドルフの背のなかで、当時のマスコミの報道に関しての記述がありますので引用します。

昭和59年のルドルフは、第4回ジャパンカップでの敗北はあったものの、行くところ不可能なものはなしといった形で破竹の進撃をした。
10戦して9勝。その白星のなかには皐月賞、日本ダービー、菊花賞、のクラシック三冠とグランプリの有馬記念が入っている。この実績は、これまで日本競馬会史に登場したどの3歳馬もやりとげたことのない記録だった。マスコミは、"3歳4冠史上初"と書きたてたのだが、その賞賛には独特の"方向性"があった。
ルドルフを生み育ててきたオーナーブリーダー和田共弘氏と、そのトレーナー野平祐二氏に、ほとんどの注目と賛辞が集まったのだ。ルドルフに乗る栄光を得たボクの目から見ても、2人が全国のファンの注視の的となるのは当然のことに思われる。

その2人が昭和61年、あたかも完全に仲違いのケンカをしたかのような記事が、週刊誌をにぎわした。記事を詳しく読んだわけではないし、戦後間もない時期から始まった和田氏と野平氏の長い交遊関係についてもボクは知らない。

しかし、そうした報道が、この競馬界をさほど深く取材したとも思われない人の手でなされたことに、ボクはくやしさを感じてしまう。*89

この記述から、岡部騎手から見て「当時の仲違いの報道に関しては週刊誌の、さほど競馬界に詳しくないものが書いた」というものだったと受け取ることができます。

7月10日、ボクのいない日本で*90、ルドルフは体調不十分で突如欧州遠征を断念、同時に引退するという和田氏の談話が発表された。ボクはこのニュースを、翌日になって村上氏*91から聞いた。引退という話は、どうせ、そんなこともあるかもしれない程度に和田氏がもらしたのを、マスコミが勢いこんで書いたのではないかと思う。ボク等には伝わらなかった。*92

岡部騎手は実際にはその報道に触れていませんが昭和60年時点ですでに「マスコミが勢い込んで書いたんじゃないか」と思う程度の信頼感だったことは伺えます。
ちなみに「ルドルフの背」のあとがきのタイムスタンプは昭和61年10月18日です。

 
この引退報道に関しては優駿紙上で連載されていたものからも記述があります。

記者たちの、その行動プランを決定したのは、3日前に起きた"事件"だった。それまで英、米、仏遠征の主役とみられていたシンボリルドルフが、突如遠征を断念することになった一件である。
この事実を、他にさきがけていち早く報じたスポーツ紙は2紙しかなかった。SN紙もその1つだったが、同紙は1面すべてに金赤の極太活字をおどらせた。
<皇帝ルドルフ引退、突如海外遠征断念、ターフに衝撃!五冠馬に何が 来春から種牡馬…>*93

最初に優駿の連載を読んだときはおかしいとは思わなかったのですが、岡部騎手の著作の記述と照らし合わせると、遠征前のゴタゴタしている期間、シリウスは引き続き遠征の予定を進めつつ一方でルドルフの脚の診察・治療のための体重調整などを行っていたとすると、印刷工程も考えて最低2日間しか日が無く、きちんとした取材がなされたのか?という疑問は確かに抱くことができるかもしれません。

信頼できない語り手1、週刊誌記者

別の項で行っていた「当時のシンボリ牧場の実際の成績が上位であるにも関わらず低迷という風評が起きていた現象」の検証を行った結果、信用しにくい資料の例として何度も名前を挙げている「悲劇のサラブレッド」の書内に作者に恣意的な解釈があった可能性が伺える文章があったため、引用します。

当時のシンボリ牧場はといえば、現在の不振が信じられないくらいに隆盛を極めていた。その象徴ともいえるのが、かのシンボリルドルフであり、傍若無人ともいえる"サラブレッド芸術家"和田共弘の存在だった。当時の彼の辞書には、"完璧"という言葉のみの存在しか許されていない。

断言しているために信じてしまいがちですが、この時期(92~93年)の名義全体での成績は全く不振では無いことがデータから読み取れます(そりゃあルドルフが現役バリバリの頃に比べれば下がりますが…)し、84~85年の和田共弘氏のことを優駿紙上で「歯に衣着せぬ人」と言う人はいても「傍若無人」という表現を用いることは無かったハズです。もちろん、歯に衣を着せぬという行動が受け取り手によっては傍若無人に映るという事は大いにありますので、人によっては「傍若無人」という印象があってもおかしくはないと思いますし、優駿以外のスポーツ新聞・週刊誌などでは「傍若無人」と書かれていた可能性も大いにあります。

一方で、岡部騎手の著作では週刊誌記者に対して「誤解を招くような報道をしている上に、競馬界への知識が浅い」と捉えられる内容が書かれていたり、
スポーツ新聞に対しては最長2日程度で記事を書いた裏取りが疑問視される記録が残っていることは上の項目でも記載した通りです。
また、木村氏の優駿誌上の連載において

巷間では、歯に衣を着せず本音をいう和田のことをさして、批判したり、毛嫌いする人が多いという。現に私もいくたびも、和田痛撃の言葉を耳にした。*94

と書かれていたり、野平師が自著内で

多くの調教師は、和田さんのこのやり方(※競馬施行規定を利用してレースが終わった馬を自分の牧場に戻す方法)を嫌いました。調教師の存在が、全面的に否定されているように感じられるからです。また、馬主さんの中には、和田さんに強い反発を見せる人も少なくありませんでした。和田さんの厩舎の馬房は、馬がシンボリ牧場に帰るたびに空きができます。その分の預託料が厩舎には入らないわけですから、ほかの馬主さんに経済的な負担が多くかかることになります。
しかし、私は必ずしも和田流の方法に反発を持ちませんでした。馬を作るのは生産者と調教師の共同作業ですし、何よりも和田さんの馬づくりに懸ける情熱とシンボリ牧場の人々の献身的な働きぶりには、常々感銘を受けていたからです。*95

と書かれていたように、和田共弘氏を批判したり毛嫌いする人の言葉が取り上げられ、後世に伝わっている可能性も考慮した方が良いと思われます。

なお、84年頃の2代目への競馬界での形容は「燃えつきた人」「孤独を愛する人」だったと優駿上の木村氏による密着取材では記載されています。

悲劇のサラブレッドのあとがきのタイムスタンプが1993年5月、まだ1993年の成績は分かっていない頃なので前年の1992年シンボリ牧場と和田共弘の成績を見るとそれぞれリーディング17位・48位と、この年の最下位である1536位が300名ほどいる状況では、トップとは言えないまでも全体の中で見れば確実に上位に付けている順位と言っていいハズです。
少なくともG1や重賞だけではなく、平場成績や獲得賞金、それらによりリーディング順位が決まる仕組みをきちんと把握できる基本知識があるならば、このような勘違いが起こることはありえません。
また、この作者はこの本の前書きでこのように述べています。

Aがメジロラモーヌを嫌いだったように、ぼくもシンボリルドルフが大嫌いだった。
シンボリルドルフとは、ミスターシービーの1歳下の三冠馬で、3度の直接対決ではいずれも完膚なきまでにシービーを叩きのめしている。"皇帝"というニックネームで多くの人が"史上最強"と認めるルドルフの幼少時代は、人を小馬鹿にしたような馬だったと聞く。ルドルフを管理した野平祐二調教師をして”競馬に絶対はあるんです”(ルドルフは絶対に勝つという意味)と言わしめている。

と記述しています。少しでも競馬やルドルフに詳しい人だったら「?」となる内容が書き連ねられているのがお分かりになるかと思いますが、

幼少時代は、人を小馬鹿にしたような馬だったと聞く。

このような「小馬鹿にしたような馬だった」という関係者の証言は一切出てきておりません。私が持っているルドルフについて書かれた様々な本にも見当たりません。
また、発言者の身元を明かさずに「聞く」という表現を使うことから、非関係者から噂を聞いただけで取材を行っていない可能性があると推測できます。

野平祐二調教師をして”競馬に絶対はあるんです”(ルドルフは絶対に勝つという意味)と言わしめている。

野平祐二氏の例の有名な言葉は「競馬に絶対はないと言うが、ルドルフは例外。彼には絶対があるんです」です。競馬ファンならばほとんどの人が知っていると思いますが…
と、このように「ルドルフが大嫌い」「伝聞で間違った情報を本に書いて出版してしまう」「伝聞を取材によって確認しようとしない」「人が言った発言を憶え間違い、もしくは自分の解釈を入れることにより一言一句正確に伝えるという基本ができていない」という要素がある状態で、「週刊誌記者として勤めたのち、"週刊実話""フライデー""週刊現代"に寄稿をするフリーライター」「雑誌の記者をするかたわら、少しずつ競馬関係の人脈を増やすことを心掛けた」というプロフィール。
こういうモノの積み重ねが現在の風評被害の元になっているのかもしれませんね。
「ルドルフが大嫌い」「野平師の発言を自己流に捻じ曲げている実例」があり「当時の共弘氏に付けられていた世評を知らず」「週刊誌に寄稿している」
……今でも犯人探しは無意味だと思いますが…もはや何があったのかの状況証拠はコレなのでは?という気が私はしてきましたよ…
あまりにも関連がデキ過ぎているため、自分でも「この記述は自分が納得できる理由が欲しいゆえに作り出した幻覚ではないか…」と思ってしまうので、以下に記述が載っているページの写真を貼っておきます。

写真たち

悲劇のサラブレッド_著者紹介.jpg悲劇のサラブレッド_1.jpg悲劇のサラブレッド_2.jpg

ちなみにこちらの本、あとがきに以下のような記述があるのですが
ファンとマスコミの境界.jpg
赤枠で囲った箇所に載っているヤマニングローバルは1989/09/17にデビューした馬であり、シリウスの最後のレースは1988/10/31。
つまりルドルフやシリウスの現役時はこの方は競馬マスコミではなく、当然のように馬主席には入る事ができず、厩舎関係者との繋がりもないはずです。一体どのような手段で「シリウス転厩騒動の際の和田共弘氏の暴言」「ルドルフ(3歳時)のジャパンカップの際の和田共弘氏の暴言」を見たというのでしょうか…謎が深まりますね…

信頼できない語り手2、千葉シンボリ牧場場長、桐沢氏

仮説…2人目の信頼できない語り手について
上記で週刊誌が原因ではないかと推測しましたが、何も元ネタがないのに飛躍がありすぎるのも流石におかしいと思ってシンボリ牧場サイドにそういう原因がないか探したところ、
桐沢場長が1985年7月号優駿のインタビューに対して

  • 「大言壮語のケがありそうな発言」
  • 「自慢話がとても多い」
  • 「発言が周りの関係者の証言・状況と合致しない時がある、例えば以下のようなもの
    • 84年世代の自牧場の馬の成績の把握がおかしい、具体的に言うと未勝利馬がクラシックで本命の印がついていたかのような発言をしている
    • 「宝塚前のルドルフの怪我の状態の証言」が優駿・岡部騎手の2者の証言と矛盾
    • 岡部騎手と野平調教師と藤沢調教助手が一切語らないルドルフのエピソードがある(この3人の語るルドルフの話は視点が違えど重複してる事が多い)
  • 「本当に?みたいな事を取材に対して言ってる(今年のシンボリの2歳馬の名前は全部自分がつけた、シリウスの挫跖は4日で治した、など)」

のような発言をしているページを確認しました。
端的に言うと読んでいてかなり鼻につく内容ですし、これこそ傍若無人と取られてもおかしくない内容です。(桐沢氏の発言が2代目の発言とされて人物像が出来た可能性もあると思うぐらい今に伝わってる2代目像と一致するんですよね…)

シリウスの皐月賞回避についての発言
シリウス皐月賞の回避に関して関係者として「ケジメをつけるためにやめた」と言ってるのは当時の色々な資料を探しても桐沢場長の発言のみしかありません。
以下の桐沢氏の談話は読んでると結構ムカムカしてくるのですが参考のために載せます。ツッコミ所がこの中に3ヶ所も出てくるので色分けして番号を足してます。

二本柳厩舎に行くとき、これはダービーを取る馬だよって調教師にいったんですけどね。美浦に行ってから、性質が荒っぽくなって、ゲートにも入らず手こずったようです。そのためにデビューが遅れたんです。そして、2走目に失格というアクシデントがあった。だいたい、失格というようなワダチを踏んだ馬は、過去の例から見ると、あまり出世はしないんですね。これは勝運に見放されたと思いましたよ(笑)。しかも、3走目が鼻負けでしょ。ますます勝利の女神から見放された(笑)。しかし、4走目に楽勝。あのあたりから乗り役の問題が出てきたんですね(笑)。いろいろマスコミで騒がれたので、踏んぎりをはっきりするために、皐月賞は使わないことにしようということになったわけです。出そうと思えば走れたんですよ。マスコミで脚部不安というように書いていたので、それなら、皐月賞のレースと同じ時間に、牧場で思い切って走らせてみせようじゃないかと考えたんですよ。4月14日が皐月賞でしたけど、その日だと、誰も見にこないだろうから、翌日の15日に、ルドルフと併せて1マイルをやったわけです。そのときにルドルフを負かしているんですよ。シリウスに岡部、ルドルフに祐ちゃんが乗って併せたんですけど、それまでルドルフと1対1で攻め馬のできる馬はいなかった。それなのに、シリウスは堂々と併せて、しかも負かしているんですからね。多勢の新聞記者がちゃんと見ていたんですがね(笑)。われわれは、これでダービーはとったと思った(笑)。NHK杯のときは、たまたま石を踏んでしまって出走しませんでしたけど、あのときも、普通なら冷やすところを、逆に温めたんです。どうせ化膿するんだから、温めてみて早く吹き出させる方法をとったんです。鍼術で膿を出させ、4日で治りましたよ。ダービーまでに、4歳では若葉賞というレースを使っただけでしたけど、本来はスプリングSも使う予定でいたんです。あのときは鞍傷のために背中がハレたもので、スプリングSは使えなくなってしまった。やむなく1週間後の若葉賞に目標を合わせたのですが(以下略)*96

個人的的にはこのわずか半ページの文中に少なくとも3ヶ所のツッコミ所があります。
②挫跖を4日で治した発言…(※ 挫跖 に関しての解説。)2021年でも挫跖はこんなに早く治らないと思うんですが…そもそも痛めた部位を特定するのも難しいものだと思うですが…というか蹄の底が炎症を起こしてる状態を温めて大丈夫なもんなのでしょうか…私は獣医学に関しては素人なので分かりませんが他の馬の挫跖のニュースを聞く限り「本当に?」と思ってしまいます。

③スプリングS出走予定…転厩騒動の際の他の複数の関係者から出ている「戻す代わりに若葉賞は岡部騎手で」みたいな証言と食い違ってたり、3月20日に転厩→3月28日に二本柳厩舎に転厩と伝えられてる、おそらく転厩中も進行形で交渉が行われているであろう中で3月24日のスプリングSに出走予定…?そんなことしたら決定的な関係破綻になりませんか…?

①皐月賞はふんぎりをつけるために回避発言
引用文の中の青くした箇所を大雑把にまとめると「足もとが大丈夫だということを見せつけるために記者を大勢呼んで皐月賞の翌日に、シリウスに岡部騎手騎乗、ルドルフに野平師騎乗でシリウスとルドルフの2頭で競わせ、シリウスがルドルフを抜かした」と発言しているのですが、
野平師の著書にも岡部騎手の著書にもこのエピソードは一切ない上に岡部騎手は自著の中で「ルドルフはシリウスよりも圧倒的に上」と言っているので桐沢場長のこの発言は本当かな?という疑問が湧きます。
また、木村氏の著作のルドルフとの併せ馬の記述の中では、1985年4月29日の天皇賞(春)よりあとの時点で当時を振り返っている記述として(その年の皐月賞は1985年4月14日)、
シンボリ牧場の従業員の発言として

結果的にゴール前で、いつだって兄貴分のルドルフにかわされてしまうんだけど*97

と、「この時点ではシリウスがルドルフに先着したことは一度も無い」ともとれる発言をしています。
あとついでに言えば皐月賞(日曜)の翌日は「月曜日なのでトレセン全体がおやすみ」な日ですね、そんな週に一回の休日に野平師を呼びつけて他調教師の管理馬との併せなんてパフォーマンスに付き合ってもらえるの?(しかもゴタゴタがあった直後なのに)という疑問もわきますね…

優駿はシンボリ牧場公式発表として足元不安を記載、この桐沢場長の発言から2年後(シリウス帰国直後)にも「皐月賞は足元不安で回避」を採用して記載しているあたりが個人的にはすごく引っ掛かりますね…

84年世代の自牧場の馬の成績の把握に関して

しかし、ウチの馬はそこそこ走っているんじゃないですか。ソフィア、キャサリン、ジョアンナ、ジェーン、ヘンリー、コンラート、クヌートと数えていっても、成績は残していますからね。ボクは去年のクラシックではひとつの夢を持っていたんです。桜花賞をソフィア、オークスをキャサリン、皐月賞、ダービーはルドルフ、菊花賞はクヌートで勝とうと(笑)。夢は実現しなかったけど、レースではみんな本命のシルシがついていましたよ(笑)。*98

正直シンボリの馬に対してあまり厳しい事を言いたくないんです…というか個人的には1勝できるだけでも立派だと思ってます。
ですが流石に…なのでnetkeibaへのリンクと成績を書きますのでご覧になって判断してください……
スイートソフィア(16戦4勝)OPクラス
スイートキャサリン(16戦3勝)1400万下クラス
スイートジョアンナ(16戦3勝)1400万下クラス
スイートジェーン(17戦3勝)1400万下クラス
ヘンリーシンボリ(5戦1勝)400万下クラス
コンラートシンボリ(36戦4勝)900万下クラス(※この子は多分降級になっていると思われるため、降級後の900万下としています)
クヌートシンボリ(5戦0勝)未勝利
桐沢氏の発言の中にあった本命のシルシに関しては、競馬新聞ごとに予想は違うでしょうから一概には言えませんが、
オッズはそれぞれ「桜花賞…スイートソフィアは1番人気」「オークス…スイートキャサリンは4番人気」「皐月賞・ダービー…ルドルフは1番人気」「菊花賞…クヌートシンボリはそもそも出走条件を満たしてない(未勝利なので)
……という感じです。前3頭は本命のシルシが付いていたとしても何も不思議ではないんですよ。しかし…クヌートシンボリは…それを把握できていない認識状態というのは…?という考えが頭をよぎります。

ルドルフの体調に対しての診断ミス(?)
他に桐沢場長の発言に関する不審な点としては、JRAで獣医師を勤めたのち定年後にシンボリ牧場に勤務という経歴で、自分の診断技術に対して自画自賛するほどインタビューに対して豪語するのに対し、ルドルフに対しての診断ミスを少なくとも3回はしていると捉えられる記録があります。

  • 新馬戦後のルドルフがソエになっていたことに気付けず、気づいたのは野平厩舎の伊藤厩務員であるということ(藤沢師の著書より)
    (ここの記述がミル貝のルドルフの出走予定の経緯として載っていないので長めに引用します)

新馬戦を楽勝したルドルフには、当然、大きな期待がかけられるようになった。新馬を勝てば、次は新潟2歳ステークスが当面の目標として目に入ってくる。新馬、2歳ステークスを連勝すれば、エリートコースである。3歳クラシックへの切符を手にすることになる。
走る馬ほど、競馬場に持っていってレースに出走させたい。これは、その馬に関係する誰もが自然に持つ気持ちで、ルドルフの場合も例外ではなかった。関係者の間に、当然、次走は新潟2歳ステークスだという空気が漂っていた。
ところが、2歳ステークス出走のためにシンボリ牧場から入厩してきたルドルフを見て、伊藤信夫厩務員が異を唱えた。
「ソエを痛がっているし、バテ気味だ。こんな状態ではレースに使うわけにはいかないんじゃないか——」
ソエとは管骨の炎症で、成長途中の若い馬によく見られる。まだ骨の固まっていない2、3歳馬がハードな調教を始めたときに出ることが多いのだが、適切な処置をして完治させれば競走能力に影響はない。
だから、それほど深刻なことではないとも言える。しかしそれは、どう処置をすればよいかを知っている人間から見ての話であって、馬にしてみれば、ただ脚が痛いばかりである。当然、走りたくはない。
人によっては、大したことのないソエなら、レースを使う。たしかに使っているうちに治ってしまう場合もある。しかし私は、それは危険だと思っている。脚が痛ければ、当然、馬はそれを庇って走ることになるから、その分、どこか別のところに負担が掛かってしまう。ソエは大丈夫でも、別の故障の原因を作ることになりかねない。
また、それよりもっと重視しなければならないのは、精神面である。脚に痛みをかかえているのにレースを使うと、加減して走るようになってしまうことがある。あるいはレースが嫌いになってしまうこともある。肉体的にも精神的にも、馬が万全でないなら、使うべきではない。
こう書くと、それはいかにも簡単な判断だと思われるだろうが、現実には非常にむずかしい。ルドルフは新馬戦を勝ち、そのあといったん牧場に帰って、今度は2歳ステークスを使うために入厩してきたのである。関係者たちの雰囲気はイケイケだ。多少、脚が痛くても、能力の違いで勝ってしまうことだってある。このときのルドルフも出走すればおそらく勝てたと私は思う。出れば勝てそうなレースを見送ることが、どれくらい困難か。これは当事者でないとわからないだろう。
しかし、伊藤厩務員は、純粋に馬の状態だけを見て「やめたほうがいい」とジャッジした。振り返るにつけ、見事なジャッジだったと思う。

見事だったのは伊藤厩務員だけではない。彼の意見を採用したオーナーの和田共弘氏、野平祐二調教師も、さすがに一流のホースマンと言うべきだろう。伊藤厩務員の指摘が正しいと判断すると、使いたいという欲望やプライドを抑え込んで、ルドルフの2歳ステークス出走を取りやめた。2人の間でどんなやりとりがあったかは分からないが、オーナーと調教師は、ルドルフをしばらく休養させる、という結論を出した。*99


  • ルドルフの宝塚の出走回避に関して「あと2日もあれば出走できたんだ」と発言

(ルドルフは)これまでに筋肉の治療をやったことがないんです。ただ、左の内ちゅう筋だけは過去3回くらい痛めたことがあるんです。宝塚記念のときも、あと2日あればレースには間に合ったんですけど、たまたまあの時期に故障が起きたのだから、取消しもやむを得なかったと思います。*100

この年の宝塚記念が6月2日、桐沢氏の談ではすぐ直ったかのように受け取れますが、実際にはルドルフはシリウスが遠征に出発する7月13日にも故障個所に負担をかけないように調整されていたという取材記録があります

いっぽうのルドルフに、かつて記録的な勝利をおさめつづけたときの面影は見ることができない。視線に力がない。痩せ細ってしまった。あばら骨が透けて見える。遠征中止を決めて以来、故障個所に負担をかけないために、牧場の方で意図的にカイバの量を落としたのである。*101

また、岡部騎手の著書のなかでも

原因不明の筋肉痛に苦しんでいたルドルフ。その不調は思いのほか尾を引いた。
(中略)
夏のある一日、牧場で「イチかバチかの大バクチ」と、祈る思いでやったササ針治療が功を奏したと、和田氏は語った。*102

という記述があります。

  • アメリカ遠征前のルドルフの体調について、野平師サイドはダメだと判断し、桐沢氏は大丈夫だと診断しています。

そしてアメリカに行ったルドルフはレース中に怪我をしてしまうのですが…

こうやって記録を集めるとすでに診断ミスを2回やっていることが分かるのに、なぜ2代目はアメリカ遠征の際に桐沢氏の診断を信じてしまったのか私はずっと疑問なんですよね…

これは私の推測になりますが、桐沢氏に関しては
「肺癌にかかり、片肺を切除する大手術の後で著しく体力が落ちていた」(ルドルフが3歳春の時に肺癌が発覚、夏に手術を行う)*103
「強風が吹けば3、4歩よろめくほどの状態」(ルドルフ4歳時のJCの口取り式で)*104
「余命いくばくも無い状態で『ルドルフとシリウスが走っている間は、私は絶対に死ぬわけにはいかんのだよ』と言っている」(ルドルフの引退式の2週間ほど前にお亡くなりになられる)*105
という取材記録があり、そのような状態を知った上での桐沢氏の発言を見れば、良く捉えれば「大きいことを言うことによって気勢を保とうとしていた」と言えなくもないかなぁ…と…もちろん仮にそうだったとしても虚偽が混じることを言うのは余り褒められたことではないのですが…
自分と親しくしていた人が死期を悟って、こちらが止めても無理を押してルドルフやシリウスのために仕事をしていると思えば、どうしても桐沢氏の発言に重きを置きたくなるのが人情というものかな…と私は推察しています。あくまでこれは色々な資料を読んだうえでの私の意見なので本当のところは分かりませんが…

以上の様々な事柄から、桐沢場長の発言を鵜呑みにするのはかなり危険なのでは?この人が適当に言った発言により変に話が広がったり、当時の状況として違う事を言う人が出てるのでは?
という疑問がわくのですが、ルドルフ関連の記述を探しても桐沢氏について語られる事がそこまで無いため仮説としておきます。
要検証:コロナがおさまったら国会図書館で1985年4月16日~18日頃のスポーツ新聞を調べて発言の裏付けを調べたいです。

総括


以上のような比較から、私は世間で流布されている2代目の人物像というのは「週刊誌によるセンセーショナルな報道」がより多くの人の目につきやすく構築され、
一方で優駿・関係者の著作などは週刊誌に比べてどうしても伝える力が弱かった、購買者の母数自体が少なかったという事が原因ではないかと推測します。
これも結局は資料からの推測なので本当のところは何とも言えませんが…
参考データまでに、1983年時での優駿の発行部数は4万冊*106、講談社の週刊誌(漫画誌などの全ての週刊誌を含む)発行部数は13億9176万冊*107でした。

しかし悲劇のサラブレッド上で瀬戸慎一郎氏が行ってくれていた加藤騎手へのインタビューは貴重な資料だと思えますし、一体だれが無責任と思われる報道をしたのかについてはもはや闇の中ですし今さら犯人探しは無意味です。
また、このページを書こうとして色んな本・資料の同じ時系列の箇所を突き合せて初めて「あれ?矛盾があるぞ?」「何かがおかしいぞ?」と気付いた点が多々あるため、何回も本・連載を読んでいた人でも気づかなかったという可能性はあるかもしれません。

そしてこれは私自身も抱いてしまう気持ちなのですが「分かりやすい悪者がいてくれたら責任を押し付けて気が楽になれる」という心理があるかもしれません。

  • 騒動が無ければ皐月賞に出走・遠征が無ければ菊花賞に出てミホシンザンと冠を争ったであろうシリウス
  • アメリカ遠征でケガをしなければ更なる功績を残せたかもしれないルドルフ
  • 素晴らしい素質を持っていたはずなのに悲劇を迎えてしまったマティリアル
  • 善戦していたのに行方知れずのアイルトン*108

そういう馬たちの「もしも」を考えた時に「叩いてもいい人」が存在していたら凄く気が楽になれると思います。
この思いがあるからこそ、ここまで資料を集めた自分自身でも「いやでも…まだ🧠💥の可能性あるし…」と思ってしまっていますから。


*1 「悲劇のサラブレッド」165~171P
*2 優駿1987年7月号58P
*3 優駿1985年6月号55P
*4 「馬の王、騎手の詩」256~257P
*5 サラブレッド怪物伝説111P
*6 サラブレッド怪物伝説111~112P
*7 調教師物語 581P
*8 ルドルフの背 64~67P
*9 優駿1984年11月号94P
*10 優駿1984年11月号107P
*11 優駿1984年11月号107P
*12 神に逆らった馬394P
*13 ルドルフの背 48~49P
*14 優駿1985年5月号80P
*15 優駿1985年5月号79P
*16 優駿1985年5月号78P
*17 優駿1985年5月号80~81P
*18 優駿1985年5月号82P
*19 ルドルフの背 62~64P
*20 ルドルフの背 63P、65P
*21 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 50~51P
*22 優駿1989年5月号
*23 ルドルフの背89P
*24 ルドルフの背95P
*25 ルドルフの背157~158P
*26 ルドルフの背164~166P
*27 野平祐二の新しい競馬119~120P
*28 優駿1989年5月号75~76P
*29 優駿1985年5月号52P
*30 優駿89年9月号56P
*31 神に逆らった馬329~330P
*32 勝つことに憑かれた名馬シンボリルドルフ 86P
*33 勝つことに憑かれた名馬シンボリルドルフ 87P
*34 神に逆らった馬310P
*35 神に逆らった馬331P
*36 神に逆らった馬332~333P
*37 神に逆らった馬335~336P
*38 野平祐二の新しい競馬119
*39 優駿1985年5月号81P
*40 60YEARS 名馬伝説 下 111P
*41 野平祐二の競馬の極意122P
*42 馬、優先主義112~113P
*43 優駿1985年8月号138P
*44 優駿1985年12月号65P
*45 野平祐二の新しい競馬 118P
*46 野平祐二の新しい競馬 117P
*47 野平祐二の新しい競馬 116~117P
*48 神に逆らった馬341P
*49 野平祐二の新しい競馬 196~197P
*50 優駿1986年1月号58~61P
*51 ルドルフの背166~167P
*52 ルドルフの背66~67P
*53 ルドルフの背169~170P
*54 競走馬私論 馬はいつ走る気になるか 49~54P
*55 競走馬私論 馬はいつ走る気になるか 102~104P
*56 調教師物語295P
*57 調教師物語296P
*58 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ30~31P
*59 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ31P
*60 馬の王、騎手の詩35~37P(初出:NUMBER 84年12月20日号)
*61 ルドルフの背68~69P
*62 優駿1985年8月号137~138P
*63 優駿1985年8月号140P
*64 優駿1984年11月号61Pより
*65 優駿1985年8月号136Pより
*66 優駿1985年8月号136Pより
*67 当時、共弘氏の元を出奔していた長男孝弘氏との和解の試み
*68 優駿1985年8月号136P、142Pより
*69 優駿1985年8月号136~137P
*70 優駿1990年3月号1P
*71 優駿1985年9月号110P
*72 優駿1985年5月号51P
*73 優駿1985年5月号51P
*74 優駿1985年5月号52P
*75 馬の王、騎手の詩34~35P
*76 優駿1985年8月号140~141Pより
*77 優駿1985年4月号75Pより
*78 優駿1985年8月号142Pより
*79 優駿1985年9月号60Pより
*80 悲劇のサラブレッドの著者紹介・あとがきより
*81 週刊ギャロップ初代編集長・芹澤邦雄氏が死去より
*82 「悲劇のサラブレッド」162~163P
*83 再録:60YEARS 名馬伝説 下 111P
*84 優駿1987年7月号58P
*85 優駿1985年2月号90P
*86 「悲劇のサラブレッド」166~167P
*87 「ルドルフの背」161P
*88 優駿1986年1月号56~57P
*89 「ルドルフの背」146~148P
*90 この頃、岡部騎手はルドルフ遠征に備え西ドイツで修行していた
*91 シンボリ牧場ヨーロッパ駐在員
*92 「ルドルフの背」153P
*93 優駿1985年9月号55P
*94 優駿1985年9月号60P
*95 騎手伝241~242P
*96 優駿1985年7月号55P
*97 神に逆らった馬376P
*98 優駿1985年7月号56P
*99 「競走馬私論 馬はいつ走る気になるか」91~93P
*100 優駿1985年7月号54P
*101 優駿1985年9月号56P
*102 「ルドルフの背」157P
*103 神に逆らった馬379~380P
*104 神に逆らった馬391P
*105 神に逆らった馬391P、404~405P
*106 大橋巨泉「競馬解体新書・上巻」159P
*107 渋沢社史データベースより
*108 牡馬でこの成績だと…とか、当時は代変わり後だったとか、世間ではびこるシンボリへの評判とか、を考えたら頭では分かるんですけどね…