概要
加 賀 武 見(か が た け み)
激しく情熱的で勝利への執念を感じさせる騎乗スタイルから「闘将」と称された男
初年度に挙げた年間58勝(平地37勝、障害21勝)はでした。に抜かれるまで新人最多勝記録であり、あのヨーイチが来るまでは計7年間JRAのリーディングジョッキーであったほど
とはいえ、ヨーイチが来てからも、クライムカイザーでダービー奪取やカネミノブでの有馬勝利などで存在感を示していた
また、八大競走*1のうち7つを制覇もしているが、
皐月賞だけは1961年から1979年まで19年連続で出走して「同一クラシック最多連続出場」を果たしたこともあるが、獲れていない
相手がエリートであるほど燃える
- 三冠馬シンザン相手に意地の騎乗
本来はシンザンに騎乗予定もあったが、色々あって打倒する方に回ることに
内容としては重馬場だったのでそちらに誘って減速させるつもりが、もっと外を走ったので失敗に終わった - 天馬トウショウボーイを倒した
斜行スレスレの技術で勝つ
最近だとこれに関しては闘将が卑怯というより、迫られると怯むといったことをバラした池 上 昌 弘騎手がプロ失格という声も*2
実際、似た欠点を持つカブラヤオーに関して主戦の菅 原 泰 夫騎手は引退までそれを周囲に漏らさなかった
また、後年「早仕掛けはクライムカイザーが行きたがったからであり、意識的に寄せていったわけでもない」と話している - ハギノカムイオーをクラシック無冠に終わらせる
闘将が乗ったゲイルスポートは最終的には重賞を勝てなかったが、このことからハギノカムイオーの天敵と呼ばれる
など、良血馬やエリートに対して容赦のない仕掛けをすることでも有名であった
なお、そんな彼もマルゼンスキーには興味があったようで、主戦騎手の中 野 渡 清 一騎手に調教だけでも乗りたいと懇願して断られたり、中 野 渡騎手が負傷の際代理で調教で乗ったことや有馬に出ようとしたこともある
激マブさんの違和感に気付いたのも闘将であり、これが有馬出走前の引退につながる
調教師免許試験1次試験の免除の先駆けとなった騎手
1987年に開始された制度で、以前は騎手で1000勝すれば、調教師試験の一次試験は免除された(通称「1000勝特典」)がこれの資格を最初に満たし、適用した第一号。*3
これは、JRAは闘将ほどの実力を持った騎手なら調教師としてもやれると考えたものと思われる*4が、
残念ながら、近年の厩舎事情の変化により、騎手及び調教師の役割がより専門化し、
調教師に必要な知識や経験を身につける機会が減ったことから、2003年にこの特典は廃止された。
1000勝特典上がりの調教師について
2003年に廃止されるまでに下記9人がこれを利用し調教師に
しかし、闘将*5もだが、やらかしで引退*6や通算勝利100勝程度の郷 原*7や重賞未勝利、お兄さま等、騎手時代と比べてパッとしない調教師も結構いる
ただそれでも増 沢・ミナイ・牝馬のKAWACHIは頑張っている方であり、フトシに至っては名調教師に近い実績を誇るほど
あと、重賞未勝利といえどお兄さまにはまだチャンスはあるので、引退までに重賞を獲ってもらいたいところ
ちなみに1000勝以上したにも関わらず、当時1000勝特典が無かったため1次試験を自力で受かったタケクニは好成績を収めている*8
主な騎乗バ
ウマ娘
- マルゼンスキー(調教のみ。有馬騎乗予定)
非ウマ娘
- ミハルカス(1965年オールカマー、1965年有馬記念2着)
- アローエクスプレス*9(1969年朝日杯3歳S、1970年皐月賞2着)
- クライムカイザー(1976年東京優駿)
- カネミノブ(1978年有馬記念)
- ゲイルスポート(1982年皐月賞19着、1983年スプリンターズS4着)
など